この小さな世界で愛を語ろう   作:3号機

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原作の一夏の語りは上の方ばかり集中して描写されていましたけど、たぶん、あのシーンって、下の方も見えてますよね。角度的に。




Chapter40「愛されるということ」

 

 

 

 土曜日の午後四時十分。

 

 第三アリーナよりラウラが退出してからもしばらくの間、陽子は荒れていた。

 

 体術に勝る箒が上からのしかかって押さえつけていなければ、ISを『展開』した状態のままアリーナの外へ飛び出し、ラウラに殴りかかりかねないほどの激昂ぶりだった。

 

 ISバトルや訓練目的以外でのISの使用は、厳しい処罰の対象となる。先に挑発の言葉を口にしたのはラウラでも、手を出した方が負けだ。陽子をそんな状況に追いやるわけにはいかぬ、と決然たる想いを胸に、箒は級友を組み伏せ続けた。かたわらのセシリアたちも、彼女をなだめすかそうと声をかけ続けた。

 

 十分ほどそうしていただろうか。周囲の者たちの苦心の末に、やおら陽子は落ち着きを取り戻し始めた。じたばた暴れるのをやめ、「篠ノ之さん、もう大丈夫だから。手、離してよ」と、しょげた声で呟いた。

 

「……本当に、大丈夫なのか」

 

「うん。ごめん。迷惑かけたね。さんざん喚いて、ちょっとはすっきりしたから。だから、ね? 手、離して」

 

「わかった」

 

 念のためいつでも拘束を再開出来るよう相手の動き方に気を置きつつ、箒はまず左肩の動きを制している『打鉄』のロボットアームをどかした。次いで、右肘の押さえつけている駆動肢をゆっくりと除いてやる。先に箒が立ち上がり、それから陽子が緩慢な動作で立ち上がった。アリーナ中からの注目を集めていることに気がつき、急に申し訳ない気持ちがこみ上げてきた。自分が騒いでしまったせいで、彼女たちも訓練どころではなくなってしまった。彼女たちの貴重な時間を奪ってしまった。先ほどのラウラとの会話のときからつないだままのオープン・チャネルに、声を吹き込む。

 

「あぁ、そのぅ……お騒がせしました」

 

 ぺこり、と腰を折る。顔を上げ、心配そうに見つける彼女らの顔を、かぶりを振って見回した。ハイパーセンサーの三六〇度視界を駆使すれば、首を振らずとも出来ることだが、この瞬間に限っては、手間をかけることに意味があると信じた。

 

「ちょっと、訓練を再開出来そうな精神状態でもないので、出て行きます。みんなはどうぞ、続けて、ね」

 

 はかなげに微笑むと、PICを駆使して宙へと浮かび上がる。先刻のラウラと同様、ピット・ゲートに向けてゆっくりと飛行を開始した。その背中を、セシリアが慌てて追いかける。

 

「ちょっ、お待ちになって、陽子さん!」

 

 表面上は、平静さを取り戻したように見える。しかしその内心は依然激情で荒れ狂っているはずだ。

 

 セシリアは鬼頭親子に過去何があったのか、少なからず知っている。先ほどのラウラの発言は、彼らが思い出すのすら苦痛と考えている記憶を無理矢理に揺さぶり起こす内容だった。その精神的苦痛は、憤りは、如何ほどだっただろうか。

 

 いまの陽子を一人きりにはさせられない。そう考えるのはセシリアだけでなく、一夏と箒、そしてシャルルもその後を追った。事情をよく知らない転校生の彼でさえ、いま彼女を放置するのは危険だと判断したのだ。それほどに、みなの目にいまの陽子は情緒不安定に映じていた。

 

 学園から貸し出される訓練機は、自主訓練や実習の後、整備科や技術科の生徒たちの手に預けられ、そこでまた研修の教材となる。陽子がピットルームに到着すると、すでに二年生の生徒たち八人からなるグループが手ぐすねを引いていた。その中に知った顔を見つけ、陽子はばつの悪い顔を作った。父とも縁浅からぬ相手、黛薫子だ。整備室側のモニターカメラで一連のやり取りは把握済みなのだろう、心配そうにこちらを見上げている。

 

「色々言いたいことはあるけど、陽子ちゃん、とりあえずこのカートに機体を載せて」

 

 薫子たちはIS運搬用の手押し台車を用意していた。『スプリット・クロー』を着たままその上に乗り、膝をついてから装着を解除する。鎧を脱いで地面に飛び降りた直後、どっ、と疲労感が全身に襲いかかってきた。ISの生体保護機能が長らく忘れさせてくれていた感覚だ。たまらず、唇から漏れ出る苦悶の吐息。額に浮かぶ、大粒の脂汗。もとより同年代の女子と比して体格未熟な陽子だ。消耗が著しい。ふらふら、とした足取りで手近なベンチへと腰かけ脱力していると、横合いから、ハンドタオルが差し出された。

 

「陽子ちゃん、これ、使って」

 

「黛先輩、ありがとうございます」

 

 隣に座った薫子だった。ありがたく受け取ると、額、頬、鼻がしら、首後ろと、順番に優しく押し当てていく。

 

 汗とともに、体を火照りと、気持ちの昂ぶりも吸い取らせるイメージを思い浮かべた。深呼吸を繰り返しながら、落ち着け、落ち着け、と口の中で何度も呟く。苛立つ気持ちを、必死に呑み込もうとした。

 

「ラウラちゃんとのやり取りの様子は、私たちも整備室から見ていたよ。陽子ちゃん、その、大丈夫?」

 

 身体のことは勿論だが、心の方もまた心配だ。

 

 薫子は鬼頭親子が隠したがる過去の事情を知らない。しかし、一ヶ月半前に繰り広げられたあの試合を見ていた。鬼頭陽子対セシリア・オルコット。世界が注目する男性操縦者の娘と、イギリスからやって来た代表候補生の試合。こんな面白そうな対決を新聞部の副部長が放っておくはずもなく、彼女は直接アリーナに赴いて、観客席から戦いの様子を見ていた。

 

 そして、聞かされた。あの幼げな見た目の少女が内に抱え持っている、父に対する想いを。兄に対する想いを。世にはびこる、女尊男卑主義者たちへの、激しい怒りを。

 

 翻って、ラウラの先の発言はどうだったか。陽子が大切に思う家族の、どちらともを侮辱する内容だった。

 

 傷ついて当然だ。怒りを覚えて当然だ。しかもその感情の発散は許されぬ、と周りから押さえつけられ、無理矢理封じ込められてしまった。激情家の彼女にとって、さぞかしフラストレーションが溜まる状況だったはずだ。僅か十分少々の時間では、心の動揺は収まるまい。

 

「……心配してくれて、ありがとうございます。黛先輩」

 

 わが身を気遣ってくれる言葉への申し訳なさから、陽子は消沈する心を叩き起こした。腹中から陽気さを振り絞り、懸命に笑ってみせる。心配は無用だ。自分はすこぶる元気である。そういう意思表示のつもりで返した笑顔は、しかし、かえって相手の表情を険しくさせてしまう。

 

「でも、もう大丈夫ですから。おかげさまで、ちょっとは元気、出てきました」

 

「そんな顔で言われても、説得力ないなあ」

 

 薫子は呆れた口調で言い放った。ちら、とカートを動かす同級生たちの方を見る。ちょうど、陽子が着ていた『スプリット・クロー』をピットルームの隣に併設されている整備室へと運び込んだところだった。あとは自分さえ戻れば、試合後点検の作業を開始することが出来る。

 

「みんなを待たせちゃっているから、私はもう行くけど、これだけ言わせて」

 

 薫子は立ち上がって陽子の前に立つと、少しかかんで幼い顔立ちをのぞき込んだ。

 

「私の見たところ、きみは環境に対する不満とか、人に対する怒りとか、そういう負の感情は内側に溜めて、溜めて、溜め込んで、自分一人ではどうしようもなくなったときに一気に爆発させて、その後すごく疲れちゃう、ってタイプの人間みたいだから。ラウラちゃんに対する怒りとかも、そうやって無理に押し殺そうとするんじゃなくて、もっと表に出しても、いいと思うよ」

 

 そうでなければ、きみの心がもたない。

 

「……私はもう、時間がないから駄目けど、愚痴を聞いてくれる友達にも恵まれているみたいだし」

 

 薫子はそう言って背後を見た。陽子を追いかけてピットルームにやって来たセシリアたちが、箒の『打鉄』を別の二年生グループへと引き渡している。そういえばあれも専用機ではなく、レンタル機の扱いだったなと、陽子は思い出した。

 

「あんなふうにすぐに追いかけてくれる友達なんだから。それくらい聞いてくれると思うけど?」

 

 言い放つや、ぽん、と軽く肩を叩かれた。隣室へと退室していく彼女と入れ替わるように、セシリアたちがやって来る。

 

「もう! 待ってください、と言ったのに」

 

「……ねえ、セシリア」

 

「はい?」

 

