この小さな世界で愛を語ろう   作:3号機

37 / 44
作者は「頭文字D」も、「湾岸ミッドナイト」もどちらも大好きです。





Chapter36「鍛錬開始」

 

 

 今後の訓練方針を巡って、ああでもない、こうでもない、と、議論に夢中になりすぎた。気がつけば、昼休みの終了まで五分もない。

 

 自分たちがいまいる第三アリーナ整備室から各人の教室までは、最も近いところでも早足で三分はかかる。

 

 途端、慌てた様子で後片付けをして退室する少女たちの背中を見送り、整備室に一人残った鬼頭は、改めて備え付けのワーキングチェアに深めに座り直した。

 

 切れ長の双眸が、依然として出力されたままの空間投影式ディスプレイをねめつける。画面と向き合うその顔に、授業に間に合わないことへの焦燥は一切見受けられない。一年一組に課せられた次の授業は、IS学園では数少ない一般教科の科目だ。鬼頭は特例で免除が許されているから、余裕を胸に解析作業を継続できた。

 

 解析装置の走査端末には、いまだ待機状態の『打鉄』が接続されている。鬼頭はメカニカル・キーボードを操作して、今朝の暴走事故についてのデータ・ログを画面に表示した。先刻、ダリルらと肩を並べて覗き込んだものとは異なる記録だ。ダリル・ケイシー、フォルテ・サファイア、湊美由紀、轡木十蔵、石川夕夢と、五人の名前が並んでいる。

 

 《オロチ・システム》の照準用ビームが命中してしまった者たちのパーソナル・データだ。ISコアの暴走によって《オロチ・システム》が制御不能状態に陥ったあのとき、彼女らが何を考えていたのか、その記録である。極めてプライベートかつデリケートな内容のために、少女らの前では見るのが憚られ、先ほどはあえて表示させなかった。というのも、ISコアのいらぬアシストにより、本人も自覚していない無意識の声を拾ってしまったせいで、なぜそういう思考にいたったのか、という前提にまつわる情報までもが、仔細に記録されてしまったからだ。ダリルはなぜ、あのとき、こんな考えを抱いたのか? フォルテは? 十蔵は……? その中には、当人も秘密にしておきたいだろう事柄もあった。

 

 平静であれ。平静であれ。と、口の中で呟きながら、鬼頭は悪意なく曝いてしまった秘事の数々をゆっくりと噛みしめた。

 

 用務員の十蔵がまさかこんな要職にある人物だったとは。フォルテとダリルがそんな関係にあったとは! ダリルが、そんな秘密を抱えているとは……。平静であれ、と何度も自分に言い聞かせているにも拘わらず、鬼頭は顔を青くする。

 

 だがそれ以上に、鬼頭の顔色を悪くさせる情報があった。

 

 ――……何度数えても、五人しかいない。

 

 照準ビームが命中したのは五人。揺るがしようのない事実が、彼の心を打ちのめす。

 

 思い起こすのは今朝のアリーナでの出来事だ。己の不調を察知したダリルに背後から抱き支えられながら、《オロチ・システム》を停止させるべく空間投影式のキーボードに指先を伸ばした、あのとき。小さな声に、耳膜を叩かれた。

 

『……父さん』

 

 幼い、少年の声だった。聞き覚えのある声だった。いいや、そんなはずがない。彼の声が聞こえるはずがない。きっと、自分の聞き間違いだ。何度もそう思い込もうとしたが、駄目だった。自分が、彼の声を聞き間違えるはずがないのだ。自分が、あの子の声を忘れるはずがないのだ。

 

 ――あれは、間違いなく智也の声だった。

 

 僅か十歳でこの世を去った愛息のことを思い出し、鬼頭は咄嗟に心臓の位置に手を添えた。彼のことを想うと、いまなお胸が苦しくなる。

 

 苦痛で弱った心が聞かせた幻聴と切って捨てるには、鮮明すぎた。

 

 しかし、機体に搭載されているボイス・レコーダのどこを探しても、そんな記録は見つからない。

 

 それならば、と、一縷の望みを胸に《オロチ・システム》とそれに介入したISコアの方の履歴をあたってみた。可能性は低いが、命中者の五人が、自分の知らないところで過去に智也と会っており、そのときの記憶を思い出したかもしれぬ、と考えたためだ。あるいは、あのときは心に余裕がなく気がつかなかったが、実はあの場に六人目の人物がおり、その者の心の声だったのかもしれない。しかし、こちらも結果はネガティブ。苛立ちだけが募る。

 

「……やはり、幻聴だったのか」

 

 客観的なデータからは、そう判断せざるをえない。その一方で、いいや、そんなはずがない、となおも否定しようとする心がある。直感が、ある。

 

「あの声は、いったい……」

 

 千々に乱れる心の動揺に苦悶の表情を浮かべ、鬼頭は五人の名前が並んだディスプレイを睨み続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter36「鍛錬開始」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 IS学園の学生寮は、一年生棟、二年生棟というふうに、学年別に建てられた三棟のビルから構成されている。三棟の学生寮は人工島の一画にまとまって建っており、その周囲を、ぐるり、と島内連絡用の舗装路が囲んでいた。この道路は一周がおよそ一・八キロメートルあり、適度に長いことから、生徒たちの中には体力作りのためのランニング・コースとして利用している者が多い。

 

