比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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――許さない。


妖怪星人編――52 奪われた右腕

 

 十年前――大江山、頂上。

 

 人間と鬼、双方に夥しい犠牲を出し、山が血で赤く染まる程の激戦となった鬼退治。

 

 その最終局面――最終決戦。

 

 頂上で刃を交わすは、二人と二体の規格外。

 神秘殺し――源頼光(みなもとのらいこう)

 鬼殺し――渡辺綱(わたなべのつな)

 

 妖怪王の器――酒吞童子(しゅてんどうじ)

 王の右腕――茨木童子(いばらきどうじ)

 

 既に鬼女紅葉、坂田金時、そして頼光の弟たる名もなき少年は、立ち上がることすら出来ずに戦闘不能となっていて、二体の鬼と二人の武者の頂上決戦を、ただ呆然と眺めていることしか出来なかった。

 

 大江山そのものを崩壊させるのではないかと思われるほど、人智を超越し、世界を揺るがすかのような激戦が続いたが――その均衡は、遂に崩れることになる。

 

 無限に再生する鬼――酒吞童子を、その童子切安綱で幾度となく追い詰めるも、遂にその命を刈り取るには至らず、消耗から逃れられない人の身である男は、その爪から永劫に逃れることは出来なかった。

 

 源頼光。

 当代最強の神秘殺しと謳われた妖怪の天敵は、妖怪王の器たる鬼の魔の手によって、その身体と生命を貫かれることになる。

 

 渡辺綱が、坂田金時が、名も無き少年が、その光景に、その現実に絶句し――最強の英雄集団に、確かな絶望が影を落としかけた、その瞬間だった。

 

 

――『―――ふむ。やはり、ここまでのようですね』

 

 

 唐突に、虚空の穴から現れたのは、陽光のように純白の陰陽師だった。

 

 ここまで影も形も見せなかった、源頼光と双璧をなす妖怪の天敵である男・安倍晴明(あべのせいめい)が、源頼光の落命の瞬間、突如として現れ――そして。

 

 所持していた(さかずき)を振るい、中に満たされていた液体を、大江山の頂上に、最終決戦場に振り撒いた。

 

 途端、充満するは――酒の匂い。

 

 まさかと思った茨木童子がそれを止めようとするが、それよりも先に――異変が起きた。

 

 ふらりと、頼光に(とど)めをさした酒吞童子の小さな体が、ふらりと傾き――倒れだしたのだ。

 

「――酒吞!」

 

 茨木童子が瞬時に駆け寄り、抱きかかえた酒吞童子は――眠っていた。

 

 否――()()()()()()()

 

 ついでとばかりに、投げ捨てた杯に次いでどこからか取り出した瓢箪の中身――眩むように強い酒を、どぽどぽと大江山に注ぎながら、晴明は言う。

 

「――『神便鬼毒(しんべんきどく)』。この戦いに備えて、頼光殿が八幡大菩薩から戴いた呪酒です。少々効果を強める儀式が必要であった為、我が身はこうして遅ればせながら馳せ参じることになってしまいましたが――」

 

 結果――間に合った。否、間に合わなかったのかもしれない。

 

 人間側は源頼光という代えの利かない大戦力を失ってしまった。しかし、その甲斐あって、鬼側もこうして酒吞童子という最大戦力を眠らされてしまうことになった。

 

 残存戦力数としては互角――否。

 こうして安倍晴明が現れた以上、趨勢は人間側に傾いたといってもいい。

 

「……綱様。今ならば、『鬼』を完全に退治できますか?」

 

 晴明の言葉に、身動きの取れない紅葉、そして酒吞童子を抱える茨木童子の身体が硬直する。

 

 酒吞童子。

 その名の通り、酒を呑む童子。

 

 酒吞童子の唯一の弱点――というよりは、これもかの鬼の特性の一つだ。

 かの鬼は、吞み干した酒によって力を増すことも、全く異なる性質の力を振るう可能となる。

 極上の良酒を摂取すればその法外な力を更に増すことも出来るが、此度のように、その酒の力に影響を受けるという点を逆手に取られて、身動きを封じることも理論上は可能であった――が。

