この小さな世界で愛を語ろう   作:3号機

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ひっそりと投稿。










Chapter29「黄金週間の過ごし方」

 

 

 

 

 

 ゴールデンウィーク初日の夕刻。

 

 名古屋市中区は錦にある、名古屋観光ホテルのスイートルーム。

 

 寝室のベッドの脇に置かれたナイトテーブルの上で、電話機が着信を知らせる声を上げたのは、左手首のボーム&メルシェが午前七時を指し示したときのことだった。

 

 リビングルームのソファで中古車情報誌を楽しんでいた鬼頭は、受話器を取りに向かおうと反射的に腰を浮かせた。しかし、同じくリビングでくつろぐ更識楯無が、「取らないでください」と、制止する。代わって寝室に向かったのは、内調職員の高品だ。彼は受話器を取り上げると、威圧的な低い声で誰何した。

 

 電話の相手はホテルのフロントだった。「夕食の用意が出来たのでお持ちしたいのですが」という用件に、高品は一転、明るい声音で「よろしくお願いします」と、返答した。受話器を置き、鬼頭たちに会話の内容を伝える。世界にたった二人しかいない特別な立場にある男は頷いて、大柄な丸テーブルのもとへと向かった。

 

「これから鬼頭さんには夕食を摂ってもらうわけですが」

 

 リビングに戻った高品の両手には、デジタル一眼タイプのカメラが握られていた。

 

「その様子をこのカメラで撮影させてください」

 

「例の、広報用の写真ですね?」

 

「はい」

 

 確認の言葉に、高品は首肯した。日本政府には男性操縦者たちの島外活動中の身の安全を保障するだけの能力がある。お前達に、これと同じことが出来るか? と、諸勢力に対する牽制を目的とした写真だ。鬼頭が了解の旨を口にすると、高品は重ねて言う。

 

「撮影は、ディナーを運んできたホテルマンが、部屋から退出していなくなったタイミングで行います。それまでの間は、変装用のサングラスと、楯無様への配慮をお願いします」

 

「配慮?」

 

「ホテルの従業員にとって、あなた方お二人は、更品親子、という認識ですから」

 

「なるほど。親子らしく接しろ、と」

 

「よろしくお願いしますね、パパ」

 

 丸テーブルを挟んで対面に座った楯無が、からかいの悪意もたっぷりに微笑んだ。辟易とした溜め息をこぼす鬼頭を、高品ら内調の男たちが等しく同情した眼差しで見つめた。

 

 ほどなくして、部屋のドアを誰かがノックした。

 

 SP役の高品がドアの前に立って訊ねると、若い男の声が、夕食を運んできたことを告げた。念のため、ドアミラーから外の様子を確認する。観光ホテルの二階に店を構えるレストラン……日本料理の『呉竹』から派遣されたと思しき給仕係が、三階建てのサービスワゴンをかたわらに待機していた。

 

 高品はなおも慎重にドアを開けた。ボーイの一挙一動に、油断のない視線を置く。

 

 対して、給仕係の男は平然とした態度でワゴンを押してスイートルームに入室した。名古屋観光ホテルは、世界中のVIPから愛用される高級宿だ。警護人から警戒の眼差しを向けられるなんてことは、日常茶飯事なのだろう。特に気分を害した様子を見せることなく、彼はすでにテーブルを囲んでいる更品親子の前に立つと、にこやかに微笑んだ。ワゴンから食卓へ、前菜の海鮮散らしを盛りつけた皿を移していく。

 

「お飲み物は何にされますか?」

 

 三段式のワゴンの一段目に各種のアルコールが、二段目にソフトドリンクの瓶が並んでいた。鬼頭は楯無に、「好きな物を頼みなさい」と、注文を促す。

 

「じゃあ、ワインの赤を……」

 

「こら」

 

「冗談だってば。そんなに睨まないでよ、パパ。……オレンジジュースでお願いします」

 

 事前に練習しておいた小芝居をボーイの目の前で繰り広げる。可愛らしい親子のやり取りを微笑ましげに眺めながら、給仕係の男は二人の前にグラスを並べた。それぞれウーロン茶と、オレンジジュースを注いでいく。

 

 ウーロン茶を選んだのは、内調からの指示を受けてのことだ。一流ホテルが賓客のために常備しているであろう美酒の味を存分に堪能したい欲求は、無論、鬼頭にもあった。しかし、不測の事態に備えるため、と説得を受けた後では、アルコールは頼みづらい。体の中にアルコールが入ると、咄嗟の判断力や運動機能が鈍ってしまう。たとえば、ホテルからの素早い脱出が求められるような緊急事態に遭遇した場合に、足枷になるようなことは控えてほしい、というのが、彼らの弁だった。

 

「コース料理の最後、甘味についてですが、今日は抹茶の氷菓子と、柚子のシャーベットを用意しております。どちらになさいますか?」

 

「わたしは柚子がいいな」

 

「ふむ。それじゃあ私は……」

 

「あ、パパには寒天ゼリーでもつけておいてください。糖質オフで、ゼロ・カロリー的なやつを」

 

「なにッ!?」

 

 事前に用意された台本にはなかったはずの台詞。動揺する鬼頭の口から、思わず荒々しい声が飛び出す。

 

「お、おい、それは……」

 

「なによ、文句あるの?」

 

「当然だろう。こういうときくらい、好きなものをだね」

 

「昨年、健康診断の結果、血糖値」

 

「うぐっ」

 

「陽子ちゃんから聞いてるよ~。……パパの健康を守るのは、娘の務めです」

 

 陽子の名前を出されては、何も言えなくなってしまう。鬼頭は苦渋に満ち満ちた表情で、「ご無理を言って申し訳ありませんが、それで」と、ボーイに言った。

 

 若い給仕係が苦笑しながら、「料理長に、あまり砂糖を使わない氷菓を作れないか、頼んでみます」と、言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter29「黄金週間の過ごし方」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼頭が観光ホテルでコース料理の最後を飾る氷菓子の甘みに舌鼓を打っていた、ちょうど同じ頃。

 

 IS学園は一年生用の学生寮の廊下を、凰鈴音は肩を怒らせながら歩いていた。

 

 緊張に頬を強張らせながら目指すのは、鬼頭親子が暮らす1122号室だ。先日のクラス対抗戦の後、彼らに対する数々の暴言について謝罪をしなければ、と胸に誓った彼女だが、あれから数日を経たいまだに、その機会を設けられずにいた。原因は明白だった。鬼頭たちの側が、鈴からの接近を避けているためだ。

 

 過日の自分が鬼頭親子に叩きつけてしまった発言は、どうやら、彼らがひそかに抱え持つ心の傷を抉るような内容を含んでいたらしい。あの日以来、彼らは自分のことを露骨に避けるようになった。自分が話しかけると、「いま忙しいので」と、会話を打ち切ってしまうし、二クラス合同の実習などで顔を合せる機会があっても、事務的なこと以外は一切口にしない。挙げ句鬼頭にいたっては、自分の姿を見かけただけで、その場から踵を返す始末だ。対抗戦の以前はどうとも思わなかったそんな態度も、彼らに対し謝罪をしたいと思うようになってからは、見る度、触れる度に、鈴の心を苦しめた。自分は、彼らからそんな頑なな反応を引き出してしまうほどのことを、やってしまったのか。後悔の念が募った。

 

 その一方で、鈴は鬼頭親子のあからさまな態度を腹立たしく思ってもいた。先の発言については、自分が全面的に悪かった。鬼頭親子の抱える事情を知らず、関心さえ持たず、それなのに、どうせお前もそういう大人なのだろう、とその為人を勝手に決めつけ、罵り、糾弾し、傷つけた。そのことについて謝りたい。いや、謝らせてほしい――。と、自分がそんな殊勝な気持ちでいるのに、お前達のその態度は何だ!? どうして謝らせてくれない!? 自分でも理不尽な怒りとは思うが、そのようなことが何度も続くと、苛立ちを覚えずにはいられなかった。

 

 謝罪という行為の目的は、相手からの許しを得るためは勿論だが、何よりその本質は、心の屈託を少しでも軽くしたい、気持ちをすっきりさせたい、といった、快感を得ることにある。それがなかなか果たされない現状を、鈴はやがて憎々しく思うようになっていった。

 

 だんだんと辛抱たまらなくなってきた彼女は、なんとしても自らの欲求を叶えんと、相手から逃げ場を奪う作戦を講じた。これまでは、気まずさや、二人の生活をこれ以上脅かしたくない配慮からあえて避けてきた1122号室に、直接赴くことにしたのだ。あそこならば、忙しい、時間がない、などの、ふざけた理由から逃げられてしまう公算は低いだろう。夜の遅い時間帯を攻めるのも、これから外出の予定がある、などの言い訳を封じるため。残る懸念事項としては、部屋に入れてもらえるかどうかだが、幸いにして自分は専用機持ち。最悪、実力行使でもって入室させてもらおう。

 

 ――今日こそは、謝らせてもらうんだから!

 

 親子が暮らす空間を目指す鈴の足取りは、力強く、それでいて重たげだった。鬼頭親子に対する申し訳なさと、自分の思い通りに事態が進まぬことへの怒り。相反する感情が、彼女の運動動作を複雑怪奇なものにしていた。

 

 のみならず、表情も硬い。不機嫌さも露わな歩き姿は、すれ違う者を寄せつけぬ異様な雰囲気を纏っている。

 

 結果、特に障害もなく目的の部屋の前に辿り着いた鈴ではあったが、噂好きの女子高生たちの生活空間でそんな態度をとれば後日どうなるか。少しだけ憂鬱な気持ちになった。

 

 さて、部屋のドアの前に立った鈴は、まずインターフォンをプッシュした。少し待ってみるが、返答はない。もう一度押しても、やはり反応なし。留守だろうか? たしかに、この時間であればまだ寮の食堂でゆっくり過ごしていてもおかしくはないが。

 

 ――それならそれで、待たせてもらおう。

 

 ゴールデンウィーク期間中とあって、普段よりも利用者の少ない食堂が閉鎖される時間は早い。ここで待っていればそのうち戻ってくるだろう、と鈴は扉に対し踵を返し、背中を預けた。

 

 

 

「うわぁ……、これって、天蓋付きベッドってやつ?」

 

 ところ変わって、こちらは同じ一年生学生寮、セシリア・オルコットの部屋。

 

 寝間着姿で友人の部屋にやって来た陽子は、目の前に広がる光景に対し呆れた表情を浮かべた。まるで近世ヨーロッパのお城を舞台にした映画のセットをそのまま持ってきたかのような、高級感あふれるインテリアの数々。椅子も机も、学園側があらかじめ用意した備え付けの物ではなく、セシリアが英国の実家より持ち込んだ私物でかためられている。刺繍の美しいペルシャ絨毯。壁を天井近くまで覆い隠す巨大な衣装棚……。間取り自体は自分たち親子の暮らす部屋と大差ないはずなのに、ずいぶんと違った印象だ。見た目の煌びやかさ、豪華さは勿論だが、なんというか、空気が美味しい。心なしか、良い匂いさえする。

