この小さな世界で愛を語ろう   作:3号機

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セカンド幼馴染み参戦。

ところで、ジャンプ・システム的に考えると、彼女は二番目のライバルということで、天津飯でいいのかな?






Chapter13「不器用者たち」

 桜坂と英国政府への対応について相談した翌日の午後七時半、鬼頭親子が暮らすIS学園学生寮の1122号室を、セシリアが訪ねてきた。

 

「こんばんは、お父様。いま、お時間はよろしいでしょうか?」

 

 ノックとともにかけられた声に応じて戸を開けた鬼頭は、思わず陶然とした溜め息をこぼした。

 

 セシリアは見慣れたIS学園の制服ではなく、私服を着込んでいた。フリルをふんだんにあしらえた、薄水色のワンピースだ。スカートの裾の長さは膝より高く、ゆったりとしたデザインの袖の長さは七分丈。肩のところが大きく開いて露出しており、スタイリッシュさとムーディーな雰囲気が上手く両立された意匠をしている。スタイルの良いセシリアが、りゅう、と着こなす姿は、まるでモデルのようだった。

 

 セシリアは右手で折り畳み式のモバイルPCを抱え持っていた。一瞥した限り、覚えのないデザインだ。メーカーのロゴなども見受けられない。ノーブランド品か、それとも自作などの特注品か。

 

「こんばんは、セシリア。こんな時間にどうしたんだい?」

 

 一昨日の和解以来、自分や陽子に対するセシリアの態度は急激に軟化していた。学校で顔を合わせればにこやかに挨拶を交わし、授業の合間の休み時間にはおしゃべりに華を咲かせるようになった。今日も学校では、それなりの時間を彼女とともに過ごした。話をする機会は、いくらでもあったはずだ。それなのに、わざわざ、この時間に自分たちの部屋まで足を運んできた理由は何なのか。

 

「昨日の手紙の件で、お礼を言いたくて」

 

「ああ」

 

 この時間、この場所でなければならない理由を悟り、鬼頭は得心した様子で頷いた。この二人の間で、昨日の手紙と言われて、思い当たる節は一つしかない。英国政府へ宛てた、セシリアへの処分についての嘆願書。英国政府との取引に関わる内容だ。余人の耳目を排せる場所、除ける時間を、と鬼頭の部屋を選んだのか。

 

「思いのほか、早かったね」

 

 礼を言いに来た、というのは勿論、目的の一つだろう。しかし、それだけではあるまい、と鬼頭は推察した。

 

 セシリアの美貌は緊張から強張っていた。表情を見るに、彼女も嘆願書の内容や、一緒に託した添付ファイルの資料には目を通したのだろう。BT兵器の開発に協力する代わりに、セシリア・オルコットへの処分を軽くしてほしい。鬼頭が英国政府に対して突きつけた取引に対する返答を、携えてきたとためと思われた。

 

「私の直接の上司が、議会の皆さんに急遽集まるようはたらきかけてくれたのです。……中に入れてもらっても?」

 

「ふむ……」

 

 鬼頭は部屋の散らかり具合と、陽子の様子を思い浮かべた。想像の中で、もう部屋の外に出るつもりはないから、と化粧を落とし、すっぴん状態の陽子が、ぶんぶん、かぶりを振っている。鬼頭はにっこり微笑んだ。

 

「どうぞ」

 

 想像の中の陽子が、「お父様!?」と、愕然とした表情を浮かべた。

 

 数秒後、ベッドの上で、だうーん、とだらけていた陽子は、部屋に入ってきたセシリアの姿を認めて、想像通りの反応を示した。セシリアは同性だが、美人だ。素の顔を見られて生じる恥ずかしさは、ある意味で異性からの目線よりも酷い。ぎゃー! とか、わー! とか、悲鳴を上げ、彼女は、顔を隠しながらシステムキッチンの方へ逃げてしまった。

 

 そんな陽子の後ろ姿を、セシリアは気の毒そうに眺めていた。

 

「……お父様、陽子さんがお化粧を落としていることを忘れていたのですか?」

 

「いいや。覚えていたとも」

 

「それなのに私を部屋に招き入れるなんて……なんて血も涙もないことを!」

 

「そこまで言われるようなことかな?」

 

 この男が奥方と上手くいかなかったのは、存外、こういうところに理由があったのではないか、とセシリアは鬼頭を軽く睨んだ。

 

 気を取り直して、鬼頭は彼女に椅子を勧めた。学習机とともに、あらかじめ部屋に備えつけられてあった物だ。自身はベッドに腰かけたところで、キッチンの方に引っ込んでいた陽子が、お盆を抱えてやって来た。……どういうわけか、ホッケーマスクをかぶった姿で。

 

「……お待たせ」

 

 マスクをつけているため、くぐもった声だ。

 

「アイスティーしかなかったんだけど、いいかな?」

 

「娘よ。いくらすっぴんを見られたくないからって、そのマスクのチョイスはどうかと思うよ、父さんは」

 

「いえ、あの、お父様……それとは別に、もう一つ、指摘しなければならないところがあるような……」

 

「安心して、セシリア。ちゃんとお砂糖は、サーッ、って入れておいたから」

 

「確信犯ですわね、陽子さん!?」

 

「……二人とも、いったい何の話だい?」

 

「いえ、お父様は知らなくてもよいことです」

 

 アイスティーで満たされたグラスを受け取り、一口含み、飲み下す。ホッケーマスクからのぞく野獣の眼光。後で聞いたところによると、昨年のハロウィンのときに買った物らしい。無視して、セシリアは鬼頭との会話を続けた。

 

「まずはお礼を申し上げます。お父様、この度は私のためにあのような嘆願書を書いてくださり、ありがとうございます」

 

「少しは、役に立っただろうか?」

 

「はい」

 

 セシリアは可憐にはにかんだ。

 

「それはもう。お父様のおかげで、私は代表候補生の地位も、専用機も失わずにすむことになりました」

 

「よかったじゃん、セシリア」

 

 ホッケーマスクをかぶった陽子が、我がことのように喜んだ。「ありがとうございます、陽子さん」と、返すセシリアだが、相手の異容ゆえに、こちらはそのいたわりを素直に喜べない。

 

「……ということは、英国政府は私からの申し出を、受け入れてくれるということかな?」

 

「そのことについてなのですが……」

 

 セシリアはそこで、抱え持っているモバイルPCを示した。

 

「先ほども申し上げました私の上司が、自分の口でお父様に直接伝えたい、とおっしゃっておりまして」

 

 なるほど、だからモバイルPCを持っているのか。察するにあれは、イギリスと連絡をとるための特殊な端末だろう。イギリスには映画の『ダブル・オー・セブン』シリーズでお馴染みの、世界屈指の情報機関……MI6がある。さすがにボンド・カーはフィクションだろうが、データ保護機能満載のパソコンぐらいは、自分たちで作る技術もあるだろう。

 

「テレビ通信機能かい?」

 

「はい」

 

「いまは七時四十分だから……」

 

 鬼頭は左手のボーム&メルシェに目線を落とした。イギリスとの時差を計算し、なるほど、そういった事情もあって、この時間を選んだのか、と得心した。

 

「きみの上司は、どんな方なんだい?」

 

「イギリス空軍の、ハミルトン大佐です」

 

「空軍の大佐か。英語だと、Colonel だったか?」

 

「それはアメリカでの呼び方ですわね。イギリスでは、Group Captain と呼ばれます」

 

 このあたり、英語と米語の違いはややこしい。基本的にはどちらもまったく同じ文法、まったく同じ語彙を持つ言語だが、時折、同じ意味の言葉なのに、発音もアルファベットの形もまったく異なる語句が現われる。

 

 セシリアはモバイル・パソコンをテーブルの上に置くと、早速、通信用アプリケーションの準備を始めた。その間に、鬼頭はかたわらの陽子に、ホッケーマスクをはずすよう説得を試みる。押し問答の末、カメラに映さないことを条件に、なんとかはずさせた。

 

 セシリアが通信用アプリを起ち上げると、ディスプレイに、鷲鼻が特徴的な四十半ばの男性の顔が映じた。

 

「ハミルトン大佐」

 

『オルコットくん、約束通りの時間帯だね。ミスター・キトウとは、話はついたかい?』

 

「はい。いま、彼の部屋にいます」

 

 セシリアはパソコンごとカメラを鬼頭の方へ傾けた。「鬼頭さん」と、自分と陽子以外の人間がいるときの呼び方で話しかけられる。

 

「こちら、私の上司のジョージ・ハミルトン大佐です」

 

「鬼頭智之です」

 

 鬼頭は英語で話しかけた。IS学園に通うにあたって、セシリアは日本語を勉強してきたらしいが、上官までそうとは限らない。

 

『イギリス空軍のジョージ・ハミルトン大佐です。空軍参謀本部に勤めております』

 

 わが国でいえば航空自衛隊の航空幕僚監部に相当する組織か。そんなセクションにいるということは、まさしく中堅の将校。十年後の将軍たる人材に違いない。

 

「お会いできて光栄です、大佐」

 

『私もです、ミスター・キトウ。……オルコットくんから、話は?』

 

「うかがっております。代表候補生の地位と専用機は、安堵されたとか。私の頼み事を聞いてくださり、ありがとうございます」

 

『いやいや』

 

 ハミルトン大佐は不敵な冷笑を浮かべた。

 

『オルコットくんは世界的に見ても貴重な、BT適性Aランクの持ち主です。彼女を処罰なんて出来ませんよ』

 

 白々しいなあ、と鬼頭は内心で相手のことをせせら笑う。

 

『さて、オルコットくんからある程度の事情説明を受けているのなら、話は早い。ミスター・キトウ、わがイギリス国は、あなたからの申し出……BT兵器完成のために協力したい、というあなたの純粋なる善意の申し出を受け入れることにしました。今後は、私があなたと軍の開発チームとの連絡役となります。後日、通信用のモバイル・パソコンを送りますので、それまではオルコットくんを連絡役としてください』

