母親なのに、化物でした。
ある日の昼下がり。
――【あなたは、私の本当の娘ではないの】。
「…………」
パリッと、煎餅を
ふと隣を見ると、同じようにテレビを――いや、テレビを見てはいるが、意識の半分以上は隣に座る友人との会話に向いている“母親”と、その母親の会話に付き合わされているが、視線は真っ直ぐにテレビに向いている陽光の“教育係”の使用人がいる。
その様子を見て、陽光が思わず引き攣った笑みを浮かべてしまったのは言うまでもあるまい。
(……いや、少しは気不味そうな感じを出しなさいな)
そう――この時には既に、雪ノ下
戸籍上の母である雪ノ下照子とは血が繋がっていないことも。
只の使用人で教育係ということになっている『彼女』が本当の実母であることも。
いつから気付いていたかということに関しては、本当に覚えていない。
昔から、仲が悪すぎて逆にいいのかもしれない両親の関係には疑問を持っていた。確かに相性は悪くないのかもしれないが、それは宿敵とか好敵手とかそういった言葉が相応しいように思えて、幼いながらもこの二人の間に恋愛感情が生まれるとはどうしても思えなかった。
それでも成長するにつれて賢しい陽光は、自分達のような立場の人間が異性として好ましい相手と結婚出来るとは限らないし――それどころかそんなことは殆ど有り得ないし、それでも求められる立場として、子供は設けなければならないのだと、悟ったように理解していった。
だが、それでも疑問が残る。
良くも悪くも破天荒な我が両親が、そんな上流階級の暗黙の了解に、粛々と従うような器とは思えなかったのだ。
(特にあのお母さんが、そんな下らない理由で身体を差し出したりするかな?)
確かに上り詰める為なら何だって利用する野心家の母ではあるが、だからこそプライドの塊のような人であるが故に、本当に仕事で女を使ったりするのか、と。それに父もそんな女を幾ら優秀とはいえ妻として傍に置くような真似をするのか、と。
そんな疑問を持ってはいたが、それでも両親は陽光を愛していたし、陽光も両親を愛していた。
日夜喧嘩ばかりの両親だったが、逆に喧嘩が毎回本気過ぎて(最後は決まって「ああもう離婚よやってられるか!!」「ああ上等だおい離婚届け持ってこい何枚でもサインしてやる!!」と離婚届けが部屋中に舞い散ることになる。そして『彼女』以外の使用人が死んだ目で掃除することになる)、ああ逆にこの二人は仲がいいなあと微笑ましいくらいだったし、陽光も陽光で只者ではなかったので、そんな離婚届けの紙吹雪の中で心底から呆れ返りながらも悠々と紅茶を楽しむくらいの器の持ち主でもあった為、すごく言い方を変えれば賑やかな楽しい家庭だった。
そして、両親の間に男と女の関係はなく、自分はこの二人の実子ではないと確信したのは――陽光が恋をというものを知った時。
陽光が豪雪を男として意識し、淡い初恋――を何段か飛ばしですっ飛ばして、燃え盛る太陽のような苛烈な愛を抱き始めた頃。
両親に、それぞれ自分と同じように、熱い視線を送る相手がいるのに気付いた。
母は、豪雪の父親の鷲人氏を。父は――陽光の教育係である、『彼女』を。
その時は、流石の陽光も驚いた。
だが、同時に、酷く納得もした。
陽光は、自分で言うのも何だが、子供らしくない子供だと――自分では思っていた。
太陽のような子供。誰からも愛される子供。
生まれてからずっとそんな存在で、自分がそんな存在だと知った時から、自分でもそうであるように振る舞ってきたけれど――だからこそか、陽光自身は、驚くほど
愛さない。心を開かない。
愛されても愛されても、いくら皆から愛されようと、陽光は愛する相手は――自分で決めた。
自分がこの人を愛したいと思った者しか、絶対に愛さなかった。そして、そんな相手は恐ろしく少なかった。
きっと、手の指の数で事足りる。
万人に愛されても、陽光は万人を愛さず、ただ隣人だけを愛した。
それでも――『彼女』のことだけは、陽光はすぐに愛したのだ。
出会ったその日――というのは、乳母を務めたという『彼女』との初対面は意識あらずの赤子の時だったので言い過ぎかもしれないが、いや、もしかしたら、その時から陽光は『彼女』を愛していたのかもしれない。
それこそ、無条件で愛することが出来る、家族であるかのように。
家族であることを――我が母であることを、無条件で分かっていたかのように。
