比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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さらば――鬼よ。


妖怪星人編――81 鬼退治

 

 世界は美しいものだと信じていた。

 

 努力は必ず報われるし、好意には好意が返ってくるし、善人は幸せになれるものだと信じていた――(よこしま)なものなど存在しないと、無邪気にも信じ込んでいた。

 

 美しい父と美しい母から生まれた美しい子として、渡辺綱(わたなべのつな)は生まれた。

 生まれた時には美しい父は亡くなっていたし、すぐに養子に出されたので美しい母とは美しい思い出は残せなかったけれど――誰もが美しい人だったというから、きっと美しかったのだと綱は信じている。

 

 ちなみに、この時、綱は渡辺ですらなかった。

 

 父を亡くしていた綱は、摂津源氏(せっつげんじ)源満仲(みなもとのみつなか)の娘婿である源敦(みなもとのあつし)の養子となる。

 この時、義母方の故郷である「渡辺」の地に移り住んだことで――己が姓を渡辺としたのだ。

 

 何故なら――美しかったからだ。

 自然も、景色も、住まう人も、育まれる営みも――何もかもが、美しかったからだ。

 

 何と美しい世界なのだろうと、綱は思った。

 父を知らぬ自分を、母と離れ離れになった自分を、こんなにも暖かく迎えてくれて、こんなにも恵まれた環境を与えてくれる。

 

 だから――本当に、裏切られたと感じた。

 

 己を迎えてくれた「渡辺」の地が、鬼という怪物に蹂躙された時は。

 

 生まれて初めて見た妖怪が奴等だった。

 こんなにも醜い化物が存在したのかと吐気がした。

 

 今までこんな美しい世界を生み出してくれたと感謝していた神に失望すら覚えた――どうして、こんな醜悪な怪物を野放しにしているのかと。

 

 神が滅ぼさないのならば――自分で退治しようと思った。

 

 鬼という存在をこの世界から一体残らず駆逐する。

 

 それが、この日、この瞬間から、渡辺綱の生きる理由になった。

 

 結果的に、渡辺の地を襲った鬼は、たった一人の若者に駆逐された。

 

 討伐部隊が近隣住民からの報せを受けて向かった時、彼等が見たのは鬼の死体を叩き据え続ける一人の男の姿だった。

 

 決して大きくはない一つの集落において、たった一人の生き残った男の子であった。

 

 少年が手に持っていたのは、何の変哲もない只の木の棒。

 それは若者の身体と同じく鬼の返り血で真っ赤に染まっていて、鬼から強奪した金棒のようにも見えた。

 

 鬼に金棒を叩き付ける怪物。

 それが、討伐隊が発見した、渡辺綱という少年の第一印象であった。

 

 無表情で、何もかも感情を失ったかのような面相で、鬼の死体への攻撃を止めない綱に誰もが恐怖し、近付けもしない時。

 

 たった一人、血塗れの少年の下に歩み寄る男がいた。

 

――見事な才能だ。どうだ? その才を、その憎悪を、俺の下で存分に振るってみないか?

 

 それは、少年の真っ赤に濁り切った眼に、美しさというものを取り戻してくれた男だった。

 

 美しい――と、思った。

 こんなにも美しいものが存在するのかと思った。

 

 ああ――世界には、まだ美しいものが残っていると、そう思わせてくれて、そう思い出させてくれて、綱は人間で在り続けることが出来た。

 

 その男は、決して見てくれが常人離れに美しかったわけではない。

 容姿ならば美貌の血脈を受け継ぐ綱の方が美しいだろう。

 

 だが、男は存在そのものが輝きを放っているが如く美しかった。

 それはまるで――何かに、選ばれた存在であるかのように。

 

 男の名は――源頼光(みなもとのらいこう)といった。

 綱の養父の義父――つまりは義祖父の実子であり、後に神秘殺しとして名を馳せることになる源氏の棟梁と。

 

 その男の『右腕』となり、後に頼光四天王筆頭と言われ人界最強の剣士となる男――渡辺綱との、これが運命の出会いであった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 渡辺綱は人間である。

 

 茨木童子や酒吞童子のような妖怪ではないし、安倍晴明や坂田金時のように半血ではないし、藤原秀郷や源頼光のように星に愛された戦士でもない。

 

