この小さな世界で愛を語ろう   作:3号機

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一夏、本作初の主人公ムーヴ……?






Chapter17「大切な人」

 

 

 

 

 

 二〇一〇年の八月二十日は、鬼頭智之にとって、人生の転機と評せる出来事のあった日だった。

 

 その日の午後一時、会社で働く鬼頭のもとに、一本の電話がかかってきた。

 

 妻が入院している病院からで、電話口に立つ看護師曰く、晶子が産気づいたという。

 

 それを聞き、鬼頭は顔面蒼白となった。掌の携帯電話をあやうく取り落としそうになってしまうのをなんとかこらえ、ぶるぶる、と震える唇で、必死に、声を絞り出す。

 

「い、いますぐ、そちらに向かいます」

 

 通話を切った彼は、当時の上司である工作機械部の部長の顔を見た。

 

 電話がかかってきたのは、現在開発中の工作用ロボットアームについて、保守部品の調達コストをもっと安くできないか、会議をしている最中のことだった。上座に座る部長は、鬼頭の突然の変貌ぶりに驚きながら、「どうしました、鬼頭さん?」と、訊ねた。

 

「部長、会議を中断させてしまい、申し訳ありません。いま、病院から連絡がありまして、妻が、産気づいたらしいんです」

 

「それはたいへんだ!」

 

 部長は思わず腰を浮かせた。

 

「すぐ、病院に向かいなさい。奥様のもとへ、急いで」

 

「ありがとうございます」

 

 鬼頭はただちに荷物をまとめ始めた。今日の会議のために作ってきた資料や、明日までに仕上げねばならない報告書の草稿など、手当たり次第にわしづかみ、鞄の中へ突っ込んでいく。

 

「おい、鬼頭」

 

 同じく会議に出席していた桜坂が、動転した様子の親友に声をかけた。

 

「お前、そんな精神状態で病院まで運転するつもりか?」

 

 当時、鬼頭はマイカー通勤者だった。

 

 桜坂の目に、いまの親友の姿は危ういと映じていた。晶子のもとに一刻も早く駆けつけたい思いから、危険な運転行為に走りかねない。

 

「タクシーを呼べ、タクシーを」

 

「あ、ああ、そうだな。……すまない。すっかり失念していた」

 

「おいおい、しっかりしてくれや!」

 

 桜坂は鬼頭の肩を引き寄せると、その背中を軽く叩いた。

 

「お前はこれから、父親になるんだからよ。うっかり交通事故でぽっくり逝くなんて、子どもためにも、やめてくれよ。……父親のいないさみしさを、子どもに、味あわせてやるな」

 

 自身、両親を交通事故で失っている桜坂は、完爾と微笑みながら言った。衝撃とともに、掌から伝わってくるこの男の優しさに、鬼頭はようやく落ち着きを取り戻す。

 

「あ、ああ……。そう、だな。その通りだ、桜坂。ありがとう」

 

「まずは落ち着いて、荷物をまとめろよ。タクシーは、俺が呼んでおくから」

 

 黒塗りのクラウン・マジェスタがアローズ製作所本社ビルの駐車場に到着したのは、桜坂が配車サービスを依頼する電話をかけてから、十五分後のことだった。やって来たタクシーに勢いよく飛び乗ると、鬼頭は運転手に、妻の待つ病院へ急ぐようお願いした。病院までの道は、まるで彼の到着を拒むかのように混雑していた。携帯電話で情報収集をしたところ、なんでも、乗用車三台がもみ合いになるほどの事故が起こったらしい。ええいっ、こんなときに、と鬼頭は焦った。早く、一刻も早く、妻のかたわらで寄り添ってやりたいのに……!

 

「お客さん、ちょっと落ち着いて」

 

 後部座席で苛立ちから膝を揺らしている鬼頭の様子を見かねて、壮年の運転手が声をかけてきた。

 

 鬼頭は顔を上げると、バックミラー越しに、運転手の顔を睨んだ。

 

 人の気も知らないで、と返す語調は荒々しい。

 

「しかし……!」

 

「子どもが生まれるっていうんでしょう? タクシーの依頼をした桜坂っていう方から、事情は聞いていますよ。おめでとうございます」

 

 対して、運転手の声は喜色から弾んでいた。

 

「早く奥さんのそばへ駆けつけたい。駆けつけて、懸命に戦っている奥さんを励ましたい、っていうその気持ち、分かりますよ。……でもね、だからこそ、旦那さんのあなたが落ち着かないと。そんな不安そうな顔を見せられたら、奥さんも不安になってしまいます。出産どころじゃなくなってしまうかもしれません」

 

 運転手の言葉に、鬼頭は返す言葉を見失う。この人の言う通りだ、いまは落ち着くべきだ、と瞑目し、深呼吸を一つ。再び瞼を開けたとき、膝の震えは止まっていた。

 

 およそ一時間後、病院へとやって来た鬼頭を最初に出迎えたのは、母の清香だった。鬼頭との通話後、妻の危急を知らせてくれた看護師は、今度は彼の実家と連絡をとったらしい。自分が到着する十分も前から、母は病院のロビーで待っていた。

 

「母さん」

 

「智之! あんた、よかったねえ」

 

 自分の姿を見るなり駆け寄り、抱きしめてきた。当時五七歳の母の顔は、晴れやかな陽気で明るかった。

 

「二十分ぐらい前にね。男の子と、女の子の双子だったよ」

 

 鬼頭は母の腕を振りほどくと、一目散に分娩室へと向かった。産褥の間へと続く廊下を駆けていると、赤子の泣き声が、鬼頭の耳に飛び込んできた。父となった男の五体に、活力が漲った。分娩室の前に立つと、ちょうど、助産を担当した女性の看護師が扉を開けて出てくるところだった。鬼頭と目が合い、上気した顔を微笑ませた。

 

「おめでとうございます、お父さん」

 

 急速に、目頭が熱を帯びていくのを自覚した。震える声で、「妻と、子どもは?」と訊ねると、「中で休んでいますよ」との返答。

 

「まずは手を洗って。それから、会ってあげてください」

 

 看護師の指示に、鬼頭は大人しく従った。流行る気持ちを必死になだめすかしながら、消毒用の石けんで、いっそ肘の近くまで腕を洗った。

 

 分娩室の中に入ると、すでにお産の片付けは終わっていた。分娩台からキャスター付きのベッドへと移動させられた晶子のかたわらに、新生児用の小さなベッドが二つ並んでいる。

 

 妻は眠っていた。出産に際して、相当な体力を費やしたのだろう。鬼頭は脂汗に濡れた彼女の額をそっと撫でた。それから、枕を並べる二つの小さな命へと目線を向ける。双子の妹は、すよすよ、と安らかな寝息を立てていた。双子の兄の方は、まあるい双眸をせわしなく動かし、これから自分が生きていく世界を、興味深そうに観察していた。赤子と、鬼頭の目が合う。新たに入室してきたこの男が誰なのか分かっているかのように、彼は笑ってみせた。鬼頭の頬を、大粒の涙が滑り落ちた。嬉しさに、胸が震えた。

 

 そっと手を伸ばす。

 

 頬に、触れる。

 

 指先から全身へ、じんわり、とぬくもりが伝わってきた。

 

 くすぐったそうに、彼が身じろぎする。

 

 ――……俺はいま、世界でいちばん幸福な男だ。

 

 強い確信とともに、鬼頭は決然と頷いた。

 

 ――守るんだ。俺が、晶子と、この子たちとの、これからの日々を……!

