単話としては過去最大のボリュームです(3万5000字!)。
よろしければお付き合いください。
土曜日の午後六時二十分。
大皿に山のように積み重なっている手羽先を、むんず、と手づかみする。このとき、手指は当然肉の脂とタレとで汚れてしまうが、名古屋人たる者、そんなことは気にしない。両の指先で手羽先の両端をしっかりつまむと、関節の端の部分の肉を少しだけ千切ってやった。翼端部分をもぎり取った側から豪快にかぶりつき、舌と歯を器用に駆使して骨から肉をこそぎ落とす。手の引っ張り運動に合せて頬をすぼめ、ちゅるり、と吸引してやれば、口から飛び出すのは綺麗に身を削がれた鳥骨が二本だけ。哀れ口の中に取り残された鶏肉は、やおら襲いくる顎の上下運動によって噛み裂かれ、細々とすり潰されていった。ぱりぱり、とした皮の食感。次いでやってくる、筋繊維を、ぶちぶち、と引き千切る歯ごたえ。そこに時折混じる、白ごまの、ぷちぷち、としたアクセント。顎を繰り返しノックする快感に酔いしれる。
奥歯を上下してやる度、口の中いっぱいにスパイシーな風味と甘辛い味わいが広がる。もくもく。もくもく。無言のうちに、噛みしめる。
そして、飲み込んだ。ほどよく粗挽かれた鶏肉は食道を通過し、胃袋へ到達。なおも喉奥に残る濃厚な余韻を洗い流したい欲求から、自然、その手はテーブルの上に鎮座するグラスへとのびた。握る。持ち上げる。唇に添えて傾ける。こく、と喉を鳴らす。水割り芋焼酎の熱が、体の中を一気につき抜けた。グラスを置き、感嘆から溜め息をこぼす。
「くっあぁぁあ! たまらんでよ!」
鬼頭智之と陽子の親子が暮らす、1122号室でのことだった。堂島弁護士がお土産にと持ってきてくれた地元の名店『風来坊』の手羽先唐揚を、アルコールとともに堪能する鬼頭は、ここが学生寮の一室だということも忘れ、すっかり呑兵衛と化していた。
名古屋の手羽先は、総じて酒に合う味つけがされている。『風来坊』の唐揚は、その典型だ。食べるほどに酒が欲しくなり、飲むほどに手羽先が欲しくなる。食欲の連鎖的化学反応が止まらないし、止められない。
手羽先を食べ、酒杯を傾ける。また食べては、杯を傾ける。繰り返しの動作を飽くことのない自らを指して、鬼頭はかく評す。
「うおォン。俺はまるで人間2ストローク・エンジンだ」
「落ち着いてください、お父様。久しぶりの故郷の味が嬉しいのはわかりますが、そのためにキャラ崩壊しかかっていますわ」
アルコールの熱で頬を紅潮させる鬼頭を、対面の席に座るセシリアが呆れた口調でたしなめた。
手づかみを厭わぬ彼と違い、こちらは手指の汚れを嫌ってフォークとナイフで骨と身を切り分けてから口に運んでいる。もくもく。もくもく。うむ。普通に美味しい。鶏肉そのものの旨みに加えて、甘みとスパイシーさとが併存している特製のたれ。複雑な味わいは、素朴でシンプルな味つけが好まれやすい英国料理にはあまり見られない珍味的な良さがある。味が濃い分、同じく味の濃い飲み物が欲しくなる気持ちもよくわかる。
だが、箸が止まらない、というほどの自制心の衰弱は感じなかった。目の前の男のように、次から次に欲しくなる、という欲求の増進も感じない。料理の美味さに頬を緩めはするが、そこでおしまい。美味い、という以外に、感情を大きく揺さぶられた感覚は薄かった。
おそらくは自分がイギリス人だからだろう。鬼頭にとって手羽先唐揚は故郷の味であり、また思い出の味だ。美味しさに対する満足感は無論のこと、よく知る――そして変わらぬ――味との再会に対する喜びが、旨みをいっそう引き立てていると考えられた。
他方で、自分にはこの料理を食べたときに、懐かしさの源泉となる思い出それ自体が存在しない。郷愁の気持ちを駆り立てられるバック・ボーンがないから、感動の表現方法にも著しい格差が生じてしまったと考えられた。仮に、大皿に載っているのがヨークシャー・プティングであったなら、似たような反応を示していたかもしれない。
その考えの正しさを証明するかのように、セシリアのかたわらでは、陽子がよく冷えたウーロン茶と手羽先とを交互に飲み食いしながら、感動に咽び泣いていた。彼女もまた名古屋人だ。落涙をこらえきれないのは、やはり、幼少期から舌に馴染んだ味に対する喜びゆえの――、
「んぐっ、んぐっ……、ぐっ。けっ……けほっ、こほっ……ぐっ……む……」
「あ、違いますわね、これ」
咽び泣きには違いないが、その原因はまるで異なっていた。がっつきが過ぎて、細かく噛み裂く前の状態の鶏肉を飲み込んでしまい、それが喉に引っかかってしまったようだ。えずき混じりの咳も、目尻に浮かぶ涙の雫も、苦しさから生じたものだったか。セシリアは陽子の背中を優しく撫でさすった。
「ぐっ……ぐっ……んぐっ。くん。……ああっ、焦った」
空気の通り道を塞いでいた塊を、ウーロン茶で強引に押し流した。生命活動の危機からの脱出の喜びに、安堵の呟きが唇をついて出る。
「手羽先喉に詰まらせて死んじゃうとか、智也兄さんに向こうで一生からかわれるネタを提供するところだったぜい」
「死んだ後に一生とはこれ如何に?」
「それにしても……」
夕食前に一杯だけ、という先の発言はなんだったのか。すでに三杯目の酒杯を舐めている鬼頭が、熱い吐息ともに呟いた。
「にわかには信じがたいな。本当に、フラウ・ボーデヴィッヒが、そんなことを?」
食事中の話題にと、二人に今日あった出来事を訊ねた鬼頭は、返ってきた言葉に怪訝な表情を浮かべた。
およそ三時間前――自分が本校舎の応接室で堂島弁護士らと今後のことを話し合っていた、その時間帯に――、陽子たちのいた第三アリーナで事件は起こった。一夏や箒といったお馴染みの顔ぶれで訓練に励んでいたところを、突然、愛機シュヴァルツェア・レーゲンに身を包んだラウラに襲われた。彼女は一夏と陽子を名指しして、自分と戦うよう彼らに求めたという。
二人ははじめ、戦う理由も、その意思もないからと相手の要求を突っぱねた。しかしラウラは引き下がらず、今度は挑発の言葉を口にして彼らの感情に揺さぶりをかけた。先に相手に手を出させ、自分は身の危険を感じたからそれを迎え撃っただけ、という形にもっていくための作戦だ。幼げな見た目の唇から次々に飛び出す暴力的な言葉の数々に、やがて陽子が耐えきれなくなる。父と、亡き兄とを侮辱する発言に激昂し、手にしていたレーザー砲のトリガーを引き絞ってしまった。正当防衛の論拠を得たラウラは喜色満面、先制射撃を悠々回避してみせると、リボルバーカノンによる応射を開始した。
周囲の者たちが止めに入ったのは、反撃の一弾が発射される直前、またはその直後のことだ。体術に優れる箒が陽子を拘束するべく背後から組み伏せにかかり、電磁投射砲の射線上へと割って入ったシャルルが、ラファールの実体シールドで砲弾を弾き飛ばす。さらには、アリーナの放送席から監督役の教師が両者の行いを危険と判じて怒声一喝。他の生徒たちからも非難の視線を浴びせられ、興が削がれたらしいラウラは闘技場から退出していった。
かくして事なきを得たのです。一連の経緯を聞かされた鬼頭は、はじめ青い顔をして胴震いした。話を聞いた限り、陽子もラウラも、非常に危うい状況に身を置いていたといえる。
やろうとしていたことそれ自体は、子どもの喧嘩にすぎない。しかし、互いに持ち出した武器が問題だ。単機でも小国の軍事力に匹敵しうるとされるほどの最強兵器。それが、スポーツ競技として厳格なルールのもと行われるISバトルではなく、レギュレーションなんて何ら存在しない、感情が高じた末の殴り合いに投入されようとしていたのだ。シャルルたちのおかげで事なきを得たが、もしも周囲の協力を得られず、戦闘が続行されていた場合、二人とも将来に禍根を残す大怪我を負っていたかもしれない。
ありえたかもしれない最悪の未来を想像し、鬼頭は恐怖から表情を硬くした。目の前で手羽先を美味しそうに頬張っている娘の姿に、よくぞ無事でいてくれたと安堵の気持ちがこみ上げる。
と同時に、鬼頭は娘たちが自分に聞かせてくれた内容は、本当にあったことなのか、とも疑念を抱いた。
二人がラウラの風評を貶める目的で、嘘や誇張表現を多用したとは思わない。だが、自分と一緒にいるときは素直さと愛らしい仕草が印象的な彼女が、本当にそんな暴言を? とも思う。自分の知っているラウラと、陽子たちの語るラウラ。二つの人物像が頭の中で結びつかず、あまりのギャップに戸惑ってしまう。
ましてや、ラウラは現役の軍人だ。ISの持つ兵器としての側面、その危険性については重々承知しているはず。そんな彼女が、対戦競技としての枠をはみ出すような戦いを、自分から軽率に求めるなんてことがありえるだろうか。
鬼頭は娘たちの顔をじっと見つめた。
ドイツからやって来た少女の人物評を語る二人の態度からは、ラウラへの根深い悪感情の潜在が見て取れる。無意識の嫌悪感が認知の歪みを生み、その結果、彼女の言動を実際よりも悪質に言い表してしまった可能性は十分考えられた。
それとも、二人の言っていることは本当に何ら誇張のない事実であり、当時のラウラは、そんな大切なことが頭の中からすっぽり抜け落ちてしまうほど、異常な精神状態に囚われていたのか。もしくは、挑発の果てに待ち受けている対決は危険極まりないものになる、とはっきり認識した上で、それでも、求めずにはいられないほど、彼女にとって一夏や陽子と戦うのは重要なことなのか。そうだとしたら、その理由はいったい……?
