比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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――お前だけは許さない。


妖怪星人編――78 ブッ殺してやる

 

「……なるほど。目覚めた『葛の葉(わたし)』の妖力(ちから)がこんなにも乏しいのは……そういうわけなのね、生んだ覚えのない娘さん」

 

 しわがれた老婆は、そう目の前の美女に言った。

 

 かつての自分の写し身のように瓜二つ――そして、ある意味では正しく自分自身といえる『娘』に。

 

「そうね。望んだ子ではなくても、きちんと責任を取って欲しいわ、お母さん」

 

 大妖怪・『葛の葉』の望まれない『疑似転生体』であり、『狐の姫君』として日ノ本の妖怪勢力を纏め上げた美女――『化生(けしょう)(まえ)』は、そう妖しげに微笑む。

 

「生まれてくれと頼んだつもりはないけれど」

「生んでくれと頼んだつもりもないわぁ。全ては親である貴女の責任よ――愛に溺れた、哀れな狐」

 

 本来であれば、死す度に転生を繰り返し、永劫の生に囚われる筈の妖怪・『葛の葉』。

 

 だが、愛を知り、愛に溺れた狐は、その愛を手放すことが出来ず――転生を拒み、愛する人を待ち続けて死せず眠り続けることを選択した。

 

 しかし、永劫の生でなくとも、永遠の眠りを選択した葛の葉は、己を仮死状態にせねばならず――結果、疑似的に死んだ狐は、疑似的に転生することとなった。

 

 それでも――愛だけは手放さず。

 

 結果として――葛の葉としての妖力を受け継いだ転生体(むすめ)が生まれ、仮死状態から蘇った本体にはその残滓(のこりかす)と愛だけが残った。

 

「どうかしら、『葛の葉(お母さん)』。お望み通り、他の全てを失っても、それでも愛だけは失わなかった――その率直な感想は?」

 

 化生の前は、葛の葉にそう皮肉げな笑みを浮かべながら問う。

 

 老婆のような醜い容姿。搾りかすのような乏しい妖力。

 

 かつては『真なる外来種』が一体として。

 化生の前がそうしたように、日ノ本の妖怪勢力を纏めて支配下に置くことも、妖怪王にすらもなれるかもしれなかった程の『器』を有していた大妖怪・葛の葉。

 

 だが、今や見る影もなくなり、全てを手に入れることが出来た筈の力も、国を傾けることの出来た程の美貌も失い、ただ――『愛』だけが残って目覚めた。

 

 その感想を問う化生の前に――葛の葉は、皺だらけの顔を緩ませて答える。

 

「ええ、最高の気分よ。こうして愛だけが残って、私の全部で感じるわ。この愛が、どれだけ素晴らしく、尊いものなのか。これほど愛を感じることが出来て、今、本当に幸せよ」

「――――――」

 

 思わず、言葉を失う。

 

 顔をしわくちゃにして、目の前の望まない転生体に永劫の転生で積み重ねてきた妖力を奪われて――それでも、幸せだと、心の底からそう宣う、その笑顔に。

 

 化生の前は、己の中が騒めくのを感じて。

 

「そう――でも残念ね。本当に残念だわ。それほどまでに素晴らしい愛も――もうすぐきれいさっぱり消えるのだから」

 

 思わず感情的に、殊更に挑発的に、却って己が惨めに感じる程に言葉に棘を含めて言い募る。

 

「百年間、必死で守り続けた愛も、報われることはない! あなたは、結局、愛する人と再会することなく、その生を終えるのだからね! 永劫の生の終わりも、あなたは何も劇的な結末もなく、あっさりと、此処で死ぬのよ!!」

 

 それはまるで――他でもない、己自身を傷つけているようで。

 

「あなたの想いは報われない! あなたの願いは叶わない! あなたの愛は――ここで終わりなのよ!!」

 

 だけど、それは。

 

 どうしようもなく、羨ましく、妬ましく、浅まし――。

 

 

「――どうして? 私の『計画』は、こうして全て上手くいったじゃない」

 

 

 皺くちゃの老婆が、そうしてあっけらかんと言った言葉に。

 