 

「分かりました。……ああ、そうです」

 

 鬼頭はまさしくたったいま思い出した、とばかりに口を開いた。勿論、これは演技だ。イギリス政府に対し伝えたいことについて、鬼頭の頭の中ではすでにまとまっていた。

 

「我々の協力関係について、具体的な内容を決める前に、一つ、申し上げておきたいことがあります」

 

『なんです?』

 

「ご存知かもしれませんが、私は大学時代をアメリカで過ごしました」

 

『……そう、聞いております。たしか、MITを首席で卒業されたのだとか』

 

 訝しげな表情を浮かべながら、ハミルトン大佐は呟いた。かたわらに立つセシリアも、いったい何を話すつもりなのか、と困惑した眼差しを鬼頭の横顔に注ぐ。

 

「そうです。私と、親友たちとで作り上げたパワードスーツの出来栄えをもって、首席の座を得ることが出来ました。……ところで、私たちは卒業後の進路について、当時、さんざん頭を悩ませましてね」

 

『はあ』

 

「アメリカの名だたる企業たちがね、卒業後はぜひ我が社に来てほしいと、こぞって勧誘してきたのです。多くは重工業の分野で目覚ましいご活躍をされている会社でした。卒業後もパワードスーツを作り続けていきたい、いつの日か、自分たちの作ったパワードスーツを世界中に普及させたい、と考えていた私たちの目に、彼らの存在はとても魅力的と映じました。パワードスーツの研究、開発、製造をする上で、最高の環境が整っていましたし、呈示してきた給料の額もよかった。ですが、私は彼らの勧誘をすべて断りました。……なぜだか分かりますか?」

 

『……いえ』

 

 少し考え込む仕草をしてから、ハミルトン大佐はかぶりを振った。

 

 鬼頭ははるか遠方の地にいる大佐に向けて、にこやかに笑いかけた。

 

「彼らはみな、軍需産業とつながりがありました。自分たちの技術を軍事目的には使われたくない、という理由から、勧誘を断ったのです」

 

 鬼頭はそこで一旦言葉を区切ると、炯々たる眼光でモバイル・パソコンのカメラを睨みつけた。

 

「私は、そういう男です。本来であれば、兵器開発への協力など、したくはありません。先のクラス代表決定戦における、《トール》にしても、内心は忸怩たる思いで作っておりました。娘のためでなければ、そもそも作ろうという気持ちさえ、湧いてこなかったでしょう。……そんな私が、自身の信条をねじ曲げてまで貴国のBT兵器開発には協力する意味、その理由を、ぜひ、忘れないでいただきたい」

 

 鬼頭は、ちら、とかたわらに立つセシリアに目線をやった。彼女のためでなければ、こんな仕事、誰がやるものか! しかしその一方で、鬼頭のことを父と呼ぶ少女は、「お父様……」と、小さく呟きながら、彼の横顔に熱い眼差しを向けていた。自分のために、彼はやりたくもない仕事に挑もうとしている。それを心苦しく思うと同時に、嬉しいとも思った。自分に対する彼の愛情が感じられた。

 

 さて、ハミルトン大佐というと、表情筋を強張らせていた。昨晩、自分に宛ててしたためられた嘆願書の内容からも薄々感じていたが、これではっきりとした。鬼頭智之がセシリア・オルコットに並々ならぬ執心をよせていることは、いまの態度からも間違いない。その理由は分からないが、これで自分たちは、彼女を軽くは扱えなくなってしまった。

 

「……話を、元に戻しましょう」

 

 知らぬうちに荒々しくなっていた語気を、一旦、舌先を休めることで改めた。

 

「まず、前提条件の共有と確認からいたしましょう」

 

『と、おっしゃいますと?』

 

「私はこれまでに様々な製品を作ってきましたが、兵器を作る経験には乏しいのです。そこで、兵器開発の基本原則などを確認しておきたい。私が思うに、兵器とは単に強力なだけでは駄目だ。第一に、運用目的に即した機能を有していなければならず、第二に、実際に扱う人間のことも考えて作られていなければならない、と思うのです」

 

『……その通りです』

 

 ハミルトン大佐は自身のこれまでの経験から首肯した。

 

 彼はファイター・パイロット出身の佐官だ。現役時代の乗機は、トーネードGR4戦闘爆撃機だった。ロジーマスに拠点を置く第十四飛行隊の出身者で、二〇一五年に始まった、テロ組織・イスラム国掃討作戦にも参加している。

 

 この頃、イギリス空軍では新型の戦闘機であるユーロファイター・タイフーンの配備が進められていた。英・独・伊・西の欧州四ヶ国が共同で開発したマルチロール機だが、開発計画の遅延から対地攻撃能力は限定的なレベルにとどまっており、英空軍の対地攻撃任務の主役は、いまだトーネードGR4が務めていた。

 

 イギリス空軍はシリア領内で活発に蠢くテロ組織に対し、第十四飛行隊を含むトーネードGR4攻撃部隊と、試験的にタイフーン部隊を投入し、空爆を行った。ハミルトンたちのトーネードが着実に戦果を挙げる一方で、タイフーン部隊は出撃すること自体にさえ苦慮していた。タイフーンは繊細な機体で、整備が難しかったのだ。タイフーンが導入されたばかりの頃、ハミルトンは新型機を早々にあてがわれた他の飛行隊のパイロットを羨ましく思ったが、このとき、兵器には強さよりも優先されるべき性能がある、ということを学んだ。

 

「そうであれば、BTシステムの最終形態とは、誰でも扱える物でなければなりません」

 

 鬼頭の見たところ、現状のBT兵器は、セシリアのような、BT適性と呼称される空間認識力が特別優れた一部の者でなければ、満足に動かすことも出来ない欠陥品と映じる。彼はそれを、機械の補助によって特別な才能がなくとも運用出来るようにしたい、と考えていた。

 

『その通りです! それこそ、我々が望んでいる姿です』

 

 ハミルトン大佐は声高に首肯した。

 

『欧州の全軍が、ティアーズ型を採用する将来像とは、つまり、そういう未来です』

 

「なら、いますぐ欲しいものがあります」

 

『なんでしょう?』

 

「現時点までにおけるBTシステムの開発データ、そのすべてを送っていただきたい。それから、現在、稼働状態にあるBTシステム搭載機の中でも、稼働データが最も豊富に蓄積されているティアーズ型の一号機……セシリアさんの、ブルー・ティアーズへのアクセス権も欲しいです」

 

『ふむ。当然ですな』

 

 ハミルトン大佐は頷いた。

 

『研究データについては、早速、用意しましょう』

 

 即答だった。勿論、英国軍の最重要機密が外部へと漏洩してしまう危険は承知の上での返答だ。というのも、ハミルトンは、この男に対しては、情報をどんなに厳重に秘匿したところで、いずればれてしまうだろう、と諦観していた。

 

 鬼頭智之はわずか十数分、ブルー・ティアーズの動く姿を眺めていただけで、BTシステムのおおよその構造を見抜いてしまった。研究データの提供などなくとも、いずれは自力でBTシステムの詳細を完璧に把握してしまうだろう。それならばいっそのこと、彼の頭脳と能力を、思いっきり利用させてもらった方が建設的だ、と彼は考えた。

 

『ただ、ブルー・ティアーズへのアクセス権については、制限をかけさせてもらいます』

 

 鬼頭が協力を申し出たのは、BTシステムの開発のみ。それ以外の部分にまで、知的好奇心の触手を伸ばしてもらっては困る。

 

 勿論、彼の能力をもってすれば、アクセス制限のコードなど簡単に解除されてしまうだろう。

 

 無意味な牽制ではあるが、それでも一応、建前として言っておかねばならない。

「当然ですね」

 

 鬼頭も頷いた。言葉では表せない、大人同士の機微が、両者の間にはあった。

 

「アクセス権については、可能な範囲で構いません」

 

『助かります。それから、データ以外にもこちらから提供させていただきたいものがあります』

 

「それは?」

 

『まずは研究用の予算ですね』

 

 兵器開発には、とにかくカネがかかる。アメリカのF-22ラプター戦闘機など、機種選定用のトライアル機の開発だけで三八億ドル(当時の対円レートでおよそ四六〇〇億円)もかかっている。勿論、選定試験の終了後には、制式量産型への再設計と研究がスタートしているため、トータルの開発費はさらに上乗せされている。ISは最新技術の塊だから、開発費は戦闘機以上となる。

 

 とはいえ、自分が担当するのはBTシステムのみ。そうそう高額にはなるまい。とりあえず一〇〇〇万円くらいはもらえるかな、などと、ぼんやり、考えていると、

 

『当座の予算として、英国議会はあなたに二〇〇万ポンドをお預けすることになりました』

 

 日本円でおよそ二億六〇〇〇万円か。フェラーリが十台買えるな、と素早く計算して、鬼頭は目眩を覚えた。馴染みのない桁の数字に、気が遠くなるのを自覚する。

 

「……え? え、それ、本当に?」

 

『申し訳ない。あなたの計画への参加は急なことなので、すぐには、これだけしか用意出来ませんでした。不足があれば、次月以降に用意しますので』

 

「い、いやいやいや。これで十分です」

 

 自分の言葉を、真逆の意味で捉えたか、悄然と肩を落とすハミルトン大佐に、鬼頭は慌ててかぶりを振ってみせた。

 

 二億円以上を、これだけ、とは……。兵器開発に携わっている者の金銭感覚は、狂っているとしか言いようがない。

 

『そう言っていただけると、ありがたいです。……気を遣わせてしまいましたね』

 

 いや、だから、違うってば。

 

『それから、もう一つ、あなたに提供したい物があります』

 

「な、なんでしょう?」

 

 鬼頭はおっかなびっくり訊ねた。二億なんて数字が飛び出したいま、今度は何が出てくるのやら、と戦々恐々としてしまう。

 

『そう身構えなくても結構ですよ。お渡ししたい物とは、計画参加に対する、お礼のようなものです』

 

