赤き鬼女は、懐かしき過去を回顧して――穏やかに微笑む。
(――あの日から、私は宝のような日々を送った)
それは走る馬の上から眺める灯りのように、一瞬で脳裏を過ぎ去っていく。
(家を――家族を。仲間を――居場所を。多くのものを、与えてもらった。温かい――宝のような日々)
無論、楽しいばかりではなかった。
あの日、お万が言っていたように、とても大きな戦いもあった。
傷ついて、敗れ去って。
四天王などと呼ばれるほどには強くなったけれど、本当に『鬼』という種族の力になれたのか、その自信は余りない――けれど。
(あの日、死に逝く筈だった私に、こんなにも幸福な日々をくれた……。ありがとう、お万。……ありがとう――)
茨木――と、女は最後に、身勝手に自分達を捨てた男を思う。
これ以上なく手痛く敗北し、およそ種族として最大の窮地に陥っている最中に。
部下も、同僚も、女も、そして何より、彼がいなければ何も出来なかった
女は泣きながら、その頬を張り手した。男は、そんな女に――ただ一言、こう言い残したのだ。
『……俺は、お前達を救わない。鬼を、家族を……何もかもを、捨てる。……だから、紅葉――お前にだけは、伝えておく』
そして――男は、捨てる女を抱き締め、その耳元で、最後の呪いを囁いた。
――どうか、酒吞を……頼む。
(……本当に、最低の男)
紅葉は、それでも、そんな馬鹿な恋をすることも出来たのも――悪くはないと、笑って振り返ることが出来る。
(――お万――そして、茨木)
彼女のように、彼のように――自分も誰かを
その生涯に一片たりとも悔いはない。
あの時の、燃え盛る紅葉殿の時とは違う。
「――私は、幸せ者ね」
そして――女は、美しく、笑いながら、怪物になった。
かつて、己の全てを奪った時と同じ、悍ましき姿に。
己の全てを懸けてでも
+++
鬼の頭領・酒吞童子。源氏の棟梁・源頼光。そして、鬼殺し・渡辺綱。
三つの最強が集結した、新土御門邸の広大なる庭園に――新たなる怪物が出現した。
それは、正しく魔の顕現だった。
かろうじて額に角が残っているが、鬼と呼べる残滓はそれだけだ。
両手は鎌が如き刃へと変わり、誰かを抱き締めることは不可能となった。
美しき赤い体皮も失われ、それどころか肌も肉も失われ、もはや骨しか残っていない。
その代わり足は増えていた。尾も増えていた。眼球も二つほど増えて四つになっていた。
更に、巨大になっていた。
その場にいる誰もが――彼女を見上げていた。彼女だったものを。あるいは、彼女の本性、そのものを。
「…………紅……葉?」
誰よりも、信じられないと呟いたのは、彼女の同族だった。
鬼の頭領・
だって、それは、あり得ない。
有り得る筈がなかった――だって、それは、それを、彼女は誰よりも恐れ、拒んでいた。
本来の姿を晒すことを、本来の力を発揮することを――
誰よりも己を――鬼女紅葉という鬼の本性を恐れていた。
故に、あの大江山の鬼退治においても、紅葉はこの姿を解禁していない。
だって、言っていた――この姿に戻ったら、自分はもう、自分を保てる自信がないと。元に戻れる確証がないと。
この本性を知ったあの時も、どうして自分が戻れたのか、自我を取り戻したのか、分からないのだからと。
「…………どう……して――」
呆然と、だが、はっきりと困惑の色を浮かべている鬼の頭領に――変わり果てた紅葉は、襲い掛かった。
「――――!?」
「我を失っているのか……?」
突然の暴挙に、頼光は瞠目し、綱は冷静に分析を始める。
振り降ろされる鎌、それを目前に叩き付けられて尚、微動だにしない酒吞童子に――変わり果てた鬼女は、言葉にせず、思念を伝えた。
《――逃げなさい、酒吞。あの二人は、私が引き付けるから》
「――――!?」
酒吞童子は、再び目を見開き、口に出して問う――「どうして……?」と。
頼光にも、綱にも、部下の突然の乱心と受け止められるであろう、その疑念の声に、紅葉は神通力による念話で応える。
