今から――ほんの百年前のことだ。
鞍馬山の麓――天狗達が
その日も、代わり映えのしない――否、変わり果てた京の空を、その天狗は飛んでいた。
かつての面影はもはや微塵も残っておらず、人間の都として完成した平安京は、夜の世界においても光は完全に失われず、まるで所有権を声高に主張するような
(…………)
すまない――と、先代の鞍馬は彼に言った。
尻拭いをさせてしまってすまないと。何もかもを丸投げしてしまってすまないと。
どうか、後は頼むと――縋りつくように、その名を与えられた。
今日からお前が『鞍馬天狗』だと――ずっと欲しかった筈のその名は、目指し続けた筈の栄誉は、押し付けられるように突然に継がされた。
まるで、滅びかけている国を背負わされるように――その日、一体の天狗は、『鞍馬』となった。
鞍馬山に住まう全ての天狗達の長となり、家族を守る父となった。
もう、きっとみんな、心の中では――気付いているのに。
この広大なる、完成された都の空を飛ぶ度に――思い知っているのに。
京は――この地は、既に自分達のものではないということを。
こんな場所を作り上げる――『人間』という怪物には、敵わないということを。
もう、恐らく、ずっと前から――。
「――よう。お前さんが、かの有名な『鞍馬天狗』ってやつかい?」
その妖怪は、いつの間にか――そこにいた。
気紛れだった。
たまたま目に入った――悪霊となり、妖怪となり、暴れている無辜の民だった筈の魂を見付けた。
(…………)
このまま放っておいても、しばらくすれば陰陽師が平安京中に放っている自動警邏式神が発見し、対処するのだろう。
自分達が京の治安を守っていたのは、はるか昔の話だ。
夜の世界には関与しない。妖怪の世界の揉め事には天狗が対処するという契約は、口約束ほどの効力も持たず、既に有名無実化して久しい。
だから――使命感ではない。義務感でもない。ただの気紛れだった。
偶然に目に留まった一つの魂が、たまたま悪霊として暴走し始めるのが目に入ってしまったから。
無辜の民だった筈の魂が、平安京で慎ましく暮らしていた筈の――悪霊となる程に苦しんで死んでしまった筈の魂が、死して尚、ずっと傍から離れられなかった家族に襲い掛かる瞬間を、たまたま、偶然、はるか上空から見つけてしまったから。
きっと陰陽師の式神が到着する頃には、悪霊は家族を殺してしまっているだろうと――思ってしまったから。
だから、気紛れに、気が向いたから、気が付いたら――地に降り立ち、悪霊を征伐していた。
そして――突如現れた大天狗に、怯え、逃げ出した人間達と入れ替わるように。
まるで影のように、まるで幻がごとく――その妖怪は、そこにいた。
「強いのぉ。恐ろしいのぉ。お主――見事な、妖怪じゃのぉ」
見たことのない妖怪だった。初めて見る男だった。
清流が如き艶やかな伸びきった黒髪。
まるで全身を包み込むが如き、闇のような黒の中から――ぎらぎらとした、何かを煌々と燃やす瞳を覗かせながら、その妖怪は、天狗に手を差し出した。
「ほんのつい最近、上京してきたばかりの田舎者でな。右も左も分からずに右往左往するばかりじゃったが――とりあえず散歩でもしてみるもんだ。まさかこんなにも早く、お主のような妖怪に出遭えるとは」
儂の名は、妖怪大将ぬらりひょん――と、真っ黒の男は、大妖怪に向かって不敵に笑って言う。
「儂は――天下を獲りに、この京へと来た。その為に、強い妖怪が、一体でも多く必要だ」
鞍馬天狗よ。儂の
「…………ッ」
鞍馬は、男の言葉に――強く握り締めた、拳を振るって返礼とした。
これが、妖怪大将ぬらりひょんと、鞍馬山の大天狗との出遭い。
そして、百年の時を経て――今、再び、両者は平安京にて対峙する。
+++
河童と雪女の合体攻撃である氷塊の散弾を受けきった鞍馬天狗は、しかし、その術者である二体の妖怪ではなく、いつかのように、いつの間にかそこにいた、龍の背に立ちこちらを見上げる黒い妖怪を見下ろしていた。