「…………」
だからきっと、それが分かった時――陽光は。
驚いた後、怒りもせず、泣きもせず――微笑んだのだ。
太陽のように、微笑んだのだ。
――名前を、付けてあげて。
陽光は、自分も娘を生んだ、その日――『彼女』に、誰よりも先に、娘を抱かせた。
それは陽光からの、自分を生んでくれた母親に対する、精一杯の感謝で。
――あなたに付けて欲しい。……この子に、名前を。素敵な名前を。
大事な、愛しい、初めての娘。
その名前を付けてもらうのは、ずっと『彼女』だと決めていた。
無表情で、冷たくて――だけど、とても純粋で。
振り返ったら、思い起こせば、この人は誰よりも自分の傍にいてくれた。
色んなことを教えてもらった。時には厳しく叱ってもらった。
泣いたら慰めてくれて。頑張ったら誉めてくれて。
とても不器用でぎこちなく、時には呆れてしまうこともあったけれど。
何度も何度も指切りをしたこの人は――間違いなく、私の『母親』だった。
(だから――これが、私の最初の親孝行)
娘を――陽乃を、手渡した時。
『彼女』は、初めて――泣いてくれた。
笑うように元気よく泣く陽乃を、手慣れた手つきで揺らす『彼女』は、それでも涙が止まらずに戸惑っていて。
そんな様子を、陽光と――もう一人のお母さんは、優しく、柔らかく微笑んでいて。
(……あぁ……あったかい)
幸せだった。
暖かくて、温かくて、柔らかくて。
まるで、太陽の光の中にいるかのような日々だった。
いつまでも続くと思っていた。
これからもっともっと幸せになるのだと思っていた。
陽乃も大きくなり、やがて二人目の娘がお腹の中に宿って。
この子の名前も付けてもらおうか。『彼女』に一番に抱いてもらって。
そしたら、あんな涙を、また見せてくれるのかしら――なんて。
なんて――――。
「………………………………………………え」
首が――舞って。
飛んで――堕ちて。
――LUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!
あったかい世界は――瞬間、突然。
まるで、テープが切り替わったかのように――物語が、切り替わったかのように。
冷たく、黒く――唐突に、真っ暗になった。
「いやぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
+++
真っ暗に堕ちた意識が、ゆっくりと覚醒したのは、強烈な反作用の衝撃を感じてのことだった。
(………………こ、こ………は――?)
低い天井。狭い空間。
直前の記憶が曖昧で、まるで暗闇を彷徨っているかのようで――
――『逃げましょう』
冷たい微笑――寂しげな、微笑。
「――――っ!」
意識は――覚醒する。
顔を上げることは出来ない。身体を動かすことも出来ない。
痛みは――ある、が、それは大きな問題ではない。
(――――っっ!! あ……あれは――っっ)
黒い怪物。極黒の雄叫び。
そして、あの、漆黒の――雨。
寒さに震える。これは恐怖だ。
見たこともない非常識。感じたこともない非日常。
(……私は……雪ノ下陽光とは……こんなにも脆いものだったの……)
晒した醜態が脳裏を
これまで感じたことのない無力感。それ故の恐怖。自分の能力の埒外にある異常事態に――寒さに、震えた。
あんなにも――あったかかったのに。
(――っ! 陽乃! あなた! おか……あ……さ――)
温もりを求めて、手を伸ばす。
すぐ傍に、陽光に寄り添い、重なるように――陽乃と、豪雪の身体があった。
二人とも眠るように気絶しているが、少なくとも、呼吸をしている。
それに心から安堵するのと同時に、母――照子が死んだことも思い出して、心を突き刺すような痛みを覚える。
――『逃げましょう』
(――っ!)
そうだ。もう一人いる。
大事な、大事な、家族が。もう一人の母親が。
手を伸ばしても届かない。ふと、まだぼやける目を凝らして――ここが車内だと分かった
来るときには助手席に座っていた、あの普通自動車の中――後部座席。
なら、この車を運転しているのは――。
「そう――それが、俺達の圧倒的な
――化物ちゃん。
ダンっ――と。
車内に衝撃が響いた。
(――っ! ……な、なに?)
思わず悲鳴が漏れそうだったのを必死に堪えた。
(……人の、声? 今のは、車のボンネット……? 美人な――化物?)
