真っ暗な森の中を逃げていた。
肩を
それでも必死に足を動かし、草木を掻き分けながら山の中を、闇の奥へと進んでいった。
背の高い葉が陽の光を遮る。
本来、それは喜ばしい筈の身の上だったが、今はただ、それが恐怖を誘った。
果たしてどれだけの時間が経ったのだろう。
自分の命を狙うモノから、果たしてどれだけの距離を稼げたのだろう。
分からない。分からないから、ただ怖くて、切れる息を無理矢理に、唾を呑み込むように抑え込んだ。
すると、やがて――闇の中に、光が差し込んだ。
忌避すべき筈の日光に、思わず手が伸びてしまった。自分を追い詰めるばかりの暗闇に、もう耐えることが出来なかった。
息を吞み、唾を呑み込み、ゆっくりと光の方へと足を動かす。
そして――光の先には、真っ赤な世界が広がっていた。
舞い散る
そこに、呼吸を忘れる程に、美しい鬼がいた。
「おや。今日は随分とお客さんが多い日だね」
美しい鬼は、口元を赤く染めた血を舐めながら言った。
鬼は人を喰っていた。
それは、自分がずっと追われていると思っていた――鬼である自分を襲い、殺そうとして山の中へと追い詰めていた、正義の武者だった。
闇を恐れた鬼は、逃げ込んだ光の先で、血に塗れた美しい――紅葉の鬼に出遭った。
「――それも、無粋な人間の武者のお次は、えたく別嬪な、鬼ん子とはね」
真っ赤な美鬼は、人間の腕を荒々しく齧って、ゾッとするほどに美しい笑みで、彼女を歓迎した。
「ようこそ。
こうして彼女は、真っ赤な鬼女が支配する、紅葉郷へと迷い込んだ。
+++
彼女が紅葉郷へと迷い込んで、幾ばくかの時が経った。
紅葉郷は鬼が住まう秘境――ではなく、鬼が支配する秘境であった。
端的には、人間が、鬼女によって、支配されながら暮らしていた。
彼女は生まれて初めて、人間と同じ立場で生きるという体験をした。
迷い鬼である彼女は、この里に匿ってもらい、この里に住まう一般人と共に寝食を共にしながら日々を過ごしたのだ。
彼らは支配者である鬼女を崇拝していて、故に同じ鬼である彼女の来訪を歓迎していた。
捕食者である彼女を同じ食卓へと誘い、己の
そんな彼らを不気味に思いながらも、恩を感じていた彼女は危害を加えることもなかった――そしてある時、彼等からこの隠れ里の歴史を聞いた。
元々、この里は少数の領民が暮らすだけの小さな隠れ里だったらしい。
平和だが水源に乏しく、ゆっくりと、その少数を更に少なく減らしていた日々の中――突然、三人の高貴な装いの人間が現れた。
父と、母と、娘。
内――娘の腹は、大きく膨らんでいた。
聞けば、その娘は京の有力貴族の家に仕えていたが、その当主の男の子を孕んでしまい、この地に流されてきたらしい。
領民達は娘一家の境遇に同情したが、この地は人間が暮らすには不向きで、何処か別の地を目指した方がいいと諭すが――。
「――いえ。この場所はひっそりと暮らすには都合がいい。水源がない?