「と、おっしゃいますと?」

 

『ミスター・キトウ、先のクラス代表決定戦で、あなたはご息女のために、レーザー・ピストルを作ったと、オルコットくんから聞いています』

 

「え、ええ」

 

『そしてその開発資金を捻出するために、来月、愛車を手放すことになってしまったとか』

 

「ええ、はい。その通りですが」

 

『IS学園にいるうちは、車がなくても不便は感じないでしょう。ですが、帰省の際など、足がないとやはり不便でしょう?』

 

「……まさか」

 

『はい。英国政府からあなたに、車を一台、差し上げることになりました。車種は、ジャガーXJ、グレードはスーパースポーツです』

 

 鬼頭は思わず絶句した。イギリスの高級車ブランドの名門、ジャガーが誇るロイヤル・サルーンだ。スーパースポーツは現行モデルの中でも最上位のグレード。ターボチャージャー付きの五リッター・V8・エンジン六〇〇馬力を搭載している。新車価格は二千万円オーバー。また、鬼頭が最も好きなイギリス車でもある。

 

 憧れのXJが手に入るのか!? 感動の衝撃のあまり、返す言葉を見失ってしまった……わけではない。途端、顔つきを険しくした彼を訝しく思いながら、ハミルトン大佐は続ける。

 

『例のあなたからの手紙に、わが国の車で最も好きな車種と書いてありましたので。ジャガーの重役と懇意にしている議員の一人が、手配出来ないか、とはたらきかけてくれたのです。都合の良いことに、ミスター・キトウのご実家のあるナゴヤシティには、ジャガーの正規販売店もあるとのこと。おかげで話を、トントン拍子に進めることが出来ました』

 

 鬼頭は、くぅぅっ、と悔しげに呻いた。

 

 なんということだ、なんということだ、と胸の内で、何度も呟いた。

 

『……あの、どうかされましたか?』

 

 いきなり奇声を発した鬼頭を、さすがに変だと思ったか、ハミルトン大佐が訊ねた。

 

 鬼頭は、慚愧の念が篭もる声で応じた。

 

「XJが好き、とたしかに書きました。ですが、好きな車と、乗りたい車はまた別なのですよ」

 

『……あっ』

 

 何かを察したらしいハミルトン大佐は、途端、気の毒そうな眼差しを彼に向けた。ここまでのやりとりから、鬼頭がクルマ好きなのは明らかだ。ということは、

 

「こんなことなら……こんなことになると分かっていたならば! 嘘でも、Fタイプが好き、と書いておけば……!」

 

 名門ジャガーが誇るピュアスポーツカーだ。ダイナミックな走りとルックスの良さは、鬼頭の心を捕らえて放さない。しかし、金を払ってまで欲しいか、と問われると、首を縦には振れない。外国車ということを考えても大柄な全幅一九二五ミリのボディは日本では持て余してしまうだろうし、なによりも安全装備に乏しいのがマイナス・ポイントだ。ただし、運転自体はさぞや楽しかろう。

 

 それに対して、XJは金を払ってでも乗りたい車、いや金を払いたい車だ。汗水垂らして稼いだ自分のお金で買うからこそ、所有欲を満たしてくれる車だ。好きな車だからこそ、自分のお金で手に入れたい。

 

 どうせタダで貰えるのならFタイプの方がよかった……!

 

 鬼頭はがっくりと肩を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter13「不器用者たち」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四月下旬。

 

 遅咲きの桜の花びらが、はらはら、となくなりきってしまった頃。

 

 

 

 

 まるで七十年代の特撮ヒーロー番組にでも出てきそうな、ヒーローたちの秘密基地然とした偉容のIS学園校舎。

 

 その正面に広がる運動場で、一年一組の生徒たちが整列していた。鬼頭を含む全員が、ISスーツを身につけている。生徒たちの視線の先には千冬と真耶の姿があり、こちらはともにジャージを着ていた。各々のパーソナルカラーなのか、千冬の方は白を基調としたスポーティなデザイン、真耶の方は薄緑ベースで、学生が着ていそうな野暮ったい意匠をしている。

 

「ではこれよりISの基本的な飛行操縦を実践してもらう。専用機持ちは列の外へ」

 

 千冬の指示に従い、一年一組に籍を置く専用機持ち三名が、列を離れた。勿論、鬼頭智之、織斑一夏、セシリア・オルコットの三人だ。彼らは他の生徒たちからたっぷり距離を取ると、各々待機状態の愛機へと意識を集中させた。

 

「全員、ISを展開しろ」

 

 千冬の声は凛としていて、拡声器を使わずとも、よく通る。一団から離れた鬼頭らのもとにも、その意は届けられた。

 

 最初にISを展開したのはセシリアだった。左耳のイヤー・カフスから放出された光の粒子が、彼女の身体を一瞬で覆い隠し、弾け、ブルー・ティアーズへと姿を変える。展開に要した時間は僅かに〇・三秒。千冬の言によれば、熟練のIS操縦者は待機状態からの展開に一秒もかからないらしいが、その水準よりも、さらに速い。

 

 さすがは代表候補生だ、と口の中で呟きながら、次いで、鬼頭が灰色の打鉄を身に纏った。一年一組の生徒たちが、彼のISをじっくり眺めるのは初めてのことだ。通常仕様の打鉄との違いを、ああでもない、こうでもない、と話し合う姿を、ハイパーセンサーが捉えた。こちらの展開時間は、およそ〇・五秒。

 

 最後にISの展開を終えたのは一夏だった。待機形態の白式……右腕のガントレットを前へと突き出し、左手で掴んだ。白式を手にして以来、様々な試行錯誤の末に、このポーズが最も集中してISの姿をイメージ出来ると学んだのだ。初動が遅かっただけで、展開に費やした時間自体は短かった。約〇・七秒で、白亜のISを身に纏った。

 

「よし、飛べ」

 

 命令一過、最初に行動を起こしたのは、やはりセシリアだった。あっという間に、遙か頭上へと移動してしまう。

 

 次いで飛び発ったのは一夏だ。しかし、ブルー・ティアーズの後を追う上昇速度は、セシリアと比べてかなり遅い。遅れて地面を蹴った鬼頭にも追い抜かれてしまう。

 

「何をやってる。スペック上の出力では、その三機の中では白式がいちばん高いんだぞ」

 

 通信回線越しに、千冬の叱咤が飛んだ。

 

 ようやく二人の待つ高度へと到達した一夏は、そんなこと言われたって、と内心ぼやく。大体において、空を飛ぶ感覚自体、まだあやふやなのだ。急上昇、急降下のやり方にいたっては、昨日習ったばかりの技術。教科書によれば、自分の前方に角錐を展開させるイメージで行うといいよ、とのことだが。

 

 ――それってどういう感覚だよ!?

 

 イメージ・インターフェースによって機体を制御するISにおいて、ものの感じ方、とらえ方、認識の仕方、といった感覚は重要だ。一夏はそれが上手くいかず、白式の高性能を持て余していた。

 

「織斑君」

 

 内心頭を抱える一夏のもとに、鬼頭が近づいてきた。灰色の打鉄を着込んだ姿は、まるで源平時代の鎧武者のようだ。

 

「教科書に載っているからといって、正しいとは限らない。教科書の記述は参考程度にして、自分のやりやすいやり方を模索していくのは、どうだろうか?」

 

「そう言われても……」

 

「たとえば、織斑君は『ドラゴンボール』という漫画を読んだことはあるかい?」

 

 日本が世界に誇る偉大な漫画作品だ。一夏も友人の家の本棚に、ずらり、と並んでいるのを、読んだことがある。

 

「あの作品の登場人物たちは、空を飛んで戦うだろう? たとえば、そういう姿をイメージするのはどうだろうか?」

 

 なるほど、それは分かりやすいかもしれない。漫画にはお話しの流れがある。バックボーンがしっかりしているから、その時々のキャラクターたちの心情が想像しやすい。

 

 ――ドドリアさんから逃げる、クリリンの気持ちになれば……いいや、我ながらどうよ、それ。

 

 数ある飛行シーンの中からその場面が反射的に思い浮かんだ自分に、思わず呆れてしまう。よりにもよって、なぜ敵に追われるシーンなのか。そんなハラハラする場面ではなく、もっとこう、胸がわくわくするシーンではいけなかったのか。

 

 自問する一夏はふと目線を地上にやって、ああ、と得心した。

 

 ジャージ姿でさえ画になる美貌の姉上が、きつい眼差しで己を睨んでいる。彼女に対する恐れのイメージと、作中に登場する強敵のイメージとを、無意識のうちに重ねてしまっていたのか。

 

「……織斑、私に対して、なにか失礼なことを考えているだろう?」

 

 ……お姉様、なにゆえ、ぼくの心が読めるのでしょう?

 

「あとで降りてきたら説教だ」

 

 酷薄なる宣告に、はあ、と溜め息一つ。悄然と肩も落としてしまう。

 

 極めて近い将来に待ち受ける、残酷な仕打ちから一旦、意識をそらしたい、と一夏は鬼頭との会話を続けた。

 

「ちなみに智之さんはどんなイメージで飛んでいるんですか?」

 

「私かい? 勿論、角錐のイメージだよ」

 

「教科書通り!?」

 

「教科書にこだわる必要はない、と言っただけで、教科書の内容を尊重するな、とは言っていないよ」

 

 教科書とは、先達者たちの知識や経験の集大成だ。拘泥しすぎるのも問題だが、敬意をまったく払わないというのもまた不味い。

 

 世界でたった二人しかいない立場の男同士、そんな会話を口ずさんでいるかたわらでは、セシリアが笑いをこらえながらその様子を眺めている。

 

 鬼頭も一夏も気づいていないみたいだが、彼らのやりとりはまるでコメディ・ショーだ。しかも、二人とも周囲を笑わせる意図をもって言葉を交わしているわけではないから、こみ上げてくる笑いもまた自然なもの。我慢するのが大変だった。

 

「三人とも、急下降と完全停止をやって見せろ。目標は地表から十センチだ」

 

 千冬から、また指示が飛んだ。

 

 今度もいの一番に行動を起こしたのはセシリアだ。「では、お二人とも、お先に」と、優雅な仕草とともに微笑むや、すぐさま地上へ向かっていった。ぐんぐん小さくなっていく姿を見て、鬼頭と一夏は揃って感嘆の溜め息をこぼす。

 

「うまいもんだなぁ」

 

「さすがは代表候補生」

 

 完全停止も、難なくこなしてみせた。停止位置は、千冬の指定した地上十センチぴったり。ブレーキのタイミングや深さが完璧だった証左だ。

 

「ようし、俺も」

 

 威勢良く言い放ち、今度は一夏が急降下を開始した。

 

 鬼頭のアドバイスに従い、漫画の登場人物になったつもりで、白式のウィング・スラスターを噴かす。猛然と発進っ! 先ほどの急上昇時よりも確かな手応えに、一夏の口角は自然と緩んだ。

 

 今回は上手くいくかも、などと思った矢先、はたと気がつく。

 

 ――って、あのときのクリリン、ブレーキのこととか考えられる状況じゃあ……!