 卜部季武や碓井貞光らと同じく、英雄と言われるほどのある程度の星の恩恵を受けてはいるが――その身は間違いなく、只の人間である。

 

 彼は、ただ、その生来の、生粋の、生まれ持った才能だけで――この領域に辿り着いた、最高の天才だった。

 

 しかし、それでも、只の人間であることには変わりない彼にとって、鬼の攻撃は間違いなく脅威だ。

 綱の『鬼切』が鬼にとって必殺の刃であることは前述の通りだが――それは何も、綱の絶対的な優位性を意味しない。

 

 攻撃を受ければ死ぬ――そんなことは、鬼と相対する人間にとっては当たり前の常識に他ならない。

 

 それも、この国で最上級の鬼であり、至高の領域の住人たる茨木童子の攻撃ならば、尚のこと。

 

 只の人間である綱は――既に瀕死の重体であった。

 

 鬼の左、そして黄金の右。

 たった二発――されど、共に、茨木童子渾身の攻撃。

 

 それをまともに受けた綱は、人間として最高峰の呪力を持っている英雄といえど――いや、だからこそ、こうして立ち上がることは出来るが。

 

 何の変哲もない、混じり気のない純粋な人間の身体は、既に悲鳴を上げていた。

 

 目の前の――鬼から逃げろと、生命の危機を訴え、生物として当然の警鐘を鳴らしていた。

 

 それを――『鬼殺し』たる英雄は、一笑に伏せ、強引に捻じ伏せる。

 己の中の怯えを、恐怖を――圧倒的な憎悪によって圧し潰す。

 

 鬼が目の前にいる。

 ならば殺す。だから滅ぼす。

 

 それ以外の選択肢など、あるものか。

 

 血を吐き、それを手の甲で雑に拭いながら――渡辺綱は、茨木童子に笑みを向ける。

 

 生物として元来の意味通りの笑顔――つまりは、攻撃意思の表明。

 

 死に瀕していようとも、変わらぬ敵意、戦意、そして殺意に。

 

 茨木童子は――化物めと吐き捨てながら、その黄金の右腕を輝かせる。

 

「――流石だ、綱。だが、いくらお前といえど、もう後はあるまい」

 

 一条戻橋の上に立ちながら、右拳を見せつけるように固める茨木童子に――渡辺綱も、笑みを浮かべたまま吐き捨て返す。

 

「……ふっ。後がないのは、貴様もだろう、茨木」

 

 ぐらりとふらつく身体を、強く一歩を踏み出すことで誤魔化しながら、綱はその――『黄金の右腕』を指差して言う。

 

「その『右腕』――その黄金の輝きの源は『星の力』。つまりは外敵を――『妖怪』を排除する力だ。その力を使えば使うほど、それは『鬼』であるお前の身体と生命を蝕んでいくのではないか?」

 

 星の力は、己を脅かす外敵――『星人』を排除する為に、在来種たる『人間』に『星』が与える支援の力。

 

 それを右腕に宿し、武器とするなど、鬼の身体に何も影響を及ぼさない筈がないという綱の指摘に――茨木童子は。

 

「ああ、そうだな――だが、それがどうした?」

 

 茨木童子は、その黄金の右腕で――己をも脅かす灼熱の輝きで以て夜闇を照らしながら、宿敵に向かって堂々と言い放つ。

 

「お前を殺せた後は、この右腕をすぐさまに切り落とし、俺は酒吞の下へ向かう。お前を滅ぼす為ならば、俺は星の毒すらも利用してやる。ただそれだけのことだ」

 

 死に瀕していようとも、変わらぬ敵意、戦意、そして殺意に。

 

 渡辺綱は――その鬼殺しの白刃を向けながら。

 

 ああ、美しいな――と呟きを落とす。

 

 渡辺綱は鬼を殺す天賦の才を持っていた。

 

 それはあの渡辺の地で、生まれて初めての憎悪と殺意の海に潜り、濁った真っ赤な世界に叩き込まれた、生涯初めての鬼殺しの最中に目覚めた才能。

 

 綱には、鬼の命の灯火をその目で見極めることが出来た。

 ここに攻撃を叩き込めば殺せるという急所、隙――どす黒く濁り切った醜い鬼の身体の中で、綱にはそれらが光って見えるのだ。

 