 少しの間、薫子からかけられた言葉について黙考した。陽子はやおら立ち上がると、セシリアの前に立った。俯き、彼女の顔を見上げられないまま、口を開く。

 

「最初に謝っとく。ごめん。いまからちょっとの間だけさ、胸、貸してくんない? ちょっと、誰かにすがりつきたい気分なんだ」

 

「陽子さん」

 

 英国からやって来た美貌の少女は小さく溜め息をつくと、可憐に笑ってみせた。

 

「ええ、構いませんでしてよ?」

 

「……本当にいい? 自分からお願いしておいてなんだけど、愚痴とか、理不尽な怒りとか、結構、盛大にぶつけちゃうと思うよ?」

 

「はい」

 

 セシリアは両腕を広げた。故郷を離れてこの極東の地で出会った小さなライバルに向けて、力強く言う。

 

「こういうとき、たしか日本語ではこう言うのでしたね。……どんと来い、ですわ」

 

「……うん。ありがと」

 

 身長差から、自然とセシリアの双丘に顔を埋める形となった。自身にすり寄ってくる背中にそっと両手を回し、おさなごをあやすように優しく撫でさする。

 

 形状保持力に優れるISスーツ越しにも、セシリアの胸はやわらかかった。額を押しつけながら、陽子はくぐもった声を漏らした。

 

「あいつ」

 

「はい」

 

「あいつ……ラウラ・ボーデヴィッヒ!」

 

「はい」

 

「知らないくせに。何も、知らないくせに! 父さんのことを馬鹿にしてっ、智也兄さんの死を、侮辱して!」

 

「はい」

 

「許せない! それなのに、何で止めた! みんなしてっ、何で止めたんだよ! 止めるなよ。止めないでよぉ。あいつ、あいつぅ……」

 

 セシリアは、陽子の愚痴に、いつしか混じり始めた嗚咽に、ただただ耳を傾けた。その発言を否定することも、肯定することもしない。ただ背中をさすり、話を聞き、頷いていた。その何もしてくれなさが、いまの陽子にはありがたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter40「愛されるということ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやあ皆さん、重ね重ねご迷惑をおかけしました」

 

 ピットルームのベンチに再び腰を下ろした陽子が恥ずかしそうに言うと、彼女を取り囲むように立つうちの一人……セシリアは呆れた溜め息をついた。

 

「なぜ、あなたがその言葉を口にするのですか」

 

 その言葉は、謝罪は、本来であれば、ラウラが口にするべきことのはずだ。それなのに、なぜ陽子がそんな罪の意識を感じなければならないのか。

 

「陽子さんは、何も悪いことなんて――、」

 

「や、したでしょ。思いっきり。それもたくさん」

 

 静かに憤慨するセシリアに、いまだ疲労感の濃い顔色の陽子は力のない声で言った。

 

「さっきの泣き言のこともそうだけどさ。私がボーデヴィッヒさんの挑発に乗っかったせいで、みんなに迷惑をかけた。篠ノ之さんには嫌な役をやらせちゃったし、なにより、みんなの訓練を中断させちゃった」

 

 陽子は自分を囲むクラスメイトたちの顔を見回した。セシリア、箒、一夏、シャルル。自分は彼らの貴重な時間を奪ってしまった。

 

「訓練を中断させたきっかけはボーデヴィッヒさんかもだけど、その後、みんなが手を止めざるをえなくなったのは、私が暴れたせいだよ」

 

「その自罰思考はやめろ」

 

 胸の前で両腕を組みながら、箒が言った。こちらも不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、額の筋肉が眉尻を引っ張り上げている。

 

「聞いていて不愉快だ。そもそも私は、お前から迷惑をかけられた、なんて思っていない」

 

「で、でもさ」

 

「私が好きでやったことだ。お前を止めるために、自分の訓練の手を止めて、自分の時間を使った。それは私が自分の意思でそうしようと決めたことだ。そんなことにまで、お前がいちいち罪の意識を感じる必要はない」

 

「そうだぜ」

 

 箒の意見に、幼馴染み一夏も同意した。

 

「さっきのあれは、どう考えたってラウラが悪いだろ。そりゃあ、先に手を出した、って意味じゃ、鬼頭さんにも少しくらい非はあるかもだけど、全体的に、あいつの発言とか態度の方が酷いだろ」

 

 自身も彼女が転校してきた早々に頬を張られたりした経験などから、一夏はラウラのことを辛辣に評した。

 

「俺たちに謝るとしたらさ、あいつの方だ。鬼頭さんが頭を下げたりする必要はない」

 

「それでも、どうしても私たちに言いたいことがあるというのなら、せめて感謝の言葉を口にしてくれ」

 

 箒は口角を吊り上げ、諧謔めいた口調で言った。

 

「お前を押さえ続けるのは、存外苦労した。鬼頭はISのパワーを絞り出すのが上手いのだな」

 

「篠ノ之さん……うん」

 

 陽子は束の間瞑目した。ラウラ・ボーデヴィッヒにまつわる感情の荒ぶりを一旦脇に置き、自分の身と心を案じてくれる、目の前の友人たちのことだけを考える。自然と湧き出てきた気持ちのまま、彼女は晴れやかに微笑んだ。

 

「ありがと」

 

「むっ、ぐ」

 

 真正面から笑いかけられ、なぜだか、変な声が出てしまった。

 

 相手が同じ年齢の高校生であることを時折忘れてしまう、陽子の幼げな見た目だ。それが、満開の橘の花を思わせる可憐な笑みを浮かべ、自分に笑いかけている。そう認識した途端、箒は心臓が苦しくなった。母性本能がかきむしられるのを自覚する。自然と湧き上がる庇護欲から抱きしめたくなる衝動を、懸命にこらえるのが大変だった。

 

 陽子の笑顔を正面から見続けているのが辛くなり、箒はやおら目線を右へと逸らす。隣に立つセシリアと目が合った。英国からやって来た美貌の少女は、こちらの顔を見るなりにやにやと笑い出した。

 

「わかります。その辛さ、わかりますわ、箒さん。私もたまにTPOをわきまえずに抱きしめたくなる可愛さですもの。ええ。可愛いですわよね、陽子さん。妹みたいで。自制が大変ですわよね」

 

 以前、クラスメイトでセシリアとは同室の如月キサラから、聞かされた話だ。ゴールデンウィークの期間中、陽子がセシリアたちの部屋に泊まったときのこと、彼女はこの小さな有人を抱きしめながら床に就いたという。そのときはセシリアが何を考えてそんな行動にいたったのか理解出来ず、実は同性愛者なんじゃないか、と友達付き合いの距離感の再定義の必要性を感じたものだが、なるほど、いまならば、往時に彼女が感じただろう気持ちも少しはわかる。

 

「……ふむ。陽子、ちょっと、私のことを箒お姉ちゃんと呼ぶ気はないか?」

 

「いや、ねぇよ」

 

 即答だった。笑顔から一転、胡乱なものを見る目つきで箒のことを見上げる。

 

「突然なんだよ。篠ノ之さん、頭沸いてんのかよ。私は智也兄さんの妹だよ!」

 

「ええと、会話の流れから察するに、鬼頭さんのお兄さん、ってことでいいんだよね?」

 

 フランス政府やデュノア社から、鬼頭家が抱える特殊な家庭事情を聞かされていないのか、シャルルがおずおずとした口調で訊ねた。つい先ほどのラウラとの様子を見るに、どうやら陽子にとってかなりセンシティブな話題らしい。これ以上自分が場で話を聞いていても大丈夫なのか? という確認の意味も篭めて、みなの反応をうかがいながら、慎重に言葉を選ぶ。

 

 シャルルからの問いかけに一夏たちは顔を見合わせた。そういえば彼の耳目がある場所で、彼らが鬼頭親子の過去について直接言及したことはなかった。一度だけ、鈴を交えての昼食の席で陽子が、彼女の過去の発言に対しどう思っているかを告げた際に、断片的な情報を口にしたことがあったが、いかに聡明なシャルルといえど、たったあれだけでは概要をつかめまい。

 

 一夏たちは陽子に目配せした。視線の集中を面はゆく感じながら、彼女は小さく頷いた。

 

「ごめんね、デュノア君。私が何に怒っているかとか、意味わかんなかったよね」

 

「まあ、なんとなくこうなんじゃないかな、とは思っているけど。鬼頭さんさえよければ、確認させてもらっても?」

 

「うん。……ええと、まず、智也兄さんっていうのは、私の双子の兄で……」

 

 そこで一旦、陽子は舌先を休めた。兄の現状をそのまま言葉にするのが躊躇われたためだ。

 

 正直なところ、自分とシャルルはさして仲が良いわけではない。仏国の代表候補生にして専用機持ちの彼は、共通項を多く持つセシリアと行動をともにすることが比較的多い。自分は、そのセシリアと一緒にいることが多いために、結果としてシャルルとも同席する機会に恵まれているというだけだ。究極、その程度の付き合いでしかない相手に、肉親の死を