 

 気づいたときにはもう、遅かった。

 

 急停止をかけるタイミングやその深さについて、まったく忘れていた一夏は、白式の高性能スラスターが誇る推力の勢いのままに、地表へと突撃した。すさまじい衝撃音。土煙が、もうもう、と舞い上がる。

 

「織斑君!」

 

 遅れて地上へとやって来た鬼頭は、粉塵煙の中心地点へと打鉄を移動させた。地面に突っ伏する一夏を後ろから抱え持ち、ゆっくりと上昇する。地上一メートルの高度で解放してやった。

 

「と、智之さん、ありがとうございます……」

 

 感謝の言葉を口にする一夏を、鬼頭はしげしげと眺めた。……うむ。どうやら怪我はないようだ。普通、あの速度で地面に激突しようものなら、骨は粉塵レベルで砕け、内臓破裂は確実だが、ISの生体保護機能が、しっかりとガードしてくれたらしい。白式自体も、シールドバリアーの作用により、目立った損傷はない。

 

「馬鹿者。誰が地上に激突しろと言った。グラウンドに穴を開けてどうする」

 

 砂埃が落ち着いたのを見計らって、千冬が近づいてきた。次いで、一夏を助け起こした鬼頭に対し、厳しい目線を向ける。

 

「鬼頭さんも、あまり織斑を甘やかさないでください。彼のためになりません」

 

「すみません」

 

 IS学園の教師として、生徒の成長を望むがゆえの厳しい言葉に、鬼頭は素直に謝罪の言葉を返した。

 

「ISには搭乗者を保護する機能が完備されている。頭では理解しているつもりですが、地面に倒れる一夏君を見て、つい、体が動いてしまいました」

 

「以後、気をつけてください。……それから、ありがとうございます」

 

 後半部分は、IS搭乗者たちにのみ聞こえるよう、ぼそり、と小さな声音で呟かれた。これは姉としての言葉だな、と察した鬼頭は完爾と微笑みながら、こちらも小さな声で「どういたしまして」と、応じた。

 

 気恥ずかしさを誤魔化すためか、千冬は、ふん、と鼻息も荒々しく、鬼頭の眼差しから、ぷい、と顔をそむけた。

 

 先輩教師の一連の言動をかたわらで見ていた真耶が、思わず苦笑する。彼女は空間投影ディスプレイを呼び出すと、一夏墜落のどさくさの中、ひっそりと急降下・急停止をこなした鬼頭の動きをリプレイ再生した。急降下時……スカート・アーマーのロケット・モーターだけでなく、PICをも併用した、素晴らしい加速だ。次いで急停止……これは、減速を仕掛けるタイミングが、やや早かった。鬼頭の最終的な停止高度は、地表十五センチメートル。トータルの操縦時間がまだ十時間にも満たない初心者のスコアとしては、驚異的な数字だ。

 

「PICの制動力は、鬼頭さんが思っている以上に強力です。出力のすべてを減速に回した場合、時速一千キロメートルの状態から完全停止にいたるまでは、一秒もかかりません」

 

「つまり、もっと踏み込んでからでもよかった、と?」

 

「はい」

 

 首肯する真耶を見て、鬼頭は思わず唸り声を発した。やはり、ISの搭乗者保護機能の性能は素晴らしい。普通、それほどのスピードで減速しようものなら、減速時のGにより、やはり体はとんでもないことになってしまう。

 

「二人とも、授業を進めますので、そのあたりで」

 

 鬼頭の真耶の間に、千冬が割って入った。「次は生徒たちの前で武装を展開してもらいます」との指示に、鬼頭は頷く。

 

「織斑、武装を展開しろ。それくらいは自在にできるようになっただろう」

 

「は、はあ」

 

「返事は『はい』だ」

 

「は、はいっ」

 

「よし。では始めろ」

 

 一夏は周囲に人がいないことを確認した後、白式を呼び出したときと同様、再度右腕を突き出した。左手を添えた集中姿勢で、白式に唯一搭載された武器……《雪片弐型》の姿をイメージする。右手から放出される、光の粒子。

 

 ――来い……!

 

 やがて集中力が極限に達したとき、離散集合を繰り返す光の粒は一つの形へと集束した。全長一・五メートルにもなんなんとする長大な刀剣を手にした一夏は、安全への配慮から、かます切っ先を地面へと下ろす。

 

 ――よし。必ず出せるようになったぞ。

 

 この一週間の訓練の成果だ。はじめのうちは、どんなに集中しても光の粒子すら出てこなかった。

 

 一夏は得意気に笑って、千冬を見た。どうだよ、俺も成長しただろう? という目線に、彼女は淡々と応じる。

 

「遅い。〇・五秒で出せるようになれ」

 

 ぐあ、と一夏は顔をしかめた。苦労の末にようやく得た技術を、褒めるどころかけなされた。先生からのありがたいお言葉が身に沁みて、目頭が熱くなってしまう。

 

 そんな姉弟のやりとり眺めながら、鬼頭は、不器用な人だなあ、とひっそり嘆息した。

 

 一夏に向けて千冬が発した言葉は、これだけだとひどく冷たい印象を感じてしまう。しかし、弟のことを見つめる彼女の眼差しから、鬼頭は期待と信頼の気持ちを見て取っていた。

 

 一夏、お前は私の自慢の弟だ。やれば出来る子のはずだ。そんな程度で満足してくれるな。慢心をしてくれるな。お前ならもっと高みに行ける。もっと成長出来る。だから頑張れ。……大方、そういったことを考えているのだろうが、その気持ちも言葉にしなければ相手に伝わらない。現に一夏は、苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべている。

 

 そういえば彼に対する体罰も、一部については彼女なりの愛情表現だったな、と思い出す。お前のことを愛している。言葉でそう伝えればよいことなのに、それが上手くいかず、使い慣れた手段に頼ってしまう。その結果、一夏からは怖がられてしまっている。

 

 ――気持ちを伝えるのが苦手なんだ。相手のことを想っているのに、それが伝わらない。本当は人懐っこい性格なのに、人付き合いを深めようとすればするほど、損をするタイプの人間だろう。

 

 難儀な性格だなあ、と思う。せめて好きか嫌いかの気持ちくらいは、相手に伝わる術を身につけてほしいものだが。

 

「オルコット、次はお前だ。武装を展開しろ」

 

「はい」

 

 セシリアは左手を肩の高さまで上げると、真横に腕を突き出した。一夏のときのように、光の奔流を放出することはない。一瞬、光が弾けたと思った次の瞬間にはもう、レーザー・ライフル《スターライトmkⅢ》の召喚を完了させていた。

 

 驚くべきは、その速さだ。展開に要した時間は僅か〇・四二秒。しかも、機関部にはすでに冷却剤が充填されたマガジンが接続されており、安全装置もセシリアの目線一つで解除出来る状態になっている。武装展開から射撃可能なコンディションにもっていくまでの時間を加えても、トータルで一秒もかかっていない。

 

「さすがだな、代表候補生」

 

 これには千冬も高評価を下すだろう、と思われたが、

 

「ただし、そのポーズはやめろ。横に向かって銃身を展開させて、誰を撃つ気だ」

 

 指摘され、セシリアは慌てて銃口を向けたその先……遠くからこちらを眺めるクラスメイトたちを、守るように物理シールドを構えている鬼頭を見た。一夏は《雪片弐型》を呼び出す際、周囲の安全を確認してから展開した。それを見ていた彼は、セシリアが安全確認を怠っていることに気がつき、念のために、とひそかに移動していたのだった。代表候補生ともあろう者が、安全装置のロック解除を誤るとは考えにくいが、万が一ということもある。

 

「理解したな? 理解したなら、正面に展開出来るように直せ」

 

「は、はい……」

 

 悄然と頷くセシリア。さすがにこれは、反論の余地がない。

 

 千冬は最後に鬼頭を見た。

 

「鬼頭さん、お願い出来ますか?」

 

「はい」

 

 鬼頭は頷くと、物理シールドを体側へと移動させた。

 

 さて、何を呼びだそうか、と考えたところで、そういえば一夏もセシリアも、中級者以上向けのやり方でしか武装展開をしなかったな、と気づく。まだISの搭乗に慣れていないクラスメイトたちのためにも、初心者向けのやり方を実践するべきではないか、と考えた。

 

「織斑先生」

 

「なんです?」

 

「クラスの皆さんのために、超初心者向け、初心者向け、中級者以上向け、と三連続で展開してもよろしいでしょうか?」

 

 千冬は少し考え込んだ後、

 

「分かりました、それでお願いします。……気を遣わせてしまいましたね」

 

「いえ、これも年長者の仕事です。では、超初心者向けのやり方から」

 