 だからこそ、何の変哲もない木の棒で、体躯も仕上がっていない少年が、何体もの鬼を殴り殺すことが出来た。

 

 だが、目の前に相対する茨木童子――この鬼に対しては、その光が見えない。

 その黄金の右腕の輝きが、その全てを塗り潰す。

 

(思えば――お前は、ずっとそうだったな、茨木)

 

 茨木童子(いばらきどうじ)

 渡辺綱が出遭った中で、間違いなく最強の鬼である宿敵。

 

(酒吞童子……奴は、また――()()。どちらかといえば金時に近い。鬼のようで、鬼ではない。鬼ではないようにみえて、鬼である存在。……鬼に似ているというよりは、()()()()()()()()()()()ように思う。同じではあるが、同じではない。ともなく、奴はそういう怪物だ)

 

 実を言えば、例え『鬼切』であっても、酒吞童子を滅ぼせるかどうかは怪しいと思っている。

 茨木童子の十年間を根本から覆すことになるが、それが綱の正直な思いであった。

 

(だからこそ、俺が知る中で――最強の鬼は、最高峰の鬼は、間違いなく茨木童子だ)

 

 綱の目には鬼は醜悪な泥の塊のような怪物に映る。

 より強大で、より純粋な――鬼であれば鬼である程に、それは醜悪な汚泥となる。

 

 茨木童子は、渡辺綱が出遭った中で、最も醜悪な鬼だ。

 だが、それでいて、その醜悪極まりない鬼は、それでも美しい何かを放っていた

 

 それは――渡辺綱を救ってくれた英雄である、かの星の戦士と同じように。

 

(お前は何よりも醜いのに、その美しい光によって、他の鬼のように欠陥たる隙の光がまるで見えない)

 

 綱の鬼切の刃を、茨木童子の黄金の右腕が弾く。

 そして、醜悪な汚泥の中で――その赤い瞳だけが、綺麗な宝石のように綱を睨み据えている。

 

(ああ――やはり、俺の目は正しかった)

 

 最も醜い鬼でありながら、最も美しい――英雄。

 

 この先、コイツ以上の鬼は決して誕生しないだろう。

 

 だからこそ――。

 

「――お前が俺の終着点だ、茨木」

 

 あの日、あの時――綱は世界が美しいだけでなく、醜いことを知った。

 

 渡辺の地で、鬼を一体残らず駆逐すると決意し、綱は今日まで戦い続けてきた。

 

 だが――いつかは終わりが来る。

 

 いつかは、この復讐を終わりにして――現実と向き合わなくてはならない。

 

 渡辺綱を救ってくれた英雄が、『大江山』へと赴く前に、『髭切』を綱に託したように。

 

 死の間際に――アイツ等を頼むと、そう託して去ったように。

 

 だからこそ――だからこそ。

 

「『茨木童子(キサマ)』を滅ぼすことで、『渡辺綱(オレ)』の『鬼退治(復讐)』は完遂する」

 

 この世で最も強き鬼であり、この世で最も醜き鬼であり――この世で最も美しい鬼。

 

 茨木童子を屠ることで、永きに渡る鬼退治に片を付けると、そう宣言する綱に。

 

「こちらの台詞だ、『鬼殺し』。鬼の天敵であり、最も多くの鬼を滅ぼした仇敵であるお前を殺し――俺の十年の……俺の生涯の、贖罪としてみせる!!」

 

 これが――最後の戦いだ。

 

 そう叫びながら、両者は一際強く、右腕と鬼切を叩きつけ合い――橋の端から端まで距離を取る。

 

「行くぞ――英雄(バケモノ)!」

 

 渡辺綱が妖刀『鬼切』に渾身の呪力を込める。

 

 青白い光が刀身を包み込む。これが、渡辺綱という天才の到達点。

 力の総量では勝負にならない。だからこそ薄く、鋭く、研ぎ澄ます――それが、人間が、鬼に立ち向かう為の唯一の手段。

 

 思い起こすは――己が思い描く最強の存在。始まりの英雄。

 真っ赤に染まり、澱んだ世界に堕ちて行こうとしていた自分を繋ぎ止めてくれた――たった一人の、己が主。

 