 

 父になったばかりの男は、胸の内で、若い決意の炎を灯した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter17「大切な人」

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼頭親子が凰鈴音の口から、彼女と一夏が小学生のときに交わしたという約束について聞かされた、その翌日の放課後。

 

 空がかすかに橙色に染まっていくのを眺めながら、一夏と箒は第三アリーナへと向かっていた。今日は他に、付添人の姿はない。鬼頭とセシリアは昨日同様、BT兵器のデータ解析のため整備室に向かい、陽子は射撃場へ足を運んでいた。なんでも、クラス代表決定戦のために拳銃射撃の練習をして以来、はまっているらしい。

 

「IS操縦もようやく様になってきたな」

 

 一夏の隣を歩く箒の口調は、こころなしか浮ついていた。

 

 想い人の少年と二人きりという状況が相当嬉しいらしく、足取りも軽い。

 

「どうだ? 剣を振るう感覚も、だいぶ、取り戻せてきたんじゃないか?」

 

「どうだろうなあ」

 

 そう応じる一夏の口調は、対照的に硬い。訓練のためにISアリーナを目指しながらも、彼はいま、別のことを主に考え、ために、返答がぞんざいなものになっていた。

 

 頭を悩ませているのは、小学六年生のときに鈴と交わした約束の内容についてだ。幼馴染みの少女が昔、口にした言の葉をなんとか思いだそうと、彼は一日中、そのことを考えていた。

 

 ――料理の腕が上達したら、毎日酢豚を作ってあげる。……うん。約束の内容は、たぶん、これで間違いないはず。

 

 努力の甲斐あって、幼馴染みが昔、なんと口にしたかまでは、思い出すことが出来た。

 

 問題は、その意味だ。毎日酢豚を作ってあげる。やはり、奢ってくれる、という解釈しか思いつかない。一瞬、プロポーズの言葉ではないか、という考えも思い浮かんだが、

 

 ――鈴が俺のことを、とかありえないだろう。

 

 彼女とともに過ごした四年間を思い、一夏はかぶりを振った。女友達の中では仲の良い方だとは思うが、そういう恋愛感情を想起させるような甘酸っぱい雰囲気になった記憶は一度もない。

 

 それに、と一夏は口の中で呟く。

 

 ――それに、鈴のやつは感情をストレートに表現してくるやつだ。仮に俺のことを好きだったとしても、そんな毎日味噌汁を……みたいな遠回しなやり方は、あいつの好みじゃないだろう。

 

 プロポーズではなく、奢ってくれるという意味でもない。とすれば、幼き日に交わした言葉の意味とは何なのか。

 

 それとも、やはり鬼頭に指摘されたように、鈴が腹を立てた原因は、約束のことではないのか。そうだとすれば、自分のいったい何が、彼女の気分を害してしまったのか。

 

「……おい、一夏。わたしの話を、ちゃんと聞いているか?」

 

 ううむ、と眉間に縦皺を刻む一夏の顔を見て、隣を歩く箒が不機嫌そうに声で訊ねた。

 

 せっかく二人きりになれたのだから、もっとわたしを構え。わたしを見ろ。少年の横顔に、そんな感情を託した眼差しが突き刺さる。

 

 耳朶を打つ幼馴染みの声に険が宿ったことに気づいて、一夏は慌ててそちらを振り返った。不味い。箒はこれで存外、気難しい人間だ。一度怒らせると、機嫌が直るまでたいへんな時間を要してしまう。

 

「ちゃ、ちゃんと聞いているって」

 

「本当か? じゃあ、わたしがいま何と言ったのか、繰り返してみろ」

 

「俺の剣のことだろ? 昔の感覚を取り戻せたんじゃないか、って」

 

 ひとまず鈴のことは忘れて、目の前の幼馴染みとの会話に集中する。

 

「でもさ、自分じゃ正直、分からないんだよな。昔の感覚を取り戻せたかどうかなんて。そもそも、昔の俺がどれくらいの強さだったのかも、分からないし」

 

 一夏はかつて、箒の父が運営する剣道場に通っていた。彼女の父が修める篠ノ之流剣術は、土地の神様に奉納する神楽舞に組み込まれている剣舞の技術を、体系化・発展化する過程で成立したとされる、古流の剣術だ。神職の文化に由来するという意味では、日本最古の剣術である、関東七流に似た流儀ともいえる。現代剣道はもとより、他の古流剣術と比べてもいっそうマイナーな流派で、一夏が道場に通っていた頃の門下生は、彼自身の他には千冬と箒の二人しかいなかった。そのため、同年代との撃剣稽古の経験に乏しい彼は、当時の自分の腕前がどの程度のものだったのか、いまいち理解出来ていなかった。

 

「どうだろうなあ、っていうのは、そういう意味で言ったんだよ。話を聞いていなかったわけじゃない」

 

「そ、そうか。それなら、よいのだが」

 

 ちょっとむっとした表情の一夏に睨まれ、箒は小さく、「すまなかったな」と、口にした。

 

 話しているうちに、第三アリーナのAピットのドアまでやって来た。ドア脇の壁に設置されたタッチパネル式の解錠用センサーに手をかざす。諮問・静脈認証によって解放許可が下りると、特殊軽合金製のドアは圧縮空気の作用で勢いよく開いた。

 

「待ってたわよ、一夏!」

 

 入室するなり、声をかけられた。

 

 ピットルームで不敵な微笑を浮かべて待ち構えていたのは鈴だった。腕を組み、ふふん、と胸を張っている。

 

 一夏ははじめ、そんな幼馴染みを茫然と眺めていたが、すぐに、ぎくり、と顔の筋肉を強張らせた。かたわらに立つもう一人の幼馴染みが、顔をしかめている気配がした。

 

「貴様、どうやってここに……? ここは関係者以外立ち入り禁止のはずだ」

 

「はんっ」

 

 鈴は挑発的な笑いを浮かべ、箒を見た。

 

「あたしは関係者よ。一夏関係者。だから問題なしね」

 

 いや、その理屈はおかしい。そんな拡大解釈が許されるのなら、それこそ、全校生徒全員の出入りが自由になってしまうじゃないか。一夏は思わず、溜め息をついた。鈴って、こんな強引なやつだったけ? と、記憶の糸をたぐり寄せる。

 

「ほほう、どういう関係かじっくり聞きたいものだな」

 

「はいはい、それはまた今度ね」

 

「なっ、貴様――」

 

「あたしはいま、一夏に話しているの。ファースト幼馴染みだかなんだか知らないけど、邪魔をしないで」

 

 箒からすれば、彼女の方が邪魔をしているんじゃないだろうか。一夏はこの傍若無人な振る舞いに、また溜め息をついた。

 

「一夏、昨日のことだけど――」

 

「ごめん、鈴」

 

 一夏は幼馴染みの前に立つと、彼女の言葉を遮って頭を垂れた。顔を上げ、鈴の顔を、じぃっ、と見つめると、なぜか頬を赤らめ、目線をそむけられた。

 

 一夏はそんな彼女の反応を怪訝に思いながらも、言葉を続ける。

 

「昨日、お前が部屋を出て行った後、ずっと考えたんだ。なんで鈴は怒ってしまったんだろう。自分の何が悪かったんだろう、って。でも、どうしても、原因が分からなかった」

 

「あんたねえ……自分のどこが悪かったのか、ちゃんと分かってないのに、謝ったりしたの?」

 

 自分を見つめる眼差しに、明らかな険が宿る。

 

 ううっ、と怯みながらも、一夏はここが踏ん張りどころだ、と臍下丹田に気合いを篭め、ぐっとこらえた。

 

「そうだよ。だから、教えてほしい」

 

「お、教えて?」

 

「ああ。俺のどこが悪かったのか、何がいけなかったのか。約束の内容について覚え間違いをしていたのか、それとも意味を間違えていたのか、全部、説明してくれ」

 

 なぜか動揺する鈴に、一夏は畳みかけた。

 

「ちゃんと謝らせてくれよ。嫌なんだよ。せっかく、こうやって再会出来たのに。幼馴染みのお前と、ギクシャクしているのはさ。仲直りしたいんだ」

 

 昨日、鬼頭に言われた後、ずっと考えていた。鈴を怒らせてしまった原因について、どうしても分からなかったときの謝り方。しかし、それさえも、自分の頭では思いつかなかった。

 

 だからそのときは、いっそ鈴に訊ねてみよう、と思った。原因が分かっていないのに謝るなんて不誠実なことはしたくない。だから、彼女の口から説明してもらおう、と。そうしてもらうことで、自分の何がいけなかったのかを反省する。その上で、彼女に対し改めてちゃんと謝ろう。一夏はそう作戦を立てた。

 

「ふ、ふうん。一夏はあたしと、仲直りしたいんだ」

 

 一夏の言葉に、鈴の相好が崩れた。にやけ顔になる彼女を、少年の隣に立つ箒が、むっ、とした表情で睨む。

 

「あんたがそこまで言うのなら、うん。説明してあげる」

 

 鈴はにまにま緩む口角を真一文字に引き締め結んだ。

 

「でも、その前に……。あたしの方こそ、昨日はごめん。突然、叩いたりして」

 

 鈴は昨晩、自らが平手を浴びせてしまった少年の左頬を見つめた。

 

