天を貫くような木の下で。
ひっそりと隠れるように置かれた『祠』の前で。
血塗れの狐を囲むように、ぞろぞろと大挙した色とりどりの妖怪を見て、『狐の姫君』は血塗れに微笑む。
「ずいぶんとまぁ、お揃いで。大人しく、京の裏側で桜でも眺めながら隠れていればいいものを」
「結局、こんな所にまで出てくるなんて。ご苦労なことですね――ぬらりひょん」
怪異京のぬらりひょん。
決して表舞台に現れることはないが、百年も前の『人間』最盛期だった頃の平安京にひっそりと乗り込んで、己の住処にしている妖怪がいるらしいということは――化生の前も事前に把握していた。
勢力を積極的に拡大しようと動いているわけではない。
けれど、かといって他の勢力に併合されようとしているわけでもない。
ただ――人間達の都に、鏡合わせのように存在する裏側の京を見付け出して、そこを住処としてじっと息を潜めているのだと。
総大将たる妖怪が、あの安倍晴明と繋がっていると知った時――当然、化生の前は、警戒し、あわよくば接近しようと手勢を差し向けたりもした。
だが、結果として――今宵、あの怪異京での桜吹雪の中での会談に至るまで、化生の前がぬらりひょんに遭うことはなかった。
全国の殆どの妖怪勢力を支配下に置いているが故にもはや一妖怪任侠組織にどうこうされるような勢力差ではなくなったということ、百鬼夜行が京を根城にしていることから力尽くで支配下に置こうとするには京に攻め込む必要があったことなどを踏まえ、化生の前が、この妖怪大戦争以前に、ぬらりひょんに対し積極的にコンタクトを取ることはなかった――が。
思えば、不思議な話だ。
あの安倍晴明と友好を結んでいる、ただ一体の妖怪――そんな情報を掴んでいたのに、そして、その情報だけでも、何があっても絶対にその正体を暴かなくてはならない理由としては十分過ぎるほどなのに。
結果として、この妖怪と決着を付けることが――こんな妖怪大戦争最終盤にまでもつれ込んでしまうとは。
警戒していた筈なのに――警戒しきれなかった。
注視していた筈なのに、気が付いたら、見失っていた。
(認めなくてはならないわね。私は、この妖怪――ぬらりひょんの手玉に乗せられていた)
だが――それでも。
ただ一つ――掴み切れなかった、ぬらりひょんという妖怪の中で、たった一つ、掴んだその深奥がある。
「結局、諦めきれなかったということですか? 欲しくなったのではないですか? ――そこにいる、あなたが待ち望んでいたであろう――夢の『箱』を」
ぬらりひょん。
出自不明。正体不明。
何処から現れたのか誰も知らず、何処からともなくふらりと現れ――全国を巡り、少数精鋭ながらも仲間を集めて、『百鬼夜行』という妖怪任侠組織を創り上げた下級妖怪。
構成員には、
決して一筋縄ではいかない個性豊かな妖怪達を従えて、誰よりも早く人間達の都に乗り込み、この国で最も妖怪に畏れられる陰陽師、天敵たる『人間』にまで接近することに成功した存在。
そんな男が、そんな妖怪が、何の目的も持っていない筈がない。
壮大な野望を、絶対に成就させたい願いを――その胸に抱いているに決まっていると。
化生の前は――そして、今、お前の目の前には、それを確実に叶える手段があると囁く。
羽衣が、鴨桜が、平太が、詩希が――この場にいる全ての妖怪達の目線が、闇に溶け込むような真っ黒な男に集結する。
そんな中――ぬらりひょんは、狐の言葉を一笑に付してみせた。
「馬鹿にするなよ、小娘。儂の野望は、そんな『玉手箱』で叶えるようなものじゃねぇ。この手で無理矢理に掴み取るもんだ」
