Chapter1では語りきれなかったこと、
Chapter10の陽子の視点では語れなかったことを、
放課後のIS学園、第二整備室。
鬼頭の頼みで飲み物を買いに、部屋の外へと出かけていたセシリアが、戻ってきた。
再入室した彼女は、鬼頭たちのいる作業用ブースに、足早に戻ってきた。抱えていた四本の缶飲料を、作業台の上に並べていく。
「皆さんの好みが分からなかったので、私の方で、適当に選ばせていただきました」
「ふむ」
いち早く手を動かしたのは鬼頭だった。彼は真っ赤なデザインが購買意欲をそそるコカ・コーラの缶に触れようとし、寸前のところで、セシリアから、「あ、お父様はこちらで」と、『濃~い、お茶』と、銘打たれた缶を差し出された。
「……セシリア? お父さん、今日はたくさん頭を使ったから、脳が糖分を欲しているんだけどなあ?」
「陽子さんの目がないからといって、甘いものは厳禁ですわよ」
「ジーザス!」
鬼頭は悔しげにお茶の入った缶を握りしめた。苦笑する一夏たちの前でプルタブを開け、唇を濡らす。商品名に偽りなしの味わい。うん。苦い。
作業台の上の缶飲料は、鬼頭のお金で買われた物だ。スポンサーがいちばん最初に口をつけたのを見届けた後、一夏たちも礼を言いながら、めいめい好みの缶に手を伸ばした。全員の手に飲み物が行き渡ったのを見て、鬼頭は、
「さっきも言ったが、少し、長い話になると思う。まずは座ろう」
と、ブースの片隅に置かれたステンレス製の物置棚から、折りたたまれた状態のパイプ椅子を取り出した。整備室では狭い部屋の中をあちこち回遊する機会が多いと考えられることから、この種の備品は、邪魔にならないよう片付けやすさを優先したデザインの物が揃えられていた。
鬼頭と一夏は作業台を挟んで向かい合う形で椅子に腰かけた。セシリアは鬼頭の隣で、箒は一夏の隣で、それぞれパイプ椅子を広げる。
「これから妻と……晶子と別れた理由について、話をするわけだが」
お茶で喉を潤したばかりにも拘らず、鬼頭は口の中が急速に乾いていくのを自覚した。やはり、あの頃の記憶を意識して思い出すことは、彼の精神に多大な負担を強いていた。鬼頭は喉ではなく、腹の底から、絞り出す気持ちで、声を上げた。
「その前に、いくつかことわっておきたいことがあるんだ」
鬼頭は一夏たちの前に右手を差し出すと、人差し指を立てた。
「まず一つ。離婚というのは、夫婦の問題という以上に、家族の問題なんだ。私たち夫婦が離婚という選択をした背景には、当然、陽子の存在も深く関わっている。あの子についての話を抜きに、当時、私たち家族が直面した問題をちゃんと理解するのは、難しいだろう。
その上で、私はきみたちに、陽子が関わっていた部分については、なるべく知ってほしくはないんだ」
そう語る鬼頭の表情は苦しげだった。そんな彼の横顔を、かたわらに座るセシリアが、痛ましげに見つめている。
一夏に晶子との離婚の原因や智也のことを話すことにしたのは、自分の独断だ。陽子とよく相談して決めたことではない。この場にいない彼女が関わっていた部分については、話すべきではないだろうし、また話したくなかった。特に、間男に襲われた、あの忌まわしい事件については。陽子もきっと、知られたくはないだろう。
「陽子にも、知られたくないことがあるはずだ。あの子に関することについては、最低限にとどめさせてほしい。そして、そのせいで話に矛盾が生じたとしても、目をつぶってほしいんだ。……それでもいいかね?」
「勿論ですよ」
鬼頭に問いかけに、一夏は頷いた。
「無理なお願いをしているのは、こっちなんですから。智之さんの話したいようにしてください」
「ありがとう。次に、二つ目だが……」
鬼頭は今度は右手の中指を立てた。かたわらに座るセシリアを見る。
「実は、セシリアには私たち夫婦が離婚した理由について、もうすでに、ある程度説明しているんだ」
「なんとなく、察してました」
一夏の言葉に、箒も同意するように頷いた。
「三人とも、急に仲良くなりましたもんね。たぶん、何かあったな、っていうのは思ってました」
「それで、だ。これは、セシリアにことわっておきたいことなんだが……」
「はい」
「あのときは、陽子の口から説明されただろう? しかしそれは、あの子の目線や経験、あの子の知識をもって、過去の出来事を解釈した話だ。当然、私の目線、私の経験、私の知識から語る内容とは、細部が異なってくる。それを踏まえた上で、いまからする話を聞いてほしい」
セシリアが頷いたのを見て、鬼頭は薬指を立てた。
「三つ目。これが最後だ。三人とも……」
鬼頭は一旦、そこで言葉を句切った。長年の友に切々と訴えかけるように、言の葉を絞り出す。
「いまからする話を聞いて、私に対して、どんな感情を抱いてもらっても構わない。しかし、私に対する感情と、陽子に対する感情は、別のものと考えてほしい。私のことを嫌いになったからといって、陽子のことまで、嫌わないでほしい」
「智之さん、それは、どういう……?」
「凰さんの言う通りなんだよ」
鬼頭は悲しそうに呟いた。