 

「既にまともに動ける鬼は茨木のみ。――ならば、某は必ずや勝利してみせましょう」

 

 何かを押し殺したように、冷たい殺意を以て『鬼』を睨み付ける綱。

 

 庇うように酒吞童子を抱く茨木童子――だが、綱は、その刀を握る力を震わせながら「……ですが――」と、晴明に問う。

 

「……酔い潰れている酒吞童子は――殺すことは出来るのですか?」

 

 綱の言葉に、晴明は――首を振る。

 

「明日の朝まで目を覚ますことはないことは保証します。――しかし、『神便鬼毒』は、酒吞童子を酔わすことは出来ても、その異能を封じ込めるほどには至ることは出来ません。八幡大菩薩から施された呪酒を、儀式で強化しながらもそこまでしか至ることが出来なかった。私の――力不足です」

 

 綱は「……そうですか」と、名刀・髭切を震わせながらも、その切っ先を、ゆっくりと下ろす。

 

「――我等も、力不足です。……今の俺には、酒吞童子は……殺せない……ッ」

 

 鬼を、退治しきることは、叶わない――そう、血を吐くように言う綱に、今度は晴明が「……そうですか」と瞑目しながら頷き。

 

 そして――茨木童子と向き直る。

 

「――『鬼』よ。今宵は、ここまでと致しませんか?」

 

 晴明の言葉に、紅葉が目を剥き、そして茨木童子は目を細める。

 

「……どういう意味だ?」

「言葉通りの意味です。停戦の提言、といったところでしょうか?」

 

 晴明は瓢箪も放り投げて、薄い笑みを持って茨木童子に言う。

 

「我々は酒吞童子を退治することが出来ない。けれど、あなた方も酒吞童子無しでは我々に勝てない。これ以上続けるならば泥沼です。ここらが落とし所といったところでしょう」

 

 それとも――と、晴明は、手を差し伸べながら言う。

 

「朝まで殺し合いますか? 酒吞童子が酔いを醒まして目覚めるまで――その頃には、大江山に生き残っている鬼は、酒吞童子だけとなっているかもしれませんがね」

「…………」

 

 茨木童子は、酒吞童子を動けない鬼女紅葉の元へと運ぶ。

 

「……茨木」

「…………」

 

 心配そうに見上げる紅葉の頭を撫で、穏やかに眠りこける酒吞童子を見遣りながら、茨木童子は単身で、安倍晴明と渡辺綱の元へと歩み寄る。

 

「それはつまり、今宵、我々『鬼』を見逃してくれると、そう言っているのか?」

「確かに、我々は一晩であなた方を絶滅させることは可能。しかし、そうなれば酒吞童子は間違いなく、単身で平安京へと乗り込んでくるでしょう。その鬼を退治する術が我々にない以上、その末路こそ避けるべき最悪の事態です。だからこその手打ち――だからこその、停戦です」

 

 どうですか、『鬼』の英雄よ――と、晴明は茨木童子に問う。

 

 茨木童子は一度瞑目し、そして開眼して――問いに問いを返すように、安倍晴明に問うた。

 

「――条件は、何だ?」

 

 人間にとっては、勝てる筈の(いくさ)だ。

 被害の差も尋常ではない。『鬼』は――完膚なきまでに、負けたのだ。

 

 それでも、絶滅はさせず、停戦を提言する――無論、タダではないだろうということは、餓鬼ではなくとも理解出来ることだ。

 

 敗者には、払うべき代償がある筈だ。

 

 潔いと、晴明が頷くと――渡辺綱が、切っ先を下げていた、その名刀を振り上げた。

 

「即時報復を防ぐ為――妖怪王の右腕たる、『茨木童子(あなた)』の『右腕』を頂戴したい」

 

 茨木童子は、酒吞童子ではない。

 負った大傷が癒えることはなく――失った腕が、自然に再生することはない。

 

 これまで数多の人間を、怪物を、薙ぎ払ってきた大鬼の腕を。

 

「――――欲しければ、持っていけ。これで守れるのならば、安いものだ」

 

