少しずつ、少しずつ、
前へ、前へと。
鬼頭のことを、みんなが受け入れてくれるように。
時計の針を、少しだけ、巻き戻す。
混乱。
喧噪。
停滞。
怒号。
そして、悲鳴。
IS学園第二アリーナの廊下は、どこもかしこも、人、人、人の群れで埋め尽くされていた。
多くは、学園の制服がまだ初々しい、一年生の少女たちだ。避難誘導員の役を買って出た上級生たちの指示に従って、非常用の出入口へと急いでいる。アリーナの各所に設置された、放送用のスピーカーから発せられた避難指示を受けての行動だ。『緊急事態発生! 館内にいる全生徒、全職員は、非常時対策マニュアルのCプランに従って、速やかに館外へ避難してください!』と、緊迫した声に尻を叩かれながら移動する彼女たちの顔には、等しく、怯えと焦燥、そして苛立ちに由来する攻撃性の萌芽が見て取れる。
いったい何が起こっているのか。いやそれよりも、早くこの場から逃げなければ。いま、アリーナでは正体不明のISが暴れている。アリーナの遮断シールドを破壊してしまうほどの攻撃力を持った相手だ。いつ、この分厚い壁を破って、自分たちの前に現われるかも分からない。一秒でも早く、一メートルでも遠くに……! それなのに、前を歩いているあの娘の背中が邪魔だ! もっと速く走れないのか!? 先ほどからやかましい、警報装置のサイレンの音も、心臓を余計に高鳴らせて鬱陶しい。苛立ちが募って、しょうがない!
一年一組の女子生徒、相川清香も、正確な情報を得られないフラストレーションに起因する混乱と、謎のISに対する恐怖から強いストレスを感じている一人だった。
ハンドボール部に籍を置き、毎朝のジョギングが日課という健康的なスポーツ少女だ。文武両道の体現者たる才媛だが、さすがに、斯様な命の危機と遭遇した経験はない。彼女は冷静さを失い、気が動転していた。
非常口へと先導する先輩の背中を頼もしく思う一方で、もうちょっと速く移動出来ないものか、と、恨めしく思うのを禁じえないでいる。そのうえで、自身のそうした考えが、理不尽なものである、との自覚もあり、自分はこんなにも汚い人間だったのか、とショックから顔を青くしていた。
ほんの数分前まで、彼女は級友の布仏本音や夜竹さゆからと、クラスメイトの勇戦ぶりを、ハラハラしながら楽しんでいた。クラス代表対抗戦、一年生の部の、第一試合を観戦していたのだ。対戦カードは、織斑一夏対凰鈴音。ともに専用機持ちという特別な立場に加えて、かたや世界にたった二人しかいない男性操縦者の一人、かたや中国からの代表候補生という、大金を積んででも観る価値のある試合だ。当然、観客席は彼女たちの他にも多くの人で賑わっていた。一年生だけでなく、上級生や学園の教員たち、裏方のスタッフなどもほぼ全員が詰めかける、さながらカーニバル会場のごとき状態だった。
肝心の試合内容も、彼女らの期待を良い意味で裏切ってくれた。
専用機持ちとはいえ、一夏はつい先日ISを動かせることが判明したばかりの初心者だ。他方、対戦相手の鈴は、僅か一年であの人口大国・中国で、代表候補生の座を射止めたほどの実力者。試合は、十中八九、織斑一夏の完敗。よくて鈴の辛勝だろう、というのが、清香たちも含む大方の事前予想だった。
しかし、蓋を開けてみれば、どうだ。一夏は中国の代表候補生と互角以上に戦ってみせた。衝撃砲を攻略し、《双天牙月》の連打を凌ぎ、逆に《雪片弐型》を縦横に振るって相手を追い立ててみせた。一夏の思わぬ善戦ぶりに、観客席は興奮の坩堝と化し、其処彼処から黄色い悲鳴が上がった。必殺の『零落白夜』が炸裂し、鈴のISのシールドエネルギーの残量が二割を切ったときなど、普段は物静かなさゆかが、思わず歓声を上げたほどだ。それほど間に、見る者の心を揺さぶる好試合だった。
そんな闘争心を刺激する戦いも、やがて決着のときを迎えようとしていた。
一夏の猛攻の前に、ついに鈴が追いつめられた。
あと一太刀。
どの部位でもいい。
とにかく、あと一太刀、相手のボディに触れることさえ出来れば、一夏の白星が決まる。
決着の瞬間を決して見逃すまい、と観客席の誰もが固唾を呑んで見守る中、不躾なる乱入者は、突然現われた。場内で激しくぶつかり合う二人が、熱中のあまり試合場の外へ飛び出さぬように、と天井代わりに展開していた遮断シールドを突き破って、異形のISが場内に降り立った。
IS研究の最前線、IS学園に通う清香たちをして、はじめて見るタイプのISだった。
闇色に彩られた全身装甲。異様に長く、下腕がビール瓶のように膨らんだ腕。その頭部はフルフェイス・タイプのヘルメットによって覆われ、面覆いでは、不規則に並んだ複数のセンサー・レンズが不気味に輝いている。国籍や所属団体を示すマークはどこにも見られず、まさしく正体不明の機体だった。いったい、何者なのか。観客席の清香たちが困惑していると、謎のISは、警戒の姿勢をとる一夏たちに向けて攻撃を開始した。掌に設けられた四門の開口部より、荷電粒子の奔流が撃ち放たれ、場内に取り残された二人を追いつめていく。
謎のISからの害意を認めて、観客席の少女たちは等しく総毛立った。
本来、非常事態の発生をアナウンスしてくれるはずの放送室はなぜか沈黙したままだが、何が起こっているのかは、誰の目にも明らかだ。間違いない。
IS学園は、
自分たちの通う、この学び舎は、
――攻撃されている!? まさか、このIS学園が……!?
清香の驚きは、IS学園を進学先に、と選んだ少女たち全員が等しく抱いた思いだった。
最強兵器ISを、常に三十機以上も保有しているこのIS学園は、世界屈指の戦闘力を誇る軍事施設でもある。そんな場所に手を出してくる相手がいるなんて……! 相手はいったい何者なのか? 敵の数は? 狙いは? いやそもそも、これは正気の沙汰なのか……?