伝えることは憚られた。そのせいで気を遣ってほしくはない。

 

「いまはちょっと、すぐには会えない場所にいるんだ」

 

 陽子は間接的な言い回しを心がけた。勘の良い相手であれば、なんとなく事情を察してくれるだろうし、そうでなくとも、男性操縦者の家族という立場からどこか世間からは隔離された場所に暮らしているんだろう、と勝手に想像力をはたらかせてくれるはず。

 

 陽子がこう言ったことで、智也のことを知っている一夏たちも以降の会話の中で彼をどう扱うべきなのかが定まった。重ねて問いかけるシャルルとのやり取りを、彼らは安堵した表情で見つめる。

 

「鬼頭さんがさっきボーデヴィッヒさんのことをあんなにも怒ったのは、そのお兄さんと、ムッシュ・トモユキを侮辱された、って感じたからなんだよね?」

 

「うっく。うん。まあ、そうだね」

 

 首肯を、少しの間、躊躇ってしまった。これに頷いてしまうと、自分がファザコンか、ブラコンであるのを認めてしまうような気がしたためだ。

 

「認めるもなにも、陽子さんは疑いようのない、ファザコンで、ブラコンだと思うのですが」

 

「うっさいセシリア。黙れ。あと心を読むなっ」

 

「おお、恐い」

 

 この学園で出会ったライバルを睨みつけると、彼女は諧謔混じりに笑いながら自らを抱きしめ、身震いしてみせた。その態度の裏側にひそむ気遣いの気配に、陽子は口の中で感謝の言葉を呟く。そうだ。兄に関する話題は、それくらいに扱ってくれた方が、シャルルのいるいまこの場ではありがたい。

 

「……鬼頭さんは、二人のことが大好きなんだね」

 

 陽子の返答に何か感じ入るものがあったか、シャルルがしみじみと呟いた。自分を見つめる紫水晶の瞳に、感情の複雑な揺らぎが見て取れる。目つきそのものは穏やかなのに、不思議と不穏な気配を感じてしまうのは、やはり、このファザコン娘め、などと思われているからだろうか。気恥ずかしさから頬を紅潮させるも、否定する理由が見当たらず、陽子は不承不承、小さく頷いた。

 

「むっ、ぐ……。そのう、はい。そう、ですね」

 

「羨ましいなぁ」

 

 その言葉の矛先は、彼女からそんなにも想われている二人に対してなのか。それとも……。眉をひそめるセシリアの隣で、シャルルの言に違和感を覚えぬ陽子は、変わらぬ口調で言った。

 

「だからこそ、許せなかったわけですよ。ええ。わたしたち家族のことをろくに知らないボーデヴィッヒさんに、あの二人を……父さんと、兄さんの生き方を、馬鹿にされた感じがして。ええ、ええ。許せなかったんだよね」

 

 特に、智也に対する発言。あれは、許せなかった。自らの非才さをわきまえていたから、鬼頭のもとに戻らなかった? ふざけるな! 本当は、戻りたかった。兄だって、また父と一緒に暮らせる日のことを夢見ていた。

 

 けれど、叶わなかった。義父と、母と、自分たちによる、四人の生活。当時十歳に満たぬ自分たちには、この牢獄を壊す術も、抜け出す術もなかった。力も、知識も、何もかもが不足していた。

 

 だから、兄は耐え続けた。双子とはいえ、自分は兄である。その一事のみを理由に、父との別れ際に誓った、妹のことは僕が守る、という幼い約束。それを果たすべく、義父からの暴力そのすべてを、小さな身体で受け止め続けた。

 

 そして、ある日、とうとう耐えられなくなった。義父はいつも自分たちにそうするように、いつもの力加減で、日常的に振われる暴力によって消耗しきった彼の背中を突き飛ばした。場所は階段の踊り場だった。兄の身体は宙を舞い、そして、ごろごろと階段の段差に身を打ちつけながら転がり落ちていった。

 

 自分がいま、こうしてここにいられるのは、兄の献身があったからだ。その兄の誇り高い生き方を、ラウラの発言は汚した。彼女の言及は的外れという以上に、往時の兄が抱いていたはずの気持ちを、踏みにじっている。願ったけど、叶わなかった。恋い焦がれたけど、手に入れることが出来なかった。本当は生きたかった。本当は、父と一緒に暮らしたかった。かつて小さな少年が胸に抱いていた想いを。自分のために文字通りすべてを投げ打ってくれた双子の、大切な兄を、馬鹿にしている。そのことが、許せなかった。

 

「わたしのことを悪く言うのは、いいんだよ。いや、正直むかっ腹は立つけれど。でも、智也兄さんのことだけは、駄目だ。父さんもだけど、兄さんのことを馬鹿にすることだけは、どうあっても許せない」

 

 二次性徴の入り口の時期における栄養の不足から、体つきだけでなく、顔つきもまた幼げな娘だ。しかし、強い憤りを口にするその顔には、成熟した意志の力が感じられた。決して揺るがぬ、強い意志の力が。

 

「……あの女、わたしのことを、獲物だって言っていたよね」

 

 鬼頭智之の娘として、相応しくない、とも。上等だ。そっちがその気なら、こっちもその気になってやるよ。陽子は好戦的に吐き捨てた。

 

「売られた喧嘩だ。買ってやるよ」

 

 一同たまらず、ごく、と喉を鳴らした。

 

 小さな陽子が口にした、凄絶なる覇気が篭もった呟きに、ぞくり、としたものを感じ、一夏たちは思わず胴震いした。

 

 

 

「そ、それにしても、ボーデヴィッヒはなぜ一夏や陽子のことを獲物だなどと言ったのだろうか?」

 

 クラスメイトの口から飛び出した剣呑な言葉に絶句すること数秒間、剣道で鍛えた精神力の発露か、いち早く我を取り戻した箒が言った。茫然とするみなの顔を見回すと、彼らもまた一人、また一人と、瞳に理知の輝きを取り戻していく。

 

「思えば一夏に対しては、転校初日からきつい態度だったが」

 

「いや、ありゃあ、きついってそういうレベルの話じゃないだろ」

 

 会って早々、平手打ちだぞ、平手打ち。当時のことを思い出し、しぶい顔の一夏が呟く。それから不本意そうに唇をとがらせて言った。

 

「まあ、俺への態度がアレな理由については、なんとなく、これじゃないか、っていうのはあるんだけどな」

 

「なに?」

 

 驚きから瞠目する箒。陽子たちもまた、一夏のことを見る。

 

「どういうことだ? まさか、転校してくる以前から、面識があったのか?」

 

「いや。けど、ラウラの方は、転校以前から俺のことを知っていただろうな」

 

「それはそうだろう」

 

 箒の呟きに、陽子たちも頷いた。

 

「いまの一夏は、世界で最も有名な男なのだから」

 

「ああ、いや、そういう意味じゃなくってさ」

 

 一夏はかぶりを振った。どう言葉を駆使すれば自分の考えを誤解なくこの幼馴染みに伝えられるか、懸命に頭をはたらかせながら言う。

 

「たぶんだけど、ラウラは、俺がISを動かせるってことが世間に知られる前から、俺のことを知っていて、俺のことを恨んでいたと思うんだ。で、その理由について、これもたぶんだけどな、心当たりがある」

 

「織斑君、その、理由って?」

 

「……これはさ、ここにいるみんなだけの、オフレコにしてほしいんだけど」

 

 一夏は渋面のまま言った。

 

「三年前の『第二回モンド・グロッソ』決勝戦の勝敗がどうなったのかは、みんな知っているか?」

 

「当然ですわ」

 

 セシリアが頷いた。

 

「ISに関わる者で、あの決勝戦のことを知らない人はいません」

 

 第二回IS世界大会『モンド・グロッソ』決勝戦。イタリア代表のアリーシャ・ジョセスターフ対、日本代表織斑千冬の戦いは、当時誰もが予想しない形での決着を迎えた。すなわち、千冬の欠場によるアリーシャの不戦勝。この結末に世界は驚き、動揺し、そして荒れた。

 

「日本政府から箝口令を敷かれていて、詳しくは言えないんだが、あの欠場の裏ではちょっとしたゴタゴタがあって、それに俺と、ドイツ軍が関わっていたんだよ」

 

 一夏にとって好んで思い出したくはない記憶だ。同時に、忘れがたい思い出でもある。

 

 あの決勝戦の日、姉の勇姿を観戦するため会場が設置されたドイツ・ミュンヘンに訪れていた自分は、誘拐された。相手の正体はいまもって不明だ。ただ、複数人の手による犯行ということだけが判っており、そのことから何らかの組織が関わっていたと思われる。

 