不敵な笑みを浮かべながらこちらを見上げる漆黒は、長い年月を挟みながらも、些かも変わらず、まるで引きずり込むかのような濃い黒色のままであった。
「――ぬらりひょん」
かの妖怪の名を、忘れたことはなかった。
対峙したのは、この百年で一度きり。
大きく名を広めることはなく、しかし、京で勃発する妖怪騒ぎのところどころで、その妖怪の存在は、そして、彼が率いる妖怪組織の名は耳に入っていた。
数多の種の妖怪が、陰陽師の目を盗んで暗躍し、平安武者の目の届かぬ闇の中にひっそりと隠れ潜んでいるという――人間達の都である、日ノ本の中心たる平安京の何処かで。
人間の手の及ばぬ先で、困り苦しむ民や妖怪達を救う――その任侠組織の名は『
――儂の、
妖怪大将・ぬらりひょん。
かの漆黒の妖怪が集め育てた、彼に忠誠を誓う家族達。
鞍馬天狗は、今、改めて確信する。
――儂は、天下を獲りに、この
あの大言壮語は、妖怪王の器たる妖怪が同時期に二体も生まれ、その雌雄を決しようとしている、この妖怪大戦争の渦中にあろうとも――事ここに至ろうとも。
黒く燃える野心は、些かの翳りもなく、まだ轟々と燃え盛っていると。
「…………」
そして、そんな天狗を見上げているのは、ぬらりひょんだけではなかった。
落下する鴨桜を背に乗せて、天を
(……奴が、鞍馬山の最高傑作と謳われる大天狗か。……確かに、ぬらりひょんの奴が欲しいというに相応しい妖力だが――)
こうして相対するのは初めてだが、見るだけでもやはり別格と分かる。
これでも一つの地方の妖怪を束ねる立場にあった
が、しかし――と目を細める刑部だが、今は背中の鴨桜を青龍の元へ送り届けるのが先だ。
「……鴨桜。あんまり、アイツを責めてやるな」
「………………」
自身の背中で、天狗ではなく、別のただ一点を睨み付ける鴨桜に、刑部はそう声を掛けた。
いつもは刑部にだけはあまり反抗的な態度をとらない鴨桜も、しかし、此度の刑部の言葉には無言のみを返す。
刑部は、親子だなと思いつつも、更に言葉を紡がずにはいられない。余計なお世話だと分かっていても。
「お前の怒りは分かる。だが、アイツは決して、お前の言葉をないがしろにしたわけではない。アイツは――」
「……ああ、分かってるさ。大人の事情って奴だろ? ……だがよ、それでいつも――
大人には大人の事情ってもんがあるように――鴨桜は、歯を食い縛って、憎しみの視線を父にぶつけながら言う。
「――
「…………」
刑部は、その鴨桜の言葉に、これ以上は自分が何を言っても無駄だと悟った。
ぶつかる時が来たのだろうと。一度、思い切りぶつからなくてはならないとは思っていた――その時が、きっと今なのだろうと。
世話が焼けると溜息を吐いた。親父も、息子も、もっとうまく出来ないものかと。
だが、それでも――アイツの家族となると決めたのだから、これも焼くべき世話なのだと、刑部は心を決めた。
「――ならば、好きにしろ。親子喧嘩の時間くらいは稼いでやる」
刑部はそう言って、龍の背中に鴨桜を下ろした後――そのまま空を翔けて、上空の天狗に向かって襲い掛かる。
天狗がそれに応戦し、大犬が吹き荒れる嵐の中へと突っ込んでいった時。
龍の背中では、漆黒の妖怪が煌びやかな貴族に向かって話し掛けていた。
「――大臣様よぉ。アンタが晴明のヤツと企んで、色々と悪巧みをしていたのは知っていたが、幾ら何でも賭けが過ぎるんじゃねぇのかい? ここで鞍馬の天狗とコイツ等をぶつけるなんざ。俺らが来なければ、アンタ等は地に落っこちて、平安京の滲みになってたぜ」
それとも、俺等がこうしてここに来るのも、アンタ等の
「その時は――俺はそこまでの男であった、それだけのことだろう」
道長の言葉にぬらりひょんは更に笑みを深めるが、道長は「それよりもお主、私なんぞに構っていてよいのか?」とぬらりひょんに言う。
ぬらりひょんは、鞍馬は刑部が引き付けているし、もう少しここで道長から情報を得たいと構わず口を開こうとするが――道長は、上空ではなく、ぬらりひょんの背後を指差し、そして言う。
「――お主、息子に殺されようとしているぞ」
