お前はまるで妖怪だな――その男は、唐突に少年に言った。
「失礼な。私は人の母と人の父から生まれた、正真正銘の人の子ですよ」
不躾な言葉をぶつけられた少年は、声の方を振り向くことすらせず、大陸から齎された巻物を読み込む目線をピクリとも動かさない。
歳の離れた友人の、そんな相変わらずさに、壮年と呼ばれるほどに月日を重ねても尚、女人を虜にする魅力を失わない色男――
「血の話ではない。心の話だ。お前は恐ろしく聡明だが、それ故に味がない――人間としての味がな」
「余計なお世話というものです。私にとっては論理こそが全てだ。感情などというものは極力排除し、理に基づくのが智というもの。好き好んで、私は無味でいるのです」
未だ少年と呼ばれる年齢でありながら、全てを達観したような眼差しの男――
平安京の、空に向ける。
(――この国に、未来はない)
奈良から長岡へ、そしてこの京へと都を移してから、およそ百年。
この絢爛豪華な都は、日ノ本の民から富と生気を吸い尽くし、遠からず内に衰弱しきることは火を見るよりも明らかだ。
宮中に生まれた癌細胞――『藤原』によって。
「……あなたも分かっているでしょう。これからは『藤原』の時代です。……帝の高貴にも、民の平穏にも、日ノ本の未来にも……彼らは目を向けない。ただただ、己が『野心』を満たす為に全てを利用する。彼らの野心には、誰も勝てない。……そして、彼ら『藤原』が統べる日ノ本に――未来はない」
この平安の都――その建設当初から、中枢深くに根を張る一族・『藤原』。
彼らが他の貴族と一線を画する、その最大の特徴が――圧倒的な、『野心』だった。
帝の貴き血も、己が一族の繁栄の為の手段と断じ、娘を宛がい『血』を手に入れ、そして自身は政治の中心へと踊り出す。
既に現帝は『藤原』の子であり、そしてこれからもその系譜は途絶えることなく続くだろう。
この国で最も貴き赤い血に――その黒色の野心は混ざり込んでいくだろう。
(『藤原』は――既に他の『藤原』のことしか目に入っていない。『藤原』同士が争い、どの『藤原』の天下となるかの争いは続くだろうが――それ故に、彼らが民を、日ノ本を気に掛ける日は永劫に訪れない)
若くして賢過ぎる頭脳を持ってしまった少年は、そうして狭い京の空から、再び巻物へと目を落とす。
何もかもを達観し――何もかもに諦念を抱く。
そんな少年の有様に――在原業平は言った。
「……確かに、今は藤原の世であろう。奴等は、怪物だ――正しく、妖怪のように。今の宮中に、その恐ろしさを理解していない貴族はいないだろうな」
だが、だからこそ、戦わなくてはならない――業平は、まるで拗ねる子供を相手にするように優しく、冷たく凍った心を溶かすように熱く、語る。
「我らが惨めに這いつくばるのは道理だ。奴等に負けた敗者なのだから。しかし、このまま『藤原』の時代が続けば、苦しむのは崩壊の世に生きる我らの子や孫――罪のない、子孫達だ」
平安の都は、いずれ滅びる。
だが、それは十年や二十年先ではない。ゆっくりと衰弱し、着実に芯まで腐り切り――巨木が倒れるように、ある日、力尽きるように限界が訪れる。
来るべき日はやって来る――だが、それに巻き込まれるのは、自分達ではなく、未来に生きる子供達だ。
「我らの負債を、まだ見ぬ子供達に負わせるなど、あってはならない。だからこそ、我らはやるべきことをやるのだ。――そして、今の時代にそれが出来るのは」
私は、お前だけだと思っている――業平は、そう優しく、けれど、どこか哀れむように言う。
「――道真。『藤原』の野心に対することが出来る、この京で唯一の逸材よ。平安京を救えるのは、お前の人間離れした、妖怪のような『智』のみであると、私は確信している」
「……まだ言いますか。私は人間ですよ」
「そうだ。まことの妖怪では、人の世は救えぬ。だからこそ――お主は人間であらねばならぬのだ」
業平は、醜い現実から目を背けるように、一心不乱に巻物へと向く道真の顔を持ち上げ――目を合わせる。
その高貴なる瞳は、ただ真摯に、道真に向けての願いを込められていた。
「どうか、その理外の智を、『
そんなに、『人間』を――嫌いにならないでくれ。
真っ直ぐに、そう、語る――業平の、目の奥には。
「………………」
仄かに、けれど確かに燻り続ける――黒い炎が灯っていた。
在原業平。
高貴なる血――天皇家の血をその身に流すものでありながら、『藤原』との戦いに敗れ、権力の中枢から外されて、愛する女からも引き剥がされた、敗北者。
