この小さな世界で愛を語ろう   作:3号機

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いつもよりちょい短めのお話。

あと、今回、一夏の行動を原作とはちょっと変えてみました。

彼の性格上、あそこで彼女を追いかけないというのは、なんか違うよなあ~、と思ったので。






Chapter16「青い約束」

 IS学園第二アリーナ隣の整備室で、更識簪は、作業台の上に置かれたメカニカル・キーボードを一心不乱に叩いていた。

 

 今年、IS学園に入学したばかりの、一年生の娘だ。くせっけの強い空色の髪を、肩甲骨のあたりまで伸ばしている。身長は一五四センチと、この年頃の女性の平均身長と比べて、そこまで低くはないが、華奢な体つきや、美人なれどまだ幼さを残す顔立ちなどから、実際の数字よりもいくぶん小柄に見えた。長方形型のレンズの向こう側で、真紅の宝石が二つ並んでいる。

 

 キーボードを叩く簪の眼差しは、手元に向いていなかった。

 

 赤い双眸が見つめるその先には、空間投影式のディスプレイが浮かんでいた。表示されているのは、現在開発中のISの、進捗状況に関するデータだ。強化外装・九十八式。和名を、〈打鉄弐式〉という。その名からも明らかなように、第二世代機の傑作……〈打鉄〉をベースに開発された第三世代機だ。本来ならば、IS学園の入学と同時に受領していたはずの、彼女の専用機だった。簪の入学時の席次は次席。日本の代表候補生の一人なのだ。

 

 簪の専用機の完成は、当初の予定よりも大幅に遅れていた。〈打鉄弐式〉の開発が始まったのは、いまから一年以上前のことだ。

 

 当時、各国で第三世代機の開発が着々と進む中、日本でも、新世代機の開発計画がスタートした。国内で唯一、ISそのものの開発能力を持つメーカー……倉持技研へ機体の開発を依頼すると同時に、その操縦者の選定が始まった。半年前の選抜試験で優秀な成績を収めた簪は、IS学園への国家政府推薦枠を獲得すると同時に、新世代機の運用試験者の栄誉も手に入れた。機体は三月中には完成し、完成後の諸検査をパスした後、学園の入学式の日に彼女に渡される、そのはずだった。

 

 二月下旬に織斑一夏が、そして三月初旬に鬼頭智之が発見されたことで、計画のスケジュールが狂い始めた。

 

 前例なき男性操縦者の保護とデータ収集のため、日本政府は急遽、彼らのための専用機を用意する必要に迫られた。司馬総理は首相官邸で緊急の国家安全保障会議を開いた。当初は、叶情報官の意見――IS学園か自衛隊から、標準仕様の〈打鉄〉を二機貸与する――が尊重され、話がまとまりかけたが、議決を採る直前、倉持技研から技術的なことについてのオブザーバーとして招聘した篝火ヒカルノが、待ったをかけた。

 

「彼らは男性操縦者という過去に前例のない存在です。普通の〈打鉄〉では、データ収集機として性能が不足しています。ここはやはり、二人に合わせて一から作るべきです」

 

 篠ノ之束を例外とすれば、彼女は日本のIS開発の先頭をひた走る存在だ。そんな第一人者の言葉に、国家安全保障会議は揺れた。最終的に、予算や期間の問題から、織斑一夏に対しては新規開発、鬼頭智之に対しては、〈打鉄〉の改修機をあてることになった。

 

 この議決により、新たな問題が発生した。すなわち、織斑一夏の専用機の開発を、どこに依頼するかだ。先述の通り、日本にISの開発能力を持っている企業は一社しかない。その倉持技研は、現在、簪の専用機に全精力を傾けている真っ最中だ。とてもじゃないが、そんな余力はない。

 

 かといって、国外のメーカーに依頼するのは論外だ。男性操縦者のデータが海外に流出するような事態は避けたい。

 

 政府はやむなく、倉持技研に対し打鉄弐式の開発を一時中断して、織斑一夏の専用機開発を優先するように指示を出した。倉持技研はこの要請に応じた。会社が抱えている技術者たちを総動員し、昼夜を問わぬ突貫工事をもって、作業にあたった。その結果、一夏の〈白式〉はクラス代表決定戦の日に間に合ったが、逆に簪の機体は、今週末のクラス対抗戦までに間に合わないことが確定してしまった。

 

 この仕打ちを、簪は当然、不満に思った。〈白式〉の完成後、倉持技研は、「これで開発作業を再開出来る」と、声をかけてきた。しかし簪は、「私はもう、あなたがたのことを信用出来ません」と、彼らの申し出を断った。彼女は、開発途中の〈打鉄弐式〉を倉持技研から強引に引き取ると、なんと自分の手で機体を完成させてみせる、と言い出したのだ。

 

 倉持技研のスタッフたちは、当然、反論した。

 

「更識さん、あなたが優秀な人間だということは我々もよく承知している。しかし、いくらあなたでも、たった一人でISを完成させるなんてことは、無茶が過ぎる。そんなことが可能なのは、篠ノ之束博士くらいのものだ。

 

 今回の件については、我々からも謝罪します。だからどうか、もう一度、あなたの専用機を、我々に預けてほしい」

 

 しかし、簪は意固地だった。彼女はかぶりを振ると、

 

「私の姉は、たった一人で専用機の〈ミステリアス・レイディ〉を完成させてみせました。姉に出来て、私に出来ない道理はありません」

 

 簪は倉持技研のスタッフたちとの議論を打ち切った。彼女は学園に事情を説明し、整備室などの施設を優先的に扱える特権を得た。以来、昼休みや放課後は勿論、授業合間の休み時間すらすべて費やして、日々開発作業に努めていた。

 

 二月に織斑一夏の存在が発覚した時点で、打鉄弐式の機体そのものはほぼ完成していた。残るは固定兵装と、機体制御用のOSや火器管制機能といったソフトウェア部分で、総合的には、完成度は七割といったところだろう。

 

 武装や火器管制については、目下、勉強中だ。

 

 四月半ばのいまは、機体制御用OSの完成を目指している。

 