「あの後、あたしも一旦、頭を冷やして、考えてみたの。約束の意味を間違えて覚えられていたことは、たしかにショックだった。でも、その約束自体、すごく分かりにくい内容だったな、って。だから、ごめん」

 

「鈴……。ああ、俺の方こそ」

 

 一夏が完爾と微笑むと、つられて、鈴もまた微笑んだ。懐かしい感覚。まるで、中学時代に戻ったみたいだな、と彼は思った。

 

 幼馴染みの少女との間に漂う、晴れやかなこの雰囲気。なんとか、仲直り出来そうだ。やはり、鬼頭の助言に従って正解だった。

 

「……智之さんにも、後でお礼しないとな」

 

 胸の内で呟くだけのつもりだった感謝の言葉が、思わず、口をついて出た。

 

 すると、喜色に満ち満ちた表情から一転、鈴は「は?」と、不愉快そうな顔になった。

 

 彼女の突然の変化に、一夏は、そして隣に立つ箒も怪訝な表情を浮かべる。

 

「なんで、そこであの人の名前が出てくるわけ?」

 

「いや、昨日、鈴が部屋を出ていった後、俺、お前のことを追いかけたんだよ。結局、見失ったわけだけど、そのときに、智之さんと会って、鈴のことで、アドバイスを受けたんだ。まずは鈴のことをしっかり考えてから、謝り方を考えろ、ってさ。それで言う通りにしたら、ほら、お前といま、こうやって上手くいきそうな雰囲気になったから」

 

 「あの人には感謝だよ」と、一夏は破顔した。

 

 対照的に、鈴の機嫌はどんどん悪くなっていく。

 

 それに気づき、一夏は慌てた。

 

「ど、どうした、鈴」

 

「一夏、幼馴染みとして忠告しておくけど、あの人のこと、あんま信用しない方がいいと思うよ」

 

「なっ!?」

 

 一夏は驚きから瞠目した。鬼頭に対し、警戒心を抱いている箒さえもが驚いた表情を浮かべる。

 

「な、何言ってんだよ、お前……」

 

「あんたさあ、週刊ゲンダイの例の記事は、知ってる?」

 

「……智之さんのDVが原因で、奥さんと別れることになった。別れた後に、陽子さんの親権を無理矢理奪い取った、っていう、あの記事だろ?」

 

 一夏は顔をしかめて答えた。

 

「お前、まさか、あの記事を信じているのかよ? あれこそ、信用ならない物だぞ。智之さんたち親子と、一日でも一緒に行動してみたら分かる」

 

 一夏の目に、鬼頭親子の仲は良好と映じていた。あの週刊誌に書かれていたように、親権を無理矢理奪ったというのが真実であれば、ああも仲良くは出来まい。

 

 嫌悪感も露わな口調で言い放つ一夏に、鈴はかぶりを振ってみせた。

 

「違う。そっちじゃない。あたしが言いたいのは、あの人は、理由はともかく、奥さんと離婚しているってことよ」

 

「それが、何なんだよ?」

 

「陽子のことよ。あの人、陽子のことを、何も考えていないじゃない。離婚でいちばん傷つくのは子どもなのに……。しかも、あの人は、一度は奥さんの方に渡した親権を、四年後に取り戻している。それって、陽子、振り回されっぱなしじゃない。子どもの気持ちをないがしろにしているとしか思えない。そんな大人、信用出来るはずないでしょ」

 

「鈴、お前、どうしちゃったんだよ……?」

 

 一夏は、茫然とした表情で鈴を見つめた。目の前の少女はかつて、中国人であるということを理由に、同年代の子どもたちからいじめを受けていた。そんな過去の経験から、彼女は人見知りの激しい人格を形成してしまった。人間関係における快不快、あるいは好き嫌いの感情の落差が著しい。

 

 そんな彼女だから、鬼頭とは性に合わなかったとしても、不自然ではない。

 

 しかし、この態度は明らかに異常だ。少なくとも、中学時代の彼女は、よく事情を知りもしない相手に対し、こんな悪感情をぶつけるような人物ではなかった。

 

 ――中国に帰っている間に、何かあったのか? どうして、こんな……。

 

 一夏は悲しげな表情で彼女を見つめた。

 

 そのとき、不意にある考えが、彼の脳幹を揺さぶった。

 

 昨晩見せた怒りの態度から一転して、さきほどの殊勝な謝罪の言葉。僅か一晩でのこの変わりようは、自分と同様、誰かからのアドバイスを受けたからではないのか。そうだとすれば、それはいったい誰なのか。一夏は自然と、昨夜、鬼頭と交わした言葉を思い出した。私も、もし、彼女のことを見かけたら、織斑君が謝りたがっていたよ、とは伝えておこう。たしか彼は、そう言っていた。

 

「鈴、お前、もしかして、昨日、智之さんと会ったのか?」

 

「ええ、そうよ」

 

「そ、そのときに、何か言ったのか?」

 

「ええ。言ってやったわ」

 

 鈴は会心の笑みを浮かべて言い放った。

 

「離婚なんて、そんな大人の勝手に、子どもを巻き込んだことを、どう思っているのか。大人の都合に振り回される、子どもの気持ちを考えたことがあるのか。そう言ってやったわ」

 

 一夏は愕然とした表情で幼馴染みの顔を見つめた。かたわらの箒も、「なんてことを……」と、震える声で、小さく呟く。

 

 耳の奥で、クラス代表決定戦の最中に陽子が口にしていた言葉が蘇る。

 

 過日、彼女は対戦相手のセシリアを指して、『お前のような女たちが、智也兄さんを、殺した』などと言っていた。

 

 一夏たちは、鬼頭夫婦がいかなる経緯のために、二人の今後の関係について離婚という決断を下したのか、詳しくは知らない。しかし、試合中の陽子の言動や、鬼頭の普段の態度から、何か複雑な事情があったのだろう、とは察していた。

 

 鈴の態度からは、彼女がその事情について、何か情報を得ているとは感じられない。まさか彼女は、鬼頭夫婦が往時抱えていた問題について、なんら理解してもいないのに、彼のことを糾弾したのか。

 

 一夏は、目の前の少女のことが急に恐くなった。昔からよく知っているはずの幼馴染みなのに、その存在を、遠くに感じてしまう。

 

「それでさ、一夏、約束についての説明なんだけど――」

 

「悪い、鈴」

 

 一夏は、幼馴染みの言葉を遮った。重たい唇を動かして、目の前で手を合わせる。

 

「そういえば、今日は用事があるんだった。説明は、また今度な」

 

「なっ! ちょ、ちょっと、それ、どういう――」

 

「ホント、ごめんな。ほら、箒も早く行こうぜ」

 

「い、一夏? いったい、何を……」

 

「箒!」

 

 これ以上、いまの鈴の姿を見ていたくない。

 

 一夏は、隣に立つ箒の手首をつかんだ。戸惑う彼女の目を、真っ直ぐに見据える。

 

 一夏の顔を見て、箒は驚いた。幼馴染みの少年の表情からは、怯えの色が見て取れた。一刻も早く、この場から離れたい、と思いが感じられる。

 

「な? ほら、早く、行こうぜ」

 

 一夏は箒の手を強引に引きながら、入室したばかりのピットルームから飛び出した。

 

 少年たちの背中に、「こら、待ちなさいよ!」と、怒鳴り声。

 

 背中にかかる声を振り切って、一夏は逃げるようにその場から立ち去っていった。

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、第二アリーナ隣の第二整備室では、鬼頭とセシリアが、BTシステムの改良案について話し合っていた。ブルー・ティアーズのISコアから抽出した運用データと、ハミルトン大佐がよこした研究データを基に、二人でアイディアを出し合い、それを煮つめていく。

 

「ブルー・ティアーズに搭載されているイメージ・インターフェースは、高性能だが、ちと造りが繊細すぎると思うんだ」

 

「それは私も思います。俊敏な動きが可能なのは良いのですが、そのためには途轍もない集中力を必要としますもの」

 

「たとえば、こう、えいやっ、と大雑把なイメージだけでも、精密な動きが可能となればいいんだが……」

 

 鬼頭は空間投影ディスプレイに映じるBTシステムの構造図を眺めながら言った。おとがいを撫でながら、思い浮かんだアイディアを口ずさむ。

 

「どうだろう? イメージ・インターフェースの補助に、人工知能を使うのは?」

 

「と、おっしゃりますと?」

 

「たとえばセシリアが、前へ進め! と、大雑把にイメージしたとする」

 

