「待て! 待ってくれ、
阿黒は己に遠ざかる背中を見せつける黒鬼に向かって怒鳴り声を上げた。
この場には、既に黒鬼と赤鬼――蝦夷の両輪たる二大巨頭しかいない。
そして、その両輪の片輪が――今、外れようとしていた。
――分かってくれよ、
いつものガハハという豪快な笑いではない、黒鬼が初めて浮かべる寂しげな笑みに、阿黒は下唇を噛み締めることしか出来ない。
どうしてこうなったんだと、阿黒は俯く。
英雄・
阿弖流為――
その戦いは熾烈を極めた――それでも、最後には互いの力を認め合い、握手を交わした筈だった。
人間と妖怪。鬼と英雄。
その垣根を超えた、『超越者』同士にしか分かり合えない何かを、二人は確かに繋ぎ合ったのだ。
だが、世界は――否、『人間』は、そんな両者の友情を許さなかった。
「分かっているんだろ!! これは罠だ!! むざむざと赴いたら殺される! そんなことは分かり切っているだろう!!」
田村麻呂は阿弖流為を征伐することはなく、そのまま手ぶらで平城京に帰還し、朝廷に進言した。
自分と阿弖流為は友好を結んだ。蝦夷はもう――恐ろしき脅威ではないと。
人間と、妖怪は――手を取り合うことが出来るのだと。
だが、平城京はそれを受け容れず、脅威ではないというのならば、阿弖流為自ら単身で我らの前へと赴き、誓いを立てよと、そう通告した。
敵の本拠地に、人間達の都に――たった一体で。
戦わないというのならば大人しくその首を差し出せと、最早そう言っているに等しい傲岸不遜な命令に――だが、阿弖流為は。
――あぁ、そうかもな。だが、俺様が行かなくちゃ、田村麻呂が罰せられる。そうなればどうなるか……お前にも分かるだろ。
黒鬼のその言葉に、阿黒は何も言えなかった。
阿弖流為の――鬼の力を認め、剣先を向けるのではなく、素手を差し向けて握手をすることが出来る英雄。
そんな存在は、もう二度と現れることはないだろう。あの田村麻呂でも駄目だったとなれば、平城京が打ち出す次なる一手は――決まっている。
全面戦争。
和睦も休戦も選択肢にない、人間と妖怪のどちらかが滅ぶまで終わらない戦争が始まる。
そうなれば、阿弖流為という圧倒的な戦力がいる蝦夷でも、やがては人間の圧倒的な物量に呑み込まれるだろう。
例え勝利しても、広がるのは無残な焼け野原と化した蝦夷であり、日ノ本だ。
妖怪王国・蝦夷は――終焉を迎える。
阿黒の――母の、夢の終わりだった。
――すまねぇな、阿黒。お前には、いつもいつも、本当に損な役回りばかりさせる。
阿弖流為は、そう言いながら振り向いて、阿黒に、迷惑ついでにもう一つだけ、頼まれちゃあくれねぇかと、そう言いながら。
小柄な赤鬼の頭に手を乗せて――
「――――っっっ!!!!」
全身に重すぎる何かが流れ込むのを感じる。
体中を巡る血液が沸騰したかのように熱くなり、呼吸することすら難しくなる。
何を――託されたのか。
それを直感的に理解した阿黒は、何よりもまず――畏れ多さを感じた。
だから、まるで泣き言を言うように、情けなく、膝を着いて、頭を垂れて。
「…………『器』じゃ……ない……っ」
それは、かつて目指した筈のものだった。
ずっと背中を見てきた、隣に立つのだと奮起して――終ぞ、一度も同じ目線に立てなかった。
余りにも遠く、余りにも大きく、余りにも――重い。
「俺には………無理だ…………ッ!」
ぽろぽろと、涙を流しながら言う阿黒に。
阿弖流為は――否、今、その名を捨て、託そうとしている黒鬼は。
手を差し伸べず、けれど笑って、己をただ一体、ずっと追いかけ続けた泣き虫の赤鬼に言う。
――俺達は失敗した。少し、急ぎ過ぎたんだろうさ。だが、お前が見せてくれた夢は、それはもう、綺麗だった。捨てるには、余りにも惜しい。
だから、
――
負けるのは、死ぬのは、蝦夷の王の阿弖流為としてではなく、ただ一体の凶悪なる鬼神魔王――『大嶽丸』として。
