霧に覆われた湖にはそれこそもうそろそろ館へと帰っていく妖精たちの姿が見えていた。駆けっこをしているだけだがそれだけで楽しいのだろうかと黒髪の青年は思っていた。
騒々しい場所では本来なかったがこう妖精が遊んでいると言う平和な感じはそれだけでも癒されるものでもある。それに知らない顔でもないので適当に挨拶を交わしていく妖精達に少し反応を遅らせている青年。それを不審に思いながらも館へと戻っていく。これから夕食の時間になるのだろう。それこそよく食べたメイド長の食事だが今日は食べられそうになかった。青年にもやる事がある。今日はどうしても仕方がない事だった。
それでも足を止める事はなかった青年は行動は遅いが迷っているようで湖の側を歩いていくだけだった。迷っている時間がもったいないと言うべきなのか。青年は重く考えずにそうした。それがどう解釈されようとも仕方がない事だった。
「久しぶりだ。」
青年はトボトボとした遅い足取りのままで赤い壁に守られた紅い血塗られた館へとやって来た。ここで過ごしている期間が一番長い。それ程にお互いに熟知されている状態だった。どう言う人間で誰が居るのかなど言うまでもない。
「こんばんは。咲夜さんから話は聞いています。後で私も向かいますので先に入っていてください。」
門番をしている紅い髪をしている緑色のチャイナドレスを着ている女性は優しい笑顔で青年を迎えていた。青年はそれを見て嫌そうな表情を浮かべていたが周りが暗かったのであまり気にされるようなことはなかった。
「実は話したい事がある。相手しろ。」
青年は一歩引いてからゆっくりと鞘から剣を抜く。その音に過敏に反応した門番は素早く構えていた。それと同時にここで何をしたいのかそれを探る為にも仕方がない事だった。
「何があったんですか。」
門番はどう裏切られようともその理由は聞くらしい。青年はもう諦めて本気で行く事にした。
剣を上から振り下ろす青年。
それをさらりと避けている門番。
「申し訳ないと思っている。だが、俺はこうする理由はちゃんとある。それに付き合ってくれると言うのならここで果たし合うことにしよう。」
青年は振った剣を自分の身に引き寄せてもう一度構えていた。そしてゆっくりと顎を引いて切っ先を門番へと向けると迷いのない瞳がその奥から見えていた。もう引くつもりはない。そしてどれほど本気であるのかは先程の一振りで見せていた。
「わかりました。今回は敵とみなします。来てください。前とは違いますよ。」
門番はそう吠えていた。青年はそれをしっかりと受け止めていた。そしてもう戻ることは出来ないとも。
門番の一撃は軽い正拳突きから始まった。右腕を引き伸ばした先にある青年の胸を狙っていた。心臓に振動を与える為なのだろうが見えていないと言うわけでもない。青年は素早く反応して左手のひらで捉えていた。
そして青年は押し返していた。そこで門番は体勢を崩すが返しの一撃として右足を伸ばして爪先を当てようとしていた。青年は剣で防ぐと向かってくる前に鞘の中に納めていた。その真意はきっと青年しか知らない。
「よく見知った相手だ。俺は手加減はしたくない。」
青年は左腕を垂直に立てて指には力を入れなかった。右腕は体に寄せながら縮こまらせていた。もう殴る気しか見えないがそれでもどこから飛んでくるのかは分かっていなかった。美鈴も初めて見るような構え方である。何か隠しているような事が見えなくもない。
青年は構えている通りに右腕を伸ばして門番に当てようとしていた。
そのまま来るとは思わなかった門番だったが左手で抑えてから動きを変えていた。青年はそれからそれを弾くように右腕を振ってから一歩下がっていた。
戦う意思があるのかと問いたいがそれをしてはいけないと思っていた。見るからに迷いのある表情をしているのでそれをどうこうするつもりはないのだと思われる。門番はその職に任されたことだけをする、目の前に知人が敵として表れようともそれをなんとかしようとしている。