《綱の刀は、もはや鬼殺しの概念の結晶といえるものになってる。あなたでも殺されるかもしれない。だから、ここは逃げなさい》
「……どうして……どうして」
紅葉は鎌を地面から引き抜き、そして――酒吞童子に背を向ける。
その複数の赤眼を、当代最強の妖狩り達――人間の、怪物達に向けて。
《あなたの目的は――あんな奴等じゃないでしょ?》
そう――この子の、この少女鬼は、決して人間を滅ぼそうと企んで、この平安京に乗り込んできたわけではない。
源頼光、渡辺綱――人間の怪物を打倒しようなどと目論んで、こんな戦争をしているわけではない。
彼女が平安京に、この妖怪大戦争に求めたもの――それは、決着と、再会。
ただ一人、己と同類と見なした――少年との決着と。
ただ一体、己を同族と見なしてくれた――右腕との、再会。
こんな悪趣味な庭園に、彼女の求めるものなど存在しない。
そんな場所で、彼女が死の危険と隣り合わせる必要など、ない。
《だから――あなたは行きなさい。あなたは――生きなさい》
酒吞童子は、その念に、その心に――初めて、表情を歪ませ、声を震わせる。
「――どうして!!」
初めて見る、鬼の頭領の感情の発露に、頼光と綱の表情が変わる。
だが、紅葉にとって、それは見慣れたものだった。
誰よりも強く、何よりも恐ろしい妖怪・酒吞童子。
だが、この世界でも恐らくは、自分と、坂田金時、そして――茨木童子しか知らない、等身大の彼女は。
己の感情を御しきれず、その揺れ動きに戸惑いを覚える――幼く、危うく、そして、愛しい、『少女』なのだと。
(私の、愛しい――『妹』――)
その時、酒吞童子の身体を、温かい何かが包み込んだ。
「――――!」
体温ほどに暖められた空気を、酒吞童子の周辺に、操り、停滞させている――種を明かせば、ただそれだけのトリック。
両手が鎌に変わり、もはや、何も抱き締めることの出来ない怪物となった鬼の、苦肉の策による抱擁の再現。
だが――酒吞童子は知っていた。忘れる筈もなかった。
だって、これは――紅葉の温もりだ。
何年間も、ずっと、ずっと傍に居てくれた。『右腕』を失っても、ずっと傍らで、頭を撫でて――抱きしめてくれた。
家族の――『姉』の――温もり。
醜悪なる怪物は、背を向けたまま、彼女を疑似的に抱き締め、言う。
《――貴女が、『妹』のように――『我が子』のように、可愛かった。自分の命よりも、貴方の夢の方が大切になった。だから、私は、ここで死ぬのよ》
酒吞童子はグッと息を吞む。
分かっていた。既に紅葉は致命傷を受けている。
それは変貌しようと、本性を明かそうと何も変わっていない。
鬼女紅葉という存在の核に罅を入れた、渡辺綱の鬼殺しの刀傷は、間もなく紅葉の命の灯火を容赦なく吹き消す。
酒吞童子の荒れ狂う感情が、そのまま大気を乱す。
頼光と綱が再び臨戦態勢に入る中――紅葉は、酒吞童子を包み込んでいた温かい大気を、そのまま上昇気流へと変えた。
少女鬼の小さな身体が、そのまま平安京のどこかへと吹き飛ばされる。
「――――
酒吞童子は、紅葉に向かって手を伸ばす――だが、決して、逆らわなかった。
嫌だと、貴女まで私の傍からいなくなるのと、悲しくて堪らなかったが――我慢した。
酒吞童子の力ならば、このような気流など簡単に吹き飛ばせる。
もっと言えば、たとえどこまで吹き飛ばされようと、結界すら既に存在しないこの平安京ならば、すぐさま戻って来ることも出来た。
だけど――分かったから。
これが紅葉の最後の願いだと――最後の、愛だと、教えてくれたから。
自分を吹き飛ばす、この優しい嵐が――とても、温かったから。
《大丈夫よ――酒吞》
最後に、紅葉が、教えてくれたから。
《あなたの右腕は、あなただけは、裏切ったりしない。例え、他の全てを切り捨てても、あなたのことは見捨てたりしない――アイツは、必ず、あなたの元へと帰ってくる》
だから――生きて。
