三年前――、
愛知県名古屋市。
胸元に、震えを感じた。
目線を落とすと、ネック・ストラップの先端にくくりつけておいた社用の携帯電話が、着信の知らせに震えていた。
キーボードを叩く作業を中断し、電話機を手に取ってフリップを開く。
四・二インチの液晶画面に表示された名前を見て、鬼頭智之は思わず顔をしかめた。
伊藤謙介。
四年前に別れた、元妻の父親だった。
――今更、何の用だ……?
我知らず、電話機を握る手に力が篭もる。離婚の直接の原因は、妻の不倫だった。メッセージ・アプリを使った間男とのやり取りの履歴や、興信所の調査報告書など、彼女の有責を示す証拠は事欠かなかったにも拘らず、義理の両親はわが子に味方し、鬼頭を攻撃した。離婚は認めてやる。だが慰謝料はお前が払え。娘が別の男に走ったのも、どうせお前が寂しい思いをさせたからだろう。娘が不貞行為に及んだのは、お前の不甲斐なさが原因だ。
それから、孫たちの親権は娘に渡せ。こういうものは、母親が優先されて当然なのだ。娘も、お腹を痛めて産んだわが子と離れたくない、と言っている。間男くんも、離婚後は娘と再婚して、自分の家族として彼らを迎えたい、と言ってくれている。新しい父親に早く慣れてもらうためにも、面会は許さない。孫たちにとって、お前は邪魔なんだ。どこかに消えてくれ。ただし、養育費は毎月きちんと納めるように。それぐらいの義務は果たせ。
不倫の事実を知った日から、鬼頭の腹は離婚の方向で決まっていた。しかし、慰謝料の問題と、子どもたちの親権については納得しかねた。妻と間男の関係は婚前どころか鬼頭と出会う以前から続いていたし、相手の男との逢瀬のために、彼女はしばしば子どもたちを犠牲にした。
あるときなどは、インフルエンザに罹り、高熱に苦しむ六歳の息子をひとり家に置いて、間男とのデートに嬉々として向かったという。後からそれを知って、自分と彼女を殴りたくなった。当時の自分は、きっと妻が献身的な看病をしてくれている、と思い込み、一刻も早い帰宅を、と仕事に励んだ。残業を断り、飲みの誘いも断って真っ直ぐ家に帰ると、妻は少し疲れた様子で息子の枕元に座っていた。そのときは、
――つきっきりで看病してくれていたのか。俺はなんと幸せな男だ。こんなにも素晴らしい女性を妻に持てたのだから……。
などと、感動したが、真実は違った。妻が疲れた顔をしていたのは、間男との行為で疲弊したからであり、家に帰ったのも、鬼頭が到着するほんの十分前のことだった。狡猾にも彼女は、息子と、彼の妹にきつく口止めをしていた。その際に、暴力を振るったという。これも後から知ったことだ。このときは、
――俺はこんな女に、大切なわが子を任せていたのか。なんて愚か者なんだ!
と、後悔から頭を抱えた。
こうした理由から、鬼頭は慰謝料の支払いも、親権の譲渡も拒んだ。こんな女に子どもたちは任せられないし、慰謝料だって払いたくない。そもそも、有責なのは向こうの方だ。慰謝料についてはむしろこちらに要求する権利があり、親権だって渡したくない。
両者の意見は真っ向から対立した。話し合いでは解決せず、鬼頭夫婦の問題は、ついには裁判へと持ち込まれた。鬼頭が雇った弁護士は、「不倫の証拠も、育児放棄の証拠もこちらにあります。絶対に勝てますよ」と、力強く豪語した。
しかし、鬼頭はこの裁判に敗れた。
当時、日本でも台頭し始めていた女尊男卑の思想が、絶対に勝てるはずの裁判を必敗のものとした。
鬼頭夫婦の問題を聞きつけた女性権利団体が、妻の支援をする、と表明したあたりから、歯車が狂い始めた。人権団体と個人的なつながりを持っていると噂される裁判長は、妻の有責を認めた上で、鬼頭に慰謝料の支払いと、親権の譲渡を命令した。判決を言い渡されたとき、頭が真っ白になった。背後で弁護士が激高し、裁判長の判断を痛烈に批判した。法律の正当性という軸で語る彼に対し、彼女は「奥様のこれからの生活を考えると、お金は必要です」、「やはり子どもは血のつながった母親のもとにいるべきでしょう」、「お子様たちの今後を考えると、面会も認められません」など、感情論をもって応じた。当然、鬼頭たちは上訴したが、裁判所はこれを棄却した。その一報を知らされた日、弁護士は落涙し、「すまない……。すまない、鬼頭さん!」と、鬼頭の肩を抱いた。鬼頭は多額の慰謝料と、子どもたちを奪われた。
それ以来、彼女たちとはまともに連絡を取れていない。こちらからのアプローチは一切が拒絶され、唯一、養育費の振込の催促だけが一方的に送られてくるのみとなった。そんな日々が、もう四年も続いている。
鬼頭にとって、かつて妻と呼んだ女性と、その家族は、もう二度と顔を合わせたくない、声も聞きたくない存在だった。
そんな相手からの電話だ。彼の表情が忌々しげに歪むのも、無理からぬことだった。
反射的に電源ボタンを押そうとする親指を、寸前のところでなんとか止める。二度と話したくない相手ではあるが、子どもたちの面会について考えを改めてくれたのかもしれない、という一縷の希望が、彼の親指を通話ボタンに誘った。
「どうした、鬼頭?」
隣のデスクで書類を整理していた同僚の桜坂が、訝しげな表情で自分を見つめていた。