彼が未来を憂いているのは事実だろう。子や孫への、民や国への憂慮の言の葉に嘘はないだろう。
しかし、未だその心の奥には、『藤原』への復讐心が消えていないのも、まだ事実だった。
(――綺麗なだけの、美しいだけの者はいない。……それもまた、『人間』――人間味というものなのか)
少年は、そう達観したように思考するが――それはまた、己にも当て嵌まることだということに気付かない。
彼もまた、目を逸らしている。
必死に屋敷の外を見ないようにし、巻物だけに目を向けることで――向き合うことから、逃げている。
己の心の中の――黒い炎から。
不意に、脳裏を過ぎる――『藤原』に殺された兄のことが。『藤原』に利用され続ける兄弟子のことが。
己の中に渦巻く――『藤原』への、黒い憎悪が。
この、黒い炎が、己が失くしてはいけない――人間味だというのなら
(――関わらないと決めた。手を出さないと、口を出さないと。……決して表に出してはいけない。……恐らく……この……私の……『■』は――)
余りに賢過ぎる少年は――きっと全てを理解していた。
己が果たして何者なのか。何物に成り得る存在なのか。
自分の中に生まれてしまった『■』が、果たしてどれほど恐ろしいものなのか。
だからこそ――少年は、決して踏み込むまいと決めていたのだ。
あの魔の巣窟に。『藤原』が支配する宮中には。
しかし、まるで何かが――それを許さないと、嘲笑うかのように。
時代というものは、やがて菅原道真という逸材を、己が中心へと引っ張り上げていく。
在原業平の最後の叛旗も空しく敗れ、無念の中で朽ちるように彼が逝去する傍らで――道真は、かの色男の言葉に従うように、己に伸ばされた手を取り、求められた救いを与えていく。
そして、
だが、そんな男の栄達を。
黒い『野心』に呪われた一族――『藤原』が許すわけもなく。
菅原道真という、時代に、あるいは世界に、選ばれし『何か』は。
その身を――これ以上なく無残に、黒い炎によって、灼かれていくことになる。
+++
既に、その戦場は一体の妖怪が支配していた。
否――たった一枚の仮面が、封印が破壊された、ただ、それだけのことで。
この、平安京そのものが、件の妖怪に支配されたかのようだった。
重力が急激に増したかのような――圧し掛かるような豪雨が降り注ぎ続けるかのような、圧倒的な、重圧。
呼吸をする――たったそれだけの生存本能に全力で努めなくてはならないような、息を吸って、息を吐く、ただそれだけのことが、余りにも苦しい。
質量を持ったかのように重い空気の中で、碓井貞光はその存在に声を掛ける。
黒い小さな雲に座り込む、背に円形の太鼓装具を身に付ける、仮面を外して尚、黒い布で顔面を覆っているが為に、その表情を伺うことすら出来ない――妖怪に。
「――お目に掛かれて光栄です。菅原道真公」
奇しくも膝を着いて頭を垂れるような姿勢で――実際には敬意ではなく、道真から放たれる重圧によって跪いているのだが――恭しく放たれた貞光の言葉に。
『……ふっ。妖怪なんぞに堕ちた私に、そのような言葉は不要だ。現代の妖狩りよ』
黒い布に覆われた男――妖怪・雷様は、堂々と言った。
『それに、こうして悪霊となり、
たった一体の妖怪が、言葉を放った――ただ、それだけのことで、周囲を圧する重圧が――否。
(――これは、妖気だ……ッ! 大江山の頂上にて、酒吞童子が発していたような、無自覚の妖気ッ! ……妖怪王に比肩する、この妖気……そして先程の言葉で……やはり、確定した)
目の前の存在は、紛れもない本物。
偽物でも紛い物でも贋作でもない。伝説の妖怪、歴史に悪名高い大怨霊。
「――――っ!!?」
屈しそうになる。
かの大怨霊がこうして目の前にいる、ただそれだけの事実に、こうして折れている膝と同じく、心が挫けそうになる。
(だが――それは、許されない)
今は間違いなく、日ノ本滅亡の危機。
我が国の行末を左右する――妖怪大戦争の
碓井貞光は、折れそうになる心を――屈した膝を、死力を尽くして伸ばし、背を正す。
『…………ほう』
菅原道真の呟きも意に介さず、貞光は立ち上がり、そして――言った。
「何故ですか、菅原道真公」
何故――と、そう、己の遥か頭上に浮かぶ超常に問うた。
「菅家を名乗るに相応しくないと貴公は仰るが……貴公の冤罪は――既に晴れている!」
史上最大の霊災――『菅原道真の
道真を重用した宇多天皇が譲位した後、次代の帝・
