比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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それはきっと――紛れもない、愛の形だった。


妖怪星人編――74 赤と黒の告白

 

 初めてその鬼に出遭ったのは、坂田金時(さかたきんとき)が平安京に足を踏み入れて間もない頃だ。

 

 母親を殺した人間に連れられて、妖怪だらけの足柄山を下りて、足を踏み入れる初めての人里は、金時にとっては――はっきり言って、居心地が悪い場所だった。

 

 暖かすぎて――気持ち悪い。

 誰も彼もが、熊の一薙ぎでぐちゃぐちゃになってしまいそうな程に脆いのが一目で分かるのに、そんな熊をぐちゃぐちゃにすることが出来る金時に、何の警戒心も抱かずに笑顔を向けて近付いてくる。

 

 特に――子供だ。

 金時にとっては、それは硝子細工(がらすざいく)よりも脆く繊細で。こんな自分が触れていいのかも分からない程に柔いのに――彼等はその暖かい生命そのままに、金時の丸太のような脚に無邪気に抱き着いてくる。

 

 初めてのものばかりだった。

 温かい食事、温かい湯――暖かい笑顔、暖かい空気。

 

 肌に合わない。

 居心地が良すぎて、居心地が悪い。

 

 こんな肌に合わぬ暖かさを、どのような顔で享受すればいいのか分からず――いつも心に疎外感が巣食っていた。

 

 そんな時だ。

 夜間の見回り任務に積極的に志願し、昼間に出歩くことを控えるようになった――ある日のことだ。

 

 金時は鬼に出遭った。

 

 それは黄金の瞳を持つ少女だった。

 

 夜の闇の中でぽっかりと浮かぶように存在するそれに――金時は奪われた。

 

 目も、心も――ひょっとしたら、何もかも。

 

 生まれて初めて――恋をした。

 

 これが、坂田金時(さかたきんとき)酒吞童子(しゅてんどうじ)の出遭いだった。

 

 決して出遭ってはならなかった――鬼と人の邂逅だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 黒い風が吹き抜ける。

 少女の身体の周りを渦巻く妖力が、小さな手で縫い留められている大男の身体に――容赦なく浴びせかけられる。

 

「ぐっ――――ァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

 強靭な膂力や無限の再生力などは、酒吞童子という鬼の基本状態(ステータス)でしかない。

 彼女がその身を黒く染め、ただ垂れ流すだけの妖力に色を付けてこそ――黒色に染めてこそ、初めて彼女が、目の前の存在を敵と認め、戦闘状態に入ったと言える。

 

 酒吞童子の黒風(こくふう)

 それは全てを(おか)す猛毒の嵐。余りに強過ぎる彼女の妖力は、その真価を発揮したら最後、森羅万象に死を齎す漆黒の嵐となる。

 

(――――くっ――逃げられねぇ!!?)

 

 至近距離から黒風を浴びる金時は、当然逃げようとする――が、その小さな手で、鉞の柄と共に掴まれた右手が、どれだけ剛力を発揮してもピクリとも剥がせない。

 

 その少女の手を――振り解くことが出来ない。

 

「…………」

「クソがぁぁぁぁアアアアアアアアア!!!」

 

 金時は全身を赤雷で包む。

 己の身を灼くことを覚悟で纏った赤雷の鎧は、毒の風から身を守るのと同時に、己を掴む酒吞童子の手を剥がす為でもあった。

 

 だが――酒吞童子は赤雷を浴びながらもその手を離さず、逆に黒風の勢いを強め、赤雷の鎧を突き破って、未だ人間である左半身を蝕もうとしてくる。

 

 逃げなければ。離れなければ。

 

 此処にいては死んでしまう――酒吞童子から、離れなければ。

 

「――――ッ!!」

 

 全身が黒く染まり、金から赤へと変わった少女の瞳が、真っ直ぐに金時を見詰める。

 

 逃げなければ。離れなければ。()けなければ。

 

 これは――――()だ。

 

「うぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

 

 金時が渾身の力で吼える。

 とにかく遠くへ、少しでも遠くへ。

 

 ここから――遠くへ。

 

 その切実な思いが――金時の背中に、翼を生やした。

 

 赤緋(せきひ)の両翼。

 ごつごつとした鱗に覆われた――龍の翼が、その背から飛び出した。

 

 全てを遠ざけるように、強く、大きく、羽搏かせる。

 