 相川清香もそのうちの一人だ。

 

 午前六時二五分、彼女は朝のジョギングに精を出していた。学園のジャージに身を包み、履き慣らしたスニーカーの踵でアスファルトを蹴って進む。朝の透明な空気を鼻から短く二度吸い、口からまた小さく二度吐く度に、寝起き直後でまだ眠たげな、身体中の細胞が急速に揺さぶり起こされていくのを感じていた。

 

 朝の走り込みは、清香にとって日課の一つだ。中学時代にハンドボール部に所属し、全国大会に進出した経験を持つ彼女は、IS学園でもハンドボール部の門を叩いた。ハンドボールは跳んだり駆けたり運動量の激しい競技だ。レギュラーを目指すのならスタミナの醸成は不可欠である。

 

 それでなくとも、ISの操縦には体力勝負な面がある。清香は中学生の頃からの日課をここでも続けていた。学生寮区画外周の一・八キロメートルという数字は、陸上中距離競技の一五〇〇メートルや二〇〇〇メートルに近く、目標タイムの設定がしやすい。ここを九分程度のゆったりペースで終えると、全身の火照りが丁度良く、すっきりとした気持ちになれるのだった。続けて二本目を走るか否かは、そのときの気分次第だ。

 

 学園に敷設された道路は、重い軍事物資や重量級の軍用車両の通行も考慮して広く、そして平坦に造られている。地面に塗りたくられたコンクリートは分厚く、学園の生徒たちによる連日の走り込みにもまったくへこたれていない。

 

 いつもながら非常に走りやすい道だ。靴底を通り抜けて足裏に伝わる硬い感触を楽しみながら、清香は軽快な足取りで前へ、前へと風を切る。途上、自分と同じように朝の走り込みに励む者たちと、すれ違いさまの挨拶を交わす。

 

 やがて一周を走り終え、出発地点の一年生寮の正面玄関前へと戻ってきた彼女は、今日はもう一周をどうしようかと考えながら、なんとはなしに、目線を寮棟のすぐわきへとやった。

 

 学生寮のかたわらには、生徒たちの憩いの場になるようにと、ちょっとした公園が設けられている。テニスコート一面半ほどの広場の周りを、景観を整えるための草木が囲い、三人がけのベンチが六脚散らされている、かなり簡素な造りの施設だ。その広場の中心に立つ、見慣れぬ装いに身を包んだ、見知った男の姿を認めて、清香は思わずぎょっとした。

 

 和装束姿の鬼頭だ。手綱柄の袷に袖を通し、腰帯には、なんと鞘ぐるみの大刀を閂に差している。飾り気のない地塗りの拵は、IS学園という特殊な環境にあってなお異質であり、少女の動悸を自然激しくさせた。鬼頭智之は居合の達人、という学園内でまことしやかに囁かれている噂話が、脳裏をよぎる。

 

 清香は足音を立てぬよう留意しながら公園の方へと歩を進めた。鬼頭が何をやっているのか気になったためだ。

 

 近づくにつれて、自分以外にも男の様子をじっと覗う者たちがちらほらいることに気がついた。清香にとってはお馴染みの顔ぶれだ。彼女同様、朝のジョギングを日課にしている生徒たち。みな一様に息を潜め、足音を殺し、固唾を呑んで鬼頭の一挙一動を見逃すまいとしている。清香も、それに倣って行動する。なぜだか、いまこの場は静寂に支配されていなければならないという強迫感に襲われた。白い花が愛らしいシャリンバイの木をかたわらに、息を殺す。

 

 切れ長の双眸を半眼とする鬼頭は、静かな呼吸を繰り返しながら、その場に立っていた。息を吸い込む鼻孔にも、吐き出す口元にも、大仰な動きは一切見られない。両の肩からは見事なまでに力が抜けており、足の開きは肩幅よりやや狭い。腰の向きは無論正面。まさしく自然体であった。

 

 何度目かに、息を吸ったときのことだ。体側に下げていた右手が、静かに動き出した。遅れることなく、左手が鍔元に伸びていく。

 

 右手が柄に触れ、鯉口が切られた。

 

 応じて、右足が一歩、素早く、そして力強く前へと進撃する。

 

 腰を正対させたまま鞘を引き絞るや、二尺七寸の大刀が横一文字に鞘走った。

 

 短い刃音。長尺の刀身が、男の胸の高さで空を斬り抜く。

 

 眼前より殺到する仮想敵の機先を抜き付け一閃で制し、そのまま上段へと振りかぶった。

 

 運剣の主たる左手が柄尻を握り、刀勢は凄絶さを帯びる。

 

 裂帛の気合いを篭めた真っ向振り下ろしが炸裂し、幻の血煙が鬼頭の視界で迸った。

 

 しかしながら、眼前の虚空へと向けられた鬼神の眼光からは、勝利を確信した喜びは一切見受けられない。

 

 地面に倒れ伏す対手が最後の力を振り絞って躍りかかってこないか、残心をはらいながら、ゆっくりと刀を鞘に納めた。

 

 右手が柄から離れる。次いで、左手が鞘から。

 

 再び両の手を体側へと追いやった鬼頭は、また、だらり、と肩の力を抜き、深呼吸。

 

 三度目に息を吸った際に、両の手を刀に伸ばし、抜き打ち、真っ向振り下ろした。居合の基本技だ。そのまま、幾十度となく繰り返す。稽古を重ねる。

 