 

 特に目を惹くのが、部屋の真ん中に鎮座する、瀟洒な造り込みをした天蓋付きのベッドだ。たっぷりクイーンサイズはあろうマホガニー製の寝台の上に、見るからにふかふかそうな分厚いマットレスと、純白の羽毛布団が敷かれている。ヘッドボードには薔薇を象った意匠の彫刻が施され、素人目にも、気品のようなものを感じさせた。

 

 肝心のカーテンのデザインも、寝台そのものの偉容に負けず劣らず素晴らしい。天蓋付きベッドの起こりは、中世時代のヨーロッパ。独立した寝室という概念がなかったこの時代、上流階級層たる貴族の暮らす屋敷ですら、寝台は大広間に置かれるのが普通だった。そこで、就寝時にプライベートな空間を確保するために、寝台に天蓋を取り付けたのが始まりとされる。すなわち、寝室の概念が一般化している今日の先進諸国においては、ベッドにカーテンを取り付けるという発想は、嗜好品や、贅沢品としての側面が大きい。考えようによっては、成金趣味とさえとれてしまう物なのに、セシリアの寝台を囲う薄手のカーテンは、そういったいやらしさを感じさせないどころか、強烈な上品さを印象づけた。ところどころに施された白薔薇の刺繍が可憐である。

 

 陽子がセシリアの部屋を訪ねるのは、これが初めてのことだ。普段の言動や、会社をいくつも経営する名家の出というパーソナル・データから、日用品などさぞや高級な物を愛用しているのだろうと予想はしていたが、これは……、ちょっと、予想外だった。

 

「敷いてあるお布団とかも高級そうだし。……ああ、このクッションとか、やばいくらいふっかふかだ。絶対に、高い。うん。間違いない。なんだこれは……。たまげたなぁ」

 

「そんな……お世辞が過ぎますわ」

 

 庶民感覚から驚きの溜め息をこぼしてばかりの陽子のかたわらで、同じく、ネグリジェ姿のセシリアが気恥ずかしそうに言った。

 

「人に自慢の出来るほどの物ではありません。むしろ小さすぎて、恥ずかしいくらいなのですから」

 

「いや、これで小さいってどんだけよ」

 

 平然と言ってのける金持ち特有の感覚に、背筋が凍った。

 

 軽い目眩に頭を抱えながら、陽子は、そういえば、と室内をゆっくりと見回す。部屋の端の方に追いやられている、自分もよく見慣れた寮備え付けのベッドを見ながら言った。

 

「ところで」

 

「はい?」

 

「如月さん、本当によかったの? 突然、お邪魔して」

 

「あぁ、うん。いいよ、いいよー。……セシリアのgoing my way (強引ぐ・まい・うぇい)に振り回されるのは、この一ヶ月で慣れたし」

 

 ベッドの上でIS教本に目線を落としていた如月キサラが、顔を上げて言った。同じ一年一組のクラスメイトで、セシリアのルームメイトでもある人物だ。しかしながら、相方の英国貴族の令嬢が個人的に持ち込んだ数々の特注品によって、彼女に許されたパーソナルスペースは非常に狭かった。普段からそんな環境を強いられている上で、今夜自分までもがお邪魔して騒がしくしてしまい、相当なストレッサーになってはいないだろうか。

 

 今夜は鬼頭が不在だから、独り寝は寂しいのではないか、と心配したセシリアが、自分の部屋を訪ねたのは三十分ほど前のこと。「いや、誰かと一緒じゃないと寝られないとか、そんな年齢じゃもうないし」と、断る陽子の手を強引に引っ張り、自室に連れてきたセシリアは、どうやら、ルームメイトの許可などは取り付けないまま行動していたらしい。いつぞやのときのように小脇に、ひょい、と抱えられた陽子の姿を見て、キサラはたいへん驚いた様子で、ルームメイトの帰りを出迎えた。ちなみに、そのときの第一声は、「幼女誘拐!?」だった。おいコラ、誰が幼女じゃい。誰が!?

 

「なら、よかったけど。……嫌だったら言ってね? 私ってば、わりと口数の多い方だって自覚しているし、あんまりうるさいようだったら、出て行くから」

 

「大丈夫だってば。……そりゃあ、セシリアがまるでお気に入りのぬいぐるみを抱えているみたいに連れてきたときには驚いたけどさ、いまは歓迎しているんだよ、これでも。……私も陽子とは、一度ゆっくり話したい、って思っていたし」

 

「私と?」

 

「うん。鬼頭さんのこととか」

 

「父さんの?」

 

「うん。ほら、私たちが知っている、学園での鬼頭さんって、よそ行きの顔っていうか、娘の通っている学校の皆さんの前で、恥ずかしいところは見せられない……、みたいなさ。自然体とは、ちょっと違うと思うんだよね。普段、家での鬼頭さんのくつろいだ姿とか、どんな感じなのかな、って」

 

 キサラの言葉に、陽子は得心した様子で頷いた。父親と一緒に寝起きする、という名古屋で暮らしていた頃とさして変わらぬ環境に身を置いている自然さからつい忘れがちになってしまうが、いまや自分の父は、世界でたった二人しかいない、特別な立場の人間だ。それでいて、日本政府による情報統制の影響もあり、私生活などは謎に包まれている部分が多い。自分も外野の立場であれば、きっと同じように気になっていただろう。

 

「せっかくだから教えてよ、鬼頭さんのことも、陽子のことも。同じクラスメイトなのに、いままであんま話したことなかったしさ」

 

「そういえば、そうだったね」

 

「私も聞きたいですわ。陽子さんと二人きりのとき、鬼頭さんはどんな様子なのか」

 

「ね、気になるよね。お父さんと同じ学校に通っているって、どんな気分なの?」

 

「ううん……。毎日が、授業参観?」

 

 普段、授業を受けているときのおのが心情を思い返して、陽子は苦笑した。

 

「間違った答えを言ったりしないか、常に緊張しいしいだよ。先生、お願いだから私を指名しないで! って、しょっちゅうお祈りしてる」 

 

「うわぁ、肩こりそう」

 

「そうかしら? 父親に良いところを見せてやるぞ! って、私なら奮起するところですが」

 

 幼い頃に両親と死に別れているセシリアだ。そういう機会に恵まれなかった彼女は、陽子の発言に不思議そうに呟いた。

 

「……セシリアってば、結構、ファザコンだよね」

 

 過日のクラス代表決定戦に向けた準備の過程で、オルコット家を襲った不幸について知った陽子は、優しい面差しで友人の顔を見つめた。

 

「や、陽子がそれ、言う?」

 

と、如月キサラが呆れた表情でぼやいた。

 

 

 

「……遅い!」

 

 1122号室の扉に背中を預けることすでに一刻あまり、一向に帰ってくる気配を見せぬ鬼頭親子への苛立ちを発露したい気持ちから、凰鈴音は空に向かって吠えたてた。ただでさえ寮の奥まった場所にある1122号室の前、消灯時間が迫りつつあることもあって誰もいない廊下に、少女の声が寒々しく響き渡る。

 

 寮の食堂はとうの昔に完全閉鎖の時間を迎えていた。それなのに、鬼頭も陽子もまるで姿を現さない。いったい、どこで道草を食っているのか。自分の知る限り、IS学園の学生寮にそんな寄り道をする場所なんてないはずだが。

 

 それでなくとも、消灯時間が刻々と近づいてきている。一年生用の学生寮の寮長は、あの千冬だ。規則を守らない者に対しては、手心一切なしの罰を叩き込んでくるに違いないのに。二人とも、彼女のことが恐ろしくないのか!?

 

「ああ、もう! この私がこんなにも待っているっていうのに、あの二人……! いったい、どこほっつき歩いてるのよ!」

 

 言葉にするだけでは感情の昂ぶりを消化しきれないのか、鈴はとうとう、ゲシゲシ、と親子の部屋の戸をブーツのつま先で蹴り始めてしまう。自分でもなんて子どもっぽい八つ当たりなのか、と自覚しつつも、攻撃行動を止められなかった。

 

「こんな遅い時間まで出歩いているなんて、常識ってもんがないのかしら!?」

 

「……ほほう」

 

 蹴り込みのため部屋の扉と正対していた鈴は、背後からの接近に、声をかけられるまで気がつけなかった。耳馴染みのある声に、びくり、と肩が震えてしまう。

 

 おそるおそる振り返ってみれば、鍛えられた足運びでもって音もなく接近を果たした寮長の顔があった。不機嫌そうに柳眉を逆立て、自分のことを睨んでいる。すでに夜の遅い時間だからか、体育やIS実習の授業などで着用する姿がお馴染みの、白いジャージを着込んでいた。

 

「え、あ、う、そ、その……ち、千冬さん……」

 

「織斑先生、だ。その台詞は、そっくりそのまま、お前にぶつけやろう」

 

「ちょっ、体罰反対! それにまだ、消灯時間前でしょ!? まだ出歩いていても良い時間帯でしょ!?」

 

「たしかにな。しかしだ、凰。お前、いまが何時何分か、ちゃんと認識しているか?」

 

 ドスを孕んだ口調で指摘され、慌てて携帯端末で時刻を確認する。消灯時間まで、残り三十秒しかなかった。千冬が、にっこりと微笑む。天使のように美しい美貌だった。

 

「あと三十秒以内に部屋に戻れなければ、分かっているな?」

 

 鈴は悲鳴を上げながら自室へ向かって駆け出した。

 

 三十五秒後、一年生寮の廊下に、打突の快音が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

「本当によろしいのですか?」

 

 名古屋観光ホテルのスイートルーム。

 

 寝室のベッドに腰かける鬼頭は、明日の予定についてブリーフした後、リビングに戻ろうとする楯無の背中に声をかけた。「何がです?」と、振り向いた彼女に、彼は渋面を隠すことなく言う。

 

「皆さんが夜通しの警護をしてくれているのに、私一人だけが、ベッドで横になることについてです」

 

 内調の職員らが懐に忍ばせている黒革の手帳によれば、明日の自分の起床予定時刻は午前六時。それまでの間、彼らは交代で自分の安眠を守ってくれるのだという。一人がリビングで待機し、一人は部屋の外で不審者の影がないか見張りをする。残る二人は、交代の時間まで仮眠を取る、という役割分担だそうな。なるほど、一人あたりの負担をやわらげるべく、色々と配慮しているようだが、それでも、いつ来るとも知れぬ……いや、そもそも来るかどうかも分からない敵に対して、警戒心を持ち続けるというのは、気力体力ともに多大な消耗を強いるはずだ。

 

「そんな中で、私一人だけが暢気にいびきをかいていろ、というのは、たいへんいたたまれない気持ちにさせられるのですが」

 

「我慢してください。いまの鬼頭さんは、護衛対象の要人なんですから」

 

 楯無は諧謔を孕んだ口調で言った。

 

「明日のこともあります。ぐっすり休んで英気を養ってもらわなくては、護衛の私たちが困ってしまいますわ」

 