 この日も、六限目の授業が終わるとすぐ第二整備室にやって来た簪は、かれこれ三時間ばかり、プログラミング作業に没頭していた。今日の目標は、腕部ユニットの挙動を制御するためのプログラムを組むことだ。三時間かけてやっと、右腕分のプログラムを用意出来た彼女の顔には、明らかな疲労の色が見て取れる。

 

 ――一旦、休憩しよう。

 

 簪は空中投影ディスプレイを一旦、クローズした。スクエア型の眼鏡をはずし、目の周りの筋肉を優しく揉む。と同時に、首や肩も回した。長時間、同じ姿勢で作業をしていたため、すっかり凝り固まっている。

 

 外の自販機でジュースでも買ってこよう、と再び眼鏡をかけた彼女は、踵を返し、そのときになってようやく、第二整備室に、自分以外の人間がいることに気がついた。

 

「……っ!」

 

 眼鏡の奥で、簪の双眸が大きく見開かれた。

 

 自分の作業区画より二ブロック離れたその場所に、彼女の専用機開発が遅れてしまう原因の端緒を作った男がいた。鬼頭智之。たった二人しかいない男性操縦者の片割れ。空中投影ディスプレイを同時にいくつもオープンにした状態で、かたわらに座るセシリア・オルコットとともに、何やらキーボードを叩いている。距離の隔たりがあるため、話し声はほとんど聞こえてこないが、なにやら白熱した議論が行われている様子だった。

 

「……」

 

 鬼頭を見る簪の眼差しは、険を帯びながらも、どこか複雑そうだった。

 

 〈打鉄弐式〉の開発が遅れた原因が彼にもあるのは間違いない。しかし、彼に悪意があったわけでもない。織斑一夏にせよ、鬼頭智之にせよ、彼らはたまさかISを動かせただけで、こんな事態になるとは予測出来なかったはずだ。

 

 だから、彼を恨むのはお門違い。簪とてIS学園に入学するほどの才媛だ。そんなことは分かっている。

 

 けれど、理屈と、感情は別だ。

 

 どうしても、彼らに対するこの八つ当たりじみた感情を捨てることが出来ない。

 

 そして同時に、そんな自分に対し嫌悪感を覚えてしまう。

 

 ――やめよう。

 

 これ以上、彼のことを見ていても辛いだけだ。

 

 そう思い、簪は整備室から退出するべく歩き出した。扉の位置関係上、どうしても鬼頭たちの側を通り抜けねばならないから、足音を立てぬよう、静かに歩を進めていく。

 

 鬼頭たちが作業する区画の前まで差し掛かった。簪の存在に気づき、二人が会釈してくる。簪は小さく「どうも」と、こちらも小さく会釈して、

 

 ――……え!?

 

 一瞬、視界に映じたディスプレイに表示されている情報を見てしまい、瞠目した。

 

 ――なに、あれ……?

 

 BTシステム管制用OS改良プラン。

 

 そう、銘打たれている。

 

 問題は、その中身だ。

 

 これは、

 

 このシステムは……!

 

 簪は、ぶるり、と思わず胴震いした。

 

 突然、立ち止まって茫然とした表情を浮かべる彼女の様子に、鬼頭は怪訝な表情を浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter16「青い約束」

 

 

 

 

「今日はひとまず、これくらいで切り上げよう」

 

 〈ブルー・ティアーズ〉のBTシステムの解析が一段落ついたとき、左手首のボーム&メルシェは、午後六時五十分を指していた。

 

 学生寮の食堂は、夜八時で閉まってしまう。これ以上、整備室で作業をしていると、夕食を食べ損なってしまいかねない。鬼頭の提案にセシリアも頷き、二人は整備室を後にした。その足で、学生寮の食堂へ向かう。

 

 今日は頭をすこぶる使った。体が糖を求めている、と担々麺とデザートのごま団子を注文しようとしたところ、

 

「お父様、陽子さんの目がないからって、糖質量の多いものは厳禁ですわよ」

 

「……セシリア、後生だ。見逃してくれい」

 

「ダメです。昨年の健康診断の結果は、私も陽子さんから聞きました。血糖値の数字がぎりぎりだったそうで」

 

「ぐぅっ。小うるさいのが増えた!」

 

 鬼頭は泣く泣く、炭水化物は担々麺のみにとどめた。

 

 夕食を終え、食後のコーヒーブレイクも済ませると、彼はセシリアと別れて自室の1122号室を目指した。時刻は八時二十分。新たに出現した厄介な監視の目をいかにやりすごして糖分を摂取するか、頭を悩ませながら歩を進む。やがて、1122号室の戸が見えてきたところで、

 

「っ……!」

 

「おっと!」

 

 T字路になっている曲がり角から急に飛び出してきた小柄なシルエットと、ぶつかってしまった。予期せぬ衝撃にバランスを崩しそうになるも、相手が華奢だったおかげで、尻餅をつくことだけは免れる。

 

 他方、ぶつかってきた少女はさすがに若いだけあって、運動神経と反射神経が素晴らしい。こちらはさほど動揺もなく、踏ん張ってみせた。

 

「わっ、あッ、その、ごめ……って、アンタは!?」

 

「いや、こちらこそ。そちらは、怪我は?」

 

 顔を見て、驚いた。ぶつかってきたのはあの凰鈴音だった。頬が紅潮し、目尻には涙の滴が浮かんでいる。

 

「きみは……」

 

 鬼頭は相手が自分に対し悪感情を持っているであろうことも忘れて、口を開いた。

 

「どうしたんだい? どこか、痛めてしまったかい?」

 

「べ、べつにそういうわけじゃ……」

 

「おーい、鈴!」

 

 そのとき、曲がり角の向こう側から、聞き慣れた声が響いてきた。一夏の声だ。察するに、彼女を追いかけきたらしい。

 

 一夏の声を耳にするや、鈴音は途端、慌て始めた。近づいてくる声と足音に対し、怯えたような眼差しを向ける。鬼頭は、ふむ、と頷いた。その場から走り出そうとする彼女の手首を、むんず、と掴む。

 

「えっ、な、何を……!?」

 

「こちらに」

 

