誰にも使われた形跡のないその温泉は二人に使うには大きすぎると言うのかなんとも言えない虚無感を与えるものだった。そして上の方からバチャバチャと音を立てて少し黄色っぽく濁った湯が溢れている。神の啓示のようなその洗礼が青年の遠くで起こっていた。
「しかし二つ返事で出来てしまうとは。さては私を怪物だと思っているのか。」
赤い角を額から大きく伸ばしている勇儀は湯船に浮かせた木製の桶の上に盃を置いてその黄色く濁った湯の中に体を入れて染み込ませていた。何かあると言うことではないが恐らく何かあったのだろう。
「そうか。生憎だが男も女も老いも若きも俺は興味ない。幼い人がしっかりとした評論をするのなら師として仰ぐ。歳を重ねた長老が過ちを犯せば制裁を加える。俺は神も悪魔も怖くはない。鬼でも。」
青年は膝の上に両腕の肘を乗せて上で指を重ね合わせると親指の上に顎を置いておくことにした。その事には何も意味合いはないのだろう。これでも濡れる部分が最小限になるようにしていると言う事は間違いなさそうだ。
「ハハハ、それは面白い。そんな返答でもないと私は心配するところだったよ。」
案外面白かったようで豪快に笑っている勇儀は素晴らしいと思えたのか手を叩いていた。湯船はそのお陰で波立っている。別に気にする事はないが青年は変に危惧していた。
「そうか。それでどうして俺と一緒に入ろうとしている。」
「そんな事は簡単だ、私が入りたかったからさ。良いだろう。」
「そうか。光栄と答えるべきか愚鈍と答えるべきか迷う。」
「そうかい。まぁ、良いさ。お前もどこまで行こうとも私はついていくさ。その背中にはそれだけの価値がある。その事は忘れてくれるな。」
「忘れない。俺にはまだ見えない。その予想にもしないその場所へと向かうまでは俺は皆に顔を見せるわけにはいかない。」
「偶には顔を見せてくれても良いんだぜ。良いじゃないか。非力な種族が逃げても誰も何も言わない。その代わりその中で気持ちよく押し返してくれる人が何人いるのかが気になるところだよ。」
「勇儀は押してくれるのか。」
「私か?私なら投げ飛ばす。逃げんじゃねぇ、と言ってやる。」
「そうか。そうでもないとやはり四天王はやっていられないか。」
「そうだよ、その気迫がないとやっていけない。例えばあの剣鬼はそうやって私たちの地位を脅かしてきた。本人は別にそのつもりはなかったそうだがどうだが。真相は闇の中だよ。」
「そうか。それは大変な話だ。」
「そう言ってくれるだけで私は嬉しいものだよ。」
勇儀としては少し安心したのだろう。何かを試すためだけに一緒に時間を共にしようと言ってきたのだと思われる。青年は仕方がなくそれに乗る事にしたのだがどれだけ頑張ろうとも期待に応えられる気はしない。その気もないがなぜか上手くいっている。
「そうか。」
青年は噛みしめるように返事をするだけでそれ以上は言葉をつなげなかった。何か意味などないが何かあるのだろうと勇儀は思っていた。
「それでお前は何を目指す。」
「急に話を切り替えたか。そうだな、一人の剣士だよ。昔のように影を歩くのではなくて光の中を歩けるような人物になりたい。」
「平凡な答えだな。世界なんて創造してみたらどうだ。」
「辞めておく。管理が大変そうだ。」
「断らないところがらしいね。」
勇儀はなぜか満足していたのだがその理由は青年には何もわからない。答える気も聞こうともしないその二人の距離感は遠くも近くもない絶妙な均衡の上に初めて成り立つものなのだろう。友達とも恋情を募らせる訳でも恨みを積もらせる訳でもない。