はっ、として、「いや、なんでも……」と、答える。「ちょっと電話してくるよ」と、離席した。人気のない場所を求めて、廊下を彷徨う。相手が相手だ。通話中、感情をきちんとコントロール出来る自信がない。やがて非常階段に辿り着いた。人の気配はない。
携帯電話は、ここに到着するまでの間にすでに三十コール以上、鳴らされていた。
本当に何の用だろうか、と鬼頭は通話ボタンを押した。
「鬼頭ですが……」
「と、智之くんか!? よかった、やっとつながった。わたしだ。伊藤謙介だ!」
受話口から聞こえた声に、思わず息を呑んだ。かつて父と呼んだ人の声は、たった四年でずいぶんと変わり果てていた。記憶よりも、ずっと老いている。たしかまだ六十歳を迎えて間もないはずだが……まるでいまにも消え入りそうな声ではないか。
「伊藤さん、いったい、どうしたのです? 」
「……鬼頭くん。落ち着いて聞いてくれ。いま、陽子ちゃんがウチにいるんだが……」
ウチ、とは三重県伊賀市にある、元妻の両親が暮らす家のことだろうか。
それよりも、聞き捨てならない名前に、鬼頭の胸が高鳴った。陽子。四年前に親権を奪われた、鬼頭の子ども。大切な双子の、妹のほう。今年で一二歳になる愛娘。
まさか本当に面会について考え直してくれたのか。
落ち着け、と胸の内で呟く。
まだ、そうと決まったわけではない。そうじゃなかったときの落胆に備えて、平静さを保たねば。
「陽子が、どうかしましたか!?」
予想していたよりもずっと浮かれた声が口から飛び出した。やはり人気のない場所を選んで正解だった。いまの自分はきっと、期待からとんでもなくだらしない顔をしているに違いない。事実、鬼頭の相好は崩れていた。
しかし、そんな彼の表情はすぐに凍りついた。鬼頭の質問に、謙介はこう答えた。
「陽子ちゃんが、襲われた。相手は、いまの父親だ」
「…………」
人気のない場所を選んで、正解だった。
自分がいま、どんな顔をしているのか、考えたくもない。
「すまない! すまない、鬼頭くん! 四年前、きみにあれだけの暴言を叩きつけておいて、私は……私たちは……! 孫を、きみの娘を、守れなかった!」
謙介の声に、嗚咽が混じり始めた。いまの父親、ということは、あの、間男か。いま、通話している人物が、娘との再婚を喜んだ、あの男か。
携帯電話を握る手に、力が篭もる。今度は、意図して強く握った。
「……先ほど、ウチ、とおっしゃいましたが、そこは、伊賀上野のご実家ですか?」
「ああ、ああ、そうだ!」
「晶子は、いまはそちらに?」
「いいや、娘はいない。陽子ちゃんは、誰にも行き先を言わずに、私たちのところに来てくれたんだ。お母さんには自分の居場所を教えないでほしい、と言っている」
離婚後、元妻は間男と再婚し、彼の実家のある三重県四日市市に子どもたちを連れて引っ越していった。
「晶子には、陽子がそちらに伺っていることは伝えましたか?」
「いいや。まだ、連絡も取っていない。陽子ちゃんからそうお願いされた、というのもあるが、私と妻とで話し合って、娘に連絡するのはやめたんだ。陽子ちゃんの話によれば、晶子は、彼女が父親に襲われたことを知っている。知った上で、彼女を家から追い出したらしい。よくも人の男を寝取りやがって、なんて言いながら、暴力を振るったそうだ」
「……分かりました」
いつの間にか、電話に応じる鬼頭の声も震えていた。ただし、謙介のそれが悲しげなものなのに対し、彼の唇は憤怒から激しく震動していた。
「陽子がそこにいることは、絶対に、晶子には教えないでください」
「勿論だ。陽子ちゃんは、お父さんに……きみに会いたい、と言っている」
面会権のことが思い浮かんだのは一瞬のことだった。娘の一大事だ。そんなもの、知ったことか。
「分かりました。すぐ、そちらに向かいます。ところで、智也は?」
鬼頭は陽子の双子の兄の安否について訊ねた。父親が、娘を襲う。母親が、その娘を泥棒猫となじり、暴力を振るって家から追い出す。まともな環境とは到底言いがたい。可能ならば、彼も伊賀上野の実家に避難させたいが……。
「と、智也君は……」
続く言葉が耳膜を叩いた瞬間、鬼頭は絶叫した。
全身、これ炎と化した烈火の怒りで、鼻腔から、ばっ、と鮮血が迸った。鞏膜の毛細血管が音を立てて切れ、目尻から幾条もの血が流れ落ちる。
「……すぐにそちらに向かいます」
阿修羅の形相で、言葉短く答えると、通話を切った。
もはや人の目を気にする心の余裕など、彼にはなかった。
廊下を駆ける彼とすれ違った者は等しく悲鳴を上げ、恐怖から身をすくませ、いったい何事か、と茫然と立ち尽くした。
オフィスに戻ると、最初に、女子社員たちが悲鳴を上げた。パソコンの画面と睨み合いをしていた部長が異変に気づき、顔を上げる。血まみれの顔面の鬼頭を見て、絶句した。
「鬼頭、お前、それ、どうした!?」
同じくパソコンとの睨み合いをしていた桜坂が立ち上がった。
指摘され、鬼頭はようやく自分の顔が朱色に濡れていることに気がついた。しかし、いまはそんな些末なことに構っている暇はない。
彼は真っ直ぐ部長のデスクを目指した。大学時代にアメフト部でラインマンを務めたという部長は、いまでも身長一八五センチ、体重九十キロになんなんとする、堂々たる体躯の持ち主だ。その彼が、怒れる鬼頭の迫力に圧倒され、身を縮まらせていた。