 源氏の棟梁。

 

――綱。お前は強くなる。俺よりもずっと、多くを救う英雄になれる。

 

 刀を鞘に納めて――集中する。

 

 一太刀で空間を縦横無尽に切り裂く御業――源頼光の奥義。

 

 神が秘す怪異を切り裂く――その技に、全てを込める。

 

「来い――化物(にんげん)!」

 

 茨木童子が黄金の『右腕』に妖力を込める。

 

 灼熱の光が右腕を包む。これが、茨木童子が手に入れた禁断の力。

 力の影響は我が身をも蝕む。だからこそ大きく、烈しく、膨れ上がらせる――それが、鬼が、英雄に打ち勝つ為の唯一の手段。

 

 思い起こすは――己が思い描く最強の存在。終わりの怪物。

 何色にも染まらず、孤独の世界で死んで行こうとしていた自分を掬い上げてくれた――たった一人の、己が主。

 

 鬼の頭領。

 

――茨木。……私は…………ここに……いて…………いいの?

 

 拳を密に固めて――集中する。

 

 一挙手で空間を問答無用で貫き穿つ力業――酒吞童子が猛威。

 

 神が守る人界を破り砕く――その力を、此処に現す。

 

「うぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

「がぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!」

 

 眩い拳が迸る。

 

 光が如き速度で放たれた衝撃は、一条戻橋の上を走り――橋の中央で標的に辿り着く。

 

 身体が引き裂かれそうだった。自分の肉体の限界を超えた動きを再現する為に、強靭なだけが取り柄の赤鬼の身体が悲鳴を上げていた。

 

(酒吞――やはり、凄いな、お前は)

 

 茨木童子は酒吞童子にはなれない。茨木童子は酒吞童子の場所にまでは――辿り着けない。

 

 星の力という禁断の支援に手を伸ばしても――たった一度、たった一挙動を再現するので精一杯。

 

 だが――それでも。

 

 あの日、抱いてしまった、憧れを捨てることは出来なかった。

 

 一回――この、一回だけでいいから。

 

 これで終わりする。これで全部、終わりだから――。

 

 だから、これだけは――届いて欲しい。

 

 そう思い、放たれた渾身の右拳を――。

 

 渡辺綱は――――――()()()

 

「――――――――――な」

 

 不可能だ――そう茨木童子は瞠目した。

 

 振り抜いた右拳は、綱の長い髪のみを吹き飛ばした。

 

 馬鹿な――有り得ない。

 光が如き速度で放たれた拳を、太刀で迎え撃つはおろか、人間の挙動のみで回避するなど。

 

 だが、渡辺綱は出来た。

 他でもない、茨木童子の攻撃だからこそ。

 

 あの大江山の頂上決戦にて、誰よりも茨木童子を見据え。

 

 己と同じく、たった一人の主へと向ける――憧憬の視線に気付いていたから。

 

(――お前は、酒吞童子と同じ攻撃に、全てを託すと分かっていた)

 

 たったひとつ――異なるのは。

 

 渡辺綱が選んだ最後の攻撃は――源頼光が、綱ならば辿り着けると遺した技であり。

 

 茨木童子が選んだ最後の攻撃は――酒吞童子が、ただ本能のままに振るっていた、茨木童子では辿り着けない力であったということ。

 

「俺の勝ちだ――――」

 

 茨木童子の攻撃を避け、懐に潜り込んだ綱は――鬼を殺す刃を抜刀する。

 

 刀を振るう――その、数瞬後。

 まるで時が追い付いたかのように、縦横無尽に斬撃が奔る。

 

 鬼の身体をすり抜けるように斬り裂く刃は、茨木童子の赤い肌を面白いように滑り――そして。

 

 茨木童子の『右腕』を、肩関節ごと、宙空へと吹き飛ばした。

 

「ああ――俺の、敗北(まけ)だ……ッ」

 

 赤鬼の(おお)きな身体を、更に赤く染め上げるように鮮血が噴き出す。

 

 ドボンと、一条戻橋から落ちた黄金の腕が、川の流れに乗ってどこかへと運ばれていく。

 