「家族の問題とは言いながらも、結局のところ、離婚という社会制度の主体は、私たち、大人なんだ。陽子たちは究極、私たち大人の事情や都合に振り回された、被害者なんだよ。陽子や、智也が不幸に見舞われた原因は、間違いなく、私にもあるんだ。それを知って、私のことを嫌いになったとしても、構わない。……構わないから! どうか、どうかあの子とは、いままで通りに、付き合ってほしい。お願いだ」
赤く充血した双眸を見て、一夏は思わず息を呑んだ。いまにも、泣き出してしまいそうな雰囲気だ。
これから語られるのは、この男にとって、それほどの話なのか……。知らず、彼の背筋は伸びた。
「聞かせてください、智之さん」
一夏は、真剣な眼差しで彼の言葉を促した。
「お二人に何があったのか。智也さんに、何があったのか」
「……ああ」
鬼頭はゆっくりと頷いた。
「聞いてくれ。私たち家族の話を」
インフィニット・ストラトス二次創作
「この小さな世界で愛を語ろう」
Chapter18「決意の日」
鬼頭の説明は、別れた妻との馴れ初めについて語ることから始まった。
「私たちがはじめて出会ったとき、私は二六歳で、彼女は二一歳の女子大生だった。出会いのきっかけは、例の週刊誌にも書いてあったとおり、合コンだった。高校時代の学友から誘われてね。それに参加したんだ」
合コンを主催者した加藤耕作には当時、狙っている女がいた。出会いの場を求める彼女の関心を引き寄せたい一心で、彼は合コンの開催を企画し、員数合わせのために鬼頭を誘った。高校時代、鬼頭は同級生たちから堅物と目されていた。彼ならば、自分の競争相手にはならないだろう、と踏んだのだ。
かつての学友からの誘いに、鬼頭はふたつ返事で応じた。高校を卒業してすぐ留学のため渡米した彼は、その頃の人間関係とはそれっきり、という者たちが多い。旧友と顔を合わせる機会は貴重だ。鬼頭は合コンに参加する女たちよりも、加藤の顔を見たい気持ちから、合コンへの参加を決めた。合コンというイベントの本来の目的については、あまり興味がなかった。
そんな腹積もりでいた彼にとって、晶子の美しさがもたらした衝撃は、不意打ちも同然だった。一目で心を奪われ、夢中になった。
「晶子は、美しい女だった。見た目だけでなく、言動の可憐さや、色気たっぷりの仕草など、男を虜にする構成要素の塊のような女だった。当時の私は、その魅力にすっかりまいってしまったんだ」
いいや、いまでさえ危ういかもしれない、と鬼頭はかつて愛した女の美貌を思い出し、忌々しげに溜め息をついた。一連の騒動により、晶子という女の本性を知ったいまでさえ、往時の彼女を前にして、正気を保てる自信がない。それほどまでに、晶子の美しさは魅力的であり、蠱惑的であり、そして暴力的でさえあった。
「彼女に対しては、私の方から猛アプローチをかけたんだ。ライバルは多かったが、私は彼らをなんとか蹴散らして、晶子と付き合う栄誉を勝ち得た。二年ほど交際した後、私たちは夫婦となった」
ということは、鬼頭が二八歳、晶子が二三歳のときの出来事か。恋人の大学卒業を待ってからの入籍だったのかもしれないな、と一夏たちは目の前の男の往時の胸の内について想像力をたくましくした。
「ここで少し、晶子という女の、為人について、説明しておこう。
晶子は、自己愛が強く、また他者への依存心が強い女だった。自分一人では生きていけない。常に誰かに愛されているという実感がないと、不安で不安でしょうがない。彼女のあらゆる思考、あらゆる行動は、そんな強迫観念を源泉としていた。容姿の美しさや男心をくすぐる言動といったものは、愛されるための努力が生んだ、彼女の強力な武器だったんだ。私はそれに、まんまとやられてしまったわけだが……私以外にも、晶子の魔法のような魅力に、首ったけになってしまった男がいたんだよ」
一夏と箒は顔を見合わせた。週刊ゲンダイの特集記事には記載のなかった、第二の男の登場に、嫌な予感を禁じえない。
「最初に違和感を覚えたのは、付き合い出して、半年くらいの頃だったと思う。私たちが急接近したきっかけは、彼女が愛用していた腕時計だった。合コンのときにね、加藤のやつが不注意から、彼女の時計にビールをこぼしてしまったんだ。すぐにおしぼりで拭ったが、時計の針は止まってしまっていた。私はそれを見て、しめた、と思った。私は晶子に、祖父が時計職人であることや、私自身も時計いじりが大好きなことを伝えた。安く修理出来るかもしれない、と言うとね、彼女は喜んで時計を渡してくれた。腕時計を受け取った私は、すっかり舞い上がってしまった。これで、今度、時計の返却を口実に、また会うことが出来るぞ! と、喜んだ。
当時、晶子が愛用していた腕時計は、プロミネンテ・クラシコというスイス時計だった」
中南米発祥のブランド、クエルボ・イ・ソブリノスの代表的モデルだ。アール・デコ様式を取り入れたレクタンギュラー型のケースは、控えめで落ち着いた外観ながら、エレガントで洗練された美しさをたたえている。