そんな『ちーと』で叶えても、はっきり言って、つまらんじゃろ――と、いつの間にか、誰もが見上げて注視していた筈なのに、気が付けば地上に降りて、平太を、詩希を、鴨桜らも背後に庇うようにして、化生の前と向き合っていたぬらりひょんは言う。
「それに――子供は使うもんじゃねぇ。守るもんだ。いい大人が、子供に向かって儂の夢を叶えてなんて、情けねぇこと言えるわけがないじゃろうが」
ぬらりひょんは背後をちらりと見ながら、平太と詩希を、そして鴨桜を見ながら笑い――そして、笑みはそのままに、ただ笑みの色だけを変えて、血塗れの狐を見据える。
「儂のことより――お前さんはどうするつもりだ? 桜の下ではあれだけ余裕ぶっこいておったが、今のお前さんは、随分とまぁ、ボロボロに見えるぞ」
真っ黒な男は、己が引き連れた『百鬼夜行』を見せつけるようにして、挑発的に笑う。
「――詰み、じゃ。『狐』」
ぬらりひょんの、そんな勝利宣言に、『百鬼夜行』が、羽衣が――真っ直ぐに血塗れの狐を見遣る。
化生の前は、己に注がれる圧倒的な敵意に、ふっ――と、妖しく笑う。
「全く。寄って集って、こんなか弱い女を取り囲んで――卑怯ですねぇ」
化生の前は、自分に向かって注がれる敵意の眼差しの中から、とある上空から注がれるそれと目を合わせる。
「――
本来は『狐』勢力の大幹部が一角であり、己の支配下に置いた筈の妖怪は――かつての主の言葉に、刺々しい敵意だけを返す。
「お前が我が同胞に手を掛けるよりも前に、今、ここで貴様を仕留めればいいだけの話だ」
「あらあら悲しい。私を裏切るのですか?」
元より忠誠を誓っていたつもりはない――鞍馬天狗が、軍配団扇を取り出しながら、それを真っ直ぐに化生の前へと向ける。
「俺が忠誠を誓うのは――我が『総大将』だけだ」
鞍馬天狗の宣言に、ぬらりひょんはかかっと笑い、化生の前は顔に手を当てながらさしも残念そうでもなく大仰に言う。
「おやおや振られてしまいましたか。私の大切な仲間を奪うとは――本当に、卑怯ですねぇ」
そして――ニヤリと。
真っ赤に、妖しく――狐は、笑った。
「だが、それでいい。それがいい。それでこそ――妖怪の王を決める戦いに割り込むに相応しい」
化生の前は、滔々と語る。
己を取り囲む敵意を前に、血に塗れる自分を見せつけるように、語る。
「今宵の戦争で、妖怪はその数を大きく減らしました。けれど、妖怪という存在に対する人間達の恐怖は、これまでの比ではない程に大きく増したことでしょう」
化生の前の言葉を、羽衣は無言ながらも理解する。
こうして『人間』の中心地であり、絶対の領域であった平安京を凌辱しきった妖怪大戦争は、これ以上なく妖怪という存在に対する恐怖を、日ノ本中の『人間』に刻み込んだであろう。
日ノ本の妖怪勢力の大半を支配下においた『狐』勢力が、今宵の戦争においてその数を大きく減らした――それはつまり、日ノ本の妖怪という存在の絶対数を減らしたのだということは、頭では理解出来ていても。
それでも――心に刻み込まれた恐怖は、簡単には拭えず、決して消えない。
「だからこそ――この戦争の勝者が、妖怪という存在の象徴、人間達の恐怖の象徴となるのです。人間達からの、妖怪という存在への畏れを、そのまま我が力に出来る――妖怪の『王』となる」
人間達にとっての恐怖の一夜。
決して忘れることの出来ない戦争――その象徴たる存在。
今宵、遂に誕生することになる――妖怪の、『王』。
これは、それを決める戦いだと、化生の前は歌うように語る。
「ぬらりひょん。そして百鬼夜行達。あなた方が、私が妖怪の王になることを認めないというのならば――妖怪の王を決める戦いの乱入者として、我こそが王だと、そう宣言する確かな覚悟を以て」