 先のクラス代表決定戦で陽子が多用していた方法だ。空間投影ディスプレイに武装一覧ウィンドウを表示し、武器を選択。五一口径アサルト・ライフル《焔備》を、右手に召喚した。安全装置はかけたまま、銃口を地面へと向ける。桜坂のように趣味にすることはなかったが、鬼頭もアメリカ留学時代に、銃器を扱った経験があった。

 

「続いて、初心者向けのやり方」

 

 鬼頭は遠巻きに眺めているクラスメイトたちにも分かりやすいよう、左腕を天高く突き上げた。掌からはすでに、光の粒子が放出し始めている。

 

「《葵》」

 

 名づけという行為は偉大だ。たとえば、はさみという道具に名前がなかったら、我々はこの道具について言葉をもって説明する場合、相当な苦労を強いられるだろう。そしてそれは、ISを扱う上で必須の、何かをイメージする技術においても同様だ。二枚の刃で挟むようにして物を切る道具の姿をイメージするのは難しいが、はさみという名詞を思い浮かべ、そこから、それがどういう姿をし、どんな機能と性能を持っているのか、想像を波及させるのは比較的容易だ。

 

 鬼頭は打鉄の標準的な装備の一つである近接ブレード《葵》を左手で掴むと、その切っ先を地面へと下ろした。

 

 両手に携えた武器を、彼はしかし、即座に光の粒子へと変換した。量子領域への収納(クローズ)。開きっぱなしだった武装一覧ウィンドウに目線をやると、先ほどまで展開が可能な状態にあるかどうかを示すランプが消えていた《焔備》、《葵》の項目が、それぞれ復活していた。

 

「最後に、中級者以上向けのやり方を」

 

 言い放つや、鬼頭は打鉄を着地させると、右足を前に出して立った。左手を腰元に添え、右手のロボットアームを開いた状態のまま、左手の方へと寄せていく。

 

 鬼頭の姿を眺める千冬が、おや、と眼差しを鋭くした。

 

 鬼頭は一瞬だけ横目で笑いかけると、目線を前へと置いた。

 

 IS学園には、海外からの留学生も多い。彼女たちに対し、少しくらい、日本流のサービスをしてやろう、という茶目っ気を胸に、鬼頭は意識を手元へと集中した。光の粒子が弾ける。一夏が、あっ、と声を上げた。

 

 〇・五秒で展開した近接ブレード《葵》を、鬼頭はすかさず、肩の高さで横一文字に振り抜いた。

 

 短い刃音。

 

 武具の性質上、鞘こそ差していないが、まごうことなき、居合の抜き打ちであった。

 

 抜き付けの一太刀で空を断つや、上段に振りかぶる。左手を柄尻に添え、手の内を練った。真っ向、振り下ろす。

 

 その切っ先は、音を置き去りにし、振り抜ききった後に、風を切る音を轟かせた。ロボットアームの膂力と、確かな技術から繰り出された、超音速の上段斬りだ。

 

「……お見事です」

 

 千冬が感心した声を発した。かたわらに立つ真耶も、うんうん、と首を縦に振る。

 

「居合の心得が?」

 

「まさか」

 

 鬼頭ははにかんだ。

 

「大昔に、友人から手ほどきを受けたことがあるくらいです。ちゃんとした師に学んだことはありません」

 

「それにしては、堂に入っていましたが」

 

「娘に格好良い姿を見せてやろう、と張り切ってやったら、思いのほか上手くいきました」

 

 微笑みながら呟き、クラスメイトたちの一団を見た。

 

「あ、あれ……?」

 

 こちらを見る陽子は、苦々しい顔をしていた。また、悪目立ちして……と、ハイパーセンサーが唇の動きを捕捉する。

 

 ままならないものだ。これでは、千冬のことを言えないじゃないか、と鬼頭は溜め息をこぼした。

 

 そのとき、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。

 

「時間だな。今日の授業はここまでだ」

 

 千冬はそう言って生徒たちの顔を見回した。最後に、一夏を見て、

 

「織斑、グラウンドを片付けておけよ」

 

と、指示を口にする。先ほどの急停止失敗の際に、地面に穿ってしまった穴を埋めておけ、ということだ。IS学園では、今日の失敗のように、グラウンドが荒れてしまうのは日常茶飯事だ。グラウンドを補修するための土は、体育倉庫に常にストックされていた。

 

 ――それにしても、この大きさの穴を一人でやらなきゃならないのか……。

 

 一夏は自身が地面に開けてしまった穴の深さを見て溜め息をついた。自業自得とはいえ、こいつはちょっとしんどそうな大きさだ。休み時間中に終わるだろうか? 誰か手伝ってくれる人はいないか、と周りを見回すも、薄情なクラスメイトたちはすでに教室に戻るため移動を開始していた。

 

「……わかったよ。一人でやれって言うんだろ」

 

「いや、私たちも手伝うよ」

 

 打鉄の装着を解除し、ISスーツ姿の鬼頭が、一夏に声をかけた。

 

 いつの間に体育倉庫へ向かったのか、両手にシャベルを三本抱えている。そのかたわらでは、同じくISスーツ姿の陽子とセシリアが、土嚢袋を載せた台車を引っ張り立っていた。

 

「四人がかりでなら、休み時間中に終わるさ」

 

「みんな……ありがとうございます!」

 

 礼儀正しく頭を垂れる一夏に、鬼頭はシャベルを渡した。セシリアが土嚢袋の口を開き、穴に向かって中身を落とし込む。陽子はシャベルでそれをならしていき、一夏と鬼頭の二人は、墜落時の衝撃で周囲へまき散らされた土をかき集め、地面が平らになるようならしていった。

 

「あ、そうだ」

 

 穴埋め作業に汗を流していると、不意に、一夏が口を開いた。

 

「三人とも、今日の放課後って、空いていますか?」

 

「今日か……」

 

 シャベルを動かす手を止めぬまま、鬼頭は頭の中に、今日一日のスケジュールを思い浮かべる。

 

「うん。特に用事はないよ。会社から急ぎの案件が送られた、とかもなかったしね」

 

「わたしも特には。射撃場に行こうかな、ってぼんやり考えていたくらい」

 

「私もこれといってはありません」

 

「あ、じゃあ、もしよかったらなんですけど、放課後、俺のISの訓練を見てくれませんか?」

 

「ISの訓練を?」

 

「はい。実は俺、オルコットさんとの試合があった日から、放課後は箒と二人で、ISの訓練をしているんです。箒のやつが、ISのことを教えてくれる、っていうんで……」

 

 ははあ、さすがはISの生みの親、篠ノ之束博士の妹だ。まだ入学したての一年生で、専用機や、国家代表候補生といった特別なライセンスも持っていないというのに、もう人に教えられるほどの技術と知識を持っているとは!

 

 しかし、そんな鬼頭らの感心を、一夏はかぶりを振って否定した。

 

「いや、そうでもないんですよ。箒の説明は、なんというか……擬音が多すぎて、分かりづらくて」

 

 曰く、ぐっ、とする感じだ、という。

 

 曰く、どんっ、という感覚、らしい。

 

 曰く、ずがーん、という具合だ、とのこと。

 

 鬼頭らは顔を見合わせた。彼女が何を伝えようとしているのか、さっぱり分からない。

 

 おそらく、篠ノ之箒という人物は、頭で考えて理解するよりも、体でぶつかって感覚で理解する方が得意、というタイプの人間だろう。ただ、そのセンスというのが少々独特で、感じ方、捉え方、認識の仕方を言語化するのが、本人でさえ難しいと感じているに違いない。ために、ぐっ、とか、どんっ、など、聞き手側の解釈に依存するところの大きい、曖昧で抽象的な表現になってしまうのだろう。あるいは、単なる語彙力不足か。それとも、本当のところは分かっていないのか。

 

「それで、他の人だったら、どう説明してくれるのか、気になったので。それに、今日の授業でもそうだったけど、智之さんも、オルコットさんも、俺よりもずっと操縦が上手いし。動きを見て、参考にさせてもらえたらな、って思いまして」

 

「私は構いませんわよ」

 

 空っぽの土嚢袋を丁寧に折りたたみながら、セシリアが言った。

 

「織斑さんにはクラス代表の地位を押しつけるようなことをしてしまいましたし、お役に立てるのなら、喜んで協力しますわ」

 

 英国政府からセシリアに対し、いまの立場とブルー・ティアーズを安堵するとの連絡がもたらされた後も、クラス代表の地位には一夏が就いていた。初日の授業中に千冬が言及していたが、一度決まると、向こう一年間は動かせないポジションだ。

 

 就任時の一夏の態度から、クラス代表になることは彼にとって好ましい事態ではない、というのは明白だった。あの時点では不安定な立場ゆえ仕方がなかったとはいえ、結果的にセシリアは、やりたくもない役職を彼に押しつけてしまったことになる。放課後の訓練に協力することで、その負い目を少しでも払拭出来るのならば、とセシリアは快く応じた。

 

 鬼頭親子もまた頷き合い、揃って「いいよ」と、返答する。陽子はセシリア同様、彼にやりたくもない仕事を押しつけてしまった負い目ゆえに。鬼頭はこの世界でたった二人しかいない特別な立場の男同士、仲良くなれたらな、という思いから。

 

 三人の返答に、一夏は表情を明るくした。

 

 これでようやく、ISの訓練らしいことが出来るかもしれない、と安堵した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜。IS学園の正面ゲートを、一人の少女が訪ねていた。

 

「ふうん、ここがそうなんだ……」

 

 小柄な体には不釣り合いな大きさのボストンバッグを背負い持っている。

 

 まだ暖かな四月の夜風になびく黒髪は、左右のそれぞれを金色の留め金でもって高い位置で結んでいた。長さは肩甲骨のあたりまであり、やや童顔気味の顔立ちと相まって、小動物じみた愛らしさの演出に一役買っている。

 

「えーと、受付ってどこにあるんだっけ」

 

 羽織っているカーディガンのポケットから、一切れの紙を取り出して呟いた。くしゃくしゃになった状態から広げ、目線を落とす。

 

「本校舎一階総合事務受付……って、だからそれどこにあんのよ」

 

 文句を口にしながら、少女は苛立たしそうに上着のポケットへと紙を戻した。中から、くしゃ、という音が聞こえたが、気にした様子はない。かなり大雑把な性格の持ち主のようだった。

 

「自分で探せばいいんでしょ、探せばさぁ」

 

 ぶつくさ言いながらも、その足はすでに動いていた。考えるよりも行動、というタイプの人間らしい。併せて、静かな環境というのが苦手らしく、自らの独り言をもってひとり寂しい耳を慰めている。

 

 ――ったく、出迎えがないとは聞いていたけど、ちょっと不親切すぎるんじゃない? 政府の連中にしたって、異国に十五歳を放り込むとか、なんか思うところないわけ?

