人間に憧れた化物は、人間を好きになってしまった化物は――この日、慟哭する。
これまで積み上げてきた、これまで逃げ続けてきた、当然の報いを受けた化物の、激しい激しい慟哭と――。
――小さな、掠れ消えるような懺悔で、幕を閉じることになる。
「――――――――――ッッッッ!!!」
今、再び。
愚かな化物の、絶叫が響いた。
土煙が徐々に晴れようとする中、四人の黒衣が、警戒色の魚人が、それに反応する。
だが、それよりも早く、不敵な笑顔と共に行動を開始したのは――どこにでもいた、普通の高校生。
「――行くぞ、ミギー」
「――ああ。こうなってしまった以上、一つでも多くの同胞の命を残すことこそが最善だ。それが彼女ならば申し分ない」
後ろからエンジン音を轟かせて接近する自動車を避けようともせず、少年は己の右手に語り掛ける。
「死ぬぞ、新一」
「――覚悟はしていたさ。あの日から」
何処にでもいる普通の高校生が、余りに異常な化物になってしまったあの日。
『彼女』に襲われ、『彼』と殺し合った日。
そして――『コイツ』に、寄生された日。
「……なぁ、ミギー」
「手短に頼むぞ新一。会話を楽しめるのは残り数秒だ」
こんな窮地でもいつも通りの右手に、ずっと変わらず新一と呼ばれていた少年は――。
「僕――お前と、出遭えてよかった。お蔭で俺は、“シン”になれたよ」
その言葉に、お喋りな右手は、一瞬口ごもって。
「……私もだ、新一。お蔭で私も、“シン”になれた」
これが、彼等の交わす――シンの、最後の会話だった。
次の瞬間――シンの右手は唸りを上げて真っ赤に伸び、先端が鋭い刃に変わる。
「逃がすかぁぁぁぁぁアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
土煙を切り裂くように振るわれた巨大な鋸に、シンは対抗するように右腕を振るう。
「ぁぁぁぁあああああああああああああああああああ!!!」
シンが振るった右手の先の刃には、先程の『鬼鮫』の一撃によって破壊されたアスファルトの塊が突き刺さっていて――。
――ドゴォン!! と、再び轟音が響く。
吹き飛ばされるシンは、そのまま背後から急接近していた自動車に跳ね飛ば――。
「――今だあぁぁぁぁぁ!!! 守れぇぇぇえええええええええええ!!!!」
――れまいと、刃の右手をアスファルトに突き刺しながら、シンが叫び放った、その時。
「っ!? なんだと!?」
土煙を斬り祓った警戒色の魚人が、己の頭上を自動車が飛び越えていく光景に驚愕する。
だがそれは、まるでかのSF映画において月を背景に走行した自転車のように、己が叩き割った走行不可能なアスファルトを回避するように浮上した不条理にではなく――。
――その自動車が浮かび上がる為に、
「――――ッッ!!」
そして、最も驚愕していたのは、浮いている自動車の運転席の『彼女』だった。
土煙は自動車から見て進行方向――斜面の下り坂方面に存在していた。
が、その煙の中には四人の黒衣が、そして警戒色の魚人『鬼鮫』がいる。
そして、当然のことだが、アスファルトは『鬼鮫』によって走行不可能な程に叩き割られているだろう。
かといって後方には、まるで逃げ道を塞ぐかのように無闇に突っ込まず待機している魚人達が。土煙は当然なく、車に乗り込んだ『彼女』を見て警戒したかのようにスクラムを組んでいる。
危険度で言えば、それでも後方の方が易い。
それでも、来た道を戻ってもこの先には崩れ落ちた教会しか存在せず、一時窮地を逃れても、その後にこの戦争に巻き込まれ続ける可能性は高い。
別荘への別れ道や千葉への帰り道は、あの土煙の向こう側だ。
逃げるなら、逃げ切ることを望むなら――ただ、全力で、今、この瞬間にアクセルを踏むしかない。
故に、『彼女』は前方へと車を発進させた。
全力で。全速力で。走行不可能なアスファルトを、それでも勢いで突破する為に。
そんな一縷の、小さな小さな突破口に、賭けた。
シンならば避けることが出来ると思っていた。そう――思っていたが、思いたいと思っていることも確かだった。
ごちゃ混ぜのぐちゃぐちゃだった。
涙が止まらず震えが治まらず、だがそれでもアクセルだけは全力で踏み、しがみ付くようにハンドルを握って――土煙が唐突に祓われ、警戒色の魚人が垣間見えた時は、思わず、目を、瞑って。
轟音と共に目を開けて――迫ってくるシンの背中に再び目を瞑って――。
――
(………………え)
何かを撥ねた音。何かを轢いた感触。
人間の真似をして安全運転をしていた頃を通じても終ぞ味わっていなかったその感覚が――二カ所。
化物の感覚は、混乱状態においても尚、それが二つ分の感覚であることを知らせていた。
となれば、シンではない――のか?