 鬼頭は1122号室へと彼女を引っ張った。幸い、陽子は在室中らしく、ドアに鍵はかかっていない。タイムロスなく戸を開けると、室内に鈴音を押し込んだ。

 

「ちょっと待っていなさい」

 

 茫然とした眼差しで見つめてくる彼女に完爾と微笑みかけ、鬼頭はそっとドアを閉じた。

 

 ちょうどそのタイミングで、T字路から一夏が飛び出してきた。

 

 かぶりを振って左右見て、鬼頭の姿を認めて近づいてくる。

 

「智之さん、あの、鈴のやつを見ませんでした?」

 

「凰さんを?」

 

 鬼頭はかぶりを振った。

 

「いや、私は見ていないが……」

 

「くそっ。あいつ、どんだけ足速いんだよ」

 

 一夏はがっくり肩を落として溜め息をついた。どうやら彼女の部屋の番号を知らないらしく、それ以上の追跡は諦めた様子だ。

 

「凰さんと、何かあったのかい?」

 

 よくよく考えてみると、自分とぶつかる前から、彼女は泣いていたように思う。あの頬の紅潮ぶりは、ぶつかってどこかを痛めたから、では説明がつかない。

 

「えっと、その、実はさっきまで、俺と箒の部屋を、鈴が訪ねてきたんですけど、そのときに、俺があいつを怒らせてしまって」

 

「怒らせてしまった原因は? 差し支えがなければ、教えてもらえるかな?」

 

「ええと、小学校時代に、あいつとちょっとした約束をしたんですよ。それを俺が間違えて覚えていたみたいで、鈴にはそれがショックだったみたいで……」

 

「なるほど、それで謝ろうと思って追いかけていた、と」

 

「そうです」

 

「なるほど……」

 

 鬼頭は一夏の顔を、じぃっ、と見つめた。

 

 一見したところ、いまの彼は感情が先走りすぎているように思う。鈴音を怒らせてしまった。自分の無神経な言葉で、大切な友達の心を傷つけてしまった! そんな罪悪感に、行動のすべてを支配されているように見える。その気持ちはよく理解できるし、大切にしてほしいとも思うが、そのせいで、本当にやるべきことを忘れてしまっているように思える。

 

「それで、覚え間違いをしていた約束については、ちゃんと思い出せたのかい?」

 

「それは……」

 

 一夏は返答に窮してしまった。この反応を見て、鬼頭は険を帯びた口調で、重ねて問う。

 

「ちゃんと思い出せてはいない、そうだね?」

 

「はい」

 

「つまり、彼女が何に対してショックを受けたのか、どうして怒りという反応が起こったのか、ちゃんとは理解していないわけだ?」

 

「うっ……その、はい」

 

「それなら、いまは時間を置くべきかもしれないな」

 

 鬼頭は小さく溜め息をついた。

 

「怒りの原因についてちゃんと理解していないのに、謝ったりなんてしたら、かえって話をややこしくしかねない。自分のせいで相手が傷ついてしまった。原因は分からないが、とにかく謝ろう! ……そういう心理状態から生まれる謝罪の言葉は、軽いよ」

 

「でも、俺があいつを傷つけてしまったことに、変わりないですし。せめて、そのことだけでも謝らないと!」

 

「その気持ちは素晴らしいと思うがね」

 

 鬼頭は完爾と微笑んだ。少年の左肩に、そっと右手を乗せる。

 

「いま、きみが凰さんのためにやるべきことは三つあると思う。一つは、覚え間違いをしていたという約束について、しっかりと思い出すことだ。いまは凰さんを怒らせてしまったことに対する罪悪感で、頭の中がいっぱいだろう。そんなカッカした頭では、冷静な判断は下せない。一旦、頭を冷やしてから、ちゃんと考えてみるといい。

 

 二つ目は、凰さんを怒らせてしまった原因は、本当に約束の覚え間違いなのか、改めて考えてみることだ」

 

「ええと、それは、どういう?」

 

「怒りの原因について、約束以外の可能性も考えておきなさい、ということだよ。こちらは約束が原因だと思っている。向こうの認識は違う、ではどんなに誠意のこもった謝罪も、相手の心には届かない」

 

「な、なるほど」

 

「もしかすると、織斑君が覚えていたという、約束の内容自体は間違っていなかったのかもしれない。でも、その解釈が、きみと、凰さんとでは違っていたとしたら? そういうことも、考えておくべきだろうね。

 

 そして三つ目。約束について、ちゃんと思い出せなかった。他の原因についても、まったく見当がつかない。それでも、謝りたい。そうなったときのための謝り方を、しっかりと考えておくことだ。相手のことを想ってちゃんと考え抜かれた謝罪の言葉というのは、気持ちが伝わるものだよ。

 

 ……人間関係においては、とにかく感情を優先した、思いつきの行動は厳に慎むべきだ。まずはよく考えてみることだね」

 

 どの口が言うのか、と内心ひっそりと自嘲する。実際、己ほどこの言葉が似合う男も珍しいだろう。つい最近も、セシリアとの試合で陽子が墜落していくのを見て、感情を暴走させてしまった。一刻も早く彼女のもとへ駆けつけねば、とピットゲートの扉を壊し、千冬や真耶たちに多大な迷惑をかけてしまった。

 

 とはいえ、自分がそうでないからといって、若い一夏に対し、言うべきことを言わないのは大人として問題だ。

 

「これは、履歴書にバツが一個ついているオジサンからの、人生についてのアドバイスだよ」

 

 諧謔めいた言葉で締めくくるも、一夏は苦笑さえしてくれなかった。自分の言葉について、真剣な表情で考えてくれている。

 

「……分かりました。今日のところは、一度、部屋に戻ります」

 

「ただ、先ほども言ったが、すぐに謝りたい、と思って行動を起こしたことは、とても素敵なことだと思う。私も、もし、彼女のことを見かけたら、織斑君が謝りたがっていたよ、とは伝えておこう」

 

 鬼頭が言うと、一夏の表情が、ぱあっ、と明るくなった。「お願いします」と、深々と腰を折る。剣道をやっていただけあって、こういう礼儀作法についての所作は堂に入っている。眺めていて気持ちがいい。

 

