平安京――上空。
神秘的な青き龍が泳ぐ――その傍らで。
黒き両翼を背に生やした赤面長鼻の山伏と、
鞍馬の名を継承せし天狗は、その軍配団扇を縦横無尽に振るい、鍛え上げた神通力を持って念による不可視の空間の歪みを作り出し、遂には局所的に嵐すらも作り出した――が。
大犬は、空間をまるで跳躍するように高速に移動し、その全てを掻い潜り――遂には。
「――――ッ!!」
その妖力を込めた一発の咆哮で、天狗が作り出した神通力の歪みを、全て掻き消し、吹き飛ばした。
「――――くッ!」
天狗の表情が歪む。
これまで若き妖怪の卵達を単独で相手にし、河童と雪女の合わせ技による長距離砲台と相対したが――そのどちらも、鞍馬にとっては厄介でこそあれ、脅威ではなかった。
若き妖怪達は勿論、あの河童と雪女も、油断できない相手だと察しはしたが、一対一、いや二対一でも勝利する自信はあった。
しかし――この大犬は、違う。
一対一で、こうして真正面からぶつかり合って、分かる。
日ノ本有数の霊山である鞍馬山、かつて鬼と日ノ本を二分する立ち位置にまで上り詰めた妖怪種族・『天狗』の総本山である鞍馬寺で修練を積み――最強の天狗として鞍馬の名を受け継いだ、この自分よりも――。
この大犬は、同等――あるいはそれ以上に、強大な妖怪だと。
「ちぃ――ッ!」
遂に、鞍馬が巻き起こした嵐の中を走破して、自身に肉薄してきた大犬に。
鞍馬は軍配団扇を振るい突風を巻き起こし、神通力による盾を併用しながら、その突進を受け止める。
それでも――己が間近に迫った獣の牙に、鞍馬は一筋の冷たい汗を流しながら――問う。
「これだけの力――貴様もかつては名のある妖怪……同胞種族を率いる長であったのだろう」
「……………」
天狗の問いに、大犬は言葉ではなく――至近距離から放つ、咆哮で応える。
「――――ぐっ、!?」
それに堪え切れずに風は押し返され、盾は砕かれ――大天狗の巨体は宙に投げ飛ばされるが。
しかし、そこは翼を持つモノ、すぐさまに体勢を立て直し、大犬を見下ろす高度から、鞍馬は再び問いかける。
「何故、お主ほどの妖怪が、奴のような無名な妖怪に仕えるのだ? お主を慕う同族もいただろう。お主を頼る同胞もいただろう。……それらを捨て、見捨てて――何故、お主は、奴の配下となることを選んだのだ!?」
天狗の、怒りすら滲んだその問いに、大犬は「……細かいことを言わせてもらえれば、私は奴の配下ではないのだが」と前置きながら、真っ直ぐに見上げて、その問いに――問いを返した。
「鞍馬天狗よ。その団扇が――重くなったのはいつからだ?」
己が真下から。
獣が、まるで突き刺すように、真っ直ぐに見上げながら、放った言葉に。
誰よりも自由に飛べる筈の天狗に、地に縛られることなく天すら翔ける獣が――突き付けた、言葉に。
「な――」
鞍馬は、己の呼吸が一瞬途切れたことにこそ――何よりも強い衝撃を受けた。
大犬は――尚も天狗に問いを重ねる。
「その肩が、その翼が、重くなったのはいつからだ?」
空ではなく地を、上ではなく下を、向くようになったのはいつからだ? ――と。
今まさに、逃げるように
怯えるように――見下ろしている、天狗に。
刑部は、心臓を突き刺すように――問う。
「
「――ッ! 黙れ――!!」
それ以上、言わせてはならないと。
天狗は軍配団扇を大きく振るい、風の大波を繰り出す――が、刑部はその苦し紛れの風を、ただ一発の咆哮で押し返した。
己の怯える心が、そのまま突き返され――目を瞑る天狗に。
大犬は言う。
言葉を――現実を、突き付けるように。
「――時代は変わるのだ。世界も変わるだろう。守ることとは、
今が正にそうだと、刑部は言う。
妖怪大戦争――勝敗はどうあれ、決着の形がどうあれ、今宵を境に、日ノ本は大きく在り方を変えるだろう。
