時計の針を、ほんの少しだけ、巻き戻す。
放課後の第三アリーナで、ISスーツを身に纏い、竹刀を握る篠ノ之箒は、茫然とした表情を幼馴染みの少年に向けていた。
「……これはいったい、どういうことだ?」
「ええと、何が?」
箒の言う、“これ”が何を指しているのか。さっぱり分からない一夏は、訝しげな表情で幼馴染みの少女の顔を見つめる。
箒は、きっ、と憤りの眼光も鋭く、少年の背後に立つ一団に目線を向けた。箒と同様、ISスーツを着込んだ鬼頭、陽子、セシリアの三人が、何をそんなに昂ぶっているのか、と不思議そうにこちらを見つめている。
「だから、後ろの人たちは何なのだ、と聞いている!?」
「ああ、俺が頼んだんだよ。ほら、クラス対抗戦も近いし、智之さんやオルコットさんに、訓練を見てほしい、って」
みんな快諾してくれたんだ、と嬉しそうに語る一夏に、箒は恨めしげな眼差しを向けた。
「お、お前は、“私に”ISのことを教えてほしい、と言ったじゃないか」
私に、の部分をやけに強調した口調で、箒は言った。
あれ、そうだったか、と一夏は過日の記憶を掘り起こす。
セシリアとの試合が終わった直後のことだ。敗北を悔しがる一夏に、箒の方から提案し、彼も、応、と頷いた。彼女はIS開発者の妹だし、なにより昔馴染みとあって気を遣わずにすむ。そのときは、教師役にこれ以上の適任者はいない、と考えた末の、首肯だった。
「……いや、私に教えてほしいのだな? って、箒が訊ねてきたんじゃないか」
「しかし、お前はそれに頷いただろう?」
「ま、まあ、そうだけど……」
「それなら、なんで……!?」
「いや、先生役が多いに越したことはないだろう? 智之さんも、オルコットさんも、ISの操縦、上手いし。それに二人とも専用機持ちだから、模擬戦とかも出来るし」
「くっ」
箒は悔しげに歯噛みした。IS開発者の妹とはいえ、学園における彼女の現時点の立場は、他の多くの者と同様、一般生徒にカテゴライズされる。当然、専用機は持っておらず、放課後の自主訓練にISを使いたい場合には、いちいち貸出申請を提出し、通さねばならない。
「……模擬戦の必要性は分かった」
しばし無言で一夏の顔を睨んでいた箒は、やがて諦観の溜め息をついた。ひっそりと声量を抑え、一夏にしか聞こえぬように言う。
「だが、それなら教師役はオルコット一人でいいじゃないか。よりによって、なんで鬼頭さんを……」
「智之さんが一緒だと、何か問題があるのか?」
眉間にくっきりと縦皺を刻みながら、一夏は訊ねた。こちらも、箒に合わせて声のボリュームは控えめだ。少し後ろに離れて立つ三人を、ちら、と一瞥して、
「前から思ってたけどさ、箒って、智之さんのこと、避けているよな」
思い出すのは先日のクラス代表決定戦のときのことだ。同じピットルームにいたにも拘らず、鬼頭と箒が言の葉を交わしていた記憶がない。それどころか、鬼頭の方は話しかけているのに、箒の方が聞こえていないふりをする、という光景さえ見られたほどだ。自分の幼馴染みは人見知りする方ではあるが、剣道の有段者とあって、目上の人間に対する礼儀作法は心得ているはずなのに。
「あれ、なんでなんだよ? 智之さんのこと、苦手なのか」
「……そういうわけではない」
箒も、束の間、鬼頭の方へと目線をやり、
「ちょっと来い」
と、一夏を誘って、鬼頭たちからおよそ五メートル、さらに距離をとった。一団と十分、離れていることを認め、彼女は言葉を重ねた。
「その、鬼頭さん本人には言うなよ」
「ああ」
「……私の姉がどういう人なのかは、知っているだろう?」
一夏は粛と頷いた。篠ノ之束。十年前、若干十四歳という年齢でISを開発した、おそらくは地球上最高の天才。箒の実姉というだけでなく、千冬の同級生でもあり、一夏も何度か顔を合わせたことがある。
その為人はなんと表現するのが適切なのか……とにかく、ものすごい人格の持ち主だ。
「その姉さんがな、以前、口にしたんだ」
白騎士事件の後、間もない頃だったと記憶している。五十個目だったか、六十個目だったかのISコアを完成させた姉が、「今日は一日休憩タ~イム!」と、居間でテレビを観ながらくつろいでいるときのことだった。何か面白い番組はやっていないか、とチャンネルを切り替えているうちに報道番組に行き着いた姉は、「今年のノーベル賞はどうなるんでしょうね?」、「篠ノ之束博士が候補に挙がるのは間違いないでしょう」と、語り合うアナウンサーとコメンテイターの姿を見て、侮蔑の表情を浮かべた。
「こいつら馬鹿だよねぇ~。私たちみたいな天才を、お前たち凡人が正当に評価出来るわけないのに」
そのとき、自分は彼女の発言に違和感を覚えてしまった。よせばいいのに、「私たち、ですか?」と、訊ねてしまったのだ。
「そうだよ、箒ちゃん」
姉はテレビに向けていた表情とは一転、柔らかな笑みを浮かべながら言った。
「この世界にはね、少なくともあと三人、束さんと同等か、それ以上の天才がいるの」
一人は、名前を出されずとも分かる。織斑千冬。姉とはまた違った方向性の天才だ。しかし、あとの二人は分からない。箒は興味本位から、「あとの二人は誰ですか?」と、訊ねた。
「……そのときに言っていたうちの一人の名前が、鬼頭智之、だったんだ」
一夏は茫然とした表情で鬼頭を見つめた。〈トール〉のことといい、今日の授業で見せた操縦技術といい、すごい人だとは思っていたが、まさかそれほどの人物だったとは……!
――“あの”束さんに匹敵するって……。
彼女の性格上、過大評価からくるリップサービスとは考えにくい。彼女はいわゆるステレオ・タイプな天才で、人付き合いを苦手としている。それだけに、他人を査定する際の観察眼がとても厳しいのだ。
――それって、その気になれば世界をぶっ壊せるほどの天才ってことじゃないか!
自分はとんでもない人に指導を求めてしまったのかもしれない。一夏の首後ろを、冷や汗が流れた。
「そういうわけだ」
「な、なるほど……あれ? でも、それって避ける理由にはならないよな」
姉に匹敵するほどの天才と言われて、気後れしてしまう気持ちは分かる。しかし、無視をしたりするほどの理由ではないような。
なおも訝しげな一夏に、箒は「馬鹿者!」と、応じた。
「あの姉さんに匹敵するほどの天才だぞ!? ということは……!」
「ということは?」
「姉さん級の変人奇人の可能性が高い!」
「……はあ?」
一夏はまた違った意味で茫然とした面差しを箒に向けた。
やだ、この子ってば、六年も会わないうちに人見知りが高じて、人を見る目が駄目になってしまっているわ。
「お前、いままで、智之さんの行動とか発言とか、思い出してみろよ? あの人のどこが変人なんだ」
「わからんぞ! ああいう、人の良さそうな人物に限って、実は……ということもある!」
人の良さそう、って、分かっているじゃないか。なぜ、その印象を大切に出来ないのか。
「とにかく、鬼頭さんは油断のならない相手だ。お前も気をつけろ」
「絶対、箒の思い違いだと思うけどなあ」
一夏は鬼頭たちの方を見て、溜め息混じりにぼやいた。
他方、そんな二人のやりとりを眺める鬼頭たちは、
「……二人とも、何、話しているんだろうね?」
「察するに、どうやら織斑君は篠ノ之さんに、私たちが来ることを伝えてなかったみたいだな」
いかんなあ、と鬼頭は口の中で呟いた。報連相はビジネスの場のみならず、あらゆる人間関係の基本だというのに。
「ところでお父様、篠ノ之さんのあの態度ですが」
「うん。十中八九、織斑君に対し、ホの字だろうね」
「父さん、表現が古い……」
微笑ましげに呟いた鬼頭に、陽子は「オジサンみたいだよ」と、言った。一九八一年生まれ、今年で四六歳になる正真正銘のオジサンは、思わず苦笑した。
インフィニット・ストラトス二次創作
「この小さな世界で愛を語ろう」
Chapter14「猛る中年」
「……それで、普段はどんな訓練をしているんだい?」
篠ノ之箒との話し合いを終えて一団のもとに戻ってきた一夏に、鬼頭は話しかけた。
彼からは訓練を見てほしい、と請われているが、具体的な方針を決めておかねば、効率が悪い。
「最近はもっぱら、近接格闘と、空中機動の訓練ですね」
鬼頭の問いに、一夏は訥々と答えた。