「いわゆる、高級ブランドの一本さ。当時の販売価格はさすがに覚えていないが、たしか、三十万円は下らなかったと思う。人気のモデルだから、中古市場でも値崩れがしにくく、本来なら学生の身分では手を出しづらい高級品のはずだった。
当然、どうやって入手したのか? という疑問は、時計の修理中、頭の中を何度もよぎった。けれど、恋の炎ですっかり視野狭窄に陥っていた当時の私は、その度に、きっとアルバイトを頑張ったんだろう、とか。実家が裕福なんだな、とか。彼女に訊きもしないで、自分の中で勝手に疑問を完結させてしまった。いま思うと、彼女のことを疑いたくない、と自らの思考や行動に、無意識のうちに制限をかけていたんだと思う。
しかし、二本目を目にしたときは、もう、自分で自分を、誤魔化しきれなかった」
交際を始めて半年ほど経ったある日のことだ。その日は仕事が早めに終わり、夕方以降まとまった時間が確保出来た鬼頭は、晶子をディナーに誘った。デートに選んだ店は、市営地下鉄東山線・伏見駅にほど近いトルコ料理店だ。地下鉄の駅で晶子と合流した鬼頭は、彼女の左手を見て、おや? と、目を細めた。コンステレーションの上級モデルが、彼女の手首を瀟洒に飾っていた。スピードマスターで有名なオメガの、レディース時計だ。
「プロミネンテ・クラシコにも勝る高級品だった。さすがに、おかしい、と感じた。たった半年のうちに、もう新しい時計を……それも、高級時計を買うなんて、とね。何か怪しげなバイトをしているんじゃないか? いや、彼女の職場には自分も顔を出したことがある。そういういかがわしい店では、断じてない。ならば、三重県の実家のご両親にねだって買ってもらったか? いいや、彼女の実家は、良くも悪くも日本の典型的中産階級の家柄だ。そんな高級時計を、娘にぽんぽん買い与えられる財力があるとは思えない。……そうやって思いつく限りの可能性について吟味し、最終的に得られた結論が、自分以外の男の存在だった」
「浮気、ってことですか?」
一夏の直接的な問いかけに、鬼頭は頷いた。
「私と晶子が別れることになった、直接の原因さ。間男との関係は婚前どころか、私と出会うずっと以前から、続いていたらしい」
やはり、鬼頭のDVなどが原因ではなかったか。一夏と箒は得心すると同時に、頭を殴打する新情報に言葉を失ってしまった。妻の不倫が原因で離婚とは、よく聞く事例だが、まさかそんなに以前からの付き合いだったとは。だとすれば目の前の男は、いったい、どれほどの時間、彼女と、彼女の身にまとわりつく自分以外の気配に苦しめられたのか。
「時計の由来について、私は晶子に訊ねなかった。質問をすることで、真実を知ったり、はぐらかされたりすることが恐かったんだ。……いやなにより、晶子の気持ちが、自分から離れてしまうのが恐かった。質問により、彼女の気分を害してしまうのではないか、と、私は怯えていたんだ。それほどに、当時の私は、あれの魅力にはまっていた。私は、今度はしかと意識した上で、晶子から感じる間男の存在感に対し、見て見ぬフリを決め込んだんだ」
いま思えば、あのとき、彼女の腕時計の由来について訊ねないと決断したことは、自分たち家族にとってのターニング・ポイントの一つだった。あのとき、自分に晶子を問いただす勇気があれば、不幸な兄妹が世に生まれることもなく、自分一人が失恋の痛みにのたうつくらいの犠牲ですんでいたはずだ。
「私は、仕事に逃げた。情けないことにね。現実を直視するのが、恐かったんだ」
顔も知らない間男の影に怯えながら。そしてなにより、晶子の心変わりを恐れながら。若き日の鬼頭は懸命に働いた。晶子に相応しい男になるのだ。彼女が自分一人からの愛で十分と思ってくれるくらい立派な男になるのだ。そのためには男らしくあらねば。彼女に頼もしいと思ってもらえるような、強い男であらねば! そんな女々しい想いを胸に、日々を駆け抜けた。そして――、
「間男の存在感は、次第に感じられなくなっていった。私は、晶子は自分を選んでくれたのだ! と、舞い上がり、その勢いで彼女にプロポーズをした。晶子はね、笑顔で受け入れたくれたよ。結納もつつがなく終わり、私たちは結婚した。その頃には、間男の気配はまったく感じられなくなっていた。私は、晶子は間男との過去を精算してくれたのだ、と判断した。
しかし、実際には違ったんだ。あいつらは、私と晶子の関係が進むほどに、いっそう、ずる賢く立ち回るようになっただけだったんだ。あいつらは結婚後も、人目を忍んで頻繁に逢瀬を重ねていた。私がそれに、気づいていないだけだった」
「あの……」
一夏の隣に座る箒が、おずおず、と口を開いた。
「気を悪くしないでほしいのですが、その、晶子さんという方は、どうして鬼頭さんと結婚したんですか?」
ここまで聞かされた内容を整理すると、件の二人は、婚前どころか、鬼頭と出会うずっと以前から、特別な関係にあったと推測される。高級時計を短期間のうちに二本もプレゼントしたことから、収入も申し分ないだろう。長い付き合いに加えて、稼ぎも良い。そんな優良物件ではなく、鬼頭を選んだ理由は何なのか。間男ではいけなかった理由は何なのか。