「わたしたちの推理では、」
「うん」
「アリーナでちょっとだけ話した際の印象だけど、ボーデヴィッヒさんって、強さとか、頭の良さとか、そういう能力の高さにすごくこだわっているみたいなんだよね。なんて言うか、優秀な人には価値があって、何でも手に入れられるし、何でも与えられる。優秀さ、イコール、正義、みたいな。逆にそうじゃない人は、この世に存在することそれ自体が悪、って感じ。そんな、極端な価値観への信仰心みたいなのを感じたよ」
事件の後に一夏たちと話し合い、導き出した推論だ。陽子の言葉に、セシリアも頷く。
「ご自身の強さの証明に、こだわっている様子でした。織斑さんや陽子さんよりも、自分の方が強い、と。それを、誰の目にも明らかな形ではっきりさせたかったのでしょう」
「はっきりさせる、か。しかし、何のために?」
「おそらくですが、」
「うん」
「織斑先生や、お父様から愛されるためではないかと」
「愛?」
「はい」
「ボーデヴィッヒさん、愛される、って言葉にも、やたらこだわっていたんだよね。優秀な人間は愛されて然るべき、みたいに。無能なわたしは、父さんに愛される資格がない、みたいなことも言われたよ」
「自分が織斑さんや陽子さんよりも強いと証明することで、織斑先生やお父様からの愛を一身に集めることが出来る。そんなふうに考えているのではないかと」
「……なぜだろうな?」
陽子とセシリアは顔を見合わせた。鬼頭の口にした疑問が、何に対して向けられたものなのかわからなかったためだ。目線で訊ね合い、互いに明瞭な回答を持っていないことを確認し合うと、訝しげな眼差しを父に向ける。
「ええと、父さん、それって、どういう?」
「二人の言う通り、フラウ・ボーデヴィッヒがそういう価値観の持ち主なのは、間違いないだろう」
鬼頭自身、彼女と頻繁に行動をともにするようになったこの一週間のうちだけでも、思い当たる場面に何度も遭遇していた。強さに対する信仰と、その原動力たる愛されることへの渇望。娘たちが態度や発言から読み取った、ラウラの内面世界の有り様はおそらく正しい。
だからこそ疑問に思う。彼女がそんな考えを持つにいたった背景には、いったいどんな経験が。そして体験があったのか。
とくとく、と焼酎の瓶を傾けながら鬼頭は言う。
「強さというのは、ある種の魅力だ。魅力的な人間になれば愛されやすい、というのは、考え方の一つとして間違ってはいないが、フラウ・ボーデヴィッヒの場合は、それにばかり囚われすぎているように思うんだ」
強ければ千冬や鬼頭から愛してもらえる。
強さは、愛されるための絶対条件。
ラウラが現役の軍人で、軍隊という組織では強い者ほど慕われたり、尊敬されたりしやすい傾向があるだろうことを踏まえてなお、鬼頭にはその考え方は極端なものに思えた。強さや頭の良さだけが人間の魅力ではないし、そもそも、人から愛されたいというわりに、彼女は最も大切ことを軽視しているきらいが見受けられる。
「大切なこと?」
「お父様、それはいったい?」
「これは私も、今日、堂島先生に言われて気がついたんだが。フラウ・ボーデヴィッヒはね、人から愛されたいという願いに比して、自らが人を愛することについては、不思議と、関心が薄いんだよ。というより、人間が、人間を愛するという気持ちがどういうものなのか、あまり理解していない様子なんだ」
時系列を考えるに、第三アリーナから追い出された直後のことだろう。本土からの客人を見送る途中で遭遇したラウラと自分のやり取りを、堂島弁護士は『親子のようだ』と、評した。陽子と同じ年齢の娘で、鬼頭もラウラも、相手に親愛の気持ちを寄せ合っている。そんな二人の睦まじい姿を見て、親子のようだ、と。
このとき、ラウラは堂島弁護士から噛み砕いた説明を受けるまで、自身が鬼頭に親愛や、敬愛の気持ちを抱いている自覚がまったくない様子だった。自分は、鬼頭から愛されていると聞かされてあんなにも喜んでいたのに。自分が彼のことを愛しているとは、まったく気がついていなかった。
鬼頭からラウラとのやり取りを聞かされて、陽子とセシリアは絶句する。
「それって……」
「“愛”という言葉を軸にして考えたとき、フラウ・ボーデヴィッヒのあり方は、非常にいびつだ。彼女はね、愛するという心理のはたらきがどういうものなのか、ほとんど知らないにも拘わらず、人から愛されることを望んでいるんだよ」
まるで小さなおさなごのようだ、と鬼頭は胸の内で呟いた。赤ん坊や幼児は、自分一人の力では生きていくことが出来ない。生きるためには、両親や周りの大人たちから愛される――与えられる――ことが絶対の条件となる。それでいて、彼らには大人に向けて渡せるものがない。ほとんど一方的に与えられるだけの存在、愛されるだけの関係だ。
鬼頭は、それこそがラウラ・ボーデヴィッヒという人物の本質ではないかと考えた。子どものような容姿のラウラだが、精神面はそれ以上に幼いのかもしれない。現に、自分が接した限り、彼女からは陽子やセシリアに見られる年齢相応の情緒の発達ぶりが感じられない。
この考えが真だとすれば、次いで思い浮かぶのは、ラウラをそんなふうに育てあげた生育環境に対する疑念だ。とりわけ、彼女の人格形成に大きく影響しただろう、ドイツ空軍がどんな組織なのかが気になってしまう。
陽子らが一夏から聞いた話によれば、千冬がルフトヴァッフェで教鞭を執ることになったのは、三年前の第二回IS世界大会中に起きたとある事件がきっかけだったという。ラウラはそのときの教え子だというから、少なくとも、その頃にはすでに軍との強い関わりを持っていたということが推測出来る。当時のラウラは十二歳。思春期のこの時期の少女にとって、軍隊という特殊な環境が心の成長に強く影響しただろうことは想像にかたくない。
はたして、そこにはどんな世界があったのか。いまのラウラを見るに、あまり自分好みの環境ではなさそうだが。
酒の味を悪くする想像に険しい面持ちでいると、コンコン、と部屋の戸を外から叩く音が聞こえた。併せて、「あの、織斑ですけど、智之さんはいますか!?」と、一夏の声。鬼頭たちは自然と顔を見合わせた。声量といい、声に宿った気勢といい、なにやらただならぬ様子だが。
「ちょっと待っていてくれ」
鬼頭はグラスを置いて立ち上がると玄関の方へ向かった。扉のロックを解除し、ゆっくりと引き開ける。
もう夕方だというのに、いまだ制服姿の一夏が立っていた。鬼頭の顔を見るなり、安堵から相好を崩す。
「よかった。智之さん、帰ってきてたんですね。本当によかった。あのっ、ええと、なんというか、その……力を、貸してほしくて、ですね! いまから、俺たちの部屋に来てほしくって……!」
一夏の口調はたどたどしく、また言葉選びのセンスにも欠いていた。要領を得ぬ言ではあるが、それでも、何かを伝えたい。いや、なんとしても伝えなければ、という懸命な想いだけは汲み取れた。どんな言葉をどう組み合わせれば自分の考えを正確に伝えられるか。その考えがまとまらないうちに、しかし、伝えたい気持ちだけが急いてしまって、口の動きを自制出来ない。そんな印象を受ける。
「落ち着きなさい」
鬼頭は努めてゆっくりとした口調で言った。
「力を貸してほしい、とは?」
「シャルルのことで、ちょっと、助言をもらいたい事案が起こりまして」
「事案?」
「ええと、ここではちょっと、話しづらい内容で……」
一夏はあたりを素早く見回した。余人の耳目がないことを確認し、小声で言う。
「その、これから俺の部屋に、来てほしいんですけど」
それら一連の様子に、ピンとくるものがあった。シャルルに関わりのあることで、かつ、一夏のこの態度。事案とはおそらく――、
「織斑さん」
部屋の奥からセシリアがやって来た。どうやら鬼頭たちの様子が気になったらしい。かたわらに、急いで口元と指先の鶏脂を拭ったと思しい陽子が付き添っている。
思わぬ人物の登場に一夏は目を丸くした。1122号室は、鬼頭“親子”が暮らす部屋だ。陽子の存在は想定していたが、なぜ、この場にセシリアまで?
「オルコットさん、どうして、ここに?」
「お父様が知人の方からお土産をいただいたそうで。一緒に食べないかとお誘いを受けたのです。それより、織斑さん」
セシリアは鬼頭の隣に立つと、一夏のことを真っ直ぐに見据えた。
「事案、というのは、デュノアさんのお体に関わることではありませんか?」
「なっ!?」
こちらも第三者の存在を警戒した、具体性に欠ける言い回しだった。しかし、一夏にはそれで十分だった。驚きから瞠目する彼に、父と娘は揃って、「やはり」と、得心した様子で呟く。互いの声に反応し合った二人は見つめ合い、それから、自然と苦笑し合った。
「なんだ、セシリアもシャルル君のことに気がついていたのか?」
「お父様こそ」
「ううん。シャルル君には悪いが、あの着こなしではね」
鬼頭はシャルルの男性らしからぬ体つきを思い出しながら呟いた。
「私の目には、どうぞ見破ってください、と言っているようにさえ思えたよ」
「お父様は、見た目で気づいたのですね。さすがですわ」
「と言うと、セシリア、きみは?」
「私の方は、デュノアさんと日々接する中で、自然と違和感が積み重なって、という感じです」
同じ専用機持ちの代表候補生という共通項から、自分は他の生徒たちよりもシャルルと接する機会が多かった。そのために、気がついたことだ。
「デュノアさんの私たちへの接し方――女生徒の扱い方――は、あまりにも理想的すぎました。何をすれば私たちが嬉しいと感じ、何をしてしまうと不快に思うのか。それを当たり前のことと理解し、行動しているように見受けられました」
それゆえに、彼の行動や態度には違和感がつきまとった。この年齢の男性が、こうも女性の扱いに慣れているなんてことが、ありえるだろうか。相手は気難しさという点で悪名高い、思春期の少女だというのに。
「同じ女性でもなければ、こんなスマートな接し方はありえない、と思いました。一度そう思ってしまうと、彼のことを見る目が変わりました。デュノアさんのありとあらゆる行動が、疑わしく思えてしまうようになったのです。そうして観察しているうちに、おそらくこの人は、と確信するにいたりました」
「ははあ。なるほどなあ」
「気になるのは、なぜそんな恰好をしているのか、という理由ですが」
セシリアは、ちら、と一夏の顔色をうかがい見た。
実のところ、彼女はシャルル・デュノアが男装をした上でIS学園にやって来た目的、転じてその正体について、おおよそ見当がついていた。すなわち、同性の乏しい環境で心細い思いをしているだろう男性操縦者たちに近づき、専用機の情報収集や、仏国への勧誘を命じられた産業あるいは軍事スパイだ。
一夏がシャルルの身の上について、どこまでの情報を得ているかはわからない。
しかし、つい先日までISや、それにまつわる国際政治のダーティな側面とはほとんど関わりのない人生を送っていた彼の前で、それを直接的に表わすのは憚られた。どんな言葉を口にするべきか、慎重に、選びながら言う。
「……どのような理由であれ、何か複雑な事情があってのことなのは確実でしょう。迂闊な指摘は、相手を不快な思いにさせてしまうかもしれないと考えて、あえて口にはしませんでしたが」
加えて、お互いの立場の背後に立つ、イギリス政府とフランス政府の関係性の問題もある。代表候補生の自分がシャルルの抱える秘密について指摘してしまうと、外交上の係争問題に発展してしまう可能性が懸念された。
自分が鬼頭親子を相手に問題を起こしたのはつい先月のことだ。鬼頭によるイギリス政府へのはたらきかけのおかげで、かろうじて代表候補生の立場と専用機を取り上げられずにすんだが、その記憶も鮮明なうちに、自分からまた新たな問題を起こすのは避けたかった。
いまや状況は大きく変わろうとしている。他ならぬ一夏の方から、助けを求めているのだ。