セシリアとの試合の後、自分なりに白式の仕様を調べてみたが、やはり己の愛機には、近接ブレード一振以外の兵装はないらしい。その上、後付け兵装を搭載するための拡張領域の容量にまったくと言ってよいほど余裕がなく、石を拾って投げる、くらいのことは出来るだろうが、まともな射撃戦は諦めた方がよさそうだった。
「拡張領域がまったくない機体、ですか。ずいぶんと、思いきった仕様ですね?」
「なんか、その分のリソースを全部、機動力と、攻撃力に割り振った感じなんだよな」
「攻撃力というと……例の《零落白夜》か」
「本来はワンオフ・アビリティー相当の機能ですものね」
鬼頭の言葉を、セシリアが継いだ。さすがは代表候補生、ISに関する専門的な知識は、この場にいる誰よりも豊富だ。
ワンオフ・アビリティーとは、文字通りそのIS固有の、唯一仕様の特殊能力のことだ。篠ノ之束の開発したISコアという機械には、驚くべきことに、自我意識のようなものが存在するという。そんな特性を持つISコアと、IS操縦者との相性が最高の状態に達したときに、自然発生する能力だそうな。通常は、第二形態(セカンド・フォーム)から発現するが、第二形態自体が誰でも発現出来るものではないため、世界的にも発現例は少ない。
ちなみにセシリアの『ブルー・ティアーズ』をはじめとする第三世代機の定義には、そうした特殊能力を、誰でも扱えるよう兵装化してあることも、条件の一つとして含まれている。
「たぶんですが、織斑さんのISは、その《零落白夜》を第一形態で使用するために、拡張領域のリソースすらそちらに回しているのでしょう」
「あの攻撃力だもんね」
セシリアの考察に、陽子も同意の頷きを示した。バリアー無効化攻撃。ISバトルにおいて、まさに一撃必殺を可能とする機能だ。例えるならば、すべてのパンチが一発K・Oものの威力を持ったボクサーのようなものだろうか。
しかし、どんなに強力な一撃も、当たらなければ意味がない。
そのための近接格闘の訓練、そして空中機動の訓練だった。
「先日のセシリアとの試合を観戦していたときの印象で言うと、織斑君は、近接戦闘そのものは得意な方なんだろうね」
なんでも、剣道の嗜みがあるらしい。通っていたのは篠ノ之箒の父親が経営する道場で、彼女の引っ越しとほぼ同時期に、一旦、竹刀を置いてしまったそうだ。しかし、セシリアとのクラス代表決定戦の開催が決まった後、またぞろ始めたのだという。
「となれば、目下いちばんの課題は、高速で機動する敵のISに近づくための技術、敵のISの攻撃から逃れるための技術、ということになるね」
重ねて、今日の授業で彼は、いまだに“飛ぶ”という感覚がよく分からない、と口にしていた。
来週末に控えるクラス対抗戦のことを考えても、空中機動の訓練への注力は、最優先で行うべきだろう。
「ふむ。それなら、こういう訓練はどうだろう?」
「何です?」
「ISを使って、空中で鬼ごっこをするんだ」
「何ですの、それは?」
イギリス人のセシリアが、聞き慣れない単語に訝しげな表情を浮かべた。日本語は学んでいても、こういった、細かい文化についての勉強はまだ不足気味のようだ。
「日本の子どもの遊びだよ。誰か一人、鬼と呼ばれる親役を決めて、それ以外の者が子役だ。
親役は何秒か数え終えた後、逃げる子役を追いかける。子役は制限時間内に親役から逃げ切れれば勝ち、というルールだ。ただし、親役は子役にタッチした瞬間、交代となる。だから、より正確な言い方をすると、制限時間がいっぱいになった時点で親役を押しつけられている者が負け、というゲームだね」
「なるほど、私たちの国でいう、狐とがちょう、のことですね」
「アメリカでは、タグ、とも呼ばれるね」
鬼ごっこに類似する遊びは世界中に存在する。シンプルなゲームだけに、地域ごとの追加ルールも様々だ。ものの本によれば、日本だけでも基本形が五百種類、バリュエーションも含めると、二千種類はくだらないという。
「良いアイディアだと思いますわ。それなら、鬼役のときは相手に接近するための訓練、子役のときは、相手から逃げる訓練になります」
「織斑君の『白式』の機動性は、おそらく、現在、稼働状態にあるあらゆるISの中でも、トップ・クラスに位置している」
鬼頭は一夏を見た。
「自機の特性を把握するための訓練でもある。どうだい、やってみないか?」
「面白そうですね」
一夏は好戦的に微笑んでみせた。
「早速、やってみましょう」
言い終えるや、一夏は白亜の装甲を身に纏った。鬼頭とセシリアも、各々の愛機を呼び出す。
専用機を持たない箒と陽子の役割は、データ収集と分析だ。
「ISバトルは原則一対一の戦いだ。しかし、クラス対抗戦まであまり時間がない。様々な状況への対応力を磨くためにも、鬼役が二、子役が一でいこう」
「最初は、私と鬼頭さんの二人が鬼役を務めましょう。制限時間は、一ゲームあたり、十分くらいが適当でしょうか」
「そうだな。……一応、言っておくが、二対一の状況でも、ハンデとしては不十分だよ。きみがその『白式』の機動性を、フルに発揮出来たなら、私やセシリアの機体では、触れられもしないだろう」
「分かりました」
一夏は決然と頷いた。
「全力で、逃げてみせますよ」
ところが、一夏の全力の逃げは、ゲーム開始後、早々に破られてしまった。
「あ、あれ……?」
「ふむ。これで次の鬼は織斑くんだね」
「今度は私が全力で逃げる番だね」と、一夏の胸板をタッチした鬼頭は、灰色の打鉄で空を駆け、離れていった。
いつの間に肉迫されたのか、まったく見えなかった。
正面からゆるゆると突き進んできたのを左右に避けようとした瞬間、鬼頭の上体が急に前後に揺れ動いたかと思うと、もう、胸部装甲を触られていた。突然の急加速。一夏は茫然と、空で立ち尽くす。
『織斑さん!』
そんな一夏を、セシリアがプライベート・チャネル回線から叱咤した。いつの間にか、一夏の隣を飛んでいる。
『カウントはもう十秒経ちました。ぼさっとしていないで、お父様を追いつめますわよ!』
『あ、ああ。……お父様?』
『私が右から攻めます。織斑さんは、左から挟み込んでください』
一夏の疑問に答えず、指示を飛ばすや、セシリアは鬼頭の背中を追いかけた。遅れて一夏も、左から、彼の進むルートを塞ぐように接近する。
「鬼役、交代です!」
「……残念だが」
鬼頭は不敵な冷笑を浮かべた。
「子どもの頃のことだが、鬼ごっこでは負けなしなんだ」
左右に、小刻みな高速フェイント。一夏は翻弄され、あっ、と思った瞬間には、もう、抜かれていた。
「嘘だろ? あれ、本当に第二世代機なのかよ」
「スペックでは、この三機の中でも、最低の機体なのに」
「カタログ・スペックだけが、機械の性能のすべてじゃないさ」
自身、技術者でもある鬼頭は、必死に追いかけてくる二人に向けて言い放った。
「数字に表われない部分にもこだわるのが、我々技術者の仕事だよ」
鬼頭は、打鉄最大の推進機関であるロケット・モーターをカットしていた。ロケットの推力は素晴らしいが、加減が利かないため、緩急をつけた動きをしたいというときには不便だ。
事実、一夏たちは鬼頭の変幻自在な機動に翻弄されていた。これが単純な推力の勝負だったなら、ゲーム自体が成り立たなかっただろう。
鬼頭は空中で立ち止まると、余裕の笑みを二人に向けた。
「さあ二人とも、時間はまだたっぷりあるぞ。オジサンともっと遊んでおくれ」
挑発の言葉に、一夏とセシリアは猛追という形で応じた。
制限時間十分の鬼ごっこは、最終的に十ゲーム行われた。
トータル百分間のゲームの結果は、鬼頭が八勝、セシリアが二勝、一夏は全敗という成績だった。
◇
夕食後の自由時間、IS学園にある一年生用の学生寮の食堂では、鬼頭を含む一年一組の生徒たち全員が集まっていた。各々飲み物を手に持ち、やいのやいのと盛り上がっている。
「……というわけでっ!」
「織斑くん、クラス代表決定おめでとう!」
「おめでと~!」
「いえ~い、おりむー、いえ~い」
食堂のテーブルを複数組み合わせて作った主賓席に腰かける一夏の目の前で、ぱん、ぱん、ぱん、とクラッカーが乱射される。色とりどりの紙テープが頭上から降り注ぎ、少年の視界はたちまち塞がれてしまった。体中に引っかかってしまったテープを鬱陶しそうに払いのけ、顔をのぞかせた一夏はげんなりと溜め息をついた。
――めでたくない。俺にとっては、ちっともめでたくないぞ!