「はい」

 

「しかし、単純にそのまま真っ直ぐ進んでは、敵の迎撃で撃ち落とされてしまう公算が高い。そういう状況の判断を、人工知能にやってもらうんだ。この場合は、真っ直ぐ飛んでいっても撃ち落とされる危険が高いから、ジグザグな機動で進む! とかね」

 

「良いアイディアだと思います」

 

 そう口にしながらも、セシリアの表情は暗かった。

 

「ですが、それほどの高度な判断能力を持った人工知能となると、装置が大型化してしまい、BT兵器の端末に搭載出来ません」

 

「遼子化技術を使えば……いや、駄目だな。あれは一応、アローズ製作所の特許技術だ。他国の企業の製品に、使ってやるわけにはいかない。……いや、待てよ」

 

 鬼頭は空間投影式のキーボードを手元に呼び出すと、タイピングを始めた。ディスプレイの表示が、めまぐるしく変わっていく。

 

「ちょっと、遠回りなやり方だが」

 

「はい」

 

「どうだろう? 私の打鉄で試すというのは?」

 

「それは……つまり、お父様の打鉄にも、BTシステムの装置一式を、組み込むということですか?」

 

「そうだ」

 

 鬼頭は首肯した。

 

「遼子化技術を使えば、小型の人工知能を作ることが可能だ。しかし、先ほども言ったように、遼子化技術はアローズ製作所の特許技術。ブルー・ティアーズのためには使ってやれない。しかし、私の打鉄には使うことが出来る。なにせこの打鉄は、アローズ製作所の社員であるこの私の、所有物という扱いだからね。わが社の持ち物ともいえる。この打鉄にならば、遼子化技術を思う存分、投入出来る」

 

 タイミングのよいことに、自分には明日、クラスBの専用パスカードが発行される予定だ。整備室よりも改修用の機材が充実している、工作室や開発室などが使えるようになる。打鉄の改造も、ずっとやりやすくなるだろう。しかも学園長からは、思う存分に、というお言葉まで頂戴している。

 

「私の打鉄に、改良型BTシステムを搭載し、運用データを採るんだ。そして、そのデータから、ブルー・ティアーズにもフィードバック可能な仕組みを考える、というのはどうだろう?」

 

「……素晴らしいアイディアですわ」

 

 しかし、セシリアの表情はやはり晴れない。

 

「ですが、お父様のBT適性の問題があります」

 

 BT適性とは、流動性エネルギーBTの運動を制御するためのイメージ・インターフェースとの相性を数値化した指標だ。適性の高さはアルファベットで表され、AランクからEランクまで設定されている。

 

 BT計画への協力が決まった時点で、鬼頭もBT適性について調べる簡単なテストを受けていた。結果はCランクの中でもやや上の方という成績。ブルー・ティアーズに搭載されている現状のBTシステムでは、同時に三基を動かすのが限界とされた。しかもこれは簡易テストの結果だから、より詳しく調べた場合には、より低い判定となる可能性が高い。

 

「打鉄にBTシステムを搭載しても、お父様がそれを動かせないのでは――」

 

「欲しいのは、BT兵器をどうやって動かすか、というデータだ。搭載する攻撃端末は、ブルー・ティアーズのように、六基である必要はない。極端な話、一基でも十分さ。Bランクの私が使いこなせるだけの数――神経への負担を考えると、二基が妥当かな――を搭載し、そのデータを調べよう」

 

 それに、と鬼頭は胸の内で付け加える。イギリス政府が鬼頭らに託したBT兵器の完成形とは、適性の有無に拘らず、BTエネルギーを自由自在に操れる技術を確立させることだ。むしろ、BT適性の低い自分だからこそ、有益なデータが採れるのではないか、と彼は考えた。

 

「二基……それなら、お父様でも、なんとかなりそうですわね」

 

「これでもクルマ好きだ」

 

 鬼頭は朗らかに笑ってみせた。

 

「空間認識能力には自信がある」

 

 BT兵器の運用には、BT適性のほかに空間認識能力がとても重要な意味を持つ。自分と敵、そしてBT兵器を搭載した攻撃端末の位置関係について、精確にイメージ出来るかどうかで、攻撃端末の運動性が大きく変わるからだ。

 

 空間認識能力は自動車の運転においても重要な能力だ。自分がいま乗っている車のタイヤがどの位置にあり、どこを向いているのか。車のフロント部の最先端は、どの位置にあるのか。バンパーの位置はどこか。他の車両や歩行者の位置と速度は? どの方向へ向かおうとしている……? といった具合に、空間の中で何がどのように動いているかを精確に把握していればこそ、安全かつ楽しいドライブを堪能出来る。

 

 IS学園にやって来る以前、鬼頭の休日の過ごし方は、もっぱらレンタカー屋に足を運ぶことだった。色々な種類の車を乗り回してきた経験から、普通の人よりは、空間認識能力は高いと、自負している。

 

「二基くらい、上手く扱ってみせるさ」

 

 そのとき、整備室の自動扉が開く音がした。

 

 圧縮空気の抜ける音を耳にして、鬼頭は、おや? と怪訝な表情を浮かべた。はて、真耶からは、クラス対抗戦が近いこの時期、会場となる第二アリーナに隣接する整備室を使う者は少ないだろう、と聞いていたが。

 

 鬼頭とセシリアは出入口の方に目線をやり、驚いた。

 

 第三アリーナに向かったはずの一夏と箒が、こちらを見つめていた。

 

「織斑君に、篠ノ之さん?」

 

「智之さん!」

 

 一夏は鬼頭たちの姿を認めると、一目散に駆け寄ってきた。その背中を、箒が追う。

 

「どうしたんだい、二人とも? 今日は、第三アリーナで訓練のはずだろう?」

 

「さっき、ピットルームで、鈴と会ったんです」

 

「……凰さんと?」

 

 鈴の名を呟いた途端、鬼頭は脳へと向かう血流が緩慢になっていくのを自覚した。顔から血の気が引いていき、軽い目眩さえ覚えてしまう。自然と蘇る、昨夜の記憶。どうやら自分の体は、彼女に対し、すっかり苦手意識を持ってしまったらしい。

 

 とはいえ、凰鈴音は、目の前の少年にとっては大切な幼馴染みだ。彼女のことを悪く言われて、良い気分のはずがない。

 

 鬼頭は努めて平静を装いながら微笑んだ。

 

「よかったじゃないか。早々に、仲直りの機会が得られたんだね」

 

「いや、鈴とはまだ、昨日のことについて、ちゃんと話せてないんです」

 

 一夏はかぶりを振って応じた。事情を知らないセシリアが、訝しげな表情で二人の顔を交互に見る。

 

 怪訝な表情を浮かべるのは鬼頭もだ。それなら、彼女とはピットルームで何を話したのか。

 

「鈴から聞きました。智之さん、昨日、俺と別れた後、鈴と会ったんですって?」

 

「あ、ああ」

 

「そのときに、鈴から言われたことについてです」

 

 鬼頭は表情を強張らせた。セシリアの耳目を気にしてだろう、明言こそ避けているが、何を言いたいのかはすぐに分かった。

 

「……凰さんからは、どこまで聞いたんだい?」

 

 もはや彼の前で仮面をかぶるのは無意味だろう、と鬼頭は険しい面持ちで、彼を見つめた。

 

「詳しいことは、まだ何にも。でも、智之さんたち夫婦が離婚したことで、陽子さんがどれだけ苦しめられたのか、考えたことがあるのか、って。そんな感じのことを、言ってやった、って聞きました」

 

「……それを、鈴さんが口にしたのですか?」

 

 鬼頭のかたわらに立つセシリアが、震える唇で訊ねた。彼女はこの学園において現状数少ない、鬼頭親子に関する真実を知っている人間だ。

 

 セシリアは鬼頭の顔を見た。怒れる眼差しが、頬に突き刺さる。

 

「お父様、私、ほんの少しだけ、席をはずさせてもらいます。ちょっと鈴さんと、お話ししなければならないことが出来てしまったので」

 

「セシリア、落ち着きなさい」

 

 鬼頭はセシリアの肩に手を置いた。歩き出そうとするのを、強引に引き寄せ、押さえる。

 

「お父様っ、ですが!?」

 

「いいから。凰さんは、何も知らないんだ。そんなふうに思って、当然だよ」

 

 何も知らない、という言葉に、セシリアは黙ってしまった。彼女もまた、鬼頭親子の抱える事情を知らないときに、彼らに対して言葉のナイフを振りかざしてしまった過去がある。