シンと『鬼鮫』を両方とも轢いた――否、シンだけならばともなく、『鬼鮫』が自動車如きに撥ねられるとは思えない(逆に撥ね返してみせるだろう)。それに、二カ所の衝撃はほぼ同時だった。あの位置関係でそれは有り得ない。いや、有り得ないというのならば――。
――どうして、今、
『彼女』はようやくその事に対して思考する。
そうだ、何故、そもそも浮いている? 当たり前だが、この車は何の改造も施されていないごく一般的な普通自動車だ。
何の理由もなく空を飛ぶはずがない。たまたま破壊されたアスファルトが発射台になった? いや、そもそもその破壊されたアスファルトに辿り着く前に、あの位置関係ではシンとぶつかったはずだ。
どうして――と、『彼女』が窓の外に目を向けた時――。
――崖下に落下していく、醜悪な老婆の姿が見えた。
(………………あ――)
その時、『彼女』はすぐさま辿り着いた――その、余りにも、あんまりな、答えに。
あの老婆は見たことがある。当然だ。アレは
頭をザクロのように裂かせ、ぐちゃぐちゃの肉塊に変貌していようとも、見間違えるわけがない。だって、今日も会ってきたのだ。彼女は今日もあのオフィスにいて、これまで幾度となく顔を合わせてきた。化けの皮の顔も、醜悪なすっぴんでも。一緒に殺しをしたことも、一緒に殺されまいと逃げたことも。ずっと、ずっと――彼女は、
バッッと、反対側も見る。
ズザザザッッ!! ――山林の中に何かが放り込まれていった。姿は見えない。見えなかった。
己の為に死んだであろう同族を、把握することすら出来なかった。
自分が轢いた筈の同族を、自分が撥ね飛ばした筈の同族を、自分が足蹴にし、踏み潰した同族を――死に顔すら、見届けることが出来なかった。
(――――ッッッ!!! どうして……どうして………どうして――ッッ!!)
どうしてここまでする。どうしてここまでしてくれる。
重い。重い。余りも重過ぎる自己犠牲。
やめて。やめて。やめて。
ずっと守ってきたのは、『私』がずっと
「ッソガァ!! 逃がすなテメェらっ!!」
警戒色の魚人の叫びに呼応し、破壊されたアスファルトを飛び越えて再び地面へと足を着けようとする自動車の着地地点に、半魚星人達が集結する。
そこを、通りすがりのアスリートと教師が、弾丸のように突っ込んで道を開けさせた。
「――――ッッ」
彼等もまた頭部を真っ赤に咲かせていて――裂かせていて、半魚星人が持っていた武具に串刺しにされながらも、道だけは力づくに拓かせた。
着地した自動車は脇目も振らず、拓かれた道の両脇にて凄惨に死亡する同族を一顧だにせず、瞬時にフルスロットルで回転するタイヤが数秒ぶりのアスファルトを踏みしめて、摩擦音と共に走り出す。
また一人――いや、二人、死んだ。
否――二つの、二体の、人になれなかった化物達が、死んだ。
『私』が――殺した。
「――――ぁ――――ぁぁ……ッ」
バックミラーから覗ける、背後の戦場。
同族達によってこじ開けられた半魚星人の包囲網を抜けた自動車の後ろに広がるのは――ただただ無残に殺されていく、『彼女』の同族達の姿。
元々存在する絶望的なまでの戦闘力の差。『彼女』を逃がす為に、それぞれの同族達が、ただ身体を張って、命を捧げて、道を作り出す為に決行した特攻。
待っていたのは――当然の醜態。
OLが、オタクが、ギャルが、外人が、イケメンが、探偵が、仲居が、コックが、師範が――傷つき、倒れ。
眼鏡が、リーマンが、ガリ勉が、委員長が、帰国子女が、ショタが、アーティストが、イクメンが、不良が――見るも無残に、見るも堪えない、醜悪な化物の姿のままで。
刑事が、サングラスが、板前が、メイドが、ウサ耳が、ヤブ医者が、職人が、ニートが、探検家が、武士が、アルバイトが、犯人が――力尽き、一体、また一体と散っていく。
戦場が、半魚星人の緑が――化物の血で、同族の生命で、赤く
「………………………っっ」
『彼女』はもう、後ろを振り向くことはしなかった――出来なかった。
そして、真っ直ぐに戦場を後にしようと、走り抜けようとする自動車の右側の――バックミラーが吹き飛ぶ。
「――っ!?」
息を呑み、左側のバックミラーを見れば、赤で染め上げられていく景色の中、それでも何色にも染まることなく存在している黒――こちらを見据える三人の黒衣。
そして、その中の眼鏡の弓兵が、こちらに向かって漆黒の弓を向けて――構える。
「――――ッ」
バリンッ! と、左側のバックミラーも破壊され、『彼女』は更に全力でアクセルを踏む。