茫然とする清香たちの耳膜を、背後からの悲鳴が激しく揺さぶった。
今度はいったい何が起こったのだ!? と、慌てて振り返り、少女たちは絶句した。
観客席エリアと廊下とをつなぐ横開きのドアを、一人の女生徒が必死の形相で叩いている。フランスからの留学生だ。いつまで経っても放送室からの避難勧告のアナウンスがないことに痺れを切らし、この場から逃げ出さねば、と席を立ったはいいが、肝心の扉が開かずに、困っているようだった。
アリーナ内の扉はすべて、産業スパイ対策のため電子錠によって管理されている。扉脇の壁面に設けられた非接触式センサーの前に生徒手帳をかざすと、ドアのロックが解除される仕組みだが、どうやらそれが反応してくれないらしい。生徒手帳を何度掲げても、うんともすんとも言わず、早くこの場から逃げなければ、という焦りが、動揺という火縄に、パニックの火を灯した。恐慌状態に陥った彼女は、無駄だと承知の上で、特殊軽合金製の戸を激しくノックした。少女の白い手が、たちまち真っ赤に変色していく。
「開かない!? ねえ、なんで? なんで開かないのよ!?」
見回せば、他の出入口でも同じような光景が見られた。どうやら、第二アリーナのすべての扉が、同様の不具合を見せているらしい。自然、清香たちの目線は、一夏たちと戦う異形のISへと向けられる。
「まさか、あのISの仕業なの……?」
状況から判断するに、間違いなさそうだった。
第二アリーナに数十とある扉のすべてが、一斉に故障を起こすなんて事態、自然な現象とは考えづらい。あのISか、その仲間が、自分たちの退路を断つために引き起こしたことだろう。
おそらく、IS学園は現在、電子的な攻撃を受けている。外部からのハッキングによりセキュリティ・システムを掌握され、ために、扉の電子制御が効かないのだ。そうやって考えると、放送室がいまだ沈黙したままなのにも納得出来る。放送室にあるすべての設備の制御を奪われ、避難指示を出したくとも、出せない状況にあるのだろう。そういえば先ほどから、試合場内の一夏たちの声も聞こえない。さっきまで、オープン・チャンネルを用いての会話は、スピーカーから聞こえていたのに。
閉じ込められた、と状況を飲み込んだ少女たちは騒然とした。特に、一年生の娘たちの動揺が酷い。誰かの胸の内で恐怖の感情が爆発し、その恐れが、別の誰かへと伝播する。
観客席は、混乱の坩堝と化した。経験豊富な上級生たちが動揺を鎮めようと声を張り上げるも、虚しく響くのみだった。ほとんどの観客席で、一年生は一年生のグループごとに、二年生は二年生のグループごとに固まって座っていた。パニックに陥った十数人からの集団の手綱を、二、三人しかいない上級生が握るのは難しかった。
変化の兆しは、突然現われた。
謎のISの出現からおよそ一分の後、それまで、沈黙を保っていた館内のスピーカーが、一斉に、声を発した。
『っ! 放送室設備の復旧を確認!』
聞こえてきたのは、今回のクラス対抗戦のアナウンサーを任されたという三年生の放送部員の声だった。彼女の呟きから、やはり放送室のコントロール権を奪われていたのか、と解答を得る。そしてそれがこちらに戻ってきたということは……、ほどなくして、放送部員の生徒の絶叫が、館内に響き渡った。
『緊急事態発生! 現在、当学園は正体不明のISからの攻撃を受けています! 館内にいる全生徒、全職員は、非常時対策マニュアルのCプランに従って、速やかに館外へ避難してください! また、二年生以上の生徒会執行部、防災委員は、一年生の避難誘導に従事してください! 繰り返します。緊急事態発生……』
館内にいる全員に周知させるため、繰り返し述べられるアナウンスの、一回目が終わろうかというタイミングで、閉ざされていた扉の電子ロックが解除された。自動的に開き、開いた状態で、ストップ・ロックがかけられる。
清香たちのいる区画に、ぞろぞろ、と上級生たちがやって来た。彼女たちは自らを、防災委員会の者です、と名乗ると、自分たちの指示に従って避難するよう、一年生の娘たちに告げた。少女らはほっと安堵の表情を浮かべたが、タイミング悪く、謎のISの荷電粒子砲が白式のウィング・スラスターに命中! 小爆発の音がスピーカーから発せられ、その脅威の火力を思い出してしまう。すぐにまた、怯えた表情になった。我先に、と逃げ出そうとするのを、上級生たちが必死になだめる。
「落ち着いて! 前の人を押さないで!」
軍事施設としての活用も考慮されている、IS学園の校舎の間取りは、万事が広い。観客席の戸は完全武装の兵員が三人横に並んでも出入り出来るよう、余裕たっぷりに造られているが、それも整然と並んでいればの話だ。順番など関係ない。横入り上等、と詰め寄せる一年生たちの人の波の前に、出入口の排出力はあっという間にパンクしてしまう。
幸い、清香とその友人たちは、機転を利かせた二年生の誘導によって、空いている別の出入口へと案内された。非常口までは少し遠回りになるが、人通りが少ないため、すいすいと進むことが出来た。
ストレスフリーな状況との訣別は早かった。
非常扉のあるエリアまで辿り着いたところで、一行は立ち止まらざるをえなくなってしまった。非常扉に百人からの生徒が殺到し、群れなし、ごった返している。僅かな隙間になんとか身体をねじ込み、進もうとする誰かの肘が当たって、誰かが倒れた。すかさず、三年生の上級生が助け起こすも、転倒の際に腰を打ったらしく、その顔は苦悶に歪んでいた。
統制も何もなかった。誰もが、自らが助かりたい一心で、他者を顧みる心を失っていた。
その有り様を醜いと思う清香だったが、傍目には自分も同じように見えるのだろう、と思うと気が重かった。
『そこを動くな!」』
そのとき、アリーナの廊下に設置されたスピーカーから、男の、勇ましき絶叫が轟いた。
有無を言わせぬ制止の声に、出入口に群がる少女たちの動きが一瞬、止まった。
直後に、金属の塊同士が物凄い速さでぶつかる轟音と、圧縮された空気の破裂音。
自分たちが後にした試合場で、何かが起こったと悟る。
『二人とも、無事かい?』
『智之さん!』
次いで聞こえたのは、優しい口調によるいたわりの言葉だった。鬼頭の声だ。口ずさまれた言葉の内容から察するに、どうやら彼も試合場に降り立ったらしい。先ほどの轟音は、彼があの謎のISを攻撃した音か。