 一夏がその場から離れていくのを見送った後、鬼頭は、そうっ、とドアを開いた。

 

 案の定、ドアにへばりついて耳をすませていたらしい鈴音が、前につんのめりそうになりながら出てくる。

 

「わっ、と、ととっ……!」

 

「IS学園のドアや壁は分厚い」

 

 カネをかけているだけあって、その遮音性は素晴らしい。静寂性のみでいえば、室内環境はちょっとしたオーディオルーム並みだ。

 

「頑張っていたみたいだが、聞こえなかっただろう? 大丈夫、彼と何を話していたか、ちゃんと教えるさ」

 

 言いながら、鬼頭は彼女の目元を見た。涙こそ拭い去られていたが、いまだ赤く腫れている。こんな顔のまま放置するのもはばかられる。

 

「きみさえ嫌じゃなければ、少し、私の部屋で休んでいきなさい」

 

「あ、その……ありがとう、ございます」

 

 ぼそぼそ、と小さな声によるお礼。助けてくれたことは感謝しているし、一夏との会話の内容についても知りたい。しかし、自分に対する悪感情から、素直には口に出来ない、といったところか。

 

 やはり若者は難しいなあ、と鬼頭は苦笑し、

 

「……お父様」

 

 部屋の奥からやって来た陽子の顔を見て、彼の表情は硬化した。

 

 愛娘は、すでに化粧を落として、すっぴんの顔をさらしていた。口角がひくついている。かたわらの鈴は、気遣いからか、なるべくそちらに目線を向けないようにしている。

 

「またですか?」

 

「あの、その、ええと……ご、ごめんなさい」

 

 一度ならず、二度までも。他人に素顔をさらさせられた陽子の怒りの眼光が、鬼頭の心臓を射抜いた。

 

 

 

「何か飲むかい?」

 

 悄然とする鈴音を自身の学習机とセットの椅子に座らせた鬼頭は、キッチンから彼女に問いかけた。

 

 以前、セシリアがこの部屋を訪ねた際、もてなしにアイスティーを出したところ、なぜか不評だった。以来、また彼女が訪ねてきてもいいように、と、いまや1122号室のキッチン戸棚や冷蔵庫には、紅茶やコーヒーなど大抵の物が揃っている。

 

「えっと、特には、いいです」

 

 鈴音は、ふるふる、とかぶりを振った。一夏と接していたときと比べて、その態度は借りてきた猫のように大人しい。

 

 鈴音の返答に鬼頭は、ふむ、と少し考え込んだ後、やがて完爾と微笑んだ。

 

「私はいま、紅茶を飲みたい気分でね」

 

 言いながら、水をたっぷり注いだ薬缶をコンロにかけた。湯を沸かす間に、ポットとカップを食器棚から用意する。

 

「ポットの大きさ的に、湯を三杯分くらい注ぐと、中で茶葉がほどよく踊って、良い感じの味が出るんだ。付き合ってもらえると助かるよ」

 

「……そういう、ことなら」

 

 我ながらずるい駆け引きだなあ、と苦笑する。

 

 湯が沸いて、まずはカップとポットに注ぎ、器を十分、温めたところで湯を捨てた。その後、ポットに茶葉を四杯分投じて、改めて湯を注いだ。茶葉の分量は、先日、英国出身のセシリアから教えられたゴールデンルールに則ったやり方だ。なんでも、人数プラス一杯分多く入れるのがコツなんだとか。試しにやってみて、美味かったので、以来、鬼頭もそうしている。

 

「角砂糖は何個がいい?」

 

「えっと、二個でお願いします」

 

「わたしも二個で。あ、お父さんは一個までね」

 

「……ちっ。了解」

 

 おたまの上に、角砂糖を五個載せた。キッチン戸棚からレミーマルタンを取り出し、ほんの少し、角砂糖に垂らす。コンロの火をつけて、おたまをあぶった。コニャックのアルコール分を飛ばす。

 

「おい、そこの不良学生。寮にお酒を持ち込むんじゃないよ」

 

 キッチンにやって来て作業を眺める陽子が唇をとがらせた。鈴音の位置からは見えない角度で、急いで最低限の化粧を施している。過日、セシリアを接待したときと同様、ホッケーマスクを持ち出そうとしたのを、鬼頭がやんわりと制止したのだった。

 

 愛娘からの厳しい指摘に対し、「織斑先生たちには内緒で頼むよ」と、応じながら、鬼頭はカップに紅茶を注ぎ、角砂糖を落とした。ブランデーは気付けの薬にも使われていた酒だ。これでいくらかでも、気分が落ち着いてくれればよいが。

 

 ソーサーに載せた状態で、カップを鈴音のもとへ差し出した。彼女はおずおずと手をのばし、紅茶で満たされたカップをつまむと、唇に寄せ、傾けた。こくり、と喉が動いたのを見届けて、自身のベッドに腰かけた鬼頭は、自らも紅茶を口に含んだ。舌の上で、フルーティな味わいが転がる。

 

 紅茶を飲む鈴音に目線を向けた。味はどうだい、などと答えづらい質問は口にしない。代わりに、「そろそろ、話しても?」と、訊ねた。

 

 鈴音はカップをソーサーの上に置き、さらに両の拳を膝の上に置いたしゃっちょこばった姿勢で、強張った表情を頷かせた。

 

「まず、織斑君と何を話したのかだが……」

 

 鬼頭は先ほどの一夏との会話の内容をかいつまんで伝えた。勿論、一夏がいまだ約束についてちゃんとは思い出せていないことなど、彼の不利益になりそうな情報は取捨選択した上で、言葉を選ぶ。

 

「……そういうわけで、謝りたがっていたよ。大切な幼馴染みのきみを傷つけてしまったことを、心から後悔している様子だった」

 

「そう、ですか」

 

 鈴音はうつむきながら、自分の口にした内容について、なにやら考え込んでいる様子だ。

 

「あの……」

 

「うん?」

 

「年長者の意見を、おうかがいしたいんですけど……」

 

「うん」

 

