久しぶりにハイスピードさんの出番です。
土曜日の午後九時十五分。
IS学園の一年生用学生寮、織斑一夏の部屋は、彼がこの学園に入学して以来、いちばんのやかましい夜を迎えていた。突然やって来た見知らぬ女子生徒と鬼頭との間で、言葉と言葉をぶつけ合う、拳闘大会が始まったのだ。
「あちらのコンセントに仕込んだ盗聴装置で、事情はおおむねご存知でしょう。というわけで更識さん、シャルロットさんと一緒にフランス旅行に行きたいので、日本政府と連絡をとっていただけませんか?」
「ご自身の立場を考えてものを言ってください」
試合の開始と同時に交わされた最初のグローブタッチは、互いに静かな、それでいて不穏さを感じる口調で合わせられた。
頭痛にでも襲われているのか、鬼頭から更識と呼ばれた少女が、眉間のあたりを揉みながら言う。
「さっき、セシリアちゃんが言ってましたよね? 鬼頭さんは世界にたった二人しかいない重要人物なんです。そんなあなたの身を危険にさらしかねない出国の許可が、下りるわけないでしょう」
「ゴールデンウィークのときは、外出の許可をもらえましたが?」
「あれは行き先が日本国内で、日本政府の力が及ぶ範囲内でのことでした。フランスは違います」
「駄目でしょうか?」
「駄目です」
「そうですか……」
がっくりと肩を落とす鬼頭。これ見よがしなオーバーリアクションは、しかして、対戦相手の心に安寧をもたらさない。この人、本当に理解してくれたのかしら? 納得してくれたかしら? 不信感に満ち満ちた眼差しを、二番目の男はにっこり笑って受け止める。
「仕方ありませんね」
「……よかった。わかっていただけましたか」
「ええ」
「なら、この件は諦めて……」
「じゃあ、代わりの者に行ってもらうことにします」
「はい?」
「シャルロットさんに同行してやれないか、桜坂に頼んでみます」
「あ、おい、待てぃ!(江戸っ子)」
更識の口から甲高い悲鳴が迸った。桜坂。鬼頭との会話の中でたまに聞く名前だ。たしか、彼の大学時代からの親友で、同僚だったか。
一夏は更識の顔色をうかがった。額に脂汗が浮かび、わなわな、と唇が震えている。どうやら彼女も、件の人物のことを知っているらしいが、なにゆえ、そんな動揺を? っていうか、今更だが、誰なんだよ、あんた。
「……智之さんの知り合いらしいけど、結局、あなたは誰なん――」
「いま、桜坂さんとおっしゃいましたか?」
誰何の言葉は、震える声音に覆い隠されてしまった。唇をへの字に結んでシャルロットを見ると、「タイミングが悪かったね」と、苦笑される。
「更識楯無さん。二年生の先輩で、この学園の生徒会長さんだよ」
父の会話を邪魔してはいけない、と、いつの間にかセシリアと二人、隣にやって来た陽子が一夏の疑問に答えてくれた。
「生徒会長? そんな人が、なんで、いきなり?」
よりにもよって、シャルロットの今後について密談を交わしていたこのタイミングで、自分の部屋を訪ねてきたのか。鬼頭は、どうして、彼女の訪問を受け入れたのか。盗聴装置が云々と、物騒なことも口にしていたが。
「更識生徒会長は、男性操縦者の身の安全を守るよう、日本政府から特別な依頼を受けているようで……」
同じく彼女のことを知っているらしいセシリアが、ゆっくりとした口調で説明した。自分に仔細を知られては不味い事情があるのか、どこまで話すべきか、どんな表現で伝えるべきか、言葉を選ぶのに悩んでいる様子だ。
「その一環として、この部屋に盗聴器を仕込んで、私たちの会話を盗み聞きしていたのでしょう。お父様はそれを逆に利用して、この場に更識会長を呼び寄せたようです」
「……なるほどなぁ」
仏頂面のまま、一夏は得心の呟きを噛みしめた。盗聴器の存在については、ひとまず、脇に置いて考えないことにする。自分のことは勿論、この部屋で束の間一緒に暮らしていた箒や、シャルロットのプライベートがひそかに覗かれていた、という事実に対する不快感や怒りは、当然ある。
しかし、だ。いまはそれよりも優先して考えるべきことがある。なるほど、彼女が何者なのかは理解した。では、鬼頭はどうして、そんな人物を召喚したのか。話の流れから察するに、彼女をパイプ役に日本政府と連絡をとって、出国の許可を取り付けるつもりなのだろうが、どうやって? 一夏が鬼頭を見ると、彼は好戦的な冷笑を口元に浮かべながら言った。
「ゴールデンウィークのときに、更識さんもあいつに会って、彼のことは知っているでしょう。人格・能力ともに、私の友人で、桜坂ほどこの手の問題解決が得意な男はいません。あれに頼むとしましょう」
「ちょっ……! ちょっと、待ってください!」
制止の言葉を口にすると、更識は、ちら、と一夏たちを一瞥した。彼らの前で気をつけるべき言葉は何か。眉間に深いクレヴァスを作り、眉尻を吊り上げて、苦々しげに呟く。
「……いつからです? どうやって、お気づきに?」
日本政府が、〈アローズ製作所〉の持つ技術力に熱い眼差しを向けていること。保護の名目で、内調を使って同社を監視していること。とりわけ、最強兵器ISを生身の肉体で破壊するほどの戦闘力を持った超人の動向に注意を払っていること。
鬼頭とは友好的な関係を築きたいと望んでいる日本政府が、現段階では彼に知られては不味いとして、内調をはじめ、あらゆる暗部組織の力を投じて事実の隠匿に全精力を傾けている秘密に、この男はとっくの昔に気づいていた。
手紙であれ、電話であれ。このIS学園からの通信はすべて監視していたはずなのに。
吃驚仰天。ひっくり返ってしまいたい気持ちを押し殺し、努めて平坦な口調を心がける楯無に、鬼頭はこちらもまた扁平な語調で応じた。
「ゴールデンウィークの初日、名古屋に帰ったあの日に、他ならぬ桜坂から教えてもらい、気がつきました」
「……お二人のやり取りは、私もずっと見ていました。そういう会話は、なかったと記憶していますが?」
「言葉を交わさずとも、情報を伝える手段はいくらでもあります」
鬼頭は左手首のボーム&メルシエを示した。
「たとえば、身につけている時計に、メッセージを篭める、とかね」
「……なるほど。後学のために、どういうやり取りがあったのか、教えてもらっても?」
「あのとき、桜坂が身につけていたのは、ロレックスのサブマリーナ。高級時計の代名詞的な存在で、その意味ではありふれたモデルですが、リファレンスナンバー6358、第二世代の、アンティーク・ウォッチであったことが、重要でね」
