「どんな願いでも叶える力――それが、平太という少年の中に渦巻く『力』の正体よ」
怪異京――平安京の裏側の世界。
その片隅に建つ川辺の屋敷の、広い庭にぽつんと咲く一本の
既に『きゃらづくり』を再開することも早々に放棄した彼女は、神秘的な、神を秘しているが如き美しさを放つ、満開に咲き誇るその桜の枝に膝を立てて座り、己を見下ろす男に向けて。
「妖怪・座敷童は『運命の流れ』ともいうべき『世界の理』に触れることが出来る。そればかりか、その方向性を、指向性を、僅かばかりでも操作することが出来る異能を持つ。彼ら彼女らが『神』と呼ばれる上位存在として信仰を得ている理由の一つね」
そう、神秘的な桜の中に佇む男を揶揄するように、狐の美女は言う。
清流が如き艶やかな、常夜のように密度の濃い黒髪の男――妖怪・ぬらりひょんは、そんな狐の言葉に笑みを浮かべて。
「だが、本来であるならば、一体の――それも未熟な座敷童が手繰り寄せられる運命の流れの量などたかが知れている。それがどういうわけか、あれほどまでの量を、あれほどまでの密度で手繰り寄せた挙句、それが一体の幽霊の器の中に注ぎ込まれ――『箱』として収まっている。こういう言い方は好きじゃねぇが、正しく」
男の言葉に女は――狐は、その微笑を崩さない。
「正確にはそれは、どんな願いも叶えるなんて便利なものじゃねぇだろうが。それでも、少なくとも、
本来ならば『鬼』も、お前さんみたいに何を差し置いてでも獲得しに来なくちゃあいけねぇくらいの『爆弾』だとぬらりひょんが言うと、『鬼』の皆さんはどいつもこいつも戦闘民族で戦うことしか頭にないからなぁと、肩を竦めるようにして『きゃら』を一瞬、取り戻した所で。
「――――だからこそ、出来過ぎだとは思わねぇか?」
ぬらりひょんは、常夜の世界に浮かぶ月を――現実の平安京と表裏一体に繋がっている月を。
真っ赤に染まった、満月を見上げる。
「正しく奇跡の『箱』――そんなもんが、妖怪大戦争目前の、それも平安京の内部の、『鬼』も、『狐』も、みんなが見ている目の前で完成する。そんなことが、あると思うかい?」
「…………」
「案の定、それは戦争開戦の為に切って落とされる火蓋になった。だが、肝心の戦争が始まってみても、その景品たる『箱』は、『鬼』でも『狐』でも、そして『人間』でもない――『その他』勢力が持って逃げ回っている。……なぁ、
まるで舞台袖の暗闇に向かって語り掛けるように、その妖怪は言った。
桜のはなびらを浴びる『狐』は、そんな妖怪の言葉に微笑みを崩さない。
「――何が望みだ? 狐の御姫様よ」
そんな狐の微笑みを凍らせるように――ぬらりひょんが狐の背後を取る。
目を離した瞬間――否、一瞬たりとも目を離してなどいない。
にもかかわらず、桜吹雪に紛れるように、ぬらりひょんは枝垂桜から降り立ち、化生の前の背後に着地していた。
思わず振り向きかける化生の前。
だが、ぬらりひょんもまた、彼女の背中に――己の背を向けていた。
互いに背中を預けるように――互いの腹を探り合う。
まるで表と裏を繋げる月のように、互いの奥底を覗き合おうとする。
「結局、お前だけだった。願いを叶える『箱』に、真っ先に手を伸ばしたのは。あの『箱』の真価を、あの『箱』の危険性であり可能性を、見抜いたのは。それはつまり、お前の目的は、戦争でも、鬼でも、日ノ本でも――月でも、ない。もっと遠い、それこそ、奇跡でもなければ届かない代物ってことか」
お前の叶えたい願いとは――何だ。
そう、口元を歪めながら問い掛ける背後の男に。
くすりと、『狐』は笑った。
妖しく、恐ろしく、おどろおどろしく――美しく。
「――聞いていたのと、随分と性格が違いますなぁ。飄々と掴みどころがないのが、妖怪・ぬらりひょんの『きゃら』とちゃうん。何をそんなに――焦っておられるんどすか? 妖怪大将はん」
女の言葉に、妖怪の男の笑みが消える。
一際強い風が吹く。
男と女は互いに振り返り――向かい合った。
桜の花の中で、赤い月光の下で、男と女は――ぬらりひょんと化生の前は、言葉の刃の切っ先を突き付け合う。
「私のどうでもいい目的など、私のちっぽけな野望など、私のささやかな願いなど、知る必要はないでしょう。それがどんなものであるにせよ、あなたは私に『箱』を渡すつもりなどないのだから」