その後、京へと戻ることなく、無念の中で太宰府にて逝去した道真は、死後に怨霊となり、その恨みを晴らすべく、平安京に数々の災いを運ぶこととなる。
実質的に道真排除の引き金を引いた
道真を排除したことで政治の頂点の座を盤石にした筈の
その四年後には時平と結託して道真を貶めた
災いはそれに留まらない。
道真の左遷を決定した張本人である醍醐天皇の息子の東宮・
その後、彼の息子の
呪いは止まらない。誰もが道真の怨霊の仕業であると恐れた。
結果、道真は死しているにも関わらず、剝奪された右大臣の座に戻され、正二位の位を与えられる。
だが――かの怨霊の怒りは収まらない。
その醜い掌返しに、我が身可愛さが透けて見えるおべっかに、尚もその心を怒りで燃やしたかのように。
その鉄槌は――下ろされた。
平安京にて最も強力な結界に囲まれた、平安宮・内裏――
帝が住まい、
雷が――落ちた。
藤原時平らと共に道真を追い込んだ
まるで宮中そのものを破壊せんばかりに振るわれた呪いの雷は多くの死傷者を出し、遂には醍醐天皇――帝その人にまで呪いを及ぼしたかの如く、かの天皇はこの日を境に体調を崩し、三か月後に崩御した。
その後の混乱を抑えきれず、やがて藤原時平の息子である
清涼殿への落雷、帝の崩御という、この国のどんな妖怪すらも成し得なかった被害を齎した菅原道真公に――平安京は、敗北を認めたのだ。
相次ぐ日照り、疫病の流行、大雨洪水、あらゆる災いを平安京の人々は菅原道真の怒りによるものだと噂した。
膨れ上がる恐怖が妖怪の力となり――菅原道真という妖怪は、この国で最も強大な妖怪となりつつあった。
そして、安倍晴明が、顕現させた菅原道真と一対一の決闘を行い、三日三晩の激闘の末に退治した後も――人々は道真の恐怖を忘れなかった。
消えぬ恐怖が菅原道真という妖怪を蘇らせることを危惧した晴明は、時の天皇に進言し、道真を新たなる『神』へと据えた。
道真の本来の偉業を正確に民へと伝えることで、道真を恐怖ではなく信仰の対象としたのだ。
北野社に祀り上げ、やがては太政大臣の位まで進呈した。
今の時代には、菅原道真を恐ろしくも偉大なる神として、彼を恐怖する声だけでなく、讃える声も少しずつ増え続けている。
「貴公は恐ろしき怨霊ではなく、ありがたき神となりつつあった。……それでも、貴公はまだ許せないのか。あなたを裏切った平安京を――そして、あなたを貶めた……『藤原』を」
貞光の言葉に、黒い雲の上で
その膝の上に肘をついて、顎を掌で支えるような姿勢で――穏やかに、微笑みながら答える。
『……許せるか……許せないか……そう問われれば……そうだな。無論――許すことは出来ない』
ズン――と、一瞬、視界が真っ黒になる。
それが幻覚すらみせるほどに重圧を増した妖気だと分かって、猶更、心が絶望に黒く染まりそうにある。
必死に唇を噛み締めて、顔を上げ続ける。
目を逸らしたら、もう一度でも頭を垂れたら、もう二度とあの『神』を直視することは叶わないと、己の心に荒れ狂う恐怖が物語っていた。
そんな貞光を見て『……ああ、勘違いするな』と、道真は微笑みを絶やさずに言う。
『許せないとは、宮中を追い出されたことや、政治的権力を奪われたことではない。元々、政治には関わりたくないと思っていた。宇多帝には申し訳ないが――私はそこまで、愛国心に溢れた男ではないのだ。不敬だがな』
だがら、右大臣だの太政大臣だのを与えられても、私は嬉しくもなんともないと、そう肩を竦める。
貞光が何かを問おうとしたが、続いて道真から発せられた『だから――許せないのは、もっと別の、大切なことだ』の言葉と共に、より密度を増した妖気に何も言えなくなった。
だが、それも一瞬だった。
まるで何かを閉じ込めるように、その言葉を、その思いを――封じ込めるように。言葉を切った道真は、再び言葉調子を穏やかにしながら、貞光に言った。
『……それも、もうよい。愚かにも怒りに支配され、こうして妖怪なんぞに成り果てた私は、その恨みは大方晴らし終えた。未だこの身に怒りは巣食い、恐らく永劫に消えることはないが……今の世に生きる人間には関係のないことだ。それは今の帝にも、無論、民も――そして、『藤原』も、例外ではない』
そう静かに語る道真に――貞光は、意を決し、問う。
「――では、何故……あなたはこうして、蘇ったのだ?」
貞光の言葉に、道真は答える。
『その問いに対する答えはこうだ。私は蘇ったのではない。
引き戻された――冥府の地から。
何者かに――何者かに?