 

 ちょっと意地の悪い言い方だったな、と鬼頭は内心心苦しく思いながら、一夏を見た。

 

「それで? 織斑君は、その話を聞いて、どうしてここへ?」

 

「……分かりません」

 

「分からない?」

 

「はい。ただ、智之さんのことを悪く言う鈴の姿を見ているのが辛くて」

 

 一夏の端整な顔立ちが、辛そうに歪んだ。

 

「鈴は人見知りするやつで、昔から、人の好き嫌いがはっきりしているやつだったけど、あんなふうに、誰かのことを、悪く言うようなやつじゃなかった。そんなあいつを、見ているのが辛くて……。あいつのことが、急に恐くなって……気がついたら、ピットルームから逃げ出していたんです。ここに、来ていたんです」

 

「一夏……」

 

 一夏のかたわらに立つ箒が、そうだったのか、と幼馴染みの少年の横顔を、沈痛そうな眼差しで見つめた。

 

 一年以上ぶりに再会した大切な幼馴染みが、悪い意味で変わり果てていた。そのショックを、彼の精神は受け止めきれなかったのだろう。

 

 彼が感じた心の苦痛を、我が身に置き換えて考えてみる。箒にとっての大切な幼馴染みとは、勿論、一夏だ。いまこうやってIS学園で再会を果たした彼が、箒の知る頃とは大きく違っていたとしたら。……なるほど。ショックのあまり、その場から逃げ出したい、と。これ以上、変わり果ててしまった彼女の姿を見ていたくない、と思った一夏の気持ちは、よくわかる。

 

「あいつ、いったい何が……!」

 

「凰さんのことは、よく分からないが……」

 

 鬼頭は険の帯びた表情で、一夏を見つめた。

 

「しかし、それにしたって、よく、私のところを訪ねようと思ったね?」

 

 変貌を遂げてしまった鈴のことをそれ以上見ていたくなくて、その場から逃げ出した。その心情は理解出来る。しかし、それでも、鈴は彼にとって、大切な幼馴染みのはずだ。彼女の言には、信用を寄せる価値があるはず。それなのに、どうしてここにやって来たのか。無意識の行動だったとしても、普通は、自分のいるこの部屋だけは、避けるのではないか。

 

「凰さんの話を聞いて……その、まったくその通りだ。鬼頭智之は酷い父親だ! とは、思わなかったのかい?」

 

「まさか!」

 

 一夏はかぶりを振った。

 

「智之さんが陽子さんの気持ちを考えないとか、ありえませんよ!」

 

「その即答は嬉しいがね」

 

 そう口にしながらも、一夏を見る鬼頭の表情は険しかった。

 

「昨夜、私が口にしたことは覚えているかい? その言葉は、感情のまま、思いつきの言葉じゃ……」

 

「違います。よく考えた上での言葉です」

 

 思わず、胴震いをさせられた。

 

 鬼頭を見つめる一夏の双眸からは、凄絶な気迫が感じられた。

 

「俺は、智之さんたち家族の事情について、よく知りません。智之さんがなんで奥さんと離婚したのか。なんで陽子さんたちの親権を手放さなくちゃいけなかったのか。みなさんの間で何があったのか、何にも知りません。

 

 でも、陽子さんと、オルコットさんの試合を見ていた! 学校や、寮で、智之さんと陽子さんが二人でいる姿を、見てきました。だから、分かるんです。お二人が、お互いのことを、どれだけ大切に想っているのか。そんな人が、陽子さんの気持ちを考えないなんて、絶対に、ありえません」

 

「織斑、君……」

 

 鬼頭は思わず目元を覆った。不覚にも、目頭が熱くなった。

 

 この少年は、昔からの幼馴染みの言葉よりも、付き合いの短い自分たちの普段の姿を、信じてくれたのだ。

 

「……さっき、この部屋に来た理由が、自分でも分からない、って言いましたよね」

 

 一夏は、熱を帯びた語調で続けた。

 

「智之さんと話しているうちに、その理由が、分かってきました。俺、智之さんに会うために、ここに来たんだと思います」

 

「織斑君、それは?」

 

「智之さんが、よければなんですが……」

 

 一瞬の逡巡。本当にこの言葉を口にしてよいのか悩んだ末に、一夏はゆっくりと唇を動かしていった。

 

「奥さんとなんで離婚したのか。それから、この間の試合で陽子さんが言っていた、智也兄さん、って人について、教えてくれませんか?」

 

「織斑さん! それは――」

 

「セシリア」

 

 小さく悲鳴を上げたセシリアを、鬼頭はまたしても制した。先ほどとは一転、炯々と輝く眼光で、一夏の顔を睨みつける。

 

「織斑君、どうして、そんなことを知りたいと思ったんだい?」

 

 晶子と別れた理由については、家庭の恥とは思うが、隠すようなことではない。しかし、智也のことは別だ。彼について語るということは、あの子の死について、父親である自分の口から説明させられるということなのだ。

 

 智也は、鬼頭自身も含めた大人たちの都合に振り回された挙げ句、命を落とした。

 

 彼が死んでしまった原因について、鬼頭は自分にも大いに責任がある、と考えている。あのとき、自分が晶子と離婚なんてしなければ。あのとき、家庭裁判所が下した判決に対して、徹底抗戦の構えを取っていれば! あのとき、司法の裁きなど無視して、二人の手を取ってどこか遠くへ逃げ出していたならば……。失わずに、すんだはずだ。

 

 智也の命が失われてしまったことを知ったあの日以来、鬼頭はずっと、深い悲しみと、彼に対する強い罪悪感を胸に生きてきた。あの子の死について言及するのは、彼にとって、たいへんな苦痛を伴う行為だ。出来ることならば、避けたいことだ。興味本位で、触れてほしい話題ではない。

 

 一夏に対する鬼頭に眼差しは、必然、厳しさを増していた。

 

 しかし、そんな彼を、少年の黒炭色の瞳は、真っ直ぐ見つめ返した。

 

「鈴のことを、嫌いたくないからです」

 

 語られた返答は、鬼頭のみならず、セシリアや箒にとっても意外なものだった。

 

 思わず訝しげな表情を浮かべた彼らの顔を、少年は見回して、言った。

 

「さっき、鈴と話していて、あいつのことを、恐いと思いました。……でも、それでも! 俺にとってあいつは、大切な幼馴染みなんです。あいつのことを、嫌いになりたくないんです。

 

 たぶんですけど、鈴は、智之さんたち家族の事情について、何も知らないのに、智之さんのことを悪く言っています。でも、あいつがそんな態度を取るのにも、何か事情があると思うんです。俺は、その事情を知らないといけない。あいつが変わってしまったのは、きっと、そのせいだと思うから。あいつのことを理解するためには、どんなに恐くても、それを知らなきゃいけないと思うんです。

 

 その上で、智之さんたちの事情も、俺は知るべきだと思うんです。鈴の事情と、智之さんたち家族の事情、両方をちゃんと知った上で、あいつへの接し方を、よく考えるべきだと思うんです」

 

 変わってしまった幼馴染みを、それでも、好きでいたい。そのために、自分たち夫婦が離婚した原因や、智也のことを知る必要がある、ということか。たしかに、鬼頭家が抱える複雑な家庭事情を知らぬだろう鈴音の言を正面から否定するのに、それらの情報はこれ以上ない武器だろう。

 

「勿論、鈴と仲良くしたい、っていうのは俺の事情で、都合です。智之さんには、直接、関係のしないことです。それに、離婚の理由なんて、進んで話したい内容じゃないってことくらい、子どもの俺にだって想像出来ます。お二人の態度からも、よほどのことがあったんだってことくらい、分かります。だから、智之さんが話したくない、っていうのなら、それでもいいです。諦めます」

 

 鬼頭は一夏の顔をじっと見つめた。姉の千冬とそっくりの、意志の強さを感じさせる形をした瞳を眺めているうちに、既視感を覚えた。はて、以前にも、こんな目をした男を見たことがある。あれはいったい、いつのことだったか……。記憶の糸をたぐり寄せ、鬼頭は、はっ、とした。見覚えのあるはずだ。彼は、四年前の自分に……陽子の親権を取り戻さんと、再び晶子たちと戦うことを決意したときの自分に、よく似ているのだ。自分にとっての大切なものを守ってみせると、決意の炎で燃えたぎる瞳が、うりふたつではないか。