「……部長、申し訳ありませんが、今日はこれで早退させていただけないでしょうか?」
「き、鬼頭? いったいどうしたんだ?」
思春期の少女の、繊細な部分に関わる話だ。詳細についてはぼかしながら、鬼頭は事情を説明した。すると、部長の一八五センチの体躯にまた活力が漲った。彼もまた、二人の子を持つ父親である。部下たちの手前、怒りの感情を表に出すまい、と腹に力を篭め、喉奥をぐっと締めて、なんとか平静さを保った声で鬼頭に語りかけた。
「分かった。お前はもう、帰っていい。いますぐ、娘さんのところに行ってやれ」
「鬼頭!」
かたわらで鬼頭の話を聞いていた桜坂が、険しい表情で肩を叩いた。こちらも部長に劣らぬ六尺豊かな大男だ。
「途中やりの仕事と、今日中に終わらせなきゃいけない仕事、可能な限り俺に回せ」
「桜坂……、すまない」
「いいって。……伊賀上野だと、電車より、車のほうが早いな」
地図上では百キロメートル程度しか離れていない名古屋と伊賀上野だが、電車を使うと三時間近くかかる。JRを最低でも二度乗り換えねばならない。これに対し、自動車なら高速道路を使えば一時間半程度で辿り着ける。勿論、渋滞状況にも左右されるが。
「お前、いま、マイカー通勤じゃなかったよな?」
「ああ」
「一旦、家に戻って車を出すのも時間が勿体ない。俺のカムリを使え」
そう言って、桜坂は鬼頭の掌にスマートキーを握らせた。
「従業員駐車場の八番にとめてある」
「鬼頭さん」
今年、新卒で入社したばかりの桐野美久が濡れタオルを差し出した。
「娘さんとお会いになるんですよね? なら、せめて顔の血を拭いていってください」
「ああ。……桐野さんも、桜坂も、本当にありがとう」
「恩に感じてくれるなら、今度、虎屋の羊羹でも奢ってくれや。……急げ、鬼頭」
同僚たちに見送られて部屋を出た。地下駐車場の従業員用エリアへ急ぎ、八番のスペースを探す。同僚の愛車はすぐに見つかった。鋭い目つきの青いカムリが、主の帰りを静かに待っていた。
コクピットに乗り込む。カムリを運転するのは初めての経験だが、鬼頭の普段の愛車はプリウスだ。同じメーカー製とあって、内装の基本レイアウトは大差ない。スイッチ類の操作で迷うことはなかった。スタートボタンを押し込む。システム総出力二一一馬力の心臓が、静かに鼓動を再開した。二眼メーターの間に設けられたインフォメーション・ディスプレイに火が灯る。
伊賀上野までの道のりは憶えている。かつては、一年のうちに七、八回は通った道だ。
ハンドルを握ると、その頃の記憶が否応なしに甦る。
当時の愛車はアクアだった。助手席に智也を、後部座席に晶子と陽子を乗せて義理の両親の家へと向かう道程は、それは楽しい時間だった。早くお爺ちゃんに会いたいなあ、と笑いかけた智也の顔は、いまはかたわらにない。
――どうしてだ……? どうしてこんなことに……!?
愛娘の待つ家へと急ぎながら、鬼頭は妻と離婚することになった経緯……彼にとっての屈辱の記憶を思い返した。
インフィニット・ストラトス二次創作
「この小さな世界で愛を語ろう」
鬼頭智之は一九八一年、時計ディーラーの鬼頭大作と、その妻清香の間に生まれた。
鬼頭の姓が示すように、一族はみな名古屋生まれの名古屋育ち。修行のため二、三年他の土地で暮らすことはあっても、結局はみんな故郷に戻ってきてしまう。この件について、父・大作は、「典型的な名古屋人の血族なんだな」と、少年時代の鬼頭によく笑って聞かせた。
祖父の鬼頭浩は時計職人だった。一九一五年生まれの彼は、旧制中学校を卒業するやすぐに上京。当時の服部時計・精工舎の門を叩き、そこで時計作りのノウハウを学んだ。終戦後、名古屋に戻った浩は自分の店……鬼頭時計店を開いた。小さいが工房を併設した店で、時計の販売だけでなく、修理や、オーダーメイドも請け負った。
大作は幼い頃から父の工房に入り浸り、長じてからは自らも時計作りを飯の種にしたい、と志向するようになった。しかしながら、彼は父の手先の器用さを受け継いでいなかった。それでも時計に携わる仕事がしたい、と願った大作は単身渡米し、アメリカ流の最新のマーケティング理論とマーチャンダイジング論を学んだ。帰国後、父に鬼頭時計店の経営を任せてほしい、と請うた彼は、それが認められるや、時計店の売上を指数関数的に拡大させていった。
そんな父と、祖父の背中を見て育った鬼頭は、当然、自らも時計の世界を志向した。隔世遺伝によるものか、祖父の手先の器用さを受け継いでいた彼は、一五歳のある日、将来は時計職人になりたい、と語った。
しかし、父と祖父は揃って反対の意を示した。父は経営者の視点から、祖父は時計職人としての経験則から、時計産業の将来について暗い見通しを語って聞かせた。
「他ならぬ日本人が時計産業を駄目にしてしまった。クォーツ時計のせいで、アメリカの時計職人はみんなお払い箱だ。このムーヴは、いずれ日本にも返す刃となって、振り下ろされるだろう。
それから、携帯電話だ。いまは流行り物が好きな連中や、ビジネスマンだけの玩具だが、近いうちに、日本人みんなが持つようになる。それぐらい、便利な代物だ。携帯電話が普及したら、時計はいらなくなる」