 

 少女は、つい先日、中国からひとりこの国にやって来た。目的はIS学園に転入するためで、入国や日本で暮らしていく上で必要な諸々の手続きが今日の昼頃にようやくすべて完了したので、こうして学園へとやって来たのだ。ただ、例年と違って今年は二人もイレギュラーを抱え込むことになったIS学園側には、彼女の来訪に応対するだけの余力がなかった。結果、少女は転入の手続きを受け付けてくれるという総合事務受付の窓口を求め、暗い学園内をさまよい歩くことになってしまった。

 

 ――誰かいないかな、生徒とか、先生とか、案内できそうな人。

 

 学園の敷地内をわからないなりに歩きながら、きょろきょろと人影を探す。時刻は午後八時過ぎ。どの校舎も灯りが落ちており、生徒の大半は寮にいるはずの時間帯だ。人っ子ひとり、見つからない。

 

「あーもー!」

 

 面倒くさいなあ。いっそ、空を飛んで探そうか。

 

 一瞬、名案ではないか、と思う少女だったが、すぐに思いとどまった。訪日前に学園から送られてきた、学園内重要規約書に、私的なISの使用は特別な許可がある場合を除いてこれを禁じる、と明記されているのを思い出したためだ。これを破った場合、最悪、外交問題に発展しかねない。少女と軍、そして中国政府の間をつなぐ連絡役の政府高官の、(それだけは)やめてくださいよ本当に! と、懇願してきたときの顔を思い出し、彼女は意地悪く微笑んだ。少しだけ、気分が晴れるのを自覚する。

 

 ――ふっふーん。まあねー、あたしは重要人物だもんねー。自重しないとねー。

 

 自分の倍以上も歳のある大人がへこへこ頭を下げるのは、ちょっと気分がいい。昔から、歳をとっているだけで偉そうにしている大人、という存在が嫌いなのだ。

 

 だから、ISが登場して以来の世の中は、少女にとって非常に居心地が良かった。誰も彼もが、最新型のISを使いこなす自分に対し、媚びを売ってくる。これがとても気持ちいい。

 

 男の腕力は児戯、女のISこそ正義。この考え方もまた、気分がいい。少女はかつて、男というだけで偉そうにしている子ども、が大嫌いな子どもだった。

 

「――でも、アイツは違ったなあ」

 

 とある男子のことを思い出した。彼だけは、他の男子とは違っていた。いたずらに腕力を振りかざさず、自分に対し、優しかった。

 

 その男の子のことは、彼女が日本へとやって来た最大の理由だった。少女はかつて、この日本で暮らしていたことがある。政府の連中の考えはともかく、自分個人としては、彼との再会を期待して、日本へ戻ってきたと称しても過言ではない。

 

 ――元気かな、アイツ。

 

 まあ、元気なんだろうけど。元気のない姿を見たことがない。疲れを知らない、などと形容される子どもだったから、というわけでもない。そういうやつなのだ。

 

「だから……でだな……」

 

 不意に、声が聞こえてきた。あたりを見回すと、訓練用のISアリーナの側までやって来ていた。どこの国でも、IS関係の施設は似たような形をしている。どんな施設なのか、どこが出入口なのか、すぐに分かった。どうやらアリーナ・ゲートから、訓練を終えた生徒たちが出てくるところらしい。

 

 ちょうどいい。総合受付の場所を訊くチャンスだ。少女は小走りに、アリーナ・ゲートへと向かう。

 

「だから、そのイメージがわからないんだよ」

 

 思わず、肩を震わせ、足を止めてしまった。

 

 聞こえてきたのは、男の声だった。IS学園では本来、聞くはずのない声。それも、知っている声にとてもよく似ている。いや、おそらくは同一人物。だって自分が彼の声を聞き間違えるはずがない。なぜなら彼は、自分にとって初恋の……。

 

 予期していなかった再会の機会の到来に、少女の心臓は早鐘を打った。どきどきと、わくわくと、ほんの少しの恐怖から、胸が張り裂けそうだ。

 

 ――あ、あたしってわかるかな? わかるよね? 一年ちょっと、会わなかっただけだし……。

 

 不安。自分だと分からなかったらどうしよう、という恐怖が、少女の表情を強張らせる。

 

 ――……ううん! 大丈夫。大丈夫! それにわからなかった、それだけあたしが美人になったからだし!

 

 しかしすぐに、思考を前向きなものへと切り替えた。こうやってすぐに気持ちを切り替えられるところが、自分の長所だ。幼い頃から、ずっとそうやって生きてきた。えばりん坊の男子たちにいじめられたとき、日本を離れ、中国での苦しい訓練の日々につい弱音を呟いてしまったとき、心が弱ったときには、いつもこうやって、スイッチを押すように、気持ちを切り替え、凌いできたのだ。

 

 気持ちを新たにした少女は、強張る太腿を、えいや、と軽く叩いた。再び、歩みを再開する。

 

「いち――」

 

 声をかけようとしたところで、少女の喉は凍った。

 

 アリーナ・ゲートから姿を現した一団の姿を認めて、また、歩みを止めてしまう。

 

 最初にゲートからから出てきたのは、やはり彼だった。織斑一夏。自分が日本に帰ってきた理由。自分の初恋の人。そして、いまもまだ想っている人。

 

 次いで姿を見せたのは、炭色の長い黒髪を黄色いリボンでポニーテールに結わえている少女だ。自分よりも、頭一つ分くらい背が高い。足は、すらり、と長く、プロポーションも良い。むかつく。顔も美人だ。すごくむかつく。なによりも、制服越しにも大きさがうかがえてしまうほど、胸元が張っている。すこぶるむかつく!

 

 そして、二人の後に続いて姿を現した男の姿を見て、少女の眦が、つり上がった。さらにその後ろに続く、金髪碧眼の白人や、自分よりもさらに小柄な少女の姿は、目に入らない。四十半ばと思しき男の横顔を、目線で射殺さんばかりに睨みつける。

 

 先刻までの胸の高鳴りは霧散し、苛立ちとともに、ひどく冷たい感情が、腹の底から込み上がるのを自覚する。

 

「……鬼頭、智之!」

 

 小さく、低く、そして厭悪の感情を孕んだ呟きは、夜の風に吹き流されて、一団のもとへは届かない。

 

 彼らは少女の存在には気づくことなく、その場から立ち去っていった。

 

 ひとり残された少女は、

 

「……ふざけるんじゃないわよっ」

 

 一団とともに歩き去って行った男の顔を思い出し、憎々しい呟きをこぼす。

 

「なに、ヘラヘラ、笑っているのよ、あんた……!」

 

 一夏と、ポニーテールの少女の後ろで、彼は笑っていた。前を歩く二人のやりとりを、微笑ましそうに眺めていた。その笑顔が、腹立たしくて、仕方がない。

 

「あんたみたいな大人に、そんな楽しそうに笑う資格が、あると思ってるんじゃないわよ!」

 

 少女……凰・鈴音(フアン・リンイン)はその白い背中をいつまでも睨んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter13「不器用者たち」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時計の針を、数日分、巻き戻す。

 

 

 

 IS学園でクラス代表決定戦が行われた日の夜。

 

 大阪府大阪市北区、天神橋の近くに建つ、六階建てのマンションの最上階にある自室で、弁護士の東山紀子は熱いシャワーを浴びていた。

 

 彼女が名古屋拘置所を後にして、四時間ばかりが経っている。

 

 彼女を乗せた新幹線が大阪駅に到着したのは、午後九時過ぎのことだ。

 

 この時間じゃ開いているスーパーを探すのも面倒ね、と夕食を外で済ませてきた彼女が、天神橋のマンションに戻ったのは午後十時半。

 

 帰宅するなりスーツを脱ぎ捨てた彼女は、とにもかくにも一日の疲れと汚れを洗い流したい、と真っ直ぐシャワールームへ向かった。コックをひねり、じょうろから勢いよく飛び出す熱い滴を浴びているうちに、ようやく帰ってきた実感が湧いてきた。化粧を落とし、顔を洗い、髪を洗って、体を洗う。やがてシャワーのコックを反対側へとひねった彼女は、バスタオル一枚を体に巻き、バスルームを出た。

 

 リビングへ戻った紀子は、出入口近くの壁面に設けられた室内照明の操作スイッチを、パチン、と弾いた。次の瞬間、彼女はぎょっとして立ち尽くした。十六畳ほどの広々としたリビングのソファに、見知らぬ男が腰かけていた。黒いトラウザーズに、長袖黒のポロシャツ。体は大きく、顔の造作は精悍だが、仁王のように凶悪な面魂をしている。顔立ちから察する限り、年齢は四十半ばといったところか。

 

 男は左手でワイングラスを傾け、右手でピンク色のスマートフォンをいじっていた。どちらも、見覚えのある姿形をしている。ワイングラスはキッチンの食器棚にぴかぴかに磨かれた状態で鎮座しているはずの物だ。メタリックな光沢が艶やかな最新型のiPhoneは、先月買い換えたばかりの物。端末には顔認証によるロックをかけていたはずだが、ディスプレイを這う指使いからは、不便さを感じている様子は見受けられなかった。

 