その時、ぬらりひょんは表情を消して振り返った――背中に迫る、混じりけなしの、本物の殺気に。
振り返った先で、白刃と目が合った。
その白刃は氷の刃で受け止められていて、それを振るった息子――鴨桜の首には、河童の水かきがついた手が添えられていた。
自身の百鬼夜行の幹部――雪女の白夜と河童の長谷川に庇われながら、ぬらりひょんは息子を見る。
たったひとりの息子・
「………ふざけたことを言ってんじゃねぇぞ――クソ親父」
「……………」
鴨桜の殺意に、ぬらりひょんは無言を返す。
いつもの反抗期と断ずるには、明確に、一線を超えていたからだ。
故に、白夜が、長谷川が、鴨桜の蛮行に対して冷徹に言う。
「……ふざけたことをしているのはアナタよ、鴨桜君。分かっているの?」
「……お前が今したことは、組長への叛逆行為だ。お前は父を、俺達を――」
真っ白な白刃を――真っ黒な凶刃を、頭たる組長へと向けた。それも本物の殺意を込めて。
止められなければ、気付かれなければ、鴨桜はそのままぬらりひょんを切り裂いていたことは、その刃を止めた白夜と長谷川こそが理解していた。
そして、その刃に念糸を巻き付けて止めていた――士弦もまた、同様に。
白夜と長谷川だけではない。
鴨桜に付き従う、士弦や月夜、雪菜もまた、鴨桜の行動に目を見開いていた。
「――やめろ、鴨桜! 何をしてるんだ!?」
だが鴨桜は「……何をしている? ……ふざけたことをしているのは、どう考えてもコイツだろうが!!」と、士弦を、自身よりも格上の白夜や長谷川の殺気すらも無視して。
ただ真っ直ぐに、握り締めた刃のように、目の前の父を睨み付ける。
更にぐっと身を乗り出し、刃を持ち上げようとする。
それを氷の盾で防がれながらも、自身の首に河童の巨大な手を押し付けられながらも――自分を裏切った父親に、怒りの丈を渾身の力でぶつける。
「――何で、どうしてここにいる!? 平太は――平太と詩希はどうした!!? クソ親父!!」
鴨桜の言葉に、士弦と、月夜、雪菜は目を見開く。
白夜と長谷川は表情を変えずに――父たるぬらりひょんは。
「…………」
真っ直ぐに、息子の殺意を受け止めていた。
「お前は俺に言ったよな――任せろと! そう言ったよな! なのに、ガキ放り出して、テメェは何でこんなとこに居やがる!! まさかアイツらを、あの『貴人』に渡しやがったんじゃねぇよなぁ!! アァ!?」
鴨桜は再び大きくドスを振るう。
それは白夜の氷の盾を砕き、士弦の念糸を引き千切った。
きらきらとした氷片が、ぬらりひょんに降りかかる。
息子の殺意の欠片を、父は無言で浴び受けていた。
「―――っ!?」
白夜は氷の盾から、氷の拘束へと切り替える。
鴨桜の身体を凍らせて身動きを封じ、長谷川は添えていた手に力を入れて首根っこを掴み上げ――いつでも水流で首を貫けるように妖力を込める。
だが、鴨桜は委細構わずに、ただぬらりひょんのみを睨み続けていた。
そんな相棒を、士弦は抱き締めるように、直接その身を以て止めようとする。
「…………鴨桜。……やめろ……ッ」
相棒の震える声での懇願に、僅かばかりの理性を取り戻したのか。
ここで初めて鴨桜が、目線と殺意は父親に向けたままで、「…………長谷川」と、ぬらりひょん以外の妖怪に、己の首を掴み上げて、一瞬の挙動で己を殺せる相手に向かって、吐き捨てるように言う。
「お前、さっき言ったよな。
「…………ああ」
「そうだ。家族なんだ。平太も、詩希も――とっくに、俺の家族なんだよッ!」
鴨桜は、片目から一筋の涙を流しながら、ドスを震わせて咆哮する。
その殺意は、どうしようもなく父に――そして、己に向けられているようで。
士弦も、月夜も雪菜も、そして白夜も長谷川も息を吞む。
「昨日出遭ったばかり? ――関係ねぇよ。アイツらが俺に手を伸ばして、それを俺が受けた。アイツらが俺に救けを求めて、それに俺が応えると言った。アイツらが! 俺に家族を! 居場所を求めて!! 俺はそれに応えると言った!! その瞬間から!! 俺はアイツらの命を預かってる!! 幸せにする義務があんだよ!!」