 何か不測の事態に襲われたときに、すかさず反応出来るよう、疲労はなるべく体に残さず、体力の回復に努めてほしい。そうしてくれなければ、自分たちが困ってしまう。

 

 古今東西、要人警護の仕事を完遂するためには、護衛する側の準備は勿論のこと、護衛される側の協力がなにより不可欠だ。その双方が不十分だった代表的な失敗例として、たとえば、一九一四年のサラエボ事件が挙げられる。

 

 事件の背景にあったのは、二〇世紀が始まる以前から存在していた、危険なまでに燃えやすいナショナリズムの考え方だった。イギリス、フランス、ポーランド、ドイツ……。ヨーロッパの其処彼処で、国粋主義、民族主義のうずみ火が燃えていた。

 

 しかし、他のどこにも増して激しい火種を抱え込んでいたのが、多言語国家のオーストリア帝国だった。主としてドイツ人とハンガリー人が支配する国だ。だが、多くの抑圧された民族グループを抱える国でもあった。セルビア人、クロアチア人、チェコ人、スロバキア人。帝国からの独立をスローガンに掲げる彼らと対決したのは、老帝フランツ・ヨーゼフの曾甥にして皇位継承予定者の第一位、フランツ・フェルディナント大公。彼は巧妙な三重連邦政策でもって、民族主義者たちの不満を軽減しようと企てた。ドイツ人とハンガリー人、そして各種のスラブ系民族集団を帝国の内部で統合し、共通の経済的利害で束縛する代わりに、それぞれに相当程度の自治を与える、という、アメとムチを準備したのだ。

 

 大公のこうした考えに対し、帝国からの完全独立を目指すセルビア人たちは拒絶の意志を示した。過激派に属する者たちなどは、大公が皇位につく前に消し去るべきだ、と、公然と言い放った。当時のセルビアは独立の王国だったが、近隣諸国のセルビア系住民も統合して大セルビア国家を再建したい、との願望が広がっていた。セルビア国家回復主義者のリーダーたちは、セルビア人統一に挺身する秘密結社『黒い手』に続々と結集していった。「本組織は知的宣伝よりもテロリズム活動をよしとする」と、公言してはばからぬ彼らは、大公夫妻のサラエボ訪問を知ると、早速、セルビアの首都ベオグラードに置かれた本部で、暗殺計画を練った。

 

 その後に起こった連鎖反応的大事件のことを思えば、彼らの企ては、仔細を知るほどに、よくぞ成功したな、と驚嘆せずにはいられぬほど、周到さからは縁遠い杜撰な計画書にもとづいて実行された。実行犯の重責を背負わされたのはたった六人の若者たちであり、その社会的背景に目線をやれば、この計画がいかに無責任なものだったかが分かる。学校からの脱落者であり、社会からつまはじきにされた、いわゆる、ろくでなしと定義される者たちであった。一人は教師を殴って学校を追われた男。もう一人の十七歳の少年にいたっては、数学で落第点を取った上に停学処分となったことを悔いて自殺を考えていたところ、この陰謀の存在を知り、愛国的自殺の絶好のチャンスと見なすような輩であった。

 

 テロリストたちのこうした動きに対し、運命の六月二八日の朝、サラエボの町にやって来たフェルディナント大公夫妻を出迎えたのは、当初の計画よりもずっと手薄で、準備不足な警備態勢だった。一行の予定ルートに沿って軍の兵を配置したい、という現地軍司令の意見は、市民感情を逆撫でするとして却下された。大公らの警護は、僅か六十人ほどの地元警察に一任されたである。警察はこの日のために、六台の車輌と、特別警備隊を準備していたが、手違いにより、そのうちの何名かは護送車に乗り込むことが出来なかった。

 

 午前十時十分、大公夫婦を乗せたグラーフ&シュティフトに向かって、時限爆弾が投じられた。爆弾はオープンカーの折りたたまれた幌に当たって跳ね返ると、路上を転がり滑り、後続車輌がその上に到達したところで炸裂した。

 

 暗殺未遂を受けて、一行はこの後の行動をどうするべきか意見を衝突させた。大公の侍従のルメルスキル男爵は、軍への応援要請を提案したが、現地総督のポティオレクは、「兵士たちは大公の警護に相応しい礼服を持っていない」として、これを遮った。行幸は、相変わらず手薄な警備態勢のまま行われたのである。

 

 非協力的だったのは総督ばかりではない。護衛対象の大公夫妻もまた、暗殺未遂の恐怖を忘れたかのように、予定通りのスケジュール管理に固執した。事前の取り決め通り、サラエボ市庁舎での式典を終えた後も、よせばいいのに、先の爆発騒ぎで負傷した者たちを見舞いたい、と予定にない行幸まで提案した。ポティオレクはなんとしたことか、その求めに応じた。一応、夫妻の安全を確保するため、車の運転手たちに走行ルートの変更を指示したが、彼の命令伝達は徹底されなかった。

 

 ポティオレクが新たに指示した走行ルートは、混雑が予想される街の中心部は避けて、病院まで川沿いの道を真っ直ぐ進むものだった。しかし、先導する二台は道をはずれて、街中へと進んでいく。大公を乗せた三台目もこれに続こうとしたため、ポティオレクは運転手に停車するよう命令した。運転手が慌ててブレーキを踏み、車輪が回転を止めたまさにその場所に、ガブリーロ・プリンチプは待機していた。かくして、プリンチプの手元で鳴り響いた銃声は、旧世界の没落を知らせる鐘の音となったのである。

 

 鬼頭にはオーストラリア大公夫妻のような振る舞いは厳に慎んでもらいたい。こちらの言うことをよく聞き、不必要な行動はしない。そうしてもらなければ困ってしまう。楯無の言うことは、いちいちもっともであった。鬼頭は不承不承、彼女の言に頷いた。

 

 楯無は満足そうに微笑むと、再び踵を返して寝室の戸を閉めた。リビングでは自分とともに最初の三時間を担当する高品が、ワイシャツの上に防弾ベストを着込んだ装いで資料を読み込んでいる。楯無の顔を見るや、「彼は納得してくれましたか?」と、訊ねてきた。

 

「ようやく、ね。ある意味新鮮だったわ。ああいう反応は」

 

「我々が警護につく要人といえば、政治家や大企業の重役など、護衛されることに慣れている方々ばかりですからね」

 

「世界でたった二人しかいない男性操縦者ってことで忘れがちだけど、あの人自身は、ちょっと前まで普通の一般人だったものね」

 

「警護任務においては、護衛される側が、護衛する側を気遣うことほど迷惑なことはない、という原則を、知らなくても当然でしょう」

 

 呟いて、高品はアームチェアから立ち上がると、丸テーブルの上に置かれたP230自動拳銃と、それを収めるためのショルダーホルスターを手に取った。ホルスターを上半身に巻きつけ、椅子の背もたれにかけておいたビジネススーツのジャケットに袖を通す。これで一見した限りは、要人警護の任をおびたSPだとは思われまい。

 

「それではお館様、外の見張りに行って参ります」

 

 鬼頭の耳目がなくなったからか、高品は内調職員ではなく、更識家に仕える従者一族の立場から楯無に言った。暗部組織の頭領たる少女は、うん、と頷き、それから「あ、そうだ」と、思い出したように口を開いた。

 

「いまのうちに聞いておきたいのだけど」

 

「なんでしょう?」

 

「経験豊富な年長者としての意見を求めます。今日一日、鬼頭智之と一緒に過ごしてみて、彼のことをどう思いましたか?」

 

「……ふむ」

 

 リビングから玄関に向かおうとしていた高品は、立ち止まってドアに背中を向けると、束の間、考え込む素振りを見せた。更識家現当主がどんな意図からこの質問をしたのか。彼女の発言を一言半句噛みしめる。

 

 更識家の当主という、楯無の立場にまとわりつく責務は複雑だ。日本政府と更識、双方の利害を追求せねばならない。この二つはときに二者闘争的な関係に陥ることがあり、たとえば日本政府に利をもたらす出来事が、更識にとっては害となる、といった具合だ。

 

 鬼頭智之についても、日本政府は彼を手なずけることが出来れば自分たちにとっての利益となる、と考えているようだが、更識家にとってはどうか。日本政府の意に沿うようなはたらきをしたがために、かえって更識の家名を危うくするような事態に陥りはしないか。彼という人物を、慎重に、見極める必要があろう。

 

 ――お館様は少しでも多くの判断材料を求めておられるのだ。

 

 得心した高品は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……人物評を述べられるほど、深い付き合いも、情報の分析もすんでおりませんので、感想程度の意見になってしまいますが」

 

「構いません。忌憚のない意見が欲しいのです」

 

「分かりました。率直に言って、普通の男、というのが、私の感じたことです」

 

 高品は寝室と居間とを隔てる扉に目線をやった。

 

「車が好きで、時計が好きで。娘を愛し、亡き息子のことをいまも愛している。自分の夢のために。家族との生活を守るために。日々仕事に励んでいる。そんな、日本のどこにでもいるような、普通の男です。ISと関わることさえなければ、こんな窮屈な環境に身を置く必要などなかったはずの男です。

 

 無論、天才的な頭脳の持ち主ではあります。たとえISと関わらなかったとしても、いずれは世界に名を馳せる功績を歴史に刻んだことでしょう。ですが、その場合でも、ここまでの扱いにはならなかったはずです。世界中の暗黒組織から、その身を狙われるような事態には」

 

「普通の男、ね」

 

 高品につられて、楯無も憂いに濡れた眼差しを寝室へと続くドアに向ける。更識の主従はしばしの間、扉の向こう側で横たわる、特別な立場にある、普通の男を取り巻く環境を思って表情を曇らせた。

 

「……もう一人の方は、どう思いました?」

 

 寝室のドアを見つめたまま、楯無がまた訊ねた。目的語をあえて具体化しない言い回し。しかし、高品には誰のことを指して言っているのか、すぐに分かった。鬼頭智之と並び立つ、もう一人の天才。最強兵器ISを、生身でもって撃破した、文字通りの超人。

 

「もう一人については、鬼頭智之にも増して接触時間が短く、また現状集められた情報も少ない。本当に、第一印象を述べる程度の感想になってしまいますが」

 

「構いません」

 

「分かりました」

 

 高品は頷くと、険しい面持ちで楯無の顔を見つめた。

 

「……危険な男、というのが、私が彼に対して抱いた、第一印象です」

 

「危険」

 

「はい」

 

「どうして、そのように?」

 

「お館様も、感じられたのでは?」

 

 高品を見つめ返す楯無の面差しも、険を帯びている。彼らは等しく、アローズ製作所のオフィスにはじめて足を踏み入れたときのことを思い出していた。

 

「パワードスーツ開発室に一歩踏み込んだ瞬間、」

 

「ええ」

 

「心臓を、見えない手で鷲づかみにされたかと思いました」

 

「……そうね」

 

 僅かに怯えを孕んだ呟きに、楯無は頷いた。

 

「正直、背筋が震えたわ」

 