「…………っ」

 

 黒い風が金時から酒吞童子へと吹き荒れる。

 思わず目を瞑ってしまった酒吞童子は、金時の右手と鉞の柄を握る手を、少しだけ緩めてしまった。

 

「あ――」

 

 か細い少女の声が漏れる。

 金時は、酒吞童子の手を振り払い、鉞を手放しながらも――そのまま空高く距離を取る。

 

「――――」

 

 ズキンっと、左胸が痛む。

 見れば、そこは毒が付着していたが――まるで無理矢理に蓋をするように、赤い龍の鱗が上から覆っていく。

 

 翼が生え、心臓も龍となり――また一つ、人間を捨てていく。

 

(ああ――――――醜い)

 

 何とも醜悪な、中途半端な姿だ。

 右半身も、左胸も、尾も翼も生やしておきながら、未だ見苦しく人間の姿を残している。

 

 己の左手を握り締めながら、金時は地上を見下ろした。

 

 そこでは、黒風が渦を巻いていた。

 英雄としての(ほこり)も手放し、少女(ばけもの)を拒絶しておきながら怪物の翼を生やしてまで逃げようとした臆病者を、今度こそ逃がすまいと、真っ赤な双眼で真っ直ぐに見据えながら。

 

 鬼は、死の嵐を育てる。

 ぐるぐると、ぐるぐると、その出力をみるみると上昇させていく。

 

 金時は、そんな黒嵐に対抗するように、龍の右手を砲台のように構えて。

 

「――――うぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

 

 特大の赤雷を放つ。

 それは一直線に夜闇を走り、酒吞童子に向かって降り注ぐ――が。

 

 赤い龍の息吹が、黒い嵐に喰われていく。

 

 迸る赤雷が、金時の中の怪物が――それ以上の怪物によって、呑み込まれていく。

 

 右半身が龍。左半身が人。

 そんな醜悪な怪物が放つ異能が――真っ黒な嵐に、呑み込まれていく。

 

(ああ――――)

 

 金時は見る。

 黒い嵐の中心からこちらを覗く、真っ赤な瞳を。

 

 全身が純黒に染まった、一片の濁りもない――小さな鬼を。

 

(―――――綺麗だなぁ)

 

 それは、まるで、あの時のように――目を、心を、全てを奪われながら。

 

 赤い雷は押し返されて、金時は黒い風に呑み込まれていく。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その少女と触れ合ったのは、ほんの数回程度だった。

 

 酒吞童子が妖力操作を出来ない鬼だと判明したのは、それから数年先の未来でのことだった。

 しかし、少年戦士と少女鬼が出遭ったこの時期に限っては、茨木童子が周囲に膨大な影響を与える酒吞童子の妖力の垂れ流しを何とかする為に、必死に妖力操作を教え込んだ結果――無理矢理に抑えようとして、結果として一時的に零になってしまっていた期間であったらしい。

 

 つまり、この時の酒吞童子は、何の妖力も持たない、正しく只の少女だった。

 だからこそ、あの頃は罅もなく健在だった平安京の周囲を囲む結界をすり抜けることが出来た。

 

 あくまで無理矢理に力任せに抑え込んでいただけで、整理整頓を出来ない幼子がおもちゃ箱に無理矢理に中身を詰め込んだまま強引に蓋を締めたような状態であり、遠からず内に暴発することになるのだが――それこそが、坂田金時と酒吞童子の儚い時間の終わりとなるのだが、それまでのほんの数日間は、正しく金時にとっては夢のような時間だった。

 

 生まれて初めて恋した少女との逢瀬の日々。

 自分でもどうしてここまで心惹かれるのか分からなかったが――金時は幸せだった。

 

 彼女と話す何気ない一言が、無口で無感情な彼女が時折くれる小さな一言が、金時の胸を容易く燃やした。

 

 彼女の言葉が、彼女の仕草が、彼女の微笑が、彼女の存在が――金時に途轍もない、安心感を与えてくれたのだ。

 

「――――」

 

 分かっていた。

 本当は、分かっていた。

 

 目と目が合った瞬間――すぐに気付いていた。

 

 ()()()――()()()()()()

 

 妖力は全く感じない。只の少女――――違う。

 

 分かっていた。本当は分かっていた。

 

 ()()()()()――自分は彼女に心を奪われたのだと。

 