「――――え?」

 

 化生の前だけでなく、離れた所で見ていた平太も、詩希も、訳も分からずに呆けてしまった。

 

「そりゃあ、私もこんな醜いお婆ちゃん状態であの御方と会うことは嫌よ――好きな人の前では、いつだって一番綺麗な私でいたいもの」

 

 かつて大妖怪だった狐・葛の葉は、そうして老婆の見てくれに相応しくない両手を合わせた可愛い子ぶった挙動で――にこやかに、化生の前に言う。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 ゾクっ――と、怖気が走った。

 化生の前は、目の前にいる老婆が、得体の知れない怪物へと変貌していくのを目の当たりにした。

 

 いや――変わっているのは。いや――何も、変わっていないのか。

 

 気付いていなかったのは――見えていなかったのは。

 

 その正体を――見ようとして、いなかったのは。

 

「『娘』が二体になっていることは驚いたけれど、結果的に二体ともこうしてここに居てくれているし。ちょっと『妹』の方は遅れているけれど、それでも『尾』が繋がった気配はあるから、直にこっちにくるでしょうしね。あの御方との再会に間に合えば何の問題もないわ」

「な――にを、言っているの?」

 

 見ていられなくて。見ていたくなくて。

 

 化生の前は思わず口を挟んでしまう。

 先程のように棘は含まれていない――ただ、戸惑いと、恐怖だけが、篭った口を。

 

 何って――と。

 葛の葉は、何の含みも含まれていない、ただただ純粋に――思っていることを口にする。

 

 それが世界の理だと言わんばかりに。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 当然のように、必然のように――理のように。

 

 目の前の『母』は――目の前の『娘』に、死ねと言った。

 

「『化生の前(あなた)』を取り込んで(食べて)、『羽衣(あのこ)』も取り込め(食べれ)ば、『葛の葉(わたし)』晴れて元の美しい姿に戻れる」

 

 そうすれば、堂々とあの御方に逢えるわ――そう、無邪気に、まるで無垢なる童のように、老婆は笑う。

 

「『計画』通り、きちんとあの御方を『(ここ)』まで連れてきてくれて。その上で、こんな素晴らしい『(おくりもの)』まで用意して、『お母さん』と『お父さん』の再会を祝ってくれるだなんて! 本当に『親』思いの『娘』を持ったわ。お母さん嬉しい!」

 

 葛の葉は、化生の前の頭を、優しく撫でながら言う。

 

 余りにも■■■■過ぎて、全く身動きが取れなかった。

 怖くて、怖くて、怖くて――堪らなかった。

 

「『晴明(おにいちゃん)』もきちんと褒めて上げなくっちゃね。星の戦士だったから少し心配しちゃったけど――息子を疑うなんて悪いお母さんね」

 

 反省反省――と、そう言ってニコニコ笑う『母』に。

 

 余りにも恐ろしく――余りにも、悍ましい化物に。

 

 化生の前は、勇気を持って、問い掛ける。

 

「ああ――そう。つまりは――こういうこと」

 

 葛の葉は――化生の前が、そして羽衣が。

 

 自分が望まずに生み出した疑似転生体と、自分が己の願いの為に愛する男の不死の鍵とした娘が。

 

 自分の願いを叶える為に粉骨砕身し、母と父を再会させる『計画』を遂行して。

 

 挙句の果てに、母と父の再会を彩るべく、願いを叶える『箱』を添えて、『葛の葉(はは)』の完全復活の為に、その身と命を喜んで捧げるつもりなのだ――と。

 

 そう――思って、いるのか?