 

 考えてみれば、いまの一夏と鈴音の関係は、かつての自分と晶子のようだ。違いは、進もうとしている道が対照的なことぐらいだろう。八年前、自分たち夫婦は離婚という道を選んだ。いま、一年以上ぶりに再会した幼馴染みたちは、互いにすれ違いながらも、再構築の道を懸命に模索している。

 

 ――彼らなら、あの日、俺たちが出したものとは違った結論を導き出せるかもしれないな。

 

 不意に、そんな考えが思い浮かび、鬼頭は苦笑した。

 

 突然、相好を崩した彼を、一夏たちは困惑した表情で見つめる。

 

「セシリア」

 

 鬼頭に名を呼ばれ、セシリアは、はい、と返事をした。彼はスラックスのポケットから革財布を取り出すと、千円札を一枚、彼女の手に握らせた。

 

「少し、長い話になる。これで何か、飲み物を買ってきてくれないか?」

 

「お父様……よろしいのですか?」

 

「ああ」

 

 鬼頭は優しく微笑んだ。

 

「晶子のことはともかく、智也のことを語るのは、たしかに辛い。けれど、彼には、知っておいてもらいたい、と思ったんだ」

 

 展開していた空間投影ディスプレイを、次々畳んでいく。作業机に腰かけた鬼頭は、一夏を見て言った。

 

「私たち夫婦が出せなかった答えを、きみたちは出せるかもしれないな」

 

 

 

 

 

 

 同じ頃――。

 

 東京都千代田区、永田町の首相官邸を、叶和人内閣情報官が訪ねていた。

 

 内閣情報官の日常業務の中でも、最も重要な仕事の一つが、毎週火曜日と木曜日に行われる、いわゆる総理報告(定例報告)だ。

 

 内閣情報調査室のトップである叶のもとには、各部門からの情報が日々集まっている。国内、海外、経済、そして特殊情報。内調スパイたちからの膨大なインフォメーションを、各部門を統括する立場の内閣参事官らとともにインテリジェンスへとまとめ上げ、総理に伝える大切な仕事だ。

 

 総理報告が行われるこの日、叶はインテリジェンス・ペーパーの入ったブリーフケースを携えて、官邸の正面エントランスへと入った。

 

 エントランスの脇には、叶にとってお馴染みの顔ぶれが揃っていた。官邸への来訪者を逐一チェックする、番記者たちだ。彼の姿を認めるなり、一斉に群がってくる。

 

「叶情報官、今日はどんなことを総理に報告されるのですか?」

 

 いち早く叶の前に立ったのは、民放テレビ局の若い女性記者だった。真新しいスーツにまとわりつく初々しさから察するに、今年、採用されたばかりの新卒社員か。ご苦労なことだ、と胸の内で呟きながら、叶は彼女たちを無視して歩を進めていった。いついかなる時でも、叶がマスコミ相手に気安く口を開くことはない。内閣情報官という職務上、当然の対応だ。そもそも、マスコミとの接触は唾棄すべきものとは、公安捜査に携わってきた人間ならば、いやというほど叩き込まれている。

 

 記者たちを振り切った叶は、そのままエレベータで五階へと上がった。総理大臣をはじめ、官房長官、官房副長官の執務室が一堂に会しているフロアだ。彼は真っ直ぐ総理執務室へと向かった。

 

 入室すると、司馬総理は笑顔で彼を出迎えた。執務室のソファーを勧められ、彼は腰かけた。膝の上にブリーフケースを置き、A4サイズの小冊子を二冊、総理に手渡した。

 

「本日の報告事案です。一冊はいつも通りの報告書です。もう一冊は――」

 

「例の、鬼頭智之懐柔工作チームに関する報告書ですね」

 

「はい。昨日、編制作業が完了し、稼働を開始しました」

 

「拝見させていただきます」

 

 司馬総理は、こちらの方が優先順位は高い、と早速、二冊目に受け取ったペーパーから読み始めた。沈黙の時間が一分、二分と続く。

 

 インエリジェンス・ペーパーによれば、一昨日の晩、自分が藤沢内閣官房長官と叶情報官に編制を命じた鬼頭智之懐柔工作チームは、翌朝の午前八時には人選を終え、活動を開始したという。チームは内調の国内部門から、特命班をもう一班、新たに編成する形で作られた。新たに誕生した特命班のコードネームは〈KT班〉。勿論、鬼頭智之のイニシャルからとった名前だ。

 

 インテリジェンス・ペーパーの冒頭部は、この新たに生まれた特命班の組織についての基本概要と、そのチーム・メンバーの経歴について紙幅を割いていた。勿論、KT班を構成するのは、全員が内調の職員だ。

 

 官邸直属の情報機関である内調の組織は、プロパーの他に、各省庁からの出向者たちによって成り立っている。彼らの中でも特に多いのが、防衛省と、警察庁からの出向組だ。当然、KT班も、こうした人材が多く含まれている。それだけに、防衛省・警察庁以外からの出向者というのは、かえって目立っていた。

 

「叶さん、この、城山悟という方ですが……」

 

 司馬総理の目にとまったのは、総務省出身の三四歳の職員の名前だった。特命班におけるポジションは企業担当。KT班は鬼頭智之に対する効率的なアプローチのために、本人担当、家族担当、友人・知人担当、企業担当の、四つの情報収集チームを班内に作った。企業担当とは文字通り、鬼頭智之が所属する、アローズ製作所に対する情報収集を担当する。

 

「なぜ、企業担当に総務省からの出向者をあてたのです?」

 

 KT班のメンバーを選んだのは叶情報官と藤沢官房長官だ。司馬は彼に、その人事の真意を訊ねた。

 

「その方が後で総務省の協力を要請する際に、都合が良いと考えたからです」

 

「どういうことです?」

 

「鬼頭智之は現在、アローズ製作所の、パワードスーツ開発室というセクションの設計主任という立場にあります」

 

「そう聞いていますね」

 

 司馬総理は頷いた。

 

「たしか、災害用パワードスーツの設計をしているのだとか」

 

「現在の彼の直接の上司で、パワードスーツ開発室の室長を務めている、桜坂という男がいます。彼と鬼頭智之は、大学時代からの親友で、災害用パワードスーツの開発とその普及は、その頃からの彼らの夢なのだそうです」

 

「なるほど、そういうことですか」

 

 司馬総理は得心した様子で頷いた。

 

「災害用パワードスーツということは、将来、完成した際の顧客には、まず、わが国の消防庁が考えられますね」

 

「おっしゃるとおりです。だからこそ、企業担当に、総務省出身の城山君を配しました」

 

 消防庁は総務省の外局だ。総務省の人間をKT班に抱えておけば、鬼頭智之を懐柔するにあたってアローズ製作所へのはたらきかけが必要と判断された場合に、仕事がやりやすくなると考えられた。たとえば、城山を介して消防庁の人間とコンタクトをとり、アローズ製作所のパワードスーツの採用を検討するよう、はたらきかけるなどだ。

 

「好都合なことに、城山君は三重県の出身で、隣の愛知県で働いている総務省職員や、消防署の人間ともつながりがあります」

 

 内調では人から得る情報……ヒューミントを特に重視して、エスピオナージを行う。省内に広い人脈を持つ城山は、まさに情報員にうってつけの人材といえた。

 

「彼の人脈は、アローズ製作所へアプローチする際の強力な武器となりましょう」

 

 不敵な冷笑を口元にたたえながら呟いた叶情報官に、司馬総理もまた満足げに笑ってみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter17「大切な人」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二〇一三年五月二五日、桐野美久は、天使と出会った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一九九九年、桐野美久は、後にアローズ製作所の社長となる桐野利也と、母・由美子の間に生まれた。

 

 彼女がこの世に生を受けたとき、両親の年齢は父が四二歳で、母は三七歳だった。美久は二人が結婚九年目にしてようやく授かった、待望の第一子だった。これまで長らく子を持つことの出来なかった夫婦は、その反動から、彼女のことをとても可愛がった。一度でも欲しいと口にした物は何でも買い与え、やりたいことは何でもやらせた。その結果、小学校に上がる頃には、彼女はすっかり、誰の目にも明らかな我が儘娘へと育ってしまった。

 

 