 被害者の自分がいま振り返っても、奇妙な事件だった。なにせ、加害者の正体どころか、いまだに誘拐の目的さえ、三年が経過したいまだに不明なままなのだ。気がつくと自分は拘束された状態で真っ暗な場所に閉じ込められていた。時計のない状況で実際にどれくらいの時間が経過していたのかはわからないが、しばらくすると、突然、自分のいる部屋が衝撃で揺れた。壁が崩れ出し、穿たれた穴から光が差し込み、暗闇に馴れていた目を強い刺激が襲った。穴はどんどんと拡大していったが、しばらくの間、向こう側で重作業に従じている誰かの顔は見えなかった。

 

 やがて視界がはっきりし始め、現われたのはISを纏った千冬だと気づいた。決勝会場で自分の誘拐の報を聞かされ、文字通り飛んで来てくれたのだ。決勝戦が始まる、数分前のことだったという。

 

 かくして、決勝戦は千冬の不戦敗となった。誰しもが彼女の優勝を確信していたために、決勝戦棄権による敗北は当時大きな騒動を生んだ。各国のマスメディアがあることないこと書き立てて千冬をバッシングし、それを読んだ、あるいは見た大衆がまた声を荒げた。日本政府はしばらくの間、その対応に苦慮することとなった。

 

 一夏の誘拐事件については、先述の通り箝口令が敷かれた。千冬が棄権した理由は世間には一切公表されず、彼女の戦績に、謎めいた不戦敗記録が刻まれることとなった。

 

 さて、この一件にドイツ軍がどう関わっていたかというと、千冬に自分の誘拐の事実を知らせたのが、彼らだったという。なんでも、独自の情報網から監禁場所に関する情報を入手した軍の関係者が、これは一大事と姉にも事件のことを告げたのだそうな。その情報のおかげで弟を助けることが出来たとして、千冬はドイツ軍に感謝の意思を示した。情報提供のお礼に一年ほど、ドイツ空軍IS部隊で教官をすることにしたのだ。

 

「そのときに出来た縁がきっかけで、千冬姉はしばらくの間、ドイツ軍で教官の仕事をしていたらしいんだ」

 

 日本政府からの箝口令と聞いて緊張から顔を硬化させているクラスメイトたちに、一夏は誘拐事件のことは伏せた上で、千冬がドイツで教鞭を振っていた事実だけを告げた。

 

「転校初日の日、ラウラは千冬姉のことを教官と呼んでいた。たぶん、そのときの教え子の一人なんだろう」

 

「ずいぶんと慕っているよね、織斑先生のこと」

 

 自身も選手としての千冬のファンであり、当時は不戦敗の事実に納得がいかずショックを受けた陽子が言った。一夏は頷きながら、言う。

 

「あのゴタゴタさえなければ、千冬姉はきっと、大会二連覇を果たしていたと思うんだよ。たぶん、ラウラはそのことで俺を恨んでいるんだと思う」

 

 師弟関係という以上に、千冬の強さに惚れ込んでいるように見えた。そんな彼女にとって、大好きな教官の戦歴に泥を引っかけた自分の存在は、さぞや憎かろう。

 

「ゴタゴタの原因の一つになった、俺の存在さえなければ、千冬姉の経歴に傷がつくことはなかったはずだ、とか、考えているんだと思う」

 

「……その仮説が正しいとしたら、完全な逆恨みだね、それ」

 

 陽子が呆れた様子で溜め息をついた。

 

「っていうか、そも、そのゴタゴタがなければ、織斑先生がドイツで教鞭を執ることはなかったわけでしょ? つまり、ボーデヴィッヒさんと出会うこともなかったわけで」

 

「一夏の存在は、千冬さんと出会うきっかけをくれた、恩人でもあるわけだが」

 

「ううん。そのへんをどう思っているかは、わからないなぁ」

 

 あるいは何も考えていないのかもしれない。現役軍人で、しかも幾人もの部下を持つ佐官だという話だが、客観的にいって、人間関係における視野は狭いように思う。自分への恨みが高じるあまり、別の側面もある、ということに気づけていないのかもしれない。

 

「一夏を恨んでいる理由は、なんとなくわかったけど、」

 

 むぅ、と眉根を寄せながら、シャルルが言った。

 

「鬼頭さんのことは、なんであんなにこだわっているんだろう?」

 

「それについてなのですが……」

 

 シャルルが呈示した疑問に、セシリアが持論を述べる。

 

「あくまで私の主観なのですが、私には、陽子さんにこだわっているというより、お父様にこだわっているように感じられました」

 

「智之さんに?」

 

 一夏が聞き返すと、セシリアは頷いた。

 

「最近、お父様はラウラさんや、上級生の方々と一緒に行動することが多いです。そのときに、お父様に何か思うところがあったのでは?」

 

「たしかにな」

 

 セシリアの言葉に、箒も同意を示した。

 

「ボーデヴィッヒは陽子のことを、鬼頭さんの娘には相応しくない、と言っていた。鬼頭陽子という個人に対して執着というよりは、鬼頭さんの娘だから、陽子にも関わってきた、というように感じる」

 

「……いや、何でよ?」

 

 陽子が怪訝な表情で呟いた。

 

「なんで、ボーデヴィッヒさんはそんな、父さんにこだわるのよ」

 

「……ドイツ政府、あるいは軍から、鬼頭さんのことを自分たちの国に引き込むよう命令を受けているからではないか?」

 

「そうだとしたら、むしろ陽子さんには親しげに接するのではなくて? 男性操縦者を自国に引き入れたいのに、その娘から嫌われるような態度をとるのは、むしろ逆効果でしょう。娘に引きずられる形で、父親の方からも嫌悪感を抱かれてしまいます。箒さんの言うようにドイツ政府などからの指示だとすれば、ラウラさんの態度は矛盾しています」

 

「……まさかとは思うけどよ、あれがラウラ流のフレンドリーな態度だって可能性は、」

 

「いや、さすがにないだろう」

 

「ええ。ありえませんわね」

 

「だよなあ」

 

「……えっと、もしかしてなんだけど、さ」

 

 表情筋の強張りも険しいシャルルが呟いた。その場にいる全員の注目が、彼に集まる。

 

「ボーデヴィッヒさんがいちばんこだわっていることって、」

 

 考える。アリーナでのラウラの発言について、ひたすら考える。

 

 あのとき、あの場所で、彼女は何と言った?

 

 無能ゆえに、陽子は鬼頭の娘に相応しくない、と彼女は言った。

 

 陽子と智也のことを、無能と断じた。

 

 有能な鬼頭のそばに、無能な家族の存在は不要。だから彼が自らの意思で切り捨てたのだ、と持論を述べた。

 

 これらの発言内容から読み取れる、無能という言葉への異様なこだわり。その対極に位置していると彼女が考える、鬼頭や、千冬へのこだわり。ここから、言葉の裏に隠された、彼女の本当の気持ちを推察する。ラウラ・ボーデヴィッヒという人間が、本当にこだわっていることは何なのかを考える。はたして、シャルルが下した結論は、

 

「ボーデヴィッヒさん自身が、有能であることを示すことなんじゃないかな?」

 

「それは……」

 

 一夏たちは顔を見合わせた。たしかに、アリーナでのラウラは有能か、無能かということに執着していた。無能な人間に価値はなく、有能な人間の目の前にのみ、栄光へと続く道が拓かれている。そういう価値観への信仰心の存在が見て取れた。

 

 そんなラウラにとって、自分が有能か否かということは、人生の何にも勝る重要事だろう。シャルルの推理からは、強い説得力が感じられた。

 

 しかし、そうだとすればまた新たな疑問が生じる。

 

 有能であることを示す。

 

 これは、手段だ。いったい誰に? そして、何のために?

 

 自らの内側に生じた疑念を口ずさもうとした寸前、一夏は、はたと気がついた。疑問に対する回答は、他ならぬラウラ自身の口からすでに述べられていたことを思い出した。

 

「……わたしに対して、父さんから愛される資格はない、って言っていたよね。あいつ」

 

 同じことに気がついたらしい陽子が、茫然とした様子で呟いた。

 

 ラウラの考え方では、誰かから愛を寄せられるには資格が必要で、それは有能であることが条件なのだろう。とすれば、彼女の目的は。自分や陽子のことを獲物だと言っていた、彼女の願いは――、

 

「千冬姉や、智之さんから愛されたい、ってことか? そのために、俺や陽子さんをISバトルで倒して、自分の有能さを、証明しようとしている?」

 

「うわぁ、ありえそう」

 

 一夏の呟きに、陽子はうんざりした様子で反応した。他のみなも、口にこそしないが同じ感想を抱いたらしい。渋い表情で頷き、同感の意を示している。

 

 ともすれば陽子よりも幼げに見えるラウラの容姿を思い出す。いま論じているのは、これまでの言動から想像力をふくらませた末の推論にすぎないが、子どものような彼女がそんな考えを腹中に抱えているという想像は不思議と違和感に乏しく、自然と受け入れてしまえた。

 

 そのとき、一夏の右手に巻かれたガントレットが、ピピピ、と電子音を鳴らした。待機状態のISに、どこからか電子メッセージが届いたことを知らせる着信音だ。

 