 違うからこそ、異なるからこそ――自分と、同じであるからこそ。

 

 坂田金時と同じ、誰とも違う、何とも異なる存在だからこそ。

 

 こんなにも――安心し、心惹かれるのだと、分かっていた。

 

 

 だから――いつか。

 

 こんな日が来るとも――分かっていた。

 

 その日、平安京の片隅で、突如として信じられない程に膨大な妖力が出現した。

 

 そこは金時がいつも少女と逢瀬を重ねていた場所で、息を切らしながら源頼光(みなもとのらいこう)と共にそこに向かうと――。

 

 

 少女は人間を食べていた。

 

 

「え――――」

 

 それが、全てが終わった瞬間だった。

 

 少女としては、蓋が外れ、急激に膨れ上がった妖力の反動で――お腹が空いて、手近にあった人間の子供(しょくりょう)をつまみ食いした、その程度の認識だった。

 

 何かが少し違えば、自分も()()なっていた筈だと、当時の金時は冷静に思った。

 

 金時自身も――酒吞童子と同じように。

 自分と違う、自分と異なる、自分よりも遥かに脆く、遥かに柔く、遥かに弱い、人間という生物を――こんな風に、生命とすら思わず、無感情に踏み躙るようになっていたとしても、何もおかしくなかった。

 

 だから、人間を食べる彼女に、この時の金時は怒りを全く覚えず。

 

 ただ――ただ、悲しかった。

 

「…………」

「あ。金時!」

 

 真っ赤に染まった口元で、酒吞童子は金時に微笑みかけた。

 横にいる頼光など視界にまるで入ってすらいない。

 

 だから、酒吞童子の伸ばされた手を、頼光が斬り落とした時――酒吞童子は、金時に拒絶されたと思っただろう。

 

 金時も反射的に手を伸ばした。

 信じられないという顔をした酒吞に、違うのだと叫びそうになった。

 

 それでも――。

 

――英雄になりなさい。

 

 分かっていた。

 母の言葉に従うならば。母の願いを叶えるのならば。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのだということを。

 

「……………………ッッッッッッッ!!!!!!」

 

 金時の中に、幼き時から刻まれた母の言葉と、平安京で共に過ごした子供達の笑顔が蘇る。

 

 戸惑ったけれど、それでも――あの己の身を焼くような暖かさを、捨てることも出来なくて。

 

 向けられた優しさが、与えられた信頼が、贈ってくれた感謝が、振り撒かれた笑顔が。

 

「――――――――――ごめん、酒吞(しゅてん)…………っっ!」

 

 酒吞童子にとっては食糧でも、坂田金時にはもう――人間を、異なる生命とは、思えなくなっていた。

 

 無表情に、無感情に――踏み躙るものでは、なくなっていた。

 

 だから――ゴメンと、そう言って。

 

 坂田金時は失恋した。

 

 伸ばされた酒吞童子の手を掴めずに、代わりに拳を、彼女にぶつけた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 だから、これは――――その報いなのかもしれないと、金時は思う。

 

「――――――――」

 

 黒い嵐に全身が呑み込まれる。

 

 赤雷の鎧で全身を包み込んだが――それでも、少しずつ、毒が鎧を突き破って、金時の身体を侵食していく。

 

(結局、俺が酒吞を拒んだのは――我が身可愛さだった。只の巡り合わせで、既に受けれ入れてくれる環境があった俺と……未だ孤独のままだったお前。……何かが違えば、立場は逆だったのかもしれないのに)

 

 それでも、坂田金時は酒吞童子を拒んだ。

 

 あの時――金時に拳を向けられた時の酒吞童子の表情を、金時は今日に至るまで忘れたことはなかった。

 

(どうすればよかった? あの時、頼光の大将に背を向けて、お前の手を取って、二人で逃げればよかったのか? 日ノ本全部を敵に回して――俺達二人で。お互い、ただ一人だけの理解者を抱えて……)

 

 金時は笑う。

 この期に及んで、それも楽しそうだとか思ってしまう、救いようのない人物(おとこ)に心の底から反吐が出る。

 

(――――泣いてる女の子一人救えなかった奴が――英雄になんて、なれるわけがなかったんだ)

 

 結局、みんなを不幸にした。

 

 源頼光も死んで、平安京も救えず、酒吞童子も――――ああ、と。

 