 美久が小学校に入学した年の前年、アローズ製作所の創業者にして当時の社長、彼女の祖父でもある桐野秋雄が脳卒中で倒れた。会社で仕事に従事している最中の出来事で、そばにいた社員がすぐ救急車を呼んでくれたおかげで、幸い命は助かった。病院のベッドの上で目を覚ました秋雄は、自分の身に何が起こったのかを医師の口から知ると、「とうとう、社長の椅子を息子たちに譲るときが来たか」と、呟いた。

 

 秋雄には三人の息子がいたが、次男は親の力を借りることなく独立起業、三男は公務員試験に見事合格し、外務省でキャリア官僚として働いていた。父の事業を手伝っているのは長兄の利也のみで、秋雄は彼に社長の椅子を譲ることにした。

 

 この頃、アローズ製作所は、日本に数ある中小企業から、国内有数の大手メーカーへと飛躍の時期を迎えていた。前期の売上高は五百億円を達成し、純資産も七百億円超と算定された。

 

 そんな一流企業の社長令嬢という立場を手にした美久は、入学初日から学級の女王として振る舞った。嫌なことはすべてみなに押しつけ、自分のしたいことだけをしようとした。当然、彼女の自分本位すぎる性格は学友たちから嫌われ、学校では孤立した。美久からの反撃を恐れた同級生たちは、暴力をともなうようないじめこそしなかったが、彼女のことを徹底的に無視した。

 

 一年生という、小学校生活の大切なスタートラインで人間関係についての問題を抱えることになってしまった美久のその後の六年間は、苦悶の日々となった。小学生時代、彼女のかたわらにはいつも孤独が、ぴたり、と寄り添っていた。美久は年齢を重ねるごとに、内向的な性格へと変わっていった。

 

 両親は愛娘の変化に気づいていた。しかし、会社の売上が伸びるほどに増える仕事の量に忙殺され、彼女にばかり構ってはいられなかった。結果として美久と、その周囲の生徒たちに対する心のケアは遅れに遅れ、子どもたちの仲は、もはや改善は不可能と結論せざるをえなくなるほど悪化してしまった。

 

「せめて、環境を変えてやるのはどうだろう?」

 

 美久が小学四年生のとき、利也は妻にそう提案した。

 

「このまま公立の中学校に進めば、小学生時代の人間関係を引きずったまま、進学することになる。どうだろう? いっそ、あの娘に、中学受験をさせるというのは?」

 

 利也の提案に、由美子は賛意を示した。翌日、二人は彼女に、名古屋の私立中学の名門……銀城学園のパンフレットを見せた。名古屋市東区白壁町に校舎を構える、中高六年間一貫教育を採用している私立校だ。いわゆるミッション系の女子校で、名古屋人の間ではお嬢様学校として目されている。部活動で有名なのはグリークラブ。また、日本で最初にセーラー服を制服に採用した学校という顔も持っている。

 

 いまの環境に辟易としていた美久は、両親の薦めを受け入れた。その日から、彼女は受験勉強に励み、二年後、名門校の門をくぐる権利を見事に勝ち取った。

 

 小学生のときとは一転、中学生となった美久の表情は明るかった。

 

 それまでの人間関係をリセット出来たことが幸いした。美久の過去の所業を知らぬ新しい友人たちは、彼女に対し屈託のない眼差しを向けてくれた。また彼女自身、小学生時代の反省から、他人の気持ちを慮るという技術を身につけていた。我が儘娘から一転、気遣い上手となった彼女を嫌う者は、よほどのひねくれ者か、卑屈な人間しかいなかった。

 

 とはいえ、幼い心に刻まれた傷は、そう簡単に癒えるものではない。

 

 小学生のときの過ちを繰り返したくない一心から、美久は他者の顔色ばかりをうかがうようになり、心身は日ごと疲弊していった。そうやって心が弱ってしまったときに、ふとしたきっかけで、かつての内向的で後ろ向きな性格が顔を出すようになってしまった。一種の双極性障害(躁鬱病)のような状態だ。中学時代は中学時代で、美久はまた自身の内面について悩むことになってしまった。

 

 そして――、

 

 

 

 二〇一三年五月二五日、当時十四歳の美久は、学校からの帰り道で、天使に出会った。

 

 

 

 すでに述べた通り、銀城学園はミッション系の学校だ。キリスト教の教義や聖書の逸話を紹介するなどの授業も、普通に行われる。

 

 入学一年目で聖書の内容について半ば強制的に暗記させられた美久の目に、その男の姿は、天使と映じた。

 

 

 

 先述の通り、銀城学園の中等部の校舎は、名古屋市東区の白壁町にある。最寄りの駅は名鉄瀬戸線の尼ヶ坂駅の他に、名古屋市営・基幹バス白壁バス停がある。美久は帰宅の際に、後者の基幹バスを利用していた。

 

 名古屋の基幹バスは、他県他市のバス路線にはない、ちょっと変わった造りをしている。最大の特徴は、道路のど真ん中にバス停と専用レーンを設けている点だ。

 

 一九七十年代以降、モータリゼーション化の著しい名古屋の街で、バスの表定速度はどんどん遅れていった。限られた面積しかない道路の上で無数の車がひしめき合うようになり、渋滞は慢性化、時刻表ダイヤの維持が困難になった。そこで、解決策として提示されたのが、かつての市電のように道路の真ん中を走る専用バスレーンの整備だ。これにより、時速一二・一キロメートルまで落ち込んでいたバスの表定速度は、時速二五キロメートルまで改善した。

 

 道路の真ん中にあるバス停を利用するためには、当然、横断歩道を渡って、そちらまで足を運ばねばならない。

 

 その日も、美久は学校の校門を出てすぐのところにある横断歩道を渡り、白壁バス亭へと向かっていた。

 

 

 

 ところで、名古屋市と、その近辺の住人たちの運転マナーは、一般的に悪いと目されている。運転技術どうこうではなく、運転モラルが低いために、信号無視や速度超過は当たり前。交通事故死亡件数の高さもそれを裏付けている、という考え方だ。世間ではこれら名古屋人たちの運転マナーの悪さを指して、“名古屋走り”などと揶揄している。

 

 白壁バス亭がある出来町通こと県道二一五号線の制限速度は時速四十キロメートル。しかし、この数字をお行儀よく守っているドライバーは、はっきり言って少数派だ。渋滞時はともかく、通常は時速五、六十キロメートルでの走行が当たり前となってしまっている。

 

 その日、その時間、その道を、時速七五キロメートルという猛スピードで突き進んでいたのは、ホンダのアクティバンだった。

 

 後で知ったことだが、運転手の会社員男性は当時酩酊状態にあり、正常な認知機能と判断力を失っていた。

 

 彼は自分の車両が、制限速度が六十キロメートルの下街道から四十キロ制限区域の出来町通へと左折進入したことに、まったく気づいていなかった。ほとんど朦朧とした状態で、ハンドルを握っていたという。当然、信号機の色を認識することも難しく、彼の操る商用バンは、まるで吸い寄せられるように、横断歩道の上を歩く美久の方へと向かっていった。

 

 勿論、美久はその場から逃げようとした。

 

 暴走車両の姿を視界の端に捉えた時点で、下肢の運動神経のすべてに、その場から逃げ出すよう命令を発した。

 

 しかし、逃げられなかった。

 

 よりにもよってこのタイミングでスニーカーの靴紐がほどけ、しかも、踏みつけてしまった。

 

 足がもつれ、その場で転んでしまう。

 

 すぐに立ち上がるが、そのときにはもう、白い暴走車両が、目前まで迫っていた。

 

 衝撃。

 

 美久の体は、宙へと舞い上がった。

 

 痛みは、想像していたほどではなかった。

 

 それよりも、めまぐるしく変転する視界の様子に、気分が悪くなった。

 

 ……めまぐるしく?

 

 違和感を、覚えた。

 

 自分はいま、車に跳ねられ、宙を舞っている。

 

 その、はずだ。

 

 それなのに、なぜ……?

 

 なぜ……!?

 

 ――わたしは、いま、建物を見下ろしているの……!?

 

 車に突き飛ばされ、宙を舞っているのなら、視界に映じる建物は、横に、流れるように見えてなければならないはずだ。

 

 それなのに、いま、この目に映る景色は、何だ!?

 

 建物が、

 

 地上十数メートルはある銀城学園の校舎が、眼下に映じ、しかも、どんどんと遠ざかっている、この状況は、いったい何なのだ!?