少女たちはその場から逃げ出すことを忘れ、その声に聞き入った。どうやら放送室の者たちは、館内スピーカーの機能設定を、いまだに“試合中”としているらしい。オープン・チャネルを介して交わされる会話のすべてを、スピーカーは拾って聞かせた。
清香も含め、非常扉の前に集まった一同は、会話の内容を一言たりとも聞き逃すまい、と耳目に意識を集中させた。先ほどまでの喧噪が嘘だったかのように、廊下は静まりかえっている。鬼頭、一夏、鈴、三人の声だけが、冷たい廊下に響いた。
三者の会話を忍び聞く清香たちの表情は、やがて強張った。
なんと鬼頭は、シールドエネルギーの消耗しきった二人を後退させ、一人であの黒いISと戦うつもりなのだという。
それを聞き、廊下の清香たちはまた恐怖のどん底へと突き落とされた。
口さがない誰かが、もう駄目だ、もうおしまいだ、と泣き叫ぶ。
鬼頭智之は所詮、ほんの一ヶ月半前にISを動かせることが判明したばかりの初心者だ。専用機持ちとはいえ、ISの累計稼働時間は十時間もあるまい。それに対し、敵は最新鋭の第三世代機が二人がかりで挑んでも苦戦するような相手だ。きっと、歯牙にもかけずにやられてしまうだろう。
鬼頭が倒れれば、あのISは野放しになる。あの脅威の荷電粒子砲を思う存分ぶっ放し、アリーナの設備を破壊し尽くし、そしてやがては、自分たちの前に現われるだろう。近い将来の想像に、少女たちは胴震いした。
一夏と鈴は、鬼頭の申し出に対し、当然、反対の意見を口にした。最新の第三世代機で身を固めている自分たちでさえ苦戦する相手だ。鬼頭一人で戦うなんて、どう考えても無謀すぎる。鈴にいたっては、鬼頭の技量について信用出来ない、ときつい言葉を叩きつけてまで、彼の変心を促そうとした。
『ふむ。たしかに、その通りだね』
鈴の指摘に対し、鬼頭は素直に頷いた。
いま試合場にいる三人のうち、最も弱いのは自分である。そう認めた上で、彼はなおも、三人がかりで挑みましょう、という子どもたちの提案を拒んだ。
なぜ、と、重ねて問いただす鈴に、鬼頭は、力強く言い放った。
『簡単なことさ』
鬼頭の声は、笑っていた。
少なくとも清香たちには、彼が、笑っているように聞こえた。
『きみたちが子どもで、私が大人だからだよ。大人には、子どもを守る義務がある』
なぜか、その言の葉は、恐怖から身をすくめる清香たちの腹中に、すとん、と落ちた。
子どもたちを守る。
自分たちのことを、守る。
鬼頭智之という男のことを好意的に思っている者も、嫌悪感を抱いている者も、はては無関心の者の胸の内にさえ、その声は、印象深く響いた。
『それに……』
鬼頭の言葉は続いた。
にこやかな口調から一転、声に、鋭い険が宿る。
『……あのISは、きみたちを傷つけた』
『と、智之さん……』
『この鬼頭智之の目の前で、子どもを傷つけたんだ!』
激昂。普段の彼からは考えられない、荒々しい口調と、言の葉に篭められた憤怒の感情に、清香たちは、びくり、と胴震いした。
『二度と失うものか。二度と、間違えるものか! やつは、俺の手で、スクラップにしてやる!』
鬼頭は、吼えた。牙を剥き、吼えた。少女たちがはじめて耳にする、彼の、凄絶な、怒りの絶叫だった。自分たちに向けられたものではない、と分かっていても、恐怖から身を強張らせずにはいられない、凄まじいまでの、憤怒の激情を感じた。
と同時に、清香たちはその声を耳にして、急に、悲しい気持ちになった。
鬼頭の雄叫びからは、怒りとともに、深い悲しみが感じられた。
理由は分からないが、彼女たちは、鬼頭はいま泣いているのでないか、と思った。
なぜか、過日行われた一年一組のクラス代表決定戦の際に、陽子が口にした、「智也兄さん」という言葉が、急に思い出された。
「……ねえ」
清香は、やおら前へと踏み出した。
IS競技者としての鬼頭智之の腕前に疑義を唱え、失望感に咽び泣く他クラスの女子に、声をかける。
「そんな落ち込んでいる暇があったらさ、早く、ここから逃げようよ」
彼女は茫然とした眼差しで清香のことを見つめ返した。
「いまの、聞いたでしょ? 鬼頭さん、わたしたちのことを守る、って言ってくれたよ。鬼頭さんの気持ちに報いるためにも、早く、ここから避難しないと」
「……無駄よ。代表候補生や、千冬様の弟が苦戦するような相手に、あの男が勝てるわけ……」
「わたしは、信じることにしたよ。鬼頭さんのこと」
清香は、相手の言葉を遮り言った。
「いまの言葉を聞いてさ、ああ、もう大丈夫だ、って安心した。この人は、何があってもわたしたちのことを……子どものことを守ってくれる人だ、って思った。だからわたしは、信じることにした」
絶対に守ってみせる、という強い意志を感じた。
勿論、清香が彼のことを信じようと決めたのは、そればかりが理由ではない。
自分たちのために、あんなにも怒ってくれる人。
自分たち、子どものことを思って、あんなにも悲しんでくれる人。
だから、信じよう、と思った。信じたい、と思った。
自分たち子どものことを、本当に、心の底から想ってくれている。
そう感じたからこそ、この人に任せておけば大丈夫だ、と思った。
「不思議だよね。IS操縦者としてはまだまだルーキーで、持っているISだって旧式の第二世代機。信じられる要素なんて、何一つないはずなのにね」
清香は苦笑した。
ほろ苦く笑いながら、それでも、と胸の内で呟いた。
「きっと、大丈夫だよ。あの人は、わたしたちのことを絶対に傷つけないし、傷つけさせない。傷つけようとする者を、決して許さない」
子どもたちのためならば、鬼となる。
鬼となれる男。
男性の、大人。
父親。
そんな彼だから、信じられる。
自分たちの背中は、鬼頭が守ってくれる。
そう信じていればこそ、焦ることなく、この場から避難出来る。
清香は周囲のみなの顔を見回した。
「みんな、落ち着こう。落ち着いて、ここから逃げよう」
少女たちは、互いに顔を見合わせた。直前までの自らの行動を省み、恥じ、そして頷き合うと、防災委員会の先輩の指示を仰ぐ。二列に並んで。落ち着いて。押さないで。上級生たちの指示に従い、整然と隊伍をなした。先刻までの混雑ぶりはいったい何だったのか。非常扉はすいすいと、彼女たちを飲み込み、館外へと吐き出していった。
インフィニット・ストラトス二次創作