鬼頭は愉快そうに微笑んだ。諜報機関の長たる楯無でさえ見抜けなかった、秘密のコミュニケーション。出し抜いてやったぞ、との思いが、彼を饒舌にする。
「あれは、ジェームズ・ボンドの時計なんですよ」
「ボンドウォッチ……なるほど、スパイの時計ですか」
内調や、更識といった、暗部組織の人間が多数いたあの環境で、時計好きの親友に、スパイの時計を見せつける。その意味するところを悟った楯無は、深々と溜め息をついた。
「勉強させていただきました」
「若い人に成長の糧を提供できて、私も満足です」
鬼頭は皮肉たっぷりに微笑むと、改めて言った。
「さて、どうします? この場で日本政府と連絡をとっていただけない場合は、桜坂に事態の解決を依頼することになりますが?」
脅迫の言葉に、楯無は、むぐっ、と息を呑んだ。過日、アローズ製作所を襲った無人ISを、件の超人が殴り破壊した映像は彼女も見ている。あれほどの戦闘力を持った男、あれほどの危険人物が、政府の監視の目が行き届かない、国外に? 想像するだけで、恐ろしい。
「桜坂さんにも、行動制限をかけるだけですよ」
力のない呟き。自身、口にしていて、何の効力も発揮しえない言葉だと自覚していたためだ。
「出来るとでも? あの男は、本当の意味での超人です。監視の目も、法の縛りも、身体的拘束も、あの男には通用しませんよ」
監視の目は、いとも容易くすり抜けてしまうだろう。事実、自分たちは一度、ゴールデンウィークの最終日にそれをやれてしまっている。
行政機関を通して、空港や、港から出られないようはたらきかけたところで意味はない。彼は、何の補助装置もなしに空を飛べる。自宅のマンションのベランダから飛び立つ超人に、このパスポートは使えない、とか。違法薬物を持ち出そうとしているな、なんて言葉をかけてもむなしいだけだ。
危険な猛獣を閉じ込めるように、鉄の檻にでも閉じ込めておく? ISの装甲さえも素手でねじ切る超人を相手に? 不可能だ。
「人質をとって言うことを聞かせる、なんて、愚かな作戦は、よした方がいい。あの超人を、本当の意味で敵に回すことになってしまう。そんな事態は、政府も望んでいないでしょう?」
険を帯びた問いかけに、楯無は無言で頷いた。超人、桜坂。コードネーム、ウルトラマン。ウルトラマンと敵対するようなことだけは絶対に避けよ、と政府からも厳命されている。
「性悪めぇ」
「褒め言葉として受け取っておきましょう。さて、返答はいかに?」
「……少しだけ、お待ちを」
忌々しげに呟くと、楯無はこちらに背を向けた。懐からスマートフォンを取り出すと、どこかへ電話をかけ始める。通信機を頬に添えてから、待つこと三秒。先方の端末とつながったか、彼女は鬼頭たちの知らない言語を口にし始めた。ドイツ語とフランス語、それにロシア語をちゃんぽんにして話す暗号通話。何を話しているのかはわからないが、恐縮した様子の彼女の態度から、上役との通話だと推察できる。三、四分ほど話し込んだ後、鬼頭の方を振り返った。うら若き乙女。華の十七歳。その表情には疲労の色が濃い。
「出国は、いつをご希望されますか?」
「出来る限り早く、で、お願いします」
沈んだ口調に朗らかに笑って応じると、楯無は手の中の携帯端末の画面を狂ったようにつま先で叩いた。情報収集と関係各所への連絡を同時に行い、やがて、指先の動きを止める。
「明日の朝、午前八時十五分、成田空港からパリへ向かう、直行便があります」
「では、それで」
「わかりました。……もう一つ」
「うん?」
「これも後学のために」
「なんでしょう?」
「なぜ、シャルロットさんのために、そこまで?」
一夏がシャルロットに助力したいと思ったのは、まあ、わからなくもない。もとより人懐っこい性格の人物であるし、シャルロットとは共同生活を送っている仲だ。短い期間のこととはいえ、お互いに助け合いの日々の中で情が芽生えたとしても不思議ではない。
しかし、鬼頭は違う。シャルロットとの関わりは薄く、むしろ、はじめから彼女のことを疑いの目で見ていたというではないか。そんな男が、彼女の苦境を知って、どうして力を貸す気になったのか。
「織斑君に、頼まれましたから」
一度は、自分たちだけでなんとかしようとした。頭をうんうん唸らせて知恵を絞り、会心のアイディアを思い浮かんだと自画自賛した。ところがすぐに、それは良策でもなんでもないと思い直す。IS学園の特記事項は、一時凌ぎには使えても、問題の解決手段とはなりえない。シャルロットを救うには、別な作戦が必要だ。
何かないか。現状を変えうる、強力な作戦が……。そうやって悩み、苦しみ、悔しい気持ちを奥歯で噛みしめて、自分たちだけではどうすることも出来ない、と結論づけた。結論せざるをえなかった。自分たちだけでは。自分一人では、無理だ。己の力だけでは、シャルロットを助けられない。
誰かの、助力が必要だ。この、極めて複雑で、厄介で、難しい状況に、立ち向かっていける気力と体力を持ち、事態を打開しうる頭脳と行動力を持っている。そのうえで、シャルロットの真実を伝えても彼女のことを傷つけない。まるでスパイ映画のような現実味に乏しい話を聞いても、決して笑ったりしない。自分たち子どもの話を、正面から受け止め、聞いてくれる。そんな確信を、持てる相手。そんな人物の、協力が。
「その相手に、この私を、選んでくれたのです」
嬉しいことだ。光栄なことだ。鬼頭――IS学園では数少ない、壮年の男――は、一夏を見て、次いでシャルロットを見て、最後に楯無の顔を真正面から見つめて、完爾と微笑んだ。
「子どもたちからこうも頼られて、張り切らない大人はいませんよ」
Chapter43「花の都へ」
翌日曜日の午前七時五十分。
千葉県成田市、東京の空の玄関口・成田国際空港。
午前八時十五分発のフランス・パリへの直行便、エールフランス航空・エアバスA340のビジネスシートに、若い頃のショーン・コネリーが座っていた。グレイのスーツをりゅうと着こなし、機内だというのにサングラスをかけている。内閣情報調査室謹製の特殊な変装用サングラスだ。IS由来の光学迷彩と空間投影技術の応用で、別人の顔を仮面のようにかぶることが出来る。世界で最も有名なスパイの顔を顔面に貼り付けた鬼頭は、膝の上で文庫本を広げていた。書名は、『旅の指さし会話帳・フランス語編』。
エアバスA340は一九九三年から就航している、同社を代表する長距離旅客機の一つだ。推力二四トンのターボファン・ジェット・エンジンを四発装備し、最大で四四〇人を運ぶことが出来る。客室部分には二本の通路が配置され、ビジネスクラスの場合は二-三-二の七アブレストの座席配置をとっていた。鬼頭が腰かけているのは前から四番目、中央列の三席のうち、真ん中のシート。