それでも、あなたが私に願いを聞いたのは――『狐』は笑う。
獣のように、化物のように――血を舐めるように、笑って、言う。
「他でもないあなたに、叶えたい願いがあるから。その為に、あの『箱』を開けたいと、そう願う心が、あなたの中に息を潜めているから――違うかしら? 妖怪大将さん」
舞い散る桜のはなびら、そして伸びきった黒髪によって、男の顔は――その心は、見えない。
女は、そんな男の正体を暴くべく、鈴を鳴らすように美しい声で語る。
「私は『鬼』と違い、『人間』を侮ってはいません。だから当然、こうして『本番』を迎える前に、やるべきことはすましています。『人間』の中でも最も警戒すべき『人間』――安倍晴明と懇意にする、手足でも道具でも式神でもない、『友人』という立ち位置を獲得している妖怪のことなど、徹底的に調べ上げるに決まっているでしょう?」
例え、警戒されないのが妖怪・ぬらりひょんの『きゃら』であろうと――男の胸に人差し指を突きながら、『狐の姫君』・化生の前は言う。
そんな怪しくて、妖しい存在を、この私が、逃がすわけがないでしょう――と。
「調べるのは多少苦労はしましたが、調べれば調べるだけ興味が湧いてきて、とっても楽しかったですよ。調べれば調べる程――あなたがどれだけ怪しい妖怪なのかが判明するんですから」
妖怪・ぬらりひょんは、およそ百年前に平安京へと来訪した。
時は菅原道真公という大悪霊の大暴れが記憶に新しく、その上、坂東では平将門という魔人の脅威が増していた――平安京が混乱の坩堝に陥っていた頃。
その隙間を、まるで狙い澄ましたように、ぬらりひょんは己が引き連れる百鬼夜行と共に結界を抜けて、平安京へと侵入した。
「当時は京の空を天狗が飛び回っていましたが、あなた方はうまくやり過ごし、平安京の裏となる神秘郷――この怪異京を見つけ、その中で暮らすようになった。以降、現在まであなた方は、実に上手く平安京へ溶け込んでいた。あなたの息子なんか、この平安京を己の京だと、そう恥ずかしげもなく言い放つくらいですもの。よっぽど楽しい日々だったのでしょう」
あなたは上手くやった。でも、そもそもの話です――と、狐の美女は、まるで男の首筋に口づけをするが如く、その美貌を至近距離まで近づけ、ゆっくりと、その唇を、耳元へと持っていき、囁くように。
「あなたは、どうして――
平安京は――妖怪にとっての死地である。
人間達の中心地であるこの場所は、平安武者に陰陽師――妖怪にとっての天敵で溢れている。
「それでも、あなたは平安京の中で暮らすことを選んだ。結界を潜り、天狗の目を盗んで、己が戦力も引き連れて、安倍晴明に接触まで図った。何らかの目的が、何らかの野望が――譲れない願いが、あなたにはあった。そう考えるが妥当でしょう。そう考えなければ辻褄が合わない」
あなたの叶えたい願いとは――なあに?
そう、口元を歪めながら問い掛ける眼前の女に。
にやりと、『妖怪』は笑った。
妖しく、恐ろしく、おどろおどろしく――美しく、笑い。
抱き締めるように――女の首筋に、ドスの白刃を添えた。
「……………」
笑みを消す女に――『妖怪大将』・ぬらりひょんは言った。
「知らねぇな。仮に、そんな御大層な願いとやらが、この儂にあるとしてだ。テメェこそどうする? 儂がお前の大事な『箱』を、先に開けちまいかねないような奴だったとしたら、お前はどうするつもりだ? 儂の大事な大事な『箱』を、先に開けちまいかねないお前のような奴を――」
儂は、どうするつもりだと思う? ――にやりと笑う黒い男に、狐の女は、にやりと、笑う。
「あなたに私が殺せるとでも?」
「やってみなくちゃ分からないぜ。儂ってば、お前の言う通り――怪しくて、妖しい、色男だからな」
もしかしたら、サクッと殺せる裏技を隠し持ってるかもな、と、気が付けば己を包み込もうしている九本の尾にも目を向けず、ぬらりひょんは化生の前の首筋に白刃を添え続ける。
男と女は、吐息がかかるような至近距離で、互いに笑みと――殺意を、向け合う。
数秒――沈黙が支配する。
そして風が吹き、桜吹雪が両者を包み込もうと、激しく舞った――その瞬間。
「あらあら。そのように熱く見つめ合って――妬けますね。けれど、そこまでにしてもらえますか?」
密着する二人を引き離すように、横から声が割り込んだ。