「もしかして、その間男も既婚者だったとか?」
「いいや。彼はその時点ではまだ独身だった。晶子の他には、付き合っている恋人もいなかったはずだよ」
「それなら、なぜ?」
「理由の一つは世間体だよ」
鬼頭はそこで束の間、喉を休めた。まだ十五歳の子どもたちにこれを聞かせてよいものなのか、少しの時間、思い悩み、やがて彼は軽蔑した口調で言った。
「間男は、私よりも五歳年上で、晶子とは十歳もの年齢差があった」
ということは、当時間男は三三歳か。しかし、それくらいの年齢差なら、今時、世間の目を気にするほどでもないように思うが。
「違う。そうだけど、そうじゃないんだ」
鬼頭はかぶりを振った。
「問題は、晶子と、あの男が関係を持ったときの年齢なんだ」
吐き捨てるように呟くと、何かを察したらしいセシリアが、思わず口元を押さえた。強烈な嘔吐感。なんとか、堪える。
セシリアは陽子から、件の男がどんな人物なのか、おおよそのことを聞かされている。
当時十二歳の彼女に、その男は何をしたか。その事実は、彼が子ども相手にそういう劣情を抱けることの証左に他ならない。
「間男が晶子を見初めたとき、彼女は十三歳だった」
二三歳の成人男性が、十三歳の女子中学生に手を出した。なるほど、その事実が白日に下にさらされるようなことがあれば、世間体は最悪だ。彼女は、そのリスクを恐れたか。
「二つ目の理由は、晶子は間男のことを愛していたが、同じくらい、私のことも愛してくれていたからさ」
繰り返しになるが、晶子は自己愛が強く、依存心の強い女だ。常に、自分を庇護してくれる男の存在を求めている。自分を愛し、そして守ってくれる男の人数は一人よりも二人の方が良い、と考える彼女は、鬼頭のことも、間男のことも、等しく愛していた。同じだけ愛している二人を秤にかけ、婚姻関係を結ぶ上での障害がより少ないと思われる方を選んだのだ。
「奇妙に思うかもしれないが、あれはそういう女だった。あれは自分が愛されるために、私のことも、間男のことも、本気で愛してくれていた。私を結婚相手に選んでくれたことも、究極、私のことが好きだったから、と本人が言っていたよ」
愛されるために、人を愛す。晶子という女の行動原理は、いたってシンプルだった。そしてその単純さゆえに、鬼頭夫婦の関係は、少しずつ壊れていった。
晶子と結婚した翌年の八月、智也と、陽子が産まれた。
「子どもたちのことはね、私の方から、晶子に欲しい、と言ったんだ」
自分の申し出を、彼女は快く受け入れてくれた。そこには、彼の求めに応じれば、自分に対しいっそう深い愛情を向けてくれるだろう、という打算があった。
そうして智也と、陽子の二人が産まれ、ほどなくして、彼女は腹を痛めて産んだわが子を、憎むようになっていった。
「ま、待ってください!」
箒が声を荒げた。
「おっしゃっていることの、意味が分かりません。どうして、そんなことになるんですか!?」
「晶子は、私に愛してもらうために、私の求めに応じて、子を産んだんだ」
「それは……はい。分かりたくはありませんが、分かります」
子どもを、いったい何だと思っているのか。子どもは、親の道具なんかじゃないはずなのに。鬼頭を見つめる箒の瞳は憤っていた。
「それが理由さ」
対する鬼頭は、箒の顔を悲しげに見つめた。
「自分のことをより愛してくれると思い、子どもを産んだ。けれど、そうはならなかった。誤算が生じたんだよ。……少なくとも、晶子にとってはね」
智也と、陽子。そして、彼らとのかけがえのない時間を自分にプレゼントしてくれた、愛妻たる晶子。鬼頭は彼ら三人を等しく愛した。彼らとの幸福な日々を守ることこそが、これからの己の使命なのだ、と強く思った。しかし晶子は、そんな自分の有り様を、不満に思ったのだ。
「私は子どもたちのことも、妻のことも、全身全霊で愛した。しかし晶子は、子どもたちのことよりも自分のことを最優先に愛してほしい、と考えていたんだ。
晶子はね、わが子に対し、強烈な嫉妬心を抱いたんだ。いま二人に向けられている男の愛は、本当ならば、自分一人が独占するはずだったもの。自分一人に対し、向けられていなければならないもののはずだ。それなのに、どうして……? とね。彼女は智也たちのことを、夫からの愛を横取りした憎い相手と、だんだん、疎ましく思うようになっていったんだ」
一夏たちは唖然とした。
以前、陽子から大体のあらましを聞かされていたセシリアでさえ、目の前の男に対し、かけるべき言葉を見失ってしまった。
それほどまでに、鬼頭が口にした言の葉は子どもたちの心に衝撃と動揺をもたらした。
親が子を憎む。家族という集団単位の有り様が複雑化して久しい現代日本において、それ自体は珍しいことではない。また、父親にとっては息子が。母親にとっては娘が。それぞれ配偶者からの愛情を奪い合う競争相手ともいえる。そういったことも踏まえると、親が子に対し敵意を抱くなんて経験は、大なり小なり、誰しもに起こりうることといえるだろう。しかし、まさかそんな子どもみたいな理由で、親が子を憎むなんてことが、起こりうるのか……!?