鬼頭のことで男性操縦者たちに恩を売りたいと考えているイギリス政府にとって、このタイミングでの自分の介入は歓迎すべき事態のはず。勇気を振り絞り、セシリアは言った。
「お父様、もしも織斑さんの部屋に行かれるのでしたら、私もご一緒させてくれませんか? 勿論、織斑さんがよろしければ、ですが」
「セシリア?」
「私はイギリスの代表候補生ですから。私の存在自体が、ある種の牽制として機能するはずです」
「ああ……」
鬼頭は得心した様子で頷いた。シャルルたちが転校してきた初日に、千冬や真耶と交わした会話の内容を思い出す。彼女たちは、シャルルが自身の正体の露見をあえて利用する形で、ハニー・トラップの類いを仕掛けてくるかもしれない、と懸念していた。
セシリアも二人と同じことを考えたか。たしかに、シャルル・デュノアという人物の本当の為人が分かっていない現状、彼女と二人きり、あるいは一夏も含めた三人だけで、同じ空間に長時間いるのは、好ましい状況とはいえない。鬼頭は彼女の心遣いに完爾と微笑んだ。
「そうだね。ぜひ、一緒にいてくれ」
鬼頭はついで一夏を見た。
「そういうわけだ。彼女も連れて行って、構わないかい?」
「え? ええと……ううん……」
「お願いしますわ、織斑さん」
セシリアは一夏を上目遣いに見上げた。美人からの懇願の眼差しに、少年の心臓が、どき、と高鳴る。頬を紅潮させていく姿に、存外初心なのだな、と意外に思いながら、セシリアは追い撃ちの言葉を投じた。
「デュノアさんと同じ女の私だからこそ、お手伝い出来ることがあるかもしれません」
「……わかった」
一夏は諦念から小さく溜め息をつくと頷いた。
「俺からも頼むよ。俺の……いや、シャルルの力になってくれ」
「ところで、陽子さんはどうします?」
「仲間はずれ禁止~。わたしも当然ついていくよ。ってか、一人きりにされても……」
陽子は、テーブルの上の手羽先の山を、ちら、と見た。
「あの量を片付けるのは、さすがに無理」
「まあ、そうでしょうね」
「というわけで、父さんたちにくっついていきます。……事情は、よくわからないけど」
「あ、分かってなかったんですか」
「……陽子」
「うん? なに?」
「織斑君の部屋に到着した後、驚くんじゃないぞ?」
「んう?」
インフィニット・ストラトス二次創作
「この小さな世界で愛を語ろう」
Chapter41「嘘」
鬼頭たち三人を連れて一夏が自室へ戻ると、IS学園制定のスポーツジャージを着たシャルルが玄関までやって来て、一同を出迎えた。
「お帰り、一夏。……ムッシュ・トモユキも、こんばんは、です」
「ああ、こんばんは」
鬼頭の視線は自然と彼の胸元へ吸い寄せられた。ジャージの生地越しにもはっきりと見て取れる、やわかそうな膨らみの存在感。転校初日から彼女の実体に気づいていた鬼頭だ。女性らしさの象徴を目の当たりにして、今更驚きはしない。それでも、こうやってまざまざと見せつけられると、なかなか複雑な気持ちにさせられる。自分の娘と同い年の少女が、こんな……。
「お父様、女性の胸元をいつまでも凝視しているのは失礼ですわよ」
「む。ああ、すまないね」
かたわらに立つセシリアから、じと、と睨まれ、鬼頭は慌てて謝罪した。彼女も、三人目の男の本当の性別について事前の不審があったために、この姿を見ても衝撃を受けた様子はない。
問題は陽子だった。彼女はシャルルの頭のてっぺんから足のつま先まで、しげしげと無遠慮に眺めた後、顎がはずれんばかりに驚いてみせた。
「うぇえええぇぇぇッ!?」
「陽子、もうじき夜中だ。ご近所の迷惑になるから、大声は控えなさい」
「いや、あの、だって、父さん……え? え? うええ!?」
シャルルの正体が女だとは想像さえしていなかった彼女は、目の前の少女の顔と胸の膨らみを何度も交互に見つめ、ひくひく、と頬肉を震わせた。予想外の光景に混乱し、思考がまとまらず、結果、上手く言葉を操れない。ぱくぱく、と金魚のように唇の開閉を繰り返すも、その喉が意味ある音を絞り出すことはなかった。
動揺する陽子をなだめすかしてひとまず落ち着かせ、彼らは一夏たちの部屋に入室した。来客用の椅子を用意していないために、ベッドに腰かけたシャルルを中心に、取り囲むようにみなが立つ。陽子も含めた全員が落ち着いたのを見て、一夏は寝台の少女を促した。
「まずはみんなに状況を把握してもらおう。シャルル、辛いかもしれないけど、さっき、俺に話してくれたことを、みんなにも聞かせてあげてくれ」
シャルルは頷くと、やけに淡白な口調で、自らのこと、さらには、デュノアという会社のことを話し始めた。というのも、彼女が男性操縦者としてIS学園にやって来たのは、会社からの指示を受けてのことだったからだ。
シャルルの独白は、自らの出生の秘密をつまびらかにするところから始まった。
彼女は、デュノア社の現社長アルベール・デュノアと、その不倫相手との間に生まれた子どもだという。
もっとも、シャルル自身がその事実を知ったのは、つい最近――ほんの二年前――のことだ。
従前、シャルルは赤ん坊のときからずっと、母親と二人きりの生活を送ってきた。
彼女の母親は、娘を産んだ後もアルベールとは一緒になれなかった。父は妊娠を契機に愛人への関心を急速に失っていったらしく、親子から距離をとった。養育費の支払いなど、事務手続きの都合上必要なときにのみ母と会っていたらしいが、シャルルへの接触はまったくの皆無。電話も手紙も、何一つよこしてはくれなかったという。
そんな父親について、母は多くのことを語ってくれなかった。どんな人物で、どのように出会い、どうやって結ばれたのか。そういった思い出は勿論、名前や、何の仕事に従事しているのかさえ教えてくれない。幼少の頃、シャルルが父親について訊ねると、母は大抵の場合、困った様子で曖昧に微笑んで、言を左右に質問をはぐらかそうとした。そんなことが何回も続くうち、やがてシャルルは、『父のことは触れてはいけない話題なのだ。この話題に触れるのは、母を困らせることになる』と学習した。以来、彼女の方から父親のことを能動的に知ろうとする意欲は失われた。
転機となったのは、母親の死だった。
シャルルの母親は四十代の若さで重い病に罹り、治療の甲斐なく亡くなった。彼女を見送ったばかりで意気消沈していたこの頃、ジェイムズという老紳士が自分のもとを訪ねてきた。彼は自らをあなたの父親の部下だと名乗り、父のこと、父の家、父の経営する会社のことなどを伝えた。自分が世界有数のIS企業の社長のひとり娘だと知らされたシャルルは当然驚き、デュノア家は、その心の間隙を巧みに衝いてきた。あれよという間にデュノアの屋敷に連れて行かれ、そこで、生まれて初めて自分の父親と対面した。
アルベール・デュノアは、紫水晶の瞳に険しい輝きを宿しながらシャルルを見つめた。立派な顎髭をたくわえた口元がゆっくりと開き、彼は、彼女の身を引き取りたい旨を口にした。
いまや世界的企業にまで成長したデュノア社の社長に、不義密通の末にできた隠し子がいる。こんなスキャンダルの芽を放置するわけにはいかぬ。いまのうちに、その身柄を確保しておかねば。アルベールはシャルルに、これまで以上の資金援助と住居を提供する見返りに、自分の目の届く範囲にいるよう求めた。母親の死によってひとりぼっちの孤独を抱えていたシャルルは、その申し出を力なく受け入れた。
かくして、シャルルは父アルベールと一緒に暮らすこととなった。といっても、親子が普段顔を合わせることはない。父とその妻が暮らすデュノアの屋敷は巨大で、敷地内には本邸の他に別邸を構えていた。シャルルはアルベールから、そ別邸での生活を命じられた。
父は本妻との間に、子どもを得ることが出来ずにいた。不倫相手との間にできた子どもの顔なんて極力見たくないし、妻に見せるわけにもいかない。アルベールははっきりとそう言い放ち、シャルルを自分のそばから遠ざけた。
その意味では、アルベールにとってシャルルが高いIS適性の持ち主だったことは、好ましい事態ではなかっただろう。父に引き取られた際、彼女はデュノア社の保有する研究所で各種の検査を受けた。そのうちのひとつ、IS操縦者としての適性を調べるテストで、著しく秀でた数値を叩き出してしまった。
研究所の所長は興奮した様子でアルベールに電話をかけた。シャルルのIS適性は素晴らしい。彼女をテスト・パイロットとして採用し、その才能を鍛え上げることが出来れば、わが社のIS開発は、二年の加速を得られるだろう。所長の絶賛に、アルベールは渋い顔をしながら、テスト・パイロットの養成計画にゴー・サインを出した。当時の彼女は十四歳。さすがに若すぎるとして、広報活動への参加は一切ない、非公式な人事だったが。
「僕がテスト・パイロットに就任してから、少し経った頃のことです。デュノア社は経営危機に陥りました」
シャルルは、英国代表候補生のセシリアの顔を、ちら、と見てから、しかし、飾らぬ言葉でデュノア社を襲った問題について語った。
直接の原因は、第三世代機の開発の遅れだという。IS開発のトレンドが特殊兵装を搭載した第三世代機へシフトした昨今、デュノア社も当然この波に乗らねばと努めていたが、その進捗は、他国の企業や研究機関と比べて芳しくなかった。
その高性能ぶりから忘れられがちだが、傑作機『ラファール・リヴァイブ』は第二世代最後発の機体だ。それも、遅れに遅れた末の完成であり、その開発・運用データを基底とする次世代機開発計画は、スタート・ダッシュの時点で他と比べて大きな差をつけられていた。データも、時間も。新型機の開発に必要な何もかもが、圧倒的に不足していたのである。
そんな苦戦中のデュノア社に、さらなる追い撃ちを加えたのがフランス政府だった。
ISの研究開発にはカネがかかる。デュノア社ほどの大企業であっても、そのすべてを自分たちの懐から捻出するのは難しい。民間からの投資を募るのは勿論、政府からの補助金が不可欠だ。その支援予算の大幅カットを、フランス政府は通告した。
欧州連合の加盟国たちが、『第三次イグニッション・プラン』のトライアル機の完成を声高に発表するそのかたわらで、独自路線に舵を取る自分たちだけが沈黙せざるをえない。この状況に焦れた仏国政府は、デュノア社への信頼を急速に失っていった。
フランス政府からの仕打ちはそれだけに留まらなかった。今年に入って早々の時期に、年内にある程度の成果を呈示出来ないときは、IS開発のライセンスの剥奪を通達してきたのだ。この知らせに、デュノア社の上層部は大騒ぎ。社内の混乱を避けるため、情報は一定以上の役職者の間でのみ共有されたという。
織斑一夏発見の報が世界中を駆け巡ったのは、そんなときのことだった。
初めて発見された、IS適性を持つ男性。アラスカ条約の条文に従って日々発信される彼の情報に、デュノア社の幹部たちは強い関心を寄せた。やがて、一夏の身柄はIS学園が預かることになった旨の情報が公開され、アルベール・デュノアはここに、活路を見出した。すなわち――、
「四月を迎えたばかりの頃です。僕はあの人から本邸に呼ばれて、そこで男の子のふりをしてIS学園へ編入するように命令されたんです」
実の父親を他人のように表わして、シャルルは言った。
「男装をすることの目的は二つです。一つは、会社の広告塔として機能すること。一夏の存在が明らかになったときは、世界中が大騒ぎになりました。男性操縦者の存在は、それだけ世間に対する影響力が強い。その影響力を利用して、融資を募る。補助金の削減分を、そうやって補うためだと、あの人から説明を受けました」
「なるほど」
鬼頭は険しい面持ちで頷いた。
数少ない男性操縦者とパートナー・シップを結んでいる企業。たしかに、出資者たちへの受けが良さそうなキャッチ・フレーズだ。他の企業よりも、男性操縦者のデータを採る機会が多いことを想像させる。それは転じて、男性操縦者たちがISを動かすことの出来るメカニズムの解明に。さらに発展して、他の男でもISを動かせるようになるかもしれない未来への期待を煽り立ててくれる。シャルルを男性操縦者として広告塔に起用することは、正体露見時のリスクという点に目をつぶれば、一定の効果があるように思われた。