その左側には同じく変装サングラスをつけたシャルロットがマドンナの顔をして座っている。さらにその反対側には、内閣情報調査室の高品の強面があった。警護対象の二人に万が一のことがあってはならぬ、と油断のない目線を方々に向け、注意を払っている。
ポケットナイフの一本も持ち込めない機内で襲撃された場合に、どう対応するか。隣の乗客が、CAが、機長が、二人に害意を持つ敵だとして、前から、横から、後ろから、突如として襲いかかってきたら……? いくつもの状況を想定し、いつそれが起こってもすぐ動き出せるよう、気構えと、身構えを練っている。その横顔に頼もしさを感じると同時に、「巻き込んでしまって申し訳ありません」と、鬼頭は口の中でひっそり呟いた。
鬼頭智之に出国の許可を与えて彼の身を危険にさらすか。
彼の要請を突っぱねて、超人ウルトラマンという超一級の危険人物を、国外に放出するのか。
どちらを選んでもろくな未来をもたらしそうにない選択肢を突きつけられた日本政府が、熟慮の末によこした回答は、「さっさと行って問題を解決してすぐに戻ってきてください」だった。どの道リスクをしょい込まねばならないのなら、せめてマネジメントがしやすい方を、という判断だ。
鬼頭智之は、まだ話の通じる相手だ。同じ天才・鬼才と呼ばれる人種であっても、彼の場合は篠ノ之束や篝火ヒカルノほど人格は破綻していない。今回のように、ときに強硬手段に打って出ることもあるが、基本的には良識ある大人としての対応、話し合いが望める相手だといえる。こちらが相手の要求に応じている限り、向こうもまた、こちらの言うことをある程度聞いてくれるだろう、と期待できた。
他方、ウルトラマンは違う。そもそも人間かどうかも疑わしい存在だ。その行動をコントロールするのは、まず不可能だろう。
かくして、鬼頭の出国は認められたが、さすがに世界の要人たる彼を単身渡仏させるわけにはいかない。すぐに警護役の選出が始まったが、これが難航した。なにしろ、準備に費やせる時間があまりにも少ない。成田空港までの移動時間や事前の打ち合わせなどを考えると、午前五時までには、適正者を探す必要がある。
頭数を揃えるのは不可能だ。時間が足りないこともそうだが、政府機関を何人も引き連れて、他国の軍需産業に乗り込むなど、大きな外交問題に発展しかねない。護衛は一人か、よくて二人。少数精鋭が絶対の条件だが、そんな都合の良い人材が、いったいどこに……?
「ここにいるぞー!」
白羽の矢を射ったのは楯無だった。彼女自身は、学園の生徒会長に加えてロシアの国家代表という立場ゆえに、鬼頭と同様、軽率な出国が許されていない。しかし、彼女が頭領を務める暗部組織『更識』には、うってつけの男が一人いた。
高品徹二、三四歳。『更識』の一員であり、また内閣情報調査室国内部門・特命班にも所属するダブルスパイだ。内調には、警視庁の警備部警護課からの出向という形で籍を置いている。警護課はいわゆるSP(Security Police)を擁するセクション。要人警護を主任務とする、警視庁の中でも選りすぐりの猛者たちの集まりだ。全員が武道武術の達人で、拳銃射撃の技量に優れている。高品も、柔道六段、空手道五段の段位を持ち、年間一万五千発という圧倒的練習量によって培われた射撃の腕は全警察官のうちトップ5に入る。
徹二が生まれた高品家は、室町時代の後期に更識宗家から枝分かれした分家の家名だ。今も昔も、一門きっての武闘派で知られ、暗部組織『更識』に対しては、数多くの優秀な戦闘員を供してきた。高品家では男女の別なくすべての子女が幼い頃から厳しい戦闘訓練と、更識本家への忠誠心を叩き込まれて育つ。そうして養成された戦士たちはみな屈強であり、更識のためならば笑って死兵となることが出来た。暗部組織は通常、正面切っての戦闘はしないものだが、どうしてもそれが避けられない場合に、『更識』が最も頼みにするのが彼ら高品家の者たちであった。
徹二は、そんな高品一族にあって最高傑作と名高い男だ。高品の家に生まれた男児のならいで、彼もまた物心がつくかつかないかの頃から戦闘訓練を受けている。『更識』の一員として初仕事を請け負ったのは十三歳のとき。当時、密造拳銃の販売ルートを巡る諜報活動がばれてしまい、窮地に陥った布仏家の者を助けに向かったのが初陣だ。敵対組織からの刺客三名を返り討ちにした徹二は、これをきっかけに一門内での名声を高めていった。
やがてその活躍は更識本家前当主の目に留まる。歴代最強の高品の強さに惚れ込んだ彼は、徹二に警察組織へ潜入するよう命令した。こちらでもすぐに頭角を現し、幾人もの凶悪犯を捕まえた彼は、やおら直接の上司から警護課への推挙を得る。三ヶ月にわたる特別な訓練を経て晴れてSPとなり、最終的に、大臣級の要人警護任務にも従事するようになった。警護任務を通じて広がった人脈より得た情報の数々が、『更識』の活動の助けとなったのは言うまでもない。
徹二が十八歳のとき、更識本家に大望の長子が生まれた。後に更識本家の当主“楯無”の号名を継承することになる娘だ。当時、高品家の次期当主の最有力候補として長兄を差し置いて名が挙がっていた徹二は、将来の主との対面を、生後三ヶ月目に許された。母親の腕の中で安らかに寝息をたてるおくるみを見た瞬間、徹二は、すさまじい愛護の欲に囚われた。母親の了解を得た上で小さなその手を握らされ、いっそうその念を強くする。
――彼女に尽くすことが、己の存在意義である。
幼い頃からの更識家第一主義の教育。それが大輪の華を咲かせた瞬間であった。以来、徹二は以前にも増して更識――楯無――のよき忠臣であるよう、己を律するようになった。楯無が中学校を卒業し、正式に当主を襲名したときは、感激のあまり祝いの席で滂沱したほどだ。
そんな高品だから、夜の遅い時間帯の指名に対しても、否の言葉は口にしなかった。むしろ、楯無直々の連絡に、その内心は小躍りしていたほどだ。
「あなただけが頼りなのよ」
堂島弁護士を無事に自宅へと送り届けた後、高品はIS学園にとんぼ帰り。そこで詳しい事情を知らされるや、深夜のうちに二人を連れて学園島を発った。空港への道すがら、さらなる護衛役の選抜作業が水面下で進められたが、結局、他の適性者でいますぐに動ける人員は見つけられず。高品は空港到着後に、二人の要人を一人で守る、という、極めて困難な仕事に取り組まねばならなくなったことを知らされた。それも、情報や装備、訓練といった、あらゆる準備が不足している状態で。