だが――ここで、ふと、何故、と思う。
ほんの垣間見ただけだが、彼女は相当の弓の名手だ。
その気になればバックミラーなどではなく車体本体を、ただ逃がすのを防ぐだけというならタイヤを狙うことも容易い筈。
そもそも直接追ってこず遠距離で仕留めるというのであれば、一射目で――と、思考する『彼女』の横に。
バチバチバチバチ――と、火花が散るような音と共に、姿を現した、近未来風の漆黒の
それに搭乗し、ドアを失って剥き出しの運転席の『彼女』を見るのは――やはり、濁った瞳の黒衣の男。
「――よう。最後の質問がまだだったよな」
見たことない乗り物を操る宿敵は、絶句する『彼女』に向かって、皮肉気に笑う。
「まぁ、それはさておき、こんな滅多にないチャンスだ。実は前から言ってみたかった台詞を、俺の趣味全開で言わせてもらおうか」
真っ黒な銃口と、真っ黒な殺意を向けて――告げる。
「ここを通りたくば、俺を倒してからいけ」
対し、『彼女』は。
泣き腫らした瞳を冷たく凍らせ、片手を刃へと化えて――答える。
「――しつこい男は、大嫌いです」
冷たい氷のような無表情で言う『彼女』に、濁り眼の男は、ニヤリと笑う。
そして、甲高い発射音と、青白い閃光が、真っ黒な夜の世界に広がった。
+++
「――ねぇねぇ、よかったの、あおのん? アレ、絶対にはるるんの趣味だよ? 新しい装備(おもちゃ)を試してみたかっただけだよ?」
「でしょうね。……まぁ、いいんじゃない。確かに彼女は底知れない感じがあったけれど、晴空なら負けはしても死にはしないでしょう」
「負けはするんだ……」
眼鏡の黒衣は、見えなくなった自動車と
そこでは警戒色の魚人が怒りに震え、醜男の黒衣が黒槌を肩にかけ、Tシャツジーンズの少年が片膝を着いて向かい合っている。
そして、数はかなり減ったが、未だに周囲をまばらに取り囲む程度の数は生き残っている半魚星人。
眼鏡の黒衣は溜め息を吐く。
こんな面倒くさい戦場を押し付けて、自分にあんな頼みごとをしてさっさと趣味に走ったあの男。
警戒色の魚人がど派手に登場し、土煙が充満した途端、あの男は彼女にこう言った。
『アイツが逃げたら、取り敢えずは放置してくれ』
『え、何?』
『そんで包囲網を抜けられでもしたら――まぁ、多分あの右手くんが何とかして突破させるだろうが――そん時は、後ろからバックミラーでも撃ち抜いて、くっ逃げられたか、みたいな感じで逃がしてくれ。ほっとしたところに満を持して俺が登場する。どうだ?』
『いや、どうでもいいけど。意味が分からないんだけど』
『じゃあそういうことで――頼んだぜ』
回想を終えて、眼鏡の黒衣は額に手を当てて溜め息を吐く。
「――全く、あの男には困ったもんだわ」
あんなことを言いながらも、彼女は
遊びに走り過ぎるきらいがある故にとんでもない失敗をやらかすこともあるが、基本的にはハイスペックな男だ。あの部屋の中でも第二位のスコアを誇る彼が殺されるようなことがあれば、自分達も今回のミッションで命を落とすことになるということだろう。
(……まぁ、それはあながち有り得なくもないのかもね)
眼鏡の黒衣は太腿のホルスターから新たな黒い矢を取り出し、漆黒の弓に
団子髪の黒衣も黒い拳の上から更に黒いパンチンググローブを嵌めて構え、醜男の黒衣は未だ黒槌と共に泰然と佇む。
そんな彼等の目が向く先――警戒色の魚人は、天に向かって大きく吠えた。
「舐めやがってェェェェエエエエエエエエ!!!! 下等種族がァァァァぁあああアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」
ざわざわと森が騒めき、大気が震える。
団子髪の黒衣はぶるっと身を震わすが、眼鏡の黒衣も、醜男の黒衣も一切動じなかった。
眼鏡の黒衣はサッと右手のモニタに目を向け、自分の少し前にいる醜男の黒衣に声を掛ける。
「……イチローくん。あんまりココでモタモタもしてられないみたいよ」
「ああ。他のメンバーも、そして見知らぬ
つまり、コイツは前座の
だが――この怪物を倒す、ビジョンがまるで浮かばない。
(どうしたものかしらね。……それに――)
眼鏡の黒衣は、その少年に目を向ける。
たった一人――たった一体。
見るも無残に殺され尽くした同族達の亡骸に囲まれながらも、その少年は。
片膝を着き、全身をズタボロにされながらも、それでもまた――息のある、その少年は。
「――あなた。まだ、戦うの? あなたの味方はもういない。あなたが逃がしたかった彼女はもう逃げた。なら、もう戦わなくてもいいんじゃない?」