「そもそも、時計産業の将来は、広島に原爆が落ちたあの日に決まってしまったんだ。アインシュタインは時間の相対性を唱えた。分かるかい、智之? 時間が不確かなものなら、時計にいったい何の意味がある?」
一五歳の鬼頭の目の前で、二人の暗い面持ちで嘆いた。自分たちは、そのことに気づくのが遅かった。今更、この生き方は変えられない。けれどお前には、時代遅れの道を歩んでほしくない。二人は鬼頭の手先の器用さを褒め、その才能をもっと別な道で活かすよう提案した。
一八歳のとき、鬼頭は父と同じ道を進んだ。海外への留学だ。時計職人の道を諦めた鬼頭だったが、手先の器用さを武器に、何かモノ作りを生業としたい、と考えた彼は、工学の分野で世界最高峰の大学の一つであるマサチューセッツ工科大学に進学した。いまだ具体的な将来像を持てぬ自分だが、どんな世界でも通用する、最高レベルの技術と知識を得たいと考え選んだ道だった。
後に同僚となる桜坂とは、大学の入学式のとき出会った。彼もまた、モノ作りを志向し、そのための技術と知識を得るべく海を渡ってきた男だった。初めての一人暮らしが海外という心細さも手伝って、鬼頭はこの同じ日本人留学生に親近感を抱いた。二人は親友となり、やがて一つの部屋で暮らすようになった。今風に表現すれば、ルームシェアというやつか。
二〇〇一年九月九日、新聞を読んでいた桜坂が悲鳴を上げた。何事かと訊ねると、「マスード将軍が殺された!」という返答。それは誰かと重ねたて問うたら、「アフガニスタンの政治家だよ」。
「アフガンの最後の希望だった。その人が暗殺されたんだ。近いうちに、何か起こるぞ」
桜坂の予言は、僅か二日後、成就した。
二〇〇一年九月十一日、未曾有の悲劇がアメリカを襲った。三千人が犠牲になり、世界のどこかで、血濡れた手を天高く突き上げる者たちの歓声が響き渡った。
事件の翌日、二人はワールドトレードセンターがあった場所へと車を走らせた。野次馬根性が半分と、自分たちにも何か出来ることはないか、と若き義侠心に突き動かされて、彼らは周りの反対を振り切ってニューヨークに向かった。当然、途中の検問で引っかかり、現地の土を踏むことは出来なかった。とぼとぼ、とアパートに帰宅した二人が、テレビのチャンネルをひねると、灰色の空を仰ぎながら、懸命に救出作業を続ける、世界で最も勇敢で、偉大な男たちの姿が映じていた。
ああ、と得心した。自分の進むべき道、真に作りたい物の形が見えた。
救助活動の現場で、彼らの助けとなるパワードスーツ。
勇壮なる男たちに、死の恐怖に怯える人たちの所在をいち早く把握する目と、どんな悪路もものともしない機動力、そして何十トンもあろう瓦礫を軽々はねのけるだけの膂力を与えるシステム。
桜坂にそれを語ると、「奇遇だな」と、同調してくれた。
二人はそれまで以上に勉学に励んだ。MITという世界最高の環境で学び、研究し、実験して、形とした。二人が共同で作ったパワードスーツの試作型は、いま振り返ってみると玩具のような代物だったが、当時においてそれは、二十歳そこそこの学生が、限られた予算と資材の中で作ったとは思えぬほど革新的で、洗練されていた。二人はその功績をもって、学年首席と次席の栄誉を得た。
大学卒業後、鬼頭と桜坂は米国の数多の企業からの勧誘を蹴って帰国した。鬼頭は名古屋に。桜坂も故郷の千葉県は九十九里に。しかし二人は帰国後も連絡を取り合い、やがて二人一緒に、名古屋市名東区に本社を置くロボットの総合メーカー……〈アローズ製作所〉の門を叩いた。就職先にロボット産業を選んだ理由は勿論、二人の夢であるパワードスーツを開発し、世に広く普及させるため。あえて日本のメーカーにこだわった理由は、パワードスーツの技術を軍事転用されないためだ。
アメリカ留学時代、二人を勧誘した企業の多くは軍需産業とのつながりを持っていた。予算の規模や環境は断然、あちらの方が秀でていたが、それと引き換えに、彼らは二人の研究成果を軍事の分野にも提出するよう求めた。9・11の衝撃からパワードスーツ開発を志した鬼頭らだ。自分たちの作ったパワードスーツ――たとえ技術の一部にすぎなかったとしても――が、誰かを傷つけるために使われる未来を想像すると、首肯することは出来なかった。
〈アローズ製作所〉の当時の社長は、鬼頭らの志を認めつつも、「実績がない現状では、会社の予算で、そんなパワードスーツの開発をやらせてはあげられない」と、二人の履歴書を突き返した。米国アカデミーでは有名な鬼頭たちも、日本のビジネスの世界ではまだ無名だった。
翌日、二人は例の試作型パワードスーツの技術を応用した介護用ベッドのスケッチを持参して、再び会社の門を叩いた。
スケッチに目を通した社長は驚いた。二人のデザインしたベッドは、競合他社の主力商品よりもずっとハイ・パワーでありながら、変形時の振動と静粛性にも優れ、おまけに、底部に搭載したロボットが寝ている人間のバイタル・チェックまでしてくれる、という画期的な商品だった。それでいて、部材のほとんどを〈アローズ製作所〉の既存の生産ラインで製造可能な物としており、製造コストの増加を最小限に抑える配慮までなされていた。
「このベッドなら、五年保証を付けた上で、三モーター式で二十万円前後での販売が可能です」
