五月第三週の月曜日の朝。
国際IS学園、一年一組の教室。
フランスからやって来たという転校生が、自らを指して三人目の男性操縦者だと紹介したとき、少女たちのファースト・リアクションは様々であった。ただただ驚く者。驚きのあまり茫然とし、思考がまとまらずに素直な感想さえ口にできない者。目の前の現実を受け入れられず、挙げ句わが目を疑って目元を何度もこする者。三人目の男が存在するという事実に疑念を抱き、訝しげな眼差しをその頬に突き刺す者……。突然の転校生というだけでも驚きなのに、ましてその人物が新たな男性操縦者だと知らされた少女たちの心理的動揺は、一人の例外もなく大きい。
とはいえ、そこはIS学園に通う才女たち。驚愕に心を囚われた時間は短かった。一瞬の静けさを挟んだ後、教室内は再び、わあっ、と騒然とし出す。
「きゃああああああ――――っ!」
「男子! 三人目の男子!」
「しかもウチのクラス!」
「美形! 守ってあげたくなる系の!」
「おー、ええやん。気に入ったわ」
「地球に生まれて、よかった~~~!」
特に目立ったのが新たな級友が男子生徒だったことへの歓呼の声だ。IS操縦者という輝かしいステータスを得られるのと引き換えに、全寮制の女学園で三年間過ごすことを余儀なくされるという、ほとんどの者にとっては灰色の青春時代の到来が確約されている中で降って湧いた、同じ年頃の異性との出会い。しかもこの少年、かなりの美男子だ。中性的に整った顔立ちが形作る人懐っこそうな微笑みが、とてもチャーミング。年頃の乙女たちの胸は、期待で弾まずにいられない。
その一方で、シャルル少年に怪訝な眼差しを向け続ける者も少なくなかった。
三人目の男性操縦者の発見という大事件にも拘わらず、直前まで何の情報もなかったことがどうしても引っかかる。自分たちが個人的に知らなかっただけならばまだしも、机の陰で携帯情報端末を素早く操作した限りでは、どこの報道機関からもそんな発表はされていない。普通は今頃、一夏や鬼頭のときがそうだったように、マスコミ・ミニコミ問わない激しい報道合戦が展開されていて然るべきはずだが……。情報公開に伴う騒乱を嫌ったフランス政府が、その存在を隠匿していたのか? しかし、そうだとすればなぜこのタイミングでの転校なのか、という疑問が生まれてしまう。これまでひた隠しにしてきた存在を、いま明らかにした意図は何だ? フランス政府は、何を考えている? ……本当に、彼は“男性”の操縦者なのか?
鬼頭智之も疑念から眼差しに険を宿している一人だ。最前列の席ど真ん中という好位置から、すぐ目の前に立つシャルルの顔をしげしげと眺める彼は、眉間のクレバスも深く、口の中で呟く。
――どう見ても、男装をした女の子だが……。
同じ年頃で日本人の一夏と比べても、ずっと低い身長、ずっと華奢な体つき。その上、細身なシルエットの学生服越しに見て取れる体のラインは、妙に丸っこい。尻のあたりなど、特にそれが顕著だ。肉の付き方が、男のそれとは明らかに異なっている。また、目線を上へと向ければ、首の真ん中あたりに喉仏が見られない。十中八九、女性に相違ないだろう。
なぜ、彼女は男子生徒用の制服を着用し、あまつさえ男性操縦者などと名乗っているのか。その目的は何だ? いったい、どういう意図を腹の内に抱えている? 鬼頭はやがて、二つの可能性に思い至る。
――トランス・ジェンダー……なのか?
出生時に割り当てられた性別が、自身の性同一性や、ジェンダー表現とは異なる人々を示す包括的用語だ。性同一性とは、性自認やジェンダー・アイデンティティとも呼ばれ、要するに、自身の性(ジェンダー)をどう認識しているのかを指す言葉。鬼頭ははじめ、シャルル少年を、女性として生まれてきたが男性の性同一性を持っている、と自認している、トランス・ジェンダー男性ではないかと考えた。
IS登場後の女尊男卑社会において、トランス・ジェンダーは悲惨な立場に追いやられている者が多い。お前達は男なのか? それとも女なのか? もし女だというのなら、お前達は上に立て。男だというのなら、女の下で跪いて生きろ。どちらの生き方をしたいか、立場をはっきりさせろ――。ISの登場以前は、トランス・ジェンダーに対してタブーとされてきた選択を、IS登場以後の社会は容赦なく突きつけた。
自分はいったい何者なのか。男なのか? それとも女なのか? そのどちらでもないとしたら、自分はいったい……! 自らのジェンダー・アイデンティティについて、悲痛なまでに日々もがき苦しんでいる彼らにとって、男か女かの二者択一ほど、残酷で、攻撃的で、陰惨な要求はない。女尊男卑社会の圧力は多くのトランス・ジェンダーを苦しめ、絶望させ、心を殺した。
そうした中でも特に酷いのが、肉体的には女性だが、男性の性同一性を持っているタイプのトランス・ジェンダー男性たちだ。ジェンダー・アイデンティティの崩壊に毎日怯えて生きている、と評しても過言ではないだろう。
彼らは、肉体的には女性だから、当然、ISを動かすことが出来る。最強兵器ISを動かせるから女は偉い、という考え方に基づき成立している今日の女尊男卑社会において、その身は大切に扱われる。その一方で、彼らの性自認は男性。女尊男卑社会においては、その心は虐げられる立場にある。
トランス・ジェンダーであること隠して女性として生きることを選んだ場合、肉体面では快適な日々が保障されることだろう。しかしその心は、男性として生きたいのに女性としての振る舞いを社会から求められる、というすさまじい苦しみを抱えることになってしまう。
のみならず、同胞たる男性たちからも憎悪の念を向けられることになるだろう。トランス・ジェンダー男性が女として生きることを選ぶ、とは、彼らの目に、男性としての性同一性を持ちながら男を苦しめる社会システムの存続に努める裏切り者としか映じないためだ。
かといってトランス・ジェンダーをカミングアウトすれば、今度はその逆の関係性の中で生きなければならない。一転して被差別民の側に追いやられ、搾取の対象とされ、挙げ句、人間性さえ否定される。そんな日々が、待っている。
女として生きるも地獄。男として生きるも地獄。この事実は、世のトランス・ジェンダー男性たちの心と体をばらばらに引き裂いた。いまのこの世界に、自分たちが安心して暮らせる場所はないのか。自分たちの存在を、許してくれる場所はないのか? 自分たちはただ、自分らしく、生きたいだけなのに……!
シャルル・デュノアがトランス・ジェンダー男性だとすれば、これまでに相当な苦労をしてきたに違いない。自らを“男性”の“操縦者”だと称したのは、そういった日々に嫌気がさしたがゆえの、反動的カミングアウトなのか。
ただ、この想像には一つ欠陥がある。仮にシャルルがトランス・ジェンダー男性だとして、自分や一夏を指して「同じ境遇」と口にした理由は何か? という疑問に答えられない点だ。
「シャルル・デュノアです。フランスから来ました。こちらに僕と同じ境遇の方がいると聞いて、本国より転入を勧められ、やって来ました。三人目の、男性IS操縦者になります」
シャルルは自らのことを、“三人目”と、わざわざ紹介した。この文章の構成からは、彼の言う「同じ境遇の方」というのが、一人目と、二人目のことを指しているのだろうと読み取れる。すなわち、自分や一夏のことだ。しかし、自分たちは勿論、トランス・ジェンダーではない。いや、一夏については本当のところは分からないが、少なくとも自分は違うし、そもそも今日が初対面のシャルルが、日本の男性操縦者二人がトランス・ジェンダーかどうかなど知っているはずがない。それなのに、彼は自分たちのことを「同じ境遇」と、表現した。彼が自分たちに見出した共通点とはいったい? ……この疑問に答えられなければ、シャルルがトランス・ジェンダーだという推理は成立しない。
鬼頭が想像するもう一つの可能性は、シャルルが産業スパイではないか、というものだ。推理のきっかけは、彼が口にした、“デュノア”というファミリーネーム。
フランスからやって来たIS関係者が、デュノアの姓を名乗る。これらの情報からまず連想されるのが、仏国最大のISメーカー……デュノア社だ。第二世代機の傑作『ラファール・リヴァイブ』を世に送り出した企業で、世界シェア第三位を誇っている。鬼頭はこの名前から、シャルルはデュノア社の親類縁者で、自分たち男性操縦者のデータの取得を企図して送り込まれてきた、産業スパイではないか、と想像した。男装をし、男性操縦者と自らを偽っているのは、同性同士だからこそ育める心理距離感を利用した情報収集を狙ってのことではないだろうか、と。
しかし、こちらの推理にしても欠陥はある。シャルルの変装が、あまりにも杜撰だということだ。これでは、女の身だと気づいてください、と言っているようなものではないか。
フランス政府にしても、デュノア社にしても、自分たちが送り込んだ男性操縦者が実は女性だったということが曝かれれば、たいへんな信用問題へと発展しかねない。いや、十中八九そうなるだろう。デュノア社の隆盛が許せない競合他社、欧州における仏国の影響力を失墜させたい国など、よってたかって責め立てるに違いない。下手を打てば、政権一つ、大企業の経営陣一つ吹き飛びかねない事態だ。得られる成果に比して、あまりにもリスクが大きい、と鬼頭の目には映じてしまう。当然、シャルル・デュノアの背後にいるだろう仏国政府とデュノア社の上層部が、こんな簡単な想像をしていないはずがない。
それなのに、この変装は何だ? 大きすぎるリスクを踏まえた上で送り込んできたのが、これだというのか? リスクへの対策が、ほとんどなされていないじゃないか。せめてもう少し、男らしく見える措置をとるべきではないのか。フランス人どもはいったい、何を考えているのだ!? ……こちらの推理にしても、やはりこの疑問に対する解答が得られなければ成立しがたい。
――それを思うと、やはり、トランス・ジェンダーなんだろうか……?