しかしながら高品の最高傑作は好戦的に微笑んだ。ヘヴィーな任務だが、だからこそ沸き立つものがある。なにより、楯無お嬢様から、頑張れ、と、お言葉を頂戴した。
なんとしても二人を守ってくれ。後方支援は、最低限しかしてやれないが、どうにか頑張ってくれ。IS学園にいる楯無から、直またも接の電話を受け取った彼は、その厳命に力強く応えた。
――最高の気分だ。いまなら何でもやれそうな気がする。
高品にとって楯無からの声援は何よりのカンフル剤だった。汲めど尽きないやる気を身の内に感じながら、彼はこの困難な任務にもひるまずに従事していた。
「高品さんは、」
ショーン・コネリーが声をかけた。
「フランスに行ったご経験は?」
「二度、仕事で足を運んだことがあります」
一度目はSPの研修で、フランス国家憲兵隊の対テロ訓練の様子を見学しに。二度目は、『更識』の仕事で、仏国の自動車産業の動静を調べるために。フランスの地図は、おおよそ頭の中に入っている。
「パリにも滞在していたことがあります。デュノア社の本社ビルがある第八行政区にも、何度か足を運んだことがありますよ。鬼頭さんの方は……」
高品は、ちら、と膝の上の本を見た。
「その様子では、フランスは初めてですか?」
「以前から、憧れていた国の一つです」
首肯とともに、鬼頭は答えた。
「ルノー、プジョー、シトロエンと、有力な自動車メーカーを多数持っていますし、なにより、パリ・モードの本場だ。時計好きとしても、楽しい国なのは間違いありませんでしょうから。……まさか、こんな形で足を運ぶことになるとは、思いもしませんでしたが」
パリにはルイ・ヴィトンやイヴ・サン・ローランといった、ハイ・ブランドの本店が数多くあり、その中には当然、時計ブランドも多数含まれている。目的を果たしたらすぐに帰国するよう言われているため、それらの店舗を見て回るのは難しいだろうが、街の空気感だけでも楽しめるだろうか、と思うと、自然、胸が躍った。
機内アナウンスが、出入口のドアが閉まったことを伝えた。この後は乗客全員の着席を確認し、離陸時の注意事項を伝えたら発進だ。
全幅六三・四五メートル、全長六七・五一メートルの巨体が、ビリビリ、と武者震いしている。およそ十分後、白い機体は滑走路を走り出し、快晴の空へと向かって地上から飛び立っていった。
◇
十四時間という、長い時が過ぎた。
鬼頭たちを乗せたA340は、途中トラブルもなくユーラシア大陸を横断し、シャルル・ド・ゴール国際空港へと着陸した。
飛行機から降りた鬼頭は、真っ先に左手首の時計を操作した。そこにはいつものボーム&メルシエではなく、八角形のベゼルが特徴的なデジタルウォッチの姿がある。CASIOの2100シリーズ・G-SHOCKだ。鬼頭ら計愛好家たちの間で、カシオークの愛称で親しまれているモデル。マルチバンド6という標準電波受信機能を備え、現地の時間にすぐに合わせることが出来る。日曜日の午後三時四十分。日本とフランスの間には、サマータイムで七時間の時差がある。
三人とも観光旅行に来たわけではないから、手荷物は少ない。現地での活動に必要な物品はすべて、内調からの依頼を受けた駐仏大使館が用意してくれる手はずになっている。入国と税関の審査をクリアしたら、すぐに行動を開始する腹積もりであった。
その税関を出たところに、コールマン髭を生やした若い男が立っていた。紺色のスーツを着た日系人だ。高品の顔を認めると、おっ、と表情を綻ばせ、こちらに歩み寄ってくる。特殊サングラスをかけた鬼頭とシャルロットはともかく、護衛を務める内調エージェントの顔は、事前に資料を取り寄せるなどして確認済らしい。
コールマン髭の男は一行の前に立つと会釈した。近くで見ると、なかなかハンサムな顔の造作をしている。左手には大使館の職員らしく、日本とフランスの現地時間を同時に表示できる、GMT機能付きのグランドセイコーが巻いてあった。
「外務省の伏木と申します。皆さんをパリ市内へ案内するよう、駐仏大使から仰せつかって参りました。外に移動用の車を待たせております。こちらへ……」
伏木の先導に従って、到着ビルを出た。ビルを出てすぐのところに、外交官車両用の特殊なナンバープレートを付けた、30系のアルファードが駐車していた。運転手とおぼしき壮年の男がかたわらに立ち、こちらに向けて手を振っている。伏木が応じてこちらも手を振ると、彼は後部座席側のパワースライドドアのノブに手をかけ、鬼頭たちを広壮な車内空間へといざなった。
駐仏大使館が用意したアルファードは、七人用のエグゼクティブラウンジ仕様であった。30系アルファードの最上級グレードで、運転席も含む全てのシートにナッパレザーを採用している。高級ミニバンにとって一番の肝である、セカンドシートの造りが特に素晴らしく、電動式のオットマンやリクライニング機能など、装備も充実している。
壮年の運転手は鬼頭をキャプテンシートに案内した。一見しただけでも上質とわかるシートにゆっくりと腰を下ろし、背中を預ける。極上の座り心地。自然と肩から力が抜け、相好が崩れ、リラックスした気持ちになる。
鬼頭の隣には、高品が座った。
車に乗り込む直前、彼はもう一つのセカンドシートを前方側に大きくスライドさせるとシャルロットを手招きし、先に三列目のシートに座るよう促した。
「政府からの指示でね。移動中は、なるべく鬼頭さんのすぐ隣にいるように言われているんだ」
なぜ、という部分をあえて削ぎ落とした言葉遣いに、シャルロットは、はっ、となった。
不慮の事故や、男性操縦者を標的とするテロ行為など。移動中に何かトラブルが発生した場合に、必要とあれば即座に鬼頭へ飛びかかり、覆い被さってこの身を盾としやすい席順を心がけているのか。言外に滲む凄絶な覚悟をまざまざと感じ取り、少女は思わず息を呑んだ。
伏木は助手席に腰かけた。
全員が乗り込んだのを確認すると、運転手の男はすべてのドアをロックした。
アルファードが静かに動き出し、空港を出て、スピードをあげていく。シャルル・ド・ゴール国際空港からパリ市内まではおよそ三十キロ。道の混み具合にもよるだろうが、所要時間は四十~六十分といったところか。