工学の他に、趣味で経済学――特にマーケティング理論――を学んだ桜坂は、自信に満ち満ちた表情で言い放った。当時、介護用ベッドは他社の三モーター式ベッドの高級モデルが二五万円前後だったから、十分、勝負出来る価格帯と踏んでいた。
社長は苦笑しながら、二人の履歴書を受け取った。
めでたく〈アローズ製作所〉の社員となった二人は、いずれパワードスーツの開発を自由にやらせてもらえる日を夢見て、様々な製品の開発・設計に励んだ。
鬼頭が伊藤晶子と出会ったのは、入社後四年目……彼が二六歳のときのことだった。
きっかけは、高校時代の知人が主催する合コンだった。員数合わせのつもりで参加したテーブルに、彼女がいた。
晶子は、美しい女だった。当時二一歳の女子大生。切れ長の双眸と、圧倒的なボリュームのバストにまず目を奪われた。店内が暑いから、とカーディガンを脱いだ際に露わとなった細い肩は透き通るような白さで、鬼頭はまだ料理も並べられていないうちから、思わず喉を鳴らしてしまった。容姿だけでなく、所作の一つ一つまでもが可憐であり、男心をくすぐる魅力に満ち満ちていた。
いま思えば、それらは彼女なりの生存戦略によるものだったのだろう。結婚してから気づいたことだが、晶子は自立心に乏しく、反対に依存心の強い女だった。実際の年齢よりも大人びた美貌も、愛玩動物としての愛らしさを演出するためのものにすぎない。彼女は、自分が一人では生きていけないことを知っていた。だから、庇護者を求めた。
晶子は自分を護ってくれる男性の存在を探す嗅覚に優れ、また、彼らの気を惹く手練手管に長けていた。
当時の鬼頭はまんまとその色香に惑わされた。一目で恋に堕ちた。知人が不注意からビールを彼女の左手にこぼしてしまったのを見て、彼は胸の内で快哉を叫んだ。よくぞやってくれた。これで、彼女とお近づきになれるかもしれない。
鬼頭は晶子の左手首に巻かれたプロミネンテ・クラシコを指差して、「直せるかもしれない」と言った。職業としては時計の道を諦めた鬼頭だったが、趣味の範疇で時計弄りは続けていた。学生時代、彼が最もはまった玩具は、バルジューの7750ムーブメントだ。汎用ムーブメントが相手なら、大抵の物は完璧な修理をこなせる自信があった。
当時の鬼頭は、恋の熱病に冒され、正常な思考力を失っていた。ちょっと考えれば、「学生が身につける時計にしては少し高価すぎないか?」とか、「誰からもらった時計なんだ?」など、疑問点はいくらでも見い出せたはずなのに……。
とにかく、鬼頭は晶子と一ヶ月後にまた会う約束を取り付けた。それからの彼は毎日、仕事が終わるとすぐ実家に足を運び、祖父の時計工房に入り浸った。ETAのムーブメントは繊細な造りで、修復には苦労したが、なんとか、完璧に仕上げることが出来た。約束の日、彼は時計を渡すと同時に、彼女をデートに誘った。
およそ二年間の交際の後、鬼頭は晶子と結婚した。この頃になると、鬼頭も晶子の身に纏わりつく別の男の匂いに気づいていた。しかし、結婚を機に、そうした過去は精算してくれるだろうと信じていた。そんなくだらないことに固執するよりも、前を向こう。二人のこれからの生活のため、そして親友との夢のために、いっそう気合いを入れて頑張ろう。己自身に、そう、強く誓った。
だが、晶子にとって“彼”は、終わってしまった過去などではなく、いまなお続く現在だった。彼女の立場からしてみれば、自分を護ってくれる男は、一人よりも、二人のほうがよかった。晶子は結婚後も、間男との関係を続けていた。
結婚して一年後、鬼頭夫婦は新たな家族を迎え入れた。双子を産む痛みに、晶子はよく耐えてくれた。澎湃と涙しながら抱き上げた小さな命に、智也、陽子の名を贈った。
三十歳になる年の三月十一日、東日本大震災が起こった。炎の舌にしゃぶられる家々、津波に蹂躙される街並みをテレビモニターで眺めながら、そっと家族を抱きしめた。腕の中のぬくもりを、愛おしく思った。
三・一一から四年後、篠ノ之束という十四歳の少女がISを発表した。正式名称“インフィニット・ストラトス”。宇宙空間での活動を想定して開発された、マルチフォーム・スーツだ。もっとも、あれから七年経った現在では、そうカテゴライズする者は少ない。一般には、飛行パワードスーツと分類されている。
発表直後、桜坂と二人、「やられた!」と、嘆いた。自分たちの夢……災害用パワードスーツ開発の先を越されてしまった、と感じた。しかしすぐに気を取り直した。篠ノ之束が得意げに披露したISの性能は、よくぞこれほどのものを、と技術者として嫉妬を禁じえぬほど素晴らしいものだったが、その有り様は、自分たちの理想とはかけ離れていた。
特に気に入らなかったのは、女性にしか使えない、という汎用性のなさと、発表当時の篠ノ之束の紹介の仕方だ。彼女は、『現行兵器全てを凌駕する』と、言った。開発者自ら、ISを兵器と位置づけたのだ。
「鬼頭……」
「ああ……。これは、俺たちの作りたいものじゃない」
二人はISに使われている各種の技術については絶賛したが、存在そのものについては嫌悪した。
IS発表から一ヶ月後、白騎士事件が起こる。この日、世界はたった一人の少女の前に敗北した。世界の有り様が、変わり始めた。