「もう一つの目的は、他の男性操縦者たちからのデータ収集です。同じ男性操縦者であれば彼らに近づきやすいだろうからと。特に、」
シャルルは一夏を見た。
「一夏の『白式』は第三世代機です。重点的に情報収集をするよう命令されました」
第三世代機の開発が難航しているデュノア社だ。『白式』の稼働データは喉から手の出る情報だろう。
かくして、二つの密命を胸中に秘めながら、シャルルは来日した。
アルベールの目論見通り、一夏の同性に対するガードは甘かった。
自分の他は若い女性ばかり。IS学園の環境を少なからずストレスに感じていた一番目の男は、“同じ”男性操縦者の存在にあっさりと懐を開いた。まだ学園に馴染んでいないだろうからと積極的に声をかけ、行動をともにするようにした。そしてそれは、“彼女”が秘密の仕事を遂行する上で非常に都合がよかった。シャルルは自分に向けられる笑顔に後ろめたさを覚えながらも、首尾よく任務をこなしていった。
しかし、それも今日までだった。一つ一つはたいしたことのない、ちょっとした不幸が偶然に、だがいくつも重なった結果、シャルルの正体は知られてしまった。
もっとも、正体が露見したことに対するショックはあまりなかったという。もしかすると自分は、心のどこかでこうなることを望んでいたのかもしれない、とシャルルは語った。
「一夏は僕に優しかった。ううん。一夏だけじゃなくて、箒も、セシリアも、陽子も、みんな転校生の僕に気を遣ってくれて。けど、そのせいでかえって僕が萎縮していまわないように、って、適度に肩の力を抜いた態度で接してくれた。みんなのそばは、とても居心地の良い場所でした。
……そんなみんなを、僕は騙している。僕に優しくしてくれるみんなの気持ちを、僕は裏切っている。それを思う度に、胸が苦しくなりました」
秘密の露見はシャルルにとって苦しみから解放された瞬間でもあった。
実は女性であると知られたことで、むしろ安堵の気持ちを覚える彼女に、一夏は当然、どうしてこんなことを、と男装の理由を訊ねた。第三の男は、鬼頭たちに聞かせたのと同じ内容を語って聞かせた。
「状況は大体わかったよ」
鬼頭は目線を一夏にやった。
「それで、私の力を借りたいというのは、どういうことだい?」
鬼頭の語調は優しかったが、少年に向ける眼差しは鋭かった。切れ長の双眸が、厳かな目つきを形作る。
「シャルルがデュノア社からの命令なんて聞かなくてもすむよう、知恵をお借りしたいんです」
一夏は短い深呼吸の後、ゆっくりと話し始めた。
「シャルルから聞いたんです。俺に正体がばれたことで、これからこいつに、何が起こるのか」
シャルルの正体が露見した場合、まず、デュノア社の前に三つの敵が立ち塞がることになると予想された。
一つ目はIS学園だ。性別を偽っての転入と、学園内でのスパイ活動。どちらも学園に対する裏切りであり、敵対的行動だ。ことが明るみになれば、学園は彼女を送り込んだデュノア社に対し、厳しい態度をとるだろう。最悪の場合、賠償金の請求に加えて、『同社の製品は今後数年間IS学園での採用・研究を禁止する』などの、重たいペナルティを突きつけかねない。
IS学園は世界最高にして最先端のIS研究機関だ。ここで研究資料として扱われない、ということは、将来への技術的発展性やその価値がない、と、学園から断じられたに等しい。裏事情を知らぬ国からは発注が減るだろうし、真相を知っている国からも、『あの会社は学園を敵に回した。あの会社の製品を使い続ければ、我々も学園の敵と見られかねない』として、制式採用を渋られることになるのは必至。デュノア社にとって、非常に痛いダメージのはずだ。
次に、日本を含む世界の各国。IS学園に敵対するということは、学園の建設とその運営方針を決定した『アラスカ条約』に批准した国そのすべてを敵に回すということでもある。とりわけ、学園に留学生を送り込んでいる国は、烈火の如く怒るに違いない。諜報活動の対象は男性操縦者だけではなかったかもしれない。もしかしたら自分たちのところの技術もひそかに盗まれたかもしれない! 実際にどうだったかはともかく、損害賠償を求める訴状が何十通と、デュノア社の郵便受けを賑やかにしてくれることが予想された。
そしてなにより、最大の敵としてフランス政府の存在が挙げられる。この場合、攻撃されるのはデュノア社だけにとどまるまい。デュノア社を監督すべき立場にあるフランス国、フランス政府に対しても、学園や各国政府から非難の声が浴びせられることとなる。そして、その声が苛烈なほどフランス政府は激怒し、その怒りはデュノア社にぶつけられる。仏国政府は、政府の権限が及ぶありとあらゆる手段を駆使して、デュノア社を潰そうとするだろう。
こうなってしまえば、デュノア社に待っているのは破滅の未来だけだ。世界中に敵を作ってしまったがために、会社の体力は大きく削がれることになる。社員の大量流出。先行きについて不安を抱いた投資家たちは我先にと株を売り払い、金融機関は融資の打ち切り・回収にと動き始める。必然、資金繰りが悪化し、この事態を招いたのはいったい誰なのかと、現経営陣を糾弾する声が其処彼処であがるだろう。その結果は、良くて経営陣の総入れ替え。悪い場合で他社への身売り。最悪の場合は倒産だ。いずれの場合にせよ、“いま”のデュノア社は、地上から消えることになる。
スパイ本人への処罰は、もっと凄絶なものとなろう。
スパイ防止法が存在しない日本は例外だが、国際的には、スパイ行為が発覚した場合はスパイ罪という特に重い罪が適用されるのが一般的だ。多くの国では、スパイ罪の最高刑はその国の極刑が適用される。たとえばフランスの場合、刑法七二条および七三条に、無期懲役と定められている。
学園内での行為を誰が裁くのかは、現時点では判然としない。男性操縦者と嘘をつかれたIS学園か。スパイの直接の被害者である一夏の実質的な後ろ盾である日本国か。デュノア社の暴走によって面子を潰されたフランスも、自分たちの国の法で裁かせろと主張してくるだろう。
最悪なのが、我々も被害に遭ったと主張する国の意見が通ってしまった場合だ。中国やロシアの法律で裁かれる、なんてことになれば、シャルルは死刑を宣告されかねない。
「俺は、正直に言って、デュノア社のことはどうでもいいです。そりゃあ、本当に倒産とかなったら、何も知らない末端の社員とか、下請けの会社とかは、可哀相だな、と思いますけど……。俺はそれよりも、シャルルのことが心配なんです。こいつ、このままだとスパイ行為の罪を問われることになる!
シャルルが男装をしてまでIS学園にやって来たのは、親にそうしろって言われたからだ。そこに、シャルルの意思はなかった。シャルルには、自由がなかった! シャルルには、拒む権利さえ、許されていなかったんだ! それなのにシャルルが裁かれるなんて、そんなの、間違っている! ……間違ってますよ」
そこまで言ってから、一夏は、はっ、として自分を見るみなの顔を見た。
話しているうちに感情の昂ぶりが抑えられず、つい大声が出てしまった。驚いた様子の陽子に、「あ、鬼頭さん、ごめん」と、小さな声で呟いて謝ると、彼は二度、深呼吸をして、改めて平静な語調を心がけながら続けた。
「それに、シャルルは良いやつです。素人の俺にわかりやすい言葉で、ISのことを色々教えてくれましたし……」
ぼふ、とシャルルの隣に腰かけ、一夏は彼女を見た。シャルルも彼の方へ目線をやり、二人は互いに熱い視線を交わし合う。
「さっき、シャルルは、俺たちのそばは居心地が良かった、って、言ってくれたけど、それは俺も同じだ。同じ境遇の男子が転校してきてくれて。しかもそれが、友達になってくれた。俺、すごく嬉しかったんです。こいつのそばでは、気を遣わなくてもいい。男としての自分を、遠慮しなくたっていいんだ、って。嬉しかったし、ずいぶん、楽な気持ちにさせてもらいました。
勿論、実は女だったとか、騙されていたことについて、思うところがまったくないと言えば、嘘になります。でも、そのときの気持ちは、本当のことだから。だから、助けたいと思ったんです。シャルルの力になってやりたい。シャルルを、父親の支配から自由にしてやりたい。シャルルが、なんとか罪に問われずにすむ方法を探さないと、って」
一夏がまず思い浮かべたのは、IS学園の特記事項の一つだった。学園に入学した最初の日に、自分たちを守るルールだからしっかり覚えておくように、と千冬から言われたことを思い出した。
「『IS学園特記事項第二一、本学園における生徒はその在学中において、ありとあらゆる国家・組織・団体に帰属しない。本人の同意がない場合、それらの外的介入は原則として許可されないものとする』。はじめは、これが使えると思いました。この特記事項を“盾”にすれば、少なくとも在学中の三年間は誰もシャルルに手出し出来ない。それだけ時間があれば、なんとかなる方法だって見つけられるはずだ。正体云々については、当面は俺が黙っていればいいことだし……。そう考えて、シャルルにも学園に残るよう言ったんです。……けど、」
すぐに、思い直した。右腕に嵌めたガントレット……待機状態の『白式』の姿を見て、はたと気がついた。
「外的介入を許可しないとか、これって所詮、建前だな、って気がついたんです。実際、『白式』は日本政府のはたらきかけで、俺のもとに来たって話ですし。『帰属しない』って部分についても、鬼頭さんはアローズ製作所の社員だし、シャルルもデュノア社の専属パイロットとして籍を持っている。特記事項はあくまでも“原則”で、例外はいくつもある。そう考え出したら、特記事項を過信することは出来ない、って思いました」
シャルルを無理矢理に退学させる、という手段もある。フランス政府が本気でなりふり構わず介入すれば、生徒一人の学籍くらいどうとでも出来てしまうだろう。
特記事項の対象は、あくまで学園の生徒のみ。学園の生徒でなくなれば、当然、適用はされない。
「シャルルに残された時間は、三年もないかもしれない。三年もあれば、じゃなく、いますぐにでも、シャルルを守る方法を思いつかなきゃやばい。そう思ったんです」
シャルルがスパイとして裁かれないためには、どうすればよいか。
最初、一夏が下した結論はシンプルだった。
彼女が男装をして身分を偽ったり、スパイとしてはたらいたりしなくてもよい状況を作り出す。すなわち、デュノア社との関わりを断たせる。
シャルルのスパイ行為は、会社からの指示によるもの。ということは、デュノア社――ひいてはアルベール・デュノア――との関係を断つことが出来れば、彼女はそんな命令を守る必要がなくなる。罪として裁かれる原因がなくなるわけだ。
仮にいま時点までの行為を罪に問われたところで、最高刑までは適用されまい。デュノア社との関係を断った時点で、シャルルは嫌々やらされていたことが証明出来るからだ。男の恰好をすることも、友達を騙すことも、本当は嫌だった。嫌だったが、命令され、仕方なく非合法な諜報活動に手を染めた。そこに、彼女の自由意志はなかった。アルベールとの親子関係、力関係を踏まえれば、断ることは難しかった。けれど、やはり良心が勝った。彼女は己の行為を悔い、反省し、こんなことはいけないと、デュノア社との関係を断つことを決意した。こんなシナリオを成り立たせることが出来る。少なくとも、情状酌量の余地ありと判断してもらえるだろう。
我ながら名案を思いついたとほそくえんだ一夏は、しかしまたすぐに思い直した。気づいてしまったのだ。デュノア社との関係を断ち切るということは、シャルルにとって、メリットばかりではないのではないか。むしろ、デメリットの方が多いんじゃ……?