 鬼頭が頷くと、しかし、鈴音はしばらくの間、口を閉ざしてしまった。自分から言い出したにも拘らず、とは思わない。先ほどの一夏もそうだったが、この年頃の若者というのは、理性よりも感情が優先しがちだ。自分にも、覚えがある。

 

 鬼頭は最初の首肯以外に、彼女の言葉を促すようなアクションは起こさず、相手が口を開くまで、じっと待ち続けた。

 

 やがて考えがまとまったか、鈴音はゆっくりと言の葉を紡いでいった。

 

「もしも、鬼頭さんが女の人から、これから毎日酢豚を作ってあげる、と言われたら、どういう意味だと思いますか?」

 

「プロポーズの定型文の一つだね。日本流でいうのなら、味噌汁を作ってあげる、といったところか」

 

 鬼頭は紅茶をひとすすりしてから頷いた。なるほど、一夏が覚え間違えていた約束の内容とはそれか。しかし、なんとも古式ゆかしい愛の言葉だ。四十代の自分たちでさえ、実際に使ったことはない。

 

「きみのように若いお嬢さんからそんな言葉を聞くとは、思わなかったが」

 

「ええと、父さん、どういう意味?」

 

 化粧を終えてキッチンからやって来た陽子が訊ねた。

 

 そうだよなあ、いまの若い子の場合、分からない方が当然だよなあ、と、鬼頭は内心呟きながら、同性の陽子が口にした言葉に愕然としている鈴音を見ながら口を開く。

 

「たしかに、いまの若い子たちにはわかりにくいかもしれないな。昔――といっても、昭和の頃の価値観だが――、日本の朝食といえば、炊きたてのご飯に熱々の味噌汁というのが定番だった。そんな毎朝の味噌汁を作ってくれ、というのは、二アイコール、僕と一緒に暮らしてください、結婚してください、と同義語だったんだ」

 

「なるほど。……ええと、それで、なんで酢豚に?」

 

 陽子は訝しげな表情を浮かべながら、今度は鈴音を見た。彼女たち二人は今日の昼食を一夏らと一緒に摂り、その際に互いに自己紹介をしている。

 

「あ、あたしなりのアレンジってやつよ。その……、そのまんま伝えるのは、さすがに恥ずかしかったし」

 

「はあ、伝える……」

 

 今朝、一年一組の教室にやって来たときや、昼食時の様子を思い出す。およそ一年ぶりに再会した幼馴染みと、久闊を叙したい気持ちは勿論あっただろう。しかし、それにしたって、一夏に対し懐きすぎのような……。ひょっとして、目の前の少女は、

 

「……もしかして、織斑君と昔、交わした約束ってそれ?」

 

「う、うん」

 

「ははあ、なるほど」

 

 恥ずかしそうに頷く鈴音を見て、陽子は得心した様子で頷いた。ようやく、一夏とも彼女とも言葉を交わしていない自分にも、状況が見えてきた。そうか。目の前の少女もまた、彼に対し恋慕の情を抱いているのか。

 

「ええと、つまり、こういうこと? 織斑君と凰さんは小学生のときに約束をした。内容は、凰さんが織斑君に対して、毎日酢豚を作ってあげる、っていうプロポーズの言葉。その当時、織斑君がそのことに気づいていたかどうかは分からないけど、一応、彼も了承した。

 

 で、ついさっき、織斑君が約束をちゃんと覚えているかどうか確認した。そしたら、覚え間違いをしていた。それで、悲しくなって、彼に対して攻撃的な態度を取ってしまった上、彼の前からも逃げ出してしまった、と」

 

「……あんた、すごいわね」

 

 紅茶を一口すすった後、鈴は感心した様子で呟いた。落涙を禁じえぬほどの感情の昂ぶりは去っていった様子だが、表情はまだ暗い。

 

「まるで、その場にいたみたい」

 

「これでも、父さんの娘なので」

 

 陽子はちょっと誇らしげに言うと、「っていうことは、やっぱり?」と、話の続きを促す。

 

「まあ、大体、あんたの想像通りの感じよ。あたしね、小学生のときに、一夏に言ってやったの」

 

 話しているうちに怒りがぶり返してきたか、鈴音の語調は次第に荒々しくなっていった。

 

「料理の腕が上達したら、毎日、酢豚を食べさせてあげる、って。それで一年ぶりに再会して、ドキドキしながら約束を覚えているか、って確認したら、あいつ、何て言ったと思う? 『酢豚を奢ってくれるんだったよな?』よ。奢るって何よ、奢るって!」

 

「うわ、それは……」

 

「織斑君……」

 

 鬼頭親子は顔を見合わせた。なにしろ子どもの頃に交わした約束だ。詳しい内容について、記憶違いが生じたとしても無理からぬことだが、それにしたって、この間違い方は酷い。

 

 一夏の言によれば、鈴が彼の通う小学校にやって来たのは、小学五年生のときのことだという。とすれば、二人が約束を交わしたのは、小五か、小学六年生のときということになる。それくらいの年齢の少女にとって、告白とは相当な勇気を要する行為だったはずだ。そんな幼き日の勇気を、かくのごとく扱われたとなれば、鈴音が怒るのも当然だろう。

 

「たしかに、それは酷いね。……でもさ」

 

 とはいえ、一夏ばかりが一方的に悪いとも、陽子には思えなかった。

 

「今回のことに関しては、凰さんにも、悪いところがあると思うんだけど」

 

「あたしにも?」

 

「うん。まず、酢豚を作ってあげる、ってプロポーズだけど、……正直、わかりにくい」

 

 父が口にした味噌汁のたとえでさえピンのこなかったのだ。酢豚云々言われても、何のことやらさっぱり。

 

 ましてや、一夏は当時小学生だ。自分と同じで、彼女の言葉がプロポーズだとは思いもせず、ために、奢る、なんて解釈が生まれてしまった。そしてそれが、そのまま記憶として定着してしまった。そんなところではないか、と陽子は推理した。

 

「わたしはいまのところ、誰か男の子を好きになるって経験がないから、あんま大きなことは言えないけどさ。そういう愛の告白って、好きです、って気持ちが相手に伝わらないと、意味ないわけじゃん。変にアレンジしたり、そもそも味噌汁定型文なんて使わずに、もっと分かりやすい言葉で伝えるべきだったと思う」