屋敷の方から庭に下りて、二体の妖怪の元へと近寄ってくるのは――美しい桜色の髪をした、一人の『人間』。
「――
これまで『狐の姫君』を前に、至近距離で相対していても、その不敵な笑みを崩さなかった妖怪大将が、ここで初めて声を荒げた。
桜華――そう呼ばれた人間は、しかしその怒声を浴びせられても「こんなことになるんじゃないかと思って、私だけは残っていたんです。他のみんなは避難していますよ」と、穏やかに笑いながら、近寄る歩みを止めない。
「ここは私達の家――家族が暮らす家です。物騒なことはやめてください。この美しい桜を、血で
なので、どうかお引き取りを。偉大なる狐の姫君――と、桜華は化生の前に頭を下げる。
そんな人間の女を、狐の女はじっと見詰めた。
桜色の髪を。穏やかな佇まいを。
美しい身体を。そして――強い、心を。
「…………なるほどなぁ」
そう呟き、狐はそっと、男から離れた。
ぬらりひょんもドスをゆっくりと仕舞い、桜華を庇うように前に出る。
「不思議に思ってはいたのよ。何かを企んでいる筈とは思っていたけど、それにしてはずっと大きな動きもなく、ずっと裏に引き籠っているから。時機を見計らっているにしてもね。でも、まさか
「余計なお世話だ。ちゃん付けをするな」
「健気な奥さんに免じて、ここは引いてあげましょう」
そう言って、狐は夫婦に背を向ける。
九本の尾が揺れる背中に、ぬらりひょんは言った。
「いいのか? 『箱』の――平太の居場所を聞かなくても」
「いいも何も、もうここにはいないのでしょう。少なくともこの怪異京の中には。逃がす為の時間は、たっぷり稼がせてあげたつもりですけど」
ふっと、お互いに笑みを交わす。
どうやらこちらの思惑はお見通しらしかったが、ならばとそこで新たな疑問が浮かぶ。
「あなたとお喋りしてみたかったのよ。あのいけすかない『妖怪の天敵』が、
狐の姫君は「さて、どうせあなたは『箱』の逃げ先を言わないでしょう。ならばこれ以上の長居は無用。お暇させていただきます」と言い――そして。
「――ぬらりひょん。あなたがその野望を再び燃やすのなら、私はあなたを燃やしましょう。美しい狐火で、その醜い野望ごと」
どうか、可愛い奥さんを、泣かせない選択をしなさいな――そう微笑み、狐の姫君は桜吹雪に紛れるように消えていった。
「…………行ったか」
「美しい方でしたね」
当面の脅威が去ったことに対する呟きに、随分と平淡な言葉が返ってきた。
遠回しに見知らぬ女性との密着を咎められているような気分にさせられた。あれはそんなロマンチックなものではなく、純粋に命の危機だったのだが。
ぬらりひょんは気圧されそうになった心をぐっと踏ん張って。
「――ふみゅ!?」
愛する妻の額に弾いた中指を当てる。
そして、溜息を吐いて、苦言を呈した。
「……もうあんな真似はするな。あやつは狐の姫君――ああ見えても、今の日ノ本で最も危険な妖怪だ」
「……そんな妖怪と楽しそうに密着していたのは何処のどなたですかね」
桜華はそんな風に不満気に頬を膨らませたが「……ごめんなさい。もうしません」と頭を下げた。そんな下げた頭を、ぬらりひょんは大きく溜息を吐いて「――まぁ、俺も助かった。ありがとな」と優しく撫でた。
「――とにかく、お前は逃げろ。取り敢えずの危機は去ったが、この先もここが戦場にならないとは言い切れない」
「……あなたはどうするのですか?」
「鴨桜との約束は守れなかったからな。取り敢えず――息子に叱られてくるさ」
それでも息子との約束の為ならば、このまま逃げた平太達の後を追うべきなのだろうが、『狐の姫君』が己に目を付けていると判明した以上、自分が再び合流したらかえって『箱』の在処を知らせることに繋がりかねない。
折角、逃亡の時間稼ぎには一応は成功した以上、平太達はこのまま羽衣に任せた方がいいだろう。
(一応、保険は掛けておるしな)
桜華はぬらりひょんの背に回り、彼が身に付けている黒い装束の皺を伸ばしながら言う。
「――お帰りは、いつ頃になりそうですか?」
「恐らくは朝になると思う。――ああ。朝にはきっと、この戦争も終わるだろうさ」
だが、きっと、長い夜になる――そう告げると、桜華は正面に回り、夫の顔を見上げて、微笑んだ。