ちら、と背後の壁に目線を向ける。壁面には、『織斑一夏クラス代表就任パーティー』と、A4コピー用紙一枚につき一文字ずつ、黒のマジックペンで大きく書かされた物が、べたべた貼られている。余白の部分にカラーペンで絵を描き加えて煌びやかに飾っているのは、女子ならではの発想といったところか。
一夏はコピー紙一枚々々をじっくりと眺め、口の中で呟き、その意味を噛みしめてまた溜め息をついた。
――就任……、そう、就任パーティーなんだよな、これ……。ははっ、もう、逃げられないな。
理由はともかく、他薦によって選出されたという事実。先のクラス代表決定戦における、不戦勝の勝ち星一つ。セシリアと陽子の立候補取り下げ。そして、今日の就任パーティー。こうも丁寧に既成事実を積み重ねられては、もはや逃げ道はない。
――クラス代表、やるしかないかぁ……。
一夏は目線をテーブルの上へと戻した。お菓子や軽食の載った皿が、ずらり、と並んでいる。今夜のパーティーのために、クラスメイトたちが購買部で買ったり、自分たちで包丁を握ったりして用意したものだ。そのうちの一つ……姉を慕って北九州からわざわざやって来たというクラスメイトが持ち込んだ、地元の銘菓、《くろがね羊羹》に手を伸ばす。
事ここにいたっては、パーティーを楽しんだ方が建設的だろう。開き直った一夏は、ガラスコップにお茶を注ぎ、羊羹の美味さに舌鼓を打った。訓練の疲れを癒やしてくる、がつん、とした力強い甘み。これはいいな、と自然と相好が崩れた。
他方、少し離れた席からそんな彼の様子を眺めていた陽子は、幸せそうに羊羹にぱくつく微笑みを見た瞬間、どきり、と心臓を高鳴らせた。
一夏の顔の造作は、さすがに姉弟だけあって、千冬とよく似て端整だ。唇をほころばせたときの顔は可愛らしく、少女の未成熟な母性本能でさえ、えらく刺激させられた。
料理の才能がない自分が恨めしい。あんな笑顔を見せてくれるのなら、自分も何か用意してやりたかったが。
「……お父様、わたしたちも何か名古屋銘菓を用意するべきだったのでしょうか? たとえば、そう、ういろうとか」
陽子は一夏に目線を向けたまま、左隣の席に座る鬼頭に訊ねた。糖尿病が心配だから、と、テーブルの上の菓子類に手を伸ばすことを娘から禁止されてしまった彼は、ウーロン茶で満たされたコップをちびちびやりながら、憮然とした表情で応じた。
「娘よ、ういろうは若いお嬢さん方にはウケが悪いかもしれん。こういうパーティーの席ではやはり、見た目も愛らしい、《カエルまんじゅう》あたりの方が相応しいと思うぞ」
名前の通り、皮の部分がデフォルメされたカエルの顔の形をしているまんじゅうだ。明治十二年創業の『青柳総本家』の定番商品の一つで、名古屋の土産物界の重鎮といえる。
「……というか陽子、父さんも、たまには甘いあんこが食べたいよ。具体的には、その大皿の上のどら焼きを食べたいよ」
「駄目。去年の会社の健康診断の結果、血中糖度、思い出して」
鬼頭は、がくり、と項垂れた。
陽子の右隣に座るセシリアは、そんな彼を気の毒そうに見つめた。
「はいはーい、新聞部でーす」
そのとき、パーティー会場の食堂に、一人の女子生徒が駆け込んできた。夜遅い時間にも拘らず、学園の制服に袖を通し、左腕には赤地に白糸で『PRESS』と刺繍された、腕章を付けている。学年色でもある制服のリボンの色は黄色。どうやら、二年生の生徒のようだ。黒髪に加えて、眼鏡の奥には黒い瞳。新聞部と名乗った際の発音からも、日本人で間違いないだろう。
ドライバーグローブをはめた手には、一眼レフのデジタルカメラが握られている。ボディに刻印されたメーカーのロゴはCanon。相当使い込まれた様子で、部の備品ではなく、彼女個人の私物ではないかと思われた。
一夏をはじめ、一年一組の生徒たちは見知らぬ顔の登場に困惑の表情を浮かべた。ただ一人、鬼頭だけが、「おや、黛さん」と、声をかける。
「こんばんはです、鬼頭さん」
「ええ、こんばんは。ははあ、黛さんは、新聞部の方でしたか」
鬼頭は麦茶の入ったコップをテーブルに置き、左腕の腕章を、しげしげ、と眺めた。
「察するに、パーティーの噂を聞きつけて、これは噂の新入生たちに取材をする絶好のチャンスと、駆けつけた次第かな?」
「さすがMIT首席卒、抜群の推理力ですね」
二年生で整備科クラスに籍を置く黛薫子は気さくに笑いかけた。彼女が鬼頭と顔を合わせるのは、これで三度目だ。一度目は彼がはじめてISを動かしてしまったあの日。二度目は打鉄のフォーマット作業を手伝ってくれた日のことだ。
「というわけで、話題のお二人に特別インタビューをしに来ました。じゃあ、まずは織斑一夏君から」
薫子は上座の一夏のもとへと移動した。名前を名乗り、自作の名刺を手渡す。新聞部副部長の肩書きの隣に並んだ三文字の漢字を見て、彼は、名前を書くときが大変そうだなあ、と感想を抱いた。
「それじゃあまずは簡単な質問から。とりあえず、中学校時代のこととかから、聞いてみたいんだけど、いいかな?」
「え、ええ」
頷くと、ボイスレコーダーを、ずずい、と突き出された。あまり乗り気ではない一夏だったが、周りの生徒たちの、わたしたちも聞きたいなあ、という期待の眼差しによる圧力にさらされ、首肯せざるをえなかった。
宣言通り、薫子の質問は一夏の中学時代の記憶を掘り起こすことから始まった。どんな学校だったのか。どんな学生生活を送っていたのか。部活はやっていたのか。どんな友人と付き合いがあったのか。恋人はいたのか……。いなかったです、と応じたとき、視界の端で箒が安堵の表情を浮かべたように見えたが、はて、あれは何だったのだろう? 訝かしむ一夏に、薫子は「じゃあ本題」と、語調を強めた。
「ではずばり織斑君! クラス代表になった感想をどうぞ!」
なるほど、本命の質問はこれだったか。一夏は何か気の利いた台詞でも、と考え込むが、何も思い浮かばず、結局、無難な答えを口にする。
「まあ、なんというか、がんばります」
「う~ん。もうちょっと、頑張ってコメントしてよ~。俺に触ると火傷するぜ? とかさ~」
「……えらく前時代的な台詞ですね」
そういう感じでいいのか。それならば、と彼は昔、テレビの記録映像で見た高倉健の顔を思い浮かべて言う。
「自分、不器用ですから」
「うわ、前時代的!」
そっちはよくて、こっちは駄目なのか。彼女の基準がよく分からない。
「う~ん、もうちょい、インパクトが欲しいなあ。今度の校内新聞の見出しに使えそうな、キャッチーなやつ」
「そんなこと言われても……」
「織斑君、織斑君」
ふと、椅子から立ち上がった陽子が彼に向けて紙飛行機を投げ飛ばした。受け取った一夏は、訝しげに彼女を見る。
「えっと、鬼頭さん?」
「カンペ。よかったら使って」
「え、あ、ああ!」
ありがたい。一夏は紙飛行機を丁寧に開いていった。なるほど、たしかにボールペンで文章が殴り書きされている。誰か、歴史上の偉人の名言だろうか。やけに胸を打つ言葉だ。口に出して呟きたい衝動にかられてしまう。
「……父さん、母さん、ごめん。俺は……行くよ!」
「それ、ガンダムの台詞じゃん」
不思議と熱を帯びた口調の一夏に、薫子は思わず突っ込んだ。有名なアニメ作品の台詞ではないか。その作品を代表する、いわゆる名台詞の類いで、たしかに、秀逸なコピーではある。見出しに採用すれば、インパクトは絶大だろう。しかし、元ネタを知っている者の目にとまれば、一夏の人格が誤解されかねない危険をも孕んでしまう。さすがに採用ははばかられた。……っていうか織斑君、ものまね上手いな。あの作品の主人公そっくりじゃないの。
「……ううん、仕方ない。見出し文はこっちでなんとか考えてみるわね」
一瞬、捏造という言葉が思い浮かんだが、さすがに我慢した。
いまこの空間には、とある週刊誌の捏造記事によって苦しむ親子がいる。
新聞部の部員として、面白い記事を書きたいとは思うが、自分の書いた文章が原因で、一夏を彼らのような立場に追い込むわけにはいかない、と自制した。
手持ちの情報のみをもって、なんとか紙面を完成させよう。
薫子は次いで鬼頭の方を見た。
世界でたった二人しかいない、ISを動かすことの出来る男の一人は、隣に座る愛娘に、「こ、これなら糖質量も少ないし、父さんが食べたっていいんじゃないかな?」と、醤油味のせんべいが入ったビニール袋の裏面の成分表を見せていた。
陽子は、炭水化物の項目を見て、「う~ん、まあ、たしかに、これくらいなら……」と、頷きかけたが、隣に座るセシリアが、「陽子さん、騙されてはいけません。その成分表の表記をよく見てください。一袋あたり、と書いてあります。百グラム換算だと、そのおせんべいの糖質量は八十グラムもありますわ!」と、MIT首席卒業者ならではの、高度な交渉術を台無しにする真実を告げた。