鬼頭の考えるトランス・ジェンダー説と産業スパイ説は、どちらも不自然な点が見られる想像だが、あえて片方を選ぶのであれば、より公算が高いのは前者の考え方だろう。トランス・ジェンダー説に対する疑問は、シャルル個人の内面に由来するもの。対して産業スパイ説への疑問は、国家や企業といった、巨大な社会集団の行動原理に対するものだ。この二つを並べて考えた際、どちらの方が不自然さに目をつぶれるか。
三人目の男性操縦者や同じ境遇云々のくだりは、まだ日本語に不慣れなフランス人ならではの言葉の綾だった、と考えることも出来る。やはり、男装の理由はトランス・ジェンダーだからか。
さて、そうだとすれば困ったことになったな、と鬼頭は内心冷や汗をかいた。これまでの人生四六年のうちで、彼がトランス・ジェンダーと関わりを持った経験はない。自分が彼と今後どんな関係を築きたいかは別として、とりあえず今日、どう接するのがモア・ベターだろうか。複雑な事情を抱え持つ繊細な人物として気を遣いすぎれば、かえって相手の気分を害しかねないだろうし。
――中身は男なんだから、男性向けの話題を振って、お互いにとっての適切な距離感を少しずつ測る。うん、方針はこれでいこう。差し当たっては何を話すべきかだが……、最近の若い男の子が好みそうな話題……、話題……。
「……おっぱいのことか」
いや、これは年齢問わず男性が好む話題だったな。……いかん。オロチ・システム試運転時の疲れのせいか、思考が変な方向へ向かいがちになっている。
「鬼頭さん? いま、何か言いました?」
隣の席に座る夜竹さゆかが訊ねた。ぼそり、とした呟きに対する反応だ。ただ声が小さかったために、よく聞こえなかったらしい。あぶないところだった、と鬼頭は胸の内で呟いた。もし聞き取られていたならば、自分の大人としての株価が大暴落するところだった。
「いえ、何も」
小さくかぶりを振ってみせると、さゆかは「そうですか」と、静かに応じた。それから、自身の胸元へ目線を落とす。ささやかな膨らみを、じぃっ、と、見つめながら、「噂通り、やはり巨乳の方がいいのか……」と、こちらも、ぼそり、と呟いた。……聞こえてなかったんですよ、ね?
そんなやり取りに反応したわけではないだろうが、出入口付近に立つ千冬が、教室内を見回して面倒くさそうに言う。
「あー、騒ぐな。静かにしろ。転校生は、もう一人いるんだ」
千冬に促され、みなの目線はシャルル少年に続き入室してきた白人の少女へと向けられた。自称三人目の男性操縦者ほどではないが、こちらもかなり目立つ容姿の持ち主だ。
まず目につくのが、透き通るような白い肌と、銀糸とまごう長い髪だ。腰近くまでのばしているそれは一見綺麗だが、どこかまとまりがなく、毛先も乱れ気味。おそらく伸ばしっ放しにしているのだろう。それなのにキューティクルの輝きが素晴らしいのは、若さゆえか。それとも、身だしなみへの関心が薄いせいで、かえって妙な化学成分が配合されたシャンプーなどを敬遠してこられたからなのか。どちらにしても、中年男の自分には羨ましい限りだ。
顔の造作については、子どもっぽい、というのが率直な感想だった。IS学園に通うからには、彼女も十代半ばのはずだが、同年代の他の娘たちと比べても、ひときわ幼げな顔立ちをしている。小さめの唇に、ちょっぴり低い鼻。大振りな造りの目には赤い宝石のような瞳が鎮座しており、美しいが、そのうちの片方は眼帯で覆われていた。日本で主流の白眼帯ではなく、欧米圏でよく見られる黒い眼帯だ。左目の方を覆い隠している。
身の丈もまた、同年代の平均と比して低い。陽子よりは上背があるが、それでも一五〇センチないだろう。そのことも、少女の持つ幼げな雰囲気の演出に一役買っているように思われた。腰の後ろで腕を組み、胸を張って屹立している姿など、童女が自分のことを精一杯大きく見せようとしているようですらあり、微笑ましいとも思ってしまう。
もっとも、見た目の愛らしさに反して、教室内を、ぐるり、と見回す視線は酷薄だ。自分と同年代の少女たちを、蔑んでいるかのような冷たさが見て取れる。
今度はきみの番だよ、とシャルルが後ろに下がって教壇のセンター・ポジションを空けた。しかし、その様子を見ても、銀髪の少女は動かない。そればかりか、相変わらず無言のままだ。いつまで経っても始まらない自己紹介に、教室中で当惑の表情が浮かぶ。
「あ、あの~……ボーデヴィッヒさん、自己紹介を」
二人のかたわらに立つ副担任の山田真耶が、おろおろ、とした口調で言った。それでもなお、少女は口を閉ざしたままだ。真耶のことを、一顧だにしない。彼女の目線は、やがて教室内への一点へと定められた。出入口付近に立つ千冬を見つめている。どうやら、彼女からの言葉を待っている様子だ。千冬もそれに気がついたか、世界最強の女傑は呆れた様子で溜め息をつくと、億劫そうに口を開いた。
「……挨拶をしろ、ラウラ」
「はい、教官」
たたずまいを直し、素直に返事をした。その際に、右手を米神のあたりに持っていき、挙手敬礼。鬼頭は驚きから頬の筋肉を強張らせる。
――軍隊式の敬礼とは! ……IS操縦者は十代のうちから軍属になる者も多いと聞いていたが。
実際に目にしてみると、胸にくるものがある。自分の娘と同じ年頃の少女が軍人だなんて、と嘆く気持ちを禁じえない。
「ここではそう呼ぶな。もう私は教官ではないし、ここではお前も一般生徒だ。私のことは織斑先生と呼べ」
「了解しました」
背筋を伸ばし、踵同士を打ち鳴らして応じた。彼女はようやく教壇の真ん中に移動すると、
「ラウラ・ボーデヴィッヒだ」
と、鋭い口調で言い放った。続く言葉を待つクラスメイトたち。しかし、肝心のラウラはといえば、名前を言ったきり、また貝のように口を閉ざしてしまう。
「あ、あの、以上……ですか?」
「以上だ」