未だ、外からは人の声が――話声が聞こえてくる。
男の声と、女の声。
外には複数人いるようだ。
この車に乗せてくれという話だろうか。あんな化物が近くにいるという状況では妥当な線だが、それにしては、外の人間達の声には――恐怖というものがない。
分からない。頭が働かない。
未だあの黒鯨の恐怖と衝撃から立ち直り切れていない陽光は、意識を保っているのも辛くて、思わずぐったりと目を瞑る。
兎に角、声を出すのだ。そして、運転席にいるであろう『彼女』に説明をしてもらえばいいと気付き、まったく力が入らない喉から、振り絞って声を出そうとして――。
「人間ごっこはしめぇだ――
そう、言い下すのが――聞こえて。
(…………
分からない。
だが――『彼女』が、こちらを、見ている気がした。
縋るように――逃げるように。
「……いつまでも、偽物に縋ってんじゃねぇ。お前が逃げているのは――」
目を開ければいい。
『彼女』がこちらを見ているというのであれば、目を開けて、目を合わせるのだ。
声が出せないのならば、それでもいい。
ただ目を合わせれば、目覚めているのだと、『彼女』にそう伝えることが出来る。
そうすれば――そうすれば?
どうなって、しまうのだろう。
寒い――冷たい。
これは、恐怖なのか?
(……私は――何が――)
いつしか、強く――強く、魘されるように、目を瞑っていた陽光の。
それでも塞ぐことの出来ない耳から、その言葉は――まるで、突き付けるように、届いてしまった。
――只の欺瞞だ。化物め。
瞬間――燃え盛った。
錯覚がした。
前の席――前の運転席から。
シートの向こう側から、こちらを見ていた、何かの、口から。
聞いたこともない、燃え盛るような、沸騰したかのような――声が、聞こえた。
「――お前――――なんかに――――ッッ」
ダンっ!! ――と、衝撃が響く。
ビクッと震え、反射的に陽乃を強く抱き締めた。
車内に入り込む違った感触の空気から――運転席のドアが、吹き飛んだのだと分かった。
否――吹き飛んだのではなく、吹き飛ばしたのだと。
(…………違う)
本当は、分かっていたのだ。
『彼女』が――違うということを。
(…………嘘よ)
それに気付いたのはいつだったのか。もう覚えていない。
無表情の庭師と無表情に密会しているのを見た時か。
『彼女』の手入れしていた花壇の花の一つが真夏なのに凍っているのを見た時か。
少なくとも――先程、背後の黒い雨が、甲高い音共に防がれているのを感じた時は、驚くこともしていなかった。
(―――――違うッッ!!)
そう――違う。『彼女』は、違う。
分かっていた。気付いていた。知っていた。でも――でも。
「よう、化物。ご機嫌麗しゅう」
やめて。やめて。やめて。やめて。
お願いだから――だから――だから。
「初めまして、人間。あなたのことが嫌いです」
母親は――化物でした。
母親なのに、化物でした。
+++
外から、車から降りた
否――そう、遠ざけていた。
何も考えたくなくて、目も耳も塞ぎたかったけれど、それでも身体は動かなくて、心まで――死んでしまうかのようだった。
(……化物……化物……いつから? ……一体、いつから?)
いや、まだ決まったわけじゃない。
自分は『彼女』の化物な姿を、まだ見ていないのだから――正確には、見ないようにしてきたのだから。
身体を上げれば、顔を覗かせれば――見えるだろうか。確かめられるだろうか。
今、『彼女』は――『母』は、化物の姿なのだろうか。本性を、見せているのだろうか。
本性――それが『彼女』の本性なのだろうか。ずっと騙されていたのだろうか。仮面を被っていたのだろか――仮面というよりは、正しく、化けの皮というものを。
動けない――動かない。見えない――見たくない。
この車の外の世界では、どんな世界が繰り広げられているのか。
見知らぬ人間達は何者なのか。化けの皮を被っていた、母親だと思っていた『彼女』は――何物なのか。
(――『彼女』が……化物で。他の人間達が……『彼女』を……化物を……退治……しようと……している……っっ)
漏れ聞こえてくる会話から、的確に状況を把握する――してしまう。
己の才覚をこれほどまでに呪った時はない。退治――討伐――殺害。
(……ころ……され………る………?)
