比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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初めてだった。本当に――――嬉しかったんだ。


妖怪星人編――51 悲劇の少年

 

 出来心だった。

 あるいは気の迷い――血迷い、だったのかもしれない。

 

 この世界で、たった三体――己と同じルーツの血を流している個体――盤外個体。

 

 内、一体は既に殺され、この世にはいない。

 

 内、一体は完全に異なる立場を、真逆の立ち位置を選択し、決定的に敵対した。

 

 故に、彼女にとっては、その存在だけが全てだった。

 この世で唯一、心の底から信頼出来て、ずっと己の傍に居てくれる存在。

 

 同じ階層に立って、同じ視界を共有し――自分を孤独から救ってくれる存在。

 

 そんな存在が――いなくなった。

 自分の隣から、自分の世界から、いなくなってしまった。

 

 何も言わず、いつだって握ってくれた、自分の伸ばす手に背中を向けて。

 

 ぽっかりと大きな穴が空いたようだった。

 何も得たことのなかった少女は、だからこそ、何かを失うことが初めてだったのだ。

 

 生まれて初めて感じる――喪失感。

 その、圧倒的な空虚に、恐らくは、血迷ってしまった。

 

 何でもいいから埋めたかった。誤魔化したかった。

 そんな感覚を、そんな感情を、少女はきっと理解出来ぬまま、ただ血迷うがままに行動し――その血を、垂らした。

 

 人間を――鬼にする。

 その出自自体は、その方法自体は、決して珍しいものではない。

 

 呪いを持って、妖力をもって、あるいはその――血をもって。

 獣を、他の妖怪を、そして人間を――鬼とする、それ自体は、決して珍しいものではない。

 

 だが、鬼は決して、簡単になろうと思ってなれるものではないし――させようと思って、簡単に出来るものでも、決してない。

 

 妖怪の頂点種――鬼。

 妖力の塊とも称されるその種族は、その特徴でもある莫大なる妖力に耐えられる『器』無しでは、その資格すら与えられない。

 

 他の生物を――鬼にする。

 その為には、その器に強度が、圧倒的な妖力を呑み込む容量が求められる。

 

 ましてや――頂点種の中の頂点、鬼の中でも規格外たる盤外の個体――酒吞童子(しゅてんどうじ)の眷属など、簡単に生まれよう筈がなかった。

 

 だから、これは只の血迷いで終わる筈だったのだ。

 

 たった一滴の血。

 それを死に掛けの人間に垂らした。何をやっているんだと鼻で笑われるような、そんな馬鹿な真似で終わる筈だったのだ。

 

 しかし、それは――奇跡の一滴(ひとしずく)だった。

 あるいは悪魔の、かもしれなかったが。

 

 死に掛けの、何の変哲もない、ただ無力に死に逝く筈だった人間の少年は。

 その血を、本当に美味しそうに、乾ききった喉に染み込ませるように呑み込み――そして。

 

 全身を真っ黒な炎に包まれ、焼かれ、炭となり――そして、その中から。

 

 鬼として――生まれ変わった。

 

 正に奇跡だった。

 その集落にいた、全ての人間の死体に酒吞童子は血を垂らしたが、その全てが黒く燃え尽きたにも関わらず――たった一人、たった一体、その少年だけが、適合した。

 

 否、それは適合というには余りに歪で、醜いまでに不完全だったが――それでも。

 

 彼にとっては正に、神の奇跡が如き潤いだった。

 たった一滴の血で――自分を蘇らせてくれた。

 

 生き返らせてくれた。

 何の力もなかった自分を――最強の鬼へと変えてくれた。

 

 そんな存在を――崇拝せずにいられるだろうか。

 信仰せずにいられるか。この方の為に生きたいと、新たな命を使いたいと、そう思わずにいられるだろうか。

 

 だから――ならなくてはならないのだ。

 

 この方が、空虚なる穴を埋める為に――代わりをお求めになったのならば、全力でその穴を埋めよう。

 

 代替品を求めたのならば、本物以上の、偽物となろう。

 