「あのとき感じた恐怖の源泉がどこにあるのか。原因はすぐに分かりました。鬼頭智之に寄り添う我々のことを、彼が、ほんの一瞬だけ、睨みつけたためです。友人であり、部下でもある鬼頭智之に、我々がよからぬアプローチを仕掛けていないか、警戒心からそうしたのでしょう」

 

 もとより、仁王の如き面魂の大男だ。太く黒々とした眉を逆立て、大振りな双眸を三白眼へと変じて威圧されれば、高度に訓練された屈強なスパイたちをして、恐怖からの胴震いを禁じえない。ましてや、その人物が最強兵器を素手で撃滅しうるほどの超人と知っていれば尚更だろう。

 

 高品の言葉に頷く楯無だが、同時に、それだけでは得心しがたい、と疑問にも思った。それだけでは、恐ろしい、という感想を抱くことはあっても、危ない、という考えには至るまい。更識の従者がかの超人のことを、危険な男、と評した理由は、他にあるはずだった。

 

 事実、高品の話はこう続いた。

 

「我々に対する視線の鋭さに気がついたとき、私は、二つの理由から彼のことを恐ろしいと感じました。一つは、彼の持つ力に対する恐怖です。相手はISを徒手空拳で破壊してしまうような存在です。万が一、敵に回すようなことがあれば、ひとたまりもない。懐に忍ばせている拳銃など、何の役にも立たないだろう。……そういう、我が身に迫るかもしれない、生命の危機に怯えてしまったのです。彼の不興を買うことだけは、してはならない。強く、そう思いました。

 

 もう一つの理由は、行動の裏に潜む、彼の腹中を想像してしまったがためです」

 

 威圧の意思を篭めた眼差しを、入室してきた慮外なる部外者たちに向ける。言葉にすればたったそれだけ、実際の動作としても、せいぜいが首をほんの僅かに傾ける程度の些細な行動にすぎない。しかし、本来であればあの場所は、そんな小さなアクションさえ許されないはずの空間だった。

 

 いまやアローズ製作所は内調の監視下にある。あの場所で自分たちに反抗的な態度をとれば、最悪、内調の背後に控える日本政府を敵に回すことになりかねない。これは、今日の日本における政府と国民の関係性を考えると、国家を敵にするのと同義だ。世界有数の軍事力・経済力・技術力を持った国が、牙を剥いて襲いかかってくるのである。

 

 にも拘らず、彼はあの空間で、公然と敵意の眼差しを叩きつけてきた。日本国を相手取ることなど一切恐くない。そう言わんばかりの態度だ。そしてその姿に、高品は恐怖を覚えたのであった。

 

「日本国など恐れるに足らず。彼ほどの力の持ち主であれば、そう考えていたとしても、おかしくはないのかもしれません。しかし、仮にそうだとしても、普通であれば、いささかなりとも躊躇うはずです。日本国を敵に回せばどんなことが起きるか。想像し、恐怖し、警戒するはずです。しかし、彼の態度からはそういった躊躇の念が一切感じられなかった。この意味を考えたとき、恐怖から、呼吸が止まるかと思いました」

 

 かの人物は、すでに日本国と戦う覚悟を決めている。日本国を敵に回してもよいと考えている。だから、あの空間で、日本政府の意思の代弁者たる内調職員の自分たちに、敵対的な態度をとることに躊躇いがなかった。迷いがなかった。

 

「大国日本を相手に、ああもあっさりと立ち向かう覚悟を決められる。恐ろしい男です。しかし、それ以上に、危険な男です。彼には、常識というものが適用出来ない。いかに超常の力を持っていようと、普通の人間であればこう考えるだろう、こう行動するだろう。そんな予測が、一切通用しない。あれほどの能力を持った男が、です。これはとても恐ろしいことです」

 

 楯無の頭の中に、自然と、一つの名前が思い浮かんだ。篠ノ之束。彼女もまた、人智を超越せし能力を持ちながら、人の世の常識が一切通用しない、怪物だ。

 

 高品も同様の連想をしたのだろう。だからこそ、桜坂某を指して、危険な男と評したに違いなかった。

 

「あの男は虎です。上手く飼い慣らすことが出来れば、これ以上に頼もしい存在はいません。しかし、懐柔に失敗すれば、容赦なく牙を剥き、爪を突き立ててくることでしょう。出来ることならば、関わること自体、避けたい相手です」

 

「……それでも、彼の存在を知ってしまった以上、日本政府としては彼に関わるざるをえません」

 

「更識としては、関わるべきではないと思います」

 

「日本政府と更識の利害が競合してしまう、か」

 

 楯無は深々と溜め息をついた。望む関係が最終的にどういうものとなるにせよ、もはや日本政府は、桜坂という人物に対し、まったく無関心ではいられない。それに対して、彼とはなるべく距離を置きたい更識。こういう状況では、更識家最大の後援者たる日本政府が、自分たちの敵に回る可能性さえある。

 

 勿論、そういった事態を想定して、日本政府以外の他勢力からの協力を得られるよう、個人的なつながりを築いてはいるが。

 

「いつでも頼れるように、国家代表としてのお仕事も頑張らなきゃ、だわ」

 

 気乗りしない様子で呟いた楯無に、高品は同情した眼差しを向けた。

 

 

 

 

 

 

 名古屋市東区は、位置的に名古屋の都心部を構成する行政区画だ。全域が市街地であり、住宅街としての印象が強いが、区の南西部には主要な企業の本社・支社が建ち並ぶ商業地域となっており、日本三大経済圏の一角……名古屋圏の、中核を担う地域でもある。長年、ドーナツ化現象によって人口の減少に悩まされていたが、近年は大曽根駅周辺の再開発や、マンションの建設ラッシュなどによって、人口は着実に伸びており、名古屋十六区で最大の人口密度を記録している。

 

 桜坂が現在の住居としている賃貸マンションは、東区の中でも中央に位置する徳川町にある。尾張藩二代目藩主、徳川光友の隠居所の大曽根御屋敷があったことからこの町名が名づけられた町で、彼のマンションはまさにこの御屋敷跡……現在の徳川園からは、指呼の距離の場所に建っていた。十四階建ての高層マンションで、建物の裏手にはこぢんまりとした駐車場が設けられている。駐車場は地下にもあり、こちらの方が広々としていることもあって、比較的お金を持っている者たちの多くは、地下駐車場を利用するようにしていた。徳川町のあたりは海抜一六メートルと、東区内では比較的高い位置にある土地なので、冠水の危険も低い。もっとも、愛知県は土地の大部分がもともと海の中にあった地域だから、まったく問題がないとは言えないが。

 

 地下駐車場に愛車のカムリを駐車すると、桜坂は階段を使って一階のエントランスへと向かった。賃貸マンションのセキュリティはオートロック式だ。エントランスには風除け用の一枚目と、防犯用の二枚目の、二枚の扉があり、一枚目までは誰でも入れるようになっている。電子式の解錠パネルがある場所までやって来た桜坂は、二枚目の扉の前でにこにこ笑っている男を見て、思わず顔をしかめた。口の中で、今日もか、と呟く。

 

「今日は遅いお帰りでしたね?」

 

 声をかけてきたのは、内閣情報調査室の城山悟だった。過日の襲撃事件以来、日本政府との連絡役という建前のもと、アローズ製作所――とりわけパワードスーツ開発室――に連日入り浸っているスパイだ。ここのところ毎日、自分の帰りをエントランスで待っている。曰く、謎の無人ISを送り込んできた者たちの正体が分からない現状では、敵の狙いはアローズ製作所にあるとして行動をするべきである。社員たちの身の安全を守るためには、行き帰りの監視は不可欠である、とのこと。言い分は分かる。理があることも認めよう。とはいえ、こうも毎日続くと、さすがにストレスが溜まってしまう。桜坂はうんざりした様子で、

 

「プライベートについては詮索しない約束のはずですが?」

 

と、応じた。城山は「失礼しました」と、深々と腰を折ってみせる。洗練された所作のはずなのに、どことなく嫌みったらしさを感じさせる振る舞いに、仁王の顔が険しさを増した。

 

「……念のため、確認しますが?」

 

「はい」

 

「他の人たちの監視も、こんな感じに姿を見せてやっているんじゃあないでしょうね?」

 

 監視の対象は自分だけではない。城山の言によれば、桐野社長をはじめとする重役たちや、襲撃事件の当時現場にいた開発室のメンバー全員が、観察の対象になっているという。政府からの監視下にあるだなんて、ただでさえストレスフルな環境なのに、その上監視者が姿を見せるようなことがあれば、心労はさらに増すこととなろう。相手の姿を見えていると、自分はいま監視をされている、という事実がいっそう強調されて、自意識に刻まれることになってしまう。自分たちの置かれている状況の異様さが、いっそう際立つこととなる。

 

「まさか」

 

 はたして、城山はかぶりを振って否定した。

 

「他の方々に対しては、ちゃんと姿を見せずにやっております。私がこうやって姿をさらしているのは、相手があなただからですよ。超人であるあなたが相手では、姿を隠したところで、おそらく意味はない。むしろ姿を隠すことで、かえって余計なストレスを与えかねない、という判断からの対応です」

 

「……悔しいが、正しい判断ですね」

 

 桜坂は深々と溜め息をついた。城山の言う通り、自分の眼や耳といった感覚器は少しばかり特別製だ。建物の陰からのぞき見たり、距離を隔てた場所から機械装置を駆使して監視したり、といったことも、たちまち見破ってしまうだろう。そうなった場合には、なるほど、姿を見せぬことへの不安や不信、そして不快感から、いま以上の心的負担が襲いかかるに違いない。

 

 だからといって、目の前の男に対して感謝の気持ちはいささかなりとも湧きはしない。姿をさらしながらの監視でも、不快なことに変わりはないからだ。そういう気遣いが出来るくらいなら、いっそ監視なんてやめてほしい。

 

 そもそも、この身を超人と定義しているのならば、身の安全を保障するために監視は必要、という論理が、実は成立しないことぐらい分かっているはずだ。なんせ己は、最強兵器ISを素手でもって破壊してしまうような怪物である。他の社員たちと比して、政府が守りをかためてやる必要性は薄い。守るためなどではなく、己の能力を警戒しての監視なのは明白だ。そういう本音を正直に話さず、上辺だけの言葉ばかり口にするから、不信感が募る。不信感は不快感へと容易く転化し、ストレスとして蓄積されていく。

 

 何にも増して腹立たしいのは、自分のそういう不快情動の発生が、おそらくは内調によって仕向けられたものである、ということだ。

 

 スパイ機関の人間は、総じて人間心理にまつわる知識と技術に長けている。軍事衛星などの最新技術の採用が当たり前となって久しい現代でさえ、諜報活動の基本がヒューミントにあることは変わらない。人間に対して、どんな種類のストレスを与えればどういう反応が生起するか。この人物に言うことをきかせたい場合、どんなストレスを課すのが最も効果的なのか。彼らはよく研究し、訓練をしている。

 

