比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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だからきっと、この出会いは、この恋は。正しく――運命だったのだ。


妖怪星人編――59 鈴鹿御前

 

 その出会いは――正しく、運命だった。

 

「素晴らしい剣捌きだ。その見事な立烏帽子(たてえぼし)――お主が鈴鹿姫(すずかひめ)で相違ないか?」

 

 かつて、無実の罪で都を追われた身の上の女は。

 その当てつけとばかりに身に着けていた立烏帽子を押さえながら――目を奪われ、呆然と惚けていた。

 

 一目惚れだった。

 

 闇夜の鈴鹿山に差し込む光が、その男を神秘的に照らし出している。

 

 勇壮な顔立ち。鍛え抜かれた身体。

 彫は深く、表情は引き締まっていて――そして、何より、()()()

 

 目の前の大きな男は、とにかく『魂』が美しかった。

 

 まるで世界に、まるで時代に――まるで、星に。

 

 選ばれた、戦士であるかのように。

 

「ある者はお主を、鈴鹿の山を通る行商人を襲う女盗賊『立烏帽子』と恐れる。ある者はお主を、鈴鹿の山に巣食う鬼から人を助ける女義賊『鈴鹿姫』と敬う。……果たして、どれが本当のお主なのだ?」

 

 男の言葉に、鼓動が早まる。

 男の視線に、頬の紅潮が止められない。

 

 生まれて初めての感情を持て余した彼女は、男の威容に怯える部下達の制止の言葉に構わず――襲い掛かった。

 

 これが、立烏帽子と鈴鹿姫の二つの異名を捨て、後に鈴鹿御前(すずかごぜん)と名乗ることになる女と。

 

 星に選ばれた戦士であり、後に初代征夷大将軍に任じられることになる男――坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)との出会い。

 

 お互いに持てる力の出し切り、殺し合った末に――二人は夫婦となることになる。

 

 お互いに初めての恋で、お互いに初めての一目惚れ。

 

 だからきっと、この出会いは、この恋は。

 

 正しく――運命だったのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 平安宮の入口に聳え立つ、荘厳なる巨大門――朱雀門。

 

 長岡から遷都してから、およそ二百年以上。

 あらゆる怪異を阻む結界の基点として機能し続けてきたそれは――今、ガラガラと音を立てて崩れ去った。

 

 崩れ去り、崩れ壊れ――そして、新たなる形を得た。

 

 巨大な門は、瞬く間に――巨大な鎧武者へと変形した。

 

 全身を翼の生えた蛇に巻き付かれた不気味な武将。

 その鎧の左肩には、こう記されていた――『騰蛇(とうだ)』。

 

 翼の生えた蛇に纏われた鎧武者。

 安倍晴明が抱える最強の十二体の式神――十二神将が一角。

 

 その最強の番人に、今、一体の妖狐が襲い掛かる。

 

「――安倍晴明ぇぇぇぇえええええええええええええええええ!!!!」

 

 六尾を禍々しく青く燃やす妖狐――『狐』勢力四天王が一角・『(すず)』。

 

 その真名は――『鈴鹿御前(すずかごぜん)』。

 

 三百年前――かつて都が奈良にあった頃の名を馳せた美姫。

 

 星に選ばれた戦士――坂上田村麻呂が伴侶として歴史に名を残す彼女は、禍々しい妖力を放ちながら、今、虚空に出現させた刀を抜刀していた。

 

 かつて、あの月光に照らされた鈴鹿山で。

 

 あの男と出会い、そして殺し合った、あの夜からその手に握り続けてきた刀を。

 

「邪魔だっ!! 道を開けろ――絡繰人形がッッ!!」

 

 飛び上がり、妖怪としての膂力をふんだんに詰め込んだ一刀を、巨大な鎧武者の更に頭上から振り下ろした一撃を――絡繰人形と称された鎧武者は。

 

 十二神将『騰蛇』は、目にも止まらぬ速さで――抜刀した、その腰に刷いた刀で受け止めた。

 

「――っ!?」

 

 瞠目する鈴鹿御前。

 

 対する鎧武者は、般若の面でその表情は一切伺えない――否。

 

 十二神将・『騰蛇』――その正体は、鈴鹿御前の言の通り、『絡繰』であった。

 