私を――殺してみなさい。
化生の前は、そう艶やかに、真っ赤な血の香りがする笑顔を浮かべると。
己の尻から伸びる九本の尾を、大輪の花を咲かせるように大きく展開した。
「――――ッ!」
羽衣が、犬神が、鞍馬が、士弦が警戒するように身を固めて。鴨桜が、そしてぬらりひょんが、目を細めてそれを見遣る。
「初めましょう。そして、終わらせましょう。私達の――最後の戦いを」
そう言って、九尾の狐は、その巨大な九本の尾を――己を取り囲むように、丸めた。
「え――」
それを見て、身構えていた羽衣は疑問符を浮かべて――次いで、聞こえた呻き声に、化生の前の、その狙いを悟る。
「ぐ、――おぉ――ッ!?」
「どうした!?」
突然、苦しみ出したのは鞍馬天狗だった。
毒を呷ったかのように首を押さえて、ゆっくりと地面に向かって落下していく。
犬神が鞍馬を背で受け止めながら地上に降りてくると、雪菜や月夜が心配そうに駆け寄って――。
羽衣はそれに構わず、化生の前に向かって突撃する。
それに鴨桜が並びながら「なんだってんだ、『貴人』!」と問い掛けると、羽衣は術符を取り出しながら叫ぶ。
「“アレ”を完成させてはいけない! 閉じ籠る前に、化生の前を引き摺り出して!!」
羽衣が紫色の狐火の弾丸を放つ。
その先には、九本の尾で自らを取り囲む化生の前が居て――その尾はやがて、球体の『殻』のように変化していく。
「――っ! チィ――!」
それを見て、遅まきながら鴨桜もドスを抜き、化生の前に向かって斬り掛かる。
しかし、一瞬早く完成した『殻』は、鴨桜の斬撃も羽衣の狐火も弾き飛ばし、その表面には傷一つ残っていなかった。
遅かった――と、歯噛みする羽衣に対し、鴨桜は「説明しろ、『貴人』!」と叫ぶ。
羽衣は、未だ苦しむ鞍馬天狗を一瞬だけ見遣りながら、鴨桜やぬらりひょん等に向かって言った。
「力が――吸い取られています。平安京にいる『狐』勢力の妖怪――自身の支配下に置いた妖怪の妖力を。化生の前は吸い上げ、己の力とするつもりです」
そんな羽衣の言葉を肯定するように、平安京全土から、『殻』に向かって妖力が集結していく。
鞍馬天狗の身体からも、可視化できる程の妖力の糸が伸びていて、まるでそれは栄養分を集めて孵化しようとしている――悍ましき
「ふざけんな! 鞍馬ははっきりと『狐の姫君』を裏切ってたろ!」
「恐らくは一度支配下に置いた時に、この時の為の仕掛けを施した契約を仕込んでいたんでしょう。支配される側の妖怪の意思や忠誠など関係ないのです」
苦しむ鞍馬天狗に細めた眼差しを向けながら、羽衣は淡々と語る。
月夜や雪菜が心配そうに天狗の元へと駆け寄り、士弦や犬神、白夜や長谷川が険しい表情で見詰めて。
ぬらりひょんは無表情に――化生の前が閉じ籠った『殻』を睨み付けて。
鴨桜は、激情を込めて、心の底から気に食わないとばかりに吐き捨てた。
「ふざけやがって――ッッ!」
+++
(――あらあらまぁまぁ。
化生の前は真っ暗な『殻』の中で、どくんどくんと己に注ぎ込まれ続ける妖力に浸かっていた。
(それにしても、『四天王』だけでなく、ずいぶんと雑兵の数も減っているわね。誰も彼も情けない)
己に繋がる『糸』の数に、化生の前は露骨にがっかりしながら、それでも妖しく微笑んで見せる。
(ええ、それでも――私はあなた方を愛しましょう)
弱くて情けない妖怪を愛しましょう。脆くて儚い妖怪を愛しましょう。
そして、抱き締めるように、己の中に入ってくる妖力を手繰り寄せる。
(あなた方の、無力で、無意味な