 スパイ機関の者たちがストレッサーとして振る舞うとき、そこには高確率で、何らかの意味が、そして狙いがある。

 

 例えるならば、彼らは一流の園芸職人だ。トマトの栽培に際して、与える水の量をわざと減らすことでより甘い実がなることを企図するように、自分に対しても、わざとストレスを強いている公算は高いだろう。

 

 ――もっとも、この程度でまいるほど、こちらもやわではないつもりだが。

 

 不快なことに違いはない。しかし、耐えられないほどではない。今後、徐々に負担を大きくしていくつもりなのかもしれないが、だとしても、所詮は人間の思考の内より生まれし計略。“そういう”種類の攻撃をも想定して設計されているこの身が、耐えられないはずがない。

 

 それに、と桜坂は口の中で呟いた。監視役の存在は、たしかに不愉快なことだ。しかし、自分にとってのメリットも大きい。このエントランスで毎日自分が帰ってくるのを待っている、ということは、マンションに出入りする人間全員の顔を逐一チェックしている、ということをも意味するからだ。

 

 己にとって、誰が何時にこのマンションに入館しているかは、目下最大の関心事だ。すでに彼女が入館しているのか、否か。入館しているとしたら、どれぐらいの時間が経っているのか。それらがあらかじめ分かっていれば、覚悟を決めることが出来る。自室へ足を運ぶべきタイミングを、計ることが出来る。

 

「……それから、もう一つ、確認したいのですが」

 

 桜坂は神妙な表情を浮かべて言った。

 

「なんでしょう?」

 

「今日も、来ていますか?」

 

 桜坂は解錠パネルを見ながら訊ねた。あえて主語を明確化しない言い回し。しかし、誰のことを指しての質問なのか、城山にはすぐに分かった。途端、仁王の顔を見つめる眼差しが、どこか気の毒そうな、いたわりの優しさに満ち満ちたものになる。

 

 城山が桜坂の帰りを待ち受けるようになってまだ一週間程度だが、その短い期間中に、彼女の存在が与えたインパクトは絶大だった。いまや国家の重要人物となった彼の帰りを見届けるため、このエントランスに毎日立っているが、彼女の顔をこの場所で見かけなかった日は一度もない。

 

 桜坂からの問いかけに、城山は顔中の筋肉を、恐怖心を源泉とする緊張に強張らせながら頷いた。

 

「ええ。今日も、来ております」

 

「来ていますかぁ……。そうですかぁ……」

 

 桜坂はげっそりと溜め息をついた。城山が続けて言う。

 

「手慣れた様子で解錠パネルを操作すると、いとも容易く電子ロックを解除して自動ドアをくぐり、桜坂さんの部屋の郵便受けの中身をチェックした上で、エレベータを使って上がっていきました」

 

「電子ロックのナンバー、今朝、変えたばかりなんだけどなぁ」

 

「十秒とかけずに、解錠していましたが」

 

「ははあ、そうですか。……ちなみに、どれぐらい前のことです?」

 

「かれこれ二時間は経っているでしょうか」

 

「ということは……あぁ、駄目だ。最近の彼女の手際の良さから考えると、遅めの夕食と、風呂の準備と、部屋の軽い掃除までやった上で、洗濯籠の中からまだ洗っていない下着を物色しているか、もうブツの選定をすませてベッドの上ではぁはぁやっている頃合いだ。うん。駄目だ。もうちょっとどこかで時間潰してからじゃないと、最悪のタイミングで鉢合わせすることになる」

 

「えぇ…(困惑)」

 

 世界最高峰の工科大学を、二番手という優秀な成績で卒業した天才的な頭脳の持ち主だ。このまま平素の足取りでもって部屋に向かってしまえば、高確率で待ち受けているだろう未来を仔細にいたるまで想像出来てしまった彼は、怯えた表情で頭を抱えた。

 

 

 

 

 

 

「……これは予想外だったなあ」

 

 深夜のIS学園、一年生の学生寮。かたわらで目をつむるセシリアの熱い寝息に耳朶を火照らせながら、陽子は暗い室内を半眼で見回して呟いた。

 

 クイーンサイズのベッドを一目見た瞬間から、こうなるだろう、とは薄々勘づいていた。だから、「せっかくですし一緒のベッドで寝ましょう」と、言うセシリアの提案を渋々受け入れた際も、意外とは思わなかった。お嬢様育ちの彼女だが、実は存外に寝相が悪く、小柄な自分を抱き枕にして夢の世界に旅立ってしまった現状も、予想の範疇に収まる事態といえた。

 

 しかし、これは想像していなかった。たしかに、長身のセシリアと、認めたくはないが幼児体型気味の自分とでは、かなりの身長差がある。後ろから抱きつかれると、己の後頭部がちょうど彼女の乳房に押しつけられる形になってしまう。ここまでは想像していた。想像していたが、この、柔らかな感触は、予想外だった。自分の胸元にはない、この憎たらしい感触……まさか、こんな……! これほど豊満だったとは……!

 

「くそぅ。屈辱感で涙がちょちょぎれらぁ」

 

「心中、お察しするわ」

 

 照明を落とした暗闇の中、部屋の隅っこに追いやられた学園指定のベッドの上で横たわる如月キサラと目が合う。常夜灯のオレンジ光が薄らと照らし出す彼女の眉間は、同情から深い皺を刻んでいた。

 

「ふよふよで気持ちいいのが、よりムカつくなあ、もう!」

 

「ね。ホント、それね」

 

 遺伝子の違いに由来する欧米人との差を思い知らされて、日本人少女たちはひそかに嘆いた。

 

 

 

 翌朝、寝癖を梳こうとブラシを握りしめてにじり寄ってくるセシリアをなんとか退け、1122号室に戻ってきた陽子は、部屋に通じるドアを見て、茫然と立ち尽くしてしまった。床から十センチほどの高さの位置に、昨日まではなかったはずの傷や凹みが、無数に生じている。

 

「……え? これ、嫌がらせ?」

 

 最初は、出入りの業者が台車か何かの操作を誤ってぶつけてしまい、さらにこすってしまったのかと思った。しかし、それにしては傷の位置や、凹みの深さが安定していない。つま先の部分が硬い素材でできた靴で、何度も、何箇所も、蹴り込んだかのような傷跡に見えた。

 

「……織斑先生に相談しなきゃ(使命感)」

 

 二人目の男性操縦者。そして、週刊ゲンダイの捏造記事によって築き上げられた、妻にDVをはたらいた最低の屑男というイメージ。これらに敵意を抱く生徒の仕業だろうか。

 

 もしそうだとすれば、早めに対処しなければならない。

 

 この種の嫌がらせは、放置すれば過激化していくのが常だからだ。

 

 女尊男卑社会を打ち壊そうとする悪魔のごとき男、鬼頭智之。それでなくとも、女性に暴力を振るう最低の人物。そんな男を排するために、自分は正しいことをやっている。世間一般の倫理観に照らすとこれは犯罪だが、今回に限っては、正義の行いである。そういう考え方を下敷きに行動していた場合、理性という箍がはたらきにくくなっている可能性がある。

 

 今回は不在時にドアを蹴られる、という器物破損にとどまっているが、そのうち、父の身に直接危害を加えるようになるかもしれない。事故を装って階段から突き落とそうとしたり、IS実習中に流れ弾のふりをして銃撃を浴びせてきたり。もしも彼が、そのために、兄のようなことになったとしたら……。陽子は、ぶるり、と胴震いした。

 

 父の身を案じる気持ちから早鐘を打つ心臓を懸命になだめすかしながら、彼女は踵を返し、寮長室へと急いだ。

 

 

 

 

 

 

 太平洋戦争の終結後、全国で、平和公園と称する施設が増えた。文字通り、終戦の記念と、平和への祈りを篭めて整備された特殊公園で、多くの場合、墓園としての機能を与えられている。愛知県の場合、有名なところには名古屋市千種区の平和公園や、春日井市の潮見坂公園などがあり、晶子との二度目の裁判の後、鬼頭智也の遺骨は千種区の平和公園に移されていた。

 

 千種区の平和公園は、終戦後間もない昭和二二年に、戦災復興土地区画整理事業の一環として計画された。市内に点在する二七九寺が管理している墓地およそ一八ヘクタール、一八万九〇三〇基を、市内東部の丘陵地に集約・移転するという、当時としては大胆な試みで、用地には一四七ヘクタールもの広大なスペースがあてがわれた。昭和四八年から散策路などが整備された南部地区には一五〇〇本もの桜の木が植林されており、市民からは桜の名所としても長年愛されている。

 

 午前十時きっかりに名古屋観光ホテルをチェックアウトした後、鬼頭らは改造アルファードに乗って、平和公園の北部地区へと移動した。平和公園は、南部が市民の憩いの場だとすれば、北部はもうこの世界にはいないが、かつてたしかにかたわらにいてくれた、大切な人たちと対話するための空間だ。菩提寺や宗派の違いによる区画整備がなされており、運転手の男は東よりの区画に設けられた駐車場にアルファードを移動させると、シフトレバーをパーキングのところに合わせた。昨日と同様、まず楯無たちが下車して周辺の安全を確認し、それから、変装サングラスをかけた鬼頭が地面に降り立つ。その手には、プラスチック製の手桶が握られていた。柄杓の他に、色とりどりの菊花をビニールフィルムで束ねた墓花が一対分差さっている。ホテルを出る直前、観光ホテルが持たせてくれた物だ。一流ホテルだけあって、こういった雑務代行のサービスの質も高い。

 

 鬼頭智也の墓が墓園のどこにあるかは、当然、全員が頭の中に叩き込んでいる。一行はサングラスをかけた鬼頭を前後に挟む形で歩き始めた。アルファードでの移動中とは異なり、寄り道はせず、目的の墓石を真っ直ぐに目指す。無論、滞在時間を少しでも短くするための配慮だ。前述の通り、平和公園は丘陵地に築かれた墓園だから、海抜の高い位置から低い位置に向けた攻撃のリスクを背負うことになる。智也の墓標は、高さという観点でいえば、丘陵地のちょうど中ほどに位置していた。墓石のある場所で攻撃を受ければ、圧倒的に不利な状態での防御を余儀なくされてしまう。墓参りは、速やかに行い、速やかに立ち去ることが望まれた。

 

 連休期間の初日とあって、公園内には他にも墓参りを目的にやって来た者たちの姿が多数見られた。

 

 こういう人の目が多い環境においては、こそこそ動く方がかえって目についてしまう。

 

 鬼頭たちはなるべく自然体を意識しながら、ときに口を開き、足を動かすよう努めた。

 

「南の方に、ぴょこん、と、山から突き出した、塔が見えませんか?」

 

 鬼頭は自らに、ぴたり、と寄り添って歩く楯無に言った。護衛対象の心臓の位置をさりげなくかばいながら、彼女は顔を上げて、男の示す方角に目線をやった。なるほど、鉛筆のように細長い四角柱の胴体に、鋭角に突き出した四角錐の屋根を頂いた建物が、青々と茂る緑の中から飛び出しているのが見える。