殺されてしまう。殺されてしまう。
『彼女』が――『母親』が――殺されてしまう。
照子のように――義母のように。
あの首を吹き飛ばされた義母のように。
死んでしまう――殺されてしまう。
「――――っっ」
身体を起こそうとして――力が入らなかった。
それは恐怖なのか。それとも――自制なのか。
(……化物……だ……っ)
『彼女』は化物だった。『母親』なのに化物だった。
母親である前に、人間ですらなかった。
なら――死んで、当然なのではないか。
陽光の脳裏に、あの黒鯨が
陽光の脳裏に、あの指切りが
「…………っっ」
分からない。分からない。分からない。
どうしてこんなことになった。どうしてこんなことに――どうして。
(……どうして……私の…………お母さんに、なったの?)
どうして自分を生んだのか。化物なのに。化物なのに。
分からなかった。何も分からなかった。
『彼女』が――『母親』が、何を考えているのか。
「お前の、目的は何だ?」
そして、外の世界から、こんな言葉が聞こえた。
(…………目、的?)
目的――『彼女』の、目的。
「さぁ、答えろよ。目的って言葉が曖昧だっつうお前のリクエストに応えるなら、こう聞き直してもいい。お前が――目指すものは、何だ?」
目指すもの――『母』の、目指しているもの。
その目が向いているもの。その目が見ている景色――世界。
『彼女』は――『母』は。
あの温かい世界で、一体、何を見て――何を感じていたのか。
「お前という化物が、この地球で生きる目的は何だ? お前という化物が、この地球で求めるものとは何だ?」
求めるもの。
『母』は、何を求めたのか。何かを、求めていたのか。
何かを求めて――私を生んで、母になったのか。
家族に、なったのだろうか。
「さぁ、答えろよ化物。お前程に賢い化物が、この地球で、何が目的で、何を目指して――どんな欲望を叶える為に、そんなに一生懸命になってるんだ?」
陽光は、動かなかった手を動かして――いつの間にか、願うように、両手を組んでいた。
何を願ったのか。何を求めたのか。
それは何も分からなかったけれど――それでも陽光は、願わずにはいられなかった。求めずには、いられなかった。
陽光は、暗く、狭い車内の中。
化物だった『彼女』を――生まれて初めて、こう呼んだ。
「…………お母さん」
化物は――『母親』は、叫んだ。
「――――私、は…………【私】は――――――ッッ!!」
光が――差し込んだ、気がした。
「…………………っっ!!」
それは、きっと、この上なく醜く、浅ましく、悍ましい、正しく化物に相応しい、欲望に満ちた叫びだった。
「―――――――ッッッ!!!!!!!」
でも――それは。
「……………っっ!! ………ッッ!!」
きっと――『娘』が、『母』に願った、確かな願いで。
「―――――――ッッ!!! ――――――ッッッッ!!!!!」
無様な化物の叫びは、醜悪な欲望の叫びは、狭く暗い車内の中にも響き続けて。
「…………………ッッッ!!!」
夫と娘が起きないように、ギュッと抱き締めた陽光は、涙を溢れさせながら必死で嗚咽を堪えた。
「――――っっっ!!! ―――――――ッッッッ!!!!! ―――――――ッッッッッ!!!!!!!!」
『母』は化物だった。
『母』なのに、化物だった。
怖くて、恐ろしくて――でも、だけど。
「――――――――――――――――――――――」
それでも、もう――冷たくない。
寒くない。温かい。
心が、こんなにも暖かい。
それだけで、また、夢の中に旅立てる気がした。
+++
ダンッ――と、いう衝撃で、再び陽光は夢の世界から現実へと戻された。
(……私、寝ていたのッ!? こんな状況で!?)
いくら『母』の言葉に救われたとはいえ、状況は何も改善されていない。
義母が殺されて、黒鯨のような怪物が襲来して、『母』が化物で、その化物を退治する人間と遭遇して――混沌が極まっている。
様々な突飛な状況に巻き込まれて精神がこの上なく疲弊しているとはいえ――余りにお気楽な行動と言える。
(――それでも、少しは身体が軽くなったかな)
恐怖ではなく安堵で気を失ったからか、先程少し覚醒した時よりは、身体の重さが減っていた。
まだ身体を動かすのは抵抗があるが、それでも動かそうと思えば何とか動かせるだろう。
(それよりも、状況は――)
頭の方も、大分いつも通りに動かすことが出来る。
あの黒鯨を目の当たりにし、黒い雨などを食らいかけて、『母親』が化物であるということを知った直後で、この対応力を発揮するのは、流石は雪ノ下陽光というところか。
(にしても役に立たない旦那ね)
未だ目を覚ます気配すらない豪雪に呆れ顔を見せる陽光。
しかし、その身体を見れば、きっと自分と陽乃を庇って自分よりも大きなダメージを負っていることが察せられたので、半年分の小遣いの値下げくらいで許してやろうと決めた。
「――シン!」
『彼女』の叫び声が聞こえた。
あの『彼女』の、ここまでの絶叫は陽光も聞いたことがなかった。
(何? シン? 誰の事? あの外にいた人達の誰か?)