IS発表から二年後の二〇一七年、祖父の浩が亡くなった。享年一〇二歳の大往生だった。
さらに一年が経った二〇一八年、鬼頭は晶子の不倫の事実を知った。
その日、鬼頭はいつもよりも早く仕事を切り上げ、帰宅の途についていた。新たに発足した義肢装身具の開発プロジェクトの進捗は順調だった。この日も、可動部に組み込むベアリングの値下げ交渉が上手くいったことで、彼は晴れやかな気持ちで家路を急いだ。
近道をしようとホテル街に立ち寄ったのがいけなかった。妻が、見知らぬ男と親密そうに身を寄せ合い、ホテルの中に消えていく姿を目撃した瞬間、めまいがした。
すぐに妻の携帯電話に電話をかけるも、応答はなかった。電子メールや、メッセージ・アプリを使っても反応はなし。仕方なく、鬼頭は帰路を急いだ。一時的な低血圧状態に陥ったのを自覚しながら、もつれる足で、家族の待つ家へと急いだ。
――あれは見間違いだ。他人の空似だ。きっとそうだ。晶子のわけがない。だってそうだろう? この時間、彼女は子どもたちと一緒に、家で夫の帰りを待っているはずなんだから。
自分で自分を誤魔化しながら辿り着いた我が家に、しかし、妻はいなかった。腹が空いたと訴える双子の兄妹に晶子の所在を訊ねると、買い物に行っている、とのこと。
「いつもこの時間なんだ。今日はもう、二時間ぐらい家にいないよ」
智也の言葉に、また視界が暗くなった。近所のスーパーまでは、歩いて七、八分の距離だ。二時間も留守にする理由はない。それに、いつも、とは……。そんなに頻繁に、二人は会っているのか。
それでも妻を信じたい鬼頭は、彼女の帰りを待った。晶子は普段通りの態度で、「ただいま」と、鬼頭に笑いかけた。彼女の入浴中、悪いとは思いながらも、携帯電話を検めた。幸いというべきか、迂闊となじるべきなのか、ロックはされていなかった。失望した。
翌日、会社に一本電話をかけた。どうにも体調が優れない。病院に行ってから出社します。部長は快く受け入れてくれた。フリーになった午前中に、興信所を探した。
探偵たちの仕事ぶりは素晴らしかった。彼らはものの一ヶ月で不貞の証拠を入手し、相手の男の素性について調べ上げた。とある運送会社の課長職。結婚はしておらず、両親とはすでに死別している。鬼頭よりも五歳年上で、晶子とは十歳もの年齢差があった。
おぞましいことに、彼が晶子を見初めたのは、彼女が十三歳のときだったという。彼女が彼にあらゆる初めてを捧げたのは、十四歳の誕生日を迎える前日の晩のこと。これらの事実は、探偵たちでも調べきれなかったことだ。後に彼女自身の口からそれを聞かされて、吐き気を催した。強い憤りを感じた。このロリコン野郎め、と。プロミネンテ・クラシコをプレゼントしたのは十六歳の誕生日だったと聞いたときは嘲笑った。酷い趣味だ。ティーンエイジャーには似合わないだろう、と。
間男との不義密通、さらには子どもたちに対するネグレクトを証明するのに十分な質・量の証拠が集まったと踏んだ鬼頭は、離婚のため具体的に動き出した。興信所から、離婚問題に強いと評判の弁護士を紹介してもらうと、妻の有責を明らかにした上での離婚と、子どもたちの親権をこちらで掌握出来ないか相談した。
「離婚については九九パーセント、親権についても九十パーセントの確率で、鬼頭さんの願う結果になると思いますよ」
弁護士歴十五年の堂島剛一は力強く言ってくれた。間男の家と会社、妻の実家に内容証明郵便を送った。晶子に対しては直接、鬼頭と代理人に立てた堂島氏の口から不倫を糾弾し、離婚と親権を求めた。慰謝料は、晶子と間男に対して各々三〇〇万円。不倫の期間が十年近くに及んでいたことを踏まえると、これでも安すぎるぐらいだろう、と思った。
晶子は、夫を激しく罵った。鬼頭も妻を厳しく罵った。なぜ、こんなことをしたのか。結婚以前についてはともかく、妻となった後もなんで……。晶子は、「だって、選べなかったんだもの。二人のことが好きだったんだもの」と、応じた。呆れた。
晶子は、離婚には納得してくれた。しかし、慰謝料と子どもたちのことについては、どう考えてもおかしい、と調停での解決を拒否した。彼女の両親もそれに同調し、彼らの問題は家庭裁判所へと持ち込まれた。
愛知県で最も有力な女性権利団体が晶子に接触してきたのは、この頃のことだ。
白騎士事件の以前、フェミニスト団体の多くは、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの思想の強い影響下にあった。ボーヴォワール以前、各フェミニスト団体の間にはフェミニズムという概念の解釈について隔たりがあった。ある団体は、“違いを前提とした平等”を支持し、ある団体は、“男女は完全に同じ扱いを受けるべき”という具合だ。ボーヴォワールはそうした十九世紀型の第一波フェミニズムを過去のものとした。ボーヴォワールは自著『第二の性』において、“男性と女性が協力することでのみ、男女の役割を定義し直すことが出来る”と説いた。
しかし、白騎士事件以降の女性解放運動の高まりは、こうした第二波フェミニズム以降の運動を過去のものとし、侮蔑の対象と唾を吐きかけた。ISは現代兵器全てを凌駕する。そのISを扱える女性は偉い。この考え方を前提とする新世代フェミニズム運動の影響下にある現代の女性権利団体は、力をもって男性から権利を奪ったり、自由を制限するといった特徴があった。鬼頭夫妻の問題は、そんな組織に目をつけられた。