そう言って、娘は雨を降らせ――湖を作り出した。
明らかに人間業ではない――
気付けば、娘の額には角が生えており、娘の周囲の木々は赤く萌え――紅葉が色付いていた。
自分達が生まれ育った、死んでいた筈の土地が――息を吹き返し、美しく生まれ変わる、その光景に。
痩せ細った領民達は、恐怖よりも感謝を――信仰を抱いた。
跪き、平伏し、全てを捧げた。
そして、この
「……………」
彼女は、そんな鬼女の正体を知るべく、陽が沈みきった深夜に、神殿たる屋敷へと向かった。
+++
人間と共に暮らすと言っても、鬼として生きてきた彼女に田畑仕事が出来る筈もない。
彼女の主な仕事は、時折迷い込む人間を撃退する用心棒であった。
この隠れ里と繋がる信濃国
そして、彼女がこの郷に迷い込んだ時、鬼女がそれを喰らっていたように、鬼を狙う武者がこの里に迷い込むことも、珍しいことではない。
「ここは神秘郷としては、神秘が薄い部類に入るの。現実との境目が、あまりに曖昧で頼りないのよ」
そもそも人間が郷を作って住み着いてしまえるくらいにね――と、夜半に突如として来訪した彼女を、鬼女は微笑みながら歓迎した。
昼間に時折里で見かける時とは随分と異なる姿だった。
都の高貴な娘といった様相の昼とは違い、着物は盛大に着崩れ、豊満な胸が零れ落ちそうになっている。髪を解き、
鬼女は彼女に酒を勧めた。
飲める年齢ではあったが(そもそも鬼にそんな良識はないのだが)余り酒の味を好まなかった彼女はあくまで唇を湿らす程度に付き合ったが、鬼女は酒豪であったようで、初めて出会ったという同族である彼女との語らいに気分を良くしたのか、次々と杯を空にし、段々と饒舌になっていった。
そして、いつしか彼女は、天高く輝く月を眺めながら、昔語りを始めた。
「――とある、どこにでもいる馬鹿な人間と、愚かな鬼の話よ」
かつて権力を誇っていた元名家の血を引く男と、そんな男に嫁いだ女がいた。
男は都の貴族らしく人並み以上の出世欲を持っていたが、彼ら夫婦は子宝に恵まれなかった。
彼らは天に、神に、仏に願い続けて、それでも叶わず――遂には、魔に願った。
どうか、我ら夫婦に子を――特別な子を、と。
そんな執念が通じたのか、歳を取った彼ら夫婦に、奇跡のような子が贈られた。
美しい女子だった。
嘘のように頭がよく、礼儀作法も水を吸うように身に着け――特に、彼女が引く琴は、聞く人間の魂を取り込むような魅力に満ちていたらしい。
夫婦はそんな娘を溺愛し、娘の評判は瞬く間に広がった。
娘の器量に感激した父は最上級の良家に嫁がせることも可能だと野心を燃やしたが、かつて権力を誇ったとはいうものの当時には既に隆盛を失っていた彼の家は、望まない中流階級の家から贈られた求婚を拒むことも出来ないような有様だった。
父の苦悩を、娘はただ晴らしたいだけだった。
愛してくれた父を、可愛がってくれた母を、苦しませたくないだけだった。
故に彼女は、迷わずにこう言ったのだ。
「苦しまないで、お父様。悩まないで、お母様。私を嫁に出さなくてはならず、私を嫁に出したくないのならば――私を嫁に出して、私を嫁に出さなければよいじゃない」
そう言って彼女は、自分をもう一人生み出した。
己の身代わりを、瓜二つの自分自身を、何とはなしに、最も分かり易い解決策だと笑顔で実現させたのだ。
父の苦しみを、母の悩みを、吹き飛ばす最も簡単な答えだと。
しかし、その時――娘に向けられた、父の、母の、表情は。
「――この時、ふたりは初めて気付いたみたい。自分の子供が、人間ではないことに」
魔に願って授かった子宝は――鬼子だった。
血に濡れたように真っ赤な髪に、真っ赤な瞳の美しい娘は――美しき、鬼女であった。
その時、己に向けられた瞳で――ようやく、彼女も気付いた。
「――この時、初めて、気付いたみたい。……私は……私が……人間ではなく」
鬼だと――いうことに。
その日、確かに、何かが壊れた。
けれども、父も、母も、娘も、まるで何事もなかったかのように――その後も、幸福を演じ続けた。
身代わりを贈られた家は、妖怪に呪い殺されたと風の噂で聞いたが、父も、母も、娘も、その話題を出すことは一切なかった。