すでに実母を失っているシャルルは現在、アルベール・デュノアの庇護下にある。デュノア社の専属テスト・パイロットという役職も得ている。もし、これらがなくなってしまえば、後に残るのは、あらゆる寄る辺を失った一人の孤独な少女だ。専用機持ちという立場も失うことになるだろうし、当然、IS学園にもいられなくなる。フランスに帰ったところでデュノアの家にはいられないから、新しい居場所を、それも自分一人の力で見つけていかなければならない。家だけでなく、職も探す必要が生じよう。
自分と同じ十五、六歳の少女に、そんな過酷な人生を歩ませてよいのか?
一夏は、むむむ、と眉間に皺を寄せた。
――単に絶縁させるんじゃ駄目だ。デュノア社との最低限の関係は維持しつつ、シャルルがスパイなんてやらなくてもすむ方法を考えないと!
そうして下した最終的な結論は、アルベール・デュノアやデュノア社に、シャルルへの命令を撤回させることだった。これなら、会社との付き合いは必要最低限に留めつつ、犯罪行為に手を染めなくてもすむ。シャルルが罪に問われることもなくなるだろう。
問題は、そのための手段だが。
一夏は、がくり、と肩を落とした。悔しげに声を絞り出す。
「……俺の頭じゃ、上手い方法が思いつかなかった」
ある命令に対する撤回や、打ち消しの指示を喚起させるには、命令の論拠を潰すのが最善策だろう。問題Aへの解決策として、命令Bを発令した。その問題Aが、別方向からのアプローチによって解消されたため、Bという指示を続行する理由がなくなった。こういう形に持っていけるのが、一夏の考える理想形だ。
しかし、今回のケースでは、原因そのものを取り除くのはまず不可能と考えられた。
先述の通り、デュノア社の次世代機開発計画はそのスタートからして大きく出遅れている。シャルルの言によれば、開発に必要とされる何もかもが足りていないという。
そんな状況のデュノア社で、明日にでも技術的なブレイクスルーが起こって事態が好転する、なんて都合の良い未来はありえない。技術者でもない自分がはたらきかけたところで、得られるものはないだろう。
とすれば、弁舌でもってデュノア社の上層部を説得するしかないが、一夏には、それこそ第三世代機の開発に匹敵する難業に思えた。経営難に喘ぐ大企業の重役たちが、追いつめられた末に考案した、起死回生の奇策である。これを改心させるには、よほど画期的なアイディアが必要だろう。
悔しいことに、自分は所詮、十五歳の子どもだ。世間を知らない。会社組織の実際や、経営のことがよく分からない。自分の何倍も経験豊富な大人たちが何を思いながら、十五歳の少女に男の恰好をしてスパイ活動をせよ、なんて命令を下したのか、その胸の内をまったく想像することができない。そんな自分ごときの発想では、大人たちの翻心を促すことは難しいだろう。
誰かの手助けがいる。
切に、そう思った。
そしてそれは、子どもの自分とはまったく違う視座から状況を分析し、考えることの出来る人物。これから自分たちが戦うことになる相手と同じ、大人であるべきだ、とも。
その考えに至った瞬間、一夏は自然と、二つの顔を思い浮かべた。
一人は千冬だ。一夏の姉であり、最も身近な大人の女性。しかし、彼女にはIS学園の教師という立場がある。シャルルか、IS学園の他の生徒たちの安全を取るか、という選択を迫られる状況に陥ったときのことを考えると、安易な声がけは憚られた。
そうして次に思い浮かべたのが、鬼頭の顔だった。
「勿論、智之さんなら巻き込んでもいいや、なんて、考えたわけじゃないぜ」
陽子からの剣呑な視線を頬に感じた一夏は、少し慌てた様子でかぶりを振った。
「ただ、今回のシャルルの件では、千冬姉よりも、智之さんを頼った方がたぶん良いだろう、って、色々考えた上で、そう思ったんだよ」
第一に、企業の所属の会社員であること。デュノア社という大企業を相手取る上で、同じような業態の会社に勤めている経験は、大きな武器となってくれるはずだ。第二に、技術者ならではの助言が得られるかもしれないことを期待して。デュノア社が苦境に立たされているそもそもの原因……第三世代機の開発にまつわる技術的な課題を、彼ならば解決してくれるかもしれない。
そして第三に、なによりも、確信があった。教職の立場ゆえ、千冬を頼ろうか考えたときには得られなかった、絶対的な安心感。この人ならば。この人ならばきっと、事情を話せば自分たちに味方してくれる。この人なら絶対に、シャルルのことを見捨てない。そんな確信を、鬼頭からは得ることが出来た。
だから、安心して彼の部屋を訪ねることが出来た。
何の不安もなく、躊躇も覚えずに、ここまで内容を彼に話すことが出来た。
「頼りに思ってくれるのは嬉しいがね……」
鬼頭は眉間に深々とクレヴァスを刻みながら言った。
「少し、しゃべりすぎじゃないかい?」
少年の軽挙を咎める目的で、ほんのり語気を強めた。
鬼頭の切れ長の目に、一夏の行動は軽率に映じていた。自分の協力が得られる確実な保証がないうちから、赤裸々に話しすぎだと思う。面倒事に巻き込まれるのはごめんだと、こちらが協力を拒む可能性は容易に考えられたはずだし、むしろシャルルの秘密を知ったことで、自分が悪巧みを思いつく方のリスクだってある。みんなにお前の正体をばらされたくなかったら俺の言うことを聞け、などと脅迫してくる未来を、まったく想像しなかったのだとしたら問題だ。
それを伝えると、一夏ははじめ、きょとんとして目を丸くし、すぐに破顔した。
「そこは、心配しなかったです。……ああ、いや、心配しなかった、っていうのは、シャルルの秘密を誰かに話すことのリスクを考えなかった、ってわけじゃなくて」
渋面を作った鬼頭に、一夏は慌てて言った。
「相手が智之さんなら、心配するだけ、無駄だな、って思ったんですよ」
「うん?」
「子どもを守るのは、大人の義務」
シャルルの耳目があるこの場では、あのクラス対抗戦で起こった出来事の仔細を語ることは出来ない。
端的に、あのとき、あの場所で、鬼頭が語ってくれた言葉だけを口にした一夏は、完爾と微笑んだ。
「あの状況で、当たり前のように、俺たちにこの言葉をかけてくれた人です。シャルルの事情を知って、見捨てるとか、ありえないでしょう?」
「……感心しないなあ」
確信を篭めて訊ねると、鬼頭は呆れた口調で呟いた。
「人からの善意を前提にした算段は、多くの場合、ろくな結果にならないものだよ」
鬼頭はシャルルに目線を転じた。
「周りのみんなは男性操縦者だなんだと持ち上げてくれるが、私は究極、一介の技術屋にすぎない。そんな私が、きみに、何をしてあげられるかは分からないが……。これからのことを考えるために、少し、おじさんとお話をしようか」
鬼頭は一夏の許可を得た上で、彼のベッドに腰かけた。隣の寝台に座るシャルルと、向かい合う形で座る。
フランスからやって来た少女の顔を改めて見た鬼頭は、一瞬だけ頬の筋肉を硬化させた。血の気が失せて、青白い。まるで熱病に罹患して何日も寝込んでいる傷病者のようだ。
彼女の胸中を思えば無理からぬことだろう。自分の正体を、知られてしまった。自分はこれから、どうなってしまうのか。心労が体調にも影響を及ぼしているのは明らかだった。
これ以上彼女の心に重荷を背負わせてはならない。
鬼頭はゆっくりと、言葉を選びながら口を開いた。
「まずは、いくつか確認させてほしい」
シャルルが小さく頷いたのを見て、鬼頭は続けた。
「きみのことは、何と呼べば? シャルルというのは、男の子の恰好をしているときの名前だろう? 出来れば、きみの本当の名前を教えてほしい」
「そう言えば、俺も聞いていなかったな」
シャルルの隣に座る一夏が呟いた。彼女を元気づけるためだろうか、ボディ・タッチこそしていないが、ぴたり、とくっつき寄り添っている。箒や鈴には見せられない光景だな、と場違いな思考に内心苦笑した。
「ええと、僕の名前は、」
「うん」
「僕の、本当の名前は、シャルロットと言います。お母さんが、つけてくれた名前です」
シャルロットCharlotte。シャルルCharle という男性名に対応する女性名だ。どうやらデュノア社の重役たちは、男装スパイをIS学園へ送り込むにあたって、名付けにはあまりこだわらなかったらしい。
――それにしてもシャルロットとは……!