だから――頼むと。
後は――頼むと。
――阿黒。お前はつえぇ。お前には俺様にはねぇ強さがある。ここまでこれたのは、全部お前のお陰だ。
蝦夷を作ったのは、大嶽丸ではなく阿黒だと。
だから――お前には、資格があると、そう憧れ続けた背中は言う。
お前には、夢を見る資格があると――夢を継ぐ、資格があると。
――だからお前は、俺様には出来なかったことをしろ。
大嶽丸には出来なかったことを――大嶽丸には、なれなかった『
そう言い遺し、余りにも重い『託されたもの』に身動き一つ出来ない阿黒を置いて、阿弖流為を脱ぎ捨てた一体の黒鬼は、人里へと下りて――平城京へと向かい。
やがて――自分に体を巡っていた、託された『超常の力』が、ゆっくりと身体の奥底に封じられ、阿黒が再び顔を上げられるようになった、その頃には。
全てが――終わっていた。
大嶽丸は――友の為に、一体の鬼として最期を迎え。
そして、変わった筈の蝦夷は、一つに纏まった筈の国は、瞬く間に再びバラバラに崩壊した。
+++
何も出来なかった。
大嶽丸は坂上田村麻呂と共に平城京へ赴き、案の定――『人間』に殺され、蝦夷の地に二度と足を踏み入れることはなかった。
当然、蝦夷は『人間』への憎悪へ燃えた。
すぐさまに報復へと向かおうとする彼等を、しかし、阿黒は止めなくてはならなかった。
このまま『人間』との全面戦争へと突入すれば、大嶽丸が命を捨てて彼等を守ろうとした意味がなくなる。
だから阿黒は、崖の上に立ち、いきり立つ彼らを見下ろしながら――吠えたのだ。
「勝手な真似をすることは許さねぇ!! お前らの憎しみ、怒り――悪感情の全てを、この俺が預かる!! 阿弖流為は――もういねえ!! 今日からは俺が――お前らの王だ!!」
新しい阿弖流為だと、そう断言する勇気は、赤鬼にはなかった。
お前の名から一文字もらうぞと、そう言ってくれた絆に縋ることも出来なかった。
だから――赤鬼は、こう名乗ったのだ。
「我が名は――
そう言って、赤鬼は自分に従わないモノを殴り飛ばした。
これしかやり方を知らなかった。
ずっとこうしてきたから――力で持って、その場を平伏しようとしたのだ。
しかし――これまで秩序の為だと、正しい形の為だと、数多くの身内を粛清してきた悪路王に。
阿弖流為というカリスマを、大嶽丸という『器』を失った蝦夷の妖怪達は――悪路王のそんな恐怖政治に、従うことはなかった。
悪路王の背中には、誰も付いてくることはなかった。
結果、蝦夷はふたたびバラバラになった。
身内同士で激情をぶつけ合い、それを止めようとした悪路王を嬲る時だけは、皮肉にも一致団結して一体の鬼を叩き潰した。
徹底的に囲い討たれた悪路王は虫の息となり、再び動けるようになった頃には、内乱は既に収拾不可能な程に大きくなっていて。
「………………」
悪路王は、それから目を逸らすように背を向けて、山中深くへと逃げるように潜っていった。
こうして両輪が失われ、やがては潰し合うことすら出来ない程にボロボロになった蝦夷は、かつてのようにポツンポツンと見えない国境線を引いた集落が点在するだけの、只の僻地へと戻っていった。
愛してくれた母の願いを叶えることも、託してくれた友の願いを叶えることも出来ず。
涙すら枯れ果てた赤鬼は、失意のままに、ただ山の奥へと逃げ続けて、隠れ潜むことしか出来なかった。
何年も――何十年も――だが、それでも。
「――――ッッッ!!!」
修行だけは――己の身体を痛め続けることだけは、続けていた。
もう何もかもが遅いということは分かっている。
自分は何も出来なった。失敗した。夢は破れ、誓いは果たせなかった。
全ては過去のこと。何をしようと後の祭り――そんなことは、分かっている。
(――分かってるんだよ、そんなことは――――ッッッ!!!)