冷たく、淡々と。
まるでどっかの誰かのような、氷のような言葉に――その、少年は。
シンという名の化け物は、笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がり、黒衣に背を向け、怪物を見上げながら。
「逃がしてくれるんですか?」
「そんなわけないでしょう」
少年の背中に向けるモニタ――そこには少年を真っ赤に示す光が輝いていて。
ふっと笑う少年は、「なら、戦いますよ」と、右手を刃へと変えて――言う。
「僕は――俺は、死ねない。あの人に、俺は生きろと命じられた」
――守る為に、生きなさい。
「なら――僕は――俺は。あの人を守る為に生きるさ」
そして、少年は――人間に背を向け、化物と対峙する。
怒り狂う最凶の怪物を前に、疲労か、苦痛か、はたまたは恐怖か、膝を震わせながら、それでも不敵な笑みを浮かべて。
そんな小さな少年の背中を、そんな微笑ましい化物の背中を、三人の狩人はただ――見詰め。
「――そう。言っておくけど、特別扱いはしないわよ。そこのでっかい魚人と一緒に、同じモノとして同列に討伐するわ」
「ははっ。何を今更」
「お喋りは終わったか小物共」
警戒色の魚人は、ブチ切れた細く赤い瞳で、下等種族達を見下ろす。
「
今、再び、『鬼鮫』が振り下ろす巨大鋸が、アスファルトを砕き、轟音を響き渡らせる。
戦争は終わらない。
他の種族を、絶滅させるその瞬間まで――ただ、戦い続ける。生きる為に。
+++
そして、その戦場から、数百メートル離れた、山の中のとある道路上。
濁眼の黒衣は、五体満足で、殆ど無傷で――
「……あ~、負けたわ。完敗だぜ」
既に普通自動車はそこにいない。
あるのは、横倒しで放置されたままの近未来的な
――漆黒の短銃の銃口と下半身を
「…………なるほど、ね。頭じゃなくて腕を刃に変えていたからおかしいとは思っていたが――あの右手くんとは、また違った感じで“特別種”な訳だ。……こりゃあ、本気で欲しくなってきたな」
そう呟きながら、にやけた表情のまま氷を砕いて、すぐさま自由の身になった濁眼の男は、漆黒の剣で血振るいをするように剣を――黒い炎を纏わせるように発火させた、黒剣を振るう。
濁眼の男は、何処からか取り出した煙草を咥え、その黒い炎で火を点けると、そのまま剣を肩に担ぎ、真っ黒な空に向かって煙を吐き出した。
「……まぁ、今回は俺の負けってことにしといてやるよ。……生きてたら、また会おうぜ、雪女さん」
そして男はマップを取り出して位置関係を把握し、「さて、どこに行くかね。負けた分際でさっきのとこに戻んのもダセぇしなぁ。でも戻んねぇと家で
+++
真っ暗な夜道を、運転席側のドアを失った普通自動車が疾走する。
「………っ……………ぐぅぁ………」
遠くから怪物の雄叫びが轟き、時折衝撃と共に騒めく森の中を駆けるこの車のハンドルを握る美女は、最高速度を維持しながらも激烈な苦痛と戦っていた。
今日に至るまで傷一つなかった『彼女』の――[彼女]の、乗っ取ったこの宿主の身体の――右肩。
ちょうど腕と身体の連結部に程近い場所に、目を逸らしたくなるような真っ黒な穴が開いている。
貫通はしていないようだが、それでもかなり深く抉られた――刀傷。
その刀傷が、発火している――真っ黒に。
(……あの、男………いや、黒衣の連中は…………一体どんな技術で……こんな武器を――)
先程の、走行中車両を並走させての、一瞬の一騎打ち。
あの濁眼の黒衣は、『彼女』の
即座に銃口を向けた短銃を囮にして、何処からか黒剣を取り出し、真っ直ぐに『彼女』に向かって突き出してきた。
それよりもコンマ数秒――恐らくは一刹那程の差で、『彼女』があの男の下半身を凍らせることに成功した為に抉られるだけで済んだが、あとほんの少しでも遅かったら、確実に貫かれていた。
何とかあの男を振り切りきった――そんな安堵に包まれるのを、許さないとばかりに、次の瞬間にはこの肩口が真っ黒に発火したというわけだ。
反射的に傷口を塞ぐという意味も兼ねて凍らせたが、この黒火の恐ろしさはそこからだった。
(……この黒火は――何故、
火が、凍らない。
それは当然のように思えるが、『彼女』の氷は、それがビル一棟燃え盛るような芸術的な火災でも瞬時に凍らせることが出来るような代物だ。こんな小さな火種など、息をするように容易く凍らせることが出来る――筈なのに。
(……明らかに何かトリックがある……こんな火を、人間の――科学の力で作り出せるものなの?)