「智也たちに……そして、私に対し、不満を抱くようになった晶子は、間男への依存を深めていった。私に隠れて頻繁に連絡をとり、逢瀬を重ねたんだ」
子どもたちが赤子のうちは、さすがの晶子も間男とのデートを控えたという。しかし、どうしても我慢できなくなったときは、間男と二人、ベビーカーを引いてホテルにしけこんだこともあった、と聞いている。
――さすがにこれは、織斑君たちには言えないな。
十代半ばの少年少女に対し、行為を連想させる直接的な表現を口にするのははばかられた。
それならば、と鬼頭は晶子の過去の所業について、別な一例を記憶の引き出しから引っ張り出す。
「子どもたちがある程度成長すると、晶子たちは二人を家に置いて、デートに出かけるようになった。ある程度、とはいっても、智也たちがまだ二、三歳の頃のことだ。自宅とはいえ、そんな年齢の子どもだけを残して、長時間留守にする。これがどんなに恐ろしいことなのか、ちょっと想像してみてほしい」
少年たちは等しく表情を強張らせた。
認知機能はもとより、感覚器や四肢といった肉体機能の発達も未成熟な幼児にとって、家の中は危険でいっぱいだ。椅子に座ろうとして失敗し、転んで床に頭を打ちつけてしまったり、お腹が減ったから、と母親の真似をして包丁を手に取り、扱いを間違えて怪我をするなどの事故は、子育ての経験なんてない一夏たちにも容易に想像できる。
三人の中でも、特に険しい面持ちなのが一夏だった。眦をつり上げ、奥歯で怒りの感情を噛み殺しながら、吐き捨てるように呟く。
「それが、親のやることかよッ」
その様子を見て、鬼頭は、ああ、そういえば、と過日の千冬との会話の内容を思い出した。
彼女の言によれば、織斑姉弟には両親がいないという。なんでも、一夏が物心もつかない頃に、二人揃って姿を消してしまったらしい。
「親だからって、子どもに何をしたって許されると思っているんじゃねぇよ!」
記憶にないとはいえ、実の両親から捨てられた経験を持つ一夏には、晶子の行いが非道と思えたのだろう。ぶるぶる、と震える手の中で、スチール缶が、べこん、と悲鳴を上げる。
まるでわがことのように憤る一夏に、鬼頭は沈痛な面差しを向けた。
「晶子の智也たちへの仕打ちは、もはやネグレクトと評していいレベルに達していた」
いくつもの意味を与えられた言葉だ。この場合は、児童虐待や育児放棄といった用法が相応しいだろう。
「智也たちが八歳のときのことだ。私は、ふとしたきっかけから、晶子の不倫と、ネグレクトの実態を知った」
かつて、恋人の左手首に巻かれた腕時計について訊ねる勇気を持てなかった男は、この十年ほどの間にすっかり変貌を遂げていた。
いまや自分は、父親なのだ。優先するべきは我がことよりも、家族の幸せであり、なにより子どもたちの未来を守ることだ。これまで正視するのを避けてきた、晶子という女の本質が、子どもたちを、はては家族の幸せを傷つけるというのなら、心を鬼と変えて、彼女と戦わねばならぬ。
妻の不義を知ってしまったその日の晩、鬼頭は子どもたちとよく話した。八歳の彼らに伝わる言葉で愛を囁き、今後のことについて話し合った。父さんと母さんは離れ離れになってしまうかもしれない。二人は、どうしたい? 泣きそうな顔で訊ねた彼に、二人は、これからもお父さんと一緒にいたい、と、そう言ってくれた。鬼頭は破顔し、二人を優しく抱きしめた。
翌朝から、男の戦いは始まった。興信所に連絡をとり、ひそかに証拠を集め始めた。弁護士のもとへ足を運び、二人で戦略を練った。鬼頭の依頼を請け負ってくれた堂島弁護士は、「絶対に勝てる戦いだ」と、豪語してくれた。
「不倫の証拠はすぐに集まった。ネグレクトがあった事実を証明するための資料も完璧な物ができた。私はすぐに、妻と間男に話を持ちかけた。こちらの要求は、不倫に対する慰謝料と離婚への同意、そして親権をよこすことの三つだ。
私からの申し出に対し、晶子は激しく抵抗した。弁護士の先生とともに、何度も話し合いを重ね、なんとか離婚することだけは同意してくれたが、慰謝料と、親権についてはなおも拒んだ。
慰謝料については、こちらも心の整理をするためのケジメとして、何か一太刀浴びせてやろう、という考えから要求したものだ。減額や、分割での支払いを求めてきた場合には、ある程度、譲歩するつもりだった。けれど、親権については、こちらも譲れない」
結局、鬼頭と晶子が合意できたのは、話し合いでの解決は不可能だ、という結論を下したことについてのみだった。大人たちの戦いの舞台は法廷へと移った。
家庭裁判所への道すがら、堂島弁護士は強気だった。
「絶対に勝てるはずの裁判だった。離婚の原因を作った責任はどちらにあるのか、誰の目にも明らかな精度の証拠を集めることが出来た。こちらからの要求についても、弁護士の先生と何度も話し合い、行き過ぎたものではない、と太鼓判を押してもらった。裁判の結果は自分の望んだ通りのものになる、と、私は信じて疑わなかった」