 

「当たり前でしょう? 『葛の葉(わたし)』が作った『(むすめ)』なんだから。親の役に立つ為に生きて死ぬのは当然のことでしょう?」

 

 でなくちゃ、何の為に生まれてくるのよ――そう、何の含みもなく、ただただ意味が分からないので首を傾げているといった風の葛の葉に。

 

 化生の前は――大きく、大きく、息を、吐いた。

 

「………………」

 

 ずっと――知りたいと思っていた。

 分からないのは、『愛』を知らないからだと思っていた。

 

 ずっと継承されてきた知識、自意識が途切れて生まれた存在――疑似転生体であった自分には、ずっとぽっかりと虚が空いていた。

 

 だから――探した。

 それが分かるなら、それが手に入るのならば、願いを叶える『箱』に手を出してでも――と。

 

 化生の前はちらりと平太と詩希に目を向ける。

 

 詩希も葛の葉を悍ましいものを見る目で見ていた。平太は、まるで哀れむように、そして何かを諦めるような瞳で、葛の葉を――そして、化生の前を見ていた。

 

 それを見て、化生の前も。

 何かを手放すような表情で、葛の葉と――『母』たる本体(オリジナル)と向き直る。

 

(ずっと知りたいと思っていた。でも、まさか、こんな風に直接向かい合って――突き付けられるとは、思っていなかったわね)

 

 化生の前は、真っ直ぐに、澄んだ瞳で――『娘』を見てくる『母』に、告げる。

 

「……どうかしらね。『化生の前』は、『葛の葉()』に……なったことはないから、分からないけれど」

 

 ずっとなりたいと願っていたけれど。

 

 ずっと、ならなければと、思ってはいたけれど。

 

 それでも――結局、『愛』を知ることは、出来なかったけれど。

 

「それでも――私には」

 

 化生の前から見た葛の葉は。

 

 愛を知らないケモノから見た――愛だけを抱えるケモノは。

 

「とっても醜い――化物(バケモノ)に見えるわ」

 

 え――と、葛の葉は反応出来なかった。

 

 まるで想像もしていない事態(もの)に――突如として襲われたかのように。

 

 成す術なく――化生の前の九本の尾の中に、あっという間に引きずり込まれていった。

 

「な、何を――!!??」

「大丈夫よ、『葛の葉(おかあさん)』」

 

 混乱する『母』に、『娘』は優しく微笑みかける。

 

「今度は――ちゃんと受け継ぐから」

 

 女を()()()()にしてしまう――その悍ましい『愛』とやらも。

 

 醜い所も、汚い所も、見たくないような所も――全部含めて。

 

()()――『()()()()()()()()

 

 葛の葉は、ここに至ってようやく――自分が殺されそうになっていることに気付いた。

 

「―――――ふ」

 

 自分が殺す筈だった娘に、自分の為に死ぬ筈だった娘に――己が殺されそうになっているという現実に。

 

「ふざけるなッッッ!!!!!」

 

 その醜い相貌を、更に醜く歪めて吠える。

 

「ふざけるな!! 娘が母に――親に逆らうのかッッ!! 親の為に死ぬのが子供の役目だろう!! それを放棄するというのかッッ!!」

 

 もしかしたら――そんな未来があったのかもしれない。

 もしかしたら――その為に、化生の前は葛の葉に逢いに来たのかもしれないとも思う。

 

 ずっと、自分には足りないものがあって――引き継がれなかったものがあって。

 

 それを持っている『母』を見て――あぁ、やはり、自分は足りなかったのだと。

 

 こんなにも素晴らしく尊いものが欠けている自分は、やはり不完全で、不安定な――偽物(クローン)なのだと、そう心から思うことが出来たならば。

 

 この身を『葛の葉(オリジナル)』に差し出して、『娘』として『母』の為に死ぬことが出来たかもしれない。

 

「い、イヤ! 嫌だ! 嫌よ!! やっと逢えるのに!! すぐそこにいるのに!! 会いたい逢いたい遭いたい!! 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない逝きたくないぃぃぃいいいいい!!!」

 

 助けて、将門様ぁぁああああああああああ!!! ――と、『母』は。

 

 最後まで――『娘』の名前を、呼ぶことはなかった。

 

「さようなら。逢えて嬉しかったわ、『お母さん』」

 

 頑張って、素敵な『葛の葉(あなた)』になるからね――そう、化生の前は、醜く恐ろしい化物を見たくなくて、俯きながら、『尾』に力を入れて。

 

 ぐしゃっと、九本の尾の中で老婆を潰した。

 

 生まれて初めて、生命を潰して、気持ち悪いと思った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そこは真っ暗な闇の中だった。