「この小さな世界で愛を語ろう」
Chapter24「謝罪とお礼」
無人ISとの死闘を終えて二時間後、鬼頭は以前にも世話になったあの取調室で、過日と同様、千冬から事情聴取を受けていた。話題の中心は勿論、あの謎のISとの戦闘の経過についてだ。戦いの様子は千冬たちもピットルームからモニターしていたが、実際に戦っていた本人たちにしか分からないこと、気づいたことがあるかもしれぬ、という意図から取り調べだった。彼女曰く、一夏や鈴も、別室で同様の扱いを受けているという。
事情聴取は淡々と行われた。千冬が訊ね、鬼頭が質問の内容について所見を述べる、というやり取りが幾度となく繰り返される。時折、質問の主は鬼頭へと変わり、千冬が回答者となる場面も見られた。あのISは本当に無人機だったのか。一夏や鈴たちに怪我はないか。観客席の生徒たちは無事だったのか。それらの問い一つ々々に、千冬は丁寧に答えた。すると、鬼頭はほっと安堵の表情を浮かべた。
取り調べが始まって半刻後、十分な情報量を得たと判断した千冬は、ブック型端末のボイス・レコーダ機能を停止させた。鬼頭に対し、「今日はこのあたりで切り上げましょう」と、提案した。
「また後日、こういった席を設けることになるかもしれませんが……」
「そのときは、勿論、協力しますよ」
「助かります」
パイプ椅子から立ち上がった千冬は、鬼頭に向かって深々と腰を折った。その際、目線が彼の右手へと束の間、向けられる。
鬼頭の右手に、金色の指輪の姿はなかった。戦闘ログの解析のため、彼の相棒はいま、別の教師のもとに預けられている。
「鬼頭さんの打鉄は、夜までにはお返ししますので」
「そいつはよかった」
鬼頭は微笑を浮かべた。諧謔を孕んだ口調で言う。
「このところ、ずっと身につけていましたからね。先ほどから、中指が軽すぎて落ち着かないんですよ」
「なるべく早くお返し出来るよう努めます。……それと、」
「はい」
「今日のことや、この取調室でのことは……」
「承知しています。口外はいたしません」
「ありがとうございます」
「私からも、一つ、お願いしたいことがあるのですが」
「なんでしょう?」
「弟さんのことです」
自身もパイプ椅子から立ち上がると、鬼頭はやや身を屈めて千冬と目線の高さを揃え、完爾と微笑んだ。
「あとで、お姉さんとして褒めてあげてください」
機体の消耗著しい鈴を庇いながら、正体不明の敵を相手によく戦った。彼の健闘による時間稼ぎがなければ、自分のワクチン・プログラムが完成することもなかっただろう。事態が終息するまでの間に、多くの犠牲者が出ていたに違いない。彼の頑張りが、みんなの命を救ったのだ。
「きっと、喜ぶと思いますよ」
一夏が姉の生き方やその有り様に憧れと、深い尊敬の念を抱いているのは普段の態度からも明らかだ。彼女からの褒め言葉は、彼にとってなによりの誉れとなろう。
と同時に、これは千冬にとっても弟に好意を伝える好機のはずだ、と彼は確信していた。
自分の見たところ、織斑千冬という人物は口下手なところがある。本当は弟のことを大切に想っているのに、言葉選びが苦手なせいで、なかなか気持ちを伝えられず、普段から苦慮しているように見受けられた。
鬼頭の言葉に、千冬ははじめ渋面を作った。
唇を開き、何か言おうとしては、断念して口を閉ざす、という動作を何度か繰り返した後、彼女は、ぶっきらぼうに応じた。
「……考えておきましょう」
弟の敢闘ぶりを素直に褒めるのは気恥ずかしいらしい。渋々呟いた千冬の頬は、やや赤かった。
相変わらず不器用な人だなあ、と鬼頭は苦笑した。
取調室から退出した鬼頭の視界にまず飛び込んできたのは、愛娘たちの安堵の表情だった。陽子とセシリア。どうやら、鬼頭に対する事情聴取が終わるのを、廊下で待っていたらしい。
「父さん!」
「事情聴取は、終わったみたいですわね?」
「うん。今日のところはな」
鬼頭は二人に向けて完爾と微笑んだ。それから、左手のボーム&メルシェに目線を落とす。時刻はすでに午後三時。謎の無人ISとの死闘とその事後処理、さらには事情聴取のために、昼餉を食いっぱぐれていた。
「二人とも、昼食は?」
「お父様とご一緒しようと思っていたので、まだですわ」
「もう、お腹ぺこぺこだよ」
「そいつは悪いことをしたな」
謝罪の言葉を口にして、さて昼食をどうするか、と鬼頭は悩ましげに眉根を寄せた。おとがいを親指の腹で撫でながら、少しの間、考え込む。
千冬の言によれば、クラス代表対抗戦は中止となったという。ということは、校舎側の食堂にしろ、学生寮の食堂にせよ、これらの施設には昼時を過ぎてなお、暇を持て余した生徒たちがたむろしていることだろう。
騒動の最中、自分たちは計測機器の充実しているピットルームにいたことになっている。このまま足を運べば、彼女たちからあのISについて質問責めに遭う公算が高い。
千冬から箝口令を出されていることは勿論だが、いまの精神状態で、無遠慮な質問の嵐を浴びせられるのは勘弁願いたかった。なんといっても、謎のISとの濃密な命のやり取りの直後だ。気力、体力ともに著しくすり減らされた自覚があった。千冬からの事情聴取ですら、本音を言えば避けたかったほどだ。
とはいえ、
――腹が減っているのは俺も一緒だしな。
がっつり食べたい気分だった。
1122号室のシステムキッチンを使うことも勿論考えたが、料理をしようにも肝心の材料がない。学生生協の売店には、同様の理由から、きっと多くの生徒がいるだろう。食材を求めに足を運べば、結局、質問を集めてしまうに違いない。
しばしの黙考の末、鬼頭たちは、三人並んで学生寮の食堂へ向かうことにした。寮の食堂であれば、利用者は基本的に一年生の生徒たちのみと限られている。せめて質問者の数を少しでも減らせれば、と考えてのことだった。
学生寮への道すがら、三人はクラス対抗戦に乱入してきた謎のISについて話し合った。
いったい何が目的だったのか。誰の手先だったのか。それにしても、無人機とは驚かされた。あのISを送り込んできた相手は、相当な技術力を持った個人か、組織だろう。
やがて、話題はそんな驚異のISに打ち勝った、鬼頭の戦いぶりへとシフトしていく。
「それにしても父さん、さっきはすごかったね」
「ええ、本当に」