見かねた真耶がさらなる言葉を促そうとするも、ラウラは即答でもって彼女の気遣いを切り捨てた。銀縁眼鏡の向こう側で、子鹿のように大きな瞳が涙ぐむ。
見ていて不憫になってきた。フォローの声かけを口にしようとして、赤い瞳と目線がかち合う。
「貴様は――」
「はい?」
教壇の真ん中に立つラウラの目線と、最前列ど真ん中の席に座る鬼頭の目線が交差した。銀髪の少女は少し驚いた様子で、二人目の男に向けて口を開く。
「――貴様、いまいくつだ?」
「? 今年で、四六になりますが」
「……教官より二十年以上も早くに生まれた弟なのか」
両の腕を胸の前で組み、驚愕の事実を噛みしめるように、ゆっくりと呟く。教室の其処彼処から、「えぇ…(困惑)」と、ぼそり、とした声があがった。
「……ラウラ、お前、何か勘違いしているな。その人は鬼頭智之さんだ。二人目の男性操縦者の方だ」
「なんと!」
ラウラは真実驚いた様子で鬼頭の顔をしげしげと見つめた。
「道理で老けていると思いました」
「老けて、いる……」
無遠慮に口ずさまれた言葉の刃で、胸を切り裂かれた。反論しようにも、事実、この教室にいる誰よりも老齢なのは確かだ。事実を指摘されただけなのだから、落ち込む必要はない。ない、が、とはいえ、こうも面と向かってはっきり言われてしまうと、さすがに鳩尾が痛い。「うん。まあ、うん。そうだね。たしかに、老けているね。オジサンだもんね……」と、俯き呟く驚異の天才。教壇の真耶が、慌てた口調で彼に言う。
「だ、大丈夫ですよぅ、鬼頭さん! 鬼頭さんの見た目は年齢相応……いいえっ。むしろ、若い、くらいです」
「……山田先生、気を遣わなくても、いいですよ」
「いや、気を遣っているとかじゃなくて本当に!」
「やっべ。オトンが面倒くさいモードに突入しちゃったよ」
席替えの結果、教室の後ろの方に座る陽子が辟易とした様子で呟いた。この男、なまじ頭がよいだけに、一度落ち込んだり悩み出したりするととにかく長い。思考をどんどん発展させていく性質が悪い方向にはたらいてしまい、ネカティブな考えをどんどん進展させて抜け出しがたい状態に陥ってしまうのだ。往時にはこういうとき、気分転換のドライブや時計いじりといった逃げ道があったが、IS学園ではそれも叶わない。
さてどうしたものか、と内心頭を抱えていると、教壇のラウラが、何か思い出したように、はっ、とした。教壇から降りて鬼頭の前に立つと、その場で傅いてみせる。着座状態の鬼頭と目線の高さが逆転した状態で、彼女は言った。
「失礼しました。男性操縦者は二人いると聞いてはいたのですが、顔写真までは確認していなかったもので」
「はははっ、左様ですか」
「軍からは、鬼頭智之とはなるべく友好的な関係を築くように、と申しつけられております」
さらり、と口ずさまれた内容に、教室内はまたも騒然となった。発言の内容から、ラウラ・ボーデヴィッヒがどこかの国の軍関係者なのは明らかだ。それがどこの国なのかは情報が少なすぎてまだ判然としないが、その国は、二人目の男性操縦者の身柄争奪戦に、日本と英国に続き正式に参戦を表明したと考えてよいだろう。でなければ、自国を代表する立場の人間に、そんな言葉は託すまい。
「よろしくお願いします」
「うん。はい。どうも」
握手を求められ、なんとはなしに、それに応じた。留学生の何人かの唇から、ひゅぅっ、と悲鳴が漏れ出る。みな、男性操縦者たちへの対応をどうするべきか、いまだ結論を出しあぐねている国々からの者たちだった。それらを耳にして、鬼頭はようやく正気を取り戻した。かたく握り合った右手を見て、ぎょっとする。これでは、ラウラが口にした友好的関係の形成に、自分も乗り気だと言っているようなものではないか。
しまった、と思ったときにはもう遅かった。ラウラは握手をほどくと立ち上がり、今度は鬼頭の三つ後ろの席に座る一夏の方へと近づいていった。その様子を見て、またも何人かの生徒が、ガタタッ、と腰を浮かす。この上、一夏とまでそんな関係を築かれたら、という警戒心に突き動かされての行動だった。
みなの注目を浴びながら、ラウラは、コツコツ、と軍靴の踵を鳴らして、一夏の前に立った。今度は俺に対しての挨拶か、と一人目の少年は転校生の少女の顔を見上げた。あれ? と、訝しげな表情。自分を見る少女の面差しは、険しく歪んでいた。
「今度こそ、貴様が織斑一夏だな?」
「そ、そうだけど」
問いかけに対し、肯定の意を示した次の瞬間、左の頬に衝撃が走った。平手打ち。手首のスナップを利かせた鋭い打撃に、目の前が一瞬、真っ暗になる。すかさず襲いくる、ずきり、という痛み。一夏の端整な顔立ちが、苦悶に歪んだ。
「痛ってぇ!」
「一夏!」
相変わらず窓際の席に座る箒が悲鳴をあげた。机の天板に両手をついて立ち上がり、突然の凶行におよんだ転校生を睨みつける。
「貴様っ、一夏に何を!?」
「……ふん」
ラウラは、箒の問いかけには答えなかった。そればかりか一瞥さえよこさない。異国からやって来た少女は、一夏だけを見つめていた。無視をされた、と箒の頬が紅潮する。
「私は認めない。貴様があの人の弟であるなど、認めるものか」
紅の隻眼が少年の顔を冷たく睨んだ。対する一夏は、いきなりのことで自分の身に何が起きたのかすぐには理解できず、叩かれた方の頬に掌を添えながら、相手の顔を茫然と見つめ返す。自分はいま、何をされた? この痛みは何だ? ……叩かれたのか? この娘に? 状況を理解するにつれてふつふつと湧き上がる、理不尽への怒り。
「いきなり何しやがる!」
自分はなぜ、叩かれたのか。自分が叩かれねばならない理由は何だ? ラウラ・ボーデヴィッヒと自分は、互いに初対面のはず。少なくとも自分に、過去に彼女と会ったり、言葉を交わした記憶はない。そんな面識のない相手から、不躾に名を問われ、いきなり叩かれねばならない理由とは何だ? そんなもの、あるわけがないし、あってよいはずがない!