 再び、右腕を失った鬼は、そのまま橋の上で倒れ込み――眠るように、目を瞑る。

 

「さらば――鬼よ」

 

 復讐を終えた武士は、赤い月を見上げながら呟く。

 

 不気味で、異様ながら――美しいと、綱は感じた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 酒吞童子(しゅてんどうじ)は、幼い少女の精神性を有している怪物だった。

 

 無論、実年齢として幼いわけではないけれど、彼女の心は培われることなく成長しない――永遠の少女で、永劫の怪物だ。

 

 彼女は何者にも影響を受けない。

 彼女は何物にも執着を見せない。

 

 彼女の世界は変わらない。

 全てが無色で、あらゆるものが凪いでいる。

 

 そんな彼女の世界において、登場人物として明確に認識されたのは――たった、三体。

 

――俺がお前の『右腕』になってやる。俺が、お前の『家族』を作ってやるよ。

 

 そう言って、ひとりぼっちだった彼女に『家』をくれた鬼と。

 

――あなたが『妹』のように可愛かった。いつかきっと、あなたを救ってくれる『英雄』が現れるわ。

 

 そう言って、冷たかった彼女の身体を抱き締めて『愛』をくれた鬼と。

 

 そして――そして。

 

――――酒吞。

 

 それは、鬼ではなかった。それは、人ではなかった。

 

 それは世界において異質で。それは世界にとって異常で。

 

 それは誰とも違っていて。それは何とも異なっていて。

 

 生まれて初めて出遭った――自分と同じ存在。

 

 自分と同じく、存在しては、いけない存在。

 

 自分が鬼の振りをしているように、それは人の振りをしていて。

 

 だからこそ、ずっとずっと逢いたかったけど――だからこそ、決して遭ってはならなくて。

 

 けれども――出遭ってしまった。出逢ってしまった。

 

 一目で理解した。

 

 真っ暗な闇の中で、灯篭の光だけが照らす夜道で。

 

 ぽつんと、所在なさげに、自分の居場所などないとばかりに孤独に立っていた男。

 図体ばかりが大きくて、けれども心は幼くて――安心できる、拠り所を探していて。

 

 こちらを見て、頬を染めて、陶然と見遣る――それを見て。

 

 酒吞童子は、凪いだ自分の世界に、小さな火種が生まれるのを感じた。

 

―――――あ。

 

 欲しい、と、思った。

 

 何にも影響を受けない筈の少女が。

 何にも執着を見せない筈の怪物が。

 

 欲しいと。手元に欲しいと。近くに居て欲しいと。

 

――私のものになって。

 

 だけど――生まれて初めて欲しいと思ったものは、手に入らなくて。

 

――俺は人間なんだよ。

 

 どうしてそんなことを言うのか。

 

 お前は人間ではない。私が鬼ではないように。

 

――俺は英雄になる。

 

 どうしてそんなことを願うのか。

 

 お前は何者にもなれない。私が何物でもないように。

 

 生まれて初めて――少女は手を伸ばした。

 

 欲しいものに手を伸ばして。手に入らないものに手を伸ばして。

 

 胸の辺りにちくりと感じる、じくじくと消えない――痛みというものを覚えて。

 

 少女は――初めて、少しだけ、大人になった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 八つ頭の蛇が、世界を恐怖で震わせる。

 

 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)

 神々が住まうとされる高天原(たかまがはら)を追放された伝説の英雄・須佐之男命(スサノオノミコト)が退治したとされる神話の怪物。

 

 八つの谷と八つの峰を覆うほどの巨躯を持つとされる、八つの頭と八つの尾を持つ、赤い鬼灯のような眼の大蛇。

 

 眼下の大蛇はその伝説ほどに桁違いな巨きさではないが、それでも赤龍と化した己と遜色ないほどの怪物で――。

 

 金時は思った――このままでは、負ける。

 

 酒吞童子が自分と同じ――()()()()()()()()だとは感じていたが、まさか、ここまでとは思わなかった。

 

(――敗けるのか。……ここまできて……ここまでして……こんなになっても――まだ、届かないのか)

 

 出力が違う。

 ここに至っても、未だ底が見えない妖力。

 

 このまま飛び込んでも、あの八つの頭に食い散らかされて終わりだろう。

 

 だが、『赤龍化』は紛れもなく金時の奥の手にして最終手段であり――金時の『底』である。

 もはや自分は空っぽであり、打つ手などない。

 

 やれることはないし、捨てるものもない。これ以上、何を犠牲にすれば。

 

(俺は――――お前の領域(もと)に行けるんだ……酒吞)

 

 赤龍は咆哮する。

 降り注ぐ赤い雷。そして、赤龍と化した金時は――。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 雷を呑み込むように――その大きな咢を開け、天を仰ぐ。

 

(足りないなら、弱いなら――もっと――もっと――――もっともっともっとだっ!!!)