 

「ここが、『慿霊空間(ひょうれいくうかん)』――彼の心の世界ですか」

 

 完全に発狂し、精神を崩壊させた青年。

 烏天狗はその隙を逃さず、(さとり)の異能で青年の『箱』――つまりは『魂』の容れ物の中へと己の意識を潜入させた。

 

 烏天狗が足を進めていると、暗闇の中でぐったりと項垂れたまま動かない人影に気付く。

 

「……ふっ。空間の主も、こうなってしまえば、只の人形と同じですね」

 

 それは、本来のこの世界の主である青年の心だった。

 しかし今は烏天狗の言葉通り、侵入者である烏天狗を排除することも、心の核を守る為に行動することしない――出来ない。

 

 まるで人形のように――心を失っている。

 

 そして、烏天狗はそんな青年を無視して、そのまま足を進めていく。

 心の主がここにいるのなら――それはもう近くにある筈だと。

 

 案の定、それはそこからほど近い場所で見つかった。

 

 ただただ真っ暗な闇が広がる中で、ただ一つ、淡い光を放つ球体。

 

「これが――心の核ですね」

 

 本来であれば、青年の心はこの核の傍らに立ち、『慿霊(ひょうれい)』で招いた魂をこの核の下に導いて、一時的に核の主導権を渡す。

 

 招かれた『魂』は、この核に呪力を流すことで慿霊し、この身体の操縦権を手に入れる。

 

 通常ならば、招かれた魂は、この核が壊れない塩梅を見極めて慎重に呪力を流すのだが――生憎ながら、今、この核に触れているのは、そんなお行儀のいい英雄ではない。

 

「ただ呪力を流すわけではない。この核の色を変える程に――己の妖力を流し込み続ける。この淡く儚く頼りない光が、私の妖力と同じくドス黒い色へと変貌を遂げれば、その時こそ! この『箱』の、この『慿霊空間』の主は私となることでしょう!」

 

 烏天狗は邪悪な笑みと共に、心の核を乱暴に掴み上げる。

 

「手に入れるぞ! この『箱』を! この身体を! この『慿霊体質』を!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 暗い。

 

 暗くて、寒くて――何も、感じない。

 

 どうして――こんなことになったのだろう。

 なんで――こんなことになってしまったのだろう。

 

 僕は――何がしたかったのかな。

 僕は――何のために、何をしようとして、何ができなかったのかな。

 

 目を開けている筈なのに、何も見えない。

 耳を塞いでいない筈なのに、何も聞こえない。

 

 ただ――ずっしりと、僕の上に乗せられた、妹の死体の重さだけを感じる。

 

「………………」

 

 ごめん。

 ごめんな――こんなお兄ちゃんで。

 

 何がしたかったかも分からないし、何も出来なかったかもしれないけれど。

 

 それでも――僕は。

 

 僕は――それでも――お前のことだけは。

 

 ああ――何も感じないのに。何も、もう――感じたくもないのに。

 

 お前の、ぽっかりと空いたお腹から流れる――血の感触だけは、やけに鮮明に、何も出来なかった僕に、突き付けるように。

 

「………………?」

 

 血の――感触?

 

 血の感触を感じる。血の匂いも、その特有のぬめぬめとした感じも伝わる。

 

 妹の血は――まだ、固まっていない?

 

 まだ流れ続けている? 殺されてまだ、そんなに時間が経っていない?

 

 なら――まだ、可能性はあるのか? まだ――もしかしたら、助かるかもしれないのか?

 

 まだ――僕は。

 

 間に合うかも、しれないのか?

 

「…………………」

 

 そう、思ったのに。そう、思うことが出来たのに。

 

 僕の現実世界の身体は、僕の精神世界の心は――ピクリとも、その身体を、動かしてくれない。

 

「………………」

 

 ああ――分かっている。分かっているんだ。

 

 動かなくちゃいけないことも――だけど、動いても、無駄だということも。

 

 あれほど、無駄と分かっていても、赤の他人を助ける為なら――偽善だろうとも助けようとしていたのに。

 

 偽善だろうと、動くことが出来たのに。

 

 自分の家族を助ける――その時に限って、もう、心も体も、動けない。

 

 ここから一番近い避難所まで、果たしてどれくらいかかる?