興奮気味に口ずさまれた陽子の言葉に、セシリアも同意を示した。競技者志望でない上に、正規の入学試験も受けていない鬼頭にとって、先の一戦は実質はじめてのISバトルだったはずだ。それなのに彼はよく動き、よく戦い、自身の身に纏うISの性能を十全に発揮して、最終的に、謎の襲撃者を倒してしまった。素晴らしい戦果といえよう。
「《オデッセイ》や《ミニ・ティアーズ》の性能もそうですが、それを操るお父様ご自身の技術も素晴らしかったです」
「うん。特に、あの最後の一太刀!」
天から地へ。
落雷の如く振り抜かれた打ち込みの迫力を思い出して、陽子は、ぶるり、と胴震いした。
「すっごいインパクトだった! 画面越しでさえ、見ていて背筋がゾッとしたよ」
「同感です」
陽子が率直な感想を口にすると、セシリアも頷いた。
「お父様が、居合をたしなんでいることは知っていましたが……」
娘である陽子はもとより、IS学園ではそれなりに知られていることだ。
少し前に行われたIS実習の授業でのこと、量子格納領域からの武装展開を実践するよう指示された鬼頭は、二回り近くも年下の級友たちの前で、見事な抜き打ちと、真っ向振り下ろしを披露した。その様子を見ていた千冬から、居合の心得があるのか、と訊ねられた際に、応、と頷いたのだ。以来、『鬼頭智之は居合の達人である』という認識は、学園内に広く知れ渡っていた。もっとも、鬼頭本人は、「達人は褒めすぎだ」と、苦々しく思っているのだが。
「まさかあれほどの技量だったなんて! IS学園に入学してからというもの、お父様には驚かされてばかりですわ」
「昔取った杵柄というやつさ」
鬼頭は気恥ずかしそうに微笑んだ。
「居合の技は、昔、友人が遊び半分に基本を仕込んでくれたんだ。もう三十年近くも昔のことだが……まさかいまになって、あのときの経験が役立つとはな」
人生、何がどこで役立つか分らないものだ、としみじみ呟く。
件の友人は中学時代からの付き合いで、壮年と呼ばれる年齢を迎えてから久しいいまでも交流が続いている、鬼頭にとって希有な存在だ。職場をともにしている桜坂を除けば、最も親交深い人物だろう。自分がこういうことになったと知ったときも、真っ先に連絡をし、この身を案じてくれた。
彼女-が自分に居合の技術を叩き込んでくれたのは、高校時代の三年間だけ。教えの内容も、本当に基本的なことばかりだった。しかしそれだけに、薫陶を受けた三年間は鬼頭にとって濃密な時間となった。限られた時間を一秒とて無駄にするまい、との意気込みを胸に、武芸において最も肝要な、基本中の基本、基礎の基礎を、みっちり学ぶことが出来たのだ。自分のような初心者が、あの驚異のISを相手に互角以上に戦えたのも、あの鍛錬の日々があればこそだろう。
「剣術もそうだけど……」
誇らしげに微笑みながら、陽子が言った。
「わたし個人としては、父さんの度胸に感心させられたな」
繰り返しになるが、鬼頭にとって先の一戦は初のISバトルだった。それも、自身の命の危機が考えられる、本当の意味での実戦だ。しかもその相手は、アリーナの遮断シールドを破壊するほどの火力を誇る脅威のIS。それに対し、父の専用機は、新型のOSやBT兵器の追加といったチューニングが施されているとはいえ、所詮、一世代前の旧型機に過ぎない。
彼我の戦力差を考えると、緊張や、死の恐怖が皆無だったとは考えづらかった。自分が同じ立場であったなら、この身はきっと、未体験の怖さから萎縮し、本来の実力も発揮出来ないままやられていただろう。
陽子からすると、先の一戦で父親が示した豪胆さは驚愕に値した。
「恐い、とか思わなかったの?」
「そりゃあ、恐かったさ」
鬼頭は素直な気持ちのまま首肯した。陽子の言う通りだ。あの脅威のISを前にして、死の恐怖を覚えなかったわけがない。
「ただ、件の友人からは剣を操る術の他に、剣を握る際の、心構えといったことも教わっていたからな」
戦いに赴く際の胆力の練り方。内なる恐怖に打ち克つための、勇気の奮い立たせ方。往時の彼が、自分に語って聞かせた“基本”の中には、そういった精神制御の術も含まれていた。
それに、と鬼頭は言葉を重ねる。
「それに、死の恐怖なんかよりも、ずっと恐いことが、あのときの俺には寄り添っていたからな」
「自分が死ぬよりも、恐いこと?」
「お前のことだよ」
鬼頭は完爾と微笑んだ。
「ここで俺がしくじれば、お前や、IS学園のみんなの身が危ない。きみたちを失うことの恐怖を思えば、死の恐怖なんて、いくらでも乗り越えられる」
「あ、う、うぅ……うん。さいですか」
父親からの愛に満ち満ちた言葉を受けて、陽子は赤面しながら頷いた。胸の奥が、じんわり、とあたたかな気持ちで満たされていくのを自覚する。
ふと、隣を歩くセシリアからの視線を感じて、渋面を作った。恥ずかしがる自分のことを、彼女はにやにやといやらしく笑いながら眺めていた。こちらもその美貌を眺めているうちに、だんだん、腹が立ってきた。なぜ自分が、こんな恥ずかしい思いをしなければならぬのか。
「あとは、そうだな……」
続く呟きに、陽子とセシリアは、はっ、として鬼頭の顔を見上げた。
「あんなISより、ずっと恐いものを知っているからなあ」
未知の恐怖云々と陽子は口にしたが、実のところ、強大な敵や、命の危機といった、この種の恐怖が、自分の身に襲いかかる経験は、はじめてではない。およそ四六年の人生のうちで、自分に対して敵意を持った相手と、命のやり取りをするはめになったのは、今回が二度目のことなのだ。
そして、あのとき、己の前に立ちはだかった男の恐ろしさは、あんなISの比ではなかった。
金剛力士を彷彿とさせる肉体と、面魂を持った彼が、烈火の怒りに燃えながら襲いかかるその姿は、その力は、まだ年若く、世間を知らず、己の力を過信し、向こう見ずであった当時の自分でさえ、死の恐怖を感じずにはいられなかった。
――あのときの、桜坂に比べればなあ……。
「あのISを恐いとは、あまり感じなかったな」
鬼頭の呟きに、隣を歩く二人は揃って驚いた表情を浮かべた。
最強兵器ISよりも恐ろしい存在だって!? いったい、それは何なのか? 彼女たちは問いただそうと口を開き、すぐにまた閉じた。
会話に夢中になっているうちに、いつの間にか学生寮に到着していた。ここから食堂までの道程には、アリーナ内で何があったのか知りたい生徒たちが、質問を胸に数多く待ち構えていることだろう。