 金時は、黒い嵐の中で目を瞑る。

 

 

 出遭わなければ、よかったんだ――。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――出逢わなければ、よかったんだ。

 

 金時は、十年前の大江山で、そう、滂沱の涙を流しながら悔いた。

 

 大江山の鬼退治。

 酒吞童子が結集させた全国津々浦々の鬼達が住まう御山への強襲作戦。

 

 その御山の中層で、坂田金時は酒吞童子に完敗を喫した。

 

 まるで待ち伏せるように、頂上にいる筈の酒吞童子は金時の前に現れて――けれど、当然ながら、久しぶりの再会に笑顔など向けてくれる筈はなくて。

 

 金時は結局、確固たる決意を持てぬまま戦い――徹底的に打ちのめされた。

 

 手も足も出なかった。

 身動きも取れない程に痛めつけられ、ただ天を仰ぐことしかできない金時に、小さな鬼は、その金時の髪と同じ色の瞳を――金時の蒼いそれに、グイッと近付けて。

 

「金時――――私のものになって」

 

 そう――愛の告白を贈った。

 

 金時は、その告白に。

 

 身動きも取れず、ただただ――無様に。

 

 

「――――――」

 

 

 酒吞童子は、その返答に。

 

「…………そう」

 

 ただ小さく――何の感情も込めずに返して。

 

 もはや金時のことなど振り返りもせずに、動けない金時を放置したまま、本来の自分の居場所である大江山の頂上へと向かう。

 

 金時は――ただただ惨めで、情けなく、滂沱の涙を拭うことすら出来ずに。

 

――出逢わなければ、よかったんだ。

 

 出遭わなければ――こんな思いをすることはなかった。

 

 出逢わなければ――あんな顔をさせることはなかったのに。

 

 中途半端だ――本当に中途半端だ、坂田金時という男は。

 

 確固たる決意もなく鉞の切っ先を向けた。揺るぎない決意を以て拒絶したわけでもない。

 

 そして、今――自分は、殺されなかったことに、あろうことか、安堵までしている。

 

「…………ふざけるな…………ッ!!」

 

 ふざけるな――ふざけるな。

 

 こんな様でいい筈がない。

 こんな有様で、こんな無様で、英雄になどなれるわけがない。

 

 金時は、そう涙を流しながら己を叱咤して、這いつくばりながら、立ち上がりも出来ないままに、這う這うの体で――山を登る。

 

 そして――遂に辿り着いた頂上。

 

 大江山の頂上決戦を目撃した時――金時は。

 

「―――――――」

 

 倒れゆく頼光を。微笑む綱を。吠える茨木童子を――ただ、見ていることしか出来なくて。

 

 そして――――そして。

 

 そこには――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――――ッッッ!!!」

 

 胸に宿ったのは――どうしようもない、嫉妬だった。

 

 恩人たる頼光を殺された憎しみはあった。

 何も出来ずにただ見ているだけだった己へと怒りなど凄まじかった。

 

 それでも――嘘は吐けない。

 

 己の中を満たした感情は。己の中をぐちゃぐちゃに暴れ狂った激情は。

 

 自分には見せなかった顔を見せる酒吞童子と。

 その表情を、そんな酒吞童子を引き出した――至高の領域に立つ戦士達だった。

 

 今の自分では辿り着けない場所で、酒吞童子と戦っている戦士がいる。

 

 未来の自分でも辿り着けないかもしれない領域で、自分よりも、酒吞童子と分かり合えている存在がいる。

 

 そんな、突き付けられた現実に――どうしようもなく、嫉妬した。

 

(ああ――――そうだ。嫉妬だ)

 

 あれから十年が経ち、金時はようやく、それを受け入れることが出来た。

 

(俺は――誰よりも酒吞童子を分かっている存在でありたかった)

 

 なんと醜悪な願望か。

 

 自分でその手を振り払っておいて、拒絶しておいて、それでも尚――自分が最も近い存在でありたいなんて。

 

 悍ましく――禍々しい。

 この世の誰よりも醜い化物だ。

 

(そんな奴が、あろうことか――英雄だと。我ながらなんて気持ち悪いんだ、反吐が出る)

 

 ああ――それでも、もう、逃げることは出来ない。

 

 逃げて、逃げて、逃げて。

 目を逸らして、見て見ぬふりをして――けれど、もう、逃げることは出来なくなった。

 