「お父さん、やっぱり、それ駄目」
がっくり肩を落とす鬼頭に、薫子は苦笑しながら話しかけた。
「ええと、鬼頭さん、新聞部のインタビュー、いいですか?」
「黛さん。織斑君へのインタビューは終わったみたいですね。ええ、構いませんよ」
陽子が立ち上がり、自分の座っていた椅子を薫子にすすめた。「ありがとうね」と、後輩の少女に礼を言って腰を下ろすと、ボイスレコーダーのスイッチを入れる。デジタルカメラも録画モードに切り替えて、鬼頭のバストアップがよく映るよう角度と位置を調整した上で、テーブルに置いた。
「それじゃあ、改めてご挨拶から。新聞部副部長の黛薫子です。今日はよろしくお願いします」
「鬼頭智之です。こちらこそ、よろしく」
「では早速。鬼頭さんの経歴についてですが……」
この男については、ある面では一夏以上に、日本政府による情報統制や報道規制が徹底されている。民主主義国家においては、本来ならばあってはならない事態だが、男性操縦者という存在が世界に及ぼす影響力を考えると、その必要性も十分理解出来る。
日本政府を刺激しないぎりぎりのラインの情報を聞き出す。薫子は舌先で慎重に言葉を選びながら訊ねた。
「まず、鬼頭さんは名古屋のご出身なんですよね?」
「ええ。生まれも育ちも、生粋の名古屋人ですよ。……そもそも鬼頭という名字は、愛知県に多いんです」
古来より、愛知県は交通の要所であったため、人の移動が多かった。そのため、愛知県にのみ集中している名字というのは意外に少なく、鬼頭姓はそうした例外の一つだ。なんと、全国の三分の二が愛知県在住な上に、その半分が名古屋に集中している。一族のルーツは、源平合戦の時代に猛将とうたわれた鎮西八郎為朝の妾の子……尾頭次郎義次にあり、彼が紀州の鬼賊退治の勅命を受けた際、手柄に対する恩賞として、鬼頭の姓を賜わったとされる。
「小中高とすべて名古屋の学校に通っていました」
さすがに校名までは口にしない。日本政府の意向もあるが、鬼頭としても、自分のことで出身校の関係者に迷惑をかけたくはなかった。ただ、大学については別だ。MITを主席で卒業した、という情報は、週刊ゲンダイの紹介によって、人口に広く膾炙してしまった。
「高校を卒業した後は、アメリカのMITに留学しました」
「工学系の大学の最高峰ですよね。どうして、アメリカに?」
工学系の大学なら日本にだってたくさんある。なぜ、わざわざ渡米という道を選んだのか。十代の女子にとって、進路の問題は深刻だ。新聞部の部員という立場は勿論だが、再来年の今頃にはこの学園を卒業している生徒の一人として、先達者の考えを聞いておきたかった。
「それは私の子どもの頃の夢に関係しますね」
「夢?」
「はい。私はね、子どもの頃、時計職人になりたかったんですよ」
言葉の応酬を重ねるごとに、みなの目線が、二人に集中していく。週刊誌に書かれた内容を信じている者たちでさえ、男性操縦者の過去には興味津々な様子だった。
「私の祖父は、時計職人でした。父は技師の道こそ歩みませんでしたが、ディーラーとして時計業界で働いていました。そんな二人の背中を見て育った私は、自分も将来は、時計を扱う世界で生きていきたい、と漠然と考えていました。ところが、時計産業へ進むことは、その二人から猛反対されてしまいましてね」
「ええと、それは何ででしょう?」
「当時、祖父と父は、時計産業の未来について悲観していました。若い皆さんには馴染みのない言葉だとは思いますが、二人が生きた時代には、クォーツ・ショックという、時計業界にとっての大事件がありましてね。その影響と、あとは携帯電話などのデジタル機器がどんどん発達していくのを見て、いずれ誰も時計を身につけなくなるんじゃないか、と不安にかられてしまったんです。『……趣味として時計をやる分にはいいだろう。だが、仕事にするのは反対する。智之、お前にはおじいちゃん譲りの手先の器用さがある。その才能を、もっと別な分野で活かしてみてはどうかな?』なんてことを言われましたよ」
結果を述べると、時計産業の未来は、明るいとは言いがたかったが、二人が予想したほど暗いものにもならなかった。クォーツ・ショックの後も、機械式時計は工芸品・芸術品としての地位を確立し、携帯電話が普及した後も、ステータス・シンボルとして時計を愛する者は多かった。
「時計業界への憧れを捨てた後、私は途方にくれました。この手先の器用さを活かせる分野はないか、様々な業界に目を向けましたが、どれも時計ほど私の心を熱くさせてはくれない。さて、どうしたものか、と悩んでいるうちに、高校卒業後の進路を選ばねばならない時期が来てしまい……、私は悩んだ末に、MITへの留学を決めました。
黛さんのおっしゃる通り、あそこは工学系大学の最高峰です。もの作りの道には進みたいな、とは漠然と考えていたので、どんな職業に就いてもいいように、と最高の知識と技術を習得したいと考え、MITを選びました」
「な、なんかすごい話ですね……」
MITに入りたい。MITでなければ駄目なんだ! そういった強い意志を胸に抱いて門を叩く受験生が大半を占める中で、鬼頭のような考えから、世界最高峰の大学の入学試験に挑む者は少数派だろう。それでいて、並み居るライバルたちを蹴落として無事に入学、果ては首席卒業という偉業を達成しているのだからすさまじい。感心するよりも、呆れの気持ちが勝ってしまうほどの成果だ。
「卒業後に、日本のロボット・メーカーを選んだのはなぜなんですか? MITの首席卒業者ともなれば、アメリカ中の企業から、引っ張りだこだったと思うんですけど」
「……そうですね。G.M.やフォード、ボーイングやレイセオンといった、アメリカの名だたる企業からオファーがありました」
しかし、と鬼頭はかぶりを振った。
「すべて、断りました。理由は二つあります」
鬼頭は右手の人差し指と中指を立てた。薬指を飾る金色の指輪が、きらり、と光る。
「一つは、卒業時点ではもう、私も新たな夢、やりたいことを見つけていたためです」
「夢? よかったら、教えていただいても?」
「災害救助用のパワードスーツの開発です」
鬼頭は力強い語調で言い放った。
「大学三年生のときのことです。九月十一日に起こったあの悲劇を、私は、あの国で体験したんです」
九・一一同時多発テロ。世界が変ってしまったあの日。
世界貿易センタービルのあったニューヨークから、僅か三百キロメートルしか離れていない、マサチューセッツのぼろアパートで、テレビを通して、彼は目撃した。
「……テレビの画面には、世界で最も勇敢な男たちの姿が映っていました。自らの危険を顧みず、一人でも多くを、と懸命に救助活動を続ける消防士や、警官たちの姿です。私は彼らの勇姿を見て感動しました。彼らの手助けをしたいと思いました。そのための、災害救助用パワードスーツです」
「それって……EOSのような?」
「EOS?」
薫子の言葉に、遠巻きに眺めていた一夏が首をかしげた。
それを見て、セシリアが「国連が開発中のパワードスーツのことですわ」と、説明する。
「外骨格攻性機動装甲Extended Operation Seeker 。これを略して、EOS(イオス)と呼ばれています。このIS学園から発信された、IS研究のデータを基に、ISコアに頼らないパワードスーツとして、開発が進められています」
「ざっくり説明すると、ISの劣化コピー品だね」
一夏の隣に立つ女子生徒が補足した。週刊ゲンダイに掲載された内容を鵜呑みにし、鬼頭のことを嫌っている生徒の一人だ。もともと女尊男卑の傾向があり、ISコアを持たない……すなわち、男女の別なく使えるEOSのことを、馬鹿にするような口調だった。
「EOSとは、少し違いますね」
鬼頭は苦笑しながらかぶりを振った。EOSのことは鬼頭もよく知っている。いつか自分たちの作ったパワードスーツを世界中に普及させてみせる! という大いなる野望を胸に秘める彼だ。ISやEOSに限らず、世界のパワードスーツ開発の動向には常に目を光らせていた。
「EOSはIS登場以降に作られた概念です。ですから、技術的にも、見た目的にも、ISとの共通点が多い。私の作ろうとしているパワードスーツは、ISが生まれる、二十年以上も前の考え方の産物です。見た目も、ベースになっている技術も大きく異なります。……もっとも、ベースの技術が古いからといって、EOSのごとき、誕生して僅か数年ぽっちの若造機械に劣っているつもりはありませんが」