巨木を拳で倒壊させ、荒い息を吐きながら、悪路王は心の中で叫ぶ。
ずっと、ずっと、何年も何十年も、母と阿弖流為の言葉だけが己の中に響き続けていた。
――この子は『特別』よ。
――お前は、俺様に出来なかったことをしろ。
だが、失敗した悪路王には、何もかも成し遂げられなかった悪路王には、その声を掻き消す手段がなくて。
「……俺に、どうしろと言うんだ……ッ」
そう呟いて、再び俯いた悪路王の――そんな背中に。
「――もう一度、
ここ百年以上も、己以外のどんな妖怪すら足を踏み入れなかった蝦夷の最奥に、聞こえる筈のない己以外の声が聞こえた。
「誰だっ!?」
振り返り、そんな誰何の声をぶつけた悪路王が見たのは――謎の
少なくともかつての蝦夷にはいなかったと思われる、気配も掴めない、怪しい――妖怪。
烏天狗は、恭しく頭を下げながら「お初にお目に掛かります。かつて蝦夷にてその名を轟かせた、『恐怖の赤鬼』――悪路王様」と、そう赤鬼の名を呼びながら。
「今宵はあなた様に、お伝えしたきことがあり、参上いたしました」
そう妖しく――
突如として現れた、謎の烏は告げた。
平城京は既に滅び――『人間』の都は平安京へと遷都したこと。
しかし、政治の混乱も相次ぎ『人間』の勢力は衰え、それと反比例するように『妖怪』の勢力は増し続けて、いまや力関係は逆転しつつあるということ。
そして――それを象徴するように。
阿弖流為に次ぐ、新たなる妖怪王の器を持つ鬼が、日ノ本に――大江山という御山に現れたこと。
「名を――『
新たなる『妖怪王の器』の出現。
悪路王の母が夢見た蝦夷の統一。それを遥かに上回る――蝦夷どころか、日ノ本全土の妖怪勢力を、一つに纏め得る大器の登場。
「…………」
それを聞いた時、悪路王の胸に宿ったもの。
自分が成し遂げられなかった夢の実現。
届かなかった理想への、新たなる希望の出現への歓喜――ではなく。
「………………ふざけるな…………ッ」
どうしようもない――嫉妬心と、焦燥感だった。
「……ふざけるなよ…………ッ……俺が――阿弖流為が出来なかったことを、何処の誰とも知れぬ女鬼が成し遂げると? 笑わせるなッッ!!」
駄目だ――
誓ったのだ――俺は、あの日、託されたのだ。
――お前は、俺様に出来なかったことをしろ。
(……そうだ。俺は、阿弖流為にならなくてはならない。……妖怪を一つに纏め上げるのは――
もし、新たな妖怪王が――阿弖流為ではない妖怪王が誕生してしまったら。
そう考えて、焦燥感に呑み込まれそうになっている悪路王を見て。
一羽の烏が醜悪なる笑みを浮かべていることにも気付かずに、赤鬼は言う。
「……『妖怪王』は、そんなぽっと出の小娘にくれてやれるような、安い椅子ではない……ッ」
「だからこそ、私はこの蝦夷まで参ったのでございます」
烏天狗は語る。
先日、妖怪王の器たる酒吞童子率いる大江山と、人間達の新たなる都である平安京が激突する大戦があったと。
結果は、大江山の敗北。
酒吞童子は生き残ったものの、多くの有力な鬼を失い――今、大江山は一体でも多くの強い鬼を欲していると。
そして、漆黒色の烏は、赤鬼を闇から引き摺り出すように――あるいは、更なる闇へと突き落とすように、告げる。
「――これより数年後、再び『人間』と『妖怪』の、それもこれまでで最も大きな、正しく雌雄を決する戦い――大戦争が勃発します」
そして、その戦いを制したモノこそが、日ノ本の新たなる支配者となるであろうと。
「『妖怪王』――その誕生の瞬間となるでしょう」
悪路王は、その言葉に。
真っ直ぐに、その灼眼を、己を見透かす烏天狗へと向ける。
「……お前は一体何者だ? 何故、そんなことを知っている?」
赤鬼の殺気交じりの言葉に、烏天狗は恭しく頭を下げながら言う。
「私は何も知りませぬ。私が望むのは――恒久的な平和、ただ一つ」
日ノ本に平穏が訪れるならば、それを収めるのが人間であろうと妖怪であろうと構わない。天皇であろうと妖怪王であろうと問題はない。
「重要なのは――『形』と、『器』です」
故に、優秀なる『王』の候補は、一つでも多い方がいいと、烏天狗は言う。
「……なるほど。舞台には乗せてやる。だが、そっから先は自分でやれと、そういうことか」
「その通りでございます」
なるほど、恐怖の赤鬼も甘く見られたものだ――と嘯き、さもありなんと頷く。
これまでの体たらくを思えば、これでも十分過ぎるというものだろう。役者として最後まで忘れ去られていても、何も文句は言えない有様だ。
幾度となく失敗し、何度も何度も夢破れて、挙句の果てには拗ねたように山奥に引き籠り、世捨て鬼を気取りながらも――未練だけは、いつまでも無様に残し続けていた。
最後の機会を与えられて、むしろ感謝すべきなのだろう。
ここで立ち上がることをさえしなければ――自分は、何の為に生まれてきたのか。
――この子は『特別』よ。
(――俺は『特別』ではなかった)