 

 僕の身体は烏天狗に徹底的に嬲られて、もう指一本動かせないんだぞ。

 

 間に合ったとして、妹だけ助けるのか? 母は見捨てるのか?

 二人ともこの出血量だ。運んでいる最中に完全に亡くなる可能性の方が高い。この傷は避難所で助けられる重症度なのか。戦争も終盤だ。治療師も薬も枯渇している。そもそも烏天狗がそれを許す筈がない。僕の死んでいる心を更に折る為に目の前で更に惨たらしく止めを刺すに違いな――。

 

「………………」

 

 ああ――嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 

 死んでいる心から涙が出るのを止められない。

 

 助かるかもという希望を持つことが――辛くて耐えられない。

 母を、妹を、助ける為に動く理由を否定する自分が耐えられない。

 家族を助ける為に動かない理由を列挙することに腐心する自分が――余りに醜くて悍ましくて耐えらない。

 

 ああ――気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

 

 死にたい。

 

 死にたい。死にたい。死にたい。殺してくれ。殺してくれ。殺してくれ。

 

 もう――僕は。

 

「………………ごめん」

 

 ごめん。ごめん。ごめん。

 

 駄目なお兄ちゃんで――本当に、ごめんな。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その時――奇跡が起きた。

 

 否――奇跡ではなかったのかもしれない。

 

 例え、青年の心を折る為に。

 

 もう自力では一歩も動くことが出来ない青年の身体の上に、わざわざ烏天狗が、同じく一歩も動けない妹を運んで乗せたことが、偶然だとしても。

 

 たまたまその体勢が、お互いの手が重なり合うような状態であったのが、偶然だったとしても。

 

 そして、更にたまたま、青年の言う通り、殺されてからまだ間もない妹の身体が――ピクリと、僅かながら、動いたことも。

 

 もう、一歩も動けず、立ち上がれず、力も入らず。

 

 指一本動かせない青年の――指に。

 

 ピクリと、動かない筈の指が――妹の、指が。

 

 そっと――偶然、重なり合ったことも。

 

 そして――そして――そして。

 

 何の才能もない、ただ特異な体質を持っていた兄の――妹が。

 

 ほんの少し、呪力を流すことが、今わの際で出来るようになったということも。

 

 全ては偶然で――奇跡ではなない。

 

 しいて、理由をこじつけるのならば――きっと。

 

 それはきっと――たぶん、『愛』の力だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 世界が塗り替えられる。

 

 真っ暗な闇だけで、何も無かった世界が――変わる。

 

「な――なんだ!?」

 

 未だ顔を上げることしか出来ない僕は、ただそれを見ていることしか出来ない。

 

 何もなかった空間に――『家』が現れる。

 

 それはついさっきまで、そして――今、僕が現実世界で項垂れ続けているだあろう場所。

 

「――僕の……家……?」

 

 だが、その家は、未だ破壊されていなかった。

 

 家の中を真っ暗にし、布団の中で抱き合いながらガタガタと震えて――けれど、未だ生きている、未だ死んでいない、もはやこの世界でたった二人の家族。

 

「………なんで」

 

 これは――何だ。何が、一体、どうなっている?

 

 僕は何を見せられている。

 

 これから、一体、何が始まるんだ。

 

 ガタガタと、扉が揺れる音。

 身を竦める二人を安心させるように――あるいは絶望させるように、扉の前から言葉が届く。

 

「――大丈夫。家の前の妖怪は、みんな死にましたよ。安心して出てきてください。まぁ、お兄さんのお仲間の武士達も、ついでにみんな殺してしまいましたが」

 

 母を守るように立つ妹が――鋭い声色で誰何する。

 

 それに応えるように、敢えてゆっくりと扉を開けて、現れた影は――烏天狗(からすてんぐ)だった。

 

「な――!?」

 

 烏天狗――どうして。

 

 いや――まさか――そんな。

 