(……ッ!? そうだろうとは、思っていた……施されていた封印……被らされていた仮面……だが、誰だ――かの菅原道真公を、こうして戦争の道具にするなど――!?)
正気の沙汰ではない。
その発想もそうだが――こうして実現させてしまうこと、その手段も不明だが、その手腕も、また不明。
混乱する貞光に、道真は己が身に起こっている状況を、微笑みながら語っていく。まるで若者の奮闘を綻ぶ先人が如く。
『こうして無様に現世に再び顕現することになったこの身は、正確にはかつての我が身ではない。用意された『器』に、冥府に送られた我が『魂』の『複製』を張り付けたもの――『影法師』のようなものだな。本来であるならば複製といえど、それこそ蘇りが如く生前と変わりない存在を用意出来る筈だが、その『未来技術』までは、『未来視』だけでは再現出来なかったと嘆いていたよ。その『何者』かは』
やはり、『黒い球体』のようにはいかぬ、とな――そう朗々と語る道真に、貞光は幾分か冷静さを取り戻したかのように問う。
「……随分と、見てきたかのように語るのですね。出来の悪い我が頭では理解出来ぬことだらけですが――貴公は、御身を蘇らせたその何者かを知っているのでは?」
『蘇りではないと申しているだろう。この身は魂の影法師だ。だが、その影を作る際に、その『何者』は我が魂に触れているのでな。その際に読み取った、僅かばかりの個人情報よ』
だが、その『何者』は大したものだ――と、道真は嬉しそうに語る。
その『何者』がその身に施した、数多くの仕掛けと――奇跡を、讃える。
『本来であるならば、その『黒い球体』は『魂の複製』を創り出す際、余りに精巧に作るが故に、『鍵』は付けるが自由意志と行動自由を与えてしまう。だが、その『何者』かの『影法師』は、こうして性能としては『劣化複製』となってしまうが、その能力の限定に比例にして自由意志と行動自由を奪うことが可能だ』
道真はそう語りながら、壊れた仮面の欠片を掲げる。
能力の制限に比例した自由意志の剥奪と行動の制限――つまり、あの仮面はその制限を施していた封印なのだ。
その封印が剥がされた今、自由意志と行動権を取り戻した結果――菅原道真の影法師は、その本来の能力を取り戻しているということか。
しかし、そんな貞光の危惧に対し、道真の影法師は、安心せよとばかりに。
『だが、所詮は影法師。こうして施されていた封印が解けても、振るえる力は全盛期には遠く及ばぬ。それに、私を引き戻した『何者』かがその気になれば、再び追加の封印を施すことも出来る筈だが、それもないとなると――私は既に、その役目を終えているのだろう』
役目――貞光は、この平安京の惨状を、開幕の合図とばかりに上がった火柱を思い描く。
その通りと、肯定するように道真は頷きながら言った。
『平安京に、恐怖を齎す――そういう意味では、我が
菅原道真の雷――かつて不可侵の領域であった清涼殿を破壊し、帝の命をも奪ってみせた極上の呪い。
確かに、平安京に終焉を齎す号砲として、これ以上に相応しい恐怖はない――が。
(――
その、正体不明の『何者』かの思惑――否、ここまで埒外の奇跡を見せられれば、貞光といえどその答えは絞られる。
魔の森の決戦にて、その『陰陽師』に疑いを持ったのは、坂田金時だけではない。
(…………何を――考えている――ッッ!!?)