 

 頭の中で、今回の護送任務に備えて暗記しておいた名古屋の都市地図を広げた。たしかあの場所には――、

 

「あれは東山スカイタワーと言って、東山動物園の、ランドマークなんです」

 

 ――そうだった。名古屋には、東京の上野動物園に次ぐ日本第二位の動植物園があるのだった。たしか、平和公園のある丘と、ほとんど向かい合うような形で小山があり、そこに拓かれた施設だったか。およそ五九ヘクタールもの広大な面積に、日本一の飼育種類数が暮らしている、と記憶している。

 

「智也は、動物の好きな子でした。動物図鑑を毎日のように眺め、休日には東山動物園によく連れて行きました。……あの子の墓を、伊賀上野から名古屋に移すと決めたとき、真っ先に思い浮かんだのが、この平和公園です。もともとここには、鬼頭家代々の墓がありました。それに加えて、あの子が大好きだった動物園に近い場所です。ここだったら、あの子もきっと気に入ってくれるだろう、と、先祖からの墓に、遺骨を移しました」

 

 途中、水汲み場で手桶の中を満たした。先頭を進む高品が、「持ちましょうか?」と、気を遣うが、鬼頭はかぶりを振って申し出を断った。護衛役の手がふさがってしまうのは不味いだろう、という考えと、智也のためのものはすべて自分の手で運びたい、という思いからの固辞だった。

 

 鬼頭家の墓は、整然と建ち並ぶ墓石の群れの、ちょうど中ほどに配されていた。伝統的な三段墓で、二つの台石の上に、細長い塔のような形をした竿石が重ねられている。墓石の表には『鬼頭家先祖代々之墓』とあり、裏や側面に、戒名と没年月日がびっしりと刻まれていた。その中に、令和二年に亡くなった童子の位号を見つけ、楯無たちは沈痛な面持ちとなる。

 

 ステンレス製の水鉢に差された菊花は、往時の美しさを失って久しい姿をさらしていた。鬼頭が陽子とともに最後に墓地を訪ねたのは、今年の二月のことだ。三月にISを動かせることが判明してしまい、政府からの監視を受ける立場になってしまったため、それ以降は訪ねたくても、足を運ぶことが許されなかった。

 

 鬼頭は水鉢から茶色く枯れた花を引き抜くと、汚れた水を排水路に流した。高品が、「水を変えてきます」と、手を差し出してくる。鬼頭は水鉢を彼に預けるのを一瞬、躊躇った。やはり、智也のためのことはすべて自分の手でやってやりたい。しかし、滞在時間を短くさせたい彼らの都合や、気持ちも分かる。

 

 ――これ以上の我が儘ははばかられる。

 

 こうして智也の墓参りに来られただけでも幸運なのだ。これ以上の高望みは、欲張りが過ぎると思った。

 

 鬼頭は高品に水鉢を預けた。水汲み場へと向かう広い背中を見送ると、自らは手桶の水で持参した手拭いを濡らし、墓石の汚れを、丹念に拭い、除いていく。

 

 丁寧な手つきを眺めているうちに、背後に立つ楯無の瞳は痛ましげに揺れ動いた。

 

 墓石を優しく扱う手つきからは、彼がいまもなお、亡くなった息子のことを愛し、彼の死を悔やんでいることがうかがい知れた。

 

 いま、自分の目の前にいるのは、驚異の頭脳と技術を持った天才でも、世界にたった二人しかいない男性操縦者の片割れでもない。仕事を愛し、家族を愛している。そんな、日本のどこにでもいる、普通の父親だった。普通の父親の背中と、優しい手つきが、そこにはあった。

 

 ――どうして彼がこんな不自由を我慢しなければならないのか……。

 

 愛する家族の墓前に花を供え、墓石を前に合掌する。そんな些細な望みさえ、政府の協力なしには叶えられない。普通の父親たる彼にとって、それがどんなに辛いことか! その心情を思い、楯無は胸の内が苦しくなるのを自覚した。

 

 ISと関わりさえしなければ……。いや、そもそもISの存在さえなければ! と、思わずにはいられない。ISの存在さえなければ、女性権利団体がいまほど力を持つことはなく、加藤晶子との裁判にも首尾よく勝利し、子どもたちの親権は、何の問題もなく鬼頭の手元に渡っていたはずだ。智也少年が命を落とすこともなかっただろう。

 

 ――この人は、ISのことをどう思っているのかしら……?

 

 技術者として、導入されているテクノロジーを称賛してくれる。

 

 災害救助用パワードスーツの普及を目指す夢追い人として、女性にしか使えないという汎用性のなさを、不満に思っている。

 

 では、鬼頭智也の父親としては?

 

 直接の原因ではないにせよ、息子の死の理由の一つである、女尊男卑の思想。それを勢いづかせた、ISという存在のことを。そして、そんなISについての研究機関である、IS学園のことを。彼はいったい、どう思っているのか。

 

 男の背中を見つめる少女の視線は、いつしか怯えを孕んだものになっていった。

 

 質問をぶつけたい気持ちが滾々と湧き上がる一方で、好奇心の赴くままに問いを投げかけてしまえば、何かとてつもない魔物を引き出してしまうような気がして、背筋が震えてしまった。

 

 高品が戻ってきたのは、鬼頭が墓石を一通り拭い終えたのとほぼ同じタイミングの出来事だった。

 

 鬼頭は彼の手から水鉢を受け取ると、左右の花立にセットし、菊花を差した。紙テープで束ねた線香の束に百円ライターで火をつけ、拝み石に供える。ジャケットのポケットから数珠を取り出し、両の手を合わせようとして、その動きを止めた。しばらくの間、墓石を、じっ、と見つめた後、かたわらの楯無たちを振り返る。

 

「……お願いがあるのですが」

 

 変装サングラスの向こう側で、鬼頭の瞳は心苦しそうに揺れていた。

 

 ついたった今し方、これ以上の我が儘ははばかられる、と自戒を新たにしたばかりなのに、もうそれを忘れたい衝動に襲われている。我慢の出来ない自分を情けなく思い、重ねて、結局、迷惑をかけてしまうのか、と楯無たちに対し申し訳なく思った。

 

「なんです?」

 

「十秒……いえ、五秒だけで構いません。このサングラスをはずすことを、許してはいただけませんか?」

 

「更品さん、それは……」

 

「高品、ストップ」

 

 険しい面持ちで口を開いた高品を、楯無が制止した。

 

 彼女は鬼頭の体に、ぴたり、と寄り添うと、小声で訊ねる。

 

「理由をおうかがいしても?」

 

「智也の前です。出来ることなら、偽りの顔ではなく、素顔で向かい合いたい」

 

 楯無は深々と溜め息をついた。鬼頭から離れ、周りの三人に指示を出す

 

「全員でパパを囲んで、壁になって。……十秒だけですよ?」

 

「……ありがとうございます」

 

 鬼頭は念のため自らも周囲を一瞥し、他の参拝者たちの視線がこちらを向いていないことを確認した後、膝を折り、その場にひざまずいた。サングラスをはずし、ジャケットの胸ポケットに引っかける。顔面にべったりと張り付いていた偽装画像が剥がれ落ち、墓の中の先祖たちにも馴染みの深い、鬼頭本来の素顔が春の日差しにさらされた。

 

 鬼頭は数珠を引っかけた両の手を合わせた。瞑目し、しばしの間、墓碑と向き合う。

 

 時が、静かに、ゆっくりと流れた。

 

 許された猶予は、僅かな時間だ。

 

 その短い時間のうちに、鬼頭は、胸の内で、百万の言葉を、想いを、愛息子に捧げた。

 

 楯無が、鬼頭の肩にそっと手を置いた。

 

「パパ、そろそろ」

 

「うん」

 

 鬼頭は頷くと、ゆっくりと瞼を開いた。墓碑に向けられた優しい眼差しを見て、楯無は、また哀しい吐息をついた。

 

 

 

 

 名古屋市千種区にある東山動植物園は、一九三七年の開園以来、東京の上野動物園や大阪の天王寺動物園などと並んで語られる、国内屈指の大動物園だ。五九・五八ヘクタールという広大な敷地内に、五百種以上の動物、七千種近い植物が生育している。園内は動物園北園エリアと本園エリア、植物園エリアの三つに分かれており、園のランドマークたるスカイタワーは、このうち北園……アルダブラゾウガメが暮らす自然動物館の側に建っている。

 

 この塔は名古屋市政百周年を記念して建てられた、全長一三四メートルの展望塔で、館内にはレストランなどの施設が入っている。目玉は五階の三六〇度パノラマ展望室で、ここからは地上一〇〇メートル、標高一八〇メートルからの絶景を楽しむことが出来た。

 

 さて、この手の展望室に欠かせない設備の一つに、コイン式の双眼鏡がある。多くの場合、架台から伸びている支柱の先端に双眼鏡が取り付けられており、支柱に設けられた投入口にコインを入れると、一定の時間、双眼鏡が使えるようになる、という物だ。

 

 この日、名古屋市北区は黒川に暮らす牧村杏子と、小学二年生になる彼女の娘は、大型連休の二日目を利用して東山動物園にやって来ていた。北園側の入口から入園した彼女は、わが子の手を引きながらアメリカバイソンやトナカイなどがいるアメリカゾーンを進み、やがてスカイタワーのあるエリアまで到着したところで、娘から展望室に行きたい、とせがまれた。

 

 エレベータのゴンドラの扉が開くなり、娘は、きゃっ、きゃっ、と相好を崩しながら飛び出し、展望室の中を元気よく走り回った。やがて、一基のコイン式双眼鏡を指差して、「あれ、見たい」という、おねだり。杏子は了承し、百円玉を投入した。娘は嬉々として双眼鏡に目をくっつけ、しかし、すぐに飽きてしまった。杏子は、仕方ないわね、と苦笑しながら、まだ残り時間があることを知って、今度は自分が顔を添えることにした。何気なく、平和公園の方に双眼鏡を向ける。

 

 杏子の喉が、こく、と鳴った。

 

 表情筋が凍りつき、レンズをのぞき込む双眸が瞠目する。

 

 双眼鏡を向けたその先に、世界で最も知られた男の顔があった。

 

 墓石を前に、手を合わせている。

 

「鬼頭、智之……!」

 

 なぜ、あの男があそこにいるのか。

 

 いつ、名古屋に帰ってきたのか。

 

 頭の中に生じたいくつもの疑問。それらは最終的に、一つの行動を促した。

 

 双眼鏡から顔を話した杏子は、かたわらの娘に、「お母さん、ちょっとだけ電話したいから、少し静かにしていてね」と、囁きかけた。ハンドバッグからスマートフォンを取り出すと、電話帳を起ち上げる。グループ分けされた名簿の中から最も馴染みのある名前を見つけるとコールした。電話機を、身元に添える。コール音が一回、二回と鳴り、三回目の途中で、ぷつ、と先方と電話がつながる。聞こえてきたのは、女性の声だった。

 

『牧村さん、どうしました?』

 