それは鴨桜という若き妖怪には、未熟な半妖には、独力では応えきれない期待で。
だからこそ、無力感に打ちひしがれながらも、屈辱を覚えながらも――頼った。任せたのだ。
気に食わなくとも――任せられた。決して口には出せなかったけれど――安心して、信頼して。
その相手とは――断じて『貴人』なんぞでは、ない。
「テメェがどれだけ『人間』が大好きなのかは知らねぇ! だが俺にとっては、母さん以外の人間なんざ、これっぽっちも信頼になんか値しない! ましてや陰陽頭の十二神将なんざ論外だ! 俺の家族を預けられるわけがねぇ! だから俺は、アンタにアイツらを任せたんだ!! あの女じゃなく!! 百年間――この魔の都で、
そして、遂に手が届く。
ドスを握った右手ではないため、白夜と長谷川の警戒が遅れたのか、剥き出しの左手が、ぬらりひょんの黒い着物の胸倉を掴み上げる。
「俺にとっての
鴨桜は、まるで己に突き刺すように言う。
守護るべき
そんな己を棚に上げて吐き捨てた、八つ当たりのような言葉。
しかし、それを受けて、それをぶつけられた父親は。
己の胸倉を掴み上げながら、殺意をぶつける息子の――頭を、撫でる。
「――ちっとはマシな、いい
ぬらりひょんは目線だけで、白夜と長谷川を下がらせる。
ありがとうなと言うように鴨桜を押さえている士弦の肩を叩いて、父親は息子に言った。
「すまねぇな。のっぴきならないことが起きてよ。坊ちゃんと嬢ちゃんには逃げてもらったのさ。確かに今、あの二人は『貴人』と一緒にいるが、ちゃんと俺の信頼できる
「……じゃあ、何でアンタは今、ここにいんだよ」
先に逃がしたのなら、どうして後を追わない――そう言いたげに、頭に乗せられた手を荒々しく払う反抗期の息子に、父は笑う。
「――心配だったからさ。
テメェと一緒だよ――と、百年間、人間達の都で、妖怪にとっての死都で、
「だが――安心した。お前らはもうガキじゃねぇな。正直、あの鞍馬天狗を相手にここまで戦えるとは思ってなかったぜ」
士弦を、雪菜を、月夜を見渡して、ぬらりひょんは笑う。
そして――鴨桜を見て、目を細めて、父親は言う。
「よくやったな。鴨桜」
息子の肩を叩き、ぬらりひょんは前に出る。
傍らに白夜と長谷川を――百鬼夜行を引き連れて、妖怪大将は戦場に出る。
「こっからは大人の時間だ。お前らの戦いにケチをつけようってわけじゃねぇが、ここは儂らに任せちゃくれねぇか?」
そして――ぬらりひょんは。
天高い場所で空駆ける大犬と激闘を繰り広げている天狗を見上げて言う。
「百年前から予約済での。アイツは――儂の
用語解説コーナー㊽
・二代目派閥
妖怪任侠組織『百鬼夜行』は、総大将たるぬらりひょんのカリスマによって結成された組織だ。
流れ者であったぬらりひょんが、一体一体声を掛けて、己が下へと集めて出来た家族だ。
これまで阿弖流為や化生の前といったクラスの大妖怪にしか成し遂げられなった、多種族組織を、小規模ながら成立させているのも、全てはぬらりひょんのカリスマ性があってこそだ。
だからこそ、その血を受け継いだ息子とはいえ、鴨桜へ向ける古株妖怪達の目線は厳しい。
古株であればあるほどぬらりひょんに心酔しているというのもあるが、何よりも鴨桜の半血であるという部分に対する忌避感がぬぐえないのもあった。
それを鴨桜自身も理解していて、故に鴨桜自身も人間というものに対する忌避感を少なからず抱いているが――だからこそ。
ぬらりひょんという偉大なる父を崇拝する組織内において、それでも父よりも自分を選んだ、他でもない自分の傍にいてくれる妖怪達のことを、鴨桜は何よりも大事に思っている。
士弦を、月夜を、雪菜を――そして。
こんな自分を頼ってくれた、手を伸ばしてくれた、救いを求めてくれた――平太と詩希を。
彼等こそ、自分の――
やがて、この若き妖怪の卵達は――百鬼夜行の『二代目派閥』と呼ばれる程に大きくなっていき、新たなる妖怪伝説を紡いでいくことになる。