大鎌を握る拳に、ぎちぎちと行き場のない力が入る。
血管が浮き出る程に込められたそれを制するように――『――さて。こんなものでよいだろう』と、道真は天高くから、貞光に言う。
「…………何を――」
『恍けるでない。こうして長々と、私が貴殿が欲しいであろう情報を語り続けた意味に、気付いていないわけではあるまい。現代の妖狩り――否』
現代の、英雄よ――道真の言葉に、ぐッと、貞光は大鎌を握り直す。
先程までの力任せにではない。適切に得物が振るえるような――戦闘態勢の力加減に。
それを見て、それを感じて――菅原道真は、笑い、言う。
『――私を、
菅原道真の言葉に、言葉とは裏腹な――圧し潰すような、重圧を感じる。
生唾を呑み込む貞光に、道真は胡坐の体勢を崩さずに語った。
『正直に白状した通り、私が現世に対して思うことは既に何もない。私を引き戻した『何者』かの追加指令もない。……つまり、この身は既に、此度の召喚においての役目を終えている』
そして――と、道真は。
誘うようにその手を出して、真っ直ぐに――貞光を見る。
『今の私は影法師。とある陰陽師にしか止められなかった全盛期とは違う。ならば、お主のその大鎌も、そして、我が仮面を撃ち落としたお主の矢も、もしかすると――この身を滅ぼし得るかもしれぬぞ』
道真の眼光に、貞光との問答の間に姿を隠し、暗殺の機会を探っていた季武が震える。
捉えられている――それに気付いた貞光が、再び口を開こうとした、その瞬間。
付近に――雷が落ちた。
一瞬、金時のものかと思ったが、続く民の悲鳴に違うと確信する。
頭上を見上げる――『言い忘れていたが――』と、微笑みを、人間味が排除された、妖怪の笑みを浮かべる道真が、貞光に言った。
『例え封印が解除されようと、自由意志と行動権を取り戻そうと、それ以前に与えられた指令は継続中だ。
「――――ッッ!!」
貞光は目を見開き、妖怪となったモノを、神となったモノを――人間ではなくなったモノを見上げ、睨み、吠える。
「――ッ、自由意志を取り戻したのならば、行動権を取り戻したのならば、その指令に歯向かうことも出来るのでは! 何故、それをしない!」
『言ったであろう。今の世に思うことはないと――それはつまり、守ろうという程の価値も感じていないということだ』
何を期待している――そう道真は、妖怪・雷様は言う。
『我は――妖怪だ。既に菅原道真という名の人間は死んだのだ。貴殿が英雄を名乗るのならば、取り戻すべき平和を、勝ち取るべき未来を、その手で掴み取って見せよ』
歯を食い縛る貞光、息を潜める季武――現代の英雄を見下ろし、道真は笑う。
そして、見渡す――己が火の海に変えた都。喉を汚すように不味い空気が流れる平安京。
在りし日に思い描いた、漠然と思い至っていた終焉が――今、目の前にある。
遠からず未来、平安京は終わる。
そう確信し、それから全てを諦め、ただ流されるままに生きた。
救いを求める手を拒むなという呪いを受けて、多くの人を救け――そして、全てを失った。
後悔はないかと言われれば嘘になる。
いっそ全てを拒絶して、あの屋敷の中で死ねたならと、思ったことがないかと言われれば嘘になる。
それでも。
お前はきっと世界を変えられる――そう言ってくれた友がいた。
お前が居てくれて本当に良かった――そう言ってくれた主がいた。
あなたを愛しています――そう言ってくれた、かけがえのない、家族がいた。
(――
この身は既に影法師なれど。
憎しみも――愛も、また、偽りなき
『選ぶべきは、
進むも止まるも。
終わるも――また、始まるも。
だから――この先を、終わりの先を望むのならば。
それを作り上げるべきは、諦めた者ではない。
未来を創る資格があるのは、最後まで諦めない――今を生きる者なのだから。
だから――菅原道真は、今を生きる、未来ある人間達に向けて、言う。
『さあ――私を、
+++
「いえ――そうはさせませぬ」
雷神の身体に――
「「――――っっ!!??」」
貞光と季武が瞠目する。
そして、その驚きを掻き消すように――その巨大な身体は動き出す。
「―――――――――――っっっっ!!!!!」
巨大絡繰鬼・