一夏の眦がつり上がった。怒りの炎に燃える眼差しと、凍れる侮蔑の眼差しとがぶつかり合う。
しばしの睨み合いに飽いたか、ラウラはやがて、ふい、と顔を背けた。無言のまま踵を返し、再び軍靴の歌声を教室内に響かせる。空いている席に、どかっ、と、腰を下ろすと、両の腕を胸の前で組み、目をつむった。そのまま彫像のように、動かなくなってしまう。
「おまっ、無視するなよ!」
「ぼ、ボーデヴィッヒさん、座ってください、ってまだ言っていませんよぅ」
二人の顔を交互に見て、慌てた様子の真耶が言った。
ラウラ・ボーデヴィッヒが一年一組の教室に足を踏み入れてから、まだ数分しか経っていない。にも拘らず、問題事の種を次々と振り撒くその姿に、新人教師の顔色は早くも疲れの色が濃かった。
そんな教室の片隅では、弟たちによるやり取りの様子を見た千冬が「また問題児が増えた」と、受け持ちのクラスの前途多難ぶりをひっそり嘆いていた。
インフィニット・ストラトス二次創作
「この小さな世界で愛を語ろう」
Chapter32「転校生たち」
転校生たちの紹介に端を発する一悶着の後、二人に代わって教壇に立った千冬は、これ以上の遅れは次の授業の開始時間に差し支えるからと、不満そうな顔の弟たちをあえて無視し、連絡事項の伝達に努めた。やがてそれも一段落すると、ぱんぱん、と両手を打ち鳴らして、生徒達に次の行動を促す。
「――連絡事項は以上だ。ではこれでHRを終わる。各人はすぐに着替えて第二グラウンドに集合しろ。今日は二組と合同でIS模擬戦闘を行う。それでは解散!」
ホームルーム中、ずっと不服そうなそうな面持ちだった一夏は、姉のこの発言に、はっ、とした様子で慌て始めた。そうだった。ラウラからの平手打ちのインパクトのために、いまのいままで忘れていたが、今日の一限目は、ISを実際に動かしての実習授業だった。早く教室を出て、空いている更衣室に向かわなければ。
IS実習の授業は、一般の高校における体育の授業と同じで、ISスーツという専用のユニフォームを着用して行われる。つまり、着替えが必要だ。しかし、IS学園にとって男性操縦者はもともとイレギュラーな存在。男子生徒用の更衣室なんて気の利いた施設があるわけもなく、その日ごとに、空いているアリーナ更衣室を探してそちらに移動する必要があった。そしてこれらの更衣室は、次の授業で使うアリーナやグラウンドはどこか、そこまでの距離はいかほどか、といった利便性に配慮された立地を、必ずしもしていない。
一夏は待機状態の『白式』に意識を傾け、空間投影式ディスプレイを机の上に出力した。IS学園のコンピュータにアクセスし、空いている更衣室を探す。本日の着替え場所候補の第一位は、第二アリーナ。一年一組の教室からはそれなりに遠く、第二グラウンドからもまた遠い。のんびりしていると、授業の開始に間に合わない恐れがある。
「おい織斑。デュノアの面倒を見てやれ。同じ男子だろう」
千冬からの指示に頷くと、一夏は椅子から立ち上がった。机のサイドフックに引っかけておいたナップサックを手に取る。それから、転校したばかりで学園の施設の配置に不慣れだろうシャルルを見た。ちょうど彼の方もこちらを見ており、視線と視線が絡み合う。仏国からやって来た美少年は、人懐っこい笑みを浮かべた。
「きみが織斑君? 初めまして。僕は――」
「織斑一夏だ」
一夏はシャルルの言葉を遮って言った。手の中のナップサックを見せて言う。
「詳しい自己紹介は後にしようぜ。とにかく、いまは移動が先だ。ほら、案内するからさ」
「え?」
「ぼさっとするなって。それとも、女子と一緒に着替えたい、女子の着替えが見たい、って言うんなら、置いておくけど?」
冗談っぽく言ってみせて、周囲を示す。気の早い生徒など、早くも制服の裾に手をかけ始めていた。このあたりも、一般の高校の体育の授業と一緒だ。ほとんどの生徒は、更衣室に行くことなく、それぞれの教室でユニフォームへの着替えを行う。
周囲の女子生徒たちを一瞥して、シャルルは得心した様子で頷いた。
「あ、あぁ~、そっか。そうだよね」
「とりあえず、俺たち男子は空いているアリーナ更衣室で着替え。これから実習の度にこの移動だから、早めに慣れてくれ。ほら、行こうぜ」
「わっ……!」
説明しながら、一夏はシャルルの手を取った。突然のことに驚いたか、転校生の少年の頬が薔薇色に紅潮する。
そんな彼の反応を訝しく思いながら、一夏はもう一人の男性操縦者たる鬼頭の姿を探した。二番目の男はすでに、教室を出てすぐのところに立っていた。これから教員用の更衣室へ向かおうとしていた千冬たちを呼び止め、三人で何やら話し合いをしている。
シャルルの手を掴んだまま、一夏は鬼頭の前に立った。
「智之さんも、急ぎましょう」
「デュノア君を連れて、先に行っていてくれないかい」
鬼頭はやんわりとした口調でことわってから、退室しようとする千冬たちを示した。
「織斑先生たちに、ちょっと確認したいことがあってね。私は後から行くよ」
◇
「私のクラスにばかり問題児が集まるのは、きっと、何かの陰謀に違いありません」
教員用の更衣室へと向かう道すがら、前を歩く千冬の口から飛び出した呟きに、背中を追いかける鬼頭と真耶は揃って苦笑を浮かべた。平素しかめっ面が多い彼女にしては珍しい、諧謔を孕んだ口調。しかし、担任教師というその立場を思うと、呵々大笑するのははばかれる。自称三人目の男性操縦者に、初対面の一夏の頬をいきなり張るような娘。まごうことなき問題児たちだ。そんな彼女らがクラスメイトたちとこの先上手くやっていけるのかを思うと、不安は募るばかり。転校生二人の編入先を、一年一組に決めた学園や政府の上層部に対し、何を考えているのか、と愚痴をこぼしたくなるのも無理はない。
ここが一般の高等学校であれば、学年主任という千冬の立場は、人事に口出しする上で強力な武器として機能していただろう。しかし、ここは国際IS学園。アラスカ条約の傘の下、各国政府の本音と建前が乱立する腹芸の見本市だ。両国の政府から、『ぜひ織斑一夏らと同じクラスに』という、猛烈なプッシュをひそかに受けていた学園の上層部は、二人の編入先をほぼ一方的に決定した。上役からそうした裏事情を匂わせる発言をされた後、「頼んだよ」と、千冬が肩を叩かれたのは、なんと今朝のことだったという。鬼頭たちの担任教師は、忌々しげに溜め息をつく。
「鬼頭さんが相手なのでお話ししますが、IS学園に外的介入は通用しない、なんていうのは、所詮、建前です。実際は交渉内容次第で、我々は首を縦に振る。鬼頭さんたち男性操縦者への日本政府からの介入を黙認していることなどは、その最たる例です。今回の件についても、フランス政府と、ドイツ政府から、要請を受け入れてもいいだろう、と思わせる“何か”の提供か、そういう即物的なものでないにしても、裏取引に何らかの利を見出したのでしょう。それが何かまでは分かりませんが」
「なるほど、それで、陰謀と」
「ええ。……むしろ、そうであってほしいですよ。そうでないとしたら、私は学園の上層部から嫌われていると判断せざるをえませんから」
「嫌われている、って……」
つかつか、と歩みを進める千冬の背中に、鬼頭は呆れた表情を向けた。
「むしろ、その逆なのでは? 陰謀云々を抜きにして考えた場合、問題のある生徒達をどのクラスに配置するべきか、その判断基準は、純粋に担任教師の能力となるはずです。学園は、織斑先生の能力を買っているからこそ、転校生二人を一組に預けてもよい、と判断したと考えるべきでしょう。織斑先生なら安心して二人を託せる、という、むしろ信頼だと思いますが」
ヒールの踵を鳴らして進む千冬の背中を追いながら、鬼頭はやんわりとした口調で言った。すぐ隣を歩く真耶も、ぶんぶん、と首を縦に振ってみせる。
「そ、そうですよぅ。学園が織斑先生のことを嫌っているなんて、そんな……」
「男性操縦者二人にISの生みの親の肉親。その上で三人目の男と、軍からの命令を受けた勘違い娘を押しつけられたんだ。嫌がらせ人事と疑いたくもなるさ」
世界最強の女傑から、じろり、と睨まれ、真耶は返す言葉を見失う。眼光の圧力に屈したのは勿論だが、のみならず、自分も同様の仕打ちを受けたなら、きっと同じように悲観的想像をふくらませてしまうだろうな、ということが容易に想像できてしまったためだ。なんとなれば、千冬がいま挙げた者たちはみな、台風のような存在だといえる。当人にそのつもりがなくとも、ただそこにいるだけで問題を起こし、周りに影響を及ぼす。厄介事のびっくり箱そのものだ。そんな人材を何人も押しつけられたなら、千冬でなくとも、学園上層部の意思決定プロセスに、個人的な好き嫌いの感情が介在していなかったか疑いの目を持ちたくなるだろう。