 剣を振るうその度に、体は熱を帯び、筋肉はほぐれ、関節の可動域は広がっていった。

 

 一太刀振るうその度に、技の冴えが明らかに増していくのが見て取れた。

 

 男の独り稽古を見つめる清香の喉が、こく、と鳴る。

 

 この瞬間、彼女は自分と、鬼頭以外の存在を忘れてしまった。

 

 いや、清香だけでなく、この場に集ったみながそうだった。誰もが、鬼頭の見せる単調な、それだけに精妙さが際立つ技に見惚れていた。

 

 清香が特に注目したのは、腰の重心がほとんど動いていないことだった。

 

 前に出ては戻り、また前に出ては戻る。まるで機械のような精緻さでもって同じ動作を繰り返す鬼頭だが、その体高はほとんど上下していない。居合はおろか、剣道のルールさえよく知らぬ彼女だが、前後左右はもとより、上下にも激しく動かねばならないハンドボールの経験から、それがいかに繊細な体捌きなのかは容易に想像がついた。普通は、相当な慎重さを胸にゆっくりと行って、ようやく可能な所作のはずだが、鬼頭の動きは素早く、また、格別に注意を払っている様子はない。長年の修練によって体に染みついた動きを、普通にやっているだけ。そんな印象を受ける。

 

 

 

 鬼頭が鍛錬を始めて、四半刻が過ぎた。

 

 時計の針は間もなく七時を示そうとしている。

 

 ちょうど百本目の型を終えたところで、鬼頭は剣を動かす手を止めた。あらかじめ、ここでやめと決めていたようだ。

 

 鬼頭はいつの間にか十数人にまで増えていた観衆をぐるりと見回した。自身に注がれる視線には、とうの昔に気づいていたらしい。やわらかく微笑むと、

 

「粗末なものを披露しました」

 

と、腰を折った。鬼頭自身の口により静寂が破られ、少女たちは口々に感嘆の呟きを漏らす。

 

 鬼頭が袷の袖で額を拭う。反射的に清香は前へと踏み出し、ジョギング時の常で首から下げていた水色のスポーツタオルを彼に差し出した。

 

「鬼頭さん、これ、使ってください」

 

「ありがとうございます、相川さん」

 

 迂闊にも手拭いの備えを忘れていた鬼頭はありがたくタオルを受け取ると、首筋に押し当てる。近くで見れば、玉の汗が噴き出していた。襟口から胸元へ差し入れたところで、はたと動きを止める。

 

「失礼。ちゃんと洗って返しますので」

 

「お気になさらず」

 

 気まずそうに言う鬼頭に、清香はにやにやと笑った。

 

「あ、それとも、洗濯の前に何か別のことに使うおつもりで? 現役女子高生の体液が染みこんだタオルを」

 

「こら」

 

 諧謔を孕んだ口調。本気で嫌悪しているわけではないとすぐに分かったから、鬼頭も苦笑しながらたしなめる。

 

「大人をからかってはいけませんよ」

 

 言いながら、汗を拭ったタオルを返す。受け取った清香の視線は、自然、角帯のこじりに差し込まれた黒い鞘に向けられた。

 

「それ、本物の日本刀ですか?」

 

「うん? ああ、これですか」

 

 鬼頭は左手を鍔元に添えると、親指だけを使って鯉口から柄の部分を押し出した。ちら、と覗くはばき。次いで、刀身。清香は、あれ、と目を見張る。いままでまったく気がつかなかった。鬼頭の剣は、竹光であった。

 

「本身の刀も、持ってはいますがね。年頃のお嬢さん方の前で振り回すのは、刺激が強すぎるだろうと思いまして」

 

 鬼頭がIS学園に持ち込んだ刀は、二尺七寸の大刀が一振。普段は衣装棚の奥の方に、大切にしまわれている。かつて自分に居合の技を教え込んでくれた友人が、高校の卒業式を迎えたその日の晩に、稽古用にと譲ってくれた思い出深い刀だ。

 

「アメリカじゃあ居合の稽古具なんて簡単には手に入らないだろうからね。餞別だよ。持っていってくれ」

 

「いや、あの、これ、税関……」

 

 友人からの心づくしを嬉しく思う他方で、これを携えて渡米せよ、と無茶を言う彼女に、MITへの入学を控えた若き日の鬼頭は小さな声で反駁した。しかし、そこは生来の気の強さ。自分の主張を曲げるということを知らぬ娘である。重ねられた強い言葉に根負けし、やむなく鞘を握らされた、という経緯があった。

 

「なるほど。でも、どうして急に居合の練習を? いつもはこの時間、やっていませんよね?」

 

 毎朝、学生寮の周囲を走っているが、二番目の男性操縦者のこんな姿を見たのははじめてだ。鬼頭もそれに頷き、独り稽古を実施するにいたった経緯を口にした。

 

 平素、鬼頭は人目につくのを嫌って、鍛錬は寮の自室にて行っている。その内容も、最低限感覚が鈍らぬように、と剣の柄を握り込み、手の内を練るにとどめていた。IS学園学生寮の部屋は広く、天井も高いが、さすがに剣を縦横無尽に振り回せるほどの空間的余地はない。

 

 その彼が、刀身を竹光に差し替えてまで独り稽古をやろうと思い立ったのは、昨晩のことだ。

 