朝日が昇る頃には、まるで別の時代に、新たな世界に変わっていることだろう。
そんな時代で、そんな世界で――変わらないことに固執することは、何も守っているとは言えないのだと。
檻のような島を飛び出して、新たな世界に飛び出すように、天へ向かって翔け出した大犬は語る。
「平安京が遷都した時、天狗は変わるべきだった。人間達がこの地にやってきた時、鞍馬は在り方を変えるべきだったのだ。しかし、お前に全てを押し付けた旧体制は、その役目から逃げ出した」
お主はどうだ、新たなる『鞍馬』よ――と。
鞍馬の名を継いだ、偉大なる大天狗よ――と。
我武者羅に、拒絶するように嵐を振り撒く天狗を、逃がさないとばかりに、縦横無尽に宙を駆け回り、咆哮をぶつけ続ける獣は。
ただ真っ直ぐに――逃げるなと、そう蒼い瞳を向け続け、言う。
「下ではなく、前を向け。そして――己の目で、見定めるのだ」
時代の、世界の、日ノ本の行末を――その上で。
「お前が――『天狗』が、『鞍馬』が、選ぶべき道を! お前が決めろ!!」
白き大犬は、その口腔に妖力の弾丸を作り出し――上空に向かって撃ち放つ。
それは全てを拒絶するように張り巡らされた嵐を祓い、紛うことなき現実を――天狗に突き付ける。
「――――」
天狗は、眼下の戦場を、突き付けられる。
あらゆる妖怪が集い、その雌雄を決する妖怪大戦争。
戦火に焼かれる平安京。一体、また一体と倒れゆく、歴史に名を刻んだ大妖怪。
そして、己の真下に集いし、若き妖怪の卵達、河童や雪女、そして犬神といった縁もゆかりもない種族を束ねる――
正に、時代の節目。
世界の変革の時――逃れようのない、終焉を、天狗へと見せつけて。
鞍馬天狗は――団扇を下ろす。
覚悟を決めるように、顔を上げて、何時の間にか同じ高度にまで昇っていた刑部に問うた。
「……そして、お前が選んだ道は――あの男か」
青い龍の上から、刑部を、そして鞍馬を、全幅の信頼をおいて見上げる男。
酒吞童子や化生の前といった今宵の戦争の主役妖怪と比べれば、余りにも小さく見える妖怪を一瞥して、鞍馬は言う。
「……あの男は――ぬらりひょんは、それほどの『器』なのか」
刑部は、そんな男を見て――くるりと、天狗に背中を向ける。
「それも――お前の、その目で、しっかりと見定めろ」
己の役目は終わったとばかりに青き龍の元へと駆けて行く大犬。
そして、宙空に氷の盾の舞台が創られ。
まるで主役の登場とばかりに――その上に、一体の黒き妖怪が登壇する。
+++
「一発じゃ」
舞台の上に立ったぬらりひょんは、上空から見下ろしている鞍馬に向かって、己が指を一本だけ立てて見せつけた。
「今宵、お主は連戦に次ぐ連戦であったことじゃろう」
鴨桜や士弦、月夜や雪菜――若き妖怪の卵達との遭遇戦。
長谷川と白夜――百鬼夜行幹部との遠距離戦。
そして、百鬼夜行総大将相談役兼四国犬神一族族長、ぬらりひょんの義兄弟である犬神・刑部との空中戦。
これだけの激戦を重ねた相手に、例え一騎打ちとはいえ打倒した所で。
「そんなものは――弱った所に付け込んだに過ぎぬ」
本来、四国妖怪を束ねる大妖怪・犬神と、日ノ本屈指の霊山である鞍馬山の天狗族の長・鞍馬には――それほど大きな戦闘力差は存在しなかった。
互いに無傷で万端ならば、勝敗は見えぬほどに拮抗している実力同士の筈なのだ。
それが、あそこまで一方的な戦いになったのが、鞍馬が消耗している何よりの証拠だと、そう語るぬらりひょんは。
だからこそ、一発だと――氷の舞台で両手を広げて、堂々と宣言する。
「――儂はここから、
その上で、儂は一撃でお主に勝利して見せよう――と、そう嘯くぬらりひょんに。
「……嘗めているのか?」
大気を震わせる程に妖気を溢れ出し、とても弱っているなどと、そう感じとることは出来ない覇気を発する大天狗に、若き妖怪達が背筋を凍らせる中。
ぬらりひょんは飄々と、しかし――心から敬意を表するように言った。