やがて、恐れをなしたのか父から売り込むことはなかったが、皮肉にも天が、あるいは魔がその願いが叶えたのか、待望した最上級の良家から、娘に侍女としての誘いがきた。
父も、母も、何も言わなかったが――娘はその誘いに乗り、出仕することを決めた。
ただ――喜んで欲しかった。
可愛がってくれた、確かに娘として愛してくれていた父母の、願いを叶えて上げたかった。
天でも、魔でもなく――娘の、自分が。
だから――魂を抜く琴を、誰に求められるわけでもなく弾いたのだ。
目が虚ろな当主に求められるがままに身体を差し出し、手付けにされ――子を孕んだ。
嫉妬に身を焦がし、呪われたが如く体調を崩した正室に――おぬしは妖だと、そう疑いを掛けられても。
愛していると、そう己の胸の中に顔を埋めて囁いたのと同じ口で、当主からおぬしを都から追放すると、そう言い放たれても。
涙を流し、心が引き裂かれても――ただ、ただ――私は。
「――――ただ、言って欲しかった」
あの時のように――あの時のように。
愛していると、そう、言って欲しかっただけなのに。
気が付いたら――全てを壊していた。
まるで怪物に襲われたかのような、貴族の屋敷を逃げるように後にし。
そのまま怯える父と母を連れて、重い腹を抱えながら、信濃国戸隠山へとやってきた。
「……父は、都を後にしたその日から、みるみる内に体調を崩して――母は、そんな父に付きっきりで、この地に来てから屋敷の外に殆ど出ていないわ」
そして、まるで娘に近づけることを恐れているように、この地で生まれた子――己の孫を四六時中傍に置いているのだと、鬼女は語った。
ぽつぽつと、呟くように語られた、そんな鬼女の昔語りを、彼女は黙って最後まで聞いていた。
彼女は生まれながらに鬼であり、その自覚も生まれたその瞬間からあった。
鬼という妖怪の出生は様々だ。霊的に妖気が充満する土地で妖気が形を得て鬼となる場合もあれば、鬼同士の雌雄の交配によって生まれる場合もある。
そして、彼女のように――別の生物が呪われて鬼となる場合も存在する。
彼女の場合は、それがたまたま――人間であっただけ。
そして、それに気付くのが、遅かっただけ――人間として育てられて、けれど後から鬼だと、そう気付いた、ただそれだけの悲劇だ。
「私は――都で貴族の家を破壊して、この地へと逃げてきた」
鬼女は言う。自分は追われている身の上だと。
あの日――我を失った鬼女は、その凶悪な本性を晒し、仕えていた屋敷を無残に破壊して逃亡した。どれだけの被害を出したのかは覚えていないが、少なくとも当主と正妻は殺していない。彼らの恐怖に染まった瞳は鮮明に覚えている。その瞳を受けて、己が自我を取り戻し、そこから背を向けて逃げ出したことも。
故に、我に返った彼等が、あるいは恐怖を忘れられない彼等が、死に物狂いで鬼女の討伐を命じるのは想像に難くない話だ。
事実として、この地に逃げてきてから幾度となく、この里にまで辿り着いている妖狩りを返り討ちにしている。
あなたが襲われたのも、その内の一人でしょう。ごめんなさい――と、鬼女は語る。
そんな鬼女の言葉に彼女は首を振るが、鬼女は憂う表情を変えずに言う。
「……この地に住まう人間達は、私を崇拝している。私が止めてと言っても、私を守るのだと言って……時折、山へと出て、盗賊紛いのことをして、私を追いに山に入ってくる人間を襲うといったことを繰り返している」
それでも討ち漏らした、あるいは倒しきれなかった武者は、逃げ惑う郷の民を追って、結果としてこの里を発見する。
すると、そんな彼らを生きて帰すわけにはいかず、鬼女が止めを差すことで彼等の窮地を救うことで、また民の信仰が深まるという悪循環。
そして、その因果応報の末路は――もう、すぐ傍まで迫っている。
「送った戦士が帰ってこない。そんなことが続いたら、都は更に強い戦士を送るに決まっている」
鬼女が手に入れた情報によると、これまで返り討ちにした戦士とは格が違う大物が――近々、この郷へと乗り込んでくるらしい。
紛れもない当代随一の妖狩りの一角。流石の鬼女も、これまでのように容易く返り討ちに出来るとは思っていない。