車の窓には全面隙間なく特殊な偏光フィルムが貼られている。車内からの視界はクリアだが、外からは内側の様子を覗き見れないよう、光の反射方向を操作していた。伏木から窓の仕様を聞かされた鬼頭とシャルロットは、およそ十六時間ぶりに変装サングラスに手をかけた。仮面が剥がれ落ち、二人の素顔が露わとなる。
仮面といっても、空間投影技術を用いた電子の仮面だ。重さはないはずが、二人は分厚い化粧を綺麗さっぱりと落とした直後かのように、開放感を得ていた。自分ではない誰かの顔がへばりついている、というのは、心理的な息苦しさがある。
「大使からは、」
助手席の伏木がおもむろに口を開いた。キャプテンシートの鬼頭を振り返る。
「鬼頭さんには寄り道などさせず、なるべく速やかに目的を達成させて、すぐ日本へ返せるように、と言われております。このまま、デュノア社本社へ直行しても?」
「結構です」
左手のカシオークに、ちら、と目線を落としてから、鬼頭は頷いた。
「それでお願いします」
「わかりました。それと高品さん、あなたにお渡しする物が」
伏木はシートに腰かけたまま足下に手をやった。アルミニウム製のアタッシュケースの取っ手を掴み、後ろの席へ突き出す。見るからに重厚そうな造りの、大型のケースだ。
「東京を発つ直前に依頼された物です。ご査収ください」
ケースを手渡す伏木の顔は緊張で強張っていた。
高品は受け取ったケースを膝の上に載せた。アタッシュケースは、開閉を二個のパッチン錠で制御する構造をしていたが、それぞれの錠前はさらに四桁のダイヤル錠で開閉を厳重に管理されていた。「解錠ナンバーは……」と、伏木の声に従い、ロックをはずす。パッチン錠に手をかけてところで、隣に座る鬼頭が興味深げに訊ねた。
「何です?」
「拳銃ですよ」
伏木の張りつめた声とは好対照に、応じる高品の声音はあっさりとしていた。
「スーツの下に忍ばせていても目立ちにくい、小型か、中型の拳銃を一挺と、予備の弾薬。それから、対応するショルダー・ホルスターの一式を、大至急で都合してくれ、と。成田を出る前に頼んでおいたんです」
鬼頭もシャルロットも、ISという強力な兵器を常に携帯しているが、これらの運用はアラスカ条約や各国の法律により厳しく制限されている。禁じられた武力を無闇矢鱈と濫用すれば、刑法で罰せられることになりかねない。
ISの戦闘力をもってしか対処のしようがない特殊な状況を除き、二人が戦わなくてもいいよう拳銃の存在は必須と考えられた。
「急なことだったので、さすがに、銃の種類までは指定出来ませんでしたが」
ケースを開けると、中には革製のショルダー・ホルスターと弾薬の入った紙箱、そして油紙にくるまれた三角形の物体が入っていた。高品の目線はまず紙箱に向けられた。38スペシャル弾が五十発入っていることを示す印字。良好な精度と威力に対して制御しやすい反動が魅力の、リボルバー・カートリッジの傑作だ。弾薬がこれ、ということは……。高品は次いで、三角形の物体を手に持った。小さく、そして軽い。油紙の包みを丁寧にほどくと、現われたのはやはり小型のリボルバーだった。
S&W・M60。リボルバーの名門、アメリカのスミス・アンド・ウェッソン社のポケット・リボルバーM36をステンレス化したモデルだ。アナログカメラのフィルムケースをひと回り大きくした程度の回転式弾倉に、38スペシャル弾を五発装填することが出来る。
原型となったM36は一九四九年に設計された。一九四〇年代、S&W社は私服警官など法執行機関向けに、携帯性に優れる小型リボルバーの新規開発を計画した。当時、同社にはすでに小型リボルバー用のIフレームがあったが、これは一八九六年の開発と基本設計が古く、また三二口径用で威力不足が指摘されていた。そこで、三八口径・小型リボルバー用のJフレームを開発。小型・軽量はそのままに、三八口径の反動に対応した強度を実現した。このJフレームをはじめて採用したのが、M36だ。
M36は翌年の十月に試作銃が完成した。サンプルはその年の警察官大会に提出され、特に、潜入捜査などに従事するアンダーカバーの刑事たちから高評を得る。これに自信を持ったS&W社は、なんとその年のうちから販売を開始。当時はまだナンバリングによる命名方式を採用しておらず、本銃の商品名は、実質的なお披露目会となったのが警察官大会IACP(International Association of Chiefs of Police)だったことから、『チーフ・スペシャル』の商品名が与えられた。
高品はステンレス・チーフのグリップを握った。M36シリーズの特徴は、なんといってもその小ささと軽さ、そして突っかかりの少なさだ。銃身の長さが二インチのモデルと、三インチのモデルとあるが、このM60は二インチ・モデル。五センチメートルあるかないかという短小の銃である。重さは、シリンダーが空っぽの状態で五四〇グラム。38スペシャル弾を五発フル・ロードしても、六〇〇グラムちょっとしかない。この大きさと重さは、普段からの持ち歩きに便利だ。
もとが七十年以上前の設計とあって、ぱっと見た瞬間の印象は古くさい。しかし、こうして掌の中でしげしげ眺めていると、当時なりによく考えられたデザインをしていることに気づく。ハンマーを除いて、ホルスターやポケットの中で引っかかってしまいそうな部分が見当たらない。引き抜きからの早撃ちを容易にしている。普段は隠し持ちやすく、いざというときにはすぐ手の中に召喚できる。護身用の拳銃として、非常に優れたプロダクトだといえよう。
もっとも、その小ささと軽さは、短所をも併せて内包している。小さなグリップはしっかり握り込もうとすると工夫が必要だし、五〇〇グラム半ばという重量は、それだけでは38スペシャル弾の反動エネルギーを殺しきれない。発射と同時に暴れ出す銃口を落ち着かせるには、射手のテクニックが肝要だ。
とりわけ厄介なのは、銃身の短さに起因する弾道の不安定さだ。銃弾は、銃身内に刻まれたライフリングにより、回転しながら射出されることによって真っ直ぐ安定して飛んでいく。たった二インチしかない銃身では、この回転が十分に得られないまま銃口から飛び出すことになる。ひとところに集弾させるのが、非常に難しい。
総じて、便利だが使いこなすには相応の技量が求められる、難しい銃だといえる。近距離から不意の一発を叩き込むのは得意だが、互いに銃をバンバン撃ち合うような場面には向いていない。