 その場にいるみなにことわりを入れ、一夏は左手の人差し指でガントレットを軽く叩いた。胸の前で水平に横たえた腕の上で、八インチ・サイズの小ぶりな空間投影式ディスプレイが展開される。『白式』の各種情報が格納されたステータス画面を表示し、たくさんある項目の中から、一つのアプリケーションを実行するよう指示した。届いたメッセージ・ファイルをテキストデータ化して閲覧可能にするアプリだ。いちばん最新のファイルを読み込む。

 

 メッセージの送り主はIS学園の職員室だった。『白式』の専用機登録に必要な書類が追加で発生したため、書きに来てほしい、というお呼び出し。みなにそれを伝えると、「じゃあ、今日はこれで解散しようか」と、陽子が提案した。

 

「アリーナの閉館時間も迫ってきたし」

 

「そうだね」

 

 陽子の言葉にシャルルが頷いた。

 

「鬼頭さんと篠ノ之さんは訓練機を整備班に引き渡した後だし、僕とオルコットさんだけアリーナに戻っても、いまからじゃ大したデータも採れそうにないし」

 

 のみならず、あんなことがあった直後だ。いまアリーナに戻っても、みんなから奇異の目を向けられるばかりで、訓練には集中出来まい。

 

「そっか。じゃあシャルル、ちょっと長くなるかもしれないから、部屋に戻ったら、先にシャワーを使っててくれ」

 

 同じ男性操縦者ということで、現在シャルルとは同室の一夏が言った。男子生徒は寮の大浴場が使えないため、自室に備え付けのシャワールームで汗を流すのが決まりとなっている。普段は一夏が先に浴び、次にシャルルが、という順番が二人の間ではルールとなっていた。

 

 職員室で待ち受ける書類の量がどれほどかは判らないが、今日もいつも通りの順番を厳守すると、二人ともシャワーを浴びる時間が遅くなってしまいかねない。下手をすると、寮の夕食時に間に合わない恐れがある。

 

 一夏も、シャルルも、育ち盛りの男子高校生だ。それだけは避けたかった。

 

「うん。わかった」

 

「じゃ、先に行っているぜ」

 

 シャルルが頷いたのを見て、一夏は早速男子更衣室へと向かった。ロッカーからスポーツタオルを引っ張り出して軽く汗を拭うと、ISスーツの上に制服を着込む。

 

 素早く身支度を整えると、一夏は真っ直ぐ職員室を目指した。

 

 

 

 

 

 

 IS学園、一年生学生寮。

 

 ピットルームで一夏らと別れた後、自室へと向かう陽子の足取りは重たげだった。

 

 隣を並んで付き添い歩くセシリアも、憂いを帯びた横顔を心配そうに見つめている。

 

「織斑君たちの前では言えなかったけどさ」

 

 セシリアは鬼頭家の過去の悲劇をかなりのところまで知っている。彼女と二人きりのいまだからこそ、あの場では言えない言葉も口に出来る。

 

「ボーデヴィッヒさんの、わたしの存在が父さんを不幸にしている、って指摘は、結構、くるものがあったんだよね。なんせ、わたしがいつも考えていることでもあったからさ」

 

 自分の存在は、父の重荷になっているのではないか。三年前のあの日、伊賀上野で父と再会したあのときから、ずっと抱えてきた不安だ。

 

 父と一緒に暮らせるようになったこと、それ自体は嬉しい。彼と過ごす毎日に、幸せを感じている。それもまた、嘘偽りのない素直な気持ちだ。

 

 その一方で、陽子はずっと、鬼頭に対し後ろめたさを感じてもいた。自分との生活を守るために、彼がどんどんと苦労をしょい込んでいることに気がついたためだ。

 

 母との裁判。男性恐怖症に陥った娘への精神的ケア。法廷闘争に向けての準備や、なかなか予約の取れないカウンセリングために、会社に頭を下げて平日に休みを取ったことは一度や二度ではない。それと並行して、娘に金銭面での苦労はかけられぬと、どんな仕事でもとるようにした。家族との時間を確保するため、残業を避けつつ、それでいて人事からの評価を上げる。そのために、ありとあらゆる仕事を受け付けた。結果、会社からの評価とともに給与待遇も上がりはしたが、災害救助用パワードスーツの開発という夢の実現からは遠ざかってしまった。

 

 自分さえいなければ、父はもっと気楽に生きることが出来たのではないか。自分の夢だけを目指して、邁進する日々を送れたのではないか。自分の存在さえなければ、今頃世界に、父の作ったパワードスーツが普及していた未来もあったのではないか。世界中の人たちから讃えられ、感謝される父の姿があったのではないか。

 

「ボーデヴィッヒさんから、私の存在は父さんの邪魔だ、って言われたとき、ああ、他人からもそう見えるんだ。わたしの勘違いとかじゃないんだ、って思っちゃったんだよねえ。うん。それが、こう、心臓にぶっ刺さった感じで、忘れられない、っていうのか。頭の中を、ボーデヴィッヒさんの言葉がぐるぐる回っていて、さ。その、上手く言葉に出来ないんだけど」

 

「はい」

 

「恐いんだよね。いま、父さんに会うの」

 

 あの優しい父のことだ。自分が平素からそんなことを考えているなんて知れば、きっとまた、己がなんとかしなければ、と自らのことを追いつめてしまうだろう。

 

 これ以上、彼の苦労の原因になりたくなくて、普段は懸命に、表に出ないようこらえている、この気持ち。けれどいまの不安定な精神状態では、ちょっとしたきっかけで、それが顔に出てしまったり、口から飛び出してしまったりしそうで、それが恐い。父に、この気持ちを知られてしまうのが、恐い。

 

「今日は、このままわたくしの部屋に泊まりますか?」

 

「ううん」

 

 青い顔の陽子だったが、それでも、魅力的な提案に対しかぶりを振った。

 

「ここで父さんから逃げたら、きっと、もっと辛い思いをすることになるから。このまま帰るよ」

 

 貴様は、ヘア・キトーの娘に相応しくない。

 

 耳の奥で何度も響くその声に頭を悩ませながら、やがて二人は1122号室の前に立った。スカートのポケットから部屋の鍵を取り出し、錠穴に差し込む。ひねってから、ドアノブに手をかけ押し込んだ。ガチ、という抵抗の音。鍵はすでに開いていた。どうやら父はもう帰ってきているらしい。

 

 ドアノブから手を離し、陽子は学生鞄からコンパクトを取り出した。蓋を開き、中のミラーで自分の顔を確認する。

 

 ――うっわぁ、すっごい不細工な女。

 

 まったく酷い顔色、そして顔つきだった。とはいえ、訓練でちょっとはしゃぎすぎたため、と言い訳できそうな範疇にも見える。強気に振る舞うことで、単に疲れているだけだと押し切れるように思われた。

 

 陽子はもう一度鍵穴に差し込んだままのキイに手を伸ばすと、今度は反対方向に半回転させた。セシリアからの視線を鬱陶しく思いつつ、腹をくくってドアを押す。密閉性に優れる重いドアがゆっくりと開き、途端、鼻腔を、懐かしい匂いが通り抜けた。脳の扉をノックして、故郷での思い出を揺さぶり起こす。自然、その足はふらふらと部屋の奥へと誘われた。

 

 これは。この、スパイシーな匂いは、

 

「……『風来坊』?」

 

「うん? ああ、お帰り」

 

 陽子の帰宅に気がついた鬼頭が、システムキッチンのある部屋からひょっこりと顔を覗かせた。両手に、大きな丸皿を握っている。香ばしい匂いの源が、こんもり積み上げられて茶色い小山を作っているのが見えた。手羽先唐揚げだ。いわゆる名古屋めしと呼ばれる料理の中でも、代表的なものの一つ。東海地方の人間にとって手羽先といえば、一般には具材ではなくこの唐揚げ料理のことを指す。

 

 『元祖手羽先唐揚風来坊』は、愛知県名古屋市を中心に店舗を展開している飲食店チェーンだ。その看板が示す通り、手羽先唐揚げ発祥の店として知られる。もともと、この店の看板料理はターザン焼きといって、若鶏の半身をそのまま揚げ、秘伝のタレをつける別の料理だった。ところが、ある日発注ミスによって丸鶏の在庫を切らしてしまい、ターザン焼きが提供出来なくなってしまった。仕方なく、スープの出汁とり用に大量に仕入れていた手羽先を揚げ、ターザン焼きの秘伝のタレをつけて客に出したところ、これが大好評を得た。今日、名古屋の手羽先と聞いて誰もが思い浮かべる甘辛い唐揚が誕生した瞬間だ。店の看板料理の座が、ターザン焼きから手羽先唐揚へ禅譲されるのに長い時間はかからなかった。

 

 陽子は『風来坊』の手羽先のファンだ。

 

 学習机に目線をやると、グラスと、未開封の缶ビールが準備されている。なるほど、夕食の前に一杯楽しむつもりところだったか。取り皿が二枚あるのは、おそらく、

 