「……まあ実際のところは、問題児は一つの学級にかためておいた方が監視をするのに都合がよいから、といった理由なのでしょうが」
もっとも千冬も、学園の上層部が本当にそんな子どもじみた論理で動いているとは考えていない。陰謀の類いがないと仮定した場合に、問題児たちの集積地に自分の担当クラスが選ばれたのは、やはり鬼頭が言うように、世界最強のブリュンヒルデが見るのならば、と能力を買われてのことと想像された。
三人はやがて教員用の更衣室へと辿り着いた。まず真耶がドアをノックし、誰からの返事もないことを確認してから、非接触式センサーに掌をかざす。電子ロックが解錠され、圧縮空気の抜ける音とともに、スライドドアが開いていった。念のため真耶一人だけが入室して室内を見回し、やはり誰もいないことを認めてから、背後の鬼頭を見る。
「大丈夫です、鬼頭さん。いまのうちに入ってください」
「では、失礼します」
真耶に促され、鬼頭はロッカールームに入室した。直後、鼻腔を刺激する、様々な化粧品がごった煮されたえも言われぬ匂い。女性職員ばかりが利用する場所だからと覚悟はしていたが、思わず、頬の筋肉が引き攣ってしまう。
いかんいかん、と、小さくかぶりを振った。二人の前で、しかめっ面は失礼だ。鬼頭は平静な表情に努めた。
教員用更衣室の造りは、アリーナに設けられている部屋よりも狭く、内装からは質素な印象を受けた。一度に数十人の生徒が利用することを想定したアリーナ更衣室と違い、教員用の部屋は利用者が限られているためだろう。観葉植物や自動販売機などの快適設備はほとんど見られない。十六畳ほどの室内に置かれたインテリアで目につく物といえば、壁面に、ずらり、と並ぶ縦長のロッカーと、部屋の真ん中に四つ置かれている、背もたれのない三人掛けのベンチ、そして天井中央部に設けられた業務用のエアコンが一基という具合だ。
換気装置は、壁の上の方に設置されている小窓以外に、天井の四隅に格子で覆われた空調装置の孔が設けられていた。聞けば、毒ガスなどが充満した際に、室内の空気を十秒以内に総入れ替えできる強力な装置なんだとか。さすがは軍事施設と感心する一方、稼働には大量の電気が必要だそうで、普段は節電のため電源を落としていると説明を受けて、少しもの悲しい気持ちになってしまった。
更衣室に最後に入室した千冬が、電子ロック錠を後ろ手で操作して、施錠のモードを『使用中』に設定した。
彼女は『織斑』と書かれたネームプレートを掲げているロッカーの前に移動すると、背中を預け、胸の前で腕を組んだ。
「ここなら、生徒達の耳目はありません」
「ご配慮、痛み入ります」
鬼頭は千冬に向けて小さく頭を傾けた。
数分前、教室から退出する千冬たちの背中を呼び止めた彼は、「出来れば、他の生徒達がいない場所でお話ししたいのですが」と、適当な場所がないか二人に訊ねた。ちょうど更衣室に向かうところだった彼女らは、それならば、と生徒達が絶対に利用することのない部屋に、彼を案内したのである。更衣室という場所柄、はじめは鬼頭も再考を促したが、なんとしても一限目が始まる前に話しておきたい彼と、一限目の開始に間に合わせたい千冬たちとの思惑の一致から、これ以上好適な場所はない、と最終的には納得したのだった。
ちなみに道中、
「男の私を更衣室に連れて行くなんて、躊躇いはないのですか?」
「勿論、抵抗はありますよ。未洗濯のジャージやら下着やらがそこら中にある場所です。当然、その中には自分たちの物もある。それを見られるかもしれない、という恥じらいは、私にだってあります。しかしそれは、私たちが気をつければすむ話だ」
「いや、見る、なんてことよりも、……私が先生方の下着を漁ったり、室内に隠しカメラを仕掛けたり、そういうことの方を、警戒するべきでは?」
「そういうことを、するつもりなんですか?」
「まさか!」
「なら、大丈夫でしょう。私はあなたのその発言を信じます。問題ありません」
などという会話が、千冬との間であった。彼女は鬼頭が何を言っても「問題ない」の一点張りをごり押しし、やがて根負けした彼は、このディベート合戦に一方的敗戦を喫した。
「こんな論理性を欠いた意見に打ち負かされるなんて……」
「天才でも、言い負かされることがあるんですね」
しょぼくれる背中を慰める真耶であった。
「それで、確認したいこと、とは?」
「はい」
余人の耳目の遮断に成功した鬼頭は、「シャルル君のことです」と、口火を切った。その名を聞き、千冬と真耶の顔が揃って硬化する。反応から、男は、やはり、と頷いた。
「単刀直入にお伺いします。シャルル・デュノア君は、女性なのでは?」
「……鬼頭さんも、そう思いますか」
千冬の口から飛び出した返答に、鬼頭の切れ長の双眸が、おや? と、鋭く輝いた。シャルル・デュノアの性別を、直接確認していないかのような口ぶりだ。転入が決まったときに、学園側で健康診断などの身体検査をしなかったのか。
「思う、とは?」
「我々IS学園も、シャルル・デュノアが三人目の男性操縦者だということには懐疑的だ、ということです」
「つまり、女性ではないか、と、疑っている?」
「ええ」
首肯とともに、千冬はうんざりとした様子で溜め息をついた。かたわらに控える真耶が、言葉足らずな上司の発言を補足する。
「三人目の男性操縦者、というだけでも怪しさ全開なのに、あの見た目ですから。あれで疑うな、という方が無理ですよ」
「私や山田先生が転校生の存在を聞かされたのは、昨晩緊急で開かれた、職員会議でのことでした」
そのときのことを思い出し、千冬の語気自然荒々しさを増していった。
「普段は滅多に顔を出さない学園の理事の一人が、珍しくこの島に足を運んできたと思ったら、突然の衝撃発言ですよ。そのときに転校生両名の履歴書を渡されたのですが、顔写真を見た瞬間、『こいつは怪しい。履歴書には男性とあるが、実際には女性ではないか?』と、職員のほぼ全員が口にしました。その上で、つい先ほど実物と引き合わされて、こいつはいよいよ怪しいぞ、と」
「怪しい、どまりですか。直接の確認……身体検査などは、行わなかったのですか?」
「行いませんでした」
千冬はまたうんざりした様子で頷いた。
「鬼頭さんもご存知かと思いますが」
「はい」
「IS学園では新入生・転校生問わず、入学者には身体検査が義務づけられています。これは、ISの操縦をするにあたって障害となりうる基礎疾患や、五感機能の異常、身体の変形等の有無を調べるためのものです」
自動車免許の取得時に視力検査を行うのと同じ理由だ。自動車よりもずっと複雑な機械であるISの操縦者には、心身ともに健康体が求められる。
「ところが、シャルル・デュノアに限っては、学園はそれを実施していません。というのも、身体検査はフランスにいた頃に向こうですませてきた、と、フランスの国立病院作成の検査表の提出のみで、よし、としてしまったからです。つまりシャルル・デュノアについては、身体検査は受けているが、それは学園で行われたものではない。学園側に、彼の性別を直接確認した者はいない、ということです」
「なるほど。ちなみに、その検査表には?」
「勿論、男性と明記されていました。ですが、」
「検査表には、私や織斑先生も目を通しました。各項目の数値に、特に不審な点は見られませんでしたが……」
「逆にそれが健康体すぎて、かえって不自然に感じましたよ」
「そうですね。まるで同年代男性の、各項目における平均値を寄せ集めたようなデータでした」
「……つまり、捏造された物である可能性が高い?」
鬼頭の問いに、千冬ははっきりと頷いてみせた。
「十中八九、そうでしょう。これだけの要素が揃っていて、疑いの目を向けない、では教師失格です」
鬼頭は眉間に皺を寄せ、おとがいを撫でながら考え込んだ。先ほど否定したばかりの産業スパイ説が、早くも存在感を主張し出す。
シャルル・デュノアがトランス・ジェンダー男性だとすれば、身体検査のデータを偽る必要は薄いはずだ。むしろ、周囲の理解や協力を得るために、本人にとっては受け入れがたい事実であったとしても、肉体は女性のそれである、とはっきりさせておいた方がよい、と素人ながら思う。整理の問題や、ホルモン注射の問題など、周囲のサポートが必要と考えられる場面は多い。
しかし、そうだとするとやはり、あの杜撰な変装が気になってしまう。加えて、千冬や真耶が一目見ただけで不審点を見出せてしまえる出来栄えの検査表の存在。産業スパイだとしたら、正体の露見を前提として送り込んでいるとしか思えない。その理由は何だ? デュノア社とフランス政府は、何を考えている……?