高品はM60をドライ・ファイアした。親指でハンマーを起こしてから人差し指でトリガーを引き絞るシングル・アクションを十回。人差し指でトリガーを引く動作だけでハンマーの振り上げと振り下ろしを行うダブル・アクションを十回。掌に意識を集中し、引き金の感触の具合を慎重に確かめる。スムーズな動作。急遽用意したというわりに、よく手入れされている。
「どういう銃なんです?」
手元をのぞきこみながら鬼頭が訊ねた。
高品はちょっと考え込んだ後、
「携帯には便利ですが、狙って当てるのは難しい銃です」
と、きっぱり言った。
この言葉を聞かせれば護衛対象を不安にさせてしまうかもしれない。しかし、鬼頭智之は銃に関して素人ではない。IS学園では日常的に触っているだろうし、KT班が作成した調査報告書にも、アメリカ留学中に友人と射撃場に足を運んだ経験がある旨が記載されていた。事実の隠蔽や、その場しのぎの嘘による誤魔化しは難しいだろう。下手を打つと、かえって相手の不信を買ってしまいかねない。
護衛の任務において、警護対象との信頼関係に亀裂が走るほど恐ろしいことはない。ここは自分の素直な所見を口にした方が得策だろう、と判断しての発言であった。
「使いこなすには練習が必要です。使わずにすむことを、祈りましょう」
◇
フランス共和国の首都パリ市は、フランス革命後の一七九五年以降、行政区に分けられている。当時は革命直後の混乱期、パリの人口はおよそ五五万人にすぎず、市域もいまよりずっと狭かった。行政区の数も、当初は十二区分で十分とされたが、その後の産業革命やオスマンのパリ改造などにより人口も市域も大幅増。一八六〇年に見直されることになり、現在の二十個に再編された。これら二十の行政区は、パリ発祥の地とされる第一区を中心に、右回りの渦巻き状に番号が割り振られている。
一行の目的地であるデュノア社の本社は、このうちの第八区にあった。街の半分以上を行政地区が占めるエリアで、南側に隣接する七区とともに、フランスの政治・行政の中心地と位置づけられている。八区には大統領官邸のほか、内務省が入っているボーヴォ館、海軍の参謀本部、各国の大使館などがあり、日本の駐仏大使館もこの地区に所在していた。外交官ナンバーを付けた車両が街中を走っていても目立ちにくく、鬼頭たちは周辺の道路を何周もして、敵地の様子をじっくりと観察することが出来た。
デュノア社の本社は、広壮な敷地内に七階建てのオフィスビルや小さな工場、テスト用と思しきISアリーナといった複数の施設が身を寄せ合っている複合施設であった。敷地の外周を、三メートルはあろう高さのコンクリート塀がぐるりと囲っている。
世界的な大企業の本社機能と軍事機密を満載している場所だけに、警戒は厳重であった。背高の塀の上には、コイル状に巻かれた有刺鉄線が張り巡らされている。出入口は正面ゲートの一箇所のみで、いかにも重たそうな鉄製の門扉のかたわらには警備員たちの詰め所が見えた。鬼頭たち日本人の感覚でいうと、地方のコンビニほどの大きさの平屋の建物だ。正門の前には屈強な体つきをした男が二名立っているが、他にも数名からのタフガイたちがあの中で待機しているに違いない。
警察から特別な許可を得ているのか、警備員たちは腰のベルトからヒップ・ホルスターをこれ見よがしにぶら下げていた。大型拳銃の存在感を周囲にアピールし、近づく者を威嚇している。
「大使からは」
まるで刑務所のような外観の建物を左手に眺めながら、助手席の伏木が呟いた。後ろの面々を振り向く。
「鬼頭さんたちの目的は、デュノア社社長アルベール・デュノアとの面会にある、と伺っております。どうやってお会いになるおつもりで?」
「勿論、正面から堂々と訪ねますよ」
キャプテンシートの鬼頭は微笑した。
「あの警備態勢を掻い潜ってこっそり侵入する……なんていうのは、不可能でしょう」
「アポイトメントは?」
「取っていません。が、秘策があります」
「秘策?」
「ええ」
自信ありげな言葉とは対照的に、鬼頭は忌々しげに唇を歪めた。事前にその腹案を聞かされていたらしい高品が眉間に皺をつくり、三列目シートのシャルロットも苦笑を浮かべる。二番目の男はやがて深々と溜め息をつくと、
「信じられないことに、いまの私は世界でいちばんに有名な男らしいんですよ」
正面ゲートから十メートルと離れていない路肩に一台のアルファードが駐車したのを見て、警備員の男たちは顔を見合わせた。
駐車位置から推測するに、デュノア社に用があるのは間違いない。だが、なぜ正面ゲートではなく、あんな中途半端な場所に?
こんな時間に訪問があるとも聞いていない。明らかな不審車両。
すぐに一人が無線機を手に取り、詰め所で待機している仲間たちに召集をかけた。もう一人の男は、念のためヒップ・ホルスターの留め具をはずした上で、ゆっくりとミニバンに近づいていく。元軍人、あるいは警察官か。隙のない所作で黒塗りの高級車に歩み寄る。
近づくにつれて、アルファードの窓にスモークフィルムが貼られていることに気がついた。警備員の男は自分の頭の中にだけ存在する信号機が黄色へ変わったのを自覚した。ホルスターからフレンチ・ベレッタを引き抜き、スライドを引く。チャンバーに、最初の一発を叩き込む。
安全装置は、まだはずさない。
警備員の男はアルファードの運転席側に回り込むと、手の甲で窓を叩いた。応じて、パワーウィンドーが下がる。ただしそれは、二列目のキャプテンシートがある位置の窓であった。緊張の瞬間。いきなり、銃を突きつけられるかもしれない。
衝撃が、彼の心臓をぶち抜いた。
窓の向こう側に、世界でいちばん有名な男の顔があった。
「ボンジュール・ア・トゥス」
みなさん、こんにちは。最初の挨拶だけ、鬼頭はフランス語を口にした。続けて、英語を口にする。
「御社の社長、アルベール・デュノア氏に、お伝えください。鬼頭智之が会いに来た、と。きっと、時間をとってくれると確信しております」
Chapter43「花の都へ」了
事件当日の午前十時。
ミュンヘン・オリンピック公園に建設された巨大ISアリーナは、興奮の坩堝と化していた。
第二回IS世界大会ワン・オン・ワン部門、その第三位決定戦の火蓋が、切って落とされたのだ。
対戦カードは、エジプト代表カマル・アブド・アル=ラフマンVSアルジェリア代表のブバージャ・スアード。ともに世界屈指の強豪たちを退けて今日を迎えた、麗しのヴァルキリーだ。この後に決勝戦が控えている、というプログラムの都合上、どうしても前座の感はぬぐえないが、それでも実力者同士の激闘は迫力満点、瞬き厳禁。十万人の大観衆は勿論のこと、各々の所有する端末で中継映像を見ている世界中の視聴者たちを存分に楽しませてくれるに違いなかった。