千冬から告げられた箝口令のことを思い出し、三人は揃って表情を引き締めた。この先、この話題を続けるのは不味い。うっかり口を滑らせでもしたら、回答した自分たちだけでなく、質問者の方も、いらぬ不幸を背負うはめになってしまう。
食堂までの道中は、意外なほど人の姿を見かけなかった。
その反動なのか、食堂に到着した途端、三人の体は、がやがや、と喧噪に飲み込まれた。昼時はとうに過ぎているにも拘わらず、食堂はほぼ満席状態。空席自体はそれなりにあるが、すべてのテーブルを、どこかしらのグループが使っている、という状況だ。この先に待つ質問責めをどう捌くか、という懸念の前に、三人はまず、どこに座ろうか、という問題と対決せねばならなかった。
「鬼頭さん!」
食堂内を、きょろきょろ、見回していると、出入口から少し離れた位置にある六人掛けのテーブルを、三人のグループで使っている相川清香が立ち上がって手を振ってきた。そのかたわらには、同じく一年一組の同級生である、谷本癒子と、夜竹さやかの姿がある。
「ここ、空いていますよ」
三人は六人掛けのテーブルをL字に使っていた。清香と癒子が肩を並べ、対面にさやかが座っている。
鬼頭はかたわらの二人の顔を見た。彼女たちからの同意を得て、ありがたく甘えることにする。
学生寮の食堂は基本的にバイキング形式だが、いまは朝夕の食事時からははずれた時間だ。当然、その用意はなく、三人はカウンターに向かうと、めいめい注文を頼んだ。トレーを受け取り、清香たちのもとへ移動する。鬼頭と陽子が並んで座り、一つだけ空いている対面の席にセシリアが腰かけた。
「助かりました、相川さん」
ハニーマスタードソースのたっぷりかかったチキンステーキを載せたトレーをテーブルに置き、鬼頭は対角の位置に座す清香に微笑みかけた。
「昼食時でもないのにこの混みようで、正直、途方にくれていました。ありがとうございます」
「いえいえ。こういうときはお互い様ですよ」
先客の三人の前には、当然、食事を載せたトレーはない。代わりに、学生生協で調達したと思しきスナック菓子の袋や、小さめのペットボトル飲料の姿が見られた。左手首のボーム&メルシェに目線を向ければ時刻は三時半を少し回ったところ。彼女たち流の、ブレイク・タイムといったところか。
そんなことを考えていると、すっ、と隣の席から熱いおしぼりが差し出された。烏の羽根の色をした黒髪が艶めかしい、夜竹さやかだ。どうやら自分たちが注文をしている間に、用意してくれたらしい。「どうぞ」と、呟く彼女に、「ありがとう」と微笑みかけ、鬼頭は受け取ったおしぼりで手を拭い、次いで顔を拭った。
「父さん、おしぼりで顔を拭くとか、オジサンくさい」
ショック。指摘され、額を拭う鬼頭の手が止まる。同席している他の娘たちの顔を見回すと、みな鬼頭の心情を慮って口にはしないが、同意見の様子だった。
しゅん、と肩を落とす父親のことを無視して、陽子が清香に話しかけた。
「それにしても、この時間に食堂がこんなに混んでいるって、珍しいよね?」
かつお出汁のきいたうどんを一口すすり、陽子は周囲を見回した。やはり、ほぼすべての席が埋まっている。それでいて、みな食事を楽しんでいるというふうではなく、どこかそわそわと落ち着きがない。こちらの席を、ちらちら、見ている者も多い。
「ああ、それね」
清香は周りを一瞥すると、苦笑しながら言った。
「みんな、鬼頭さんのことを待っていたんだよ」
「はい?」
思わぬ言葉に、チキンステーキを切り分ける手が止まってしまった。
すると、それが何かの合図であったかのように、一人の女子生徒が鬼頭たちのテーブルへと駆け寄ってきた。知らない顔だ。おそらく、他のクラスの生徒だろう。いったい、何の用か。訝しげな顔をする鬼頭のことを、束の間、じぃっ、と見つめた後、彼女はその場で深々と腰を折った。
「あの、ご、ごめんなさい!」
「…………はい!?」
突然、見知らぬ女子生徒から謝罪の言葉をぶつけられ、鬼頭の唇から動揺の声が漏れ出た。
陽子とセシリアを振り返るも、二人とも心当たりはないらしく、吃驚仰天している。当然、鬼頭にも、この少女から謝られるようなことをされた覚えはない。そもそも初対面な上に、名前も知らない相手だ。いったい、何に対する謝罪なのか。
「直接、何かをした、というわけではありません」
少女は顔を上げると、鬼頭の顔を、じっ、と見つめた。
「ただ、どうしても謝らなきゃ、って思ったんです」
「はあ……ええと、それはいったい、どういう……」
「週刊ゲンダイの例の記事」
鬼頭の顔が、僅かに強張った。なるほど、あの記事の内容を信じている生徒の一人か。しかし、それならばなぜ謝罪を? あの捏造記事を信じている彼女にとって、自分は、妻にDVをはたらき、離婚した後も、子どもの親権を無理矢理取り上げて彼女を苦しめる、最低な男という認識のはず。口をきくのも、嫌な相手のはずだが。
鬼頭は彼女の言葉の続きを待った。
「あの記事の内容を、わたし、信じていました。鬼頭智之は最低な男だって、思っていました。でも……」
「でも?」
「アリーナで、あのISと戦う鬼頭さんの声を聞いて、気づいたんです」
「私の声?」
鬼頭は怪訝な表情を浮かべた。
はて、自分の声が聞こえたとは、いったいどういうことなのか? それに、あのISと自分が戦ったことを、なぜ知っているのか? 放送室から避難の指示が発せられたのは、自分が試合場に突入するずっと前のことのはずなのに。
目線を素早くひた走らせ、同席しているクラスメイトたちの顔をうかがった。清香たちの表情に、動揺した様子は見受けられない。どうやら彼女たちも、自分があのISと戦闘を行ったことを知り、自分の声とやらを聞いているらしい。
鬼頭は陽子を見、次いでセシリアを見た。ピットルームから自分の戦いを見ていた彼女たちも、困惑した表情を浮かべている。
そんな三人を見て、清香が言った。
「あのISと戦っている最中だった鬼頭さんや、ピットルームのセシリアたちは気づいていなかったかもしれないけど、あのとき、館内のスピーカーのモードは、“試合中”の設定で固定されたままだったみたいなんです」