晶子は両親や彼女たちの同情を誘おうと、不倫に走った理由を、鬼頭が相手をしてくれず寂しかったから、と訴えた。団体は鬼頭を強く非難した。団体とのつながりが噂される女性判事は、鬼頭に慰謝料の支払いと、親権を晶子に渡すよう命令した。鬼頭たちが提出した不倫やネグレクトの証拠は、「興信所を使って得た証拠なんて信憑性に欠けるし、第一、こそこそ隠れてやるなんて男らしくないし卑怯」と、黙殺された。裁判の傍聴席に座る探偵も、唖然としていた。
「何が卑怯だ! いったいいつから、この国の司法はこんなにおかしくなった!?」
堂島弁護士の怒声も虚しかった。
子どもたちの、「お父さんと一緒に暮らしたい」という言も無視された。
結局鬼頭は、晶子への慰謝料として五〇〇万円を支払わされた挙げ句、子どもたちの親権を奪われた。間男とは結婚することが決まり、晶子のこれからの生活を思えば、というふざけた理由で、間男への慰謝料の請求権を放棄させられた。この上さらに面会権まで取り上げられ、彼は身も心も大いに傷つけられた。
裁判の後、彼は一時期自殺を考えた。
愛した女に裏切られ、最愛の子どもたちまで奪われ、生きる希望を失っていた。
かたわらで支えてくれる者がいなかったら、きっといま、自分はこうして生きていなかっただろう、と思う。
当時、鬼頭は家庭の問題だから、と会社には離婚の話を伝えていなかった。しかし、日々顔色が悪くなっていく彼の異変に気づいていない者はいなかった。裁判の判決が下されて二日後の夜、自らは何も語ってくれない鬼頭の態度にとうとう痺れを切らした桜坂が、怒号とともに問いただし、真相を知って、涙ながらに彼を抱きしめた。気づいてやれなくてすまない。お前が辛い思いをしているときに、そばにいてやることが出来なかった。本当に、すまない……。彼がいなかったら、自分はきっと潰れていた。
……あれから、四年が経った。
この四年間、鬼頭は晶子とのことを忘れたい一心で仕事に励んだ。その甲斐あって、いまでは部内でもそこそこの地位にあり、次の部長候補第一位と目されている。年収は飛躍的に上がったし、桜坂との夢の実現にも、着実に近づいている実感を得られた。
ただ、子どもたちのことは常に胸の内にあった。もしかしたら向こうが面会権について考えて直してくれるかもしれない、という僅かな希望から、毎月十六万円の養育費の支払いも欠かさなかった。
――それなのに、晶子……! お前は、また……ッ
俺を苦しめるのか。
いや、俺ばかりではない。
お前は、自分の血を分けたわが子さえも、苦しめるのか!
カムリのハンドルを握る鬼頭は、まさしく鬼の形相で伊賀上野を目指した。
◇
晶子と、間男だったあの男が暮らす家では、気の休まる時間が皆無だったのだろう。
精神的な疲労に加えて、今回の肉体的な苦痛。双方に苛まれた彼女は、祖父母に事情を伝え、「お父さんに会いたい」と訴えた後、眠ってしまったという。
伊賀上野の伊藤家に到着した鬼頭は、案内された客間の戸をそっと開くと、中に踏み入れぬまま、廊下から室内の様子をうかがった。
十六畳はあろう和室の真ん中に布団が敷かれ、小柄な少女が穏やかな寝息を立てている。
四年ぶりに見る愛娘の寝顔を、鬼頭は哀しそうに見つめた。陽子の頬は紫色に腫れていた。
「頬だけじゃないんだ……」
かたわらに立つ謙介が、震える声で言った。
「ここに来たとき、陽子ちゃんの服は汚れていたんだ。何日も洗濯していなかったみたいで……それで妻が、着替えさせようと服を脱がしたんだが……」
「他にも、アザが?」
謙介は首肯した。四年前にはわが子に味方した彼だったが、孫を酷い目に遭わされて、正気に戻ったか。
「日常的に暴力を振るわれているみたいだった。それに」
「それに? それに、何ですか?」
「妻がね、言うんだよ。陽子ちゃんの体は、痩せすぎているって。ご飯もろくに与えられていなかったんじゃないかって」
鬼頭は音を立てぬよう気をつけながら客間に入室した。陽子のそばまで歩み寄ると、その場でしゃがみ、粛、とした動作で毛布をめくる。ピンク色のパジャマに身を包んだ陽子は、なるほど、十二歳の子どもと思えぬほど小さく、そして痩せていた。鬼頭はそうっと毛布をかけなおした。
ゆっくりと立ち上がった鬼頭は、謙介を見た。
白髪混じりの老人が、ううっ、と怯えた表情を浮かべ、後ずさる。
「……それで、智也はどこに?」
◇
智也は、陽子よりもさらに小さかった。
僅か十歳でこの世を去った少年の墓碑は、霊園でも特に日当たりのよい場所に建てられていた。
冷たい墓石をそっと撫でながら、鬼頭は背後の謙介に訊ねた。
「智也の死因は?」
「事故死、ということになっている。家の階段から落ちたんだ」
「なっている?」
「旦那さ。あいつは智也君に日常的に暴力を振るっていた。突き飛ばした先に、階段があったんだ。虐待の末の殺人だよ。でも、晶子がそれを許さなかった。あの子が嘘の証言をしたせいで、智也君は、事故死として処理された」
酒の席であいつ自身がそう言っていた、と謙介は補足した。