 一般的な陰陽師が使役する式神、この平安京を警邏すべく張り巡らされた、文字通りの治安維持装置『鎧武者』。

 十二神将は、それを日ノ本最強の陰陽師である安倍晴明が作製した一品に過ぎない。

 

 陰陽師ならば誰もが造れるそれを、史上最強の陰陽師が造った――ただ、それだけの一品。

 

 誰でも造れるが故に、造り手の技量が――陰陽師としての力量が、そのまま性能差となって現れる絡繰人形。

 

 安倍晴明が、一から十まで、己が手で作り上げた――最高傑作。

 それが十二神将・『騰蛇』――朱雀門の代わりに外敵たる怪異を薙ぎ払う、最強の番人。

 

「くっ――っ!?」

 

 打ち払われる。

 妖怪としての身体能力を持って、人間時代に磨き上げた剣術を振るう鈴鹿御前の攻撃の悉くを、目の前の鎧武者は、その巨体に見合わぬ身のこなしを持って薙ぎ払い続けた。

 

 かつて、かの坂上田村麻呂に素晴らしいと言わしめた、鈴鹿御前の剣術。

 それを心無き鎧武者が、ただ事前入力(インプット)されたままに動く絡繰人形が凌駕する。

 

 皮肉にも、『人間』側の最高戦力と目される男が用意したそれが、まるで人間というものが積み重ねる努力を、鍛錬を、一笑に付しているが如き光景に――鈴鹿御前は。

 

 かつては人間であり、今では妖怪というものにこれ以上なくどっぷりと堕ちている女は――睨め付け、歯噛みし、呪詛を漏らす。

 

「……………安倍晴明(あべのせいめい)………和気清麻呂(わけのきよまろ)……()()は――どこまで――――ッッ!!」

 

 燃え滾る憎悪を込めて、振るった鈴鹿御前の一撃を――『騰蛇』は真っ向から打ち返す。

 

 そして――砕かれる。

 鈴鹿御前が、かつて田村麻呂と出会った時に打ち合った――その刀が。

 

 二人の運命の出会いの象徴が、この上なく儚く、きらきらと輝く破片となって。

 

「――――」

 

 鈴鹿御前は、また一つ、身を切り刻むような喪失を経験する。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 鈴鹿の山を縄張りにしていた盗賊団を解散させ、田村麻呂の嫁となった鈴鹿御前は、彼と共に日ノ本各地に出向き、数々の妖怪退治を成し遂げていった。

 

 幸せだった。

 決して長くない、数年間の新婚生活だったけれど。

 凶悪なる妖怪との激闘の日々、血で血を洗う血みどろの日々だったけれど。

 

 それでも――鈴鹿御前は、幸せだった。

 

 一目で芽生えた恋心は、冷めるどころか日々成長を続け、紛うことなき愛へと成熟していった。

 

 全てが愛おしい。

 顔も、声も、手も、指も、優しさも、強さも、真剣な眼差しも、屈託のない笑顔も――その全てが、愛おしかった。

 

 嫌いだった剣も、あくまで自衛と襲撃の手段でしかなかった武も、彼の隣に立つ為ならばいくらでも鍛錬を積むことが出来た。

 

 いつまでも続くと思っていた。

 鈴鹿御前は田村麻呂が日ノ本で最強の存在だと信じて疑わなかったし、彼に勝てる妖怪が存在するなど想像もしていなかった。

 

 だから、彼が蝦夷へ向かうように指示を受けた際も、何も思わなかった。

 今度の旅先は蝦夷か、長い旅になる、それだけ彼の傍に居られると、そんなことだけを思っていたように思う。

 

 彼が征夷大将軍という役職に就いたと聞いた時も、彼の偉大さならば当然だと、そんな風にしか思わなかった。

 

 だから――思いもしていなかった。

 坂上田村麻呂が――敗北することになるなんて。

 

 日ノ本で最強の存在だと思っていた彼よりも、星に選ばれた戦士である彼よりも――強い鬼が。

 

 正しく星の脅威となるような鬼が、この世界に存在するなんて。

 

 かの鬼の名は――阿弖流為(アテルイ)といった。

 

 妖怪王国・蝦夷を統べるモノ。日ノ本を恐怖へ陥れる、妖怪王の器たる怪異だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 鎧武者の攻勢は止まらなかった。

 

 刀を失った鈴鹿御前は、人としての武器を失った鈴鹿御前は――妖怪の力に頼らざるを得なくなった。

 

 妖狐として蒼炎を四方八方へと振り撒くが、『騰蛇』の鎧に施された結界は、それを雨露が如く弾き飛ばして無効化する。

 

 正しく、妖怪を狩る為の絡繰人形。

 対妖怪に特化した式神――安倍晴明が謹製の、怪異狩りの鎧武者。

 

(――ならっ!)