――この子はきっと、世界を平和にする為に生まれてきたのよ。
(――俺は、そのような『器』ではなかった)
悪路王は、百年以上も燻り続けた――己が心に、再び火を灯し。
今、再び――前を向いた。
「――いいだろう。お前の口車に乗ってやろうとも」
それが何よりも怪しい存在の筋書き通りの舞台だとしても。
(――それでも、俺は――)
例え身の丈に合っていなくても、相応しくなくても、どれだけ重くて堪らなくても。
叶えなくてはならない願いを叶えることが出来ず、背負った期待をことごとく裏切ってきた敗北者の悪足搔きなのだとしても。
それでも――託された『炎』は、こんな山奥で、こんな負け鬼のちっぽけな手の中で消してはいけないものだから。
「妖怪と人間の大戦争――『王』が生まれるというその場所に、阿弖流為がいないなどありえない」
世界が変わるというのなら、未来が生まれるというのなら――そこに、この炎をくべなくてはならない。
(だから――終われない。俺はまだ――終わることは許されない)
そして、悪路王は、かつて――死地へと向かった、あの黒鬼のように。
山を下り、蝦夷を出て――単身、大江山を訪れ、瞬く間に四天王となった。
目的は、ただ一つ。
かつて託されたモノを――『未来』へと継ぐ、その為に。
+++
それが俗に言う走馬灯だと、悪路王は理解した。
体感にして一瞬――己が生涯を振り返り、赤鬼は笑う。
何と惨めな物語だろうか。
敗北に敗北を重ね、無様の上に無様を塗りたくって――背負ったモノの重さに潰れ、託されたモノは何一つとして果たせていない。
だが――それでも、まだだ。
まだ、終わるわけにはいかない。まだ、消すわけにはいかない。
「――まだだ!!」
悪路王は、拳を燃やす。
煌々と燃える右拳は、やがて炎を圧縮し――まるで太陽のように光り輝く。
「こんなもんじゃねぇ……あの背中は、あの光は、こんなもんじゃねぇ!!」
全身を燃やして、瞳の中にすら炎を燃やして。
悪路王は、叫ぶ。
「阿弖流為は――終わらせねぇ!!!!」
その――蝋燭の末期のように、目を潰さんばかりに強く輝く鬼に。
坂田金時は――冷たく、哀れむように言う。
「……お前の大切なモノ達は、こんなことを――
その言葉は、微かに――真っ赤に燃える鬼に届いた。
(……そうだ。『母』は、いつも、あの言葉の後にこう続けていた)
――どうか、あなたが大きくなった時、『未来』が美しいものでありますように。
(……そうだ。『頭』は、あの時、確かにこう言っていた筈だ)
――俺達は失敗した。だから、後は『未来』に託すんだ。
そうだ――託したのは、
彼等が、託したのは――。
(――どうやら、ようやく、軽くなったようだな)
その鬼の表情の変化は、燃え盛る炎の中でも、はっきりと金時は見ることが出来た。
赤鬼は、ずっと泣いていた。
背負ったモノの重さに――ずっと悲鳴を上げていた。
その姿がずっと――何処かの誰かのようで、鏡を見ているようにで、ずっと気に食わなかった。
(――違う)
違うと、金時はそう断言する。まるで己にそう言い聞かせるように。
――『英雄』に、なりなさい。
(――違う。違う。俺は、囚われているんじゃない。俺は――)
呪われて――いるんじゃない。
託された願いに、望まれた理想に――呪われているんじゃない。
「――違う」
そう小さく、だがはっきりと、口に出して断じる。
「俺は――
自分の意思で、自分の心で、自分で選んで――決めたんだ。
無辜なる民を、信じてくれた人を、受け容れてくれた場所を――
そう断じ、金時は、振りかぶった鉞を――地面へと突き刺して。
龍の拳の右ではなく、左――人間の拳に。
込められるだけの、父なる赤龍に与えられた赤雷ではなく、己が呪力を変質して生み出した、己の全部を――黄金の雷として込めて。
「うぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
「おぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
そして――炎と雷、鬼と人間、二色の拳が激突した。
託したもの、背負ったもの。
その全てを、小さな拳に、存分に込めて。
用語解説コーナー56
・
蝦夷に生まれた、ほんの少し特別で、けれど、とても凡庸であった赤鬼。
特別な出自ではない、何処でも居る只の鬼――で、ある筈だった。
この子は『特別』よ――そんな言葉を、母から託されることさえなければ。
俺に出来なかったことをしろ――そんな言葉を、頭から託されることさえなければ。
小柄な鬼は、その小さな身体に、身の丈に合わない、重過ぎるモノを託されていた。
自分はそんな『器』ではないと、ずっと悲鳴を上げながら、赤鬼は泣いていた。
それでも、それを下ろすことだけは、百年以上経っても、終ぞ――出来なくて。
だって、それは、この世界で最も大切な存在達から託された――とても大切なモノだったから。