好戦的に笑ってみせると、目の前で薫子は息を呑んだ。
挑戦的な言葉に篭められた、自分たちの技術に対する絶対の自信を感じ取る。自身もまた整備科に進み、技術者としての道を歩もうとしている少女は、その顔にしばしの間見惚れてしまった。
「もう一つの理由は」
「あ、はい」
「ISやEOSにも、少し関係します。パワードスーツの技術はその性質上、軍事転用されやすい。私が作りたいのは、あくまでも災害救助用のレスキュー・スーツです。戦争のためのバトル・アーマーではない。当時、私たちに声をかけてきた企業は、そのほとんどが、軍需産業とつながりを持っていました。ボーイングやレイセオンなどは、それこそ露骨に、軍用のパワードスーツを作る気はないか? と声をかけてきました。私は自分たちの技術が、軍事目的で使われることを嫌ったのです」
「なるほど。だから、日本に」
「はい」
鬼頭は首肯した。
「日本にも勿論、防衛産業はあります。三菱グループが、その代表格でしょう。しかし、彼らはアメリカの企業ほど、軍需の分野には熱心ではない。日本では防衛産業は儲かりませんからね。しかも、あの当時はまだ“防衛装備移転三原則”がありませんでした。軍事の分野に積極的な投資をする企業はほとんどなく、だからこそ、私にとっては都合がよかった。設備や予算ではアメリカの企業に劣るでしょう。しかし、日本の企業でなければ、屈託を抱えながら仕事をすることになる。私は帰国し、日本で職を探すことにしたのです」
「なるほど。そして、いまの会社に入ったわけですね?」
「はい」
「会社では、やはりパワードスーツの研究を?」
「いまはそうですが……会社の社長の方針でね。入社してからしばらくの間は、色々な部署でこき使われましたよ」
入社当初、当時の社長であり、現在の会長でもある桐野秋雄は、鬼頭と桜坂に、「まずは立ち止まって、社会のことを勉強しなさい。夢に向かって走り出すのは、それからだ」と、言った。
桐野社長は二人を様々な部署で働かせた。介護部門に始まり、食品部門、医療部門、重作業部門……と、三年ごとに次々転属させた。当初はなんでこんな回り道をさせるのか、と、社長のことを恨んだが、いま振り返ってみると、二十年近い寄り道の日々は、得がたい経験をさせてもらったと感謝している。
おかげ様々なことを学ぶことが出来た。
知識や技術だけでなく、社会人としての能力や品格を磨かせてもらった。
なによりありがたかったのが、配属された各部署で、太い人脈を作らせてもらったことだ。現在、自分が籍を置くパワードスーツ開発室のスタッフたちは、桐野美久を除いては全員、鬼頭たちが過去に所属したことのある部署から引き抜いた人材だ。彼らは既知の間柄にある鬼頭らからの協力要請に、快く応じてくれた。また、社内の人間だけでなく、社外の人たちともつながりを持つことが出来た。XIシリーズの開発が順調なのも、彼らが高品質な部品を可能な限り安く供給してくれるおかげだ。
若さと勢いに任せて突っ走っていたならば、いまほど上手くはやれなかっただろう。
「入社してからはじめて作ったのは、介護用のベッドでした」
「ベッド、ですか?」
「ええ。ただし、寝ている人間のバイタル・チェック機能と、起き上がり電動補助機能を管理するロボットを搭載したベッドです」
「なるほど。ちなみにそれは売れたんですか?」
「最終的にはそこそこ。しかし、売り始めた当初はまったく」
「それは、なんでだったんでしょう?」
「私たちの思慮が足らなかったんですよ」
鬼頭はほろ苦い笑みとともに、過去の蹉跌を語った。
「ベッドは私と、同期入社した友人の二人で完成させました。ロボットの性能は勿論、リクライニング機能を支えるモーターの数や品質、マットレスの寝心地にもこだわり、それでいて価格は競合他社の主力製品と十分渡り合える値段を実現してみせました。これは売れる! と二人してハイになっていたところ、社長から、『せっかくだからお前たちが売ってみろ。技術者は普段、エンドユーザーと触れ合う機会を得にくい。そのせいか一人よがりなもの作りをしがちだ』と、言われましてね。じゃあ、どうしようか、と二人して悩んで、まずは介護施設に売り込もう、と商品の説明会を開いたんです」
平成十二年より介護保険制度が始まって以来、福祉介護施設は急激にその数を増していった。
鬼頭たちが介護用ベッドを売り出し始めた当時は、制度を導入してすでに三年が経ち、入居希望者が殺到する施設と、そうでない施設との差……すなわち、サービスの質の差が顕在化し始めていた。鬼頭たちは彼ら背中を追う者、前をひた走る者、双方に需要があると睨んだ。
ところが、説明会にやって来た彼らの反応は芳しくなかった。鬼頭たちは自分たちの作ったベッドの機能性や価格の安さを必死にアピールしたが、
『自分たち介護士は医者ではない。国の定めたルール上、入居者に対して医療行為をするのは禁じられている。だから、どんなに優れたバイタル・チェック機能を搭載していたとしても、自分たちでは使いこなせない』
『他の会社のベッドと比べてもかなり安いが、その安さの理由はなんだ? 価格がどんなに魅力的でも、品質に問題があっては困る』
などの意見が相次いだ。
鬼頭たちは一旦、介護施設への売り込みを諦めた。一般家庭で使ってもらうべく、家具小売の会社を数軒回り、十軒目でようやく店に置いてもらえることになった。名古屋市の東に隣接する尾張旭市にある、大型の複合商業施設の中のテナント店だ。ディベロッパーの責任者曰く、休日には一日あたり五千人が来店するという。これは多くの人の目につくぞ、と鬼頭たちは期待した。しかし、一ヶ月経っても、二ヶ月経っても、一向に売れる気配がない。
これはおかしい、と現場の店で聞き取り調査を行った鬼頭たちは、そこで客たちの声を聞いて愕然とした。彼らは鬼頭たちの作った介護ベッドを指差して、一様に「大きすぎる」と、不満を口にした。二人にとって、まったく予想外の意見だった。
たしかに、 鬼頭たちの介護ベッドはロボットを搭載したことにより、他社の電動式介護用ベッドよりも大きく、重かった。飾らない言い方をすると、国土の狭い日本の住宅事情をまったく無視した、無神経な大きさをしていた。おまけに、ロボットを搭載したせいで電力の消費量も多い。導入コストは安くても、維持コストが高くつくと嫌がられていた。
そして、そうした数々の不満点を承知の上で買ってくれた僅かなお客様からも、後にクレームがよせられた。曰く、『バイタル・チェック機能のセンサーが過敏すぎて、ちょっと咳き込んだだけでも異常検知アラームが鳴ってしまう。これじゃおちおち寝られない』とのこと。よかれと思って取り付けたセンサーの感度が、ユーザーにとってはむしろ、ありがた迷惑となってしまっていたのだ。モーターの力が強すぎて、リクライニング時の振動が酷い、という意見もあった。
鬼頭たちはすぐに店の在庫を買い取った。家具屋の店主に対しては、桜坂と二人、肩を並んで深々と腰を折った。申し訳ありませんでした。お店の貴重なスペースを、自分たちの作ったベッドのために、二ヶ月も腐らせてしまいました。たいへんなご迷惑をおかけしてしまい……。
二人はそこで言葉をつまらせた。泣き出したい気持ちを、ぐっ、と堪え、申し訳なさと悔しさ、そして雪辱に燃える眼差しを店主に向けて言い放った。
恥を承知でお願いします。どうか我々に、もう一度チャンスをください。二週間で、今度こそユーザーの心を掴む商品を開発してみせます。
家具屋の店主は苦笑しながら、「落ち着け。一ヶ月でいい」と、応じた。二人は地面に額をこすりつける勢いで、いっそう頭を垂れた。
買い取ったベッドを会社に持ち帰った二人は、早速、改良を施した。まずとりかかったのはダウン・サイジングだ。彼らは競合他社の製品を参考にすることは勿論、住宅情報誌を何十冊と買い込んで、日本の住宅事情の把握に努めた。その結果、一般家庭やアパート暮らしでも使いやすいサイズを発見することが出来た。
次いで取り組んだのは、診断ロボットの機能の見直しだ。侃々諤々の議論の末、彼らはロボットのバイタル・チェック機能にリミッターをかけることにした。一般家庭用、介護施設用、医療機関用とリミッターにより機能を制限することで、ユーザーごとの使いやすさの向上を目指した。彼らはさらに、診断ロボットに、リクライニング時のモーターの駆動を制御するプログラムを組み込んだ。マットレスの裏側に、体重の分散具合を感知するためのセンサーを仕込み、寝転んでいる人間の体格に応じた、無駄のない動きを、モーターに可能とさせた。これにより、体重六八キログラムの鬼頭が横になった場合も、体重八十キログラムの桜坂が寝転んだ場合でも、変わらぬシームレスな駆動を実現した。