いや、『彼女』が元々感情が氷のように希薄な為に分かり辛いが――それでも、敵に向けるというよりは、知り合い、味方に向ける声色のように思えた。
(あの状況から、『彼女』に味方が? なら、その味方と一緒に、あの人間達と戦っているの?)
目を開けるべきか? 身体を起こすべきか?
いや、今の自分では身体を起こすことが出来ても、直ぐに素早く動くことが出来ない。
そんな状況になれば、間違いなく『彼女』の足を引っ張ってしまう。それに、己が化物だと
(今は――状況の把握がまず最優先)
こうなると再び気を失ってしまったことが忸怩たる思いだが、それにより、少なくとも頭脳の方はコンディションを回復することが出来たのだから、大人しく二重の意味で目を瞑ろう。最低でも――まだ『彼女』は生きている。
「……副社長から託されたんです。アナタを守れ――と。アナタの夢を守れと」
「…………私の、夢……?」
車外からの少年のような声と、『彼女』のか細き呟き。
副社長――という単語に陽光が反応する中、更に車外から言葉が届く。
「――アナタにはもう、守るべきものがある筈です」
――守る為に、生きてください。
(………………)
陽光は、ギュッと陽乃を強く抱き締める。
守る為に――生きる。
守るべき、もの。
「――――っっ!! ――――ッッ!!」
『彼女』息を呑む声。
そして、こちらを向く気配。
陽光は目を開けるか逡巡したが――ギュッと。
目を瞑ったまま、更に強く、陽乃を抱き締めた。
「………………………ぁぁッ! ぁぁぁッッッ!!」
『彼女』の声。苦しむ声。呻く声。
初めて聞いた――『彼女』の、弱さ。
(…………お母……さん)
あの少年は、『母』にとって、それほどまでに大切な存在なのだろう。
そして、今、それと天秤に乗せられているのが――。
「ありがとうな。人間を、好きになってくれて」
外から届いたその声は――きっと化物の声の筈なのに、まるで人間のようだった。
自分達と同じ――私達と同じく。
「お前達と、出会えてよかった」
化物の絶叫が轟く。『母』の叫びが――陽光の、胸の中に。
「――――ッッ」
陽光は、強く、強く、陽乃を抱き締めた。
+++
「………………………っっ」
『母』の歯を食い縛る気配に胸を痛めつつ、陽光は少し目を開けた。
(………抜けた、の?)
車の外から乱戦の音が聞こえなくなった。
状況から察するに、敵に包囲された中を突破する為に、車でジャンプして――仲間に、道を切り開いてもらって、突破した。
つまり、『母』の仲間は――。
(――っ! ……ようやくお目覚め? けれど、まだよ。じっとしてて)
その時、服を引っ張られる感触がした。
どうやら豪雪の意識が覚醒しつつあるようだが、ここで『母』を混乱させるわけにはいかない。
陽光は豪雪の手に己の手を添えて、一度さすった。それだけで、豪雪は陽光の言いたいことを理解したようだった。
兎に角、安全圏に離脱するまでこのまま――そう、思っていた時に。
バリーン、と。 バックミラーが吹き飛んだ。
「――っ!?」
(――ッ!?)
「な――ッ」
豪雪の口を反射的に塞ぎながら、陽光は陽乃を抱き締める。
(追っ手!?)