「そして、いまの鬼頭さんの発言から、はっきりと確信しました」
不意に名前を呼ばれ、鬼頭は思索を中断した。訝しげな面持ちで、千冬を見る。
「私の?」
「ええ」
千冬は腕組みをほどくと、鬼頭の顔を真っ直ぐに見据えた。
「鬼頭さんの言う通り、シャルル・デュノアはおそらく女性でしょう」
「……私が言ったからそう思う、というのは、短絡的すぎるのでは?」
「それだけ鬼頭さんのことを信頼している、ということですよ」
千冬はからかう口調で言った。
「以前、オルコットが言っていました」
「セシリアが?」
「天才・鬼頭智之が何より優れている点は、その観察眼である。僅か十数分、稼働しているところを見ただけで、BTシステムの基本構造をほぼ正確に見抜くほどの眼力の持ち主である。そのあなたが、シャルル・デュノアを見て女性だと判断したのです。私からすれば、十分すぎる根拠ですよ」
「ですね」
かたわらに立つ真耶も、真剣な表情で頷いた。まいったな、と鬼頭は思わず肩をすくめる。それから彼は、二人の顔を交互に見て言った。
「デュノア君が、女性だと仮定して話を進めますが」
「はい」
「彼女はいったい、何者なのでしょう? 私個人としては、トランス・ジェンダーか、産業スパイのどちらかだろう、と考えているのですが」
「おそらくは、産業スパイでしょう」
間髪入れずに、千冬は答えた。レスポンス・タイムの短さから、彼女もシャルル・デュノアの正体について考察していたのだろう。
「あるいは、軍事スパイも兼ねているのかもしれませんが。目的はおそらく、男性操縦者たちのデータ取得と、可能ならばその身柄を仏国のものとすること。男性操縦者と偽ったのは、愚弟や鬼頭さんたちに接触しやすくするための方便でしょうね」
「それにしては、変装が杜撰すぎませんか? それに検査表の件もあります。スパイにしては、正体露見へのリスク管理が、あまりにも甘いように思いますが」
「あるいは、それこそが狙いなのかもしれません」
険を孕んだ呟きに、鬼頭は怪訝な表情を浮かべた。
「つまり、正体がばれることを前提として送り込まれたスパイだということです」
「……スパイにとって、正体の露見は避けるべきことなのでは?」
「一般論ではそうでしょう。ですが、女性スパイの場合は、話が変わってきます」
千冬は嫌悪感も露わな口調で、“女性”という点を強調した。それを聞き、鬼頭はようやく、得心した表情で頷く。
「なるほど、ハニー・トラップですか」
古今東西、セックスを武器とするのはスパイの常套手段だ。鬼頭の言葉に、千冬は柳眉を逆立て頷いた。
「最初は男性操縦者として、同性ならではの距離感の近さを活かして接近する。ほどなくして正体がばれるように誘導し、『何でもするからこのことは黙っていてほしい』と、相手の立場の優位生を強調した上で、そういう関係に持ち込む。そんな作戦が考えられます」
「我々男の側は、こちらが優位な立場にあると思い込み、ホイホイ誘いに乗ってしまう。しかし、実際に優位な立場にあるのは相手の方。ここで迂闊に肉体関係を結べば、今度はその事実でもって、こちらが脅される立場になってしまう」
女尊男卑のいまの時代、女の側にどんな事情があったとしても、それは往々にして無視される。女の弱みにつけこんで、強引に肉体関係を迫った。その事実だけが取り上げられ、糾弾の対象となる。今度はこちらが、この事実を口外されたくなければ、と脅迫されてしまう公算が高かった。ましてや、相手が妊娠などということになれば――、
「責任を取れ、と言ってくるのは必至ですね」
この場合の責任とは、シャルル・デュノアを娶って仏国の人間になれ、ということになろう。鬼頭は苦い口調で呟いた。
「デュノア君に接するときは、二人きりにならないよう、なるべく注意するようにします」
「その方がよいと思います」
「一夏君に、このことは?」
「……伝えない方がいいでしょう」
少し悩むような素振りを見せた後、千冬はきっぱりと言い切った。
「あれは良くも悪くも考えが顔に出るタイプです。このことを伝えれば、デュノアへの接し方が不自然な態度となり、かえって厄介事を招きかねません」
「スパイという考え方も、まだ推論にすぎませんしね」
思い込みというのは恐ろしい。一度、一つの考え方に固執してしまうと、それ以外の可能性を一切考慮出来なくなり、間違った方向へと思考を発展させかねない。慌てて口を挟んだ真耶に、鬼頭と千冬は頷き合った。トランス・ジェンダーという可能性も、まだ十分にある。
「とにかく、シャルル・デュノア君については注意して接するようにします」
「そうしてください」
「一夏君についても、なるべくフォローするようにしましょう」
「愚弟のために、ありがとうございます。ああ、それと……」
頼もしい回答を受けた千冬が、思い出したように言った。
「こちらからも一つ。もう一人の転校生……ラウラ・ボーデヴィッヒのことですが」
「ああ、はい。……私を、老けている、と言った娘ですね?」
「意外に引きずっていたんですね」
千冬は呆れた口調で言った。
「言葉こそきつかったかもしれませんが、あれに悪気はありません。すみませんが、許していただけないでしょうか?」
「はあ、それは私も感じていましたし、怒ってはいませんが」
口ぶりに、引っかかりを覚えた。ラウラ・ボーデヴィッヒがどういう人格の持ち主なのか、以前から知っていることを窺わせる内容の発言だ。訝しげな眼差しで千冬を見つめると、世界最強の女傑は、彼女にしては珍しい、やわらかい口調で答えた。
「鬼頭さんには、以前お話ししたことがあったと思います。昔、一年ほど教師の真似事をしたことがある、と。ラウラはそのときの教え子なんですよ」
口調から、往時はラウラのことを相当に可愛がっていた様子が窺えた。先ほど教室で二人を紹介したときも、表情にこそ出さなかったが、内心では久しぶりの再会に浮かれていたのかもしれない。
思えば、あのときの千冬はおかしかった。平素の彼女であれば、ラウラが一夏の頬を張ったのを認めるや間髪入れずに、出席簿による打突をお見舞いしていたはず。それがなかったということは、愛弟子の成長ぶりを目の当たりして、感慨から少しの間呆けていたのかもしれない。
「育ちのせいか、あれには少し、世間知らずなところがあります」
ネガティブな人物評にも拘らず、過日を懐かしみながらの口調はどこか優しい。
「態度から、あの年齢ながら軍の関係者だとは察しています」
「ドイツですよ。あの国唯一の、実戦IS部隊です」
「ドイツ……ルフトヴァッフェですか?」
鬼頭が問うと、千冬は首肯した。
「軍隊というところは、一種の閉鎖社会です。軍の文化や伝統に馴れきっているラウラにとって、IS学園は異世界も同然でしょう。その感覚のずれが、周囲との軋轢を生んでしまう」
「……本人もだいぶ、強情な性格のようだ」
「加えて言葉知らずです。本人に悪気はないが、とにかく誤解をされやすい。……鬼頭さん」
「何でしょう?」
「色々と気苦労の多いあなたに、こんなお願いをするのは申し訳なく思うのですが」
「はい」
「時間や、都合の良いときで構いません。出来れば、ボーデヴィッヒのことを気にかけてやっていただけませんか?」
「それは、ボーデヴィッヒさんが周囲と何かトラブルを起こしそうになったときに、フォローしてほしい、という意味も含んでのことでしょうか?」
「はい。……勿論、それについては、鬼頭さんが気がついたときだけで構いません」
頬に真っ向突き刺さる健気な視線からは、目の前の女性がラウラのことをいまも大切に想っていることが感じられた。思わず口元をほころばせた鬼頭は、力強く頷いてみせた。
「織斑先生にはお世話になっています。私でよければ、微力を尽くしましょう」
◇
同じ頃、男性操縦者たちが立ち去った後の、一年一組の教室。
制服から学園指定のISスーツに着替えた夜竹さゆかは、同じくIS操縦のためのユニフォームへと着替えた陽子のもとへ歩み寄った。
「ところで陽子」
「うん?」
「同級生が母親になるって、どう思う?」
「いきなり何の話かな!?」
クラスメイトからの突然の問いに、顎がはずれんばかりに驚く陽子であった。
Chapter32「転校生たち」了
ゴールデンウィーク最終日、午前九時。
東京都千代田区、永田町一丁目にある、内閣府庁舎の六階。
内閣情報調査室の長たる内閣情報官専用のオフィスで、叶和人情報官は、自身の右腕と認める部下の訪問を受けていた。デスクで資料に目を通す叶の前で、直立不動の姿勢を保持している。
一七〇センチにかろうじて達しているかという身の丈ながら、体の大きな男だ。腕も首も太く、胸板がグレイのスーツを、ぱんぱん、に膨らませている。中野賢治、四四歳。内調の国内部門を指揮する、三名いる主幹のうちの一人だ。組織には、四年前から勤務するようになった。従前は警視庁刑事部捜査一課で、第二強行犯捜査係を率いる警部の立場にあったが、とある事件の捜査中に、犯人との格闘戦に突入。包丁を振り回す相手を押さえ込んだ際に、脇腹を深く刺傷してしまった。幸いにして命こそとりとめたが、後遺症から現場仕事が出来なくなってしまい、さてどうしたものかと、今後の身の振り方に頭を悩ませていた時期に、叶直々のスカウトを受けた、という経緯の持ち主だ。
警察庁出身の叶は、証拠資料に対する丁寧な向き合い方から、これまでに数々の凶悪犯を捕らえてきたベテラン刑事のことをかねてより知っていた。一見、事件とは無関係に思える細かな情報も見逃さずに収集し、結果的に最短ルートで事件解決へと導く彼の捜査能力は、内調でも大いに役立つだろう、と考えられた。事実、転属してからの中野は、情報官が期待した以上の活躍を示し、たった二年で一部門の主幹のポストを自らの実力でもって掴んだのである。
そんな中野に、通常業務とは別に新たな特命が発せられたのは、いまから一週間前のことだ。叶情報官から数名の部下とともにこの部屋に呼び出された彼は、指令の内容を聞いてはじめ怪訝な表情を浮かべた。指示の内容そのものへの疑問ではない。指示を口にした叶が、どういう意図を懐中に抱えているのかが分からなかったためだ。
叶が口にしたのは、ある個人についての調査であった。かの人物の経歴に始まり、交友関係や現在の資産状況、普段の言動、趣味嗜好……そういった、彼に関するあらゆる情報を可能な限り収集し、分析し、自分に報告せよ、という内容。内調ではありふれた仕事だ。にも拘らず、中野が気になったのは主に二点。
一つは、調査の対象となった人物についてだ。桜坂という名に、彼は聞き覚えがあった。二番目の男性操縦者……鬼頭智之の身辺調査を行っている最中に浮上した名前だ。二人目の男の直接の上司で、MIT留学時代からの親友だという。ということは、鬼頭智之に関連しての調査か。しかし、彼についてはすでにKT班という特命部隊がある。それとは別に、新たな特命チームを編成するということは、まったく別件での調査ということか。それはいったい、何だ?