あるいは、見る者によっては、決勝戦よりこちらの方が玄人好みだとして楽しいかもしれない。今大会の第三位決定戦には、後の試合にはない特別な要素があった。カマルも、スアードも、細かな仕様の違いはあれど、同じフランス製のバトル・ドレスを着こんでいた。
『ラファール・リヴァイブ・カスタム』。フランス・デュノア社の傑作機『ラファール・リヴァイブ』の性能向上モデルだ。標準仕様のラファールが、誰が乗っても安定して高性能を発揮できるよう冗長性を持たせた造りなのに対し、カスタムではそのあたりを大胆にカット。扱いやすさを失った代わりに、推進機器の増設や、ロボットアームのアクチュエータをより大容量な物へ換装するなど、膂力や機動性を大幅に強化していた。誰にでも乗りこなせる機体ではないが、性能を百パーセント引き出せる技量の持ち主が操縦すれば、標準機など歯牙にもかけない強さを発揮しうる。そんな機体に仕上がっている。
自動車レースの世界では、勝敗を決する要因は、マシンの性能が九十パーセントで、残りの十パーセントがドライバーの腕や時の運だという。IS競技の世界も同様で、試合で勝つためにはまず機体選びが重要だ。
今回の世界大会では、多くの国の選手が、『ラファール・リヴァイブ』や、そのカスタム・モデルを使っていた。同一機種同士の試合も珍しいことではない。
それなのに、第三位決定戦で殊更その点が注目される理由は、両選手がさらに加えたチューニングの違いにあった。
世界大会に出場する選手の常で、カマルもスアードも、自身のリヴァイブ・カスタムをさらに自分好みに改造している。カマルの場合は、駆動肢やロケット・モーターを大型化。パワーを強化するとともに、搭載するイコライザ(後付兵装)も一発の威力を重視した高火力な物ばかりという、一撃離脱戦法に特化させていた。見た目の変貌ぶりもすさまじく、原型機よりも二回りも大柄になっている。リアスカートに四箇所あるハードポイントはすべて翼付きの補助推進装置で埋まっており、サンバ衣装のように背面がにぎやかだ。
他方、スアードの駆るリヴァイブ・カスタムは、機体性能の強化はほどほどに、ラファール本来の持ち味である汎用性の高さを活かしていくための改良が施されていた。主には、出力特性をはじめとする全体のバランス調整や、センサー機器の強化といった内容だ。見た目の変化は最小限に留まっており、統合センサーを搭載したヘッドギアがわずかに大ぶりになった程度。カマルのリヴァイブ・カスタムがワン・オン・ワンのみの出場なのに対し、スアードはこの愛機とともに合計で八種目に参加し、そのうち一種目は優勝までしている。
戦闘に強いカマルのラファールと、何をやらせても強いスアードのラファール。
同一機種ながらかくも性格の異なる両機に対しては、一般の観戦者よりも有識者――とりわけ、IS関連企業に勤める技術者たちの方が関心を寄せていた。
「これは、強さではなく、正しさを証明するための闘いだ」
とある国の軍人は、二人の試合を前にこう述べた。
カマルとスアードの力量は、公平に見て拮抗している。勝敗を決するのは、機体の違いだろう。ともに同じ『ラファール・リヴァイブ・カスタム』。原型機に性能差はない。違いは、後から施された改造の方向性のみ。はたしてどちらのラファールが勝つか。いや、どちらのチューニングが正しいか。
決勝を戦う織斑千冬やアリーシャ・ジョセスターフのISは、どちらもワン・オフ・モデルの第一世代機。試合を通して得られる知見は、他の機体への応用が難しいだろう。
しかし、量産を前提とした造りの第二世代機、そのハイエンド・モデル同士の戦いは違う。この試合で勝った方の機体に施されたチューニングが、今後の主流となる可能性がある。
会場で、テレビの前で、あるいは携帯端末を片手に、世界の技術者たちは、固唾を呑んで試合の行く末を見守っていた。
ベルリン国際ISアリーナは、一般客を想定した観客席の他に、軍人や各国政府の高官、IS関連企業の役員といった、VIP専用の観戦ルームを備えている。これらの部屋は一般席からは隔離された場所にあり、白熱の試合を、落ち着いた環境で楽しむことができる。
企業向けに用意されたVIPルームの一つに、立派なあごひげをたくわえた壮年の男と、黒髪を七三に分けた面長の男が並んで観戦席に座っていた。ともにハイ・ブランドのスーツをスマートに着こなし、左手には高級時計をはめている。
デュノア社社長アルベール・デュノアと、副社長のペルナール・ドゥフェロンの二人だ。世界有数のIS企業の長として、自社製品同士のぶつかり合いを静かに眺めている。
対照的な戦い方をする二人であった。
カマルの『ラファール・リヴァイブ・カスタム』は、パワーや、直線的なスピードに優れる分、小回りが効かない。膂力の差を活かしやすい格闘戦は別として、近距離での撃ち合いは不利と見た彼女は、猛然と接近しては強烈な一撃を叩き込み、命中失敗問わずすぐ離脱して距離をとる、というヒット・アンド・アウェイに徹していた。
対するスアードのリヴァイブ・カスタムは、あらゆる距離に強い。この日のためにとこしらえた後付兵装の種類も豊富で、相手の接近時、攻撃の瞬間、距離を取っているときと、どんな状況でも攻撃の手を休めない。その代わり、一発々々が与えるシールド・エネルギーへのダメージは小さい。
狙いすました一撃での決着を目論むカマルと、小さなダメージを蓄積させていくスアード。
戦況は、カマルの方が優勢に見える。
試合が始まってはや五分、合計六回のアプローチは三度成功し、スアード機のシールド・エネルギー残量をすでに五割近くも削り取っていた。カマル機の方は、まだ七割以上残している。
「どっちが勝つだろうか?」
あごひげの男……アルベール・デュノアが、目の前の光景に厳しい眼差しを向けながら呟いた。七三分けのペルナールは、顎先を揉みながら応じる。
「エジプト代表だろう。機体のパワーが違いすぎる。アルジェリア機も上手く立ち回っているが、決定力不足だ。エジプト機が一撃を叩き込む間に、こちらは十発以上銃弾やら榴弾やらを浴びせているが、そのダメージ総量は相手の一発に及んでいない。このまま殴り合いが続けば、アルジェリア機の方が先に力尽きるだろう」
「意見が割れたな」
アルベールはこともなげに言った。
より良いプロダクトを必要とする顧客のもとへ。日々尽力している二人の間で、意見が衝突するのはよくあることだ。