二人は三週間後に家具屋を訪ねた。これ以上は迷惑をかけられない、とディスプレイ用のベッド一台のみの納品で、配送用のトラックのハンドルは、鬼頭たち自らが握った。荷台から下ろす際も、桜坂と二人、慎重に行った。店内のディスプレイスペースに運び入れた二人は、開店後、そのかたわらで声を張り上げ、自分たちの商品を宣伝した。介護用ベッドという特殊な仕様の製品の前で足を止めてくれる人はなかなか現われなかった。
開店二時間後、車椅子に乗った初老の男性が、二人のベッドの側にやって来た。彼の顔を見て、鬼頭たちは、はっ、とした。三週間前に聞き取り調査を行った際、『大きすぎる』との意見を口にした一人だった。
彼は車椅子に乗っている自分の目線の高さまで屈んだ鬼頭たちに、「試していいかい?」と、訊ねた。二人は勿論、快く応じた。彼は車椅子から静かに立ち上がった。完全に歩けないというわけではないらしいが、その歩みはよろよろとしていて、危なっかしい。慌てて、二人が左右からフォローした。初老の男性は、リクライニング機能で起立した状態のベッドにまず腰かけた。ゆっくりと体を動かし、両足のつま先を、フットボード側へと向けた。ベッド柵に取り付けられた、リクライニング機能の制御スイッチを操作する。ベッドは静かに、沈んでいった。百八十度水平状態のベッドに横たわりながら、男性は、「ああ、気持ちいいなあ」と、鬼頭たちに笑いかけた。二人はその場で落涙した。若き日の天才たちの男泣きだった。
「……あのときは嬉しかったなあ」
昔を懐かしみながら、鬼頭は完爾と微笑んだ。優しい面差しに、正面に座る薫子だけでなく、インタビューの様子を眺めるみなが、思わず見惚れてしまった。
「自分たちの作った製品で……自分たちの技術で、誰かを笑顔にすることが出来た。自分たちの選んだ道は、間違ってはいなかった、と確信したよ」
「素敵な、お話しですね」
薫子は噛みしめるように呟いた。鬼頭の笑顔を眺め、いつか自分も、まだ見ぬ誰かを笑顔にさせられたらな、と思った。
「仕事のことは、これくらいにしておきましょう。続いて、鬼頭さんのプライベートについてですが」
「こんな四十過ぎのおじさんのプライベートに、需要はあるんでしょうか?」
「それは読者が決めることなので。……さて、鬼頭さんの私生活を語るうえで、まずはずせないのはお嬢様……陽子さんのことだと思いますが、あなたにとって、娘さんはどういう存在なんですか? 一言では表せないと思いますが」
「宝物です」
鬼頭は一言で表現した。かたわらの陽子が、羞恥から顔を赤くする。セシリアがにやにや笑いながら見ていることに気づき、「み、見んでくだせえ」と、両手で顔を覆った。
「それ以外には考えられません」
言葉を重ねた後、鬼頭は、おや、と訝しげに目を細めた。
上座に座る一夏が、自分のことを羨ましそうに見つめている。はて、いまの発言にそんな要素があったか。
どうしたのか、と声をかけようとするも、「親子仲が良いって、微笑ましいですね」と、薫子に話しかけられ、口をつぐむ。
「じゃあ、他に趣味とかはあります?」
「まず時計ですね。職人の夢こそ諦めましたが、いまでも趣味として、時計はよくいじるんです」
「なるほど。ちなみに、いま腕にはめているのは……」
「ボーム&メルシェのボーマティックという時計です。いわゆる、スイス時計ですね」
鬼頭は左手首の相棒のケースを指で、トントン、と軽く叩いた。
一八三〇年に創業開始。確かな品質と独創的な意匠が人気のブランドで、時計業界のトレンドセッターともいえる存在だ。ボーマティックは二〇一八年に誕生したばかりの比較的若いモデルで、同社初の自社開発のムーブメントを搭載している。時計の名と同様、ボーマティックと名づけられたこの機械式自動巻きキャリバーは、パワーリザーブが通常の時計の三倍近い一二〇時間もあり、対磁性などの耐久面にも秀でていた。勿論、時計にとって最も大切な計時の制度は折り紙付きだ。
「良い時計ですよ。造りがしっかりしているわりに、機械式の時計としては比較的価格が抑えめで、なにより見た目がエレガントだ。機械式時計の入門用には、おすすめの一本です」
「ははあ……ちなみに、おいくらくらい?」
「税抜きで三十万円ちょっと」
「……なるほど。……時計好きの基準で安いとか言わないでください!」
「そんなに高いかしら?」
貴族の娘で、資産家の両親の間に生まれたセシリアが、ぼそっ、と呟いた。隣に立つ陽子が、驚いた表情でその横顔を見つめる。そういえばこの女、イギリス政府が鬼頭にジャガーXJを与えるつもりでいる、と知っても、さして驚いていなかった。金持ちの金銭感覚は恐ろしいな、と彼女は戦慄した。
「他には、何かないですか?」
「他の趣味だと……やはり、車ですね」
「ああ」
薫子は得心した様子で頷いた。
「男の人って、クルマ好き、多いですよね」
「乗るのも見るのも大好きですよ。ここに来る以前は、休日はレンタカー屋に行って、色々な種類の車を乗り比べていました」
「私たちで言うと、休日の度に、打鉄とか、ラファールとか、テンペスタを乗り比べるようなものですか」
なんて贅沢で羨ましい日々だろうか、と薫子は口の中で呟いた。
その後いくつかの質疑応答を経て、薫子はボイスレコーダーの残り容量を気にしながら、「最後に……」と、口を開いた。
「最後に、これからの学生生活に向けた、何か意気込みのようなものを頂戴出来ますか?」
「ふむ。さっきの、織斑君のような?」
「はい。あ、でも、織斑君みたいに、高倉健はやめてくださいね。いまの若い子は、『自分、不器用ですから』とか言われても、どう反応していいか戸惑っちゃうんで」
上座に座る一夏が、なにやらショックを受けている様子が見えた。
鬼頭は少し考え込んだ後、静かに両手を合わせた。瞑目する。
いきなり何を、と怪訝な表情の薫子に、鬼頭は瞼を閉ざしたまま言った。
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」
「もっと古い!」
有名な戦国武将、山中幸盛の発言だ。高倉健よりも、四百年以上古い。
薫子が思わず突っ込み、鬼頭は、からから、と笑ってみせた。
インタビューが終わった後、鬼頭は陽子たちに、「黛さんを二年生の寮まで送ってくるよ」と言って、パーティーを中座するべく席を立った。
彼のこの発言に、陽子たちは訝しげな表情を浮かべた。たしかに、IS学園の学生寮は、学年ごとに建物が別れている。とはいえ、一年生の寮と、二年生の寮との間にある距離の隔たりは、ほんの百数十メートル。のんびり歩いたとしても、二、三分しか要さない。加えてここは、IS学園だ。世界で最も厳重な警備態勢が整備されている施設といえる。暗い夜道を送っていく必要など、ないのではないか。しかし、鬼頭はかぶりを振って、
「こういうのは、大人のエチケットってやつだ。若いお嬢さんに何かあっては困る」
と、譲らなかった。
なにより、鬼頭の申し出を、薫子自身が受け入れた。
「じゃあ、よろしくお願いしますね」
一年生たちの不思議そうな眼差しを背中に浴びながら、二人は食堂を後にした。
寮のエントランスを抜け、外に出る。二人並んで歩き出すこと十数歩、周囲に誰もいないことを認めた鬼頭は、ふと隣を歩く薫子に話しかけた。
「今日はありがとうございました」
この場に陽子たちがいたならば、先の発言と合わせて、ますます首を傾げただろう。
今日の取材は、薫子の求めに鬼頭が応じる形で始まった。お願いを聞き入れてくれたことに対する感謝は、むしろ新聞部に籍を置く彼女が口にするべきもののはずだが。
「さっすがMITの首席」
街路灯が薄らと道を照らす暗がりの中、薫子は照れくさそうに微笑んだ。
「私の考えなんて、お見通しでしたか」
「織斑君に対するインタビューと、私に対するインタビューとでは、方向性が明らかに違いましたから」
クラス代表に就任しているか否かの違いはあろうが、それにしたって、自分に接するときと、一夏に接するときの態度が違いすぎていた。
学内新聞という媒体の性質上、いま記事にするべきは、クラス代表対抗戦を来週末に控える一夏の方だろう。試合に出ない自分のインタビュー記事など、添え物程度の扱いでよいはずだ。それなのに、聞き取り取材に費やした時間は、自分に対しての方が明らかに長かった。質問の内容も多岐にわたり、鬼頭の内面を鮮明に暴き出そうとする企図が察せられる。新聞というよりは、雑誌の取材を受けている気分だった。これらの不審点にさえ気づいてしまえば、あとの推理は容易い。