 規格を外れた武将の刀は、一太刀でそれを薙ぎ切り、宙へ飛ばした。

 

 こうして、末永く語り継がれることになる妖怪退治――『大江山の鬼退治』は、こうして幕を閉じたのであった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、その翌日の夜――平安京・羅生門(らしょうもん)前にて。

 

 安倍晴明と渡辺綱――そして、隻腕となった茨木童子は対面していた。

 

「よく来てくれました。茨木童子殿」

 

 単身で人間達の本拠地へと赴いた茨木童子を、晴明はそう笑顔で迎える。

 

「戦争の火消しは済みましたか?」

「……簡単に言ってくれる」

 

 昨夜――大江山山頂での頂上決戦時にて。

 戦争の決着の瞬間、秘密裏に、彼等は晴明の蒼い燕によって打ち合わせていた。

 

 渡辺綱が、茨木童子の腕を斬り落とす――瞬間、茨木童子の残される左手にそっと文を握らせて、待ち合わせの約束を交わしていた。

 

 こうして戦争の事後処理を行う為の、各勢力の首脳会談を開く為に。

 

「……腕のことは随分と険しい顔で問い詰められたが、一応の納得はさせた。……そもそも、酒吞は下界のことなどまるで眼中にない。誰かさんが攻めてこなければ、そもそも山を下りるなんて発想すら持たなかったんだ。人間だの、天下だの。酒吞童子は、まるで興味すらないのだから」

 

 ()()()()()()()()()()()()()――と、茨木童子は言い掛けたが、そこまでは言葉にせずに口を閉じた。

 

 此度の戦争においても、あの両者の間には何かがあり、更にその因縁が深まってしまったようだが――それでも。

 

 茨木童子は、頂上決戦の戦場にて、未だその戦場に足を踏み入れることを許されず、ただ這いつくばって眺めることしか出来ない金時を酒吞童子は――ちらりと、僅かに、けれど確かに見遣った、酒吞童子の表情を思い出して。

 

「…………」

 

 茨木童子は、己の喉まで競り上がってきた何かと共に、強く唇を噛み締め、その先の言葉をを呑み下す。

 

 晴明は、そんな茨木に何もかもを見透かしたような目を注ぎながら、ただ口元だけに笑みを浮かべて言う。

 

「それは申し訳ない。けれど、こちらとしても妖怪勢力を纏め上げる妖怪王を、今の段階で誕生させるわけにはいかなかった」

 

 だから、大江山に攻め込まないという選択肢は――『人間』にはなかったのだと、そう飄々と嘯く。

 

 例え、どれだけ相手から、そちらに興味なんてないですよと言われても。

 将来的に自分達を滅ぼせる恐れのある脅威に成長するであろう怪物が、そう遠くない場所にある御山で健やかに暮らしていると知ったなら――黙って見過ごすなんてことは出来ないと。

 

 だが――。

 

「しかし、酒吞童子はこちらの想定を超えて、遥かに強かった――強過ぎた。源頼光殿を失った以上、もう一度大江山に攻め込んでも、望む戦果を挙げることは叶わないことは想像に難くない」

 

 そうなれば――待っているのは、凄惨な泥沼だ。

 安倍晴明ら『人間』は、妖怪王の器たる酒吞童子の存在を許容できない。

 茨木童子ら『鬼』は、平穏に暮らしたいと望むならば攻め込んでくる人間を滅ぼすしかないが、此度の戦いにおいて真正面から戦っても人間には勝てないことが証明されてしまった。

 

 互いに望む結果が得られない、この状況。

 

 ならば――。

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 その晴明の言葉に、呼応するように――渡辺綱は、鞘から引き抜いたその名刀の切っ先を、隻腕の鬼へと向ける。

 

「…………」

 

 当然、想定はしていた。

 ここは昨夜の大江山とは違う。自陣ではなく、紛れもなく敵地――平安京。

 

 目の前の大陰陽師・安倍晴明の結界に囲まれた、人間達の都。

 ここに足を踏み入れた、その時点で。妖怪である自分は、まるで鉛を背負っているかのような重圧に常に襲われている――妖怪にとっての死地。

 