どくんと、注ぎ込まれる妖力に――化生の前は、陶然と微笑む。
「あの『殻』を突き破ります」
羽衣はそう力強く言う。
「このまま放っておけば、化生の前は『狐』勢力の妖怪達の妖力を死ぬまで吸い上げ続けるでしょう。それを止める為には、あの『殻』を破壊し、化生の前を再び外界に引き摺り出す以外に方法はありません」
己が支配下に置く妖怪達からの妖力の吸収には、あの繭のような『殻』の状態が必要なのだろう。
でなければ、安倍晴明にあれほどボロボロな状態に痛めつけられるより前に、妖力を吸収しつつ回復しながら戦っていた筈だ。
「本当は完成するより前に破壊したかったですが、こうなった以上は仕方ありません。皆さん、一斉に攻撃をお願いします。お仲間を救いたいのでしょう?」
羽衣がちらりと鞍馬を見遣る。
それを見て、犬神が、長谷川が、白夜が、士弦が、月夜が、雪菜が――攻撃を一斉に『殻』に向かって放った。
しかし――壊れない。
犬神と月夜の爪も、長谷川の水も、白夜と雪菜の氷も、士弦の糸も――狐の『殻』は容易く弾き飛ばし、その表面に傷すらも残らない。
そして、再び放たれた羽衣の狐火も、鴨桜の斬撃も、化生の前の『殻』には通じなかった。
「――チッ! 固ぇ! 何なんだ、これは!」
吐き捨てる鴨桜の横で、羽衣は納得もしていた。
恐らく化生の前といえど、妖力を集めるのは少なくない時間が掛かるのだろう。
この行為には、それなりに
だからこそ、その妖力の吸収をしっかりと最後まで行う為に、『尾』を展開してまで『殻』という盾を作って、その内部に立て籠もっているのだ。
化生の前の『尾』で作り出された『殻』だ。
それも完全に防御目的で作り出された代物。ここにいる妖怪達は、特に犬神はかなりの上級妖怪だが、それでも『狐の姫君』に及ぶものではない。
この『殻』を突き破るには、抉じ開けるには、それこそ――。
(――でも、それをしたら……だけど、こうしている間にも――)
化生の前はみるみる内に回復し――めきめきと強化されていることだろう。
このままでは、それこそ自分ですらも、どうしようもないような怪物に化生の前は成り果てる――どうする。
「…………ッッ!!」
どうすれば――『
「――慌てるな、狐の嬢ちゃん。アンタなら出来ると見透かしたから、晴明はお前さんに
焦燥する羽衣の肩に、ぬらりひょんがぽんと手を置いた。
そして、彼女の横に並び立って、飄々と笑みを浮かべながら言う。
「『尾』を使いな。お前さんの『尾』なら、化生の前の『殻』もぶち破れるだろう?」
「……でも」
あくまで威嚇として展開するのと、実際に武器として使用して消費するのでは意味合いがまるで違う。
自分にはまだ、果たさなくてはならない『使命』が――。
「――大丈夫だ。お前さんがやらなくてはならないことの一部は、儂等が代わりに肩代わりしてやる」
だからお前さんは、お前さんにしか出来ないことだけをしろ――そう言って、ぬらりひょんは静かに構えた。
「お前さんは『穴』を開けるだけでいい。そこから先は、儂が抉じ開ける」
「――――分かりました」
全面的に信じることが出来る相手ではない。
兄の友人ということは知っているが、羽衣自身がぬらりひょんと親交を深めていたわけではないのだ。
だが、こうして懊悩している一秒毎に事態が悪化し続ているのも確かだ。
あの『殻』に穴を開けられるのが自分しかいない以上、それは――羽衣にしか出来ないことだ。
故に、羽衣はこう言うしかない――だからこそ、はっきりと口に出して言った。
そうさせるのも、また、兄とは違う――上に立つモノとしての、『器』だということなのだろうか。