鬼頭は口の中で苦しげに呟いた。いまは亡き彼女の母親が、シャルロットという名前にどんな想いを篭めたのかを考えると、男装を強要した者たちへの憤りを禁じえない。
近代以前、欧米圏では、女性名は男性名の語尾を変える形で作られることが多かった。シャルロットもまたその一つで、先にシャルルがあった。シャルルはシャルルマーニュCharlemagne を由来とし、これはドイツ語のカールKarl に由来を持つ。カールには自由農民という意味の他に、“男”という意味がある。すなわち、シャルルに対応するシャルロットの意味もまた、“女”。男装スパイの名前としては、皮肉が効きすぎている。
シャルロットが、いまのこの状況を予想していたかのような自身の名前をどう思っているのかはわからない。なるべくなら刺激しない方がいい、と判断した鬼頭は、名前についての感想を一切排して言う。
「なるほど。では、シャルロットさん、と呼んでもいいかい?」
「はい。あ、でも、他のみんながいるところでは」
「安心してくれ」
鬼頭は室内をぐるりと見回した。
「いまこの部屋にいる、みんながいるとき以外には口にしないさ」
安堵から胸を撫で下ろすシャルロットに、鬼頭は重ねて訊ねる。
「次に確認したいんだが、きみ自身は、どうしたい? あるいは、どうなりたいと、思っているんだい?」
このまま学園にいればよい、とか。スパイ命令を撤回させる、などは、あくまで一夏の考えだ。それも、シャルロットの身を守るための手段として、色々な提案を口にしているにすぎない。これらの意見に対し、彼女自身はどう考えているのか。本当に求めているのは何か。
はたして、シャルロットは隣に座る一夏に目線をやった。きょとん、とする彼の顔をしばしの間じっと見つめた後、鬼頭に目線を戻し、熱の篭もった口調で言う。
「ぼ、僕も、その……ここにいたいと思っています。さっきも言いましたけど、ここは、本当に居心地の良い場所ですから。僕に優しくしてくれた一夏や、みんなと、離れたくないです。……みんなを騙していることも、いつかは、謝りたいですし」
学園を離れることになれば、それも叶わなくなってしまう。
切々と訴えるシャルロットに、鬼頭はゆっくりと頷いた。
「……なるほど。では、その方向で作戦を練るとしようか」
目的は大別して二つだ。一つは、シャルロットのスパイ行為が罪に問われない状況を作り出すこと。もう一つは、彼女が今後も学園にいられるようになること。これを叶えるために、戦略を練る。目的実現のための目標を設定し、目標を達成するための作戦を考える。
「作戦というものはシンプルな方がいい。一つのオペレーションに、あれもこれもと求めすぎると複雑性が増して、冗長性が失われてしまう。安全マージンに乏しい作戦は、ちょっとしたトラブルや偶然の積み重ねが原因で、容易に破綻してしまう。……それこそ、今回のシャルロットさんみたいにね」
デュノア社はシャルロットの潜入ミッションに、第三世代機の情報収集だけでなく、会社の広告塔として機能せよ、という二つの目標を設定した。この二つを同時に達成するために、作戦は男装という複雑性を孕むことになった。結局、それが原因でシャルロットの正体はばれ、彼らの企みは鬼頭らにも知られてしまった。仮に作戦目標が情報収集の一つだけで、彼女がはじめから女子生徒として転校してきたならば、スパイ行為の発覚はもっと遅れていただろうし、隠し通せていた公算も高い。
もっとも、広告塔として機能すること云々という部分について、鬼頭は懐疑的に考えていた。いくつもの期待が寄せられた結果、複雑で、不意のアクシデントに弱い作戦に仕上がってしまったのは間違いないだろう。しかし、それらはシャルロットが口にした内容とは違う理由からではないと、彼は考えていた。というのも――、
「一作戦に一目的、一目標を心がけよう。シャルロットさんが罪に問われないための作戦Aと、今後も学園にいられるようにするための作戦Bは、別々に考えるべきだ。
作戦Aについてだが、基本方針は、織斑君の『潜入命令を撤回させる』という方向性に、私も賛成だ。作戦Bについては、命令を撤回させて、男装をする必要がなくなった後に、改めて女子生徒として転校してきてもらう。これがいちばん、シンプルな形だと思う。
ただし、首尾よく事が運んだ場合でも、もともと男の子としてやって来たきみが、実は女の子だった、ということになるわけだから、周りからの奇異の目は避けられないが」
「そこは、覚悟しています」
シャルロットの紫水晶の瞳は不安に揺れていたが、口調は決然としていた。
鬼頭はあえて触れずに、話を先へと進める。
「まずは作戦Aの方から考えよう。そのために、確認したいことなんだが」
「はい」
「私に、デュノア社のことを教えてくれないかい?」
「えっ、と……それは、どういう?」
あまりにも漠然とした問いかけ。当然、シャルロットは質問内容を絞り込むため返答する。
「シャルロットさんが知っている範囲のこと、答えられる範囲のことで構わない。デュノア社という企業について、創業から現在にいたるまで、きみの知りうるすべての情報を私に教えてほしい。特に、デュノア社の現経営陣の陣容と、各人の経歴や為人。それから、会社の主力事業の内容について、なるべく詳細にお願いしたい」
敵を知り、己を知れば百戦危うからず、とは東洋の思想だったか。シャルロットは得心した様子で首肯した。じゃあ、まずは社史から、と口を開こうとしたところで、
「ああ、その前に」
鬼頭は喋り出そうとするシャルロットを制し、背後に控えるセシリアを振り返った。
「セシリア、きみにもお願いがあるんだが」
「なんでしょう?」
「シャルロットさんの話が終わった後に、きみの意見をもらいたい」
「私の?」
「うん。それも、イギリスの代表候補生や、専用機持ちといった視座からではなく、」
鬼頭はそこで一旦、舌先を休めた。切れ長の双眸を炯々と輝かせ、口元に冷笑を浮かべながら言う。
「叶うならば、オルコット家の現当主という立場からの意見が欲しいんだ」
「……ああ」
セシリアは得心した様子で破顔した。父と慕う彼が何を考えているのか。シャルロットとデュノア社について、何を“疑って”いるのか。この不肖の娘にも、少しずつ分かってきた。
「なるほど」
「? ええっと、オルコットさん? 二人とも、それは、どういう?」
言外に通じ合う二人の顔を交互に見て、一夏が訊ねた。
「セシリアはね、この歳でオルコット家の家長なんだ。オルコットはイギリス貴族を祖とする名家で、いくつもの企業を所有し、一部については経営もしている。つまり、彼女は資本家であり、経営者でもあるわけだ。今回はそちら方面での知見を借りたいと思ってね」
「マジかよ。オルコットさん、俺と同い年でそんな経営とか……すげえな」
「そんな大したものではありませんわ」
感心した様子で呟く一夏に、セシリアは可憐に微笑み謙遜してみせた。
「当主といっても、私は所詮、十五歳の子ども。経営者としては、お飾りにすぎません。会社経営の実務はほぼすべて、企業ごとの社長にお任せしております。私は年に数回、彼らと面談して、事業の進捗状況や、決算報告書の数字などを一緒に確認するくらいのことしかしておりません」
「や、それって十分立派に、経営者のお勤めを果たしていると思うけど」
陽子の呟きを無視して、セシリアは鬼頭を見つめ、言葉を重ねた。
「経営者目線での意見が欲しいということは、」
「うん」
「つまり、お父様は疑っているわけですね?」
「疑っている? 何を?」
またしても一夏は鬼頭とセシリアの顔を交互に見比べた。
血ではなく、別な形の絆で結ばれている父と娘は、目線だけで言葉を交わし合う。ここは私から話しても? ああ、頼むよ。セシリアは頷くと、一夏を見て言った。
「シャルロットさんが話してくれたことについてです。お父様は、デュノア社が本当は経営危機になんて陥っていないのではないか、と疑っているのでしょう」
「なっ! シャルロットが、嘘をついているっていうんですか!?」
激昂。眦を吊り上げ、声を荒げながら一夏は鬼頭に詰め寄った。
少年の怒れる眼差しを真っ向受け止める鬼頭は、あえて冷然とした口調で、怒りの炎を鎮火せんと諭すように語りかける。
「そうじゃない。私も、シャルロットさんが嘘を言っているとは思わないよ。だが同時に、シャルロットさんの言うことが、正しいとは限らない、とも思っている。……シャルロットさん」
「は、はい」
「きみはさっき、デュノア社が経営危機に陥った、と言ったが、それは、きみ自身がフランス政府の人間と直接話したり、損益計算書などの社内資料を見たりして、そう判断したことなんだろうか?」
「……いいえ」
鬼頭の問いに、シャルロットはかぶりを振った。
「男装スパイの命令を受けたときに、あの人からそう聞かされました」
「あの人というのは、アルベール・デュノア氏のことだね?」
「はい」
「つまりきみは、アルベール・デュノア氏から聞いた話をそのまま我々に聞かせてくれたわけだ」
「そう、ですね」
「ということは、だよ。仮に、アルベール・デュノア氏がきみに、デュノア社の現状について、嘘の情報を伝えていたとしたら、シャルロットさん“は”、嘘をついていないが、話の内容そのもの“は”、真実ではない、ということになる」
「……ちょっと待ってくださいよ」
狼狽から声を震わせながら、一夏は訊ねた。
「シャルロットの父親は、なんだって、そんな、嘘なんて……い、いや! シャルルの父親が、本当に嘘をついているのかは、まだわからない、ですよね。智之さんは、どうしてそんなふうに!?」
「では、私の考えについて、時系列順に説明しよう」
鬼頭は年若い彼らにもわかりやすいよう、努めて平易な言葉を心がけた。
「まず、シャルロットさんがIS学園にやって来た、初日のことだ」
鬼頭は一夏と同様驚いた表情のシャルロットを見た。
「実をいうとね、私は、きみの姿を一目見た瞬間から、これは男子生徒の恰好をした女性ではないか、と疑っていたんだ。そのことをきみや織斑君たちの前で指摘しなかったのは、何か事情があってのことだろうと思ったから。年頃の女の子が、男の子の恰好をしているばかりか、男子生徒として転校してきたんだ。尋常な事態でないことは明らかだった。迂闊な発言は、藪を突くことになるような気がしてね。詳細が判然としないうちは、こちらから言及するべきではない、と判断したわけだよ。
では、その事情とは何なのか? これについては、いくつかの仮説を考えた。なぜ男装をしているのか。なぜ男性操縦者と身分を偽っているのか。といった、動機についての推測だね。
このとき、私が最も蓋然性が高いと考えたのは、産業あるいは軍事スパイではないか、という仮説だ。私や織斑君に対し、同性ならではの心理的な距離感や、連帯感を利用して近づき、情報を取得する。そんなことを疑ったわけだよ。
ただ、このスパイ仮説は、ある一点がネックとなって、確信にまではいたらなかった。変装の杜撰さが、どうしても気になってしまったんだ」
杜撰な変装との評に、シャルロットは自然と頬を強張らせた。