 平安京を集合場所にされた時点で、単独(たったひとり)で来いと、そう指定された時点で――こんな未来は想定していた。

 

 だが、想定はすれど、覚悟はしていなかった。

 ならば――目の前の陰陽師が、そんな馬鹿な真似をする筈がないと、確信していたからだ。

 

 だからこそ、自分は、敵地であり死地に、こうしてのこのことやってきたのだから。

 

「――正解です。やはりアナタは優秀だ」

 

 だからこそ欲しい――と、晴明は言う。

 浮かべた笑みを揺るがすことなく、妖怪の天敵たる『人間』は、何の武器も持たずに、妖怪の死地たる魔都へと乗り込んできた鬼に向かって言う。

 

 これは脅迫ではなく――勧誘だと。

 

「私の式神(モノ)になりませんか? 茨木童子(いばらきどうじ)

 

 アナタを、我が十二神将として迎え入れたい――そう、真っ黒に笑う、純白の陰陽師は言った。

 

 その妄言に、これまで威風堂々たる姿を崩さなかった――鬼の英雄が慄く。

 

「――お前の……安倍晴明の、式神になれ、だと……ッ!?」

 

 馬鹿なと、そう吐き捨てた茨木に、晴明は差し出した手を下ろさずに言う。

 

「何も馬鹿なことは言っていませんよ。先程に述べた通り――どちらも望まない結末です。茨木童子(アナタ)は、安倍晴明(人間)の式神になるというこの上ない屈辱を受けることになる。その代わり――人間は、酒吞童子の討伐を、()()()

 

 ウインウインであり、ルーズルーズである落し所です――晴明の意味の分からない言葉に、茨木は混乱しながらも、必死にその提案の意味を嚙み砕く。

 

 これは脅迫ではなく勧誘だと、晴明は言った。

 否、これは勧誘という名の脅迫だと、茨木童子は理解する。

 

「我々も、何も憎くて酒吞童子を殺すことに躍起になっているわけではありません。ただ、彼女が怖いから。彼女が妖怪王の器であるから、我々は何としても、かの鬼を退治しなくてはならないと、強迫観念に駆られているのです」

 

 だがしかし――ここで一つの朗報がある、と、晴明は笑う。

 

 酒吞童子が妖怪王になる。

 その禍々しい未来予想図が実現するには、ある外せない前提条件が――(キーパーソン)となる、右腕が存在すると、晴明は微笑む。

 

 真っ黒に、おどろおどろしく――人間のように、恐ろしく。

 

「それが、アナタです――茨木童子」

 

 茨木童子(アナタ)が傍にいなければ、酒吞童子(あのこども)()()()()()()()()()――そう、断言する、『人間』に。

 

「………………」

 

 妖怪王の右腕となる筈だった赤鬼――茨木童子は、何も言い返すことが出来なかった。

 

 それは見事に、真理を突いていたからだ。

 

「……………………ッッ!!』

 

 何故なら、酒吞童子を、そんな風にしてしまったのは。

 

 他でもない――茨木童子自身なのだから。

 

「…………だが、そこまで分かっているなら――酒吞から……そんな酒吞から……茨木童子(オレ)を引き離すということが、どういう意味を持っているのか――」

「だからこそ、昨夜の大江山で鬼女紅葉を狩り残したのではないですか。愛の鬼である彼女ならば、酒吞童子の宥め役くらいは務まるでしょう。それに――」

 

 あなたは、これから一度だけ、大江山に戻ります。

 

 その時、彼女達に、こう愛を持って囁けばいい――と、晴明は。

 

 息を吞む程に綺麗な、とても美しい顔で、地に這いつくばる虫を踏み潰すように言う。

 

()()()()()()()()()()――と」

「――――ッッ!!?」

茨木童子(アナタ)が、そう一言だけ言い残すだけで、酒吞童子は、鬼女紅葉は、いつまでもずっと、アナタのことを待っているでしょう」

 

 そんな『人間』に、茨木童子は――遂に。

 