「ちょうどいいところに帰ってきたな」

 

 鬼頭はにこにこと嬉しそうに笑いながら机に丸皿を置いた。陽子は父と皿の上の手羽先とを交互に見て訊ねる。

 

「父さん、それ、どうしたの?」

 

「堂島先生からのお土産さ。娘さんと二人で、久しぶりに故郷の味を楽しんでください、と、おっしゃってくれてな」

 

 手羽先唐揚げは鬼頭の好物でもある。ありがたいことだ、と呟くと、彼は茫然と立ち尽くしている愛娘を手招きした。

 

「いま温めたところなんだ。夕食に差し支えない程度に、な。一緒に食べよう」

 

「一緒に」

 

「ああ。一緒に。……どうした、陽子? 突然そんな、にやにやしだして」

 

 突然にやけ面になった陽子を見て、鬼頭は訝しげに訊ねた。遅れて入室してきたセシリアも、彼女のかたわらまでやって来ると、不思議そうに横顔を見つめる。

 

 陽子は嬉しそうにはにかむと、小さくかぶりを振った。

 

「や、大したことじゃないんだけどさ、いまの、一緒に、っていうのが、ちょうどタイムリーに、わたしの疲れた心にぶっ刺さりまして」

 

「う、ううん?」

 

「要するに、わたしってば、父さんから愛されているなあ、って実感したわけですよ。そしたら、さっきまで頭の悩ませていたことなんかが、急に、どうでもよくなったっていうか。この程度のことに頭を悩ませるとか、時間の無駄だったな。馬鹿馬鹿しいことだったな、って、思えるようになったっていうか……」

 

「……ううん、よく分からないが」

 

 鬼頭は正面から陽子の顔を見据えた。

 

「父さんは、いつだってお前のことを愛しているよ」

 

「うん。知ってる」

 

 陽子はその事実を噛みしめるように、ゆっくりと頷いた。

 

 耳の奥でまた、アリーナでラウラから突きつけられた言葉の刃が蘇る。

 

 貴様は、ヘア・キトーの娘に相応しくない。

 

 貴様の愛は、ヘア・キトーには不要だ。

 

 しかし、いまやその言葉が陽子に痛痒を与えることはない。

 

 自分は父のことを愛してよいのか。自分の存在は、父にとって重荷になっているのではないか。そんな不安がこみ上げてくることも、ない。

 

「わたしも同じだよ、お父さん」

 

 一緒に食べよう。

 

 そう言われて、安堵した。

 

 父は、自分のことを愛してくれている。

 

 自分もまた、父のことを愛してもよいのだ。

 

 その理を、一瞬のうちに理解出来た。

 

 父が口ずさんだ、短くて、でも暖かな言葉が、教えてくれた。

 

「わたしも、父さんのことが大好きだよ」

 

 陽子の言葉に、鬼頭はこれまた嬉しそうにはにかんだ。

 

 

 

 

 

「ところでお父さん、夕食前に軽く一杯ということですが、その机の上に見えるのは、」

 

「うん。ビールだな。やはり、『風来坊』の甘い手羽先にはこういう、苦くて、炭酸入りの、のどごしの良いアルコールが……」

 

「焼酎の炭酸割に変えましょう」

 

「なにゆえ!?」

 

「糖質量の問題かな。父さんには長生きしてほしいと思う娘の愛を理解してください」

 

「ちっきしょうめえ!」

 

「娘を畜生呼びとはなんたる毒親か。こうなったらなんとしても、糖質ゼロなお酒に変えなければ!」

 

 IS学園の学生寮に、中年男の悲痛な声がこだました。

 

 

 

 

「はー、終わった終わった」

 

 同じ頃、職員室での用を済ませた一夏は、自室の一○二五号室を目指して学生寮の廊下を足早に歩いていた。

 

 職員室で待ち受けていた書類は、量こそ多かったが、基本的には名前を書くだけのものばかりで、思いのほか早く終えることが出来た。第三アリーナのピットルームで陽子たちと別れてから三十分と経っておらず、この分なら、急いで帰ってシャワーを浴びても、夕食の時間に十分間に合うことだろう。自然、忙しない足取りの一夏は、あっという間に自室へと到着した。ドアのロックをはずして、押し開ける。「ただいま」の声がけとともに室内を見回して、シャルルの姿がないことに気がついた。

 

 ――ええと、シャルルは……シャワー中か。

 

 シャワー室より響く静かな水音から、状況を把握する。と同時に、昨日シャワーを浴びた際に、シャルルがボディーソープを使い切ったことを思い出した。

 

 ――しまったなあ。

 

 シャルルと一緒に暮らすようになってまだ一週間足らずだ。消耗品の保管場所など、共有しきれていない情報も多い。

 

 ボディーソープの詰め替えパックの保管場所はそのうち一つだ。案の定、クローゼットを開けて詰め替えパックの数を数えると、自分が最後に見たときから一個も減っていなかった。ということは、いまシャワールーム内にあるボトルの中身は、空のまま。

 

 今日も自分が先に使うつもりで、シャワーを浴びるついでに補充すればよいと考えていたのをすっかり忘れていた。

 

 ――悪いことしたな。届けてやらないと。

 

 きっとシャルルも困っているだろう。

 

 一夏は詰め替えパックを一つ手に取った。学生寮のシャワールームは、洗面台が置かれた脱衣所とドアで区切られている。とりあえず脱衣所まで行って、そこで声をかけよう。

 

 脱衣所に足を踏み入れると、ドアにはめ込まれた磨りガラスの向こう側に、人影の姿を認めた。シャルルだ。ボディーソープがないことに気がついたのだろう。

 

 ナイス・タイミングでの帰宅だったんだな。ガチャリ、とドアノブが回転をするのを見て、一夏は微笑み、朗らかに口を開いた。

 

「ああ、ちょうどよかった。これ、替えの――」

 

「い、い、いち……か……?」

 

「――ぼでぃ、い、い、い……そ……う、うぇえ!?」

 

 思わず、口から変な声が飛び出した。

 

 まったくの不意打だった。何の気構えも練っていなかったところを、いきなり襲われた形だ。

 

 ドアを開けて現われたのは、白い肢体だった。ぬるま湯に濡れたブロンドの髪。すらりと長い手脚。男の情欲を刺激する、扇情的な角度にくびれた細い腰つき。だが、何にも増して目線を惹きつけるのは、たわわに実った双子の乳房だ。お椀をかぶせたかのようにまあるく形が整っている。その頭頂ではこれまた魅力的な見た目の蕾がしとやかに咲いており、真っ向見つめることとなった一夏は、自然、下腹部より湧き出でる熱の存在を自覚した。

 

「え、いや、あの……、なんで、俺の部屋に……え? 裸の、女子が……!?」

 

 思考が上手くまとまらない。現実感に乏しい光景に頭を打ちのめされ、混乱しているのがわかる。

 

 それでも、インパクトから免れた生き残りの神経細胞たちを総動員して、懸命に、論理的思考をはたらかせた。

 

 いま目の前にいるのは、裸の女子。そう、裸の女子だ。このまま彼女の身体を見つめ続けているのは、非常に不味いことだ。彼女の心身を傷つける行為だし、自分もこの女尊男卑時代に性犯罪者と訴えられてしまう。視線を逸らせ。顔をそむけろ。一夏は慌てて目線を胸から下の方へと向け、そのために、今度は彼女の股間を覗き込んでしまった。生まれて初めて見る女の部分。一瞬だけ、見惚れてしまった。

 

 馬鹿かよ、俺は! 胸の内で自らを罵り、一夏は、ぎゅっ、と目をつむった。身体ごとを後ろに振り向く。背中を向けたまま、肩甲骨を可能な限り裏返して、詰め替えパックを持った手を背後へと伸ばした。

 

「こ、これ、ボディーソープの詰め替え! たしか、切れていたよな」

 

「え、あ、う、うん」

 

 混乱しているのは、彼女もまた同じらしい。生返事とともに頷き、詰め替えパックを受け取る。

 

 手の中から重みが消えた後も、一夏はしばらくの間、腕を伸ばし続けていた。

 

「え、ええっと、その……じゃ、じゃあ、身体、洗ってくる、ね?」

 

「お、おう。その、ごゆっくり」

 

 ガチャン、とドアの閉まる音。一夏はようやく腕を下ろし、深々と、溜め息をついた。ちら、とドアを見る。もたれかかっているのか、磨りガラス越しに、男のものとは思いがたい華奢なシルエットが映じていた。

 

「……シャルル、だよな。いまの」

 

 あのブロンドの髪色には、見覚えがあった。普段は縛っている髪をほどいていたため、毛先の位置が肩甲骨くらいまで下がっていたが、間違いなく、フランスからやって来た第三の男と同じ髪色だった。気が動転していて、顔の造作はよく見ていなかったが、おぼろに、よく似ていたように思う。

 

 ――いや、でも、だったら、何で、胸が。それに、股の間の、あれも!