望んで従事していたわけではないし、みなの信用を裏切っていることへの後ろめたさもあった。その一方で、みんなを騙せている事実から、自身の変装技術と演技力に、少なからず自信も抱いていた。一夏に正体が知られたのも、裸を見られてしまったからで、変装自体を見破られたわけではない。
鬼頭の言は、そのプライドを酷薄にも打ち砕くものだった。「ぐ……むぅ……」と、複雑な心境が滲んだうめき声が、喉奥からこみ上げてしまう。
「きみなりに頑張ってはいたのだろうがね。現に、私はすぐに気がついたし、ここにいるセシリアも、わりと早い段階で女性ではないかと疑っていたそうだ。おそらくだが、他にもそれなりの人数が、きみの正体を訝かしんでいると思うよ」
千冬たちIS学園の教師陣からも疑われていることを口にするのは憚られた。本題には直接関係しないことだし、下手に言及をしてはシャルロットを萎縮させてしまう恐れがある。これから彼女の言を引き出そうというのに、その唇を重たくさせるわけにはいかない。
「話を戻そう。スパイ仮説には、変装の杜撰さという問題が常につきまとった。男性操縦者と身分を偽っての転校なんて大それたこと、個人の力で出来ることものではない。デュノア社か、フランス政府か。誰かしらの支援を受けているのは明らかだ。しかしそうすると、その者たちはこの変装クオリティに対し、ゴー・サインを出したということになる。それが、どうしても納得出来なくてね。
スパイの世界には詳しくないが、彼らにとって正体の露見は、最も避けたい事態のはずだ。スパイ本人は勿論、その背後にひそんでいる者たちへのダメージも大きい。場合によっては組織が法的に罰せられたり、多額の賠償金を請求されてしまったりする可能性だってある。だから、スパイを送り込む者たちは、正体の隠蔽に全力を尽くす。そのはずなんだ。
ところが、きみを男装スパイとして送り込んだ何者かたちは、このクオリティの変装で良しとした。決して正体がばれてはいけないスパイを、素人目にも危うい恰好で送り込んできたんだ。それはいったい、なぜなのか? この矛盾に対する答えが、どうしても考えつかなかった。ゆえに私は、シャルル・デュノアはスパイに違いない、という確信を持つことが出来なかったんだよ。
……ここまでが、昨日以前に私が考えていたことだ。ここから先は、シャルロットさんのいまの話を聞いて、改めて思ったことを話すよ」
シャルロットの口から事の次第を聞かされて、鬼頭が最初に感じたのは疑問だった。彼女の語った背景情報と、実際の活動との間に、著しい乖離、矛盾点が見出されたためだ。
「シャルロットさんはさっき、男装の目的は二つある、と言ったね? 広告塔としての役割と、私たち男性操縦者をターゲットにした情報収集。私はここに、二つの矛盾点を見出した。
まず、広告塔としての役割を果たすためには、とにかく目立たなければない。広告とは衆目にさらされてはじめて機能するもの。ひっそりと目立たない広告なんてものに、意味はない。メディアからの耳目を常に意識し、自らの存在を強くアピールする。広告塔には、そういう活動が求められる。
その一方で、スパイに求められるのは、目立たないことだ。周囲の景観に溶け込み、誰にも気づかれることなく、目当ての情報を集める。活動の方向性としては、まったくの正反対だといえる。
これは、大きな矛盾だ。広告塔としての役割を果たそうとするほどに、スパイとしての活動がやりにくくなる。逆に、スパイとしての仕事に徹してしまうと、広告塔としてはまったく機能しなくなる。アルベール・デュノア氏や他の重役たちは、こんな素人でもぱっと思いつくような矛盾に気づかないで、きみを男装スパイとして送り込んだのだろうか? シャルロットさんの言うように、もう後がないと追いつめられている企業の上層部が、そんな冷静さを欠いた判断や決断を下したのか? 窮地のときこそ、慎重さが求められるのに」
一夏とシャルロットは顔を見合わせた。互いに、相手の戸惑った顔が視界に映じる。
鬼頭の言う通りだ。広告塔とスパイとでは、求められるものが違いすぎる。
「仮に、デュノア社上層部が冷静な判断を下せないほどに混乱しているのだとしたら、今度は、二つ目の矛盾点がこの考察の足を引っ張る」
鬼頭の言葉に二人は、はっ、として、目線を彼に戻した。
「やはり、広告塔という点についてだ。これは、私の知る限り、という前置きをした上でのことなんだが、広告塔というわりに、デュノア社がきみをそういうふうに宣伝した形跡がまったく見られない」
鬼頭は右手中指に嵌めた金色のリングを左手の人差し指で軽く撫でさすった。
待機状態の『打鉄』がインターネット回線に接続。空間投影式のディスプレイを何枚も出力し、それぞれに、各種の検索ブラウザを表示する。鬼頭はそれら検索バーに、『三人目の男性操縦者、デュノア社、公式発表』と、様々な言語で打ち込んだ。結果はいずれもネガティブ。デュノア社から、男性操縦者を発見したことや、その人物を自社の専属パイロットとしているなどの情報を発信した記録は、インターネット上のどこにも見られなかった。
「シャルロットさんがIS学園にやって来たあの日より以前も、またそれ以後においても、そういったログがないんだよ。いま、巷間に出回っている第三の男についての情報は、この学園内を震源とするものばかりなんだ」
すなわち、シャルロット自身の口から語られた内容を他の生徒がSNS上に発信したり、母国の高官に報告した内容が漏出したり、といった結果。肝心のデュノア社からの公式発表ではない。
「デュノア社がきみの言うように追いつめられていて、切羽詰まった挙げ句に冷静な判断が出来ない状態できみのことを送り出したのだとしたら、もっとなりふり構わず、きみのことを宣伝していなければおかしいんだよ。それをしていない。これもまた、大きな矛盾だ。
矛盾点が一つだけなら、私の考えすぎ、と納得出来ないこともない。だが、二つとなると話は別だ。こんなにも不合理を抱えた話は、ありえない。
ありえないということは、嘘の話だということだ。そして、話の中にたった一つでも嘘を見出してしまった以上は、シャルロットさんが聞かされたアルベール・デュノア氏の話には、他にも嘘がある可能性を疑わなければならない。例えば、そもそもの背景事情……デュノア社は、本当は経営危機になんて陥っていないのではないか、といった可能性をね」
空間投影式ディスプレイを閉じると、鬼頭は右手の人差し指を立てて二人の前に突き出した。
「それからもう一つ。他の何にも増して、考えなければならないことがある。アルベール・デュノア氏をはじめデュノア社の重役たちが、シャルロットさんに嘘をついた理由だ」
人が嘘をつく際の心理には、一般に二つの状況が想定される。一つは、誰かに知られると自分に不利益が生じてしまう“真実”がある場合。それを知られたくないから、隠すための嘘をつく。もう一つは、その嘘を相手が信じることで自分に利益が発生する場合。利益の最大化を目指して、巧妙にほら話を造形する。
どちらにせよ、アルベール・デュノアらがシャルロットに何か隠し事をしているのは明らかだ。それはいったい、何なのか。
「アルベール氏がシャルロットさんに嘘をついた理由は、彼らの本当の目的と結びついている公算が高いと思うんだ」
「本当の目的?」
「嘘をついてまで、シャルロットさんをIS学園に送り込んできた。それも、男性操縦者と身分を偽らせてまで。彼らがそうまでしてやろうとしていること、それは何なのか? そしてそれは、何のためなのか? そういう話さ」
アルベール・デュノアの真のねらいは、シャルロットが語ったような、広告塔や、第三世代機の情報収集などではない。だから、あんなクオリティの変装を見てもゴー・サインを下した。そもそもの目的が違うから、正体の露見を恐れる必要がなかった。
あるいは、ばれても問題ないとさえ考えていたのではないか。確信に満ち満ちた表情で、鬼頭は言う。
「考察には材料が必要だ。デュノア社は本当に苦境に立たされているのか。アルベール・デュノアとはどんな人物なのか。相手の思考を読み解くには、そういった情報を集め、整理し、分析する必要がある」
鬼頭は、ちら、と目線を左手にやった。ボーム&メルシエのクリフトン・ボーマティックが、夕食時を知らせている。
「本題に入る前に、少し話しすぎたね。続きは、夕食を摂ってからにしよう。……ああ、そうだ」
鬼頭はふと思い出した様子で二人に言った。
「二人とも、甘辛い唐揚は好きかい?」
Chapter41「嘘」了
事件当日――。
ドイツ連邦共和国第三の都市ミュンヘン。
この日、ミュンヘンは朝早くから街全体が異様な熱気に包まれていた。
いまから五時間後の午前十二時、街の中心部から北に五キロメートルの旧オリンピック公園に設けられた特設会場にて、第二回IS世界大会の決勝戦が行われるためだ。
対戦カードは、大会二連覇が懸かる日本代表・織斑千冬と、前回大会での雪辱戦に闘志を燃やすイタリア代表・アリーシャ・ジョセスターフ。
この一戦が決着する瞬間、世界最強の女傑が誕生するそのときを見るために、ミュンヘンの街には世界中から観光客が集まっていた。ミュンヘンの人口はおよそ一五〇万人だが、この日に限っては、昼間人口は二五〇万人をゆうに超えていただろう。彼らは試合が始まる何時間も前から会場への移動を開始し、街のいたるところで、渋滞や、行列を形作っていた。
喧噪に叩き起こされた住人たちは、はじめのうちこそ不満の言葉を口ずさんでいた。しかし、さすがは観光都市で生きる者たち。すぐにカーニバルの雰囲気に順応した。いつもよりも早い時間に店を開き、興奮から財布の紐が緩くなっている観光客たちに向けて、普段よりも高い値段で商品やサービスを提供する。特に盛況だったのが飲食の店で、とりわけ店内に大型のモニターを持つ店には、老若男女が集まった。それらの店は、決勝戦の観戦チケットを手に入れられなかったが、試合の空気感だけでも味わいたいとこの街にやって来た者たちにとって、恰好のたまり場として機能した。
ハンス・ブルックハルト上級巡査の認識下で最初の事件が起こったのは、左手首に巻いたジンのダイバーズウォッチが、午前七時十分を指したときのことだった。
場所はマクシミリアン通り、市電19番線の駅のプラットホーム。突然、電車を待つ行列の中から女性の甲高い悲鳴があがり、尻を触られたと痴漢被害を訴えた。
容疑者の男は懸命にかぶりを振った。突然、後ろから背中を押され、結果として触ってしまっただけだ。故意ではない。女尊男卑の時代に、彼の反論は退けられた。駆けつけた四人の警察官は、男をパトカーの後部座席へと放り込んだ。その一方で、被害者の女性に対しては、「これから試合を観戦する予定がある」という事情を汲み取り、事情聴取はその場で簡単すませて見送った。勿論、詳しい話は後でうかがうからと、連絡先は提出させたが。
ともあれ、この痴漢事件のために、駅周辺からは見回りの警官が四人いなくなった。これを補うために、別の場所……バイエルン州立歌劇場の周辺を警邏していた警官が二人派遣されることになる。