「でも、たしかその裁判は――、」
一夏は言いづらそうに口を開いた。週刊ゲンダイの記事によれば、その裁判の結果は、鬼頭の望むものではなかったはずだ。
「うん。そうだね」
鬼頭はうつむいた。
「私は、裁判に負けた」
捏造部分が大半を占める件の特集記事にあって数少ない、実際にあった事実の一つだ。しかし、正しいのは鬼頭が敗北したというその一点のみで、あとのことは原稿執筆者の想像力の産物だった。勿論、勝敗を分けた要因も、夫からのDVなんて理由ではない。
では、勝てるはずの裁判に、この男はなぜ負けたのか。
「女性権利団体さ」
その名を呟く声には、凄絶な憎悪の念が感じられた。顔を傾けた理由に気づいた一夏たちは、思わず息を呑む。
「それも、愛知県でもとびきり過激な思想をもった団体だ。私たちの裁判は、彼女たちに目をつけられた」
篠ノ之束博士のIS発表から、三年が経っていた。
世界中で急速に広がる第三次フェミニズム・ブームという嵐の中で生まれた、女尊男卑という考え方に取り憑かれた過激派たちは、自分たちの住むこの国が法治国家だということも忘れ、感情論をもって、鬼頭たちに牙を剥いた。
有責者とはいえ、なぜ、女の側が慰謝料を払わねばならないのか。
母親と子どもが離れ離れになるなんて、あってはならないことだ!
法の正当性と証拠を武器に、自分たちの望む結果を目指して積み木を一つ一つ並べていく鬼頭たちに対し、彼女たちは乱暴に腕を振るってそれを崩した。
勝てるはずの裁判の結果は覆り、鬼頭は慰謝料を支払うことになったばかりか、親権まで晶子たちに譲らねばならなくなってしまった上、面会権まで取り上げられた。当然、納得のいかない鬼頭たちは上告したが、その訴えは権利団体との個人的なつながりが噂される女性判事によって退けられた。
一夏たちは絶句した。目の前の男に対し、なんて声をかければよいのか、分からない。
「おそらくだが、あのときこそが、私の人生における、いちばんのターニング・ポイントだった。上告が退けられたとき、なぜもっと抗議をしなかったのか。法律など知ったことか! と、なぜ子どもたちを連れて逃げなかったのか。そうしていたなら……」
いまよりも苦しい未来が待っていたかもしれない。しかし、それでも、失うことだけはなかったはずだ。
彼の命だけは、守れたはずだ。
「裁判の後、晶子は間男と籍を入れた。依存心の強い彼女は、夫という庇護者を失ったことで、新たに寄りかかれる存在を求めて焦っていたんだろう。裁判の過程で、間男の幼女趣味は白日の下にさらされてしまっていたから、もはや世間体など気にする必要もない。なりふりなど構っていられない、という感じだったよ。
夫婦となった彼らは、間男の実家がある四日市へと引っ越していった。勿論、智也と陽子も一緒だ」
中学生の頃、学校の授業で聞いた覚えのある地名だ、と一夏は過去の記憶を掘り起こした。たしか、公害病の蔓延が社会問題となった街だったか。そういえば愛知県と、四日市市を抱える三重県は県境を共有する位置関係だったな、と頭の中で地図を思い描く。それなら、なおのこと辛かったに違いない、と当時の鬼頭の心境を想い、一夏は胸が苦しくなった。名古屋から四日市なんて、すぐの距離じゃないか。それなのに、法律が原因で会えないなんて。
他方、一夏の隣に座る箒もまた、うつむく鬼頭を前に胸を痛めていた。
今日、世界中で猛威を振るっている女尊男卑の思想は、ある意味で、彼女の姉によってもたらされたものといえる。姉がISなんて物を開発しなければ、フェミニスト団体がこうも勢いづくことはなかっただろうし、その活動によって鬼頭親子が苦しめられることもなかったはずだ。
――この人は、姉さんの発明のために、不幸になったのだ……。
姉の発明品が世界の仕組みを変え、そのために不幸になった人間がいる。
話には聞いていた。
しかし、実際に目にするのは、これがはじめての経験だった。
箒は目の前の男に対し、哀れみとも、罪悪感ともとれぬ、複雑な感情を抱かずにはいられなかった。
「私が、次に、陽子と再会を果たしたのは、離婚成立から四年ほど経ったときのことだった」
違和感から、一夏たちは怪訝な表情を浮かべた。
なぜ、陽子一人だけの名を呟いたのか。
もう一人、双子の兄だという、智也はどうしたのか。
「晶子の実家は同じ三重県の伊賀上野市にあるんだが、そちらからね、連絡があったんだ。陽子のことを預かっている。彼女は私に、会いたい、と言っている、とね。私はすぐに伊賀上野へと向かった」
この先の展開を知るセシリアが、いまにも泣き出してしまいそうな顔になった。
「四年ぶりに会った陽子は、記憶にあった姿よりも、ずいぶんと痩せていた。……分かるかい? 当時十二歳の少女が、八歳のときよりも、痩せていたんだよ!」