「悪いことは言わないわ。あなたは早い内に逃げなさい。もう傷も癒えたでしょう」
「……あなたは、どうするのですか?」
彼女からの問いに、「……私は――」と、何かを言い掛けた、鬼女の言葉を遮るように。
「――自首をするのです」
いつの間にか彼女達の背後に立っていた、痩せ細った老婆が言った。
否、実年齢で言えば、まだ老婆というほどの歳ではなかったのかもしれない。だが、その生気というものを失った表情は、この暗い夜の中では、まるで幽鬼のように恐ろしく映った。
人間の、只の女にゾッとするような恐れを抱いて絶句する鬼子など、まるで見えていないかのように――否、まるで、何も見えていないかのように虚ろな瞳で、母は言う。
「……お願い。自首してちょうだい。貴族様に謝ってちょうだい。あなたは可愛い子。あなたは賢い子。あなたは美しい子。きっと罪を償えば、またあなたを娶ってくれる別の御貴族様が現れる。だから都に帰りましょう。だからあの日に戻りましょう。そうすれば、そうすればきっと、お父様も元気になるから。だから、だから、だから、だから、だから」
母は、娘に縋りつきながら、うわ言のように繰り返す。
だから、だから、だから、だから、だからと。
お願い、お願い、お願い、お願い、お願い、だからと。
そんな母を、娘は優しく抱き締めて――自分を見ていない母に、何も見えていない母に、止めを差すかのように、現実を突きつける。
「もう――無理よ。私達は、後戻りは出来ない。もう、どこにも、戻ることは出来ないの」
帰る場所などない。
戻れる場所など、きっと、どこにもなかった。
だって――始まりから、生まれた時から。
「私は――鬼だから」
その言葉に、母は大きく目を見開いて――魂を吐き出すように号泣した。
なんで、なんで、なんで、なんで、なんでと。
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして――こんなことに、と。
いつまでも、いつまでも、いつまでも泣いて。
いつまでも、いつまでも、いつまでも――鬼は、母を抱き締めていた。
そんな親子を、彼女はずっと傍で見ていた。
だから、力尽きたように眠りにつく瞬間、母が娘の胸の中で言った、その言葉も一言一句聞き取れてしまった。
ああ――と。
老婆は、嘆くように言う。
「…………あなたさえ――」
――
「………………」
それでも――鬼女は。
最後まで、母を優しく、抱き締め続けた。
真っ赤な瞳で、とても美しい、涙を流しながら。
+++
次の日――母は死んでいた。
息を引き取っていた父の傍で。鬼女が生んだ、己の孫を道連れにしながら。
「………………」
そんな家族の亡骸を、鬼女は無表情でいつまでも見下ろしていた。
外からは郷の民の悲鳴が轟いていた。
訪れたのだ。
予想よりもずっと早く。
平維茂が――そして。
「……これで……終わるのね」
鬼女は、そう天井を見上げて呟いた。
涙はもう流れなかった。悔いがあるとすれば、我が子を抱いて死ねなかったことだが、この子も鬼の胸の中で死ぬより、大好きな祖母と共に死ねたことがきっと幸福だろう。
鬼は――鬼らしく。
化物は――化物らしく。
妖怪として、哀れに、孤独に、
「その必要はありませんよ」
覚悟を決めた妖怪の背中に、その覚悟を揺さぶる声が掛けられる。
「…………お万」
お万と、そう鬼女は、彼女の名を呼ぶ。
この郷にて唯一、否、鬼女がこれまで出会った唯一の同族――自分と同じく、鬼で、化物で、妖怪である存在に。
「郷の人間達は、誰一人残らず殺されました。皆、あなたを守ろうと死ぬまで戦いました。……まあ、元々山賊として政府からは生死問わずのお触れが出ていたようですから。自業自得ではあります」
いつからか民の悲鳴が消えていたのでそうではないかと思ってはいたが、改めてその末路を知らされると、どんよりと暗いものが胸の中を乱した。
半ば信仰心が暴走していたとはいえ、自分がこの地に水と豊かさを齎したとはいえ、彼等も自分という鬼がこの場所に流れ着いていなければ、只の貧しくも平穏な民として生涯を終えていた筈なのだ。