 茨木童子が必要ならば、茨木童子以上の、茨木童子に。

 

 かの御方が、己が規格外れであると、孤独を覚えているのならば。

 

 酒吞童子(あの御方)以上に――この世界から、外れてみせよう。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 全てが遠くなっていく。

 

 己の身体が『黒』に支配されていくにつれ、深い水底に沈んでいるかのように、全てが遠くなっていく。

 

 その重苦しい世界の中で、微かに――化物の断末魔が、聞こえた気がした。

 

(……逝ったんだね、姉さん。……本当に、最後まで馬鹿な鬼女だった……)

 

 かつて己の頭を撫でてくれた、たった一体の、愚かな鬼女を思い出し――黒くなりたての鬼は、何も映さない瞳に涙を流す。

 

 ハハハハハハハハハハハハハハ――と、壊れたように笑いながら。

 

(ダイジョウブ。さみしくないよ。スグに――ツレていくカらネ)

 

 黒い鬼は、己が頭部から指先を引き抜き、頭から黒い鮮血を噴き出しながら、凄惨な笑みを咲かせて言う。

 

「――――コロス! コロスコロスコロスコロスぅぅぅううううううううう!!!!!! イバラキドウジィィィィィィイイイイイイイイイ!!!!」

 

 狂い叫びながら、黒鬼は一気に距離を詰める。

 

 先程までとは比べ物にならない速さ。

 それに瞠目した巨躯なる赤鬼は、その隻腕を瞬時に盾のように構える。

 

 瞬間、即席の盾に爆発のような衝撃があった。

 

「――――ッ!」

 

 確かに防御は間に合った――だが、殺しきれない。

 弾ける衝撃が、隻腕の鬼の巨体を押す。ズザザザザザッと、轍を引くように、茨木童子に後退を強要した。

 

「…………」

 

 これまで一切のダメージを許さなかった、茨木童子の強靭な体躯に、防御した筈の隻腕に――確かに。

 

「――痺れている! 効いているなぁ! 痛そうだなぁ!! 茨木童子ィィイイイイ!!!」

 

 ハハハハハハハハと哄笑する(あおい)に、茨木童子は隻腕を振りながら返す。

 

「……お前の腕ほどじゃないさ」

 

 爆発かと紛うような衝撃を放った碧の拳――右腕は、なくなっていた。

 正確には、拳を叩き込んだ瞬間に爆散していた。放った拳に、繰り出した攻撃の威力に――碧の身体が耐えきれなかったのだ。

 

 しかし――碧は、尚も笑う。

 

 瞬間、爆散した腕が、何事もなかったかのように――再生したからだ。

 

「――羨ましいですか? あなたと違って、僕は腕を失くすようなことはない」

 

 取り戻した腕を、再生した腕を見せつけるように、碧は両手を開いて、胸を張って、誇るように言う。

 

「この再生力こそが! この黒色の体皮と同じく! この世でただひとり! 僕だけが受け継ぐことの出来た王の異能(ちから)!!! この世でただふたり! 僕とあの御方しか持ち得ない神が如き奇跡!!!」

 

 ぎろりと、血のように真っ赤に染まった眼で、天を見上げながら、茨木童子を見下ろして。

 

 黒鬼は、酔うように、告げる。

 

「僕の中に、あの御方の血が流れている。その何よりの証拠だ」

 

 再び、碧の姿が揺れて消える。

 

 次の瞬間には、碧は高く跳び上がり、右足を弓のようにしならせていた。

 

 そして――振り抜く。

 茨木童子の頭部を的確に狙ったその蹴りは、再びその太い隻腕に防がれたが――茨木童子の巨体は吹き飛ばされ、碧の右足は木っ端微塵に吹き飛んだ。

 

 碧は頭から落ちるのを両手で着地することで避け、そのまま宙返りをするようにして跳び上がり、次の着地時には右足は再生していた。

 

 それを吹き飛びながらもしっかりと観察した茨木童子は、目を細めて――()()()()と、怪訝に思う。

 