明らかな栄養失調状態。よく見れば背丈も、ほとんど伸びていなかった。
「それだけじゃない。陽子の体には、無数のアザがあった」
「それって……」
「ああ、そうだ。私との離婚後、虐待はますます酷いものになっていったんだ。陽子は私に、助けを求めてきたんだよ」
晶子との結婚後ほどなくして、間男は当時勤めていた建設会社を辞めさせられた。四年前の騒動に際して、鬼頭は間男を追いつめるために、関係各所に二人の不貞を示す証拠を同封した内容証明郵便を関係各所に送っていた。その中には彼が勤務していた会社も含まれており、晶子たちの不適切な関係は、社内に知れ渡ってしまった。
鬼頭との裁判に勝った彼らではあったが、法によるお墨付きを得ても、世間からの目は厳しかった。なにしろ、不倫の末の略奪婚。しかも、最初に手をつけたのは十三歳のときときている。会社内で間男は白眼視され、遠回しないじめに遭い、どんどん立場を失っていった。やがて居心地の悪さから、彼は自らの意思で退職願をしたためた。
再就職先を探すのには難儀した。彼ははじめ、同じ建築業界内で就職先を探したが、その就職活動は失敗に終わった。元いた会社からのリークにより、彼らの非道については業界内で有名な話として広まっていた。やむをえず、彼は異業種へと目を向けたが、こちらもことごとく失敗。なんとか地元のファミレスで契約社員として雇ってもらうも、当然、収入は激減した。
「子どもたちへの暴力は、この頃から始まった、と聞いている。あの男は、仕事が上手くいかないなんてストレスのはけ口に、あの子たちを利用したんだ!」
間男からの暴力は日ごとエスカレートしていった。
彼らは、収入が減じてしまったにも拘らず、生活の質を落とそうとしなかった。
そんな彼らにとっての頼みの綱は、鬼頭からせしめとった慰謝料五〇〇万円と、毎月十六万円の養育費だった。寝取られた側からの施しが生命線という現状を惨めに思ったか、間男はどんどん苛立ちを募らせ、暴力を振るう回数は増えていった。
「そんな暴力をともなう虐待の日々の中で、智也が、死んだんだ」
一夏は、過日行われたクラス代表決定戦のときに陽子とセシリアの間で交わされた言葉を思い出した。
お前達のような女が、智也兄さんを、殺した。
あのとき、彼女ははっきり、そう口にしていた。
あれは、
あのときの言葉は、そういうことだったのか。
「智也は、親の贔屓目かもしれないが、優しい子だった。そして強い子だった。あの子と、陽子は、双子で、兄と妹の立場の差なんてあってないようなもののはずなのに、四日市へと引っ越す前日の夜、あの子は私に、宣言してくれたんだ」
これからは、自分が父さんに代わって、妹のことを守ってみせる。
「智也は、自らが口にしたその言葉を守り続けた。あの子は、間男の暴力から陽子をかばったんだ。暴力の嵐を、自分一人で受け止めた。そして、死んだ。あいつらに、殺されたんだ」
女尊男卑の思想を信奉する女たちの介入によって歪められた、司法の場。下された判決によって親子は引き裂かれ、挙げ句、双子のうちの、片方が亡くなった。
陽子が女尊男卑思想の原理者たちを憎むのも当然だろう。直接、手をくだしたのは間男だが、彼女たちがその背中を押したも同然だ。
一夏たちはようやく、あの試合で彼女が見せた、怒れる眼差しの意味を理解した。
「智也が亡くなったことを、私は知らなかった。知らされなかったんだ。後に晶子たちに確認したところ、養育費の減額を恐れて、私には言わなかったんだそうだ。しかもあの二人は、互いに口裏を合わせることで、あの子の死を事故に見せかけた。本当は、間男に背中を突き飛ばされた際に階段から転げ落ち、頭を打ったことによる、脳挫傷が原因だった」
一夏たちは茫然とした。
鬼頭が語る晶子と間男が、自分たちと同じ人間とはどうしても思えない。まるで、違う星の生き物について、聞かされている気分だ。それほどに、二人の行動は、少年たちの理解の範疇を超えていた。養育費を減額されるのが嫌だったから、息子の死を実の父親に伝えない? そんな決断をした心理が、想像できない。
「智也が亡くなった後、間男たちの暴力は、今度は陽子一人に集中することになった。そんな生活がさらに二年続き、耐えかねたあの子は、私に助けを求めてきたんだ。智也のことも、そのとき、知らされた」
深い悲しみと、激しい怒りが、鬼頭の身の内で暴れ出した。
もう一秒たりとも、陽子のことをあいつらに任せておけぬ、と、彼は再び、晶子たちとの対決を決意した。
当時の上司や親友の桜坂に協力を要請し、さらには、堂島弁護士や松村探偵といった、四年前にも世話になった方々と連絡をとって、雪辱を晴らす気はないか、と声をかけた。
かくして、四年ぶりにチーム・アップした彼らは、晶子たち夫婦を、殺人と児童虐待、そして養育費の不正受給の罪科で訴えた。こんな二人のもとでは、まともな生育は期待出来ぬと、改めて陽子の親権をこちらに譲る決定を下すよう、裁判所に求めた。