もう一つは、調査のやり方についてだった。ありふれた通常業務に、叶情報官は普段と異なる指示を三つ追加し、厳命した。第一に、調査に従事する人員は、いまこの場に集まっている者に限ること。第二に、この人物についての調査は、内調内でも秘密裏に遂行すること。そして最後に、調査は警察庁から派遣されてくる公安警察の者たちとチームを組んで行うこと。すべての指示を聞き終えた中野は、部下たちと顔を見合わせた。いずれも、通常ではありえない異常な指示ばかりだ。いったい、この桜坂という男は何者なのか。……誰か、政財界の大物たちとつながりのある人物なのだろうか?
「今後、この人物のことはウルトラマンと呼称してください」
「ウルトラマン、ですか?」
「はい。彼のコードネームです。きみの部下の、城山悟君の提案です」
「城山君はいま、KT班に……つまり、鬼頭智之の関係者というわけですか」
「その認識でも間違いではありませんが」
叶情報官は言葉選びに迷うような素振りを見せながら、中野に言った。
「彼については、司馬首相直々に調査の指示を受けています。とにかく、よろしくお願いします」
司馬首相からの指示とは! 件の人物への関心をますます深める中野たちは、早速、調査を開始した。まずはすでに既知の情報である、アローズ製作所の社員というところから、突破口を見出していく。彼の現在については同僚達への聞き取り調査から始め、彼の過去については、アローズ製作所の本社に保管されていた履歴書をコピーから調査を開始した。それから一週間が経ち、まだ不十分ながらも、収集した情報をとりあえず一つの形にまとめあげた中野は、顔面蒼白で叶情報官の執務室の戸を叩いた。
中野を迎え入れた叶は、顔色の悪さを見ても表情を変えなかった。ウルトラマンについて調査を行えばそういう顔にもなろうと、事前に予想していた彼は、出来上がった報告書に早速目を通し、やはりこちらも、みるみるうちに顔色を悪くさせていった。
中野の資料は、几帳面な彼らしく、学術論文の体裁を採用していた。すなわち、最初に結論を含む概要を書き、どうしてそういう考えにいたったのか、その過程を後述していくレイアウトだ。そして報告書の概要欄には、『ウルトラマンは二人いる』、『ウルトラマンは人間ではない可能性がある』などの衝撃的な結論が、はっきりと記されていた。なおも資料を読み進め、情報官は眉間の縦皺のくぼみを深くしていく。
ウルトラマンは二人いる。ウルトラマンは人間ではないかもしれない。中野たち特命チームがこの驚くべき結論にいたった経緯はこうだ。
人間は経験によって形作られる。ウルトラマンがどういう人物なのかを知る鍵は、彼の過去にある。そう考えた中野たちは、調査を開始して早々に、彼の生まれ故郷だという千葉県九十九里を訪ねた。ウルトラマンは幼少期をどう過ごしたのか。小中高は、どんな少年だったのか。入手した履歴書コピーの学歴欄から彼の母校を訪ね、当時の記録や関係者に当たっていく。
奇妙な事態と遭遇したのは、彼の高校卒業後の行方について調べていたときだった。アローズ製作所に保管されていた履歴書には記載のない、まったく新たな生き方が姿を現したのだ。
前提として、ウルトラマンと鬼頭智之は、学生時代からの親友である。工学系大学の最高峰の一つとされるマサチューセッツ工科大でともに学び、卒業後はアローズ製作所にともに入社した。履歴書の記載は勿論のこと、周囲への聞き取りからも確認がとれている、まごうことなき事実だ。しかし、高校時代の担任教師や、いまも彼と交流があるという地元の知人・友人らの口から、中野たちはまったく別な答えを聞かされた。
曰く、桜坂は高校卒業後東京の大学に進み、卒業後はしばらく海外で暮らしていたが、いまは地元に戻って運送業を経営しているという。驚いた彼らは早速件の会社へと向かい、そして愕然とした。遠目にもはっきり見て取れる、まるで仁王象のような強面の大男が、社員達に指示を飛ばす姿が視界に映じた。中野はすぐに、アローズ製作所を監視する城山たちに連絡をとった。特命チームの存在については伏せた上で、ウルトラマンがいま何をしているのかを訊ねたところ、いつも通りパワードスーツの開発に勤しんでいるという返答がなされた。
視界に映じる驚愕の光景をどう解釈すればよいのか、中野たちは大いに悩むこととなった。はじめのうちは、双子や親戚の可能性を考えた。桜坂家にはもともと、同じ年頃で、容姿もよく似た、名前の読みや使われている漢字さえまったく同じ男児が二人いた。自分たちは名古屋で働くウルトラマンの方を調べているつもりだったが、どこかの時点で両者の資料が混じり合ってしまい、それに気づかなかった結果、千葉で運送業を営んでいる別人の方に行き着いてしまったのだろう、と、そう考えた。
しかし、この考えは早々に棄却された。二人について調べるほどに、否定材料がどんどん積み重なっていったためだ。市や県のデータベースのどこを探しても、桜坂家が兄弟を授かった記録はなく、親戚の存在もまた同様だった。それどころか、ウルトラマンは七歳のときに両親を事故で亡くして以来、天涯孤独の身の上であることを証明する材料ばかりが得られてしまった。
それならば無戸籍児か。男児二人に恵まれた桜坂家、しかし何らかの事情により、そのうち片方については出生届がなされなかった。戸籍を得られなかった彼は、法的にはこの国に存在しない人間だ。だから、データベースに名前が残っていない。その後長じた彼らは、経歴の共用を思いついた。高校卒業までは二人で同じ経歴を使い回し、以後については各々別な場所で、別の道を歩んでいこう。そういう密談を交わした。推理というより、妄想の域に属する話。当然これも、すぐに否定がなされた。桜坂はわずか七歳のときに両親を失い、以後は児童養護施設の預かりとなっている。仮に無戸籍児の兄弟がいたとしても、そのときの調査で見つからないはずがない。
そうなると、考えられる可能性は、いよいよ荒唐無稽なものとなる。すなわち、顔も、体つきも、名前も、年齢も、まったく同じだが、違う人間が、名古屋と千葉で、それぞれ暮らしている。そう結論せざるをえなかった。
はたして、ウルトラマンは何者なのか。そして、千葉県で運送業を営む、もう一人の彼はいったい……?