 目の前の悍ましき『怪物』に、恐怖に満ちた目を向けながら――問う。

 

「……お前は、一体、どこまで――知っているんだ……ッ!?」

 

 晴明は――その、美しい笑みを。

 

 どこまでも美しく、仮面のように崩れない、そんな笑みのまま。

 

 残酷に、冷酷に――告げる。

 

「――残念ながら……アナタに、選択肢はない」

 

 瞬間――これまでずっと、まるで銃口を向けるように、切っ先を向け続けていた、渡辺綱が掲げる、名刀・髭切が。

 

 赤炎を纏い――発火した。

 

 その炎を見た瞬間、茨木童子の――『魂』が、震える。

 

「――――ッッ!!?」

()()()()――かつて、かの鈴鹿御前に傷を負わせたといわれる名刀・髭切に、百の鬼の血を吸わせたことで、鬼殺しの『呪』を獲得することに至った、我々『人間』の新たなる切札です。昨夜、『鬼』の纏め役であり英雄――『鬼』の象徴である『茨木童子』の『右腕』を切断することで、『赤炎』の『覚醒』に至りました」

 

 茨木童子が差し出した右腕によって完成した――鬼を(ころ)す刀。

 

「……………ッッッ!!!」

 

 隻腕の鬼は理解した――この上なく、理解させられた。

 

 昨夜、自分が失った右腕。

 燃えるように熱い幻痛が迸る、右肩口を押さえながら、冷や汗を流し、唇を噛み締める。

 

 分かる――あれは、鬼を殲す刀、鬼という存在を滅ぼす概念が象られた炎。

 

 無限の再生力を持つ妖怪王の器たる鬼の頭領――酒吞童子を、退治(ころ)し得る呪具だ。

 

(……全て、この『人間』の掌の上だったというわけか……ッッ)

 

 夥しい数の犠牲を――『人間』にも、『鬼』にも、払うことになった、昨夜の『大江山の鬼退治』も。

 

 全ては、この『妖刀・鬼切』と、『茨木童子』を手に入れる為だけの演目。

 

「君に選択肢はない。その上で問おう、茨木童子」

 

 安倍晴明が、その全てを操る掌を向けながら、俯く隻腕の鬼に問う。

 

「貴殿の、守りたいものとは――何だ?」

 

 守りたいもの――その言葉が、絶望に染められて上手く働かない脳内を駆け巡る。

 

 失った右腕を押さえる手に力が入る。

 

 守りたいもの――茨木童子という鬼が、右腕を差し出してでも、守りたかったもの。

 

「鬼という最強種族を統一し、大江山に集結させた英雄――茨木童子は、何の為に、その失った右腕を、これまで振るい続けてきた?」

 

 何の為に、お前は戦い続けてきた――そう問う晴明の言葉に、茨木童子は。

 

(……全てが、この男の掌の上だった。……我々は――俺は、負けた。……状況は絶望的だ。……それでも――俺が、守りたいものは――守らなくては、ならないものは)

 

 残された腕は、たった一本。

 何もかも守れるような立場では、もうない。

 

 掴めるものは――もう、たった一つだけ。

 

「……頼みが、ある」

 

 条件と、そう言えるような立場ではないことは理解していた。

 

 だからこそ、頼みと、そう言った茨木童子に、晴明は「聞こう」と、間髪入れずに答えた。

 

 ありがたいと、茨木童子はそう言って。

 

 幻痛を――己を苛み続ける幻の痛みを受け入れたように。

 

 右肩口から――守ることが出来なかったものから、手を離して。

 

「――酒吞童子(あの子)を、殺さないでくれ」

 

 片膝を、残された左拳を、地に着き。

 

 首を垂れて――茨木童子は、目の前の『人間』に、配下の礼を取り、切に願う。

 

「……なるほど。確かに、酒吞童子の命に届き得る武器を手に入れたとはいえ、未だ酒吞童子の規格外の強さは健在です。こちらも頼光殿を失った以上、命の取り合いとなると、どれだけの犠牲が出るかも計算できない」

 