 

 寄越せ。

 もっと寄越せ。

 

 爪、尾、翼、牙――赤雷――――足りない。まるで足りやしないと。

 

 赤龍は、天に向かって咆哮する。

 

(寄越せ――()()()の力を。俺の何もかもをくれてやる!! だから、もっと寄越しやがれっっ!!!)

 

 高位の力を。赤雷の力を――偉大なる『龍』の力を。

 

 その全てを――この身で受け止めて見せる。

 

 酒吞童子に勝てるのならば。

 

 この少女と――同じ高みへ登り詰めることが出来るのならば――っ!!

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 金時の――『子』の、その決死の咆哮に。

 

 空は蠢き、雲は黒く染まり――雷は、鳴った。

 

 これまでとは比べ物にならない赤雷。

 そのまま振り落ちれば、平安の都そのものが黒い焦土へと変わるであろう稲妻が。

 

 まっすぐに、雨を呑むように大きく開かれた赤龍の口の中へと直撃する。

 

 赤い龍の全身を赤雷が貫く。

 雷は膨れ上がり、龍の身体を貫いて――――そして。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 否――龍の形をした雷と形容すべきか。

 皮膚も、爪も、牙も、尾も、翼も――全てが赤い(いかずち)

 

 己の全身を赤雷に()える。

 これこそが――坂田金時の最終にして最大の攻撃だと。

 

(これが俺の全部だ――――!!!)

 

 もし、これで倒せなかったとしたら――坂田金時に酒吞童子を止める術はない。

 

 この状態が長く保つ筈がない。

 否――あの赤雷を呑み込め、そして形を保って居られている今こそが正しく奇跡なのだ。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 だからこそ、赤龍はそのまま、自らが落雷となったかのように、一直線に八岐大蛇へと突撃する。

 

 これが最大の攻撃――これこそが、坂田金時の最後の攻撃。

 坂田金時の全てだと、真っ直ぐ、己に向かってくる赤龍に。

 

 八岐大蛇は、ただ、天を見据えて。

 

 真っ赤な月を、真っ赤な龍を見詰めて――そして。

 

 

 八つの頭の一つから、真っ裸の少女が飛び出した。

 

 

(――――――――)

 

 龍の中の金時は、その少女が――無垢なる怪物が、ぱちりと目を開けて。

 

「――――――」

 

 己に、微笑みを向けた瞬間を、確かに――見て。

 

(――――酒吞)

 

 そして――少女は。

 

 赤い龍の雷を――回避することなく、ただ受け入れるように、両手を広げて、笑って。

 

「――――――――つよくなったね――――きんとき」

 

 少女の小さな囁くような愛は、赤い龍の口が問答無用で呑み込んで消し去って。

 

 とある怪物達の、哀れるな初恋は、美しい雷に包まれて、壮絶にその結末を迎えた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――――てん! 酒吞!!」

 

 何もかもが燃え尽きた戦場跡で、金時は少女を膝に乗せるように抱きかかえて叫ぶ。

 

 少女の裸身は見るも無残に焼け焦げていた。

 

 再生は――しない。

 

 それはつまり、酒吞童子の再生力が追い付かない程の重傷を与えて打倒するという、金時の目的が完遂されたことを意味していて。

 

 坂田金時が、酒吞童子に、勝利したことを示していて。

 

 だが、その表情は――まるで、真逆で。

 

(――――ふざけるな!!)

 

 勝者たる英雄は、大粒の涙を流しながら苦渋に表情を歪ませていて。

 

(これの――――どこが勝ちなんだッッ!!!)