結果、彼等は自分達の人生を大きく歪めた化物に、一言たりとも恨み言を言うことなく散っていった。
「気に病むことはありません。彼等が選んだ末路です。それに――彼等が全員死んだからこそ……あなたが生き残ることが出来る道が生まれたのです」
もう、この紅葉の郷に、あなたの――『
お万は、そう言って俯く鬼女の顔を上げて、真っ直ぐに目を合わせて言う。
「私がここに残ります。
だから、あなたは生きて下さい――そう、生まれて初めて出遭えた同族は。
少女鬼・お万は、美しき赤鬼に、生きてくれと願った。
+++
紅葉の郷が燃えている。
赤く燃えるような美しい里が、これ以上なく無残に焼け落ちていく。
いつかとは真逆の光景だった。
あの時は、命からがら逃げのびてきたお万を、鬼女が紅葉の郷で出迎えたのに。
今は、紅葉の郷に残ったお万から、鬼女が命からがら逃げ出している。
どうして――こんなことに。
鬼女は、昨夜、自身の母が零した言葉を漏らしながら、枯れたと思っていた涙を流しながら、山道を走る。
どうして――と、鬼女は言った。
自分が残ると。自分が鬼女紅葉として、政府の追手に討たれると言ったお万の肩を揺さぶりながら、鬼女は問い詰めた。
「いいんです。あの時、アナタに救われていなければ、とっくに私は死んでたんですから。――だから、この命は、アナタの為に使いたい」
どうして――と、再び、鬼女は言った。
あなたまで、そんなことを言うのか。
自分の為に死んでいった民と同じようなことを。自分を救ってくれる救世主を見るような目で、信仰させてくれる偶像へ語るような言葉を。
やっと、やっと――自分のことを分かってくれる、同族と出遭えたと思ったのに。
そんな失望が表情に出てしまったのか。
お万は、再び顔を伏せる鬼女の――。
「――――!」
――頭を、優しく、ゆっくりと撫でた。
遠い昔のように感じる遥か彼方――もう、戻れないと思っていた、それは、あの頃と同じ感触で。
「……大丈夫。私は、あなたが私の救世主だから、あなたの為に死にたいんじゃない。――あなたに、幸せになって欲しいから」
ただ、あなたに生きて欲しいから。
自分が生き延びるよりも、あなたに生き延びて欲しいと――そう思ってしまったから。
「……私は、本当は仲間を探して旅をしていました。……私と同じように――仲間を、同族を……家族を、求める鬼を」
その最中に人間に見つかって死に掛けちゃいましたが。お陰で、見つけることが出来ました――と、お万は。
昨夜、鬼女が母にしていたように――かつて、母が、父が、娘に対してしてくれていたように。
優しく、包み込むように、己よりも大きな鬼女を抱き締める。
「――よく、頑張りましたね」
その言葉に――その、ずっと求めていた、ずっと失くしてしまったと思っていた、ずっと、もう、手に入らないと思っていた、温もりに。
鬼女は、枯れたと思っていた、涙を流して――縋った。
「……これから、ずっと西に――京よりも西に、大江山という山があります。そこに、私と同じように、あなたと同じように――仲間を求める、
どうか、そこへ向かってください。どうか、生きて辿り着いて下さい。
鬼女はいやいやと、子供に戻ったように頭を振る。どうか、お万も一緒にと。
「……私はもう戦えません。傷は治りましたが、力はついぞ戻らなかった。……これから、私たち鬼が自由を手に入れる為には、きっと大きな戦いを乗り越える必要があります。その時、同族の助けになるのは、私よりも――きっと、あなた」
さあ、行って――と、お万は優しく突き放す。
気が付けば、屋敷には火が放たれていた。
侵入を防ぐ結界を張ったのは鬼女だが、それは建物自体を破壊されたら意味を失う。
「――紅葉郷の鬼女は、ここで討たれます。あなたに追手が差し向けられることはないでしょう。……あなたは自由です。どうか、生まれ変わってください」
私は、二度も救われた。だから――と、お万は優しく、微笑みを持って送り出す。
焼け落ちた柱が二体の鬼の間を引き裂く。
その瞬間に――彼女は言った。
「私を救ってくれた、あの方とあなたが、どうか――『鬼』という哀れな化物を、救ってくれることを祈っています」