「私の事情で、お兄さんの心を壊す必要がありまして。その為にうってつけなので、貴女方には死んでもらおうかと思います。よろしくおねがいしますね」

 

 その言葉が言い終わる頃には、母の全身に烏の羽が突き刺さっていた。

 

 母上ッッ!! ――という妹のつんざくような叫びと、烏天狗の愉悦の哄笑が響き渡る。

 

 そして、僕が見つけたあの時のように、母が布団の上に寝転がるように倒れ込む。

 

「――――っ!!」

 

 僕と目が合った。

 

 いや、これはあくまで――きっと、記憶の世界で。

 

 だから僕は、ここにいるけど、ここにいない。

 

 しかし、それでも――母の顔は、あの時に見せられた、烏天狗の幻視そのもので。

 

 なら、もしかしたら――――あれは、烏天狗の作り出した幻、ではなく。

 

 僕が、母の死の瞬間を見ている衝撃と、悲しみと――そして恐怖で、思わず目を逸らしそうになっていると。

 

 今わの際の母は、まるで――僕のことが見えているかのように、涙を流しながら、言った。

 

「……ごめんなさい。最期まで……駄目な、お母さんで」

 

 それは、いつも傍で自分を守り続けてくれた、妹に向けられた言葉なのかもしれない。

 

 だが、ずっと自分を呪い続けていたと思っていた母の目には、薄れゆく命の中で――確かに、暖かい、愛があって。

 

「あなたたちは……私の誇り。……どうか、逃げて。……どうか――生き……て」

 

 母の命が消えた――それを見届けた瞬間、背後から妹の血が降り注いだ。

 

 ゆっくりと振り返ると、そこには倒れゆく妹の身体――そして、その向こう側に、愉悦に表情を染めた、烏天狗がいて。

 

「あ――」

 

 跪いたまま、立ち上がれないまま、それでも受け止めようとした――だが、薄っぺらい僕の身体は、あくまで幻だというように、僕の身体をすり抜けて、妹は僕が見つけたあの時と同じような体勢で、身体にぽっかりと空いた穴を見せつけるように倒れ伏せる。

 

「これで――準備は整いましたかね」

 

 烏天狗はそれだけ呟き、家を無残に破壊して、乱暴に殺害現場を後にした。

 

 残ったのは、母の死体と、妹の死体、動けない兄の幻と――そして。

 

『――――ごめんなさい、兄上』

 

 呆然と跪く兄を――見下ろすように。

 

 自分と同じく透けている、淡い光を放つ――綺麗な妹の姿があった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 烏天狗はその光景を驚愕と共に傍観していた。

 

(まさか、こんなことが――排除するか? いや、()()も私や彼と同じく只の精神体。あれを消す為には、改めて現実世界に戻り、死体に止めを刺さなくてはいけないが――)

 

 既に心の核の侵食を始めてしまっている烏天狗が現実世界に戻るには、この心の核から手を離さなくてはならない。その場合、どんな反発が起こるか予想出来ない。

 

(それに、あの精神体は既に相当に()()()()()。妹の方は、本体も正に虫の息だ。間もなく完全に死ぬでしょうね)

 

 ならば、今は一刻も早く心の核の支配を完了させるべき――そう考え、烏天狗は核に注ぎ込む妖力の出力を更に上げる。

 

 ガラガラと風景が崩れ落ち、再び只の闇へと戻ろうとしている精神世界に「――ごめん!!」と、青年の情けない叫びが木霊した。

 

「ごめん! ごめんな! 僕は――僕は、お前を! 母さんを!!」

『……ううん、いいの。兄上。私の方こそ――本当に、ごめんね』

 

 淡い光を放つ妹は、膝を曲げながら、跪く兄の顔を、優しく包み込みながら、淡い笑顔で言う。

 

『私、家を守れなかった。母上を守れなかった。――家を守るのは私だって、そう兄上と約束していたのに』

 

 兄の顔の血を、汚れを拭きながら――妹は、悲しげな笑顔で、慈しむように言う。

 

『兄上は――こんなにボロボロになるまで、私達の為に戦ってくれていたのに』

 

 兄は、妹の顔が直視出来ない。

 