 

「だ、だからそれは……!」

 

「うん。恥ずかしかったから、って気持ちも分かるよ。告白って、勇気のいることだと思うもん。でもさ、そのせいで変な誤解を招いたんだとしたら、凰さんにとっても、織斑君にとっても、不幸なことだよ」

 

 好きという気持ちが伝わっていないばかりか、子どもの頃の約束を変なふうにとらえられている鈴音は勿論、今回の件における最大の被害者だろう。しかし、一夏の方もまた被害者といえる。彼の立場からすれば、仲の良かった幼馴染みの少女と久しぶりに再会し、嬉しい気持ちで胸がいっぱいのところ、突然、その彼女から理不尽に怒鳴られ、泣かれてしまった状態なのだ。

 

 一夏の視点から今回のことを改めて考えてみて、鈴音は顔を青くした。そんな彼女を見て胸を痛くしながらも、陽子は努めて平坦な口調で続ける。

 

「あともう一つ。織斑君が記憶違いを起こしていると知ったとき、なんで、約束の内容について訂正したり、改めて気持ちを伝えなかったの?」

 

 二人が約束を交わしたのは、最低でも四年は昔の出来事だ。今更、そのときの言葉を撤回することは出来ない。しかし、改めて想いを伝えることは可能だったはずだ。彼女はなぜ、それをしなかったのか。

 

「子どもの頃の約束を間違って覚えられていた。すごくショックなことだと思うよ。幼い日に振り絞った勇気を、踏みにじられたようなものだもの。悲しくて、悔しくて、腹立たしくて、つい暴言を浴びせてしまったり、ひっぱたいてしまったりするのも、よく分かる。じゃあさ、それならそれで、さっきは叩いてしまってごめん、酷い言葉をぶつけてしまってごめん、と謝った上でさ、改めて、気持ちを伝えればよかったじゃない。織斑君の記憶は間違っている。本当はこういう約束だった。そしてわたしは、いまもあなたのことを想っています、って伝えればよかったじゃない」

 

 自分と一夏との付き合いは短く、そして浅い。彼の為人については、知っていることの方が少ないが、それでも、彼が人の気持ちをないがしろに扱って悦に浸るような人格の持ち主ではない、ということだけは、はっきり断言出来る。気持ちを素直に伝えれば、少なくとも無碍には扱わないはずだ。彼女の気持ちと、自分の気持ち。その両方をよく考えた上で、何らかの結論を出してくれる、出そうとしてくれるはずだ。それを、なぜしなかったのか。

 

「織斑君も悪いけど、凰さんにも悪いところがあった。わたしはそう思うよ」

 

「何も知らないやつが、好き勝手に……!」

 

「うん。そうだね。わたしは織斑君と凰さんについて、何も知らない」

 

 怒気を孕んだ眼差しを、陽子は真っ向受け止める。彼女は毅然とした口調で応じた。

 

「二人がどんなふうに出会って、どんなふうに一緒の時間を過ごしたのか。凰さんはどうして織斑君を好きになったのか。何も知らない。だから、客観的に物事を語れる。事情を知らないからこそ、こうやって好き放題、口に出来る」

 

 一夏と、鈴音。二人のことをよく知らないからこそ、どちらの側にも肩入れすることなく、事態を客観視し、語ることが出来る。

 

「父さんは織斑君に、よく考えてから謝るように、って言ったみたいだけど。凰さんも、一旦、頭を冷やして、気持ちを伝えるにはどうすればいいか考えた上で、改めて彼と話してみたら? 怒鳴ってしまったことや、叩いてしまったことをちゃんと謝って、その上で、今度こそ、ちゃんと自分の言葉で、告白しちゃいなよ」

 

「で、でも、それでもし、断られたりしたら……」

 

 不安がる彼女に、陽子は優しく微笑みかけた。

 

「そのときは、わたしごときのこんな真っ平らな胸でよければ、貸しましょう。思う存分、泣き叫んでくださいな」

 

 ここまで深く事情を知ってしまった上に、アドバイスに近い発言までしてしまったのだ。それくらいのことはしてやらねば、と陽子は自らの胸元を叩いてみせた。

 

 鈴音は陽子の顔をじっと見据えた。デスクの上のカップに手をのばし、たっぷり一口、飲み込む。紅茶はすでにぬるくなっていたが、唇を湿らせたいだけだったから、飲みやすくて、かえってよかった。

 

「あんたさ」

 

「うん」

 

「昼休みのときに、自己紹介していたけど、もう一度、名前、聞かせてよ」

 

「鬼頭陽子だよ。お日様の子どもって書いて、陽子」

 

「陽子って呼んでいい?」

 

「うん」

 

「あたしのことは、鈴って呼んで」

 

「わかった」

 

「ねえ、陽子」

 

「うん」

 

「あんたの言ったこと、考えてみるわ。もう一度、一夏と話してみる」

 

 カップをソーサーの上に静かに置いて、鈴音は鬼頭を見た。

 

「紅茶、ごちそうさまでした。美味しかったです」

 

「そいつはよかった」

 

「最後に」

 

「うん?」

 

「一つ、お伺いしてもいいですか? これまでの話とは、まったく関係のないことなんですけど」

 

「私に答えられることならば」

 

 ベッドに腰かける鬼頭は姿勢を正した。

 

 対する鈴は、舌先で言葉を選びながら、慎重に口を開いていった。

 

「その、週刊ゲンダイの例の記事を読みました。鬼頭さんは奥さんと離婚しているとか」

 

「その通りだよ。しかし……」

 

「ああ、誤解しないでください。離婚の原因はDV云々のくだりは、あたし、端っから信用していないので。そもそも、あたし、お二人が離婚した原因とか、まったく興味ないですし」

 

 反論しようとする鬼頭の言葉を遮って、鈴は彼の顔を睨んだ。言葉の端々から、そしてなにより、面差しから感じられる凄絶な憤怒の感情に、鬼頭は表情を硬化させる。

 

「あたしが知りたいのは、陽子のことです」

 

「わたし?」

 

「それは……どういう?」

 

「お互い好きだったから、結婚した」

 