(……確かに『再生』は、多くの鬼の中でも酒吞しか持ち得ない異能の一つだ。だが、それは『無限再生』ではあっても『瞬間再生』ではない)

 

 確かに掠り傷程度ならば、酒吞童子はまるで傷など負わなかったかのように瞬く間に再生するが、その再生速度は負傷具合による。

 少なくとも四肢の欠損ほどの大怪我ならば、再生するのに数秒は要した筈だ――あの酒吞童子でさえも。

 

 だが、碧は再生開始までは一秒ほどの時間(タイムラグ)があるものの、再生自体は正に一瞬――『瞬間再生』が如き速度で欠損が修復されている。

 

 酒吞童子(オリジナル)をも越える権能――そんなものが、何の代償もなく実現できる筈がない。

 

 そう茨木童子が思考する最中――再び、目に捉えることすら難しい速度で急接近する碧。

 

「――――!!」

 

 そして、自分の目を潰すかのように放たれる拳を――瞬きもせずに、最小限の挙動で避け、カウンターの拳で黒鬼の胴体を吹き飛ばした、茨木童子は。

 

 何も映っていないかのように、真っ赤に濁った黒鬼の目を見ながら。

 まるで踏み越えてはならない一線を越えようとするものを引き留めるように、残った碧の上半身――その細い子供のような腕を掴んで、告げる。

 

「――死ぬぞ」

 

 瞬間再生。

 たった一秒後に、胸から下を失った筈の身体を修復するという奇跡を体現している黒鬼への言葉に、碧は――凶悪な笑みを浮かべながら、言う。

 

「――死にませんよ。あなたをこの手で殺すまでは」

 

 そう言って、碧はその手を――茨木童子に掴まれていた右腕を、切り落とした。

 

 虚を突かれ硬直する茨木童子に、碧はそのまま、己の手を切り落とした手刀を赤鬼に振るう。

 だが、容易くその手刀は避けられ、一秒後に修復された左拳も避けられる――そして、返す刀でそのまま振るわれた茨木の前蹴りで、再び碧の胴体は木っ端微塵に砕け散った。

 

 だが――黒鬼は諦めない。

 

 何度も、何度でも、赤鬼に向かって拳を振るう。

 例え何度、文字通りの意味で砕け散ろうとも、蹴りを、手刀を、拳を、頭突きを、がむしゃらに、無茶苦茶に、ケラケラ笑いながら振るい続ける。

 

 どれだけやっても届かない。何度やっても上手くいかない。

 

 それはまるで、これまでの彼の命の歴史そのものだった。

 

――『気持ち悪い。なんでこんな奴が大江山にいるんだ』

 

 誰とも異なる鬼は、その(あお)色の体皮を隠すように縮こまっていた。

 

――『大丈夫。あなたは強い子。強くなる子。……誰よりも優しいあなたは、きっと誰よりも強くなるわ』

 

 優しくしてくれたのは、誰よりも優しいあの鬼女だけ。

 

――『気持ち悪い。気持ち悪い。なんだあれは。ダメだろ、あんなの。あんな奴は――鬼じゃねぇよ』

 

 それでも、皆、認めてくれなくて。仲間だと。同族だと、受け容れてくれなくて。

 

 だから頑張って、頑張って――強くなることしか、出来なくて。

 

――『…………………』

 

 自分を救ってくれたあの御方も――自分をこんなにしたあの御方も。

 

 こちらをちらりと見るだけで、何も言ってはくれなかった。

 

――『気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。追い出さなきゃ。排除しなきゃ。――消さなきゃ。あんな奴は――この世にいちゃ、いけない』

 

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 

 僕は――僕は――僕は。

 

 それでも――僕は。

 

――『出て行け! 出て行け! 出て行け! 大江山から出て行け! ここは鬼の居場所だ! お前の居場所じゃない! お前が居ていい場所じゃない! 出て行け――この』

 

 

「――()()()()? ()()

 

 