「お休みの日にすみません。大至急、長沢さんに伝えておきたいことがありまして」

 

『なんです?』

 

「鬼頭智之を見ました。あの男はいま、名古屋に帰ってきています」

 

 電話機の向こう側で、相手が息を呑む音が聞こえた。無理もないな、と杏子はその心中を察して得心する。自分たちにとっての不倶戴天の敵が、自分たちの暮らすこの街にいるというのだから。

 

 ISの登場がもたらしたこの女尊男卑時代において、女性の権利を主張する団体は、そのことごとくが支持を集め、勢いづくこととなった。

 

 その中でも、世界的に見て特に成長著しい組織が、IS誕生の地である日本にある。

 

 東京に本拠地を置き、全世界に四十万人もの会員を抱える組織の名は、『アマゾンの者』。世界で最も有力な女権団体の一つであり、また最も有名な組織として、ある者たちからは好意的な眼差しを、ある者たちからは侮蔑の眼差しを、そしてなにより、ほとんどの者たちからは怯えの目線を向けられている者たちであった。『アマゾンの者』はその強面な響きの名前の通り、女尊男卑時代にあって特に過激な団体として知られていた。牧村杏子はその会員であり、彼女が連絡をとった長沢もまた、組織の一員であった。

 

「長沢さん、私はどうすれば?」

 

『……いま、この街であの男に襲いかかるのは得策とは言えません』

 

 アマゾンの姉妹たちにとって、鬼頭智之は輝かしき女性時代におけるバグだ。速やかに排除しなければならない存在だが、信じられないことに、日本政府は彼のことを国家の重要人物として扱っている。今回の帰郷にも、屈強なボディガードたちが警護に張り付いているに違いない。

 

『まずは情報を集めましょう。鬼頭智之はなぜ名古屋にやって来たのか。その理由を知ることが出来れば、次につなげることが出来るはず』

 

「彼はいま、平和公園の墓園にいます」

 

『平和公園? 牧村さん、あなた、いまどこにいるの?』

 

「東山動物園のスカイタワーの展望室です。娘と一緒に来ていて、コイン式の双眼鏡で墓園の方を見たら、あの男の姿を目撃しました」

 

『墓参りに来ている、ということ?』

 

「たぶん、そうです」

 

『……なるほど、その様子、スマホのカメラで写真は撮れますか?』

 

「出来るかどうか分かりませんが、やってみます」

 

『お願いします。写真が撮れたら、名古屋にいる会員の皆さんにデータを送信してください。難しいときは、鬼頭智之がいまいる場所を、出来るだけ正確に憶えて、メールに書いて送ってください。……あの男がどのお墓を目的としていたのか、それが分かれば、つけいる隙を見出せるかもしれません』

 

「分かりました」

 

『よろしくお願いしますね』

 

 通話を切ると、杏子はかたわらの愛娘に笑いかけた。

 

「動物園を楽しんだら、後で平和公園に行きましょうね。緑がいっぱいで、きっと気持ち良いわよ」

 

「うん!」

 

 元気よく返事をする娘の様子に微笑むと、彼女は再び平和公園の方を見やった。

 

 墓園を見つめるその目つきには、険が宿っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter29「黄金週間の過ごし方」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ISの持つ兵器としてのポテンシャルが明らかとなった当初、各国の軍隊では等しく、この新時代の兵器をどう運用するべきか、ちょっとした議論が起こった。

 

 どこの国でも、IS運用に最適化された組織を新たに作るべき、という意見が、はじめのうちは同意を集めるも、軍隊の維持にかかるコストがただでさえ年々増大し、問題視されている近年だ。懐事情によほど余裕のある国でもない限りは、陸海空軍といった既存の組織網の中に、ISを運用するための部隊を設立する、という手段を採ることが、最終的には多かった。

 

 その際、ほとんどの国では、IS部隊を空軍組織の中に発足させた。これは主に、二つの理由に起因する。

 

 一つは勿論、ISが“飛行”パワードスーツに分類される兵器であるためだ。PICがもたらす驚異の運動性と機動性は、陸軍や海軍では手に余る。たとえば陸軍の場合、IS部隊は機動力が高すぎるために、他の部隊との連携がとりづらいだろうし、海軍の場合も、現代の海戦では、その運動性を十全に活かすことは難しいだろう。既存の軍隊組織の中では、空軍のみがかろうじてその能力を活かすことが出来る、という考えからの判断だった。

 

 もう一つの理由は、ISがもともと、宇宙開発を目的に作られたパワードスーツであることに由来する。ISに使われている技術の多くは、宇宙科学由来のもの。当然、それを扱う者たちには、宇宙に関するある程度の知識が必要とされる。そして、今日の宇宙開発技術の多くは、航空科学の延長線上に存在している。たとえば、アメリカ航空宇宙局N.A.S.A.の前身たるアメリカ航空諮問委員会N.A.C.A.は、航空工学の研究と推進を目的に設立された機関だった。N.A.C.A.の時代に得られた技術的資産の多くは、今日におけるN.A.S.A.の宇宙開発技術の基礎を担っている。

 

 さて、欧州連合E.U.の実質的な盟主たるドイツ連邦共和国の場合も、IS部隊は空軍の中に組織された。

 

 第二次世界大戦の後、東と西とに分割されたドイツでは、東西陣営のどちらからも、ヨーロッパ方面の前線基地としての役割が求められた。二度の世界大戦の原因となった国にも拘らず、軍の整備が許され、その中には勿論、空軍も含まれていた。やがて冷戦が終結し、ドイツ統一の悲願が叶うと、両国の軍隊もまた統合された。現在、連邦空軍は空軍指揮幕僚監部をケルン行政管区のボンに置き、その下に空軍式司令部と、空軍局を置くという組織体制を基本としている。

 

 空軍指揮幕僚監部が置かれているボンは、分断時代に西ドイツの首都だった都市だ。ケルンの南二十キロメートルに位置する三十万人都市で、古くからの歴史を持った文教都市として知られている。

 

 第二次世界大戦の後、ベルリンにあった首都機能の多くは東ドイツのものとなり、西ドイツは遷都の必要を迫られた。候補地にはボンの他に、フランクフルトやハンブルクなどの名も挙げられたが、これらの案は、大都市すぎる、として棄却された。西ドイツの政治家たちは、将来、東西ドイツが統一された暁には、再びベルリンが首都になるべきだ、と考えを持っており、これらの大都市が首都として発展してしまうと、再統一を果たした際に首都機能を移転出来なくなってしまうことが懸念されたのだ。

 

 ボンの街は、その意味で、大きすぎず、小さすぎずの適切な規模を持っていた。また、地理的に西ドイツの中央部に位置していたこともあり、暫定首都に適当と選ばれたのである。

 

 その後、東西ドイツが再統一を果たすと、同国の首都はベルリンに戻った。しかし、E.U.とNATOの本部が置かれているブリュッセルに近い利便性や、分断時代の首都圏として確立していた地域経済への影響などを考慮して、以降も、ボンには連邦都市として、国家の中枢機能の一部が残されることとなった。空軍指揮幕僚監部は、その一つである。

 

 空軍指揮幕僚監部は、ドイツ連邦軍内に五つある幕僚監部の一つで、連邦空軍における最高幕僚機関だ。軍人一八〇名と、文民職員によって構成された組織で、連邦軍全体の構想の実現と発展を目的に、空軍の各種の活動を統制するために存在する。その主要な任務は人員と資器材の準備であり、仕事の効率化のために、内部にはさらに三つの組織を抱え持っている。すなわち、人事や教育を管轄する第一空軍幕僚部。作戦計画や戦力の運用法、兵站についてを考える第二空軍幕僚部。そして幕僚監部で計画した作戦をいかに指導するか、運用していくかなどを統制する第三空軍幕僚部だ。

 

 現地時間で、四月二九日の午前九時。

 

 この日、ボンの幕僚監部の第一会議室では、連邦空軍の名だたる将帥たちが集まっていた。幕僚監部の中でもとりわけ重要な役職に就いている者たちばかりで、軍服の襟に縫いつけられた階級章には、大佐や、准将といった、高級将官であることを示すマークが多く見受けられる。

 

 広々とした部屋の中には三人用の長机が整然と並べられ、みな真ん中の一人分を空けて使っていた。照明を絞り、カーテンも閉め切った室内は全体として暗いが、ちちち……、と静かに駆動するプロジェクターの光と、その光を反射する、巨大な乳白色のスクリーンのために、何も見えないというほどではない。

 

 連邦空軍の幹部たる男たちの目線は、等しく険しく、そして、スクリーンに向けられていた。畳三畳を縦に並べたほどもあるスクリーンには、激しいISバトルの様子が映じている。場所は日本、国際IS学園は第三アリーナ。試合のカードは、鬼頭智之と、国籍不明の、謎のIS。学園に三年生の生徒として在学中の、スパイから送られてきた映像だった。世界屈指の軍事力を誇るあのIS学園が襲われたというだけでも驚きだが、それを迎撃したのがあの鬼頭智之と知って、幕僚監部は緊急会議を開いたのである。というのも、送られてきた映像の中に、幕僚監部が現在計画中のある任務を遂行する上で、無視しがたい音声が入っていたのだ。

 

「注目するべきは、トモユキ・キトウのこの発言です」

 

 やがて映像の再生が終わると、今回の会議の発起人であるエミール・バレニー空軍少佐は、手元のリモコンでプロジェクターを操作した。第一空軍幕僚監部で、普段は人事にまつわる仕事をしている人物だ。記録映像の再生が再び始まるが、そのほとんどは早送りされ、目当てのシーンが近づいたところで、通常速度での再生に切り替えられる。世界で二番目に発見された男の顔が画面いっぱいに映じ、その唇が動いた。部屋の四隅に設置されたスピーカーから、男の声が響き渡る。

 

『――大人には、子どもを守る義務がある』

 

 バレニー少佐はまたリモコンを操作して、映像を一時停止した。

 

「この発言の後、彼は、この時点では戦力まったく未知数の相手に向かって、果敢に戦いを挑んでいくわけですが、こうした一連の態度からは、トモユキ・キトウの子どもに対する基本姿勢、さらには、強い信念の存在を読み取ることが出来ます。トモユキ・キトウはMITを首席で卒業した経験を持つ、高度な知性を持った人物です。未知の脅威に挑みかかることの危険性を認識していなかったとは考えにくい。つまり彼は、自らの危険を十分認識した上で、それよりも、すぐそばにいる子どもたちの安全確保を優先して、行動を起こしたのです。

 

 子どもを守るために、大人が命を張る。一見、当たり前の行動のように思えますが、IS学園という特殊な環境においては、これは非常に珍しい考え方の持ち主だと言えます」

 

 ISの台頭により、子どもと、若者との線引きは年々難しくなっている。ISを操縦出来るのは女性のみ。その中でも、気力体力ともに充実している、十代半ばから二十代後半までの若い娘が、操縦者には適している。最強兵器ISの存在が社会を構築する重要素となっている現代では、そんな理由を背景とした優遇措置の一環から、十代の娘が大人同然の扱いをされる機会が増えているのだ。