「気を遣わせてしまいましたね。学内新聞の記事を使って、生徒の皆さんの私に対するイメージを、変えようとしてくれているのでしょう?」
「学園の外でのことについては、私にはどうすることも出来ませんから」
薫子は硬い表情で言った。
「例の雑誌編集部に対する訴訟とか。でも、学園の中でのことについては、私にも協力出来ることがあるんじゃないか、って思ったんです」
おそらくだが、みんな、鬼頭智之という人物のことをよく知らないから、週刊誌の記事などという、信憑性不確かなものを信じてしまったのだ、と薫子は考えていた。これについては、日本政府による情報統制が裏目に出てしまったといえよう。
織斑一夏の存在が最初に発見されたとき、日本政府は情伝播報のコントロールに失敗した。すべてのアクションが後手に回った結果、彼の存在は世界中に知れ渡り、大きな衝撃と混乱をもたらした。この前例への反省から、鬼頭が見つかったときの反応は素早かったが、今度は彼にまつわる情報を出し渋りすぎ、ために、みなの心に週刊誌発信の情報を信じる余地を残してしまった。
政治力による情報の管理は、諸刃の剣だ。上手くこなせれば国民の混乱を最小限にとどめられる一方、やり方を誤ると、いっそう大きな混乱と、時の政権に対する不信感を、大衆の心理に植えつけてしまう。
たとえば、第二次世界大戦ではこんなことがあった。
一九四一年の五月にドイツ海軍が発動した、ライン演習作戦のときの出来事だ。
第二次世界大戦前夜、ドイツ海軍は世界中に植民地を持つ大英帝国海軍の艦隊の規模と質には、どう頑張っても追いつけないと悟っていた。彼らは開戦の以前から、英海軍とは正面からの艦隊決戦を避け、通商破壊作戦を主軸とした戦略を練り、準備を進めてきた。
ライン演習作戦は、そんな通商破壊作戦の一環だ。欧州最大の巨大戦艦〈ビスマルク〉と重巡洋艦〈プリンツ・オイゲン〉、そして巡洋戦艦〈グライゼナウ〉の三隻を主力とする艦隊をもって北大西洋へ進出し、イギリス本国への輸送船団を攻撃しようという計画だった。もっとも、〈グライゼナウ〉は作戦の発動前にイギリス空軍の雷爆撃を受け、復帰は間に合わなかったが。
中立国スウェーデンの情報機関よりもたらされた急報により、ライン演習作戦のことを知ったイギリス海軍の動揺は凄まじかった。敵はヨーロッパ最強の戦艦〈ビスマルク〉。これを迎え撃つべく、彼らは六隻の戦艦と二隻の空母、五隻の重巡洋艦を含む、合計四七隻の大部隊を投入することにした。
五月二四日、英海軍の巡洋戦艦〈フッド〉と戦艦〈プリンス・オブ・ウェールズ〉、他に駆逐艦四隻からなる合計六隻の部隊が、〈ビスマルク〉と、〈プリンツ・オイゲン〉を補足した。先手を取ったのはイギリス海軍で、当初は、先頭をゆく〈プリンツ・オイゲン〉を〈ビスマルク〉と誤認して、砲撃を集中させた。ところが、戦闘が始まって僅かに八分後、〈ビスマルク〉の放った砲弾が、〈フッド〉の非装甲部分に直撃貫通、火薬庫に引火するという、考えうる限り最悪の事態が発生した。〈フッド〉は一六〇〇名の乗員もろとも水底へと沈んでいった。救出できた乗員は、僅かに三名。
僚艦を撃沈された〈プリンス・オブ・ウェールズ〉は、怒りに燃えた。彼女は〈フッド〉の轟沈後も砲撃戦を続けたが、反撃の砲弾が彼女の艦橋に命中すると、間もなく戦意を喪失した。このとき、〈プリンス・オブ・ウェールズ〉の司令部では、艦長と一人の候補生を除いて全員が死亡という状態だった。〈プリンス・オブ・ウェールズ〉は戦場からの離脱を開始し、ドイツ側もそれを見送った。
後に〈ビスマルク〉は、五月二七日に戦艦〈キング・ジョージ五世〉と〈ロドネイ〉、重巡洋艦〈ノーフォーク〉と〈ドーセットシャー〉からの総攻撃を受けて撃沈される。しかし、この五月二四日の戦闘に限っていえば、英海軍は戦艦一隻を喪失、〈プリンス・オブ・ウェールズも中破、対するドイツ側は〈ビスマルク〉が小破、〈プリンツ・オイゲン〉はほとんど無傷と、勝敗は誰の目にも明らかな結果となった。
ところが、イギリス政府はこの五月二四日の海戦の結果について、次のように公表してしまう。彼らは、〈フッド〉の沈没を認めた上で、
『プリンス・オブ・ウェールズの損害は軽微。逆に、ドイツ戦艦は大量の煙を噴き、速力も大幅に落ちている。これらの結果から、重大な損傷を受けているものと思われる』
と、国民や海軍に説明した。
勿論、海戦の結果は先述の通り、まったく異なっている。イギリス政府は国民にショックを与えないように、と嘘の発表をしたのだ。
結果的に、この説明は悪手だった。イギリス海軍のかなりの将兵、そして国民が、この発表を受けて、〈プリンス・オブ・ウェールズ〉とその乗員に対し、非難を始めたのだ。
『僚艦〈フッド〉の沈没を目の当たりにしながら、なぜ重大な損傷を受けたドイツ戦艦に対し、攻撃を続けなかったのか。報道によれば、〈プリンス・オブ・ウェールズ〉の損傷は軽微ですんでいるはず。それならばなぜ、戦場にとどまり、〈フッド〉の仇を討とうとしなかったのか!?』
イギリス政府と海軍は、〈フッド〉の沈没以上に、この状況に頭を抱えた。将兵や国民を動揺させないように、という配慮からの説明が、かえって国内の混乱を招いてしまったのだ。
鬼頭智之について、日本政府は世間に対し、誤解を与えない程度の情報は公開するべきだった、と薫子は考えている。せめて、陽子との良好な親子関係を匂わせるくらいの発表はするべきだった。そうしていれば、週刊誌が一冊、世に出たところで、いまほどの影響力は持ちえなかっただろう。
人間はその本質において保守的な生き物だ。自分の理解が及ばない存在に対しては、少なからず不審の目を向けてしまう。週刊ゲンダイの報道は、そんな心の隙を衝くものだった。だからこそ、これほどの影響力を持つにいたったのだ。
「だから、みんなに知ってもらおうと思ったんです。鬼頭さんがどういう人なのか。そうすれば、週刊誌の内容に疑問を持ってくれる子が、一人でも増えてくれるんじゃないか、って」
「ありがとうございます」
鬼頭は足を止めると、深々と腰を折った。企業戦士のたしなみの一つだ。相手が二十歳以上も年下であろうと、頭を垂れることに抵抗感はない。
「ですが、どうしてそこまで、私たちのために?」
顔を上げた鬼頭は怪訝な表情を浮かべていた。
自分たち親子と、黛薫子との関係は、学園における先輩と後輩以上のものではない。強いて言えば、自分の愛機のフィッテイング作業を手伝ってくれたというくらいだが、究極、その程度の間柄でしかないのだ。それなのに、どうして彼女は、自分たち親子のためのはたらきかけをしてくれるのか。
「……さっきの、鬼頭さん風に答えましょうか。理由は三つあります」
「三つもですか?」
「はい」
薫子は人差し指から薬指までの三本を立てた状態の右手を突き出した。
「一つ目の理由は、個人的な反省と贖罪のためです」
「反省?」
「はい。……実はですね、私、一年生の頃は話を盛ったり、インタビューの内容のうち、自分にとって都合の良い発言だけチョイスしたり、わりと捏造上等の精神で、紙面作りをしてきたんですよ。でも、実際に捏造記事のせいで苦しんでいる鬼頭さんたちの姿を見て、その、自分がいままで、どれだけ酷いことをしてきたのか気がつきまして」
薫子は苦々しげな表情を浮かべながら呟いた。過去の自分の行いを、ひどく恥じている様子だ。
「……そう、でしたか」
鬼頭は得心した表情で呟いた。
なるほど、今回のインタビューは、自分たち親子のためであると同時に、彼女自身の心の救済のためでもあったのか。それならば、自分たちに良くしてくれるのも得心できる。
「幻滅しましたよね? 私も捏造記事を書いていたなんて」
「そうですね」
消え入りそうな声に対し、鬼頭は躊躇なく首肯した。薄明かりの下でもはっきり見て取れるほど、薫子の顔色が悪くなっていく。
しかし鬼頭は、かぶりをふって続けた。
「ですが、自らの過去の行いを恥じ、悔い改めようとしているいまの黛さんの姿は、尊敬に値するものだと思いますよ」
「鬼頭、さん……」
薫子は鬼頭の顔を見上げた。親子ほども歳の離れている後輩は、優しい目をしていた。
「過去は変えられません。大切なのは、これからどうしていくか、です」
起きてしまったこと、やってしまったことを、いつまでもくよくよ嘆いていても仕方がない。大切なのは、同じ過ちを繰り返さないための反省と対策を練ることだ。より良い未来を目指して、行動することだ。企業戦士として長年戦ってきた経験から、鬼頭はそう考えていた。
「その点、黛さんはすでに行動を始めている。とても立派だと思います」