 

 これならどうっ!! ――と、鈴鹿御前は蒼炎を、鎧武者にぶつけるのではなく、『騰蛇』を囲むように、身動きを封じるように張り巡らせ、半球状に包み込んだ。

 

(この鎧武者は安倍晴明の仕掛け――ぶち壊したいのは山々だけど、それでも、私の勝利条件はコイツの粉砕じゃない!)

 

 そう、既に結界は解かれ、門は壊されているのだ。

 ご丁寧に門は自らの足でその場所から退き――突破口を開けている。

 

(馬鹿正直に付き合う必要なんてない。私の目的は、あくまで――)

 

 鈴鹿御前は炎のドームに閉じ込めた鎧武者をそのままにし、足の向きを変えようとした――所で。

 

 妖狐の蒼炎が作り出した檻が――破壊される。

 内側から、木端微塵に。

 

「――っ! ――――ッ!?」

 

 分かっていた。妖力を弾く鎧を身に纏っているのだ。例え蒼炎を直接ぶつけられないのだとしても、自ら動いてそれを砕きに来ることも可能であろうと――それでも、ここを離れる数秒くらいは持つだろうと楽観視していたが、やはり甘かったか。

 

 そう歯噛みした鈴鹿御前は、しかし次の瞬間――瞠目する。

 

 蒼炎のドームを破壊すべく、檻の内側から飛び出してきたのは、鎧武者の篭手の拳でも、腰に刷いた刀でもなく――蛇だった。

 

 その身に有り得べからずな翼を生やした――幻想の蛇。

 

 鎧武者の身に纏わり憑いていたその蛇が、何匹もその身を離れて独立して動き出し――蒼炎から飛び出して、その身を青く燃やしながら、鈴鹿御前へと一斉に襲い掛かってきた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 何度挑もうと、幾度となく征夷へ赴こうと、田村麻呂は阿弖流為に勝てなかった。

 

 これまで常勝――どころか碌に苦戦もしたことのない田村麻呂の連戦連敗に、彼が引き連れた部下の間にも、そして彼を蝦夷へと送り出した平城京の首脳部の中にも、不穏な空気が漂い始めた。

 

 そして、これまでどんな時も堂々たる雄姿を崩さなかった田村麻呂――彼自身の表情にも、苦いものが広がり始めた。

 

 このままでは不味い。

 だが、どうすることも出来ないと、鈴鹿御前は苦虫を嚙み潰す。

 

 田村麻呂は強い。これは間違いない。

 だが、それ以上に阿弖流為が強過ぎるのだ――それはもう、星の規律(ルール)を無視しているかのように、常識外に、埒外に。

 

 たった一体であの鬼は、山を黒雲で覆い、暴風を巻き起こし、雷鳴を轟かせ、鉄火の雨を降らせて、草原を凍土へと塗り替える。そして、単純な膂力だけでも、田村麻呂の剛力を押し返す程だ。

 

 勝ち目がない。どんな作戦も意味を為さない。

 大軍で襲い掛かろうと、たった一体で万を討ち滅ぼせ得る脅威を前には零も同然だ。

 

 結果として、田村麻呂が単騎で阿弖流為に挑み、敗走するというのがお決まりになっている。そして、敗北のその全ての責任を、田村麻呂が負うことになってしまっているのだ。

 

 彼に率いられている戦士達も頭では理解している。

 自分達が何の戦力もならないからこそ、田村麻呂が一人で立ち向かうしかないのだということを。

 

 それでも、成す術なく、何の言い訳の余地も存在しないほどに敗北を喫し続ける大将軍に対し不信感が溜まっていくのは無理ならざることだった。

 

 彼等にも守るべき家族が――家がある。

 このまま何の成果も得られなければ、彼等は全ての責を田村麻呂に押し付けて、自分達だけでも罰を逃れようとするだろう。

 