がらがらと、全てが燃え落ちた場所で――人が、鬼を取り囲む。
枯れ果てた地。死に逝く土地。暮らす民達は、ただ絶望のみを抱いていた。
そこに――鬼が現れた。
鬼は恵みを与えた。無しと言われた水を、美しい紅葉と共に、施すように民に与えた。
その鬼が、今、死に逝こうとしている。
民を失って、家族を失って、己を殺す武具を向ける人間達に囲まれて。
鬼は――笑った。
「――何か、言い残す言葉はあるか?」
「ふっ。面白いことを言いますね。我が民を、我が父母を――そして、我が子を殺めた人間共に、この私が、そう易々と殺されるとでも」
そう言って、鬼はその爪を構える。
もはや何の力もない――残されていた僅かな力も、この地の民としての用心棒での仕事で使い果たしてしまった。
故に、もう人間の小娘に等しい力しか振るえぬ様で――それでも、鬼は笑う。
鬼女紅葉伝説――その幕引きに相応しいように。
あの美しい鬼に相応しい、死に様を演出する為に。
鬼は、美しく、笑う。
「我が名は――
その日、一体の鬼女が、美しくその命を散らした。
そして、その日、一体の鬼女が、醜くその命を長らえたのだ。
「――お前が……『鬼女紅葉』か?」
奇しくも、それも山中での出遭いだった。
長く続いた逃亡生活の果てに辿り着いた御山。
その入口にて、一体の赤鬼が立っていた。
赤鬼は、その鬼女の有様を見て、全てを悟ったように。
「――よくぞ、参った。……今日から、この大江山が、お前の家だ」
今日から、我らが――お前の『家族』だ。
その言葉を聞いて、鬼女は、男の胸に倒れ込むように、ゆっくりと気を失った。
用語解説コーナー㊾
・鬼女紅葉伝説
かつて子宝に恵まれなかった夫婦が第六天魔王に祈願した。
どうか私達に子供を――と。
その甲斐があってか、夫婦の間に女子が生まれた。
女児は生まれつき利発で、美しい琴を弾き、その美貌と共にみるみる評判になっていった。
彼女に想いを寄せる若者は多く、強引に縁組を迫るものもいたが、困っている父に、娘は呪文を唱えて出現させた己に身代わりに嫁がせればよいと言った。
その後、住む場所を変え、名も紅葉と改めた娘は、ある日、娘の琴の音に惹かれた貴族の奥方に自分の侍女にと誘われる。こうして大臣の家に仕えることになった紅葉は、その才智で侍女達を取り仕切る立場となった。
やがて紅葉は大臣の目に止まり、寵愛を受けるようになった。
その頃から急に奥方は病に伏すようになり、やがて奥方の病は紅葉の呪いのせいだという噂が立ち始める。
紅葉は奥方暗殺の嫌疑をかけられ、追い出されることになる。
都を追放すれた紅葉一家は、奥信濃に流されることになったが、彼女の身体には大臣の子が宿っていた。
紅葉一家は信濃国戸隠の奥深くに辿り着く。
そこは一年中山々が赤く染まる紅葉の郷であった。紅葉の美貌や放つ異様な雰囲気に魅了された郷の民達は、彼女達一家に館を献上し、自分達の主として迎え入れた。
やがて大臣の血を引く子が生まれ、成長するにつれて紅葉は、再び都に戻り、大臣に我が子を逢わせてやりたいと願うようになった。
その為の資金を欲したが為に、紅葉は夜な夜な妖術で操った民達を差し向け、近隣の村々に強盗行為を働くようになっていった。
紅葉一党の悪名は徐々に轟いていき、戸隠山には鬼女が住み、村々を襲っていると噂になった。その噂は鬼女が都へ攻め込んでくるという形で都にまで伝わり、朝廷は盗賊退治の命を信濃守であった平維茂に与えた。
維茂は手勢をつれて戸隠に攻め込んだ。
母は娘に自首を進めたが聞き入れずに、父と共に自害して果てた。
紅葉は維茂軍を妖術で迎撃する。
維茂は高名な老僧によって授けられた一振りの短剣を持って彼女へと挑み、紅葉が住まう館を炎上させて、彼女の息子を討ち果たした。
愛しい我が子の死に怒り狂った紅葉は、維茂と壮絶な戦いを繰り広げられるも、短剣を弓に番えて放った維茂の一射により、遂には討ち果たされることになる。
紅葉を失った郷は、まるで血を流すように紅蓮の炎によって赤く染まっていて。
まるで山々が泣くように、何処からか女の泣き声が響き続けたという。
こうして、鬼女紅葉伝説として、とある鬼女の逸話は語り継がれることとなった。