とりあえず傷口を覆うように氷の膜を張ったが、黒火は未だ、氷の中で燃えている。
『彼女』の肩口を焼き続け、激痛で『彼女』を苛み続ける。
これは、『彼女』という化物にとって――[彼女]という身体にとっては、何よりも耐え難い拷問だった。
それでも――無様に肩口に手を添えるわけにはいかない。
痛みと疲労で朦朧とする意識の中、最高時速で戦場の山道を疾走し続けるには、『彼女』といえども両手でしっかりとハンドルを握り続ける必要がある。
正しく、蝋燭のようだった。
この黒火が少しずつ、少しずつこの身体の――[彼女]の生命を奪っていく。
あの日――この地球に降り立ってから、数十年に渡って共に生きて来たこの身体――否。
あの日――この地球に降り立ったその時から、【私】が奪い、食らい尽してきたこの身体、この生命が。
尽きようとしている。燃え尽きようとしている。
死因が焼死というのが、[彼女]にとっては何とも皮肉だ――余りにも、申し訳ない。
燃え広がらないように内から凍らせている為、正確に燃えているのは肩口だけだが、その場合でも焼死というのだろうか――そんなことを、考えている中。
ふと、心が、冷たくなった。
冷たくなったのは、心なのか、どうなのか分からないが――兎に角、真っ白になった。
思考が、頭の中が、一瞬すごく冷たくなって、真っ白になって、ただこんな言葉が浮上した。
――死にたく、ない。
ギュッ、と。ハンドルを握る力が更に強くなる。
この文言の後に真っ白な頭を過るのは、先程、こんな化物を救う為に、文字通り我が身を犠牲にした同族達。
――死にたく、ない。
いつかこんな日が来るのは分かっていた。それが遠い未来ではないことを、すぐそばまで迫っていることを、『彼女』はとっくに理解していた。
それが、逃れられない、現実であることも――なのに。
――死に、たく……ない。
なのに。なのに。なのに。
その
まだ――せめて――この子達を、この無関係な人間達を、無事に人里に送り届けるまでは、戦争なんて関係ない、平和で温かい場所まで――。
そして――そして――そして。
「………死にたくない」
燃える傷口に――思わず、手を、添える。
だから、溢れてくる涙は拭うことは出来ず、湧いてくる弱音を――本音を、押さえることは、出来なかった。
まだ――まだ――。
「…………一緒に………居たい」
それは、それほどまでに、罪深い願いだったのだろうか。
人間に憧れた化物は、人間を好きになってしまった化物は――この日、慟哭する。
黒衣の戦士と、半魚星人の戦争は、この後、夜明けまで続く死闘となるが。
三つ巴の一角だった、弱くて弱くて弱々しい
それは、
これまで積み上げてきた、これまで逃げ続けてきた、当然の報いを受けた化物の、激しい激しい慟哭と――。
――………………ごめんなさい。
――小さな、掠れ消えるような懺悔で、幕を閉じることになる。
そして――その、終わりの始まりたる号砲が鳴る。
化物が浅ましい願いを口にした、まずその瞬間――前方の強烈な発光と共に――普通自動車の前輪がパンクした。
撃ち抜かれたかのように。
「――――ッッ!!」
突如、コントロールが失われる車体。
『彼女』は強く瞬きをして涙を振り払い、必死に横転を避けるべくハンドルを捌く。
最高時速で走行していた車体は、アスファルトとの間に火花と異音を撒き散らしながら――背中を裂かせて後部座席の人間達の身を守りつつ、スピードを出来る限り減らして――ドンっ、と。道の脇の山林の中の一本の木の幹に激突した。
これでもうこの車は使えないだろう。大分車を飛ばしてきたとはいえ、まだ戦争のエリアからはギリギリで抜けていないように思える。これから陽光達を連れて徒歩で行くのは限界が――そんなことを考えると同時に、『彼女』の脳内はもう一方の懸念事項を処理していた。
それは当然、あの正体不明の発光、そして二つの前輪を撃ち抜いた何か。
車を降りる。
そしてタイヤに目を向けると、最高時速にてパンクした後、猛スピードでアスファルトと摩擦し続けた故に見るも無残なことになっているが、『彼女』はタイヤを撃ち抜いたのが、釘などよりも遥かに太い、拳銃の銃弾などでもない、もっと大きな何かであることを見抜いた。あの黒衣達が使っていた銃による破裂するような衝撃でもない。
そんな風に観察していると――突如。
虚空から、バチバチバチという、あの音が響いた。
(――ッッ!! まさか――追いついてきたの!?)