 そして、田村麻呂は、それを馬鹿正直に、何の言い訳もせずに受け容れる筈だ――。

 

「…………そんなことは認めない。許せるわけないじゃない……ッ!」

 

 意気消沈とする軍から一人距離を取って、そう憤る鈴鹿御前。

 

 そんな彼女に――その夜、声を掛けるものが現れた。

 

 小さなその影は、阿弖流為と田村麻呂が一対一の決闘を行っている中、睨み合う両軍――その片方を率いていた鬼だった。

 

 人間軍を率いる鈴鹿御前と同じく、蝦夷軍を率いる、事実上の妖怪王国の副将の立ち位置にいる――小柄な赤鬼。

 

 阿黒と名乗ったその鬼は、警戒する鈴鹿御前に、こう言った。

 

「喜べ、人間の女。その貧相な身に合わぬ、光栄な誘いだ」

 

 それは蝦夷の王であり、妖怪王の器たる鬼――阿弖流為からの、思わぬ求愛行動(アプローチ)

 

 鈴鹿御前に対する――求婚の誘い(プロポーズ)だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 蒼炎と青炎がぶつかり合う。

 

「――――くっッッ!!」

 

 鎧武者が放った翼蛇は、蒼炎を突き破った後、その身に纏っていた蒼炎を脱ぐように――自ら青く発火した。

 

 妖狐の蒼炎よりも、ずっと濃く、濁ったような青色。

 その青炎は――()()()()()()

 

 妖力を喰らう炎。

 他者の妖力を喰らい、呑み込み――翼蛇はその身を更に大きくする。

 

 そして、その青炎は――本体である鎧武者へと流れ込み、その巨躯を徐々に、青く、燃やし始める。

 

(これが――十二神将)

 

 妖怪の――天敵。

 怪異に対する最大戦力、この国で最も妖怪の脅威である――『人間』。

 

 安倍晴明――史上最強の陰陽師の、最高傑作たる絡繰式神。

 

(これが、『騰蛇』――――こんなの)

 

 勝てるわけがない――鈴鹿御前は、かつてのあの日と、同じような。

 

 真っ暗な絶望に囚われかけた。そして、それを表すように。

 

 妖狐の渾身の蒼炎を呑み込みつくした青炎が、まるで大波のように、何の障害物に遮られることなく――鈴鹿御前に向かって、まるでそれ自体が怪物であるかのように襲い掛かる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 初めてその求婚の誘いを受けた時は、言付け役(メッセンジャー)だった阿黒に問答無用で斬り掛かった鈴鹿御前であったが――当然、その鈴鹿御前の攻撃は易々と受け流された――その後も毎晩、鈴鹿御前が一人になる度に、阿黒はやってきて、阿弖流為からの求婚を伝え続けた。

 

 無下にし続ける鈴鹿御前であったが、その間も、夫である田村麻呂は阿弖流為に挑み続け――そして、敗れ続けた。

 

 だが、そんな日々に、やがて変化が起きる。

 田村麻呂率いる征夷軍の隊員達が、一人、また一人と離脱し始めたのだ。

 

 名目上はお互いに勢力を率いての戦争とはいえ、毎度繰り広げられるのは大将同士の一騎打ちだ。軍勢から一人二人、離脱者が出ても戦いに支障はない――が。

 

 離脱者が出るということは、平城京への帰還者が出るということ。

 そして、何の成果もない軍から単身で出戻った男がすることといえば、一つ。

 

(……本来であれば敵前逃亡は厳罰であれど、この現状を大将の暴走として処理させることで、この軍の責任者である田村麻呂(かれ)一人に全責任を押し付け、己を正当化することが出来るというわけね……)

 

 反吐が出ると、鈴鹿御前は吐き捨てる。

 無論、そこまで上手くいかず、罰を与えられることになるかもしれないが――その報告は平城京に、それほどまでに征夷軍の蝦夷攻略が難航しているという印象を与えてしまうことになる。

 

 それこそ、平城京から正式に帰還命令が出てしまうかもしれない。そうなってしまえば、避けようもなく、田村麻呂の責任問題になるだろう。

 

 残された時間は少ない。

 だが、攻略の糸口すら見えていないのがありのままの現状だ。

 

 続く連戦に田村麻呂の体力は日に日に減退している。

 ただでさえ殆どない勝ち目がどんどん――どんどん、どんどん、薄くなる。

 