 

 敗者たる怪物は、ボロボロに傷ついた顔に穏やかな表情を浮かべていた。

 

「なんでだ――なんで、『大蛇化』を解いたんだ!!」

 

 あの時、酒吞童子に大蛇化を解く理由などなかった筈だ。

 金時が『赤雷の赤龍化』まで辿り着いたとしても、八岐大蛇を打倒しきれるとは限らなかった。

 

 真っ向からぶつかれば、勝率は五分五分だったかもしれない。

 

 酒吞童子が少女体で姿を現した時、金時はまだ奥の手があるのかと恐怖した。

 

 だが、少女は、赤雷と化した赤龍に対して、拳も爪も牙も――敵意すらも向けず、ただ優しく手を広げて迎え入れた。

 

「………………だっ…………て」

 

 いつものたどたどしい喋り方も、今だけは、苦痛で言葉が出し辛い故のようだった。

 

 酒吞童子がこれほどの痛みを、苦しみを覚えるのは、おそらくは生まれて初めてだろう。

 

 だが、まるで、その痛みも苦しみも愛おしいかのように、酒吞童子は優しく微笑みながら言う。

 

「きんとき……は…………ずっ……と…………こう…………した…………かった……でしょ?」

 

 その――拙い、言葉で。

 

 金時は――全てを察した。

 

「――――俺の……為、なのか? ……大蛇化を解いたのも……いや、一度、大蛇化してみせたのも……『坂田金時(おれ)』に……『酒吞童子(おまえ)』を…………倒させる、為……だったって……言うのか?」

 

 酒吞童子は不死身である。

 

 その再生力は群を抜いており、かの源頼光が大江山の頂上決戦において、どれだけ致命傷を与えても再生し続け、『人間』軍に撤退を余儀なくさせた。

 

 かの安倍晴明でさえも、酒吞童子を退治する方法はないと、白旗を挙げた程である。

 

 だからこそ――酒吞童子は、まるで見せつけるように『大蛇化』して、金時に限界以上の力を引き出させた上で、最大の攻撃を喰らう直前に『大蛇化』を解除した。

 

 八岐大蛇と化す『大蛇化』は、酒吞童子にとっても相当な消耗を余儀なくさせる切札であった筈だ。

 無尽蔵とも思える酒吞童子の莫大なる妖力を、限界ギリギリまで消費させた上で、最終奥義たる『赤龍の赤雷化』まで辿り着いた上で、そして、『大蛇化』解除直後の状態で無防備に直撃を受ける条件を用意した上で――やっと。

 

 坂田金時は、酒吞童子に勝利することが出来る。

 

 そのか細過ぎる軌跡を、酒吞童子は実現させた。

 

 坂田金時が――そうしたいと願ったから。

 

 坂田金時が――『英雄』になりたいと、そう願っていたから。

 

 坂田金時を、酒吞童子という怪物を倒した英雄とする為に――酒吞童子は、今宵の妖怪大戦争に参戦したのだ。

 

「――――ふざけるなっっ!!!」

 

 坂田金時は地面を思い切り殴りつける。

 酒吞童子を膝に乗せたままで、右の拳を地に叩き付ける。

 

 右拳は――人間のそれだった。

 赤い血が流れる。だが、すぐにそれを否定するように、右手は龍の鱗に覆われた龍の手となった。

 

「なんで……そこまでする? なんで……こんなことまで出来る? なんで――」

 

 坂田金時(おれ)なんかの為に、そこまでするんだ――そう、酒吞童子の顔に涙を落しながら言う金時に、酒吞童子は、ボロボロの手を、金時の顔に、ゆっくりと伸ばして。

 

 その涙を拭いながら、微笑んで、言う。

 

「もう…………ひとりは…………やだった……から」

 

 何かに影響を受けることを知った少女は。

 何かに執着を覚えることを知った怪物は。

 

 何かを欲し、何かに向かって手を伸ばすことを――そして、それが届かないということを、求めた繋がりが、断ち切られることを知った酒吞童子は。

 

 永遠の少女が、永劫の怪物が、少し大人になって、覚えたことは。

 

 好かれる為の努力――嫌われない為に、頑張ること。

 

 誰かの願いを、叶える為の、自己犠牲。

 