「ご武運を。美味しい朝ご飯を用意してお待ちしています。家族みんなでいただきましょう」
どうか、あの子を、お願いします――そう言って、手を握って。
「……私はあなたのものです。ですから、あなたが、どのような道を選んでも、どこまでも付いて行きます――だけど、どうか、これだけは忘れないで」
私達は――家族です。
その言葉に、ああ――見透かされていると、ぬらりひょんは思った。
きっと――見透かされている。
自分の中の、この燻火を。
目の前の妻にも、狐の姫君にも――そして、あの『人間』にも。
恐らく、今宵――選択の瞬間が訪れるのだろう。
その蓋を開けるかどうか、自分はきっと、岐路に立たされることになる。
分かっているさ――分かっているとも。
そんな思いを込めて、鴨桜は潤んだ瞳で見上げる妻に。
「――行ってくる」
こうして、妖怪大将は、妖怪大戦争の戦場へと降り立つ。
その他勢力ではなく、一人の願いを持った戦士として。
大事な家族を守る――大黒柱としての責務を果たす為に。
+++
平安京――最奥。
一つの小さな屋敷を囲むように、結界の
(――これで、取り敢えずは、隔離完了だな)
貴族、その家族。更には中宮、女御、その家人達――そして、帝。
平安宮の主だった中心人物達の避難は完了した。秘密裏に年月を掛けて仕掛けを重ねていった為に、この結界は平安京を囲む結界や平安宮を囲む結界よりも更に強固だ。それこそ酒吞童子が全力の呪力をぶつけでもしない限り、例え今宵の妖怪大戦争の余波をどれだけ浴びせかけられようとも脅かされることはないだろう。
(無論、私がここから離れないという前提の上で、だが)
結界とは、結界を張った術師が近くにいればいるほどに効力を高める。
見張りを務めなくてはならない為に中に入ることは出来なかったが、こうして屋敷の入口に座り込んで、戦火を遠くから眺めている上でならば、最大に近い力を発揮することが出来るだろう。
しかし、平安最強の陰陽師――安倍晴明は、平安京全土を巻き込んだ妖怪大戦争の戦況を、こうして眺めるまでもなく、手に取るように、平安京全体を把握し、戦争の趨勢を見透かしていた。
(朱雀門は無事に『騰蛇』に変身完了。二対二ならば金時は悪路王に勝つだろう。鈴鹿御前もこれ以上、生かしておく理由はない。ここで処分だ)
(貞光と季武に、道真公の相手は荷が重いか。天邪鬼もそろそろ本来の己を取り戻すだろう。――
(頼光も酒吞童子にはまだ及ばないが――ここは綱に任せていればどうとでもなるだろう。……紅葉をここで殺す以上、やはり、やり直しは許されない。今宵、この戦争で全ての決着をつけねば)
(青龍の元にはぬらりひょんが追い付いたらしい。若き種達もよく時間を稼いでくれた。彼等が『手』に着く頃には茨木も掃除を終えているだろう。――大丈夫だ。『
ただ一つ――誤算だったのは。
見透かせて――いなかったのは。
「
この最奥の屋敷の入口は、結界で偽装している。
余りに強度の高い結界を剥き出しにしてしまうと呪力で気付かれてしまう危険性があった為に、あくまで入口は偽装で済ませ、見つけにくい細工を施してあった。
だが、目の前の女は、そんな小細工などまるでなかったかのように、真っ直ぐにこちらに向かって歩み寄ってくる。
「確かに平太少年は、今や願いを叶える夢の『箱』――けれど、その『箱』にはきちんと『封』がされている。ならば、それを開ける『鍵』がなければ、『箱』だけ手に入れても、文字通りの宝の持ち腐れ」
そう――『鍵』を隠し持っている、『
九本の尾を揺らす『狐』は、未だ腰すら上げない男に――『妖怪の天敵』たる、史上最強の陰陽師に向かって言う。
「初めまして――安倍晴明」
全てを見透かす陰陽師は、ここに来る筈ではなかった来訪者に――『妖怪王の器』たる、狐の姫君に向かって言う。
「久しぶり――――
用語解説コーナー㊺
・桜華
ぬらりひょんの妻となった『人間』。
二十年前、囚われの姫であった彼女を、ぬらりひょんが誘拐し、怪異京へと連れ去ることで結ばれた。
ぬらりひょんの人間への傾倒の元凶だと彼女を認めていない百鬼夜行の幹部も多いが、それでも百鬼夜行を己の家族だと愛し、常に笑顔を絶やさない彼女のことを好むモノ達も多い。
とある特殊な『力』を持った家系の生まれであり、それは髪の桜色と共に、己の血を半分流す息子へと受け継がれている。