「―――――――ッッッ!!!!!!」
ただ、流されるままに。
ただ、導かれるがままに。
酒吞童子は、この温かい風に、その身を任せて――平安京の空を飛んだ。
+++
そして、酒吞童子が星のように流れていく様を――二人の妖狩りは黙って見ていた。
いつ横槍が入るか、いつ我が身を盾にしようかと背後の気配を伺っていた紅葉だったが、終ぞ何もしてこなかった彼らに、振り向きながらゆっくりと問うた。
《……随分と優しいのね。黙って見過ごしてくれるだなんて》
「お、これは……なるほど、神通力による念か。お前が神通力を使えることは知っていたが。なるほど、これで酒吞童子と意思疎通していたのだな」
納得したと首を振った綱は、「いや、何――優先度の問題だ」と変貌した紅葉を見上げる。
「お前――間もなく、我を失うだろう?」
《……………》
「これでも数多の妖怪を見てきた。分かるさ。お前は我を失い、ただ力の限り暴れ続ける怪異となる。先程、私が刻み込んだ致命傷がお前を殺すまでな。だが、それまでお前を放っておけば、この平安宮が更地になりかねない被害を生むだろう」
今のお前は、それほどまでに脅威だ――渡辺綱は、鬼殺しの化身は、その鬼を
「故に――下手に手出しをして、酒吞童子をも暴れさせるくらいならば、一旦は逃がした後に、お前を確実に退治した後に捜索する方が無難だと判断した。あの鬼は強大無比だが、誰彼構わず人を襲う鬼ではないし……向かう目的地も、見当がつくからな」
続いて、かつて、その酒吞童子の身体を斬り裂いた実績のある名刀・童子切安綱を引き抜きながら、源頼光はその切っ先を向ける。
当代最強の妖狩り、人間の怪物が二人――真っ直ぐに、その殺意を、紅葉に向ける。
『だが、かといってあんな怪物を長時間野放しには出来ない。故に、早急に終わらせてもらう――
ここが、お前の死に場所だ――と、渡辺綱が言う。
せめて、自我がある内に殺してやる――と、源頼光が言う。
鬼女紅葉は、既に――何も感じない。
ああ、コイツラは、ヤハリアノコを殺すノダ――と、そう思うだけ。
真っ暗な海に落ちていくようだ。分かっていた。最後はきっと、この黒い闇の中で死ぬことになるということは。
後悔はない。
あれほど恐ろしかったのに。何よりも怖かったのに。
今はもう、二度と上がることは出来ないであろう、この冷たい闇の中に沈んでいくことを、受け入れられている自分がいる。
自分は、もう、十分に生きた。
だから、アトハ――。
《――コノ、キジョコウヨウノ、イノチ……ヤスクハナイゾ》
その言葉を最後に、怪物は言語を失った。
ただ叫ぶ。己の内から湧き上がる魔の衝動を放つように。
絶叫し、殺意のままに、その必殺の鎌を振るう。
神通力を全開にし、炎の花を咲かせ、豪風を吹かせ、濁流を迸らせた。
そして――怪物は、怪物によって、その生涯の幕を閉じる。
見るも無残。
あまりに醜悪な死体は、正しく怪物の成れの果て。
しかし、その生涯の鮮烈なる美しさに、鬼切が纏った血を飛沫として振った武士は、敬意を表した。
「――さらば。紅く美しき鬼女よ」
どうか、その暖かい愛の中で、安らかに眠れ。
用語解説コーナー㊿
・鬼女紅葉の本性
第六天魔王によって呪われた鬼子であった紅葉の、その正体は醜悪なる魔の鬼だった。
それはもはや、鬼と呼ぶのも憚られる、死の化身。
肉や皮といったものすら捨て去り、理性や感情といったものをも失い。
ただ、命を刈り取り、死を齎すだけの鎌を振るう――奪った命を咀嚼することすらせず、ただただ死を振り撒き量産するだけの機構。
とある夫婦の歪んだ願いが齎した、魔が差したが故の皮肉な悪戯。
紅き鬼女は、何よりも、そんな己の本性こそを恐れた。
醜悪な己を、残酷な己を――けれど、そんな自分をさらけ出してでも、守護りたいものに出会えたから。
故に――その死体は、どこまでも醜く恐ろしくとも。
その生涯は、きっと、紅く萌える山のように、鮮烈な美しい愛に彩られていた。