「いや、敬っておるのじゃ。ここまでせんと、お主を迎え入れるには相応しくないとな」
お主はそれほどのいい男じゃ――そう、ぬらりひょんは、真っ新な誠意と、真っ直ぐな覚悟を見せる。
厳しい条件なのは百も承知。
成し遂げるは不可能に等しい。
宙も自由に闊歩出来ぬ身で。
畳一畳ほどの滑りやすい氷の足場に、孤立無援で立ち尽くし、命綱すら巻かずに――それでも、と。
「ここまでしてでも――儂は、お主が欲しいのじゃ」
そう、まるで素っ裸で害意を否定するように――好戦的な瞳で、鞍馬天狗という大妖怪に挑戦する意を表明する男に。
天狗は「……よかろう」と、屈辱ではなく、戦意を持って、己に残った妖力を膨れ上がらせながら。
「――ぬらりひょん。お主の計らいに乗ってやろう」
真っ直ぐに眼下を見下ろしながら――目の前の男の『器』を見定めるべく。
ぬらりひょんに、一本指を返した。
「ただし、一撃だ。――儂も、その一撃に全てを込めよう」
平安京の大気を震わせる、鞍馬山の大天狗の妖気が。
みるみる内に膨れ上がり――天狗の右手に握られた、軍配団扇に凝縮されていく。
「この一撃をもってしても、お主がその舞台に立っていることが出来れば――儂はお主に膝を着き、頭を垂れ、忠誠を誓おう」
若き妖怪達が唾を呑み込む。
これが、大妖怪の、全力の妖気――月夜は、雪菜は、士弦は、その神通力ではなく、単純な妖気で空間が歪む様に、その身を震わせるような『畏れ』を抱いた。
自分達との戦いの時は、まるで本気ではなかったのだと。
否、本気であったかもしれないが、全力ではなかった。
今宵の妖怪大戦争において、これからもっと強い敵と戦うことを想定しての、温存された戦闘だったと、思い知らされて。
「――――ッッッ!!」
鴨桜は、震えている自分に、奥の手を秘めていた鞍馬に――そして。
それを真正面からぶつけられてなお、『ぬらりひょん』を崩さない――父に。
心の――底から。
「みせてみろ、ぬらりひょん。お前の力を――お前の器を」
お前の――『未来』を。
そう告げて、鞍馬天狗は、己が全てを込めた一撃を放つ。
選んだ術は――暴風刃。
天狗の代名詞である『風』を操る力。それをただ純粋に研ぎ澄ませ、神通力で殺傷力を増した、どんな防御も意味を為さない、正に一撃必殺の奥義。
感知は不可能。
放たれた次の瞬間には対象を真っ二つにしている、音速の烈刃に。
月夜と雪菜は思わず目を瞑ってしまい、士弦と鴨桜はぬらりひょんの死を幻視した――が。
長谷川と月夜、そして刑部は――己が主の、生還を、そして勝利を、ただ静かに確信していた。
それに疑問を生じた鴨桜は――次の瞬間。
信じられない光景を――見せつけられることになる。
「――――!!??」
目を疑った――現実を、疑った。
奇しくも鞍馬が受けた衝撃と同じだけのそれを、息子である鴨桜も受けていた。
信じられなかった――目の前に広がる、ただ当然のように広がる、現実が。
空間を裂く、鞍馬天狗の渾身の暴風刃。
それは、ぬらりひょんへと届いた、その瞬間――
「……目を凝らして、しかと見定めろ――鴨桜」
いつの間にか、鴨桜の背後に立っていた刑部が言う。
「あれが、妖怪・『ぬらりひょん』の最奥――『
ぬらりひょんの息子たる鴨桜は、これまで数多くの奥義を、父の背中から学んできた。
己の存在を完璧に隠密してみせる、存在感を消すぬらりひょんの本領ともいえる奥義――『
己の攻撃を完全に認識させない、攻撃の畏れを消す奥義――『
天才肌であった鴨桜は、これらの奥義を教わるまでもなく、不完全ながら会得していた。
自分なりに磨き上げ、及ばずながらも手が届く所までは――辿り着いたと、そう思っていた。
だが――『包妖』。そんな奥義は、見たことも聞いたこともなかった。
「否――お前は見てきた筈だ。知っていた筈だ。なぜならば、『包妖』とは――」