「見るからに手加減をしていますが何か迷いでもあるんですか。」
「迷い、か。あるにはある。だが、ない。もう決めている事だ。やるだけやる。」
「なら、その気持ちのままに向かって来てくださいよ。」
門番は敢えて厳しい口調で青年を叱責していた。何がしたいのか全く読めないからでもない。裏切られた事に憤りを感じていると言うわけでもない。ただ決めた事をやれていない事にそう感じているようだった。青年は仕方がないので目だけは見るようにしていた。
その目はいつも通りの平らな目で少しだけ吊り上っているようにも見えない目をしている。青年はいつも通りに戻っていた。
「なら、行かせてもらおう。後悔はするなよ。」
青年はもう一度構えていた。左腕を前にして拳で狙いをつけるとその後ろで右腕を同じように構えていた。どちらの腕もしっかりと力が抜けていて素早い動きと力強い一撃を可能としていた。そして青年は左足のつま先を上げながらリズムを取っていた。それともいつでもいけると言う意味合いなのか。
「後悔というのはしません。これからも会えるでしょう。私はここからは動くことは出来ませんが他の人には会った時にはよろしく頼みます。」
「その言葉、確かに受け取った。」
青年は左脚を動かして牽制という形を取っていた。そして頃合いを見て右腕を伸ばして当たりそうな瞬間に拳を握り締める。ビシッ、と音のなる衣服の音とそれよりも大きい音をした拳のぶつかり合う音が辺りに響き渡る。妖精の居なくなった霧の湖はとても静かで飲み込まれそうなほどの黒い水面が広がっている。基本的に波立つことのない湖は今日も上に浮かんでいる月を鏡のように映していた。
青年はそれから左脚を浮かせて外側から回し蹴りをしていた。遠心力を利用した強力な一撃を門番は自分の右脚で受け止めていた。すかさず左腕の拳を振るう。門番はそれを右手で弾いてから押し返した。
青年が今度は体勢を崩していた。それでも気を抜くことはなく門番の左蹴りを受け止めていた青年は何故か笑っていた。懐かしいその感覚に毒されているようでここに来た理由というのを問いただしたくなる。
「強烈な一撃はいつでも変わらないか。」
青年は楽しそうにしていた。一ヶ月前の件から比べると余裕な気がするのか或いは単純に楽しんでいるだけなのか。門番はそのようなことはなんでも良かった。
「日々修練は積んでいます。貴方と同じく努力はしていますから。」
別に返さなくても良かった青年の独り言にも律儀に返していく門番は右手のひらを青年に見せて腰を低くして構えていた。どうやら容赦と言う言葉は似合わないらしく更なる一撃を加えようとしていた。それこそこれから何が起こるのかは誰にも分かっていない。青年も同じく構えて次の一撃のために準備している。
「そうか。いつも通りで安心した。」
青年は慣れた調子のままに言葉を連ねる。
門番が動き出した時には青年も反応して受け止めていた。ばしっ、と大きな音を立てたその一撃を青年は左手の手根に力を込めて門番の拳を止めていた。指の第二関節に当たったそれは門番を一歩怯ませるのには十分だった。右腕の拳を痛めた門番は青年の次なる攻撃を止めていた。
青年の右足裏で強く蹴り出した強烈な一撃を両腕で何とか止めていたがそれで終わるようなことはなかった。その後に青年は左脚を蹴り出していた。
爪先だけを当てるようなその一撃は門番は手で止めていた。そして身を一歩後ろに下げながら青年の飛び蹴りの二段目を肘で打ち返した。青年は顔を歪めながらも小さく左脚を遠心力を使って外側から蹴り出していた。それは門番も考えていなかったので甘んじて受ける事にした。
その小さな衝撃から青年は反時計回りに体を回すとその遠心力を利用して上から押し潰すようにしていた。門番は右肩を前に出してその軌道から外れると右腕を軽く伸ばしていた。そして拳を握ってからすぐに引かせていた。
青年は左脚を後ろに庇うようにその場に立っていた。何かされたのかと聞きたくなるが門番の拳が軽く泣き所を打たれただけである。痛みこそあるが少し時間をおけば何の問題もない。