 曰く、昨日偶然に知り合った上級生たちと、今日からしばらくの間、放課後にIS訓練をともにする約束を交わしたという。その備えとして、眠っていた体を叩き起こし、意識を研ぎ澄ませる必要があった、と彼は朗らかに語った。

 

「ここ最近は、研究のため部屋に篭もりきりでしたから。訓練に臨む前に、身体を温めておかねばと、思いましてね」

 

 運動機能だけのことだけではない。イメージ・インターフェースを駆使して機体を動かすISの操縦において、集中力というのは特に重要な要素だ。特に自分の場合は、ISコアとの対話というその目的を考えると、機体からの情報はどんな些細なものであれ、目敏く見つける必要がある。挙動の微細な変化。操縦時のかすかな違和感。そういったものが、愛機に積まれたISコアを理解するための第一歩につながる可能性がある。それらを見落とさぬために、感覚を研ぎ澄ませる。そのための独り稽古であった。

 

「刀を振るっているとね、時計弄りや、クルマを運転しているときはまた違った領域の――言葉で表わすのは難しいですが、意識の集中が出来るのです」

 

 それが、いまの自分には必要なのだ。

 

 鬼頭は完爾と微笑むと、竹光の刀身を鞘の内へと戻した。

 

 

 

 

「――ってなことがあったんだよ」

 

 午前八時十分。

 

 一年生学生寮の食堂。

 

 八人用の大型テーブルをみなで囲みながら、清香は同席する面々に今朝の公園での出来事を話した。顔ぶれは、一夏、シャルル、箒、セシリア、陽子、本音、夜竹さゆか、そして清香自身の計八人。長方形型のテーブルの、長辺側に分かれて座っている。清香の側には陽子、本音、さゆかの四人が椅子に腰かけ、残りの者たちは反対側という配列だ。

 

 朝食はほぼ全員がすでに終えている。のんびり屋の本音と、日本食の珍しさにいちいち反応しているシャルルの二人だけがまだ食べている最中だが、それももうすぐ終わるだろう。二人が手を合せるのを待っても、一限目の授業に十分間に合う時間帯だった。ために、食事を終えた六人も、お茶の味とおしゃべりをゆっくり楽しむ余裕がある。

 

 清香が鬼頭の居合術について言及したのは、そんなまったりとした雰囲気がテーブルの上を支配している中でのことだった。「そういえば今朝珍しいものを見たんだ」と、切り出した清香の話に、その場にいた全員が引き込まれた。世界でたった三人しかいない男たちの、貴重なプライベートの顔だ。関心を抱かぬわけがない。

 

「ははあ、それで父さん、今朝は早起きだったんだねぇ」

 

「陽子、気づいてなかったの?」

 

「いやあ、父さんが何やらゴソゴソしていたのは気づいたんだけど、それより眠気が勝りまして。二度寝、しちゃったぜ」

 

 二回目に目が覚めたときにはもう、父は部屋に戻った後だった。しかもそれからすぐに、放課後の訓練のことで楯無らと話し合ってくる旨を告げて退室してしまったため、何をしてきたのか聞く暇がなかったのだ。

 

 そういえば、と清香の話を聞ききながら、陽子は思い出した様子で呟いた。今朝は父の左手に、見慣れたボーム&メルシェの姿がなかった。代わりにはめていたのは、時計好きの間でカシオークと呼ばれる、八角形ベゼルを備えたG-SHOCKだ。ボーム&メルシェのボーマティック同様、父がIS学園に持ち込んだコレクションの一本。「どうしたの?」と、訊ねたところ、「今日はタフな男でありたい気分なんだ」との返答。あのときは気にしていなかったが、これも今日のIS訓練に備えた、意識の切り替え行為だったのかもしれない。

 

「一本……ってことは、他にも時計が?」

 

 フランス人らしく食後にはコーヒーを注文したシャルルが訊ねた。昨日、転校してきたばかりの彼は、鬼頭智之という人物のことをまだよく知らない。

 

「父さん、時計好きなんだよ。名古屋に暮らしていた頃は、十二本用のケースが何箱もありました。IS学園に持ち込んだのは、その中の選び抜かれた精鋭部隊」

 

 普段遣いの時計と、ビジネス用の時計。遊びのための時計に、ラフな使い方にも耐えられるタフな時計。周囲を笑わせるためのネタ時計。そして、ここぞという場面で気持ちを奮いたたせるために腕に巻く、とっておきの勝負時計の、計六本だ。彼らを選ぶ際、父が一晩かけて悩んでいた姿は記憶に新しい。

 

「カシオークは、重作業が予想されるときとか用の、タフネス時計だって言っていたなあ」

 

「へえ。カシオークっていうのは?」

 

「G-SHOCKってわかる? CASIOっていう、日本の会社から出ている時計なんだけど」

 

「うん。フランス軍にも、愛用者は多いよ」

 

「その一つでさ。公式な愛称じゃないらしいんだけど、オーデマ・ピゲってブランドの、ロイヤルオークっていう時計によく似た見た目だから、カシオのロイヤルオークで、カシオークって。父さんみたいな、時計好き界隈の人たちがそう呼んでいるらしいよ」

 

「ふうん。なんだか面白いね」

 

「……なあ、相川」

 