 ならば――向き合おう。

 

(俺は――強くなりたい。強くなって、誰よりも酒吞童子の近くに行きたい。それが俺の醜悪な我欲だ)

 

 だから――坂田金時は、笑ってみせる。

 

 俺は、それでも――人間なのだと。

 

 例えどこまで至ろうとも――(ここ)が人間である限り、己は人間なんだと胸を張ると決めたのだから。

 

(だから――――もう、いいよな)

 

 強くなったね――金時。

 

 酒吞童子は、そう笑ってくれたじゃないか。

 

 だから――例え、どんな風になろうとも、どこまでも深く堕ちようととも。

 

「本当に……待たせたな、酒吞」

 

 こんなにも女々しい男でごめんな。どこまでも中途半端でごめんな。

 

 十年以上も掛かったけれど――俺も、そこまで、辿り着くから。

 

 

(――――お前のことが、好きだ。酒吞(しゅてん))

 

 

 だから――俺は。

 

 酒吞童子(だいすきなおまえ)を――殺すんだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その時――黒い嵐の中に、天から巨大な赤い雷が落ちた。

 

 小さな少女鬼は、黒い嵐の中でそれを見る。

 

「…………っ」

 

 ぶるりと、震える。

 

 それは、少女の永い生涯において初めての感覚だった。

 

 恐怖なのか――それとも、歓喜なのか。

 

 酒吞童子は、その時。

 

 己が――笑っていることに気付いた。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 黒い嵐が砕け散り――赤い龍が顕現した。

 

 右半身だけではない。尾だけではない。翼だけではない。

 

 それは、牙があり、角が生え、蛇のように長い体の全身が鱗に覆われていた。

 

 天に向かって放たれる咆哮は赤雷の豪雨を降らせ――ただ一点を。

 

 赤い龍は――酒吞童子だけを見据えている。

 

「は――はは――ははは――――はははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」

 

 酒吞童子は、笑う――笑う――笑う笑う――笑う笑う笑う。

 

 生まれて初めて、腹の底から大声で笑う。

 

「金時――金時金時――金時金時金時金時金時―――――!!!!!!」

 

 男の名を叫ぶ。

 

 変わり果てた男を。生まれ変わった男を。

 

 本性を――正体を――遂に露わにした、愛する男の名を叫ぶ。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 最早、人としての言葉を忘れたかのように、赤龍は再び咆哮し――巨大な雷柱を、酒吞童子に向かって振り下ろした。

 

 酒吞童子は、回避することなく、ただ己の細い肩に――鋭い爪を食い込ませて、笑う。

 

「ああ――――わたしも――――――――きんときと―――――いっしょに」

 

 少女の小さな祈るような言葉は、赤雷に呑み込まれて消えて。

 

 そして――少女も、男に続くように正体を露わにする。

 

「GUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!」

 

 赤い雷の柱を食い破るように顕現したのは――八つの頭を持つ大蛇だった。

 

 赤い龍と八つ頭の蛇が、赤き雷と黒き嵐が吹き荒れる戦場で向かい合う。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」

「GUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!」

 

 正体を明かし、本性を剥き出しにする、二体の龍は――この国でたったひとりの同胞を前に、ただ殺意を剥き出しにして殺し合う。

 

 それはきっと、ふたりだけにしか理解できない世界で――紛れもない、愛の形だった。

 




用語解説コーナー74

八岐大蛇(ヤマタノオロチ)

 日本の神話に登場する、八首の大蛇の怪物。
 
 八つの頭と八つの尾を持つ龍。目は赤く、腹には血が滴っていて、八つの谷と八つの峰を跨る程に巨大であるとされている。どんだけ。

 出雲の斐伊川にて、毎年ひとりずつ美しい娘を生贄として捧げさせていたが、酒吞みという弱点をスサノオに見抜かれて罠に嵌められ、全ての首を斬り落とされる。

 この時、切り落とされた尾からスサノオが手に入れた剣が、かの有名な『天叢雲剣』である。

 酒に酔って奸計によって英雄に退治されるというエピソードが酒吞童子と似通っているが――山神であり水神である八岐大蛇と人間の娘の間に生まれた子供が酒吞童子だという伝説が存在する。

 この世界では、酒吞童子の正体こそが八岐大蛇であった訳だが――。

 その伝説を語る為には、時は遥か昔へと遡る――。
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