いや――有り得ない。
あの濁眼の黒衣の乗っていた摩訶不思議なバイクは転倒させてきた。
例えあの乗り物の最高時速が普通自動車以上だとしても、後ろから迫って来る筈だ。前輪を撃ち抜かれている以上、障害は前にいた筈で――。
いつの間にか追い抜かれていた? そしてあの透明化で姿を消して――そう焦るように思考していた『彼女』の予想外に、現われたのは濁眼の宿敵ではなかった。
奴とは別の――新たなる、黒衣だった。
正確には、
あの光沢のある黒衣の全身スーツの上に、真っ白な白衣を纏った――人間。
月光を背中に浴びる白衣の黒衣は、それはそれは――醜悪に笑った。
「いけませんねぇ。こちらから先はお外――場外ですよ。化物は化物らしく、檻に閉じ込められていなくては」
こうして『彼女』が――夢から醒める、この夜の、最後の殺し合いが幕を開ける。
それは『彼女』の――[彼女]の――生命の幕を閉じる戦いでもあった。
報いが始まる――そして、因果は、応報する。
+++
醜悪に笑う黒衣だった――まるで化物と見紛う程に。
だが、その醜悪な笑みこそが、邪悪な内面を浮き彫りにするかのようなその醜悪さこそが、まさしく人間のようだとも思えた。
(……白衣を着た……黒衣?)
だが、『彼女』はその程度のことでは動じなかった。人間が醜悪であることなど、とっくに『彼女』は学習している――醜悪なだけでは人間はないことも、醜悪なだけの人間が溢れていることも。
それよりも『彼女』が息を呑んだのは、この場に新たな五人目の黒衣が現われたから――でも、当然ない。
『彼女』が当惑した理由というのは、それは、黒と対比するような、
あの四人――そして、『彼女』が集められたあらゆる黒衣の情報の中でも、白衣を着た黒衣などという存在は、寡聞にして聞いたことがない。
だが、それを言うのなら、黒衣が扱う武器に対しての情報すらも“常識外で規格外なテクノロジーの見たことも聞いたこともない武器”という余りにあやふやで意味を為さない程度のもので、精々が黒い全身スーツを纏い、破裂する銃や捕獲する銃、あと伸縮自在の剣を使うといった程度で――実際、あのバイクや黒火の剣など存在も知らなかった――自分が黒衣の全てを知っているなど口が裂けても言えないが、口どころか頭や背中までが裂けるのだとしても言える筈もないが、だとしても、知らないものを警戒するというのは、生物として間違った対応ではないだろう。
化物だとしても、化物だからこそ、未知を恐れるべきだろう。
故に『彼女』は、既に動かないであろう普通自動車を無意識に守るように、白魚のような右手を水平に構え、腰を僅かに落とし、鋭い眼光で、月光を背景に笑う白衣の黒衣を見据える。
そんな『彼女』をニタァと笑いながら、醜悪な笑みのままに首を右に、時計の針のように四十五度傾けた白衣の黒衣は――「おやぁ?」と、醜悪な笑みを、疑問顔に変えた。
「おやぁ? おやおやぁ? アナタは
「……そんな恥ずかしい名前で広まっていたなんて、初耳ね。知りたくなかったわ」
右腕を左耳の方に回し、左手をピストルのポーズで向け、おまけに片目ウインク更には舌をペロッと出す、今世紀最大のムカつくポーズでムカつくことを言われた『彼女』は、イラッとしつつも、その言葉を暗に認める返答をした。
既に黒衣の連中には自分が化物であることは知られてしまい、尚且つその情報を共有されているようだし――この白衣の黒衣も右腕のモニタのようなもので確認していた――外見で半魚星人ではなく、
「――ふう、一つ聞かせてもらってもいい? どうして私が、その、【
自分で言うには余りにも恥ずかしい二つ名だったが――まるで男に寄生するのが異常に上手い女のようではないか――何とか氷の無表情を保ちつつ言った。
すると、「――ッン~~~~!」と、白衣の黒衣はくるっと身体をひねりながら、「簡単なことで~す!」と、その勢いを利用するようにバッと顔を前に出して言う。ある程度距離があるからこそビクッとする程度で済んだが、至近距離でやられたら反射的に殺してしまいそうなくらい腹立たしい挙動だ。