 清香の話が始まってからずっと険しい面持ちの箒が、会話の途切れ目を待って口を開いた。見れば、隣に座る一夏も表情筋が強張っている。

 

「確認なんだが、鬼頭さんは竹光の刀身で、居合の稽古をしていたのだな?」

 

「え? う、うん」

 

「……どう思う、一夏?」

 

「あの噂は本当だった、ってことだろ」

 

 箒の目線を受けて、一夏は硬い口調で言った。箒を除いた全員の視線が彼に集まる。

 

「おりむー?」

 

「智之さんのことだよ。ほら、居合の達人だって噂があるだろ? あれは本当のことだったんだなって」

 

「一夏、それ、どういう意味?」

 

 同じく一夏の隣に座るシャルルが訊ねた。清香からの話だけで、なぜそんな評価を下せるのか。いまの話の中に、剣道経験者の二人だから気づけた、“何か”があった?

 

「その、竹光っていうので練習していたのは、そんなにすごいことなの?」

 

「竹光っていうのは、竹とか、樫の木なんかを薄く削って、日本刀の刀身っぽく仕上げた、刀の代用品のことを言うんだよ」

 

「うん。それはさっき、相川さんが話している最中にも教えてもらったから分かるけど……」

 

「もとの素材が素材だし、本物の日本刀並みに薄く削られているから、本身の刀と比べて圧倒的に脆いんだよ。雑に扱えばすぐに割れたり、折れたりする。稽古……練習に使えるような強度は、もともとないんだ」

 

 ああっ、と、清香の唇から驚嘆の声が漏れ出た。今朝、鬼頭が握っていた竹光に、傷らしい傷が一切なかったことに今更ながら気がついた。

 

 同じ刀の代用品でも、竹光は木刀や竹刀とは異なる文脈から生まれた道具だ。撃剣稽古の安全性を高めるために開発されたこれらの稽古具は、過酷な修練の供にも耐えられるよう頑丈に造り込まれる。対して、竹光は武士が見映えを良くするために用いるファッション・アイテムの一種として開発された。本身の刀を持てない状況へと追いやられたときに、周囲の者にそうと悟られぬよう代わりに差すものとして生まれたのだ。外観を整えるための道具だから重くある必要はなく、むしろ軽い方が好まれる傾向にあり、必然、刀身は薄く削られ、強度も低いというのが一般的だ。

 

 そして、鞘からの抜き差しという動作は、熟練者の技術がなければ、刀身と鞘に強烈な負担をしいる。柄を握り込む際の指のかけ方や力の入れ具合、日本刀に特有の、反りを持った形状の刀身を引き抜く上で絶えず求められる微細な角度の変化。すべての要素が万事上手くかみ合わなければ、刀身と鞘とは激しくぶつかり、擦れ合うことになる。

 

 これが本身の刀であれば、多少荒っぽく扱ったところで大事はないだろう。鞘にしても、内側が多少削れる程度で、割れるまでには至るまい。

 

 しかし、竹光刀身の場合は事情が異なる。

 

 木をごく薄く削っただけの竹光では、手元のちょっとした狂いが刀身の破損へとつながってしまう。最悪、鞘から引き抜く途中で、ぼきり、と折れてしまいかねない。

 

「ましてや、智之さんがやっていたのは居合の練習だ」

 

 抜き打ちの一太刀で相手の機先を制するために、抜刀には速度と、勢いが求められる。竹光の刀身を損なうことなくこれを実現するには、速さの中に、正しい抜き差しという繊細な技を組み込まねばならない。一夏や箒の目に、それは至難の業と映じた。

 

「智之さんは、そんな難しい技を何十本も繰り返したんだよ」

 

「それって、刀身に、まったくストレスがかかっていない、ってことだよね? ムッシュ・トモユキは、それだけ刀の扱いが上手いってこと?」

 

「そういうことだな」

 

「付け加えると、鬼頭さんの竹光は二尺七寸という大太刀だ」

 

 一夏の説明を、箒が補足した。

 

「刀を鞘から引き抜くとき、普通は、柄を握って剣を引っ張る右手の動きと、鯉口を握って鞘を引く左手の動きを連動させるものだが、これほど長尺の刀となると、それだけでは一息のうちに抜き打つのは難しい。両手の動きに加えて、腰の回転運動が重要だ」

 

 鞘を差した左腰を、前へ向けて振り出すように回す。

 

 そこまで言った上で、箒は、「しかし……」と、清香を見ながら言った。

 

「相川が言うには、鬼頭さんは腰の高さをほとんど変えないで、前進と後退を繰り返していたらしいな?」

 

「え? う、うん。そう、見えたけど……」

 

「つまり、相川は鬼頭さんの腰の動きに特に注目していたわけだ」

 

「まあ、そうなるね」

 

「そのお前の目に、鬼頭さんの動きはどう見えた? 大仰に、腰を振るなどの様子はあったか?」

 

 記憶の海原から質問の答えを探し出そうとして、絶句した。言われてみれば、そういう意味で印象に残った動きは皆無だ。むしろ、すべての動作は無駄な力みを感じさせない、自然な振る舞いだったように思う。

 

 そんな清香の反応を見て、箒は、やはりな、と得心した様子で頷いた。前進と後退を繰り返す際の腰の高さがほとんど変わらなくて驚いた、という発言から、おそらく腰の動きを注視していたはずの彼女が、それについて言及をしなかったため、多分そうだろうと思ったのだ。