 ふと足下に目線をやると、コルク栓を抜かれた状態のワインボトルが床で屹立している。シャトー・カロン・セギュールの二〇〇三年もの。あれはたしか、三ヶ月ほど前に買ったのだったか。一本三万円もする赤ワインを、仁王の顔の男は、美味そうに飲んでいる。

 

「やあ」

 

 バスタオル一枚のみといういでたちの紀子に目線を向け、男はにこやかに笑いかけた。馴れ馴れしい呼びかけで耳朶を撫でられ、彼女は、びくり、と胴震いする。

 

「……あなたは、誰です!?」

 

 動揺を悟られまい、と努めて平静な声で話しかけた。

 

 早鐘を打つ心臓を押さえ込もうと、バスタオルを押さえるふりをしながら、右手を胸元に置く。

 

 男は質問には答えず、「良いワインだな」と、呟いて、グラスを掲げ持つと、紀子に見せつけるように揺らした。グラスを満たす葡萄酒が、静かに波打つ。

 

「シャトー・カロン・セギュール。ボルドーワインの格付けでは、たしか2級だったか。しかもこいつは、その年のベスト・ワインにも選ばれた二〇〇三年もの。ワインセラーの中にハートの描かれたラベルを見つけて、思わず手に取ってしまった」

 

 紀子は、ちら、とテーブルの上の固定電話に目線をやった。すまなそうに、男が口を開く。

 

「申し訳ないが、電話線は切らせてもらった。警察に……いや、警察じゃなくとも、いま、外部と連絡をとられるのは、俺にとってすこぶる都合の悪い事態なんだ。予防線を張らせてもらった。あと、大声を出すのもやめた方がいい」

 

 ポロシャツの男はスマートフォンをトラウザーズの尻ポケットに突っ込んだ。右手の動きを追っているうちに、いつの間にか左手からはワイングラスが消えていた。空の状態で床に転がっている。

 

「いまきみが立っている位置と、俺が座っている位置。距離は六メートルといったところだが、この間合いなら、俺は、きみが大声を発するために思いっきり空気を吸い込み、喉奥を締めて溜め、エネルギーを一気に解放するまでの間に、五発はパンチを叩き込み、意識を刈り取ることが出来る。……嘘だと思うのなら、試してみようか?」

 

 男は目の前で拳を握ってみせた。ポロシャツの袖口からのぞく手首の筋肉が、隆々と躍動する姿が見て取れた。巌のような拳は、野生の熊だって殴り殺してしまいそうな、異様な威圧感を纏っている。紀子は、怯えた表情でかぶりを振った。それを見て、男は満面の笑みを浮かべた。

 

「そいつは良かった。俺も、無駄な暴力は好まない。可能な限り平和的に、かつスマートな手段で、この問題に取り組みたいと思っているんだ」

 

「問題……?」

 

 紀子は思わず聞き返した。男の発言からは、たまたま偶然、紀子の部屋に侵入したわけではなく、何か目的をもってこの部屋にやって来たことが察せられた。それも、わざわざ紀子の在宅中を衝かねばならない理由が。

 

 ――空き巣の類いじゃない。この部屋は六階にあるし、忍び込みやすい部屋は他にもあるはず。

 

 ということは、自分に対して害意を抱いている人物、という公算が極めて高い。

 

 これまでに自分が裁判で打ち負かした係争相手の関係者が、逆恨みから執念でもってこの部屋の住所を特定し、襲撃してきたのか。

 

「あなたは、誰なんですか!? どうやってここへ!?」

 

 天神橋に建つマンションを我が家と選んだのは、セキュリティがしっかりしていることが最大の理由だった。弁護士という商売柄、彼女には敵が多い。そのため、防犯カメラの設置場所や設置数、エントランス以外にもオートロックが各部屋に完備されているのかなどをよく吟味した上で、この部屋を選んだのだ。

 

 それなのに、目の前の男はそれら妨害装置の数々を、軽々と突破してきた。

 

 何か特別な道具を使ったのか。いや、一見した限りでは、彼は手ぶらだ。ということは、己の知力と体力のみを駆使して、厳重な防犯システムのすべてかわしたことになってしまうが。いったい、この男は何者なのか。

 

「いったい、何のために……!?」

 

 再び男の素性について訊ねた紀子に、彼は平坦な口調で応じた。

 

「残念だが、何者か、という問いには答えてやれない。その代わり、どうやって、という質問には応じよう」

 

 男はソファから立ち上がると、ベランダへ続く窓の方を見た。

 

「地上六階……およそ二十メートルの高さだ。これくらいの高さなら、俺はジャンプひと跳びで登れるんだ。この方法なら、エントランスで立ち往生しなくてすむし、ベランダ側には防犯カメラも設置されていないから、なにかと好都合なんだ」

 

 

「ふざけないで!」

 

 紀子はヒステリックな声で叫んだ。

 

 二十メートルの高さをジャンプひと跳びで登った? 馬鹿々々しい。そんなこと、出来るわけがないだろうに。

 

「嘘をつくなら、もっとまともな……」

 

「嘘じゃないさ」

 

 しかし、男は紀子の怒りなど屁でもない、とばかりに、平然と戯れ言を続ける。

 

「俺はね、きみたち普通の人間とは、遺伝子の造りがちょっぴり違うのよ。……細胞レベルで、スペックが違うんだなあ」

 

 「証拠をお見せしよう」と、男は言った。彼はきょろきょろと室内を見回すと、本棚の空きスペースに置かれていた一キログラムの鉄アレイのペアを認めて、ニンマリ、と笑った。

 

 鉄アレイのうち一本を手に取り、両端部の重りを左右の手でそれぞれ掴んだ。両の手首を、それぞれ反対方向に回転させる。金属のねじ曲がる嫌な音が、低く響いた。やがて、バキンッ! と、甲高い音が鳴る。見れば、鉄アレイは持ち手の部分のちょうど真ん中あたりで、ねじ切れてしまっていた。紀子は唖然とし、声も出ない。

 

「……な?」

 

 仁王の顔が、笑いかけた。よくよく見れば、能面のようなアルカイック・スマイルだ。口は笑っているが、目が笑っていない。

 

「普通の人間は、こんなこと、出来ないだろう?」

 

 鉄アレイの構成部材は鋳鉄だ。持ち手の部分はいちばん太いところで、直径が三センチもある。これを寸断するには、二十トン以上もの力を必要とする。そんな凄まじい圧力を、素手でもって実現してみせた。なるほど、普通の人間ではない。

 

 紀子は恐怖から後ずさった。大きく身じろぎしてしまったことで、バスタオルがはだけ、その裸身が露わとなる。

 

 しかし、羞恥は覚えなかった。

 

 裸を見られていることに対する意識は、いまや彼女の頭の中にはなかった。

 

 ――どうすればいい? どうすればこの化け物から逃げられる!?

 

 鉄を素手で寸断するほどの腕力を持ち、本人曰く、跳躍力は垂直跳びで二十メートル以上。六メートルの間合いなど、一瞬のうちにつめ、五発は鉄拳を叩き込めると豪語している。

 

 こんな怪物から、いったいどう逃げればよいのか。

 

 いやそもそも、なんでこんな化け物が、自分を……!?

 

「最後の質問に対する答えだ。何のために、だったな? 簡単に言えば、意趣返しのためさ」

 

 恨みを返す。やはり、過去の事件で自分のクライアントたちと敵対した、係争相手の関係者か!?

 

「一週間前、名古屋市の東区で、アローズ製作所に勤務する会社員が、通り魔に襲われた」

 

 紀子の喉が凍りついた。それは……、その事件は……!

 

「襲われたのは、俺の部下だ。同じ会社で働く、大切な仲間だ。……東山紀子、通り魔の背後に、あんたがいるってことはもう分かっている。薬に関する知識をまったく持たないスーパーマーケットの店員に、強酸性の薬品を手配してやったこと。その店員を言葉巧みに操って、犯行をそそのかしたこと。そしてその理由が、権利団体内における自分の地位向上のためだってこと。全部、分かっている。東山紀子、あんたには、俺の部下が味わった以上の苦痛と恐怖を、感じてもらう」

 

 紀子は悲鳴を上げて踵を返した。

 

 裸なのも構わず、外に飛び出そうとした。

 

 ポロシャツの男は本棚から残る一本の鉄アレイを掴むと、紀子の背中に向かって投げた。

 

 鉄アレイはまるでブーメランのようにくるくると回転しながら、紀子の背中を打った。

 

 背骨の砕ける音。

 

 たまらず、もんどり打って転倒する。

 

 男は素早く身を躍らせると、うつ伏せに倒れた女の背中にのしかかった。

 

「さっきも言ったが、俺は無駄な暴力は嫌いだ」

 

 ドスを孕んだ声が、紀子の耳朶を打った。裸の女弁護士は、激痛に対する苦悶と、男に対する恐怖とで、顔をくしゃくしゃにした。涙と、鼻水と、涎を振りまきながら、必死に哀願した。

 

「お願い! 許して、許して!」

 

「最小限の暴力で、スマートにやらせてくれよ、な!」

 

 耳の後ろを、軽く叩いた。紀子の視界で火花が弾け、彼女は意識を失った。

 

 

 

 意識を取り戻したとき、紀子はもう、耳後ろの鋭い痛みも、背中の鈍痛もまったく感じられなくなっていた。気を失っている間に、そこら中に局所麻酔を注入されたらしく、体の感覚がおかしくなっていることに気づいた。

 

 陽子は裸の状態で手首と足首とをアームチェアに縛られていた。口にはガムテープが貼られ、言葉を発することは叶わない。もっとも、唇や歯茎にも麻酔を打たれたらしく、まともに喋れるかどうかは怪しかったが。

 

 首を動かすことは出来た。きょろきょろと辺りを見回して、紀子はすぐに落胆した。

 

 見覚えのない空間だった。天井が高く、室内は広い。床は剥き出しのコンクリート製で、窓は壁の高いところに、等間隔で小さな物が並んでいる。おそらく、どこかの空き倉庫の中だろう。部屋の中は、がらん、としており、照明は裸電球が二個、配線も露わな天井からコードでぶら下がっていた。どうやら、目の前で椅子にのんびり腰かけている黒ポロシャツの男によって、連れてこられたらしい。