 確かに酒吞童子を退治することの出来る手段は手に入れた――だが、これはあくまで、立場が互角になったに過ぎない。

 酒吞童子の小さな手は、当然、こちらの全ての人間の命に当然のように届き得るのだから。

 

 最悪の結果として、酒吞童子は殺せても平安京は滅びました、といった事態すら十分に考えられる。そうなれば本末転倒もいい所だ。

 

 故に――茨木童子は。

 平身低頭の姿勢のまま――血を吐くように、その提言を、晴明に捧げる。

 

「……安倍晴明。アナタは、かつて、あの魔人を坂東の地に封印したと聞いた」

 

 人間が、酒吞童子という脅威を野放しにすることは、決して認めないだろう。

 

 ならば――かつて、魔人と言う脅威を、封印と言う形で対処したように。

 

「――やはり、あなたは優秀だ」

 

 心強いですよ、我が式神――と、晴明はそう言って、茨木童子に術式を施す。

 

 淡い光を放つ燕が晴明の術符から飛び出し、それは茨木童子の首に溶け込んで――赤鬼を縛る青き首輪となり、消えた。

 

「よろしい。こちらとしても望む所です。()()()()()()()が育つまで、大江山には手出しをしない上――酒吞童子に対しては、討伐ではなく封印を第一選択とすることを、ここに約束しましょう」

 

 それでよいですか、綱殿――と、晴明は隣に立ち、鬼殺しの赤炎を放ち続ける渡辺綱に問う。

 

 茨木童子は冷汗を流しながら、こちらを凍えるような眼差しで見据え続ける綱を見上げたが――綱は、ゆっくりと、その炎刀を、鞘に向ける。

 

「――酒吞童子は、我が主の仇だ」

 

 だが、この身は未熟なれば――と、淡々と冷たく、己を呪うように呟く。

 

「……今の俺の技量では、例え奴の命に届く刃を手に入れても、確実に殺せると断言することが出来ない。……それに、俺は――アイツに託された青葉がいる」

 

 それを守り切らなくては、それこそ不忠というものだ――と、チャキンと音を立てて、その刃を仕舞った。

 

「――都の守護を仕る、源家の臨時名代として、陰陽頭(おんみょうのかみ)の意向に従いましょう。……時が来るまで、大江山に手出しはしないことを誓います」

 

 言葉とは裏腹に、未だ殺意が薄れない眼光を持って、茨木童子を――鬼を睨む、鬼殺しに。

 

 茨木童子は、その赤炎が鞘の中に納まるのを見て――感じて、ようやく己が呼吸を思い出したことを悟った。

 

 鬼殺しの赤炎――妖刀・鬼切。

 あの炎に、自分が完全に、心折られていたことを痛感させられた。

 

 自分が――戦わずして、敗けていたのだと、そう思い知らされた。

 

(――――俺は――――ッ)

 

 大江山の鬼退治。

 その、歴史には語られない、本当の終焉。

 

 深夜の羅生門にて行われた首脳会談は、こうしてひっそりと幕を閉じた。

 

 この後の夜明け前に、茨木童子はもう一度だけ大江山へと上り、酒吞童子と鬼女紅葉に、それぞれ一言ずつだけを言い捨て、そのまま浴びせかけられる涙と悲鳴に背を向けて、二度と向き合うことはなかった。

 

 

 そして――その後。

 安倍晴明の唯一空席であった十二神将『勾陳』の座に、新たに隻腕の鬼が加わり、僅か十年間で目覚ましい功績を数々と積み上げることになる。

 

 

 かつて、鬼の英雄といわれた赤鬼がいた。

 それは無類の強さを誇りながらも、欲望のままに暴れ狂う、手が付けられない最強種といわれた鬼という妖怪種族を、その腕っぷしで纏め上げて、大江山へと集めるという偉業を成し遂げた戦士だった。

 

 

 だが――そんな鬼は、もうこの世の何処にも存在しない。

 

 

(……俺は負けた。俺は折れた。俺は潰えた。……もう、俺には、『鬼』を守るなんて大言は、救うなんて妄言は、口が裂けても宣うことは許されない)

 