 

「……しまったな」

 

 苦み走った、男の声が、耳膜を撫でた。

 

 目線をそちらに向けて、息を呑んだ。

 

 仁王のごとき厳めしい面魂が、すぐかたわらにあった。

 

 ……ようやく、気がついた。

 

 自分がいま、どんな状況にあるのか。

 

 自分はいま、抱かれているのだ。

 

 背中と、膝の裏に両腕を回され。

 

 この男に。

 

 地上数十メートルの高さを飛ぶ、この男の腕の中に、いま、自分はいるのだ。

 

「何が、しまったなんですか?」

 

 この状況の異様さゆえか、思わず開いてしまった唇から漏れ出た声は、自分でも意外に思うほど、平静さを保っていた。

 

 互いの産毛が見えてしまうほどの至近距離で、男の唇が動く。

 

「三つ……いや、四つだな。自分のしでかしたことについて、後悔しなきゃならん」

 

「後悔?」

 

「ああ」

 

 仁王の顔立ちの男は、ほろ苦く溜め息をついた。

 

「まず一つ。きみを助けなければ、という一心で、考えなしに動いてしまった」

 

「?」

 

「咄嗟のことすぎて、周りに気を配る余裕がなかった。アスファルトを、思いっきり踏み抜いて、ジャンプしてしまった」

 

 ……なるほど、いまはそういう状況なのか。

 

 車に轢かれそうな自分の姿を見て、この男は咄嗟に地面を蹴り、歩道から自分のもとへとジャンプ。自分の身を抱きかかえるや、もう一度ジャンプして、車の突撃を避けた、と。……ははっ、なんだ、その出鱈目な話は。

 

「車道のど真ん中だというのに、アスファルトを踏み砕いてしまった。いま、あの上を車が通ったら、タイヤをとられて、事故を起こす危険性が高い」

 

 離昇速度が、だんだんと落ち着いてきた。そろそろ、最高高度なのか。

 

「二つ目。さっきも言ったが、考えなしがすぎた。夕方のこの時間帯、この道を利用する者は多い。すぐそばの銀城学園の校舎には、まだ多勢の生徒が残っているだろうし、近所のスーパーマーケットにも、百人単位のお客さんがいるだろう。そういった人たちに、俺のこの姿を、見られたかもしれない」

 

 この姿、とは、いまこうやって天高き場所を跳んでいる姿のことだろう。どうやら彼は、自身の持つこの能力を、秘密にしておきたいらしい。でも、それは――、

 

「三つ目。仮に運良く目撃者がいなかったとしても、きみについては、どうしようもない」

 

 黒炭色の双眸が、美久の顔を見つめた。なぜか、頬が熱くなっていくのを彼女は自覚した。

 

「こうして助けてしまった以上、きみについては、誤魔化しようがない。……さあて、どうしたものか」

 

 また、溜め息が一つ。美久の頬をねぶった。

 

 浮遊感が、頭打ちする。

 

 どうやら最高高度に達したらしく、今度は、ジェットコースターに乗っているかのような落下の感覚が、彼女の小さな体を襲った。

 

「あの」

 

「うん?」

 

「四つ目は?」

 

「……着地のことを考えていなかった」

 

 男は目線を地上へと向けた。つられて、美久も目線を下に向ける。落下速度が上がるにつれて、地面が近づいてきた。

 

「俺の体重は八十キログラム。きみの体重を仮に五十キロとすると、二人合わせて一三〇キログラムだ。この高さから地上に到達する頃には、俺たちの落下速度は秒速二八・五メートル。……つまり、俺たちは地上に叩きつけられるその瞬間、三七〇〇キログラムもの荷重をその身に受けるわけだよ。俺の体はその衝撃に耐えられる。でも、きみは別だ。

 

 人間の体は、たとえば筋肉なら、六〇〇キログラムの力に耐えられる。骨なら、一・六トンだ。三・七トンの荷重を、それ以下に抑えるためには、よほど膝のサスペンションを効かせて、衝撃時間が六秒以上持続するよう、調整してやらなきゃならないが、その自信がない」

 

「あの……」

 

「うん?」

 

「着地の寸前、軽く、上に放り投げてもらって、その後、あなたに抱きとめてもらうわけには?」

 

「その手があったか!」

 

 仁王の面魂が、不敵な冷笑を浮かべた。たしかに、それなら着地の衝撃は自分ひとりにかかるだけ。上に放り投げた彼女が再び自分の腕の中に戻ってくる際の負荷は、己の意思でコントロール出来る。

 

「お嬢さん、きみ、頭いいね!」

 

「ありがとうございます。……あの、それから」

 

「うん?」

 

「……わたし、そんな五十キロもありません」

 

「……そいつは失礼」

 

 唇をとがらせて言うと、彼は完爾と微笑んだ。

 

 放物線の軌道をたどる二人の体が、地上へと近づく。

 

 男は、腕の中の少女の体を、軽く放り投げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二〇一三年五月二五日、桐野美久は、天使と出会った。

 

 無事、地上へと降り立った美久は、自分を助けてくれた男に訊ねた。

 

「あなたは、もしかして、神様なんですか?」

 

「俺が神様だって?」

 

 仁王の面魂を持つ男は、自分の質問に対し、笑ってみせた。

 

「冗談がきついな。どうして、そう思ったんだい?」

 

「人間は、あんなに高く、空を跳べません」

 

 少なくとも、四十メートルは跳んでいた。地面をほんの一蹴りしただけで、これほどの高さまで跳ぶなんてことは、人間には不可能だ。

 

「たしかにね。でも、普通の人間よりちょいと優れた運動能力を持っているからって、それだけで神様扱いは、ちと早計ではないかね?」

 

「わたしを助けてくれました」

 

「それが?」

 

「この間、学校の授業で聖書の記述について学びました。神様は、人を助けてくれるものでしょう?」

 

「……俺の知っている神様とは、えらい違いだな」

 

 男は小さく溜め息をつくと、その場で身をかがめ、少女と同じ高さに目線を合わせた。

 

「とにかく、俺は神様なんかじゃないよ。……今日、きみが出会ったこの男のことは忘れなさい。こんな怪物の存在は、この世にいるという事実を知っているだけで、きっと、きみに不幸をもたらす」

 

 男はそう言って踵を返すと駆け出した。物凄い速さで、美久の視界から消え去ってしまう。

 

 その場に残された彼女は、

 

「神様じゃないとしたら……天使様?」

 

と、茫然と呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二〇一三年五月二五日、桐野美久は、天使と出会った。

 

 そして二〇一三年の六月八日、彼女は、天使と再会した。

 

 父親への用事から、母とともにアローズ製作所へと足を運んだ彼女は、そこで、彼の姿を見つけた。

 

「ゲェーッ! き、きみはぁ……ッ!?」

 

「どうした、桜坂? なぜ、マンモスマンを見て驚く正義超人のような顔を?」

 

 六尺豊かな体躯をわななかせながら、彼は茫然とした表情で自分の顔を見つめていた。

 

 その一方で、美久は男の驚く様子を前に、歓呼の笑みを浮かべていた。

 

 ――また、会えた……!

 

 この、天使様と。

 

 また、会うことが出来た。

 

 ――これは、きっと運命だ。

 

 歓喜の激情が、胸の内を満たしていった。

 

 自分のこれまでの人生、そして、これからの人生が、何のためにあるのか、彼と再会を果たした瞬間、分かったような気がした。

 

 ――わたしはきっと、この方と会うために、生まれてきたんだ……!

 

 苦悩の小学生時代も。

 

 この息苦しい中学生時代も。

 

 すべては、彼と出会うためにあった。

 

 彼とのこれからのためにあった。

 

 きっと、そうだ。

 

 そうに違いない。

 

 ――わたしの、天使様……。

 

 僅か十四歳の少女の熱視線に、仁王の顔つきの天使は、頭を抱えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二〇一三年五月二五日、桐野美久は、天使と出会った。

 

 二〇一三年の六月八日、彼女は、天使と再会した。

 

 そして二〇二六年四月――、

 

 桐野美久は、天使の暮らすその家で、彼の帰りを、待ちわびる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





たぶん、読者のほとんどは察していることでしょうが、これ書いているやつは、名古屋人です。

県道215号線の速度超過云々についてのソースは、私自身の経験です。

時速四十キロで走っている私のカローラを、後ろからやって来た、白と黒のツートンカラーをした、赤色灯がチャームポイントのクラウンが普通に追い抜いて、後ろ姿が小さくなって最後には見えなくなる程度には、速度超過は当たり前になっています。










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