 

 シャワールームからの水音が再開された。

 

 それを合図に、一夏は脱衣所を後にした。

 

 居間と寝室を兼任する生活空間に戻ってくると、自身のベッドに腰かける。腕を組み、特に何をするでもなく、ただそわそわと落ち着かない様子でベッドの上に転がる置き時計をしきりに確認しながら、時間が過ぎるのを待った。

 

 やがて水音が消え、一、二分ほどのインターバルを挟んだ後、今度は控えめな開閉音が脱衣所の方から聞こえてきた。それからさらに十分の後、「あ、上がったよ」と、IS学園制定のスポーツジャージを着たシャルルがやって来た。

 

 ベッドに腰かけたまま、一夏は彼の頭の先から、足のつま先までをしげしげと眺めた。シャルルの胸元はふくらんでいた。見知った顔の、見知らぬ少女がそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter40「愛されるということ」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三年と二十日と少し――、いや、事件が起こる、二十日前。

 

 

 

 ミュンヘン滞在中のハンス・ブルックハルト上級巡査のもとに、ザンクト・アウグスティンのオスカー・ボーゼ警察監督官から急報がもたらされたのは、第二回IS世界大会の開催を十日後に控えた日の夕方のことだった。『モンド・グロッソ』の期間中の備えのために、現地での活動拠点の一つとして借りているアパートで休んでいたところ、携帯電話を鳴らされた。GSG-9の隊員に配られている特別なスマートフォンで、頑丈なだけでなく、盗聴防止用の特殊な回線につなげて通話をすることが出来る。

 

『我々の敵の正体が判明した』

 

 電話に出ると、オスカー監督官は開口一番そう言った。スマートフォンを耳元で保持する右手に、自然、力が篭もる。鷲鼻のハンスは顔を強張らせ、「ちょっと待ってください」と、応じた。保留ボタンをタップすると、同居人たちに声をかける。

 

 オスカーの命を受けて編制されたスペシャル・ユニットは総勢二十名。彼らは五人ずつのグループに分かれて、市内の四箇所に点在するアパートに暮らしていた。ハンスは、「監督官から電話だ」と、言って、めいめいに休息を楽しむ四人をリビングに集めた。保留ボタンをもう一度押して応答する。

 

「お待たせしました。いま、全員を集めました。スピーカー・モードにしても?」

 

『うん。構わない。きみが情報共有に必要だと思うなら、そうしてくれ』

 

 ハンスはスマートフォンの通話モードをスピーカー・モードへと切り替えた。室内での密談のため、アパートは防音がしっかりした部屋を選んでいる。

 

 ハンスはスピーカー・モードに切り替えたスマートフォンをテーブルの上に置いた。全員でそれを囲む。

 

「切り替えました」

 

『うん。では状況を説明する。またしても情報部隊のお手柄だ。例のエットレ・ラッビアについて、正体が判明した』

 

 ハンスたちはアメリア・クンツェ監督官の娘と姿を消した自称イタリア人の顔を思い浮かべた。

 

『連邦警察のデータベースに記録のある人物ではないかと検索をかけたところ、顔認証システムで九三パーセントも顔の特徴が一致している人物がヒットした。二年ほど前、アルバニアで警察官を三人も殺害して逃亡中の国際指名手配犯だ。そのときはアメリカ人のマイケル・ローリングスを名乗っていたそうだが、まあ、それは大したことじゃない。問題は、彼が所属する組織の方だ。当時のアルバニア警察は、マイケルを捕まえることこそ出来なかったが、その正体についてかなりのところまで迫っていた』

 

「組織の名前は?」

 

『亡国機業(ファントム・タスク)』

 

 ハンスは反射的に携帯電話から顔を上げた。思いも寄らぬビッグ・ネームの登場に、全員が表情を険しくしている。

 

 ファントム・タスク。

 

 それは、国際刑事警察機構(インターポール)が、第一級の犯罪者集団として登録している、国際的な犯罪組織の名前だった。

 

 組織について、わかっていることは少ない。ハンスたちGSG-9は勿論のこと、世界中の捜査機関がその壊滅を願って行動し、必死の努力を積み重ねているにも拘わらず、いまだ全貌を知ることが出来ずにいるのだ。

 

 四年前、アメリカのCIAがかなりの人員を投入して、彼らの活動拠点と思われる国内八箇所を同時に強襲したことがあった。SWATチームを動員した大捕物だったが、逮捕出来たのは僅か六人。それも、全員が末端の構成員という有り様だった。それでも、厳しい尋問の末、なんとか口を割らせた結果、判明したことは以下の通り。

 

 その誕生は第二次世界大戦中にまで遡ること。豊富な活動資金のもと、数万人規模の人員を擁していること。世界中に活動拠点を持っており、その上で数百人を一度に輸送可能な移動手段を複数持っていること。窃盗や殺人、詐欺や放火など、あらゆる種類の犯罪の実行を可能とする能力を持ち、実際にそれをやっていること。

 

 組織の目的や存在理由、正確な規模、装備の質と量。そういったことは、末端の彼らは知らなかった。彼ら自身、自分たちが何のために働かされているのか、不思議に思いながらこき使われていたという。国家に寄らず、思想を持たず、信仰はなく、民族にも還らない。あえて言語化するなら、そんな組織だったと彼らは語った。

 

『ファントム・タスクが各国の軍隊とひそかにつながっているのではないか、という噂は、昔から捜査関係者の間では有名だった。古くから世界的に暗躍している組織にも拘らず、いまだ全容がつかめないということは、どこかから我々の動きについての情報を得て、その度に身をかわしているのではないか、という仮説だ。また、ファントム・タスクはかなりの武装化が進んだ組織だということが判明している。噂によれば、世界のどこかに秘密工場を持ち、銃や爆弾、果ては戦車などの兵器まで自前で調達する能力を持っているという。これを可能とするためには、国家規模の組織からの支援が必要だ。その役割を担っているのが、各国の軍隊というわけだな。まさかそれに、わが連邦空軍が関わっているとは思わなかったが』

 

「敵の目的は? 連邦空軍とエットレ・ラッビアたちが、『モンド・グロッソ』の期間中に、何をやろうとしているのかは?」

 

『それは依然として不明だ』

 

 オスカー監督官の声からは苦渋が感じ取れた。

 

『今回新たに判明したのは、エットレ・ラッビアはファントム・タスクの構成員である蓋然性が高いということだけだ。しかし、これは非常に重要なことだと私は思う』

 

 オスカーの言葉に、ハンスは頷いた。

 

 クンツェ監督官の娘を誘拐したこと。その結果、監督官が作成したミュンヘンの警備計画に変化が生じたこと。それはすべて、エットレ・ラッビア……すなわち、ファントム・タスクによって引き起こされた公算が高いということ。ファントム・タスクが、『モンド・グロッソ』の期間中に、ミュンヘンの街で何かを起こそうと企んでいる公算が高いということ。

 

『繰り返しになるが、ファントム・タスクはかなりの武装化が進んだ組織だ。その上で、数万人規模の人員と、世界中に実働部隊を展開可能な機動力を持っている。連中が何を企んでいるのかは判らないが、最悪、ミュンヘン市街地で激しい銃撃戦が発生する可能性さえ考えられる』

 

 噂によれば、いまやファントム・タスクはISさえその手中に収め、戦力化しているという。秘密組織を堅持していることから、連中も、街中で装甲車を走らせるような愚行はするまいが、多数の銃火器を持ち込むことぐらいは、十分に考えられた。

 

 オスカーからの通信を切った後、ハンスは同居人たちと侃々諤々の討議に身を投じることとなった。

 

 敵がファントム・タスクと判明した以上、作戦計画を根本から練り直す必要がある。

 

 主要な議題となったのは、やはり敵の狙いだ。ファントム・タスクはあらゆる犯罪をこなす組織だが、それでも、これまでに得た情報から、何をやろうとしているのかある程度絞り込むことは出来る。

 

「警備計画に介入してきたということは、いわゆる電脳犯罪を企んでいるわけでないことだけは確かだ」

 

 そう言ったのはライナー・ブロッホ主任巡査だった。ハンスより階級は下だが、同期ということもあり、彼とは互いに気を遣わない話し方を心がける協定が結ばれている。

 

「実際に手足を動かして何かをやろうとしている。だから、クンツェ監督官に命じて、警備の薄いところを作らせたのだろうからね」

 

「とすれば、やろうとしていることは殺しか、盗みか、器物の損壊か」

 

「何であれ、ファントム・タスクが相手となれば、武装したテロリストの集団が、その場所を一気に襲撃する可能性があるわけだ」

 

「問題は、それがどこかだが」

 

「クンツェ監督官の変心によって、手薄になったのは五箇所ある」

 

 ライナーはテーブルの上にミュンヘン市内の地図を広げた。

 

「いずれも、重点警備地区を増やしたことで、そちらに人をとられてしまい、見回りの警察官をへらさざるをえなくなったポイントだ」

 