そう簡単に逃げられないってことね――と、陽光は、更にバリンッ! と、左側のバックミラーも破壊される中、じっと目を瞑り、堪えた。
そして、数秒が過ぎ、今度こそ逃げ切ったかと思った、その時。
バチバチバチバチ――と、火花が散るような音が聞こえ。
「――よう。最後の質問がまだだったよな」
あの声が――運転席側の、剥き出しの外から聞こえた。
(――ッ!? あの、男――)
『母』に――そして、
『母』が化物だという現実を、喉元に残酷に突き付けた男。
「ここを通りたくば、俺を倒してからいけ」
真っ黒な、その声に。真っ黒な、その殺意に――『母』は。
「――しつこい男は、大嫌いです」
やはり聞いたこともない、冷たい、氷のような、凍えるような、殺意を、返す。
次の瞬間、甲高い発射音と、青白い閃光が広がり。
そして――。
「――――ッッ!?」
そして――。
+++
「………っ……………ぐぅぁ………」
あれから、どれだけ経っただろう。
黒い男との戦いの後、普通自動車がとんでもないスピードで疾走しているのが、車内でも伝わってくる。
『母』の苦悶の声と、遠くから響くあの怪物の雄叫び、周囲の山林を騒めかせる衝撃も、やはり同じく伝わってくる。
既に完全に意識を覚醒させた豪雪は、アイコンタクトで陽光に状況説明を求めて来る(直ぐに起き上がって説明を要求するということをしないくらいには、状況が読めているようだ)が、陽光はただ首を振った。
これだけのスピードで疾走している中、『母』を無闇に混乱させるわけにはいかない。このまま『母』が安全だと判断するまで車を走らせた方がいいと。
勿論、陽光は『母』が、先程の戦いのときに大きな傷を負っていることに気付いていた。
だが――陽光では、もちろん豪雪でも、『母』の傷を満足に治療することは出来ない。こんな山奥では救急車を呼ぶことも出来ないし、運転を変わろうにも、これだけの猛スピードで車を走らせているということは、未だ、謎の人間達との戦いの危険性は去っていないのだろう。そんな時、安全運転しか出来ない自分達がハンドルを握っていても邪魔にしかならない。
それでも、そう分かってはいても――『彼女』の、『母』の息遣いは、今にも死んでしまいそうな程に、痛々しいものだった。
(…………)
「………ッ」
豪雪が再び陽光を見る――が、陽光は、一度目の前の運転席のソファを見て、再び首を振る。
『母』の容態にも焦りが募るが――陽光の頭の中には、先程の『母』の戦う姿がぐるぐると渦巻いていた。
恐ろしかった――のではない。悍ましかった――わけでもない。
それよりも、もっと、ずっと――美しかった。
だが、あれは――。
(…………確か、あれは……私が、小学生だった頃)
その日、珍しく、千葉に雪が降った。
雪だるまを作るには心許ない、雪合戦をしようにもすぐに泥だらけの雪玉になってしまう、そんな程度の雪だったが。
豪雪は、陽光に可愛らしい雪兎を作ってくれた。
それが本当に嬉しくて、誰よりも早く『彼女』に見て欲しくて、手袋をするのも忘れて両手の中に兎を乗せて、家路を急いだ。
けれど、子供の手で作られた小さな兎は、徐々に陽光の温かい体温で溶けていって。
焦った陽光は、願った。
どうか溶けないで。冷たいままで。カワイイままでいて。
そう願って、目を瞑って――開いたら。
雪兎は、氷の球の中に閉じ込められていた。
(――ッ!?)
(……大丈夫か、陽光)
(……………大丈夫。心配しないで)
急に思考に耽った陽光を心配し、陽光の太腿を撫でた豪雪。
陽光は、あの日のことを、今日の今まで忘れていた。
(……結局、あの後は……訳も分からず混乱していた私の元に豪雪が駆けつけて………そのまま、新しい雪兎を作ってくれたんだっけ)
あの氷の球の雪兎はそのまま草むらの中に隠して。
誰にも、『彼女』にも言えなかったけれど、登下校の際にちょくちょく確認しにいって、いつの間には綺麗に溶けてなくなったから、そのまま考えないようにしていた。
だが、今、思い返すと――あれは。
(…………まさ、か……)
私の『母』は、化物だった。
『母』なのに、化物だった。
だけど――だけど――。
「………死にたくない」
その――言葉は。
その、嗚咽は。その、苦悶は。
その、弱音は。その、本音は。
「…………一緒に………居たい」
私の『母』は、化物でした。
とても綺麗で、とても美しく、とても純粋で、とても寡黙で。
『あのね! あのね! 私、今日テストで百点だったの! 流石でしょ! 崇めて崇めて!』
いつも不愛想で、いつも無表情で、いつも事務的で、いつも頑固者で。
『――そうですか。……頑張り、ましたね』
ゆっくりと、恐る恐る。
キラキラ光る氷みたいに綺麗に、小さく、優しく、微笑んで。
私の頭を、撫でてくれて。
「――――ッ!」
陽光は、反射的に『母』を抱き締めたい衝動に駆られて。
立ち上がろうとして――閃光と、衝撃が走った。
抱き締められた豪雪の固い身体と、車体とアスファルトの摩擦音。
そして、どんっ!! ――という、恐らくはどこかにぶつかって車体が停止したのを最後に。
再び、意識がゆっくりと暗く、遠くなっていった。
(……お母さん――)
陽光は手を伸ばす。
日の光が届かない、真っ暗な闇に向かって。
+++
(……嫌)
まるで夜の海の中のようだった。
一筋たりとも日の光が届かない、寒い、寒い、夜の世界。
何処からか、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
行かなきゃ。戻らなきゃ。
でも――動かない。
寒くて、寒くて――パキパキと、自分の身体が凍っているような感覚すらするのに。
何故か、身体は全然、冷たくなかった。
「【
真っ暗な世界に、こんな言葉が届いた。
雪女?