「――信じますよ。『百鬼夜行』の主」
羽衣が尾を広げる――化生の前と同じく、九本の尾を。
そして、振るう。
鞭のように八本を『殻』に叩きつけ――残る一本を、鋭い剣へと変化させる。
妖狐の尾は――妖力の
より多くの尾を持つ狐こそ、より強大な妖力を持つ上級の妖狐であり、九尾の狐である『葛の葉』の娘である羽衣は、自身も九尾の領域へと辿り着くことが出来た。
しかし、尾はタンクであるが故に、その尾に溜め込まれた妖力を消費して放つ攻撃は強力無比な切札と成り得るが――当然、溜め込まれた妖力を消費すれば、タンクは空となり、尾を失うことになる。
失った尾を再生させるには長い時間を掛けた回復を行わなくてはならず――戦闘中には自然回復したりはしない。
故に、この場面で『尾』を消費するということは、九尾の妖狐から八尾の妖狐になるということは――この後で行われるかもしれない、一対一の真っ向勝負にいおいて、
だからこそ――羽衣は言ったのだ。
ぬらりひょんに向かって――信じる、と。
(任せましたよ――だって)
あの全てを見透かした主が、本来は何のメリットもない筈なのに、ぬらりひょんという妖怪とだけは、個人的な友諠を結んでいたのだから。
きっと、ぬらりひょんにもある筈なのだ――己と同じく、果たすべき使命が。
だったら――信じられる。
よく知りもしない怪しい妖怪のことは信じられなくとも。
他でもない――我が主、我が兄のことならば。
羽衣は、ずっと、ずっとずっと――信じ続けているのだから
「――ぬらりひょん!!」
羽衣の『尾』の刃が振り下ろされる。
紫の狐火を纏った刃は、『殻』に直撃し――これまでどんな攻撃も弾いてきた球体に罅を入れた。
「よくやった、嬢ちゃん」
そして、その罅にぬらりひょんは――清流のような動きで、その白刃を突き入れる。
「――――」
綺麗だ――鴨桜は、己が父の技の余りの美しさに、思わず目を奪われた。
殻が割れる。球体が弾け飛ぶ。
ぬらりひょんが己が妖力を内部に流し込み、破裂させたのだと、鴨桜は遅まきながら理解した。
「割れた!」
「『狐の姫君』は――」
月夜と士弦が思わず声を上げ、全員が割れた『殻』を注視する。
その中身は――何もなかった。
「は――?」
鴨桜が訝しげに呟く――と、背後で、ごふっ、と、気が抜けたような、呆気ない悲鳴が漏れた。
「え――」
雪菜が、ゆっくりと、振り返った。
すぐ傍にいたのに、まるで、何も、気付けなかった。
つい先程まで、呻き、苦しみ、悶えていた鞍馬。
化生の前が籠っていた『殻』が割れて、自分の中から何かが抜けていくような痛苦から解放された筈の鞍馬の身体に――穴が空いていた。
「がふっ――」
何かが抜けていくのを感じる。
先程までのような妖力のそれではない――血。
己の中に流れる血が――命が、抜け落ちていく。
化生の前は、自らを裏切った大幹部の身体を、その細い腕で容赦なく貫いていた。
「――本来の予定の五割程でしょうか。やはり道真公と鈴を回収できなかったのは痛かったですね」
それでも、あなたの妖力は随分と助かりましたよ、鞍馬天狗――言って、ズボッと、化生の前は手を引き抜きながら言う。
「ありがとうございます。これで、裏切ったことはチャラにしてあげますね」
鞍馬さん!! ――雪菜が叫びながら倒れゆく鞍馬に駆け寄り、他の妖怪達は一斉に化生の前を取り囲む。
しかし、先程までのような鋭さの敵意はなかった。
あるのは、鞍馬を害されたことへと怒りと――それ以上の、圧倒的な、畏れ。
化生の前は、百鬼夜行を見渡して、己の手にべったりと付着する鞍馬の血を舐め取りながら言う。