既に頭部を失い、自律行動が出来ない筈の絡繰が、その肩に何も乗せずに暴れ始めた――まるで封印が解かれ、自由意志と行動権を取り戻したかのように。
だが、真実は異なる。
「――あなた方が長々と問答をしている間に、私の妖力を彼に注ぎ続けました。これで一定時間は私の操縦を必要とせずに戦闘が可能です」
無論、細かい動きは不可能だろうが――力任せに大暴れするだけならば、それも必要ない。
対人戦闘は困難だろうが、操縦下にない大暴れする巨大鬼を、周囲に甚大な被害を齎す脅威を、英雄達は無視することが出来ない。
そして、貞光が、季武が、鎧将の対処へと動かなくてはならない――その間に。
「このままあっさりと退場など勿体ない。あなたがいらないのあれば――その莫大なる妖力、私が使わせていただきます」
天に邪する鬼――妖怪・
残された隻腕に絡繰を纏わせ、菅原道真の体内を探り――そして。
「あなたの言う『何者』か――それは、私を遣わせた者と、恐らくは同じ御方でしょう。つまり、私とあなたの原理は同一。ならば……あなたの操縦権を、私が手に入れることも可能ということです――っ!」
天邪鬼の言葉に、貞光と季武は驚愕する。
菅原道真の圧倒的な力。それを邪なるモノが、悪意を持って振るったならば、その脅威と被害は比べ物にならない。
(――くっ! 菅原道真公の登場に気を囚われて、天邪鬼から目を離した私の失策だ!)
なんとしても防がなくては――だが、それを無軌道に暴れ回る鎧将が許さない。
季武が一瞬の隙を突いて矢を放つ。
しかし、それよりも天邪鬼が菅原道真の器の核を見つけ、それに触れる方が早かった。
『………………』
道真は、己が背に、己が体内に鬼の手が突き入れられようと、その表情を、その無表情を変えない。
天邪鬼の顔が――歓喜に歪む。
(もらっ――)
バチィィィィィィ!! ――と、雷が瞬いた。
まるで落雷を受けたかのように、天邪鬼の身体が、一瞬にして焼け焦げた。
「――ッ!?」
貞光が、季武が、そして天邪鬼が驚愕する。
季武の放った矢が、炭となってゆっくりと落下していく中――影法師は、淡々と語る。
『なるほど。面白い目論見だ。それに確かに、貴様と私の作り主は同じ『何者』のようだな』
だが――と、妖怪・雷様は、語る。
『一つ、誤算があったようだな。――
天邪鬼が菅原道真の支配権を手に入れるには、その影法師の器の核に己が妖力を注ぎ込み続けなくてはならない。
しかし、その菅原道真の核に触れるということは――その妖力たる
『私の支配権を手に入れるまで、貴様は地獄の痛苦を味わい続けることになる。それに貴様は、耐えることが出来るかな?』
天邪鬼は、黒雲から落ちそうになった我が身を堪えるように。
一歩を踏みとどまり、そして――口角を引き裂くように笑いながら、更に、一歩を踏み出して。
「――上等ですともッッ!!」
再び、その無防備な背に、隻腕を突き出す。
菅原道真は、微笑みながら、その暴挙を受け入れた。
そして、再び――雷光が、瞬く。
用語解説コーナー㊼
・
時は『藤原』が権力の全盛期間近の時代。
学徒の家系でありながら、時の天皇たる宇多天皇の信を得て、並み居る『藤原』を押し退け、右大臣にまで上り詰めた。
その結果、当時の左大臣である藤原時平らに濡れ衣を着せられ、平安京を追い出されて九州・太宰府に左遷させられ――そのまま、平安京に戻ること叶わず、59歳でこの世を去ることになる。
道真逝去の直後から、数多の天変地異、そして道真排斥の関係者達が次々と不幸に見舞われた為、これは道真公の怒りによる呪いだと流言飛語が飛び交い――菅原道真は大怨霊として恐怖の象徴となった。
やがて、道真公は大怨霊として『妖怪』となり――遂には、雷神として『神』に至ることになる。
数々の伝説を残し――また、数々の怪談に残されることとなった道真ではあるが、その素顔を知る者は余りにも少ない。
それは家族であり、それは友人であり、それは主であり。
彼らが一様に語るのは――菅原道真公とは、つまり。
余りにも過ぎる、まるで呪いのような『知』を与えられただけの。
少しばかり臍を曲げがちの、ただの――『人間』であったという。