 茨木童子は、首を掴み上げ――首から下を失った(あおい)という少年に向けて言った。

 

「………………」

 

 肺を失っている為に呼吸も出来ず、言葉も発せず――何も言えず。

 けれど、死ぬことも出来ていない黒鬼は――瞬く間に、まるで何事もなかったかのように修復された身体を、ピクリとも動かすことが出来ずに、ただ、ぶらんと、力無く吊るされていて。

 

 例え、無限に修復されるのだとしても、痛覚がなくなるわけではない。

 その奇跡のような異能を生まれ持ったというわけではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()碧は――砕かれる度に、傷を負う度に、その全身に死んでしまいそうな程の激痛を覚えている。

 

 覚えているのだ――痛みも、苦しみも。

 

 感じるのだ――まるで、人間のように。

 

「お前は――(もろ)過ぎる」

 

 茨木童子は、淡々と言う。

 

 同族に対する――鬼に与えるような慈悲を、まるで込めずに、冷徹に言う。

 

「お前の肉体性能は、余りにも低い。攻撃の度に簡単に砕けるのも、お前の身体が余りにも弱いからだ。その膂力も、身体能力も、運動性能も、無理矢理に妖力で底上げしているものだろう――その酒吞譲りの、莫大なる妖力で」

 

 鬼という妖怪は、妖力の塊である。

 逆に言えば、莫大なる妖力を誇っていれば、それだけで鬼という妖怪である資格があるということ。

 

 種族の象徴である(つの)も、所詮は強大な妖力の証に過ぎない。

 蛇のような形をしている個体や、獣の肉体を有してい個体、空を飛ぶ個体、海を泳ぐ個体、地に潜る個体――この世界には、種々雑多な鬼が存在する。

 

 だが――しかし。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 赤鬼はこの世界の深い場所にある真実を、まるで独り言のように、何も知らない哀れな黒鬼へと漏らす。

 

 黒鬼は、水底で沈んでいるかのように真っ暗な世界で、遠い地上から放たれたような、その言葉を上手く聞き取ることすら出来ない。

 

「生物は誰でも『箱』と『魂』を持っている。その『魂』が妖力を宿してしまうことで変質し、それによって『箱』の形も変わる。人間だった『魂』が幽霊となり、悪霊となるのと同じ原理だ」

 

 人間は死ぬことで『魂』が『箱』から抜け出す――この時の魂だけの状態が『幽霊」だ。

 そして、成仏出来ずに次第に魂が歪み『悪霊』となることで、新たに歪んだ魂に合わせた形の『箱』を得てしまう――その『箱』の形は、奇しくも『妖怪』と呼ばれるそれと同じ。

 

 こうして、『人間』は――『妖怪』となってしまう。

 

 先に『箱』の変形させることで妖力を得て、そこに『魂』を入れて妖怪化するのか。

 先に妖力を得て『魂』を変質させて、その歪んだ中身に合わせた『箱』に入って妖怪化するのか。

 

 辿るプロセスは違えど――結果は同じ。『箱』も、『魂』も、人間のそれから妖怪に相応しいそれへと変化したことで――妖怪は誕生する。

 

 逆に言えば、『箱』と『魂』――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「お前の『箱』は、未だ人間のままだ。酒吞童子由来の莫大なる妖力(なかみ)を得ながら――未だ、お前という『(いれもの)』は、妖怪変化を果たしていない」

 

 それは本来、有り得ざる事態だった。

 人は『箱』の変形を果たすか、『魂』の変質を果たさなければ、妖力を得ることは出来ない。また、妖力を得た場合、そのもう一方も影響を逃れることは出来ずに引き摺られるように変化する。

 

 人間と妖怪の間に生まれた半妖のように、そのどちらの性質も受け継いだ『箱』と『魂』を持って生まれてくるという特殊なパターンもあるが。

 

 人の『箱』か、人の『魂』、そのどちらかを保ったまま、妖力を獲得する――そんなパターンは、世界のバグとしか言えない、不具合でしかない。

 