 

 IS学園はまさにその先頭を進む組織だ。実際、あの場所には、鬼頭よりも腕の立ち、先頭の経験も豊富な若い娘たちが多数いた。にも拘らず、彼は適材適所という合理的判断ではなく、己のこだわりを優先して行動した。

 

「トモユキ・キトウは、IS学園の生徒たちを、ISを動かす才能を持った若者たちではなく、大人である自分が守るべき子どもたちと定義しているのです」

 

「おそらくは、彼の経歴がそうさせているのでしょう」

 

 呟いたのは、第三幕僚部で訓練指導用のマニュアル作成を担当している、四五歳のゴードン・ハートマン大佐だ。過去に、娘の一人をIS学園に留学させた経験を持つ、知日派として知られている。

 

「今月の初旬に、日本の談構社という出版社から刊行された、週刊誌の特集記事のことは、ここにいる皆さんであればご存知のことと思います。おそらくは誌面の半分以上が、悪意ある嘘によってしたてられた捏造記事でしょうが、大切なことは、残る僅かな真実の部分にあります。トモユキ・キトウは、過去にわが子を失っている。失ったも同然の事態に遭遇したことがある。そのときの辛い記憶と経験が、この高い知性をもった人物に、非合理的な判断と行動を強いてしまうような、子どもという存在への強い執着心を抱かせているのでしょう」

 

「彼の執着心が、どのような経験や感情に由来するものなのか、それはこの際、どうでもよいことです」

 

 バレニー少佐はハートマン大佐の言葉を遮ると、不敵な冷笑を浮かべた。

 

「我々にとって重要なのは、この強い執着心の存在が、我々の計画にとって、たいへん都合が良いということです」

 

 IS学園の開校以来、ドイツは国の施策として、毎年一名ないし二名の留学生を学園に送るようにしていた。IS操縦者の数が軍事力の指標として信頼される現代において、IS学園で最新の理論や技術を学んだ人材というのは、千金の価値を持つ。アラスカ条約への配慮から、建前では、本人に進学の意志があったから、ということになっているが、実際は国の支援と指名を託されての留学生たちだった。それを証明するかのように、彼女たちの卒業後の進路はほぼ例外なく、ドイツ軍のIS部隊や、国内のIS産業に関わる仕事ばかりである。

 

 さて、彼女たち留学生の人選や、試験勉強への準備は、空軍指揮幕僚監部の、第二幕僚監部に任されていた。これは勿論、ドイツ軍のIS部隊が空軍に所属していることによる。今年度、その仕事はバレニー少佐とその麾下のチームに委ねられた。当初の予定では、一月中には選定を終えて、その後たっぷり二ヶ月をかけて留学のための準備をし、今頃は日本の空の下、勉学に励んでいる、そのはずだった。

 

 ところが、今年は留学生の人選にいまだ手間取り、一人の人材も送れないでいた。これは主に、二つの理由に起因する。

 

 一つは機体の問題だ。現在、ドイツやイギリスが所属する欧州連合では、統合防衛計画『イグニッション・プラン』が進められている。世界中で軍事費の高騰が問題視されている今日、欧州連合の加盟国は軍の装備を統一化することで、運用に必要なコストを軽減させよう、という取り組みだ。現在はその第三次作業が進行中であり、今回は次期主力ISの選定も、その内容に盛り込まれていた。

 

 今年度、イギリスはIS学園への留学生に、代表候補生のセシリア・オルコットを選定した。昨年の十二月にその事実を知ったバレニー少佐たちは強い危機感に襲われた。彼女には最新の第三世代機……ティアーズ型のプロトタイプが、専用機として託されていることが判明したためだ。

 

 ティアーズ型は、第三次イグニッション・プランの候補機として、イギリスがトライアルに出している機体だ。IS学園という、各国からの注目が集まる場所にそれを投入してきたということは、ここで活躍を示して、主力機選定業務において優位な立場に立ってやる、という腹積もりに違いなかった。

 

 次期主力機選定業務には、ドイツも参加している。同じく第三世代機で、少数ながらすでに量産も始まっているレーゲン型が、その候補だ。ドイツ政府は空軍に対し、英国への対抗手段として、留学生にこのレーゲン型を専用機として託すよう命令した。これが、今年の二月の出来事だ。

 

 急な決定がもたらしたのは、現場の混乱だった。ドイツ政府が望む結果のためには、留学生にはレーゲン型を十分に使いこなしてもらわなければならない。バレニー少佐たちは、レーゲン型の性能と相性の良い人材の選定作業を、改めて行わなければならなくなってしまった。苦労の末、なんとか四名まで候補者を絞り込んだのが、今年の二月中旬のこと。しかしこの時点で、ドイツ国内で開かれた入学試験はとうに終わっていた。留学生を入学式に送り込むことは、不可能となってしまった。

 

 バレニー少佐たちに残された手段は、候補者たちを中途からの編入試験に合格させることだったが、これは入学試験よりもさらに難しい。通常の入学試験であれば、この四名全員に受験対策を施し、合格した者の中で特に成績優秀な者にレーゲン型を与える、という手段を採るところだが、編入試験が相手の場合、四名全員を平等に扱って試験対策を施すのは、かえって効率が悪い。バレニー少佐たちは、候補者をさらに一名まで絞り込み、その一人に編入試験対策を集中的に、そして徹底的に叩き込むことにした。

 

 そうして選ばれたのが、若干十五歳という年齢にも拘わらず、すでに空軍の実戦部隊で活躍しているラウラ・ボーデヴィッヒ少佐だった。能力優秀なのは勿論のこと、もともと専用機としてレーゲン型の一番機を与えられている人物でもあり、今回の任務にうってつけの人材と目されたのだ。この時点で、ときはすでに三月はじめ。そこからは機体の再調整と完熟訓練、そして編入試験対策の勉強が突貫で進められた。ボーデヴィッヒ少佐のレーゲン型は、軍の第一線部隊に配備された、ガチガチの実戦仕様。これを、競技用に調整し直し、完熟訓練を施さねばならない。これら一連の手続きに、多大な時間を要してしまったのだ。

 

 第二の理由は、留学生候補にボーデヴィッヒ少佐が選定されたのと前後して発生した。織斑一夏と、鬼頭智之。二月と三月に、日本で、ISを動かすことの出来る男性が立て続けに発見されたのだ。

 

 各国の政府や研究機関が彼ら二人をどう扱うべきか熟慮する中で、ドイツ政府は早々に結論を出した。すなわち、二人の男性操縦者は貴重な生体サンプルである。留学生には彼らと接触を図り、友好関係を結んだ後、どちらか一人、あるいはその両名を、ドイツ国に引き込むよう命令せよ、とバレニー少佐たちに新たな任務を与えてきたのだ。

 

 バレニーたちはまたも頭を悩ませることになってしまった。というのも、ボーデヴィッヒ少佐は本人の能力こそ申し分ない優秀な人材であるが、対人関係における調整能力の部分で、かなりの問題を抱えていたためだ。コミュニケーション能力に欠ける彼女の存在は、軍の統帥を乱すような事態にこそ発展したことはないが、所属する部隊からは、『何を考えているのか分からない』、『信用出来ない』などの苦情が、バレニー少佐らのもとに上がってきていた。

 

 ――いまのボーデヴィッヒ少佐を送り込んでも、男性操縦者たちからの信は得られまい。どうしたものか……。

 

 通常の軍務に加えて、機体の調整と訓練、編入試験対策の勉強。この上でさらに、対人スキルの特訓まで加えねばならぬのか、と思うと、バレニーは憂鬱な顔をせずにいられなかった。

 

 そんな折りにもたらされたのが、スパイからの記録映像だった。はじめて目を通したとき、少佐は、これは天恵である、と大喜びした。子どもを守るのは、大人の義務だ、とIS学園の子どもたちに対し、強い執着を見せた鬼頭智之の顔を見て、彼の腹中では一つの案が生じた。

 

「ボーデヴィッヒ少佐の見た目は、年齢のわりに幼げです。彼女の容姿は、トモユキ・キトウの目に、IS学園の誰よりも、子どもという印象を刻むことでしょう。そうなってしまえばこちらのもの。そんな心理状態の彼の目の前で、ボーデヴィッヒ少佐の身に危険が迫ったとしたら、どうなるか?」

 

「具体的には?」

 

 少将の階級章が輝かしい高官からの問いに、バレニーは淀みなく応じた。

 

「トモユキ・キトウの目の前で、ボーデヴィッヒ少佐のレーゲン型に事故が発生します」

 

「もしそんな事態に遭遇すれば、トモユキ・キトウは、自らの危険を顧みることなく、ボーデヴィッヒ少佐を助けようとするだろうね」

 

「ドイツは彼に、貸しを作ることになります。その礼をしたいから、という名目で、関係を築くことが出来るでしょう」

 

 この計略の優れている点は、ボーデヴィッヒ少佐の対人スキルへの依存度が低い、という点だ。彼女は鬼頭智之の前で、子どもらしい振る舞いをするだけで良い。高等な話術も、取引の術も必要ない。ただただ、彼の視界の内で子ども然と振る舞い、彼の視界の内で、事故に遭う。それだけで良い。対人スキルの訓練にかける手間を省くことが出来る。

 

「事故を起こす、と、おっしゃりましたが……」

 

 得意気に自らの作戦を語ったバレニーに、難しい表情で言葉を投げかけたのはハートマン大佐だった。

 

「ISは最新技術の塊です。ISコアが常に機体を管制し、事故の可能性を監視しています。そんなISが目の前で事故を起こす。これは不自然な事態であり、かえってトモユキ・キトウの警戒心を刺激することになるのではないでしょうか?」

 

「それは事故の種類にもよりますでしょう。たとえば、単純な飛行装置のエラーなどであれば、ハートマン大佐のご指摘通り、不自然さから警戒心を煽ることになると思われます。しかし、ISに搭載された最新のエラー検出装置でも、事前の予見は不可能と判断されるような事故ならば、むしろそんな機体に搭乗していたボーデヴィッヒ少佐への同情心を刺激してくれるのではないでしょうか?」

 

「そんな都合の良いことが……」

 

「それがあるのですよ」

 

 バレニー少佐は不敵な冷笑を浮かべた。

 

「ただし、そのためには、どこか適当なメーカーか研究機関に、犠牲になってもらわねばなりませんがね」

 

 

 

 

 

 






おふざけ回、お~しまい!



ところで、地元である名古屋を舞台にしたお話しではなるべくフィールドワークをするようにしている、とは前回のあとがきで書いたこと。

今回も平和公園の墓園から本当にスカイタワーが見えるかどうか、見に行きました。

夜中の11時に。

一人で。

墓園をドライブ&散策。


ここのところ仕事が忙しすぎて、休日は基本、寝てばかり。

明るいうちに行くことは難しい、と結論し、仕事が終わってから、一人、夜の墓園に向かいました。



……クッソ恐かった(震え)。






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