「ずっと……いっしょに……いてくれる……いばらきは…………なら…………きんとき……の………ねがい……かなえて…………」

「――ッ!! ――ダメだ――――酒吞――――待て――――逝くな!!!」

 

 目が虚ろになり、段々と言葉が覚束なくなる酒吞童子。

 

 ずっと一緒に居てくれると言ってくれた茨木童子(家族)を失って。

 

 ずっと優しく暖めてくれていた鬼女紅葉()を失って。

 

 ずっと孤独だった少女は、ずっと極寒で生きてきた怪物は――家族を知り、愛を知ってしまった哀れな鬼は。

 

 変わることを覚えてしまった、不変の化物は――繋がりを求めて、自ら変わることを望んだ。

 

 自らを犠牲にしてでも、好きな『人』の願いを叶える――そんなことが、出来るようになってしまうまでに。

 

 少女は大人に――成長した。

 

「――酒吞! 酒吞!! 酒吞!!!」

 

 分かっている。

 酒吞童子は不死身だ。これほどの重傷を与えても、再生が遅れているだけで、眠りから覚めればまた再生が始まるだろう。

 

 金時の任務は、このまま酒吞童子を眠りに落として、目覚める前に封印場所に連行すること――それは分かっている。分かっているが、金時の中の焦燥感がそれを許さない。

 

「待ってくれ、酒吞――俺は――――俺はッッ!!!」

 

 既に目の焦点も合っていないのか、酒吞童子の伸ばしている手は、金時の顔に向いていない。

 

 それは、遥かなる赤い月か――あるいは、別の何かなのか。

 

 酒吞童子は、小さく、微笑みながら――満足気に目を瞑る。

 

「………………わたし……うまく…………できたかな? ――――いばらき」

 

 お前を決してひとりにはしないと――そう言ってくれた『家族』に向けて。

 

 自分が変われば、戻って来てくれるかもしれないと、そんな願いを込めて、呟かれた、その言葉に。

 

 金時は――瞠目し、そして。

 

「――――酒吞ッッ!!!」

 

 揺さぶるようにして叫び散らすが――酒吞童子は既に、息を引き取るように、穏やかな眠りに着いていた。

 

 金時は――酒吞童子を抱き締める両手が、龍のそれに変わっていることに気付く。

 

 翼が生えた。左手が人に戻った。

 顔の半分が龍に変わり、翼が消えて、尾が生えた。

 

 これは『全身赤龍化』の副作用だ。

 人と龍の境界を行き来しすぎて、形態が安定しない。

 

 身の丈に合わぬ力に手を伸ばした代償。龍の力を御しきれもしないのに、何度も何度も手を伸ばした当然のしっぺ返し。

 龍にも、人にも、拒絶されたかのような、どちらの世界からも拒絶されたかのような――中途半端な、その醜い姿に。

 

 大蛇の身体から抜け出し、何もかもを脱ぎ捨てて、綺麗な少女として眠りに着く酒吞童子に。

 

「………………酒吞。たのむから――」

 

 金時は――ぽつりと、情けなく、呟く。

 

 愛する人の為に、己が全てを捧げてでも変わることの出来た鬼と。

 

 己が欲望を叶える為に、愛する者を拒絶して、こうして中途半端な有様に成り果てた人間。

 

 果たして、どちらが英雄で――どちらが怪物なのか。

 

「――俺を置いて、行かないでくれよ」

 

 その余りに醜悪な独り言に。

 

 金時は――ようやく、自分が人間になれた気がした。

 




用語解説コーナー81

・大蛇化

 酒吞童子にとって『大蛇化』とは、宇宙空間で宇宙服を脱ぐようなものだった。

 真なる外来種たる彼女にとって、八岐大蛇という本性を露わにすることは、外なる星にて擬態を解除するということは、そういうことだった。

 それでも、彼女は脱いだ。
 それでも、彼女は纏った――大蛇という醜悪なる本性を露わにし、愛する人と向き合い、己を全てを曝け出し、その全てを受け止めた。

 全ては――愛する人の願いを叶える為に。

 そして、この世界で最も大切な存在に、変われた自分を見てもらう為に。

 そうすれば、もしかしたら――戻って来てくれるかもしれないと、少女のような夢を乗せて。
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