 

「腰の動きに注目していた相川の目に、違和感を覚えさせないほど微細な動きだったか。もしくは、違和感を覚えさせない自然な動きの中に、剣の理合を織り交ぜていたのか。どちらにせよ、相当な実力者なのは間違いないだろう」

 

 当時中学生とはいえ、剣道全国大会優勝の経験を持つ猛者の発言だ。声の強張りを隠さずに紡ぎ出された言葉は、説得力に満ち満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 第六アリーナは、校舎本棟中央タワー内に管制室を持つ、学園最大の規模を誇る巨大アリーナだ。サッカースタジアムのように長方形状のグラウンドを持ち、長辺側の長さはなんとおよそ二・五キロメートルもある。その広さゆえに、普段の授業で使われる機会は少ないが、高速機動実習やISレースの練習が国内で可能な数少ない施設の一つとして、学園内でも非常に重要な役割を担っている。

 

 放課後、楯無の案内に従って第六アリーナにやって来た鬼頭は、彼女とともに訓練を見てくれるというダリル、フォルテ、ラウラの四人から、今後こなすべき課題についてレクチュアを受けていた。

 

 示された内容は、とてもシンプルなものだ。ISレースの初心者用障害物コース十周一セットを合計五本、これから毎日こなしてもらう。ISの訓練をさせられると聞いて、てっきり銃でも握らされるのかと思っていた鬼頭は、少々肩透かしを食らった気分で訓練メニューの所以を訊ねる。

 

「なぜ、ISレースの練習を?」

 

「ISバトルに強いことと、ISの操縦技術に優れることは、必ずしもイコールではありませんから」

 

 楯無は完爾と微笑みながら言った。

 

「鬼頭さんが目指すべきは、ISの訓練を通じて、コアと対話すること。ISコアとの、相互理解を深めることです。そのためには、少なくとも最初のうちは、純粋に操縦技術だけを磨いてもらった方がいい、と判断しました」

 

「というと?」

 

「対戦競技の場合は、相手という変数をどう攻略するか、ということも考えなくてはいけません。その点、ISレースのタイムアタックなら、純粋に、自分の操縦技術を磨くことだけを考えて、練習ができます」

 

 ISレースは、ISバトルの競技形態の一つで、文字通りISを使った空中レースのことだ。単機で飛んでレコード・タイムを競うタイムアタックや、複数の機体が、よーいどんっ、で一斉にスタートして一着を目指すスプリント、障害物コースを走るサバイバル、障害物コースに加えて選手間の妨害行動が許されているキャノンボールなどの種目がある。楯無たちはその中でも、障害物コースでのタイムアタックを鬼頭に課した。

 

「勿論、タイムアタックにも、厳密に言えば競争相手はいます。でも、それは一緒に出走するわけではない。キャノンボール・レースのように、相手の飛行ルートを潰すラインを選択して飛ぶ、とか。相手のスピードが乗りやすいこのポイントで射撃を叩き込む、とか。そういう、余計な作戦を考える必要がありません」

 

「シンプルに、ISの操縦が上手いヤツが勝って、下手なヤツが負ける。競争相手に勝つ最善手が、技術を磨くこと、ってわけさ。その意味で、自分の技術を磨くことだけに専念しやすいだろう、ってな」

 

「なるほど」

 

「あ、でも、勘違いしないでほしいんスが、私たちはべつに、ミスタ・キトーにISレーサーになってほしいって、言っているわけじゃないっスからね。いまのミスタ・キトーに必要な訓練はコレだ! って、選んだのが、たまたまISレースの、タイムアタックだった、ってだけスから」

 

「わかっていますよ」

 

「これから鬼頭さんにやってもらうのは、」

 

 楯無は手元に空間投影式ディスプレイとキーボードを出力した。第六アリーナの管制画面を起ち上げると、コースの詳細を設定していく。

 

「少し、変わったタイムアタックになります」

 

 鬼頭の方を向いたまま、楯無はキーボードを叩いた。初心者用障害物コース。一同の頭上で、空間投影式のCGモデルが次々出現し、群れをなす。

 

 すべてが同じ形をしたCGだ。直径三十メートルになんなんとする、巨大なリング状のオブジェクト。一つ一つに、算用数字で一から三六までの番号が割り振られている。ISレース用のチェック・ポイント・ゲートだ。これらが複雑に配置されることで、ISレースのコースが形成される。

 

 楯無の指先がコースを決定すると、CGのゲートたちは一斉にその場から飛び立っていった。スタートとゴールを兼任する一のゲートから順番に位置取りがなされ、やがて一周を形作る。見覚えのあるコース・レイアウトだ。ISレース用に距離こそ変わっているが、もしや、この形は――、

 

「……富士スピードウェイ?」

 

「あ、お気づきになりました?」

 

 さすがクルマ好き、と楯無は微笑んだ。

 

「ISレースのコースには、世界中の著名なサーキットに範をとったものが多いんですよ。富士スピードウェイはそのうちの一つです」

 

 静岡県小山町にある、日本を代表する国際レーシングコースだ。一四七五メートルものホームストレートを筆頭に、スピードアベレージの高さが特徴的な高速サーキット……と、一般には思われがちだが、実はコーナーの大半が低速~中速コーナーであり、テクニカルサーキットとしての側面も併せ持っている。コースの攻略にはあらゆる速度領域に対応した高い総合力が求められ、その意味では、なるほど、ISレースにおいても初心者こそ学びの多いコースといえよう。