「つまり、それがあの週刊誌にも書かれていた……」
「そうだ。親権を、無理矢理に奪い返した、という記述の元ネタさ」
鬼頭たちはまず警察に晶子たちの非道を訴えた。二人はすぐに逮捕され、まず刑事裁判が開かれた。
四年前、鬼頭らの敵に回った女性権利団体は、今度はこちら側の味方となってくれた。女性権利団体の構成員は、当然ながら、大部分が女性だ。間男の暴力により、女性である陽子が傷ついたという事実は、彼女たちを奮い立たせる十分な動機となった。彼女たちの援護射撃もあって、裁判はつつがなく進行した。
他方、親権を巡る民事訴訟については、被告人不在という状況の中で、裁判が行われた。今回、鬼頭たちの問題を担当してくれた判事は、彼らに好意的だった。彼は一日でも早く、親子が一緒に暮らせるように、とすみやかに裁定を下してくれた。かくして、父と娘は、ともに暮らせるようになったのである。
「……これが、かつて私たち家族の身に起きた出来事さ」
顔を上げ、鬼頭はすっかりぬるくなってしまったお茶を飲み干した。
空の缶を机に置き、涼しげな冷笑を口元にたたえる。しかし、その目は笑っていなかった。明らかな作り笑顔。こちらに気を遣わせないためだろう、とすぐに分かった。
「すまないな。聞いていて、気持ちの良い話ではなかっただろう?」
「……いいえ」
一夏はかぶりを振った。真摯な声が、鬼頭の耳朶を打つ。
「俺の方から、望んだことですから。俺の方こそ、辛い記憶を、思い出させてしまって、すいませんでした」
一夏は深々と頭を下げた。顔を上げると、腹の底から絞り出したかのような、気迫に満ち満ちた語気を、唇から迸らせる。
「それから、ありがとうございます。辛い思いをしてまで、俺のお願いを、聞いてくれて」
「少しは、役に立ったかな?」
「はい」
一夏は力強く頷いた。
「智之さんたちのことを、よく知ることが出来ました。この話を聞けて、よかったと思います」
「うん」
「それと、」
一夏は、そこで束の間、喉と舌先を休めた。
脳裏に、鈴の顔が思い浮かぶ。
「いまの話を聞いて、確信しました。やっぱり、鈴は智之さんたちの事情を、よく知らないんだと思います。知っていたんだとしたら、あんな酷いこと、口に出来るはずがない」
人付き合いを苦手としている娘ではある。しかし、人の気持ちが分からない娘ではない。目の前の男が、死んでしまった息子のことでいまなお塗炭の苦しみにのたうつ日々をしいられていることを知っていたなら、そんな罵るなんてことは出来ないはずだ。
かといって、よく知りもしない人物のことを、悪く言うような娘でもなかった。
やはり、顔を合わせなかったこの一年ほどの間に、彼女の身に何かが起きたとしか考えられない。
次にするべきは、その何かを知ることだが。
「智之さん」
「なんだい?」
「もう二つ、お願いしてもいいですか?」
「ふむ。まずは、話を聞こうか」
「まず一つ。今度のクラス代表対抗戦のことです。一回戦目の俺と鈴の試合ですけど、観客席じゃなくて、ピットルームから、観戦してもらえませんか?」
「それは構わないが……」
鬼頭は怪訝な表情を浮かべた。
「いったい、なぜ? ピットルームでなければならない理由は、何なんだい?」
「二つ目のお願いに関わることです。ピットルームで打鉄を展開して、プライベート・チャネルの回線を白式に合わせた状態で、俺たちの試合を見ていてほしいんです」
「……なるほど」
鬼頭は得心した様子で頷いた。
プライベート・チャネルとは、およそすべてのISに標準装備として搭載されている通信機能で、要するに秘匿回線だ。他人の耳目を気にすることなく、音声会話や、文書データなどのやり取りを行うことが出来る。そんな機能を起動させた状態で、試合を観戦してほしい、ということは――、
「つまり、私に、きみと凰さんの会話を聞かせたいわけだね?」
「さっきも言いましたけど、俺にとって、鈴は大切な幼馴染みです」
一夏は力強い語調で宣言した。
「大切な友人だからこそ、詳しい事情なんてほとんど知らないのに、智之さんに酷い言葉をぶつけたことが、許せないんです。だから……!」
「分かったよ」
鬼頭は完爾と微笑んだ。
「きみの言いたいことは、分かった。きみの望む通りにしよう。……凰さんは、果報者だな。きみのような優しい子を、友人とすることが出来たんだから」
鬼頭が言うと、一夏は照れくさそうに微笑んだ。気恥ずかしい思いを誤魔化そうと、まだ中身がたっぷり残っている缶を唇に寄せる。直後、少年は顔をしかめた。気がすっかり抜けてしまったコーラは、やたら甘いだけの汁へと成り果てており、一夏の嗜好からははずれてしまっていた。
Chapter18「決意の日」了
かくして鬼頭たちは、少しずつ理解者を増やしていくのであった。