鬼頭はようやく得心した様子で頷いた。なるほど、それならば納得だ。先の一戦の最中、自分はピットルームにいる陽子たちにも声が聞こえるように、とすべての通信をオープン・チャネル回線で行った。
「つまり、皆さんはあのとき……」
「はい」
鬼頭の言葉が終わるのを待たずに、清香は頷いた。
「オープン・チャネルを使っての発言は、館内のスピーカーが全部、わたしたちのところに届けてくれました。それで、鬼頭さんがあのISと戦っている、って分ったんです」
「子どもを守るのは大人の義務だ、って、鬼頭さんはおっしゃいましたよね?」
謝罪にやって来た女子生徒は、鬼頭の顔を見て微笑んだ。
「あの言葉を聞いて、気がついたんです。この人は、違う、って。あんな週刊誌に書かれていたような人じゃ、絶対にない、って」
子どもたちを、守りたい。そんな理由のために、最強兵器ISの前へと、進んで身を投げ出せるような人物だ。
子どもたちのために、命を懸けられる、そんな、強い男だ。
妻に暴力を振るったり、子どもの意思を無視して、親権を玩具のように扱う、そんな弱い人物では、断じてない。ありえない。
「それに気づいたら、いままでの自分の態度が、とても恥ずかしくなりました。鬼頭さんに対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました」
目の前の人物に対して、直接暴言をぶつけたり、陰口をたたいたりしたことはない。
けれども、ふとした拍子に視界に映じた彼を見て顔をしかめたり、廊下ですれ違う彼にきつい眼差しを向けてしまったり、といった記憶はある。
そうしたちょっとした態度の一つ々々が、彼の心を傷つけていたかもしれない。そう考えると、謝らずにはいられなかった。
「だから、ごめんなさい、なんです」
他所のクラスからやって来た彼女は、そう言って、また深々と腰を折った。
すると、それが呼び水だったかのように、周囲のテーブルから、多数の起立する音が次々に響いた。
驚き目線を巡らせると、ほとんどは、記憶にない顔だった。しかし、幾人かには見覚えがある。みな、週刊ゲンダイの特集記事の内容を信じ、入学式の日から、鬼頭に対して嫌悪の眼差しを向けてきた者たちだ。
いまやその顔は、等しく悄然としていた。鬼頭の顔を見、胸を締めつけられるような痛みに襲われて顔をしかめ、中には、目尻に涙さえ浮かべている者すらいる。
「ここにいるみんな、あのときの鬼頭さんの言葉を聞いて、鬼頭さんに謝りたい、って、食堂に集まったんです」
対角の位置に座る清香が言った。
隣の席に座るさやかが、「まだ、全員ではないんですけど」と、補足する。
「鬼頭さんたちのことだから、二年生や三年生の先輩たちがいるかもしれない校舎側の食堂は使わないだろう、って、みんなで予想して、待ち構えていたんですよ」
「私に、謝るために?」
「はい。……それから、お礼のために」
「礼?」
「はい」
「守ってくれて、ありがとうございます」
さやかの言葉を、清香が継いだ。その言葉を合図に、鬼頭らを取り囲む生徒たちが、次々に腰を折る。
そんな彼女たちを、鬼頭ははじめ茫然と眺め、やがて、完爾と微笑んだ。
「きみたちが無事で、よかった」
安堵の響きを孕んだ呟きを耳にして、少女たちもまた、嬉しそうに微笑んだ。
そんな彼らの様子を、学生食堂の出入口から、凰鈴音はじっと眺めていた。そのかたわらには、幼馴染みの一夏の姿もある。
「お前さ……」
二十歳近く年下の同期たちに囲まれながら笑う男の顔を、無言で、食い入るように見つめる鈴に、少年は話しかけた。
「あれを見てまだ、鬼頭さんが、子どもの気持ちを考えない身勝手な大人だ、って言えるか?」
「……ううん」
鈴は一夏のほうを見ずにかぶりを振った。
「こんなの、見せられたら、認めるしかないわよ。鬼頭さんは、違う。あたしの嫌いな大人たちとは、違うわ」
「よかった」
鈴の返答に、一夏は安堵の溜め息をこぼした。これで今後は鬼頭への態度を改めてくれるだろう、と破顔する彼に、彼女は続けて言う。
「ねえ、一夏」
「うん?」
「あたし、あの人に酷いことを言っちゃった」
「ああ。そう聞いている」
「どうやって謝ればいいと思う? そもそも、謝って、許してくれるかな?」
「……わからない」
鈴の口から謝罪の意思があること聞かされて嬉しいと思う一方、さてそれは難題だぞ、と一夏は顔をしかめた。
自分はその場にいたわけではないから、詳しいことは知らないが、鈴は過日、鬼頭に亡くなった息子の思い出を刺激するような暴言をぶつけてしまったらしい。彼にとって、愛息を失った記憶は生涯にわたって自身の心を苛む傷痕だろう。知らなかったとはいえ、鈴はそこに触れてしまったのだ。
そんな彼女を鬼頭が許してくれるかどうか。こればかりは、実際に謝った上で、彼からの判決が下るのを待つしかないだろう。
一夏は小さくかぶりを振って、
「分らない、けどさ」
「うん」
「お前が、鬼頭さんに謝りたい、っていうんなら……」
「うん」
「俺も、上手くいくように手伝うよ」
と、セカンド幼馴染みの少女に向かって笑いかけた。
鈴はそこでようやく一夏の方を向いた。
謝っても、許してもらえない。
近い将来に待っているかもしれない、最悪の未来を予想してのことか、鈴の顔色はひどいことになっていたが、それでも、彼女は懸命に、一夏の笑顔に応じようと微笑んだ。
「一夏、ありがとうね」
「いいって」
一夏はまた小さくかぶりを振ると、
「鈴は、俺の、大切な幼馴染みなんだからな」
と、力強い口調で応じた。
Chapter24「謝罪とお礼」了
IS学園で、クラス対抗戦が開かれた翌日の朝。
名古屋市名東区は梅森坂にある東名古屋病院を目指して、青色のカムリが県道219号線を走っていた。
運転席でステアリングを握るのは、パワードスーツ開発室の桜坂室長だ。ナビシートには、チーム最年長の酒井仁の姿がある。膝の上には大きな白い紙袋があり、中には見舞いの品と思しきフルーツや缶詰類がぎっしりと詰まっていた。
昨日、アローズ製作所本社ビルのドーム型試験場を襲った謎のISを退けた後、桐野美久と田中・W・トム、そして土居昭の三人は、最寄りの総合病院で、国立の医療機関でもある東名古屋病院へと担ぎ込まれた。総務省職員の城山悟の薦めに従ってのことだ。なんでも、知り合いの医師がそれなりのポジションにいるらしく、自分が口利きをすれば、素早い診察と治療が期待出来るという。桜坂たちは彼に向かって頭を垂れた。その言葉通り、病院へと搬送された三人はすぐに診察台へと上げられ、揃って集中治療室への入院を厳命された。最強兵器ISと戦った二人はもとより、荷電粒子砲が炸裂したときの衝撃で頭を打った美久も、脳に異常がないか、精密検査の必要がる、とのことだった。