だが、次の白衣の黒衣の言葉に、『彼女』は腹立たしさも忘れて、思わず息を呑むことになる。
「その肩口――その黒火を身に受けて尚、生きている。未だ生存している。そんなことが可能な
「――ッ!」
まぁ、ワタ~クシが事前に得た情報から導き出した結論が確かなら、こうしてあなたが生きているのも、おかしな話なのですがねぇ――と、白衣の黒衣は、先程とは逆の向きに四十五度に首を傾げ、ニタァという笑みのまま言う。
が、それよりも、『彼女』にとって大事な情報はそこではなく。
「あなた――この黒い火のことに、ずいぶんと詳しそうね」
「当たり前でしょう! 何を隠そう、その黒火は――」
バッ、と足を広げて膝を曲げ、その膝に肘を付けるようなポーズを決め(手の形はピストルだった)、そして再びバッと両手を広げて胸を張るようなポーズで、表情はあの腹立たしいニタ笑いで、白衣を靡かせながら黒衣は言う。
「――このワタ~クシが、開発した
再び、『彼女』が息を呑む。
が、そんなことにはお構いなしに、白衣を再び靡かせて、無意味に背中を見せながら、ニタ笑いの黒衣は巻き舌で語る。
「そう! ワッタクシは、エリィィィィトなのですッ!!」
左の手の平で顔を覆い、ゆっくりと膝を折りながら、まるで舞台の上で演じる役者のように。
「そう! そう! そう! ワッタクシは本来このような埃臭い現場に赴く立場ではぬぁいのですがええとあるやんごとなき事情がございましてねはいこんな場所まで足を運び参じた次第でございましてああダガ! どぁっがぁ! ワタックシの本来の責務は逆! まったくの逆! もっとスゥゥゥパァァアアでインッテリッジェンスッッなお仕事なのですよええ実はワッタクシは――」
そして、再びバッと。
高々と右手を挙げ、左膝を折り曲げた状態で、左手の親指で自身のニタ笑い顔を指し、今世紀最強のドヤ顔言った。
「――星人の
当然、拍手は起こらなかった。意味も分からなかった。
目の前に忽然と現われたこの謎の白衣の黒衣が度し難い変態だということ以外は、何も分からなかった。
「………………」
星人の能力を研究している? あの黒い火もコイツが作った?
ああいいだろう事実だとしよう。それが本当なのかなんて分からないし、確かめようもない。これから先、黒衣と相対していくならばとても重要なことなのだろうが、今の切羽詰っている『彼女』にとっては正直どうでもいいとさえ言える。
が、一番分からないのは、そんなとても重要なことを、何故こうして腹立たしいまでに得意げに、滔々と『彼女』に語らなければならないのかということ。
確かに質問したのは『彼女』だが、それはあわよくばこの火に対する情報を漏らしてくれて、更にあわよくば対処する方法を探れないかと思ったからで、結果としては肝心な情報は聞けず、聞きたくもない変態の自慢話を(ムカつくポーズ付きで)聞かされるという地獄を味わっている。なんで地獄の中でまで特殊な地獄を味合わなければならないのだ。
「人間というものは! 魚に憧れ海を渡る術を編み出し! 鳥に憧れ空を翔る術を創り出した! そう! 人は学ぶのです! 他の生物の長所を奪い! 常に! シ・ン・カ・シ・テ・キ・タ! ならばァン! 星人というかくもおかしく摩訶不思議な
変態科学者は尚も荒ぶっていた。
両手で顔面を覆い、そのまま頭がアスファルトに着く程に背を反りブリッジを決める。
そして、そのまま腹筋の力だけでバイーンという効果音が聞こえるような挙動で起き上がり、あのニターという笑いを『彼女』に向けて、言う。
「ワタクシの名前はレジー。レジー博士と呼びなさい。はい、レジィィイイイイイ!!!」
「言いませんよ」
『彼女』は冷たかった。というより引いていた。
余りの見事な巻き舌に、これだけ距離が離れても唾が飛んでくるかのような錯覚すらした。
(……一体、何なのコイツは。……付き合っていられない。けれど――)