このとき、事件の現場となった市電の駅から西に八〇〇メートルほどの位置にあるプロムナーデ広場にいたハンスは、ちょうどその付近を見回っていて事件のことを知ったライナーからの連絡に顔をしかめた。
ブルーのスーツジャケットのポケットに忍ばせているスマートフォンとワイヤレスイヤホンをつなげた彼は、通りを隔てた向こう側に建つ最高級ホテル……バイエリッシャー・ホーフを睨みながら言う。
「どう思う?」
『……まだ判断は出来ない。たしかなことは、この痴漢事件のせいで、このミュンヘンの中心街から警察官が四人消え、警備の薄いポイントが二箇所発生したということだ』
「背中を押した相手というのは?」
『まだ見つかっていない。今日はどこもかしこも人混みだらけだ。発見は困難だろうな』
ハンスは頷くと、ライナーに引き続き情報を集めるよう指示した。通話は切らないまま、油断のない眼差しを周囲に向ける。
第二回IS世界大会も今日が最終日。『ファントム・タスク』の奴らが何か事を起こすとしたら、今日しかない。
敵の狙いは試合観戦のために各国から集まった要人たちの誰か、とにらむハンスらは、彼らが利用する公算の高い高級ホテルが集中しているエリアを重点的に見回っていた。すなわち、ミュンヘンを代表する三つの最上級のホテル……ケンピンスキー・ホテル・フィーア・ヤーレスツアイテン、マンダリン・オリエンタル、バイエリッシャー・ホーフを各頂点とする、二等辺三角形の範囲だ。ハンスは自らも含むGSG-9の精鋭十名を、このエリア内に分散配置した。各頂点に二名ずつを置き、残る四名が三角形の内側を見回る防衛計画だ。ハンス自身は、別のポイントで待機しているもう一人とともにバイエリッシャー・ホーフとその周辺を見張っている。この十人はスマートフォンの同時通話アプリで常に連絡が取り合える状態を維持し、一朝有事の際には十分以内に集結出来る態勢を取っていた。
ミルク色の高級ホテルを睨むハンスのもとに、二つ目の事件の知らせが届いたのは僅か五分後のことだった。ハンスのいる場所から四〇〇メートル南南東に位置するペーター教会前の広場で、連続した破裂音が鳴り響いた。
すわ、爆弾テロか!? 辺りは一瞬、騒然とし、すぐに八名からの警官隊が駆けつけた。原因は即座に判明した。空き缶の中におもちゃの爆竹花火を詰めた物で、現場に転がっていた黒焦げの空き缶からは悪意が感じられた。観光客を驚かせるための悪質ないたずらだ。
同じ物が他にもあるかもしれない。警官たちは現場を封鎖するとともに応援を呼んだ。教会の前にはさらに六人がやって来て、動揺著しい観光客たちへの説明と、現場検証を開始した。これで、この一四人はしばらくの間、教会の前から身動き出来なくなった。彼らの穴を埋めるため、他の方面からまた新たに警官が派遣された。
二件目の報告の後も、事件は立て続いた。一件々々は数人の警察官を派遣すれば事足りる規模の事件だ。しかし、短時間のうちに連続して起こったことで、警備力は着実に衰弱していった。ハンスの時計が午前九時を示した時点で、認知件数は合計八件、捜査のために警備任務に参加出来なくなった警官は四十人に達した。
四十人もの警官戦力が実質的に失われた影響は大きかった。彼らの不在をカヴァーするには、他のポイントを守っている警官をそちらへと引き抜く必要がある。しかしそうすると、その人数分だけ警備の網目は粗いものになる。二人で見回っていた場所を、以後は一人で守らなければならなくなるわけだから、一人あたりの負担は増し、その分だけ疲労も増える。そして疲労は、ミスや、注意力の欠如といったことの原因となる。
――『ファントム・タスク』の攻撃はすでに始まっている。一連の事件は、こちらの戦力をばらけさせるための陽動作戦に違いない!
遠からず、本命の一撃が放たれるはず。
それを決して見逃すまい、と、ハンスはワイヤレスイヤホンのマイクに向かって鼓舞の言葉を呟いた。
そのとき、白亜の建物の前に一台のバンが滑り込み、駐車した。清掃業者の看板を掲げたフォルクスワーゲンだ。モップやら何やらのリース品の交換作業にやって来たのだろう。作業服を着込んだ二人組の男が運転席と助手席から降り、スライドドアを引いて、車内から大型の台車と、やはり異様に大きなポリバケツを引っ張り出す。
作業の様子を見つめるハンスの目線は鋭かった。フォルクスワーゲンがホテルの正面で停まったことに、違和感を覚える。
――バイエリッシャー・ホーフは五つ星のホテルだ。こういう高級ホテルでは普通、業者の車は客の目に留まらないよう裏側とか、目立たない場所に停めるよう指示があるものじゃないのか?
少なくとも、ここ数日でハンスが監視していた範囲内で見た出入りの業者はみなそうしていた。決勝戦当日の朝、この日にやって来たあのフォルクスワーゲンだけが、例外的な行動を取っていた。
二人組は清掃用具一式を台車に乗せると正面玄関へと近づいていった。
ハンスはワイヤレスイヤホンのマイクに向けて静かに言い放った。
「各員へ。緊急の事態だ。ちょっと、気になる事案が発生した」
『何があった?』
みなを代表して、ライナーが訊ねた。
ハンスは言葉短く応じる。
「出入りの清掃業者だ。いま、ホテルに入館したんだが、振る舞いに、どこか違和感を覚える」
『具体的には?』
「高級ホテルに出入りしているわりに、しつけがなっていない」
『なるほど』
「後を追う。俺もこれからホテルに入る」
『わかった。俺たちはどうしてやるといい?』
見回りを担当している四人は、どう動くのがよいか。ハンスは間髪入れずに答えた。
「念のためこっちに来て、ホテルの周りをかためてくれ。出来れば誰か、車を持ってくるよう頼む」
通話を打ち切ると、ハンスは右手で左脇のあたりを、ぽん、と軽く叩いた。厚手のジャケットの下に隠した、ショルダーホルスターに差した拳銃の感触を確かめた後、彼は二人組の背中を追って歩き始めた。歩きながら、そういえば彼らが台車に載せていたポリバケツは、膝を折り畳めば成人男性一人がぎりぎり入るくらいの大きさだったな、と考えた。
◇
桜坂と桐野美久がホテル・プラッツルを発ったのは午前九時を少し回ってからのことだった。目的地は勿論、第二回IS世界大会の決勝戦が行われる会場だ。試合開始は三時間後だが、会場に辿り着くまでと、辿り着いてから入場手続きをパスするまでにはきっと時間がかかるだろう、として、早めに出発したつもりだった。
ホテルを出てすぐその考えは甘かったと思い知らされた。
見渡す限りの人、人、人の群れ。
車道では大小様々な車が隊伍を作り、ゆったりとした足取りで北の決戦場へと向かっている。
この様子では、シャトルバスや地下鉄といった公共交通機関の混雑ぶりもかなりのものだろう。
あたりを、ぐるり、と見回して、ベージュのトレンチコートを着込んだ桜坂は、「しまったなあ」と、溜め息まじりに呟いた。薄い唇から漏れ出る吐息が白い。ドイツは日本よりもかなり北に位置し、南部のここミュンヘンでさえ北緯四八度に達している。北緯四八度といえば北樺太のあたりだ。すなわち、一年の全期間を通して、北海道よりも気温が低い。
「もう少し早くから行動を起こすべきだったか」
「どうしましょうか?」
こちらもニットのカーデガンを羽織った冬の装いの美久が訊ねた。左手のシチズンを、ちら、と見て、どんな移動手段ならば試合の開始時刻に間に合うだろかと思案する。
「タクシーは間に合いそうにないですし」
「この渋滞じゃあな。バスもちょっと厳しそうだ」
「では、Uバーン(地下鉄)?」
「ううん。それもなあ……」
アリーナが建設されたオリンピック公園は、桜坂たちのいるミュンヘン中心部と地下鉄で結ばれている。地上の渋滞に悩まされない分、到着までは早いだろうが、それも首尾よく車輌に乗り込むことが出来れば、の話だ。駅構内にはすでに順番待ちの列が出来上がっているはず。いったい、どれくらいの時間待たされることになるやら。それに、無事に乗り込めたとしても、移動中は満員電車での移動を強いられることになるだろう。到着する頃には、へろへろで観戦どころではない精神状態に陥っている公算が高かった。
――会場までは直線五キロメートルちょっと。俺一人、あるいは鬼頭と二人なら、歩いて行ってもいいんだが。
この寒空の下、女の美久の足腰を一時間以上も酷使させるのは憚られた。
さて、どうしたものか、と仁王の顔立ちが険しさを増す。
やおら桜坂は店を仰いだ。乳白色の空を眺めながら、ぽつり、と呟く。
「きみを担いで飛んでいくか」
「はい?」
「いや、駄目だな。今日はさすがに、空が騒がしすぎる」
不意に思い浮かんだアイディアを、かぶりを振って払い捨てた。
今日、この街で行われるのは、ISという飛行パワードスーツを使った大会だ。万が一の事故を警戒して、航空監視の眼差しは平時よりもいっそう厳しいと考えてよいだろう。そんな空を飛ぶ勇気は、自分にはない。
そのとき、二人の目の間に広がる通りを、一台のバンが南に向かって走り抜けていった。車体の側面に清掃会社の社名と連絡先がラッピングされたフォルクスワーゲンだ。北のアリーナへ向かう道は渋滞しているが、反対方向への道は比較的空いている。バンは時速三十キロメートルほどのスピードで車体を揺らしながら進み、すぐの交差点を右に曲がって西へ姿を消していった。
桜坂の顔を見上げる美久の表情が硬化した。
フォルクスワーゲンが走り去っていった方向を、剣呑さを宿した眼差しで睨み続けている。
「天使様?」
「……いまのバン」
「はい」
「俺の気のせいだろうか。火薬の臭いを感じた」
超人の顔つきが、そこにあった。かつて、中学生の自分を助けてくれた、天からの使者。ひと蹴りで自らを数十メートルの高空に移動させ、着地の衝撃にもひるまない鋼鉄の肉体の持ち主。人間には知覚のできない世界を正しく認識し、行動を起こせる地上唯一の男。
美久の大好きな男の顔が、そこにあった。
「清掃業者がなんで火薬なんて持っているんだ?」
ドスを孕んだ呟き。
自然と思い浮かぶのは、いまより五十年の昔にこの街で起きた事件だ。あのときは、テロを起こした犯人を含む十七人が犠牲になったと記憶している。
桜坂はかたわらに立つ美久を見下ろした。
何かを期待するような眼差しが、真っ直ぐに自分を見据えてくる。
黒炭色の双眸に、闘志の炎が決然と燃え上がった。
「……面倒事に発展する前に、解決しておくか」
忌々しげに唇を歪めながら言うと、美久は破顔した。
それでこそ私の信じる天使様です。そう言わんばかりの笑顔だった。
今回、三年前のドイツでの様子を書くにあたり、桜坂たちの服装をどうするかで悩みました。
季節をいつに設定し、その環境下でのそのキャラ“らしい”装いを考える必要があったからです。
参考になるかもと、久しぶりにアニメ版のIS第一期を視聴。さて、このときさらわれた一夏の服装は……学ランに、冬服かぁ。誘拐犯たちは、普通にビジネススーツ……うん。季節の想像がしづらい。
厳密には決めず、ふんわり秋冬のどっか、あたりを想定することにしました。