なるほど、晶子は自分が護らなければならない存在より、自分を護ってくれる存在を優先したのか。そうか……。
「智也の墓は、なぜここに?」
「墓を建てるのは、晶子たちが嫌がったんだ。お金がかかるから、とね。共同墓所か、海でも散骨しよう、って言っていた。それを、私と妻で止めたんだ。私たちがお金を出すから、墓を建てさせてくれ、と。そうしたら、二人ともそっちに建ててくれ、って。四日市よりも、伊賀上野のほうが土地が安いだろうから、って」
「……結局、お金ですか」
鬼頭の唇が、冷笑に歪んだ。
「こちらに連絡が来なかったのも、養育費の減額を恐れてのことか。結局、カネか!」
「すまない……すまない、鬼頭くん!」
「ッ!」
炯々と輝く双眸が、兇暴な匂いを漂わせる。
「……この四年間、辛い思いをしてきました。愛した女に裏切られ、子どもたちを奪われて、何度も死にたいと思いました。自殺を考えたこともありました。それでも、今日までなんとか踏みとどまってこられたのは、支えてくれる仲間の存在と、なにより、子どもたちはいま幸せに暮らしていると思えばこそでした」
「鬼頭くん……」
「晶子は、俺の妻であることばかりか、智也たちの母親であることまで放棄しました。裏切られました。もう、あいつらに陽子を任せることは出来ません」
鬼頭はスーツのジャケットのポケットに手を突っ込むと、プライベート用のスマートフォンを取り出した。電話帳から親友の名前を呼び出し、電話をかける。一コールが鳴り終わるよりも早く、受話口から聞き慣れた声が聞こえた。
「鬼頭か!? 陽子ちゃんの様子は!?」
「桜坂……」
何よりもまず娘の身を案じ、訊ねてくれた親友には、感謝の念しかない。と同時に、悲しい気持ちになる。血のつながりなどない赤の他人は、娘のことを真っ先に心配してくれた。それなのに、母親であるはずのあの女は……。
「陽子を取り戻したい。頼む。協力してくれ」
百キロメートルを隔てた向こう側で、息を呑む音が聞こえた。
四年前、晶子と別れたときには口に出来なかった言葉。
桜坂の声音が、嬉しさを孕んだ。
「応よ」
その短い返答の、なんと力強く、頼もしいことか。
彼の声を聞いていると、自然と目頭が熱くなる。
「お前は明日、有給を取れ。会社には俺から連絡しておく。いまは陽子ちゃんのそばにいてやれ」
「ありがとう」
「四年前にお世話になった弁護士は……」
「堂島剛一という方だ」
「分かった。連絡先を調べて、そっちにも一本、電話を入れておくよ。リベンジ・マッチだ。きっと、その人も乗ってくれる」
「今回は人が一人死んでいる……」
口にして、彼とはもう二度と会えないことを改めて確認し、気分が落ち込むのを自覚する。屈託を放り捨てる気持ちで、かぶりを振った。この先に待つのは、戦いだ。落ち込んでなんかいられない。
「単なる親権の奪い合いじゃない。権利団体の連中も、口出しできまい。いや、させない」
「命題は、向こうの家庭は陽子ちゃんを育てるのに好適な環境ではない、ということの証明だ。いちばん手っ取り早いのは、彼女に病院に行って、診断書をもらうことだが……」
沈痛そうな声に、鬼頭も頷いた。
「それは、最終手段にしておきたい。勿論、病院には連れて行くし、診断書も作ってもらう。いつでも、交渉のカードに出来るようにな。だが、使うかどうかは別問題だ」
「ああ。義理の父親からの性的暴行の立証なんて、十二歳の子どもには辛すぎる」
「出来れば、それ以外の虐待行為を理由に親権を取り上げたい」
「あとは養育費の不正受給だな。智也君が死んだ事実を知らせないで、二人分の養育費をせしめとったことを立証出来れば……」
「勝機はある」
鬼頭はそこで一旦、言葉を区切ると、低い声で言い放った。
「あいつらには、地獄に堕ちてもらう」
Chapter1「失われたもの」 了
誰も認めてくれない。
こんなにも素晴らしい発明をしたのに、誰も褒めてくれない!
なんで?!
何がいけないの!?
誰か、わたしを認めてよ。
よく頑張ったね。すごいね、って褒めてよ!
もっとわたしのことを、見てよ……!
「ISか……」
「素晴らしいな、これは」
「ああ」
「見ろよ、この細いシルエット。なんでこんなスマートななりで、超音速飛行が可能なんだ?」
「パワープラントもどうなっているのやら……。見たところ、エンジンに相当する部分や、バッテリーの類いは見受けられないが……」
「コア、ってやつから、直接供給されているのか?」
「そうだとしたら、いったいどれほどの出力なんだ!?」
「常にエネルギーフィールドを展開していて、超音速飛行も可能で、おまけに荷電粒子砲などのエネルギー兵器の運用も可能……。うん。とんでもない出力だわ」
……いた!
わたしの発明を認めてくれる人がいた!
嬉しい! 嬉しい!
この二人なら……、
この二人ならきっと、わたしのことを……!
「……だが、これは違うな」
……え?
「ああ。これは、俺たちの目指すモノじゃない」
なんで……?
「モノは素晴らしいんだがなあ……」
「ああ。惜しいなあ。でも、デザイン・コンセプトというか、哲学がなあ……」
……ふうん。
そっかそっか。
わかったよ。
あなたたちがそう言うのなら、
絶対に認めさせてあげる。