「予定よりも物足りないですが、それでも、ここにいるあなた方を、纏めて相手取ることくらいは出来そうな仕上がりです」
ビリビリと、空気が震えているようだった。
先程までの血塗れで弱弱しい狐は、もう何処にもいない。
目の前にいるのは――最強の妖怪の一角。
妖怪の王の玉座に届き得る美しき姫君。
「さて、どなたから参りますか。妖怪らしく、卑怯かつ卑劣にも、全員で一斉にかかってきても構いませんよ」
妖怪・化生の前。
その完全体の顕現に、若い妖怪達は目に見えて怯え、百鬼夜行の幹部達も額に冷たい汗を浮かべている。
鴨桜も、自分の掌が濡れていくのを感じていた。
そして――思わず、父の方を向いてしまう自分に舌打ちをする。
同様に羽衣もまた――その男を見ていた。
「…………」
百鬼夜行総大将――ぬらりひょんは、ただ一人、そのドスの柄に手を伸ばして。
黒い弾丸が――自分達の横を閃光のように通り過ぎた。
「――――ッ!!?」
全員の視線が、突如飛来した謎の黒い物体に思わず集まる。
小さな『祠』を掠めるように、巨大な木の幹に激突したそれは――『人間』だった。
「――――京四郎殿!?」
その正体に気付いたのは羽衣だった。
平太と詩希も呆気に取られ――他の面子は、その人間の正体を知らずに呆然とする。
「何故――」
「――逃げろ」
どうしてと問い掛ける羽衣の言葉を遮り、肺の空気が押し出されたような衝撃から回復するのも待たずに、京四郎は言葉を搾り出す。
そして、京四郎の次の言葉が――放たれるよりも、前に。
「――――ッ!!!」
ドクン、と。
強く、強く――羽衣の体の中に流れる血が、化生の前の体の中に溢れる何かが、反応するように、脈を打った。
そして――京四郎は、自分が立ち上がるよりも早く、全員に向かって叫ぶように言う。
「――――来るぞっ!!」
何が――と、問い掛ける間もなかった。
京四郎の横の『祠』が、ガタガタと震える。
近付いてくるそれに、待ち望んだそれに――歓喜するように。
そして、それは――現れた。
「クズノハァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
漆黒の――魔人。
黒い炎を迸らせながら、天をつんざくような咆哮を放ちながら――それは、遂に、辿り着いた。
そして――『祠』が、光り出す。
用語解説コーナー71
・妖狐の『尾』
妖狐にとって『尾』とは妖力の貯蔵庫であり、『尾』の数が多ければそれだけ多くの妖力を溜め込んでいる強力な妖狐であるという証である。
かつて蘆屋道満は、尾を複数本宿す妖狐は『転生』の異能を保持しており、生まれ変わる毎にその『尾』の数を増やす。つまり、多くの尾を持つ妖狐ほど、より強力な転生の異能を持つ妖怪であると語ったが、それは正しくは誤りである。
かつて、妖狐といえば、それは『葛の葉』のことであり。
転生する毎に『尾』を増やした葛の葉が、日ノ本の各所で目撃され、異なる怪異譚を残したが故に――妖狐は転生する妖怪であるという逸話が生まれた。
正しくは、妖狐は一度の生で激しい修行の末に尾を増やすことは可能である――が、それにも個体別に才能的限界がある。
葛の葉由来の力を持っているとはいえ――六尾まで独力で辿り着けた鈴鹿御前も歴史上に類を見ない天才であり、たった一度の生で九尾まで辿り着けた羽衣や化生の前は常識では考えられない有り得うべからずな怪物である。
しかし――オリジナルたる『葛の葉』に限界はない。
転生する度に幾本でも際限なく『尾』を増やし、無限に妖力を膨れ上がらせる、酒吞童子や大嶽丸と並ぶ『真なる外来種』である。