 

「ああ、起きたか」

 

 仁王の顔をした男は、キャンプで使うような折りたたみ式のテーブルと椅子を広げていた。紀子との位置関係は、テーブルを挟んで正対している状態だ。見るからにプラスチッキーで、安っぽい天板の上には、黒革のブリーフケースと、丸い形の目覚まし時計、その他様々な品物が整然と並べられていた。目覚まし時計の文字盤は、紀子の方を向いており、時刻は午前一時五分を示している。紀子が自室で男と遭遇して、二時間近くが経っていた。いったい、ここはどこなのか。

 

「目は見えるな? 声も聞こえるな? 聞こえたら、うん、と頷いてみろ」

 

 怯えた表情の紀子は頷いた。

 

 男は満足そうに笑うと、テーブルの上に並ぶ品物から、一つ選んで手に持った。裸電球だけが頼りの薄暗い空間だが、これだけの近距離だ。どんな形をしているのか、細部まで見て取れた。長さ十センチ、太さが二センチくらいの、両端が斜めに面取りされた金属管だ。男はそれを真ん中でひねると、横に割れて半分になった。男は中の空洞を紀子に見せた。

 

「昔のスパイ映画なんかに、わりとある描写なんだが……」

 

 男は平坦な声で呟いた。

 

「スパイが敵の組織に捕まって、身ぐるみ剥がされ、ああっ、危うし! って場面で、どこからともなく秘密道具を取り出して、敵のアジトから脱出! っていうのがある。子どもの頃、あの秘密道具はどこから取り出しているんだろう? って疑問を抱いた。長じてから答えを知って、知らなければよかったと後悔したよ。なんと、ああいう秘密道具は、防水カプセルに入れて、肛門の中……つまり、直腸内に隠しているんだってな。アメリカ留学時代に、ワシントンD.C.の国際スパイ博物館に立ち寄って知って、そりゃあ驚いたもんだ」

 

 紀子は顔を青くした。尻の感覚がなくなっていることに、今更ながら気がついた。

 

 男は金属管を机の上に置いた。代わって手に取ったのは、ジップロック式の小さなビニール袋だ。中には、黒くて砲丸状のペレットの粒が大量に入っていた。

 

「こいつは黒色火薬。名前は聞いたことがあっても、実物を見るのは初めてなんじゃないか?」

 

 男は袋の封を開けた。テーブルの上に置いてあったピンセットを使って、直径一ミリほどのペレットを一つ々々、丁寧につまんでは、一方の金属管の空洞に押し込んでいった。やがて金属管の中は、ペレットの粒でいっぱいになった。男は金属管とピンセットをテーブルの上に置いた。

 

「これは雷管。弁護士先生なら、名前くらいは聞いたことあるだろう?」

 

 起爆剤を充填した火工品だ。軍用や工業用の爆薬は、万が一の暴発事故を防ぐために、低感度な方が望ましい。これを爆発させる際には、熱や衝撃に敏感な火薬を起爆剤として少量だけ使う、というやり方が一般的だ。雷管はそうした高感度の危険物を安全に運び、かつ確実に動作させるための装置である。

 

 男が手にした雷管は、小さな丸い金属のボールだった。一箇所から、細長い針のような突起が飛び出している。男はその針を、黒色火薬でいっぱいの金属管の穴に突き刺した。

 

「そしてこいつは時限装置」

 

 今度も丸い金属製の物体だった。二本の針が突き出していて、男は雷管のソケット部分に差し込んだ。ここまでを終えたところで、男は金属管の片割れ同士を元通りにくっつけた。

 

「はい。これで時限爆弾の出来上がり」

 

 男は金属管を親指と、人差し指とでつまみ上げた。太い指だった。

 

「これと同じ物を、お前の尻の中にねじこんでおいた。午前二時にセットしておいたから」

 

 紀子は恐慌状態に陥った。汗、涙、鼻水、涎、小水と、様々な体液が、どっ、と体外に流れ出た。彼女は暴れようとしたが、拘束されている上に、麻酔を打たれた体は、思うように動いてくれなかった。椅子ごと倒れることすら出来なかった。腹に力を篭めようとするも、上手くいかない。情けない放屁の音だけが、倉庫内に無様に響いた。

 

「滑川君は、帰宅途中を襲われた。突然、見知らぬ女から声をかけられ、道を訊ねると同時に、強酸性の液体を顔面に向けてぶっかけられた」

 

 男は、そんな紀子の醜態を真正面から、じぃっ、と見つめていた。怒りの眼差しだった。

 

「幸い、腕でのブロックが間に合って、最悪の事態は免れたが……それでも、被害は甚大だ。分かるか? 俺たち、技術者にとって、視力を奪われることが、どんなに恐ろしいことなのか。右腕が使い物にならなくなるという事態が、どんなに絶望的な状況なのか」

 

 男はテーブルの上のブリーフケースを開けた。ケースの中には、外科医が使うような道具が詰められていた。小型の外科用鋸、麻酔用の注射器、電気焼灼鏝……。この後、自分の身に起きることを想像して、紀子は発狂した。

 

「東山紀子、お前には、俺の部下が感じた以上の恐怖と、絶望を味わってもらう。その上で死んでくれや、な?」

 

 右手の五本の指は、呆気なく切り落とされた。道具の性能と、男の技術と腕力とが合わさった結果だ。痛みはなかった。男は、紀子に強力な麻酔を投与してくれた。おかげで彼女は苦痛を感じずに、指が一本ずつ切り落とされていく光景を、眺めていられた。

 

「本当は目をくりぬきたいところなんだがな」

 

 反対側の手の指を切り落としながら、男は酷薄な冷笑を浮かべた。

 

「目を潰すと、いまが何時か分からないだろう? だから、代わりに耳をそぎ落すだけで、勘弁してやるよ」

 

 男の手際は素晴らしかった。刃物の扱いに習熟している様子だった。彼はあっという間に両の耳を切り落とした。銀色のトレイに置かれた自分の耳たぶや指を、ぼう、と眺める紀子は、わたしの体ってあんな形をしていたのね、と、どういうわけか、思わず笑ってしまった。

 

 午前一時四二分。両手の指を全部と、両の耳を切り落とした男は、それらをやはりジップロック式の小袋の中に丁寧に封入していった。彼はそれから、テーブルの上の品物を片付け始めた。

 

 午前一時四五分。目覚まし時計以外を片付け終えた彼は、時計を床の上に置いた。テーブルを畳み、椅子を畳む。

 

 午前一時四七分。ブリーフケースとテーブルと椅子を抱え持った男は、放心状態の紀子をしばらく眺めた後、踵を返し、ドアの方へ向かった。重たげな金属製の引き戸を軽々と開き、外に出て、扉を閉めた。

 

 午前一時五十分。遠くの方から、車の走り去る音が倉庫内に響いた。しかし、両耳を失ってしまったいまの紀子では、その音を聞き取ることは出来なかった。

 

 午前一時五三分。紀子は床の上の目覚まし時計を、じぃっ、と眺めていた。

 

 午前一時五五分。どこかから女の笑い声が聞こえたような気がしたが、いまの自分に聞こえるはずがない、と無視をすることにした。

 

 午前一時五七分。紀子の精神は砕け散った。

 

 午前二時。東山紀子の下半身はばらばらに崩壊した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あはっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あははっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あははははははははっ。

 

 

 

 そうです。

 

 それでこそですよ、桜坂さん!

 

 あなたはやっぱり、“そう”でなくちゃ!

 

 

 

 桜坂さん、あなたはきっと、わたしと同じタイプの人間です。

 

 

 

 顔も知らない人間なら、百万人だって平気で殺せる。

 

 

 

 その一方で、愛する人のためならば、自分の身がどんなに危うくなろうと構わない!

 

 

 

 そういう、両極端な面を併せ持って生まれてしまった人、それがあなた。

 

 

 

 唯一、わたしと違うところは、あなたは自分自身に対して嘘をつける人間だってこと。

 

 あなたは自分の能力や考え方が、社会性動物である人間が支配するいまのこの星では、人類社会にとってのガン細胞のようなもの、と自覚している。

 

 自分のあり方次第で、いまの社会を壊してしまいかねないことを知っている!

 

 

 

 だからあなたは、自分に対して嘘をつく。

 

 自分はモラリストだ、って、自分自身に言い聞かせて、本当にやりたいこと、欲しいもの、愛する人たちのためにしてあげたいこと、そういう気持ちを全部、押し殺している。

 

 

 

 でも、そんな嘘の仮面は長続きしません。

 

 ふとしたきっかけで、簡単に剥がれてしまう。

 

 

 

 それが今夜のあなた。

 

 大切な人を傷つけられて、烈火のごとく怒り狂い、復讐のため、人道にもとる行為へと走った。

 

 それでいて、そうしたことに一切の迷いも、後悔も感じていない。

 

 それこそが、あなたの本性。ありのまま姿。美しいあり方。

 

 

 

 ……待っていてくださいね、桜坂さん。

 

 

 

 いまの世界はきっと、あなたにとって、とても生きづらいものでしょう。

 

 

 

 でも、すぐにわたしが変えてあげますからね。

 

 

 

 この世界を、わたしや、あなたや、鬼頭さんみたいな人間が、自由に動ける世界に、作り替えてみせますからね!

 

 

 

 

 

 そのときは、ぜひ、あなたが隠している、すべての能力を見せてください!

 

 

 

 わたしと一緒に、未来を作っていきましょう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……この小さな世界のどこかで、狂った笑いが鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 




桜坂、コラ、仮面ライダーなんだろ、お前(台無し)



ジャガーXJ スーパースポーツ はいまだ登場していない最新モデルを想定しています。

現行型(2010年デビュー)がそろそろモデル末期じゃないか、と囁かれているので、拙作ではもう新型がデビュー済みということで、ひとつ。



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