 何の意味も持たない――ただのエラー、だ。

 

「……恐らくは、酒吞童子の再生力を受け継いでしまったが故の異常か。人の身に余る酒吞の異能は、こうしている今も、お前の『箱』と『魂』を()()()()()()()()()()()()というわけか」

 

 酒吞童子の一滴の血。

 それは死に掛けの少年の『魂』を容易く犯し――変質させた。

 

 そして、酒吞童子の妖力を受け継いだ魂は、そのまま少年の『箱』を妖怪それへと変形させた――が、制御出来る筈もない酒吞童子の妖力が、自動発動させている『再生』の異能を、魂の容れ物である『箱』まで元通りの形に修復させようとしてしまう。

 

 結果、『箱』の変形がいつまでも完成しない――鬼もどきの人間状態が永続してしまっている。

 

「皮肉にも、その現象のお陰で酒吞の妖力に壊されずに済んでいるのだろうがな。酒吞の妖力による再生によって、酒吞の妖力に耐えうる器となっている。……鶏が先が、卵が先か――どちらにせよ、悲劇だな」

 

 そう言って、茨木童子は碧を投げ捨てる。

 

 鬼にはいつまで経ってもなれず、かといって人間にもどこまで行っても戻れない。

 酒吞童子という頂点種の血迷いによって、運命をこれ以上なく歪められた悲劇の少年(イレギュラー)

 

 そんな存在を、茨木童子は一切の表情を変えずに見下ろす。

 

「……例え、そのような理屈を知らずとも、妖怪であれば誰でもお前の歪さは直感で理解する。あるいは人間もな。優しくしてくれたのは紅葉だけ、か。アイツも本能で嫌悪感を覚えていただろうに……やはりアイツこそが――」

 

 茨木童子は、それ以上の言葉を首を振って切り、「――(あおい)、と、そう言ったか、お前の名は」と、尚も告げる。

 

「お前も理解したか。お前が嫌われるのは、受け入れられないのは、その在り方の問題だ。お前と言う生物の――『魂』の、『箱』の、在り方の問題だ。どれだけ強くなろうと無意味だ。お前自身が、お前そのものが、鬼もどきであり人間もどきである、歪な存在であることが原因だ。これから先、どれだけ強くなろうと――新たな『茨木童子』になろうと、新たな『酒吞童子』にすらなれたとしても、未来は何も変わらない。運命はまるで変化しない。今という現実が、そのままの形であるだけだ」

 

 お前は孤独(ひとり)だ――茨木童子は、そう言って、遠くを見る。

 

 茨木童子も、また感じていた。

 例え、どれだけ悍ましい異端でも、家族のように同族を包み込む、愛に溢れた鬼女が――その鮮烈な最期を迎えたことを。

 

「……………」

 

 茨木童子は、ゆっくりと再び視線を下ろす。

 

 唯一、哀れな少年に愛を与えていた鬼女も、もういない。

 

 もう誰も、死に掛けの少年に一滴の血を与えた主君でさえも、このくすんだ黒鬼を顧みることはないだろう。

 

「それでもお前は、健気に戦い続けるのか?」

 

 隻腕の鬼の、地上から放たれたような重い言葉に。

 

 水底で沈んでいるような、深い闇から「――――ハハハ」と。

 

 笑い――そして。

 

 哀れな黒鬼は、再び――立ち上がる。

 

 血のような真っ赤な瞳から何かを流して、その黒い身体を罅割れさせながら。

 

 笑い、噛み締め、言う。

 

「――関係、ないね……ッ」

 

 あれだけ瞬時に回復していた身体も、既に立ち上がろうとするだけで罅割れる有様だった。

 

 ぎし、ギシ――と、致命的な音を鳴らしながら、命に至る損傷を負っていることを示しながら、それでも哀れな少年は、笑い続ける。

 

「……受け入れられるとか……認められるとか……そんなことなんてないって……そんな未来なんかないんだって……分かってたんだよ、そんなことは……ッ。……孤独(ひとり)? ……そんなものは、生まれた時から、そうだったよ」