 

「勿論、ISレースはエアレースですから、三次元機動を加味したアレンジが加えられていますが」

 

「それに、これは障害物レースだぜ」

 

 ダリルが言うと、空間投影式ディスプレイに初心者用の障害物、全十六種類が表示された。ミサイル・ランチャーや散弾銃など、高速移動体ISの足を鈍らせる効果を持った、嫌らしい武器の数々だ。

 

「コースのあちこちに、こいつらが設置される。どこに何が配置されるかは、すべてランダムだ。しかもそれは、一周ごとにリセットされる。次の周回では別の場所に、別の障害が出現するってわけだ」

 

「……なるほど。一周目では素通りできたポイントが、二周目ではいきなり牙を剥いてくるかもしれない。常に集中力を切らさずに飛べ、ということですか」

 

 ダリルは返答の代わりにニヤリと笑ってみせた。

 

「間違っても、陸のレースと同じに考えてくれるなよ?」

 

「このコースで、鬼頭さんにやっていただくことは二つです」

 

 ダリルの言葉を、楯無が引き継いだ。

 

「一つは、私たちが設定したタイムを目指してください」

 

 軽く手首を振り、持っていた扇子を、ばっ、と広げてみせる。扇面には、件の目標タイムと思しき数字が記されていた。

 

「目指すタイムは、これ一つです。早すぎても、遅すぎてもいけません。毎周々々のタイムを、なるべく誤差なく、この数字に揃えるよう努力してください」

 

「……周回の度に数も種類も、配置さえ変わる障害物をくぐり抜けて?」

 

「はい」

 

「それでも、すべての周回で目指すタイムは同じ?」

 

「そうです」

 

「ははあ、なるほど」

 

 鬼頭は少し考え込み、やがて諧謔混じりに微笑んだ。

 

「つまり、私に高橋涼介になれ、ということですか」

 

「たかはし……ええと、誰です?」

 

「おや、ご存知ありませんでしたか」

 

 怪訝な顔をする楯無に、鬼頭はいたって真面目な口調で言う。

 

「かつて北関東最速と呼ばれた、伝説的な走り屋の名前です」

 

 漫画の登場人物ですが、とは、胸の内でのみ呟かれた。

 

「皆さんが考えてくれた訓練の内容と、彼がホームコースを走るときによくやったというトレーニングメニューの内容が、とてもよく似ていたので。てっきり、そちらに範をとったのかと思いましたが。ただの偶然でしたか」

 

「? ヘア・キトー、走り屋とは何です?」

 

「誰よりも速く公道を走ることに命を懸ける、名もなきアスリートたちの別名ですよ」

 

「なんと! そんなサムライのような者たちが、まだ現代にいたとは!」

 

「……私も日本にやって来てまだ二年目で、日本語についてあまり詳しくはないっスけど……絶対に違うと思うっス。ボーデヴィッヒさん、騙されないでくださいっス!」

 

 感心から目を輝かせるラウラの両肩を掴み、フォルテはその身を揺さぶった。

 

 その様子を微笑ましげに眺めつつ、鬼頭は楯無との会話を続ける。

 

「ということは、もう一つのやってほしいこととは、訓練終了後のレポート提出のことですか?」

 

「え、ええ。……まさか、それも?」

 

「ええ。高橋涼介式のトレーニング法です」

 

 漫画に登場した手法と同じだからといって、馬鹿には出来ない。あの漫画や楯無たちが呈示する訓練法は、これはこれで理にかなったもの、と鬼頭は考えていた。

 

 重要なことは、データベースの構築と、レポート作業による言語化だ。

 

 常に自己ベストの更新を目指してしゃかりきになるのも大切なことには違いない。しかし、一つの規定タイムを目指してあれこれ考えながら創意工夫を凝らすのも、それはそれで学びが多いはず。

 

 たとえば、ある周回のあるポイントで障害物に引っかかり、何秒かのロスが発生したとする。当然、遅れた分をリカバリーするためにあれこれ考え、試すわけだが、そういう体験の積み重ねが、いずれは自分の中に巨大なデータベースを築くことになる。何がタイムに良い影響を与え、何がタイムに悪い影響を与えるのか。このコースのこのポイントはこの技術を駆使して飛ぶとよい。この障害物に対してはこう対処するとよい……。基準となるタイムを設定することで、そういったことが明確化される。

 

 その上で、訓練の効果をいっそう引き立てるのがレポートを起こすことによる言語化だ。どのコースをどのように飛んだか。一周目はこう飛び、こういう結果が生じた。二周目はこのポイントでこの障害物が発生したため、それを避けるべく別の飛行ラインを選んだところ、タイムはこうなった。そういった経験を一つ一つ言語化することで、乱雑に積まれただけのデータに、見出しがつくようになる。記憶の検索性は格段に向上し、似たようなコースの似たようなポイントに遭遇したときに、「あのとき試したこの技が使える!」といったことが、直感的に、引き出せるようになってくる。

 

 ――そしてそれは、ISコアに対しても同様のことがいえるだろう。

 