いつだったか、子供の頃にそんな渾名を付けられた気もするけれど。
確か、陽光って名前なのに肌白過ぎって男子にからかわれたんだっけ? 八つ裂きにしたけど。豪雪も引いてたっけなぁ。けど、あの時はあいつらの言ったことのせいでむしゃくしゃしてて、あんた豪雪って名前なのに全然白くないわよね、名前負けじゃないって言っちゃったのよね。結局あいつらと同レベルじゃない私。珍しく豪雪も露骨に落ち込んでたっけ。
それで、確か放課後もイライラが治まらなくて――それと、ちょっぴり、泣きそうで。
白い肌も、陽光って名前も、どっちもすごく大好きだったから。
それで――『彼女』に、聞いてもらったんだっけ。聞いて聞いて、ひどいのよって。たぶん、その時私、既にちょっと泣いてた。
『彼女』は、いつも通りの無表情で淡々と、けれど最後までじっと聞いて。
そして、少し考えた後、こう言ったんだ。
――別に、陽光って名前だからって、白くてはいけないというわけじゃないでしょう。太郎という名前なのに細身の人間もいますし、花子という名前の子がみな草花を愛する人間というわけでもありません。
がくっとしたっけ。いや、そういうんじゃなくて。そういうことを言って欲しいんじゃなくて。
思わず脱力しちゃったけど、うんうんと大真面目な無表情でそんなことを言う『彼女』のいつものらしさに、哀しい気持ちはいつの間にかなくなって、しょうがないなぁと苦笑してた。
だけど、『彼女』はその後、少し――優しく、小さくだけど、確かに微笑(わら)って。
――それに、陽光が白くても何もおかしくありません。だって、日光は白いじゃないですか。
その言葉は、次の日、学校に行くときの快晴の空を見て、知った。
確かにお日様は、空の上で白く光っていた。
そうか――陽光って、白いんだ。だったら、何もおかしくない。
私は陽光って名前でいいんだ。この白い肌も、私にぴったりなんだって。
本当に嬉しかった。だって、この白い肌は――
――じゃあ、あなたもお日様ね!
――……え?
――だって、あなたの肌も、真っ白じゃない! 私と同じ、お日様色!
そう。私とあなたの、お揃いの肌色。
同じお日様色の肌。あなたと同じ――雪女の肌。
(……そうよ。私と『あなた』は……やっぱり親子なのよ)
私は『あなた』の娘。『あなた』は私の『母親』。
だから行かないで。だから――行かせない――逝かせたりなんかしない。
闇の中に連れて行ったりしない。地獄なんかに落とさせやしない。
夜の世界なんかに『あなた』を渡さない。
『あなた』は私達と一緒に、お日様の下で暮らすのよ。
豪雪と、陽乃と――お腹の中の、この子と一緒に。
(死なせない! まだまだ全然恩返しが出来てない! 私はもっともっと親孝行がしたいんだから!)