「………………………………………ッッッッ!!!」

 

 そして、その日も、阿黒は闇夜に乗じてやってきた。

 

 阿弖流為からの求婚の誘い。

 これまで一貫して、一顧だにせず、断り続けた、その誘いに。

 

「―――――――――――分かったわ」

 

 女は、血を吐くような表情で、頷いた。

 

 その日、鈴鹿御前は――妖怪王の花嫁となって。

 

 坂上田村麻呂の下から去り、妖怪の国・蝦夷へと、その足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 青炎に呑み込まれ、全身を青く焼かれながら――鈴鹿御前は思い出していた。

 

 愛する夫を裏切ったあの時を。

 あらゆるものを捨てて、妖怪の棲み家へと乗り込んだ――あの時を。

 

 それでも――『愛』だけは、その胸に抱いて、ただそれだけを抱えて、戦いへと赴いた、あの時を。

 

(――――そう。私は戦いに行ったんだ。ただ見ていることしか出来なかった自分が心底許せなくて。……弱い自分が……この世の何よりも許せなくて)

 

 許せなかった。

 

 田村麻呂に全てを任せて何もせずに、それでいて責任だけを押し付けようとした、彼の部下も、平城京も。

 

 愛する夫を痛め続ける阿弖流為も。そして、そんな鬼の背中に隠れて、己自身では田村麻呂に敵わないのに彼を嘲笑する他の妖怪も。

 

 だが――それよりも、何よりも。

 

 ただ、見ているだけで、指を咥えて、涙を堪えて――ただ、見ていることしか出来ない、自分が。

 

 彼の隣に立てない、彼の助けになれない――弱くて弱くて堪らない自分が、この世の何よりも許せなかった。

 

 だから――戦いに行ったのだ。

 

 全てを捨ててでも、愛する夫を裏切ってでも――それでも愛を、捨てられなくて。

 

 鈴鹿御前は、阿弖流為の、花嫁になった。

 

(――――だから、この力は、私の愛の……そして、裏切りの象徴)

 

 青炎の中で、鈴鹿御前は刮目する。

 

 全身から蒼炎を放ち――その炎を紫色に変える。

 

 八重歯は――牙に。肌は鮮やかな――蒼色に。

 

 そして額からは、天を貫くように鋭い――角が、伸びて。

 

 己を呑み込む青炎を――妖怪の天敵たる安倍晴明が術を、吹き飛ばす。

 

 そして、宙に浮きながら――冷たく、その蒼色の瞳で、鎧武者を見下ろした。

 

「調子に乗るんじゃないわよ――人形風情が」

 

 それは正しく、妖怪の女王の姿。

 

 妖狐であり、妖鬼――妖怪・『鈴鹿御前』、その伝説の再来であった。

 




用語解説コーナー59

・立烏帽子&鈴鹿姫

 鈴鹿山を縄張りにしていた荒くれ者集団を率いる、立烏帽子を被った美女。

 元々は誰彼構わず道行く人間達を襲撃する盗賊団だった落ち武者達を纏め上げ、悪しき者達には容赦なく制裁と強奪を、善き者には護衛と救出を行うようになった。

 その為、ある達にとっては盗賊『立烏帽子』、ある者達にとっては義賊『鈴鹿姫』と呼ばれるようになった。

 元々は京に住まう由緒正しき姫であったが、政闘に家ごと巻き込まれ、その優秀さと気の強さから首を深く突っ込んでしまったら、いつの間にか無実の罪を着せられ京を追われることになってしまった。

 その為、貴族や権力者というものに対し人一倍隔意を持っていて、権力者と癒着をしている悪徳商人などには特に容赦なく制裁を加えていた。

 あの日も――それだと思った。

 一目見ただけで気付く、身なりのいい服装。それを見るだけで、彼女の胸の中には煮えたぎるような黒い憎悪が渦巻く。

 商人にしろ、それに雇われた護衛にしろ、あるいは轟始めていた己が悪名につられた役人にしろ――関係ないと。

 ただ黒い激情に突き動かされるがままに、この当てつけのように被り続けた立烏帽子に、また一つ、汚い返り血を付着させるだけだと。

 問答無用に襲い掛かろうとして――月光が差し込んだ。

 そして――彼女は、運命との出会いを果たす。
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