 違う――違うんだよ、妹よ。

 

 兄は、ただ――何も出来ずに、何も成し遂げることなど出来ずに。

 

「……違う……違うんだよ……僕は――」

『――ううん。もう、いいの。兄上――もう、いいのよ』

 

 妹は、兄の顔を抱き締めながら、もういいのと、優しく包み込んで――許しを、与える。

 

『まだ、おにいちゃんは生きてるじゃない。もう、それだけでいいのよ』

「……ごめん。僕は……本当に……僕は」

 

 こんな時に至っても、立ち上がれない自分が許せなかった。

 

 どれだけ妹が許しをくれても、誰よりも己が許せなかった。

 

 だから――もう。

 

 僕は――もう。

 

『いいよ。戦わなくていい。私達の仇なんて討たなくていい』

 

 私達の為になんて、戦わなくていいから。

 

 妹は、そう微笑みながら、兄の情けない顔を真っ直ぐに見詰めて。

 

 祈るように――願うように、言い遺す。

 

『だから――生きて』

 

 戦わなくていい。立ち向かわなくていい。もう、ずっと、立ち上がれなくてもいいから。

 

 だから――どうか、と。淡い光が、無様な兄を包み込む。

 

『兄上だけでも――幸せになって』

 

 それは、優しくて残酷な呪いだった。

 

 偉大なる妹が兄に残す、呪いのような――愛だった。

 

 光の粒子となって兄を包み込んだ妹の精神体は、消失し――今度こそ、救いようもなく、死んだ。

 

(ああ――本当に、なんと偉大な妹だ)

 

 精神世界に入れたってことは、妹には呪力の才能があったということだ。

 今わの際に、何の修行もしていないのに、これまで自分が『慿霊空間(このせかい)』に導いた数多の英雄と同じ偉業を成し遂げて見せた。

 

(きちんと修行をさせてやれば……きっと、僕なんか及びもつかない戦士に――英雄にだって、なれた筈だ)

 

 僕が家に縛り付けなければ。僕が彼女に甘えて、何もかも押し付けて、その自由を――未来を奪った。

 

 幸せを――奪ったのだ。

 

 僕のせいで、妹は死んだ――そう、青年は唇を噛み締めて。

 

 けれど――()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――――ッッ!!!」

 

 青年は――立ち上がる。

 

 もう立ち上がらなくていいと、言われたからこそ、立ち上がる。

 

 もう戦わなくていいと――仇など取らなくていいと。

 

 そんな愛を貰ったからこそ、青年は――失った心を奮い立たせて、戦う決意を手に入れた。

 

「烏天狗――お前だけは許さない」

 

 心の核をドス黒く染めようとしていた妖怪を、こちらを不敵な笑みで見据えてくる怪物を。

 

 真っ直ぐに指差しながら、凡庸な兄は「僕は――お前に何も渡さない」と、殺意を込めて宣言する。

 

「――ブッ殺してやる」

 

 そして、世界が――眩く発光し、再びその景色を変える。

 




用語解説コーナー78

・青年の妹

 崩壊が確定していた家族を救った英雄。

 とても強く、とても賢く、とても優しく、とても可愛い少女だった。

 家族を心から愛していた為、家事を完璧にこなし続ける日々に不満などなかったが、人並に恋愛にも興味はあった為、兄と母が和解し自立したらお婿さんでも探そっかなくらいに思っていた。兄が悲観するほどこの時代の初婚年齢を過ぎていることを気にしていなかった。家柄ステータスは皆無だが、それでも結婚くらい出来ると思えるくらいには、自分のステータスを自覚していた少女だった。それに何よりもブラコンだった。

 そして、今わの際に判明した通り、呪力の才能もあった。
 兄程にレアな異能を持っているわけではないが、それでもこの時代の日ノ本においては特筆すべき才の持ち主であった――当然、全てを見透かす陰陽師は、この少女の才もまた見透かしていたが、それを見殺しにすることを選んだ。

 この少女の死によって――より特異な才が、覚醒することをも見透かしていたからだ。

 そして今――その特異極まる才能が、歪極まる羽を広げ始める。
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