お前が見てきた、百鬼夜行の総大将たる、父の姿こそが。
妖怪・『ぬらりひょん』だと、そう告げる言葉に。
「…………」
鴨桜は、ただ、父の背中を見詰めることしか出来ない。
「―――――」
そして、同じく、絶句することしか出来ないモノがいた。
鞍馬天狗は。何故、犬神・刑部ほどの大妖怪がぬらりひょんなどという下級妖怪を『総大将』と認めるのか。
何故、奴の周りには、あれほど多種多様な妖怪が集まるのか――ただ、一発で、理解した。
己が全力を掻き消されたことで――否、受け容れられたことで、理解させられた。
妖怪・ぬらりひょんが最奥義――『包妖』。
それは言葉の通り、妖力を包み込む、ぬらりひょんの才がなせる『業』である。
いつの間にかそこにいる妖怪。
それはすなわち、他者の心に入り込む――警戒心を抱かせないということ。
つまりは、いつの間にか心を許してしまう――否、
ぬらりひょんという妖怪が、全てを受け容れているが故に、他者もぬらりひょんに心を許してしまうという構図に他ならない。
(――全てを、受け容れる。畏れも、妖力も――全てを受け容れ、無効化してしまう)
実際には、その圧倒的な『包妖力』で、ぬらりひょんという妖怪を受け容れてしまった『相手自身』が、無意識の内に自分で『術』を止めてしまうというカラクリなのだが――それを為すには、ぬらりひょんが攻撃を受ける寸前で放つ、特殊な一瞬の妖気が、相手の妖怪の『魂』に干渉することが必要だ。
それはある意味で――『魅了』と呼ばれる異能に近い。
相手の『魂』に直接干渉する御業――その領域に、ぬらりひょんという下級妖怪は、己が特性を極限まで追求することで、到達し得たのだ。
(――これが、妖怪・ぬらりひょん)
鴨桜が、父の背中から目を離せない中――鞍馬は、ゆっくりと、ぬらりひょんが未だ一歩たりとも動いていない氷の舞台へと降り立つ。
その瞳には、もはや欠片の敵意も存在しない。
例えそこにはカラクリがあろうとも、ぬらりひょんが己が御業を持って、鞍馬の全力の一撃を突破し、己が『魂』に触れたことは、紛うことなき事実なのだから。
自分が、鞍馬天狗という妖怪の全てを受け容れた――ぬらりひょんという『器』に、魅せられたことは、紛うことのない、現実なのだから。
(――これが、百鬼夜行の主)
ぬらりひょんの前に降り立った鞍馬は、そのまま膝を折り、頭を垂れる。
そんな鞍馬に、ぬらりひょんは終ぞ一度たりとも抜かなかったドスの柄から手を離し。
何も握られていない右手を、鷹揚に差し出す。
「鞍馬天狗よ――儂の、
片膝を着き、頭を垂れていた鞍馬は。
その手を取って立ち上がり、真っ直ぐに前を向いて。
己が選んだ
「――我が名は『
あなたと同じ酒を吞ましてくれ。我らが総大将よ――そう言って、京屈指の大妖怪・鞍馬山の大天狗が、
(――これが、妖怪大将・ぬらりひょん)
これが、父の背中かと。
その父の背中と器の、余りの大きさ――偉大さに。
鴨桜は、拳を握り、唇を噛み締め――心を震わせる。ただそれだけしか出来なかった。
用語解説コーナー54
・ぬらりひょんの異能
妖怪・ぬらりひょんの異能は、言ってしまえば、他人の家にこっそり忍び込むことが出来る、という、ただそれだけに過ぎない。
それをぬらりひょんは、ただ己が執念と修練によって磨き上げ、数々の奥義を編み出したが、『幻』も、『絶』も、そして『包妖』も――およそ戦闘にはまるで向かないぬらりひょんという妖怪の性質を、無理矢理に引き出したに過ぎない。
気付かれないという力を――隠すという力に。
隠すという力を――受け容れるという力に。
ただ――それは、決して選ばれた存在ではない自分が、それでも抱いてしまった、身の丈に合わない、分不相応な願いの為に。
遠い彼方へ輝く月に手を伸ばすように――燃やし続けた、野心の結晶に過ぎない。