 何も考えていなかった。

 ただ、楽しく過ごせればそれでよかった。

 

 だから大江山に皆を集めて――家族を作った。

 

 しかしそれは、人間達からすれば恐ろしき勢力でしかなくて――脅威でしかなくて。

 

 故に、きっと『鬼』は――『茨木童子』は、間違えたのだ。

 

(――それでも、俺は)

 

 例え、英雄じゃなくても。例え、みっともない敗北者でも。

 

 かつて、取り返しのつかない間違いを犯した身だとしても。

 

(それでも俺には、まだ一本――腕が残っている)

 

 まだ、掴めるものがある。

 

 手放せない――ものがある。

 

 だから――まだ。

「俺は――まだ――」

 

 拳を――握れる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 拳が――貫いた。

 

「ご――――ふぉ――――」

 

 ボロボロに崩れ始めていた黒鬼の身体が、木端微塵に吹き飛んでいく。

 

 無表情で、けれど――強く、強く握られた拳は。

 

 かつて自分が捨てたものを、守ることは出来ないと手を離したものを――『鬼』を救うと、そう叫んでいた後輩を打ち抜いた。

 

「――ああ。俺はもう、お前ら『鬼』を救えない」

 

 それでも――例え、誰が相手だろうと、これだけは――譲れない。

 

 だから――茨木童子は、高く拳を、握り続けながら言う。

 

「酒吞童子を――救うのは、この俺だ」

 

 大事なものから背を向けた逃亡者に。

 何もかもを打ち砕かれ、打ちひしがれた敗北者に。

 

 残された、たった一つの、この拳を――握り続けると。

 決して手放さないと――誓ったのだ。

 

 例え――どんな怪物を、敵に回すことになろうとも。

 

「……………全く、お似合いですね」

 

 そう、小さく呟いた黒鬼は――再生しない胴体を捨て、その残された首だけで、隻腕の鬼の首筋へと噛付いた。

 

 身の丈に合わぬ力で身を滅ぼした、哀れなる悲劇の少年は、己から消えゆく一滴の血を、精一杯に振り絞って、何も言わず、ただ噛み締める力で――こう、言い遺した。

 

 

――許さない。

 

 

 それは、これまでのことでもあったし、これからのことでもあっただろう。

 

 それは、とある愛の鬼女へのことでもあったし、とある孤独なる少女鬼のことでもあっただろう。

 

 それは、彼によって運命を歪められた、哀れな少年鬼のことでもあったのかもしれない。

 

 だからこそ――許さないと。

 

 そう、精一杯の――呪いを掛けた。

 

「――ああ。俺は、その全てを受け入れる」

 

 隻腕の赤鬼は、剥き出しの首を晒して、それを受け止めた。

 

 兜を重ね着るように――彼は、最早、何の言い訳も重ねることは許されない。

 

 許さない――と、そう言われた。

 黒灰となって消えていく鬼の牙の痕は、彼の首筋に消えることなく刻み込まれる。

 

 全てが黒く燃え尽きた、黒炎上の跡地で。

 

 赤い隻腕の鬼は、ただ――唯一残された、大切なものを握り締める。

 

「酒吞……お前を救って見せる」

 

 それが、茨木童子に許された、最後の戦争だと。

 

 鬼は、ただ左拳を、静かに、強く、握り締め続ける。

 

 あの日から――ずっと。

 

 これからも――ずっと、ずっと。

 




用語解説コーナー52

・首輪

 茨木童子の首輪は、安倍晴明との式神契約――主従契約を分かり易く可視化しているに過ぎない。

 主人に対しての敵対行為を制限する、式神たる茨木の位置の居場所を把握するなどという最低限の拘束効果はあるが、命令に違反すると爆発したり首が絞まったりといった効果はなく、基本的には只の首輪である。

 茨木童子に対して屈辱を与えるのが目的なだけの、はっきりいえば性格の悪い安倍晴明が、茨木が嫌がることがしたいというだけの個人的な趣味によるもの。

 本当は鎖も付けたかったらしいが、普通に仕事する上で邪魔ですと羽衣に怒られてやめたという経緯がある。
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