一刻も早く戦場を脱出したい『彼女』とすれば、この変態を一刻も早くやり過ごしたい。
戦士ではなく研究者だというこの男の言葉を信じるのであれば、強引に突破すれば抜けられるかもしれない――『彼女』が一人ならば。
チラッと『彼女』は背後の自動車を見る。車内には三人の人間達。
彼女等を連れて、流石にやり過ごせるとは思えない。必ず、この変態は目を付けるだろう。
それに――『彼女』は、見るも無残に潰れた普通自動車の前輪を見遣る。
明らかに、これはこの変態――レジー博士がやったものだろう。
研究者だと、この変態は自称していた。
こんな風な穴を開ける武器を、この男は今、所持しているのだろうか。せめて、その武器の正体が分からなければ、迂闊に背中を向けたらそのまま撃たれるだけだ。この前輪のように、見るも無残に。
そんなことを思いながら警戒していると、突然――ピタリと。
荒ぶっていたレジー博士が、まるで一時停止ボタンを押したかのように動きが止まり、「――さて」と、ゆっくりとニタニタ笑いのまま、『彼女』に向き直った。
「自己紹介も終わりました。なので、ここからはオシゴトの時間です。感想をお聞かせください」
「……感想? あなたのブリッジの?」
「いいえ、その黒火のです」
『彼女』の煽るような言葉に微塵も揺らぐことなく、レジー博士はビシッと(手の形はピストルではなかった)、『彼女』の肩口を指さす。
氷の膜に覆われた中で、未だ燃えている黒い火。
『彼女』は、一度自身の肩口に目を遣って、額から脂汗を流しながら、再度聞き返した。
「……感想って、何を言えばいいのかしら?」
「決まっているのでしょう。彼にあの試作品を授けてから、ようやくその黒火を食らいながらも生きているサンプルに出会えたのです。聞きたいことが山積みですよ。さあさあさあさあお聞かせ下さい。痛みは? 熱は? あとどれくらい耐えられそうですか? 痛みのレベルの継続性は? 食らった時の衝撃はどうでしたか? どれくらいの進度で侵食していますか? 他の火や炎と比べてどうですか? さあさあさあさあさあさあお聞かせ下さい!!」
レジー博士は、狂気の炎に憑りつかれたかの如く、熱く、熱く語りながらずんずんと『彼女』に近づいていく。
「
限界だった。
余りにも熱く、余りにも怖く、余りにも気持ち悪かった。
「――ッッ」
白魚のような右手を刃に変え――思い切り、振るう。
そして、『自分』と接近するレジー博士の間に、氷の壁を作り出す。
ズキン――と、肩口が痛み、『彼女』は後悔した。
余りの気持ち悪さに反射的に壁を作ってしまったが、これはもう戦闘開始の合図と捉えられかねない。
ならば――“奥の手”を見せるのであれば、壁ではなく、そのまま奴の首を狙うべきだったか。
そんな風に後悔していると。
「……おお! おおお!!!」
突如現れた美しい氷壁に、両手をべたべたと着け、そして頬をべたりと押し付けながら、レジー博士は言った。
「やはり! やはりやはりやはり! 天才であるワタクシの推論は正しかった!」
そして、頬を押し付けたままの体勢で――ギョロリと、ギョロ目のように大きく不気味な眼を、氷の向こう側にいる『彼女』へと向け、言った。
「【
その――言葉に。
【彼女】は、凍り付いた。
「…………一緒に………居たい」
それは、とある化物が抱いてしまった、余りにも無垢なる残酷な願い。
人間に憧れた化物は、人間を好きになってしまった化物は――その余りにも純粋な願いと共に――この日、この夜、慟哭する。
『彼女』は、間もなく絶命する。
何の奇跡も起こらず、ただただ絶望的な悲劇によって生命の幕を閉じる。
これまで積み上げてきた、これまで逃げ続けてきた、当然の報いを受け、華々しく散る。
これは、そんな一体の化物の、激しい激しい慟哭と、掠れ消えるような懺悔で、幕を閉じる物語。
それは、一人の醜悪なる人間が、暴いた『彼女』の――[彼女]の真実から、終わり始めた。
『雪女』
それは――【彼女】を凍らせる、余りにも冷たい真実だった。