頭を抱える中野たちは、調査の途上でさらなる衝撃に襲われた。きっかけは、ウルトラマンの資産状況について調べている最中の出来事だ。
鬼頭智之に数百万円からの資金を、ぽん、と貸与したり、ロレックスのヴィンテージ時計をあっさり買ってしまうことなどから、ウルトラマンの懐事情が豊かなのは明らかだった。では、その総資産はいかほどのものか。かの人物の経歴と並行して調べた中野らは、その過程でまた驚くべき事実を知った。
結論から言えば、桜坂の潤沢な資産は投資によって形成されたものだった。不動産、株式、FX、仮想通貨、国債をはじめとする各種債券、商品など……、彼は実に様々な金融商品に資金を費やし、そのほとんどにおいて成功を収めていた。調査を開始した当初、それらの成功体験を知る度に羨ましく思った中野たちは、やがて頬を引き攣らせた。桜坂が保有する、あるいは保有していた金融商品の中に、どう考えても辻褄が合わないものが見られたのだ。
たとえば一九八二年の末、桜坂は西ドイツの企業数社の株を、記録上買っている。彼はそのポジションを三年ほど保持し、その後やってきた強気相場のとき――具体的には八五年後半から八六年前半にかけて――に分散して売り、大金を得ていた。しかし、これはどう考えてもおかしなことだ。鬼頭智之と同じ年齢の桜坂は、当然、一九八〇年生まれ。一九八二年には二歳の幼児でしかない。
当時はまだ存命だった彼の両親が、息子のためにと彼の名前で購入したのか。しかし、彼は一九七二年に先物市場で合板を買っている。彼が生まれる、八年も前のことだ。桜坂夫妻……いや、当時は結婚さえしていなかった二二歳の若者は、その頃から自分の息子の名を具体的に考えていたというのか。
また、彼は両親が亡くなって間もない八七年の十月に、アメリカ株の空売りを行っている。強気相場から一転、弱気相場へと向かい始めた転換期のことだ。当時七歳の少年が、金融市場の未来を正確に予測していたとは考えにくい。
不可解なことは、それだけではない。投資でこれほどの成功を収めている桜坂だが、いったい、どこでそんな知識を学んだのか。
ヒントは思いもよらぬところからもたらされた。先述した西ドイツの株を、まったく同じ時期に買い、同じ時期に売りさばいて大金を得た人物が見つかったのだ。マーケットの大物、ジム・ロジャーズ。盟友ジョージ・ソロスとともに、一九六九年に伝説の投資ファンド……クォンタム・ファンドを起ち上げた、投資の世界では知らぬ者の方が珍しいビッグネームだ。
中野はロジャーズと桜坂が、ほぼ同じ時期、同じ金融銘柄に投資し、同じような利益を上げている共通点に注目した。ロジャーズは八七年十月にニューヨーク市場で発生した、一連のヒステリックな値動きについても、予想を的中させている。このことからも、桜坂の投資手法が、ロジャーズの考え方に影響されているのは明らかだった。ロジャーズについて研究すれば、桜坂の投資哲学……ひいては、人物像が見えてくるかもしれない。中野はそう考えた。彼はロジャーズという人物について調べ始め、やがて一枚の写真を入手した。ハドソン川の見える自宅でホームパーティを開いたロジャーズが、友人らと撮影した一枚だ。いずれも名うてのトレーダーたち八人がにこやかに笑う中に、千葉県で運送業を営む男と、まったく同じ顔があった。一九八二年の夏の出来事だ。
ロジャーズらとともに写っている人物がウルトラマンだとすれば、彼は現在、八十歳以上の高齢者となる。しかし、名古屋で働く桜坂も、千葉で働く桜坂も、その見た目は四十半ば。そして二人とも、十代の頃や、二十代の頃は、年齢相応の見た目をしていたことが、写真などから確認されている。これらの事実から、中野はやはり、荒唐無稽な結論にいたらざるをえなかった。すなわち、ウルトラマンは外見を自由に変えることが出来る。しかし、そんな人間はいやしない。つまり、ウルトラマンは人間ではない。
報告書を読み終えた叶情報官は深々と溜め息をついた。
無人ISを素手で破壊したあの映像を見たときに、そうではないか、と、薄々感じてはいた。それが第三者の視点から改めて、それもまったく別な角度から導き出された結論を突きつけられ、現実感が急にこみ上げてきた。
――ウルトラマンは超人だが、超人ではない。彼は、篠ノ之束や、織斑千冬とはまったく別な存在だ。
最強兵器を徒手空拳で撃破する。これだけならば、情報官にはそれを可能とする名前が、少なくとも二名思い浮かぶ。篠ノ之束と、織斑千冬の二人だ。しかし、その彼女たちでも、これは出来ない。見た目を自在に変更する。これは、人間という生物に備わった機能ではありえない。
――ウルトラマンは、人間ではない。
そう、認めざるをえなかった。
彼は報告書から顔を上げ、緊張した面持ちの中野主幹を見る。
「中野さん、一つ、意見をおうかがいしたいのですが?」
「なんでしょう?」
「内調職員としての分析ではなく、中野さんが抱いた感想で構いません。この一週間、ウルトラマンについて調査をして、彼のことをどう思いましたか?」
警視庁の捜査一課で数々の凶悪犯と対峙してきた元刑事の内調職員は、ぶるり、と胴震いした。
「恐ろしい、というのが率直な感想です。私も警視庁の元刑事です。人を人とも思わない凶悪犯たちの言動に、恐怖を覚えたのは一度や二度ではありません。しかし、ウルトラマンに対して抱く恐怖は、そういったものとは本質的に異なるものです」
「というと、具体的には?」
「生物としての、本能的な恐怖と言い表せますでしょうか……。犯罪者たちに対して抱く恐怖は、人として、あるいは刑事としてのそれです。こいつをこのまま放置していたら大変なことになる。こんなやつと夜道に遭遇したら恐ろしい。そういった恐怖です」
恐怖とは、未来に対する不安だ。恐怖の源となる対象と、自分の人生が関わってしまったときに、将来に何が待っているのか、それを想像して、生き物は恐怖という感情を抱く。
ウルトラマンは人間にあらず。他ならぬ中野自身が導き出した結論だ。そんな、人間の姿をし、人間のように過ごしている、しかし、人間ではない、何か。得体の知れない存在が、自分の人生に関わってきた。この先、自分の未来はどうなってしまうのか。想像力をふくらませるほどに、背筋を、恐怖がひた走る。
「この人物に逆らってはならない。この人物を怒らせれば、きっと大変なことになる。自分だけじゃなく、自分の家族、いや人間という種そのものが根絶されかねない。大袈裟に聞こえてしまうかもしれませんが、そんな、生き物としての恐れを感じてしまうのです」
中野が言い終えたそのとき、叶情報官のデスクの上でスマートフォンが震えた。中野にことわり手に取ると、更識家からの出向者、高品からの通信を示すコードネームが表示される。通話ボタンをプッシュし、頬に寄せた。マイクロスピーカーが、高品の動揺した声を鮮明に出力する。
高品との通話は一分ほどで終了した。通話終了のボタンを押した叶は、中野の顔を見て呆れた溜め息をついた。
「ウルトラマンを監視している高品君からの連絡です。あの男、彼らの目の前で、空を飛んだらしい」
「……それは、ロサンゼルス五輪でも使われた、ジェットパックのような?」
「いえ、ウルトラマン本人曰く、念力だそうです」
叶の返答に、中野の目つきが鋭さを増した。
その事実を、噛みしめるようにして呟く。
「やはり、人間ではない」
ISに限らず、片方の性別を極端に尊び、逆の性別を卑下する社会って、トランス・ジェンダーにとっては地獄だよね。
あ、そうだ(唐突)。
以前のオリキャラ設定紹介のときに、多分、本編には絡まないだろう裏設定として、桜坂は資産家ってことを書いたけど、がっつり本編に出してしまった。
多分、と予防線を張っていたとはいえ、嘘ついてしまった形なので、お詫びに、ネタバレを一つ。
「パワードスーツ開発室所有のプロフィアは、千葉県の桜坂が提供したもの」
パワードスーツ開発室の活動は、二人の桜坂によって支えられているのだ。