「今回の作戦に、ファントム・タスクがどの程度の人員を投入してくるかがわからない」

 

 ハンスは険しい面持ちで呟いた。

 

「数名の精鋭を派遣してくるだけかもしれないし、数十人からの部隊を投入してくることも考えられる。敵の総数が未知数な状態では、この五箇所に人員を分散配置して守るのは厳しい」

 

 こちらも精鋭とはいえ、戦闘要員は僅か十人しかいない。分散配置は各個撃破の危険性を高め、相手の犯行を許してしまう公算が高かった。

 

「常に情報収集をしつつ、ヤマを張って一箇所に戦力をかためるべきだ」

 

「とすると、どこに?」

 

「俺の見立てでは――、」

 

 ハンスはミュンヘンの中心街を指差した。十九世紀中頃から二十世紀初頭にかけて建築された新市庁舎を中心に広がる、文化の発信と商業活動が盛んなエリアだ。

 

「このあたりが怪しいと思うんだ」

 

「根拠は?」

 

「ファントム・タスクがモンド・グロッソの開催期間中に何かを企んでいるのは、これまでの経緯からも明らかだ。これは、裏を返せば、世界大会期間中でなければ出来ないか、あるいは意味のない犯罪を計画しているから、と考えられる」

 

 そうでなければわざわざ警戒厳重な大会期間中を狙おうとはするまい。

 

「大会の期間中でなければいけない理由か」

 

「大会期間中のミュンヘンにあって、普段のミュンヘンにはない要素は何かを考えてみよう」

 

「各国からやって来る選手、要人、いつもより多めの観光客といったところだな」

 

「このうち、一般の観光客は除外していいと思うんだ」

 

 もとよりミュンヘンは観光都市としての側面も持っている。名高い観光名所をいくつも有しているほか、九月半ばから十月上旬にかけてのオクトバーフェスでは、毎年六〇〇万人が訪れる。一般の観光客を狙って何か犯罪を企んでいるのなら、もっと適した機会があるはずだ。

 

 選手狙いの線も捨てて良いだろう。ドイツは過去にミュンヘン・オリンピック事件で選手村を襲撃さえている。さすがのクンツェ監督官も、人質を取られてなおここの守りは徹底していた。

 

「ということは、敵の狙いは、」

 

「うん。大会を観戦しに来た、そして、そのついでに政治の話をするつもりの、各国の要人たちだろう」

 

 ミュンヘンの中心街には、最上級のホテルが揃っている。一八五八年に創業し、バイエルン王国時代には迎賓館としても使われたケンピンスキー・ホテル・フィーア・ヤーレスツアイテンKempinski Hotel Vier Jahreszeiten 。五つ星ホテルと名高いマンダリン・オリエンタルグループ。一八五二年創業、ミュンヘンを代表する美しき高級宿バイエリッシャー・ホープBayerischer Hof などが、特に有名だろう。モンド・グロッソの期間中も、世界中から錚々たる顔ぶれの宿泊が予定されている。

 

「ファントム・タスクの奴らは、これら高級ホテルに宿泊中の誰かを狙うつもりじゃないだろうか?」

 

 ハンスはそう言って、三つの最高級ホテルのある場所にペンで印をつけた。三つのホテルは、シャネルやエルメスといった高級ファッションブランドの店舗が集中しているマクシミリアン通りの側で近接し合っている。印同士を線で結ぶと、見事な二等辺三角形が形成された。

 

「この三角形エリアだ。俺たちGSG-9は、このエリアを中心に守りをかためよう」

 

 

 

 

 事件が起こる、三日前。

 

 飛行機に搭乗した直後こそ旅の同行者に内心文句を口にした桜坂だったが、ドイツの土を踏んで間もなく、その機嫌はすっかり良くなった。

 

 ミュンヘン中心部から北東へおよそ二八・五キロメートルの地点にある、ミュンヘン空港。その入国審査部で担当してくれた受付の係員が、彼好みの美熟女だったからだ。

 

「アウフ・ヴィーダーゼーエン、アレクサンドラ。四日後、帰国の際には必ず立ち寄って、きみにもお土産を渡すよ! チュス!」

 

 御年五十三歳のアレクサンドラ(既婚者)に見送られた後も、手荷物受取所、税関審査を順にパスした桜坂と桐野美久は、少し話し合った後、タクシー乗り場へと向かった。まず宿泊先のホテルに荷物を預け、然る後、身軽な装いで観光を楽しもう、と行動方針を一致させたのだ。

 

 ミュンヘン空港から市内へのアクセス手段は、近郊鉄道(Sバーン)とルフトハンザ・エクスプレスバスの他、レンタカーとタクシーがある。このうちレンタカーは、市内に一般車両の通行を制限している場所があるため、ミュンヘンの交通事情に精通していない人間には使いにくい。鉄道とバスは、駅や停留所に着いた後また別な手段での移動を強いられることになるから、それもまた面倒臭い。多少、金銭負担が重くとも、タクシーを利用して一気にホテルまで行ってしまおう、と二人は考えた。

 

 日本のタクシー会社の多くが日本車を採用しているのと同様、ドイツではドイツ車を採用しているタクシー会社が多い。日本では高級車の扱いのメルセデス・ベンツも、ここでは当たり前に乗客輸送に使われている。

 

 二人が乗り込んだのは二世代前のEクラスだった。後部座席の広さは十分、乗り心地も良い。上級車だからといって特別に料金が加算されることもないため、彼らは満足感もたっぷりに移動することが出来た。

 

 道はかなり混んでいた。IS世界大会の期間中だから当然のことだが、一般車両や観光バスの他に、青色とシルバーに塗装されたパトカーの姿が目立っている。ミュンヘンにはBMWの本社があるからなのか、パトカーも特徴的なキドニー・グリルを採用している車種が多く見られた。

 

「……鬼頭のやつが喜びそうな光景だな」

 

 タクシーはドナウ川支流のイーザル川沿いの幹線道路を主に走りながら、大会会場のあるオリンピック公園からなるべく遠ざかるルートを使ってミュンヘン市内を目指してくれた。ミュンヘン北部にあるシュヴァービングSchwabing 自治区に入ると、メインストリートのレオポルト通りに進入する。ルートヴィッヒ・マクシミリアン大学、ルートヴィッヒ協会をパスして、やがて市の中心街へと到達した。

 

 二人が宿泊予定のプラッツルPlatzl ホテルは、マクシミリアン通りにほど近い高級ホテルだ。気心の知れた男二人の気楽な旅ならばともかく、若い女性を連れての二人旅となった時点で、急遽、奮発することにしたのだった。

 

 レオポルト通りから続くルートヴィッヒ通りは、名建築家フリードリヒ・フォン・ゲルトナーFriedrich von Gärtner 設計のフェルトヘルンハレ・ロッジアのある交差点で終端を迎え、そこからは四方向に道が分かれている。プラッツルへは左方向へ進むホーフガルテン通りか、直進やや左寄りのレジデンツ通りへ進むのが早いが、ここで桜坂は、あえて遠回りとなる右方向のブリーナー通りへ進むよう運転手に指示した。

 

「せっかくだ。ちょっと、街の景観を眺めていきましょう」

 

 ブリーナー通りを東に進み、地上二九メートルのオベリスクが中央に建つカロリーネン広場Karolinen platz の大型ロータリーへと至る。一八一二年のロシア戦役での陸軍戦没者慰霊碑だ。ロータリーからは南東方向バラー通りに入ると、噴水のある歴史的な広場……カールス広場Karls platz の地下鉄の駅を前にくの字に切り返させた。バケリ通りから、今度こそプラッツルのある西側へ。

 

「おっ、桐野さん。見てください」

 

 ブティックショップが建ち並ぶプロムナーデ広場に到達したとき、桜坂は進行方向左側を指差した。宮殿のような見た目の――実際に宮殿を改装して築かれている――ホテル・バイエリッシャー・ホーフが見える。

 

「あれが有名な五つ星ホテルのバイエリッシャー・ホーフですよ」

 

「素敵なホテルですね」

 

 美久はその荘厳なたたずまいを前に陶酔した溜め息をついた。

 

「天使様との旅行が決まってから、観光ガイド本を読み漁りました。なんでも、昔は外国からのお客様を迎える迎賓館としても使われたんだとか」

 

「すぐ側に建っているばかでかいショッピングビルが、これまた有名なフェンフ・へーフェ」

 

「たしか、日本の無印良品も入っているんでしたよね」

 

「ミュンヘン観光の定番スポットですね」

 

 仁王の顔が楽しげに微笑んだ。

 

「後で一緒に見に行きましょう」

 

「一緒に?」

 

「ええ。一緒に」

 

 桜坂の返答に、美久もまた嬉しそうに微笑み、頷いた。

 

 

 

 

 





この話を書くにあたってミュンヘンの地理を調べまくっていたら、グーグルくんから「お、旅行か?」って、おすすめのプランが呈示されるようになったゾ。

そんな休みとれねーよ。
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