「うん?」

 

「そして、嫌いになったから離婚した。そんな大人の勝手に、子どもを巻き込んだことを、どう思っているんですか? 大人の都合に振り回される、子どもの気持ちを考えたことがあるんですか!?」

 

「……っ!」

 

 急速に、口の中が干上がっていくのを自覚した。

 

 言葉のナイフに、心臓を、真っ直ぐ貫かれたと感じた。

 

 鬼頭は眦が裂けんばかりに、鈴の顔を見つめる。その目線は、なんとしたことか、怯えていた。

 

「わ、私は……」

 

 口を開いてみるも、言葉が、まったく思いつかない。

 

 心が、そのことについて深く考えようとするのを、拒んでいた。

 

 脳への血流量が一気に低下し、目眩となって、鬼頭を襲う。

 

 まるで見えない手に後ろから突き飛ばされたかのように、鬼頭はベッドに腰かけたまま、前へと倒れそうになった。なんとか床を踏みしめて、こらえる。

 

 頭の中で、陽子の顔と、晶子の顔、そして智也の幼い笑顔が、浮かんでは消えていた。耳の奥で、鈴の質問が何度もリフレインし、彼に吐き気を催させた。

 

「……うっ、ぐぅ……っ」

 

 鬼頭は咄嗟に口元を押さえた。指の隙間から、くぐもった呻き声が漏れ出てしまう。声にならない、悲鳴だった。かたわらに立つ陽子が、父の異変に驚きながら、その背中を撫でさする。

 

「……答えられないんですね」

 

 そんな彼の醜態を、鈴は椅子から立ち上がり、冷然と見下ろした。

 

 額に大粒の脂汗を噴出させながら、鬼頭は顔を上げて、彼女を見た。

 

 真一文字に結ばれた唇の奥で、歯が、カチカチ、と震え、鳴いている。

 

「あたし、鬼頭さんみたいな大人の人、大嫌いです」

 

 怒れる語調で言い放ち、鈴は鬼頭親子の部屋を後にした。

 

 彼女が出ていった扉を見つめながら、鬼頭は、

 

「……なあ、陽子」

 

「うん」

 

「父さんは、彼女について、勘違いをしていたらしい」

 

「うん。わたしも」

 

 震える父の背中をさすりながら、陽子は溜め息をついた。

 

「鈴が父さんのことを良く思っていないだろう、ってことは、わたしも気づいていたよ。でも、その原因は、週刊ゲンダイの例の記事だと思っていた」

 

「父さんもだ」

 

「でも、違った」

 

「ああ」

 

 ようやく、まともに頭が働き始めた。鬼頭は愛娘の慈愛の手を制止して、再び姿勢を正す。

 

「週刊ゲンダイの記事は、たぶん、きっかけにすぎない。彼女はもっと別な理由から、私のことを嫌っているんだ」

 

 大人の都合に振り回される、子どもの気持ちを考えたことがあるのか。彼女はたしかに、そう言った。

 

 勿論ある。いやむしろ、晶子と離婚してからというもの、そのことを考えなかった日はない。

 

「……智也」

 

 いまは亡き息子の名を呟く声には、自然と、嗚咽が混じってしまう。

 

 自分と、晶子と、そしてあの男。

 

 大人たちの都合に振り回された挙げ句、失われてしまった命のことを思い、鬼頭は、奥歯を強く噛みしめた。

 

 

 

 

 翌日、生徒玄関前廊下に一枚の紙が大きく張り出された。

 

 表題は、クラス対抗戦日程表。

 

 第一回戦の対戦カードは、一年一組・織斑一夏 対 一年二組・凰鈴音 だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter16「青い約束」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 石川県金沢市。

 

 日本海に面するこの街の夜は、太平洋側の都市と比べて、往々にして暗い。その夜もまた、分厚い雲の天蓋に覆われた市内は暗く、スイートルームの大きな窓から見下ろせる煌びやかな夜景も、どこか活気が薄いように思えた。

 

 加藤耕作は金沢ニューグランドホテルのスイートルームにいた。

 

 ホテルに泊まるなんて経験は、会社が倒産して以来、久しぶりのことだ。週刊ゲンダイ編集部より追加報酬として振り込まれた金額はかなりの額で、こうした贅沢に費やしてもまだ使い切れぬほどだった。古沢貫一編集長曰く、自分の提供した情報を基に執筆した例の記事が掲載された号の週刊ゲンダイは、この出版不況の時代にも拘らず、飛ぶように売れたという。「鬼頭智之について、第二、第三の特集を考えています。また、よろしくお願いしますよ」と、貴重な情報源を手放したくない思いから振り込まれた追加の報酬を、加藤は湯水のごとく使っていた。久しぶりに大金を手にしたことで、彼はすっかり、自制心を失っていた。

 

 スイートルームを手配した加藤は、そこに女を呼んだ。出会い系サイトを利用して知り合った相手だ。割り切った関係を希望する彼女に、加藤は前金で三万円を払った。

 

「後ろを向け」

 

 加藤の求めに応じて、女はうつ伏せになった。彼女は最初のうちは彼の要請に従順に従っていたが、すぐに激しい抵抗を示し始めた。加藤が、尻の穴に入れようとしたためだ。

 

 「くそっ」と、加藤は吠えた。

 

「前金で、三万も払ったんだぞ」

 

「それをやるなら、あと三万はちょうだいよ」

 

 女の素っ気ない返答に、加藤は渋々頷いた。彼はまた女の背中にのしかかろうとしたが、女もまたもがき逃れた。

 

「三万を、いま渡して」

 

 加藤は女の態度を罵りながら、ベッドを下りた。クローゼットの中の鞄から財布を探し、一万円札を三枚抜く。

 

 女は尻を上げてうつ伏せになった。左手を開く。その手に、彼は万札を握らせた。女は、最初の三万円に対しそうしたように、一枚々々、丁寧に調べた。

 

「いいよ。やって」

 

 加藤は、今度こそは、と女の上に乗りかかった。彼の腰遣いは荒々しかったが、長くは続かなかった。彼の女の扱い方には、ひとかけらの優しさも見出せなかった。己ひとり、満足すると、呻き声とともに、体を離した。女の体が、するり、と逃げていく。