 人間でいう“心”に相当する世界を内包しているとされるISコアだ。このデータベースは、当然、コアの側にも構築される。こういう状況に遭遇したとき、鬼頭智之はこういう解決方法を好む。鬼頭智之はこういう飛び方が得意……。こうした蓄積は、相互理解への一助となってくれるに違いなかった。

 

「今日は最初ですし、万が一事故が起きたときにすぐフォローに入れるよう、一セットごとに、私たちの誰かが交代で伴走します。勿論、変な飛び方をしたらその都度、ビシバシ指摘するので、そのつもりでお願いしますね」

 

 胸の前で腕を組み、年齢に比して豊満な双子丘を張りながら、楯無は微笑んだ。

 

 鬼頭も完爾と微笑み、「そいつは心強い」と、応じる。四人ともが、国家代表候補生以上の立場にある専用機持ちだ。その実力はみな折り紙付き。コーチ役として、頼りがいのある娘たちといえよう。

 

「早速、始めましょう」

 

 言い放つや、楯無はその身に金色の燐光を纏った。愛機の『ミステリアス・レイディ』が展開し、ロボットアームが四肢を武装する。どうやら最初の伴走者は彼女らしい。

 

 鬼頭は頷き返すと、右手中指に嵌めた黄金の指輪に意識を傾けた。

 

 ――あらためて、よろしく頼むぞ。

 

 胸の内で囁きかけると、現代の鎧具足が男の体を覆った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter36「鍛錬開始」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三年前。

 

 ドイツ連邦共和国、ミュンヘン。

 

 待ち合わせ場所として指定されたルートヴィヒ通りの一画に、フォルクスワーゲンのミニバンがやって来たのは、約束の時刻より十分遅れてのことだった。小さく舌打ちしながら助手席側のドアを乱暴に開け、車内の顔ぶれをじろりと睨む。運転手の男はオータムの顔を見るなり肩を強張らせ、ぺこぺこと何度も頭を下げた。後部座席に座る二人の男も、「すみません。すみません」と、各々遅れてきたことに対する謝罪の言葉を口にする。等しく、見た目だけは屈強そうな男たちだ。対して、オータムはふわりと癖っ毛の強いロングヘアーが優美な、ぱっと見は華奢な女。四人の力関係を知らぬ者がこの様子を目撃していたなら、さぞかし珍妙な光景とその目に映じたことであろう。

 

 オータムは三人の容姿について、頭の先端から履いてくる靴のつま先までしげしげと観察し、やがて不機嫌そうに溜め息をついた。助手席のシートに、どかっ、と腰を下ろす。助手席のドアを閉めてやると、運転手の男はなおもぺこぺこしながら、ブラックのシャランをゆっくりと発進させた。ドイツを代表する国際都市の街並みが、オータムの視界で滑り出す。

 

 しばらくして、スモークフィルムが貼られたウィンドー越しに外の景色を眺めながら、彼女は吐き捨てるように呟いた。

 

「……最近はどこの業界も人手不足で困っているって話だけどサァ」

 

「は?」

 

 反応したのは運転手の男だ。高い鷲鼻。日焼けした浅黒い肌。顔の造りのみを語ればなかなかのハンサムだが、女の自分に怯えるその姿からは、性的な魅力を感じられない。

 

「まさか私たちの業界まで人材不足に悩むことになるなんてなぁ。……お前たち、ちゃんと仕事は出来るんだろうな?」

 

「わ、我々は……ドイツ支部から今回の仕事のために、選抜されました」

 

「そう聞いているよ」

 

「つまりは、その、ドイツ支部でも、こういう仕事に関しては、腕利きの三人が集まっていると、自負しております」

 

「腕利きねぇ……」

 

 オータムは車内の三人を小馬鹿にした様子で嘲笑した。

 

「待ち合わせの時間も守れないような奴らがか」

 

「それは、その……、道が、当初の想定以上に混んでいたからでありまして……」

 

 運転手の男は前を見ながら弱々しい声で言った。ミュンヘンの人口はおよそ一五〇万人。加えて、観光地としても有力な街ゆえに、普段から車両の数は多い。しかし、今日に限ってはいつもの何倍もの数の車列が道路でひしめき合っている。当然のことだ。いまこの街は、盛大なカーニバルの真っ最中なのだ。

 

「遅刻した学生みたいな言い訳をしているんじゃねえよ」

 

 オータムは剣呑な口調で吐き捨てた。ルームミラーに目線をやり、後部座席の二人に言う。

 

「……お前ら、頼むから仕事だけはきっちりこなしてくれよ? これ以上、私を苛立たせてくれるな」

 

 後部座席の二人は顔を見合わせた。しばらくの間、彼らはどちらが彼女に返事をするか、どんな回答をするかで揉めに揉め、最終的に、二人揃ってこう答えた。

 

「最善を尽くします」

 

 

 

 ルートヴィヒ通りにやって来たフォルクスワーゲンのシャランが、オータムを拾ってから二時間後、ミュンヘンの街を代表する高級ホテルの一つ、バイリッシャー・ホフのとある一室から、一人の少年の姿が消えた。

 

 IS操縦者の最高峰を決める世界大会、第二回『モンド・グロッソ』の、決勝戦が始まる四時間前のことだった。

 

 

 

 




IS世界のドイツ警察にとって、織斑一夏誘拐事件って、ミュンヘンオリンピックのとき以来の大失態よね。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。