陽光は――目を開ける。
「陽光!!」
虚空に向かって伸ばしたその手を――豪雪が、しっかりと握った。
そして、パリィィン――と。
雪の華が、砕け散る音が響く
「――ッッ! お母さん!」
ドンッ!! と――二人の目の前に、普通自動車の後部座席のドアに、『彼女』の身体が叩きつけられる。
「っ! お母さん!」
「落ち着け、陽光!」
直ぐに車外に飛び出そうとする陽光を、豪雪が引き留める。
「離してあなた! ッ、豪雪!」
「このまま外に出て、俺達に何が出来る」
感情的になる陽光を、静かに諭すように豪雪は語る。
両肩を掴んで向き直り、真っ直ぐに前を見て。
「――俺は、車が停まってお前が目覚めるまで、あの二人の戦いを見ていた。……文字通りの、化物同士の戦いだ。俺達、人間が……何かをどうこう出来る……戦争じゃない」
豪雪の目は、既に恐怖に怯えてはいなかった。失った自分を取り戻していた。
その上で――言っている。
このまま、『彼女』を――救うなと、そう言っている。
「……『彼女』は、私のお母さんなの。……もう一人のお母さんなの! もう、たった一人の、お母さんなの! 見捨てろっていうの? 見殺せっていうの!? 『彼女』にはあなたもいっぱい助けてもらったじゃない! 家族じゃない!」
「ああ、家族だ。だが、俺はお前の夫で、お前達の父親だ」
豪雪は、未だ眠り続ける陽乃と、陽光のお腹を見て、そして陽光の瞳を見詰める。
「俺はお前達がこの世で最も大切だ。他のどんな人間を、例え家族をも見殺しにしようと、俺はお前達を守りたいんだ」
陽光は、その目をじっと見詰めて、目を瞑る。
「……そうよね。あなたは、そういう人よね」
例え愛する人の『母親』だろうと、それ以上に愛する者達を守る為なら、その目を見て見捨てるということの出来る男。
こんな男だから、陽光は豪雪に惚れたのだ。
そして、それでも、陽光は――。
「――聞いて、豪雪」
「――聞こう、陽光」
目を開けて、真っ直ぐに見詰めて、陽光は愛する夫に告白する。
「私の『母』は化物だった。……そして、たぶん、私もきっと――『化物』なんだと思う」
パリ――パリ、と。
空気中で小さな雪の結晶が生まれ、そして消えていく。
それでも豪雪は、一度大きく目を見開いた後――目を瞑って、そして真っ直ぐ陽光に目を合わせ、その手を両手で包み込んだ。
「それでも、私を愛してる?」
「この世界中で、誰よりも」
それは雪の結晶をも溶かす、静かな熱い告白で。
「なら――私を信じて。化物な私を信じて。人間じゃあ手出し出来ない戦争でも、私なら割り込める。私なら――母を助けることが出来る」
豪雪は、強く、愛する妻を抱き締めた。
「さらば。哀れな化物よ」
『母』に――銀色の魔の手が伸びる。
豪雪は、陽光と――唇を重ねた。
「――」
「――」
囁き合った夫婦は離れ――夫は娘を抱き締めて、妻は車外の戦場を睨み付けた。
白い手袋を嵌めた一対のロボットアーム。
陽光に残された、たった一人の『母親』を、黄泉へと引きずり込まんとするその魔の手を、陽光は全力で拒絶した。
「――ダメぇっ!」
その瞬間――地面から二本一対の氷柱が飛び出し、ロボットアームを貫いた。
ガラッ――と。
戦場への扉を開け、陽光は、戦い続け、傷つき果てようとしている『母親』を。
ずっと、ずっと、
化物達と、人間達と――世界と戦い続けてきた、偉大なる『母親』を。
両手が刃で、背中が開き、顔面の左半分すら裂けている――愛すべき、
ギュッと、温かく、柔らかく――強く、強く、抱き締めた。
「――――陽、光?」
その名の通り、まるで太陽の光のように、あったかく。
胸いっぱいの感謝と――溢れんばかりの愛を込めて
――母親の癖に、化物でゴメンね。
だから、こんなことを言う『母親』に、『娘』は笑顔で、こう言うのだ。
「お母さん――化物に生んでくれて、ありがとう」
お蔭で、『母親』を助けることが出来る、『娘』になれたよ。
「…………生意気ね」
『母』は、『娘』が化物となったその日――静かに、娘の腕の中で泣いた。
『母』は化物だった。
『母』なのに、化物だった。
怖くて、恐ろしくて――でも、だけど。
私の『母』は、化物だった。
『母』なのに、化物だった。
だけど――だけど――。
「………死にたくない」
その――言葉は。
その、嗚咽は。その、苦悶は。
その、弱音は。その、本音は。
「…………一緒に………居たい」
私の『母』は、化物でした。
とても綺麗で、とても美しく、とても純粋で、とても寡黙で。
いつも不愛想で、いつも無表情で、いつも事務的で、いつも頑固者で。
ゆっくりと、恐る恐る。
キラキラ光る氷みたいに綺麗に、小さく、優しく、微笑んで。
私の頭を、撫でてくれて。
――母親の癖に、化物でゴメンね。
だから、こんなことを言う『母親』に、『娘』は笑顔で、こう言うのだ。
「お母さん――化物に生んでくれて、ありがとう」
お蔭で、『母親』を助けることが出来る、『娘』になれたよ。