「鬼頭さん……ありがとうございます」
薫子は可憐に微笑んだ。鬼頭の言葉で胸のつかえが下りたか、晴れやかな表情だ。
「……それで、理由の二つ目ですが」
「はい」
「憶えていますか? 鬼頭さんと私が最初に会った日のこと」
「ええ」
鬼頭はまた首肯した。薫子と出会った日とはすなわち、自分がはじめてISを動かしてしまった日でもある。
「忘れるわけがありません。あの日、起こった出来事は、すべて憶えていますよ」
「たっちゃん……更識さんとの試合を終えて、ラファールを脱ごうとした私を、鬼頭さんは本気で心配してくれましたよね」
あのときの出来事は鬼頭にとって少々恥ずかしい思い出だ。当時、ISの機体表面を覆うエネルギー・フィールドの存在を知らなかった自分は、戦闘の直後でラファールの装甲が熱くなっていると思い込み、素手で触れた薫子の細腕を、乱暴に掴んで無理矢理引き剥がそうとしてしまったのだ。
「あのときは痛い思いをさせてしまいましたね」
「もう、気にしなくていいですよ。あのとき、ちゃんと謝ってもらいましたし」
薫子は懐かしそうにあの日、鬼頭に捕まれた左手首を撫でさすった。
「あのとき、真摯に謝罪してくれた鬼頭さんの姿を見て、思ったんですよ。あ、私、この人のこと、好きだわ、って」
思わぬ言葉に、鬼頭は束の間、茫然としてしまった。
そんな彼の様子を見て、薫子はいたずらが成功したとばかりに、会心の笑みを浮かべた。
「あ、勿論、女の子として、って意味じゃないですよ。さすがにオジサンは守備範囲外なので」
「……ああ、よかった」
鬼頭は安堵の溜め息をこぼした。恨めしげに、彼女の顔を睨む。
「心臓が止まるかと思いましたよ。大人をからかわないでください」
「すいません。でも、鬼頭さんのことが好きだ、っていうのは、本当のことですよ。
……あのとき、鬼頭さんは私が火傷をしたんじゃないか、って、とても心配してくれましたよね。誤解だって分かった後も、心からの謝罪をしてくれました。そういう態度の一つ一つを見て、思ったんです。初対面の私を相手に、なんて優しい人なんだろう。この人はきっと、私が助けを求めたら、その内容に拘らず応えてくれる。なら私も、この人に優しくしてあげたい。この人の助けになりたい、って。そう思ったんですよ」
「……私が優しい人間に見えたのは、黛さんご自身が、そういう人だからですよ」
鬼頭は照れくさそうに笑った。
「私には過ぎた賛辞です」
「そんなことないと思うんだけどなあ」
「ですが、ありがとうございます」
人から褒められるというのは、いくつになっても嬉しいものだ。
「それで、三つ目の理由は……?」
「はい。最後の理由は、言葉にするとしたら、見栄ですね」
「見栄?」
「はい」
薫子は頷いた。諧謔混じりの口調で言う。
「一つ年下の後輩と、二十歳近くも年上の後輩に、先輩らしいところを、見せつけてやろうと思いまして」
「……なるほど」
鬼頭は神妙な面持ちで頷き、そしてすぐに破顔した。
「そいつは、納得のいく理由だ」
◇
……それは違いますよ、鬼頭さん。
あの凡人社長は、あなたと桜坂さんに、二十年もつまらない寄り道をさせた、諸悪の根源じゃないですか。
あなたたちの才能を見抜けなかった、愚か者じゃないですか。
そんなやつに、感謝なんていりませんよ。
Chapter14「猛る中年」了
大阪府大阪市。
北区天神橋からさほど離れていない、貸倉庫の一つ。
最初に遺体を発見したのは、倉庫を所有する、四十半ばのオーナーだった。
今朝方、定期点検のため倉庫に足を運んだところ、昨夕、ちゃんと施錠しておいたはずの扉の鍵が、壊されていることに気がついた。倉庫の鍵は閂式で、南京錠によってロックされる仕組みだ。いったいどんな道具を使ったのか、南京錠には傷一つついていないのに、閂の棒が真ん中でへし折れていた。
オーナーの男性は慌てて扉を開けた。鍵を壊された倉庫は現在、借り手がいない物件だ。中は空っぽだが、頭のおかしいやつに荒らされてでもいたらたまらない。
案の定、倉庫の中は荒れていた。下半身がばらばらに吹き飛んだ、裸の女の死体が転がっていたのだ。オーナーの男は絶句し、次いで嘔吐し、すぐに警察に電話をかけた。
ただちに、大阪府警の本部から刑事課の人間が差し向けられることになった。電話で連絡をした際、オーナーは、女の死体が転がる床が黒く焼け焦げていることに気がつき、そのことも併せて伝えていた。大阪府警は爆発物が使われた可能性がある、として、テロへの警戒から、所轄の刑事課ではなく、府警本部の警官を派遣することにしたのだ。
最初に駆けつけたのは機動捜査隊の警官たちだった。都道府県警の刑事部直轄の部隊で、普段は覆面パトカーによるパトロール活動を行いながら、事件発生時には真っ先に現場に急行し、初動捜査を行うセクションだ。彼らは早速現場を封鎖し、検分を開始した。
初動捜査の指揮を執るのは、機動捜査隊の岡本正康警部だ。今年で三五歳になる、ベテランの警察官。大阪府警が誇る黒バイ部隊……スカイブルー隊から五年前に機動捜査隊の班長格として抜擢された逸材だ。彼が目をつけた車両は、九割の確率で違法行為をはたらく、と賞賛されるほどの観察眼の持ち主である。
現場に到着するなり、彼は将棋の駒のように角張った顔をしかめてみせた。
呆けた表情のまま絶命している女の目と合い、気の毒そうな溜め息をつく。
「これは、酷いな」
長年、警察官をやっている身だ。死体を見た経験は、足の指を総動員しても数え切れない。しかし、目の前に転がる骸は、岡本が記憶しているどんな死体よりも、むごたらしい殺され方をしているといえた。
女は下半身だけではなく、両手の十本の指と、両の耳もなくしていた。何か刃物のような道具を駆使して切断した後、出血を止めるために、焼かれたらしい。見るも無惨な切り口だった。
「殺しでしょうか?」
今年、機動捜査隊に入ったばかりの若い刑事が、ハンカチで口元を押さえながら呟いた。昨年までは生活安全課に籍を置いていた人間で、死体を見ることに、まだ慣れていない。
「おそらくな」
岡本は静かに頷いた。死体と、その周りに散乱する物、一つ一つを指差して説明する。
「床が焼け焦げているのに、死体に火傷の跡がほとんどない。床の焦げ跡は、炎による継続的な燃焼による結果でないことは明らかだ。何か、爆発物を使って、一瞬のうちに出来たものだろう。
……普通の人間は、自殺をするときに爆薬なんて使わない。銃刀法の厳しいこの国で、爆薬の類いを入手するのは困難だ。自殺願望を持った人間にとって、時間というのは貴重なはず。一分一秒でも早く、楽になりたいと思っているはずだ。それなのに、手段の準備にそんな手間暇をかけるなんて、ナンセンスだろう」
それに、と岡本は彼女の耳と、両手を示した。
「これから爆薬で死のうという人間が、わざわざ両の耳や、指を切り落とすか? いや、指はまだ分かる。指が残っていると、途中で決心が鈍って、起爆装置を止めてしまうかもしれないからな。しかし、耳まで切り落とす理由はあるまい。……あとは、そうだな」
岡本はその場にしゃがみこむと、死体の側に散乱する、金属や、プラスチックの破片を白い手袋越しにつまんだ。
「……道具が足りない」
「道具、ですか?」
「ああ。この場にはこういう、細かい破片が転がっているだけで、倉庫の閂を壊すときに使ったはずの道具が見当たらない。もし、彼女が自分の意思で、死ぬためにここにやって来たのなら、扉を開けるときに使ったペンチか何かが残っていなければおかしい」
「なるほど。……殺しだとすれば、犯人はいったい、どんな人物なのでしょう?」
「少なくとも、ガイシャに対して、相当な恨みを抱いていたんだろうな」
裸の女が殺された。両手の指をすべて切り落とされ、両の耳も切り落とされ、下半身は爆薬で吹っ飛ばされた。よく見ると、体表には生々しい注射の跡が何カ所もあり、爆薬以外にも、殺害に際して何か薬物が使われたことが推察される。他には、背骨も折れている。
一人の犯行にせよ、複数人によるものにせよ、犯人は被害者に対し、相当な恨みを抱く人物である可能性が高い。そうでなければ、猟奇殺人を好むサイコパスの類いか。
「まずはガイシャの身元をはっきりさせることだ」
岡本は毅然とした態度で言い放った。
「そうすれば、おのずと犯人像が見えてくるだろう」
被害者裸で、所持品は持っていない。いや、持っていたのかもしれないが、すべて爆発で吹き飛んでしまっただろう。
しかし、上半身は無事だ。人相と歯形から、身元を突き止めるのは容易だろうと考えられた。
けれど、彼らのそばには支えてくれる大人がいた。
彼女との違いは、それだけだった。