 

 女は素早く衣服とハンドバッグをつかみ、バスルームへ姿を消した。五分後にすっかり服を着込んで出てくると、彼女は加藤を見向きもせず、真っ直ぐラウンジを抜けて廊下へと出て行った。後ろ手で締められたドアが、ガタン、と苛立たしげな音を立てる。

 

「ちっ、大した女でもないくせに」

 

 加藤はベッドの上から女が姿を消したドアをしばらく見つめた後、忌々しげに言い捨てた。それから、バルコニーの方を振り返って、表情を凍りつかせた。栗色のカーテンが押し開けられ、そこに、六尺豊かな大男が立っていた。

 

 加藤は室内を明るくした状態でセックスをするのが好きだった。彼はすぐに男が何者なのかを見分けた。黒いスラックスに、黒長袖のポロシャツ。顔の造作は精悍だが、仁王のように厳めしい。男は茫然とする加藤のもとに歩み寄り、にこり、と微笑んだが、その目は笑っていなかった。お手本のような、アルカイック・スマイルだ。

 

「やあ、加藤さん」

 

 ベッドの上の加藤を、男は冷然と見下ろした。

 

「その様子だと、俺のことは、覚えていてくれたみたいだな。いやあ、嬉しいなあ。俺とあんたは、あいつの結婚式のときにたった一度、顔を合わせただけという間柄にすぎないというのに……。こっちはあんたのことを、あの週刊ゲンダイの例の記事を読むまで、すっかり忘れていたよ」

 

 加藤はたっぷり一分もの間、ベッドの上ですくみ上がっていた。やがて、そろそろと起き上がり、半分ほど上体を起こした。

 

「そういえば、これも思い出した。あんた、たしか俺と鬼頭から、カネを借りていたよな? たしか、太陽電池を製造する事業を興したいから、とか言って、出資者を募っていた。鬼頭から五百万を借りていたが、あのカネの一部はね、実は俺のお金でもあったんだよ。その後、あんたの会社は倒産し、あんたは行方をくらませた。俺と鬼頭が、借金の取り立てをする間もなくね。ちょうど良い機会だから。あのとき貸したカネの……そうだな、全額とは言わないから、利息分だけでも、返してもらおうか?」

 

「な、なんで、ここが……どうやって、俺の居場所を……!?」

 

「愚問だね、加藤さん」

 

 男は右手の人差し指を立てると、米神のあたりを軽く叩いてみせた。

 

「これでも、MITを次席で卒業した男だよ、俺は。普通の人よりも、頭のスペックが、ちょいと優れているんだ。本気を出せば、あんた一人見つけることぐらい、わけないさ。それで、用件なんだが……」

 

 男はブリーフケースのロックを開けると、金属製の輪っかを二つ、鎖でつないだ道具を取り出した。手錠だ。

 

「例の、週刊ゲンダイの記事にも書かれていた、情報提供者についてなんだが……」

 

「き、鬼頭のことについては、謝るよ!」

 

 加藤はベッドの上で頭を下げた。

 

「あいつの親友であるあんたが怒るのも、無理ないよ。あの内容は俺も、いくらなんでも酷い、って思っていたんだ。週刊ゲンダイに情報を提供したのは俺だって、名乗り出る。あの記事の内容のうち、ほとんどがデタラメの捏造記事だってことも、証言する。だから、その、許してくれ……!」

 

「……加藤さん、あんた、何か勘違いしていないかい?」

 

 黒いポロシャツの男は、呆れた様子で溜め息をついた。

 

「あの週刊ゲンダイに掲載された捏造記事については、たしかに俺も怒っているよ。けれど、捏造云々や、身の潔白の証明云々なんてのは、鬼頭のことだ。そのうち自分で、なんとかするだろうさ。俺がここに来たのはね、あいつの性格上、あいつには出来ないことをやってやるためなんだよ」

 

 ポロシャツの男は加藤の目の前で拳骨を作って見せた。手首の血管が、りゅう、と盛り上がり、巌のような鉄拳が、彼の心を静かに威圧する。

 

「あいつは、根っこの部分が、善人だからな。どんなに憎い相手でも、こういう手段は取れないからな」

 

 加藤は、悲鳴を上げながら男に飛びかかった。

 

 男の右手から、閃光が放たれる。

 

 右フックが頬骨をへし折ると同時に、六五キログラムの肉の塊を、宙へと弾き飛ばした。加藤の体は、玩具の人形のようにくるくると回りながら、数メートル離れたクローゼットの角に頭をぶつけてしまった。加藤はしばらくの間呻き、もがいていたが、やがて骨折の痛みから、失神してしまった。

 

 黒ポロシャツの男は無言で彼の側に歩み寄った。左手にのみ手錠をかけると、今度はブリーフケースからガムテープを取り出し、口と、目を塞いだ。そうしてから、彼は全裸の加藤を軽々と担ぎ上げた。左肩で背負い、右手でブリーフケースをつかむ。カーテンの揺れている、バルコニーへ向かった。

 

 スイートルームは、地上六階に位置している。

 

 バルコニーのへりから眼下をのぞくと、暗い夜の闇によって、地上までの距離は、実際の高さよりも遠くに感じられた。

 

 男は一切の躊躇なく手すりに足をかけ、加藤と、ブリーフケースを持ったまま、飛び降りた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ちなみに鬼頭たちは鈴が女尊男卑のいまの世の中を心地よく思っていることを知りません。

そして鈴は、世の中が女尊男卑である方が好ましいとする大人たちの都合に振り回された結果、とある家族が不幸をしょいこむことになった経緯を知りません。




あ、そうだ(唐突)。

オリキャラがたくさん登場する本作品、そろそろ、簡単な登場人物一覧を載せようかと思うのですが、ああいうのって、いちばん頭にもってくるべきなんですかね?

それとも、”その時点における最新の情報”という意味で、最新話の次とか、そのあたり置くべきなんでしょうか?

上手いアイディアがあったら、教えてほしいです(露骨な感想・メッセージ乞食行為)。

お読みいただき、ありがとうございました。



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