翌朝、パワードスーツ開発室のオフィスで不安そうな表情を浮かべる桜坂のもとに、一本の電話がかかってきた。東名古屋病院からで、トムと土居の二人についてはひとまず治療は完了した、美久も一通りの検査が終わったので、三人とも面会を許可する、という内容だった。
通話を終えると、桜坂は室内のみなの顔を見回して、「室長権限で、今日は昼休みの開始を一時間早めます! 終わりの時間はそのままで!」と、叫んだ。それから三分後、昼休憩の時間が到来し、桜坂は真っ先にオフィスから飛び出していった。そんな室長を見て、「あの様子じゃあ運転が不安だ。私も着いていきます」と、酒井もその背中を追いかけた。その後、地下駐車場で桜坂と合流し、いまは同道中というわけだ。
「一つ、気になったのですが……」
東名古屋病院へと向かうその途中、ナビシートに座る酒井が、ふと話しかけてきた。
広大な敷地面積を誇る名古屋カンツリー倶楽部ゴルフ場を右手に眺めながら、桜坂は「なんです?」と、応じる。
「室長の身体能力は、我々のような普通人を大幅に上回っていますよね?」
「ええ、そうですね」
「健康診断のときとかは、どうしているのです?」
桜坂は毎年、会社主導の健康診断を受けている。しかしこの二十年、彼の診断結果に、異常な数字が現われたという話は聞かない。ISのビーム砲の直撃を受けてなお平然としているような肉体だ。現代医学を誤魔化せるとは考えにくいが。
「……もうばれているから、ぶっちゃけますけど」
前方の混み具合に応じて車線を変更しながら、桜坂は答えた。
「酒井さんのおっしゃる通り、俺の体は、普通の人とはちょいと造りが違います。たとえば、昨日、酒井さんたちも見た通り、俺の体は荷電粒子砲の直撃にも耐えられるほど頑丈です。皮膚は硬く、その下の肉はなお硬く、骨にいたってはたぶん、古い時代の軍艦の装甲よりも強靱でしょう。普通であれば、健康診断が見逃してくれるわけありません」
「はい」
「なので、健康診断を受けるときは、普通の人間レベルまで、身体能力を落としておくんです」
酒井は怪訝な表情を浮かべた。たしかに、それならば医師たちの目を誤魔化せるかもしれないが、どうやって、そんなことを?
「体の構造を作り替えるんですよ」
桜坂は平然とした口調で言い放った。
「肉体を構築している細胞、細胞を構築している分子、原子、素粒子といった物を、その都度、根本から作り替えるんです。そうやって、各身体器官の出力を制御するんですよ」
「……出来るんですか、そんなことが?」
驚く酒井に、桜坂は「はい」と、頷いてみせた。あまりにもあっさりと首肯してみせたその態度から、嘘はついていないな、と確信し、愕然としてしまう。
そんな、
そんな人間が、
自らの肉体の構成要素を、自らの意思でコントロール出来る、そんな生き物が、いたなんて……!?
「こちらからも質問、いいですか?」
驚きから返す言葉を見失ってしまった酒井に、今度は桜坂が話しかけた。
「昨日、結構な数の社員が、俺の秘密に気づいている、って言っていたじゃないですか?」
「え、ええ」
「それって、具体的に何人くらいなんです?」
「……そうですね」
酒井はしばしの間黙考した。沈黙の時間が長引くほどに、そんなにいるのか!? と、桜坂は憂いの表情を深めていく。やがてたっぷり十秒は悩んだ末に、彼は重たげに唇を開いた。
「ざっと、五百人くらいでしょうか?」
「そんなに!?」
桜坂は愕然とした。ステアリングを握る両手が動揺し、応じて、車体も左右に揺れる。慌てて姿勢を整えると、重苦しい溜め息を一つ。アローズ製作所の従業員総数はおよそ七千人だから、全社員のうちの七パーセントくらいが知っている計算だ。
「少なくとも、新人を除いて本社勤めの者はみな知っていると思いますよ」
「……上手く隠せていたつもりだったんだけどなあ」
「あれで、ですか?」
桜坂の言葉に、酒井は胡乱な眼差しを向けた。「どういう意味です?」と、訊ねると、年上の部下は呆れた口調で答えた。
「きみや鬼頭くんが入社したばかりの頃、台風のせいであらゆる交通機関がストップして、取引先への納品が、期日までに間に合わない、ということがあったね?」
「……そんなこと、ありましたっけ?」
「あったよ」
入社直後、鬼頭と桜坂は、介護用ロボット部門に配属された。そこで直属の上司だったのが、他ならぬ酒井だった。
「私も含めて、みんなで頭を抱えていたところ、『俺が届けてきますよ』って、私たちの制止の声も聞かずに、商品のロボットをプレーリーに積んで、飛び出していったよね?」
「…………ありましたっけ?」
「あったよ」
酒井は溜め息をついた。応じる様子から、どうやら本当に忘れてしまったらしい。
――それだけ、彼にとっては当たり前のこと、特に印象に残るような記憶でもなかったということか……。
当時の自分たちは、たいへんに驚き、いまでも忘れられないというのに。
酒井は仁王の横顔をじっと睨みながら続けた。
「きみが飛び出して二時間後のことだよ。件の取引先から、電話がかかってきた。『商品は無事に受け取りました。助かりました。こんなたいへんなときに、ありがとうございます!』ってね」
「はあ……」
「……本当に覚えていないのかい?」
「すみません。さっぱりです」
酒井はまた溜め息をついた。
「その取引先の企業は、札幌の企業だった」
「……ぷ、プレーリーが、頑張ってくれたんですよ」
「名古屋から北海道まで二時間で到着するプレーリーかあ……」
さすがは技術の日産だねえ、と、真顔で呟いた。日本列島を時速五〇〇キロメートルで縦断した計算だ。GT-Rもびっくりの速さだ。
「そんなことが何回も、何回も続けば、さすがにみんな気がつくよ」
「……はい」
東名古屋病院の建物が見えてきた。
自分から振った話題だが、早くこの話を終わらせたい気持ちから、桜坂は病院の駐車場へとカムリを急がせた。
やっと……原作第一巻の内容が、終わったんやな……