 

 親の顔など覚えていない。

 物心ついたその時から、ずっと空腹に支配された人生だった。

 

 飢餓と口渇と戦い続ける日々を――終わらせてくれたのは。

 

 蜘蛛の糸のように垂らされた救いを齎してくれたのは、一滴の血だった。

 

「お前には分からない……ッ。僕が欲しくてたまらなかったものを! 全部持ってたくせに!! 簡単に全てを捨てたお前になんか分からないだろう!!!」

 

 本当に、神様だと思えたんだ。

 

 何でもできる強い力。すぐに元通りになる凄い体。

 

――『私はね……『鬼』を救いたいの。昔、私を助けてくれた親友と、そう約束したから』

 

 頭を撫でてくれる存在。

 

――『……あなた……は………『茨木』に……なれ……る?』

 

 何かを――期待してくれた存在。

 

 初めてだった。本当に――――嬉しかったんだ。

 

「だから――僕は戦うんだ!!!」

 

 認められなくていい。受け入れられなくていい。

 

 もう、誰も、見てくれなくっても構わない。

 

「だから!! 僕は!! なるんだよ『茨木童子』に!!! 『鬼の英雄』に!!」

 

 ただ――叶えたいんだ。

 

 欲しくてたまらなかったものを、与えてくれたから。

 

 お返しがしたい。

 願いを叶えてあげたい。

 

 だから――戦うんだ。だから――強くなりたいんだ。

 

 ただ――それだけなんだから。

 

「僕が姉さんの願いを叶える!! 『鬼』を救う! お前が投げ出したことを――僕が成し遂げてみせるんだ!!」

 

 碧は、ボロボロの拳を握り――そして、駆け出す。

 

 先程までのそれとは違い、まるで歩いているかのように遅い駆け出しで。

 

 それでも、これまでに与えられた全てを込めて――その全てを捨てた、この世で最も憎い相手へ。

 

 全てを受け止めると、そう言った男へ向けて。

 

 茨木童子は、静かに――目を瞑り。

 

「僕が母さんを解放する!! 母さんの空虚を、僕がなくしてみせる!! 母さんを超える鬼になって――僕が代わりに全てを背負うんだ!!」

 

 瞬間再生の副作用――身に余る力に身を委ねた末路。

 目の前の黒鬼の、その寿命が風前の灯火であることは明白だった。

 

「酒吞童子を救うのは――この」

 

 僕だぁぁぁぁああアアアアアアアアア!!!!! ――哀れな黒い鬼の、その最後の慟哭を。

 

「――――」

 

 隻腕の鬼は、塞き止めた――たった一発の、その大きな拳で。

 




用語解説コーナー51

(あおい)

 本名不明。

 平安京の外の世界ではありふれた、限界集落から零れ落ちた少年。

 両親は彼が物心が付く前に死亡しており、自分自身もどうやって生き延びたのか覚えていないような幼少時代を送る。

 彼の人間時代の記憶を統べるのは、四六時中彼を支配していた飢えであり、渇きだった。

 人が住んでいる集落を見つけては、黴の生えた食糧を盗み、時には見つかって袋叩きにされるといった日々を送る中で――彼が求めたのは、ただひたすらに、温もりだった。

 その日も、彼は詳細をまるで覚えていない。

 立ち寄った集落を襲った妖怪に殺されたのか、あるいは、遂に戦い続けてきた飢餓感に敗北したのか。

 ただ、遂に訪れた限界に、それと気付かずに身を委ねようとしたときに。

 垂らされた――その一滴の血で、彼という少年の物語は始まる。

 それを、他者は悲劇だというかもしれない。

 世界から外れる血。この世界で、誰とも異なる歪な化物にされた――悲劇の少年だと。

 だが、彼はそれを鼻で笑うだろう。

 そして、胸を張って、こう言うのだ。

 僕は――この世で、誰よりも幸福な生命だと。

 だって、僕は、ずっと欲しかったものを、与えられたのだから。
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