「やはり見えるのか。」
「ええ。自分の教えた技も混ぜ込まれていれば尚更です。」
門番はスゥ、と体を落として構えると頭に乗せていた帽子を投げて何処かへ飛ばしてしまった。もう邪魔臭いとそう言う事なのだろう。青年はそう感じた。青年はいまだに腰に携えているものは何処かに置いたりはしなかった。
「そうか。師を越えるにはそれ相応の技が必要になるか。」
青年は素早く移動して門番の懐へと入り込んだ。それにはある一種の恐怖というものを覚えたのかもしれない。瞬時に回り込まれた門番は一撃は受けてしまった。腰のあたりを狙っていたのには何か意味があると思われる。門番の左肩を持っていた青年はそのまま押し出そうとしていた。普通なら倒れる事はない力量差であるが今回は違った。左足も同時に攻撃を加えていた。体勢を後ろへと大きく押された門番はその場で倒れた。
だが、それで終わる門番と言うことでもなかった。
青年の軸足とも言える右脚の膝裏を叩こうと動き出していた。しかしそれは動き出そうとしていただけで空振りを終わっていた。青年がそれを読めなかったと言うことでもない。直ぐに身を門番から離したのでその間合いには入っていなかった。
近づかれない為に足払いをしながら立ち上がる門番。
その場から動こうとはしなかった青年。
門番がいきなり動き始めると青年も合わせるようにしていた。
門番が左腕を伸ばしながら青年の顔を狙っていた。そこですかさず避けた青年はその拳を持つと肘を右腕で押して曲がらない方向へ曲げようとしている。それを阻止しようと体が反応した門番はその場を回らせれていた。
だが門番もその勢いを逆手に取ることもしないと言うこともなかった。しようとしたらその刹那。
青年の両手は離れていた。行き場を失ったその回転はフラフラとした門番へと強烈な一撃として返ってきた。立ち上がる事も許されなさそうな程の急所を当てられていた。青年の一撃の衝撃で前へと軽く吹き飛ばされた門番は近くで何かが刺さる音が耳の中に振動として伝わってきた。
「これで通れるな。」
青年は満足気に答えていた。それ程に嬉しかったのか一休止を得たからなのかはわからないがそんな感じの表情はしていた。門番の首の所に当てるように振り下ろされた小刀が地面に刺さっているだった。だが、これがもし首に当たっていれば即死、となっていたのだろう。
「そうですね。咲夜さんには多くのことを話してあげてください。」
「それはどうしてだ。」
「何だかんだ、貴方の事を考えていると思うんですよ。紅魔館のメイドとしての用事以外では出掛けようとしなかった咲夜が出てきたのですから。」
門番は淡々とした口調で話していた。
「自分よりも人の心配か。もし俺が敵だったらどうするつもりだった。」
青年は確認がてら聞いていた。だが、聞くまでもなかったのかもしれない。
「それは地面に突き刺さっている小刀が教えてくれています。」
門番は疲れた感じを露わにしながら青年と話をしていた。門番にはそうするつもりはなかったと思われているのだと感じていた。あまり深く考える必要もないのでそうする事にしたのだろう。
「そうか。話せる時が来たら良いのだが。」
「良いです。何か目的があるからこのように野蛮な方法を取っているのでしょう。それほどに急を要するものかそれともまだ来るかどうかも分かっていないのでしょう。気を読むことができますのでそのくらいはわかりますよ。」
「そうか。そこまで言われると俺のしている意味が問われる。今日は本当に済まなかった。傷を負わせるつもりもなかった。」
青年はその場に座り込んでいた。門番は首を打たれていて手足が上手く動かせないのかもう動かさないようにしていた。本当はそう見えるようにしているだけなのか青年には判断出来ないのでどうでも良いようにしていた。
「また来てくださいね。咲夜さんが喜びますから。」
「そうか。」
暫くその場に座っていた青年は頃合いを見てから動き出していた。