「私はブバージャ・スアードが勝つと思う」
「根拠は?」
「ラファールというISの特性や良さをよく理解しているチューンと戦い方だ。エネルギー残量で一見優勢に思えるカマル機だが、追いつめられているのはむしろ彼女の方だろう」
一撃離脱戦法への特化とは、言い換えると、それ以外に勝ち筋を見出しづらい機体だといえる。カマルには、一撃離脱の他に、戦う術がない。一撃離脱戦法にすがるしかない。
一撃離脱戦法は短期決戦向けの戦術だ。こちらのねらいは明らかだから、相手は対策を練りやすい。試合が長引くと、こちらの動きに慣れてくるから、いっそう対処がしやすくなってしまう。
「今日の試合、カマルは五分間で六回の強襲を行っている。初回の対戦車砲は見事直撃した。二度目と三度目のミサイル攻撃ははずれ、四度目のグレネード投射はなんとか命中した。五度目はそもそも接近をさせてもらえず、六度目は、多少のダメージは覚悟で突っ込んだことが功を奏して、すれ違い際に大剣の一撃をくれてやった」
だんだんと当てづらくなっている。当てることが出来ても、無傷ではいられない。スアードがカマルの動きに慣れてきている証左だ。
二人の目の前で、カマルの七度目のアプローチが開始された。PICの反作用推力に加えて増設したスラスターを思いっきり噴かし、スアードの周囲をぐるぐると旋回する。手には五一口径の重機関銃。弾幕を張りながら、突っ込みのチャンスをうかがう。
スアードは、こちらも五一口径のアサルト・ライフルを構えた。ピストル・グリップを右手で握り、銃床を脇で抑えながら片手一本で撃つ。カマルの動き出しを封じ込めるための牽制射撃だ。その間に、空いている左手に別の武器を『展開』。手投げ式の棒付きの榴弾をスライダー投げ。
突然カーブを描いてきたカマルは面食らう……ことはしない。彼女ほどの実力者ともなれば、これくらいの反撃は想定していた。落ち着いた所作で機関銃を構え、近接信管が作動する前に猛射を浴びせ、撃ち落とす。
スアードの投擲は、不発に終わったばかりか、相手につけ入る隙を提供する結果となった。
投げの動作の直後で、彼女の姿勢はわずかに崩れている。
右手にはアサルト・ライフルを持っているが、左手には何もない。
カマルは風に乗るツバメのような動きで右へと回り込んだ。機関銃を放り捨て、拡張領域から新たな武器を召喚する。単発式のロケット・ランチャーだ。直径が五インチはあろう大筒を、左右の腕で一挺ずつ抱え持つ。ヘヴィー級のロボットアームのパワーのおかげで、一・二メートルの全長からくる取り回しのわずらわしさや、十三キログラムの重さは感じない。
発射筒にはピストル・グリップがくっついている。
カマルは無防備な左手側より接近すると、十メートルの距離で二挺の電磁式トリガーをまったく同時に引き絞った。
ボッ、ボッ、と、筒内の空気を押しのけて、対戦車用のHEAT弾が勢いよく飛び出した。
装甲貫通力七五〇ミリ。ISのバリアーといえど、直撃をもらえば、シールド・エネルギーの大幅減は免れられない。
――獲った!
カマルは勿論、VIPルームのペルナールもそう思った。
しかし、ここまでの一連の流れこそが、スアードの作戦であり、アルベールが評した、ラファールの持ち味を活かした戦い方であった。
機動性強化のため、カマルは推進器ばかりを積んだリアスカートのハードポイント。スアード機のそこには、原型機の『ラファール・リヴァイブ』と同様、サブアーム付きのマルチ・ウェポン・ラックが四基接続されていた。アルジェリア代表の戦乙女は、ここぞとばかりに、バス・スロットに格納していた兵器群をウェポン・ラックに一気に『展開』する。
複合装甲製の物理シールドが二枚と、六本の銃身を束ねたタイプのガトリング銃が一挺。大きなヨーヨーが鎖のように何個も連なった異形の鞭が一本。ウェポン・ラックに一斉に出現し、カマルの迫撃を迎え撃つ。
まず、細いパイプをつなげたようなサブアームに支持された物理シールドが、殺到する成形炸薬弾を受け止めた。キャップと呼ばれる先端部分が潰れ、砲弾内の炸薬が爆発する。高温高圧のガスが一点に集束し、モンロー効果のトーチの錐が、チョバム・アーマーを焼いた。
メタルジェットの槍は、はたして、幾層にも重なった異素材造りの盾を貫けなかった。
攻撃の失敗を見届けるよりも早く、そのまま相手の背後を真っ直ぐ突っ切って離脱しようとするカマルに、次いで、秒間一〇〇発の濃密な射撃が襲いかかる。
回転式銃座にマウントされたガトリング銃による拘束射撃。シールド・エネルギーへのダメージと、一瞬の遅速。その僅かな隙を突き、スアードは、ウェポン・ラックの鞭を手に取った。
連結式対戦車地雷、チェーンマイン。円盤型の吸着式対戦車地雷十個を直鎖状につなげ、鞭のように振り回して攻撃するIS用兵装だ。地雷一個の大きさは直径およそ三十センチメートル。TNT火薬が、五キログラムも詰まっている。
鞭の全長は約四・六メートル。総重量は一二〇キログラムをゆうに超えるが、ISの膂力はこれをたやすくぶん回す。スアードが、えいやっ、と腕の筋肉に気合いを篭めると、神経伝達を検知したロボットアームが素早くスイング動作。風斬り音を置き去りにして、脅威の鞭がカマルを襲撃した。円盤の各部に仕込まれている磁石が反応し、敵機の装甲へと引き寄せられて、うねうねと肉薄する。
ごっ、と打衝音。シールド・バリアーの見えない壁にぶつかって、信管が作動する。スアードは、鞭の柄からすかさず手を放し、スラスターを猛噴かせて離脱した。
一個の地雷が爆発。誘爆して、二個目の地雷も爆発。さらに誘爆して……が、十回連続した。
閃光。爆風。ボッボッ、という衝撃音。そして、会場からの喚声。スタジアムの大型モニターに表示されているカマル機のシールド・エネルギー残量が、ものすごい勢いで減っていく。
その様子を見て、VIPルームのアルベールは、にや、と冷笑を浮かべた。
「これだよ、ペル。これこそが、私たちのラファールにふさわしい戦い方だ」
前大会における織斑千冬の活躍は、IS戦術にあるトレンドをもたらした。一撃必殺の『零落白夜』。誰も彼もがこの技に憧れ、研究し、その再現を目指した。世界を制した技だ。これさえわがものにできれば、と考えた者たちは多い。残念ながら、ワン・オフ・アビティーである『零落白夜』そのものをコピーすることは出来なかったが、それに近い火力の武器や、それらを命中させるために最適化された戦術が、業界で流行することになる。カマルの取った一撃離脱戦法も、その一つだ。
「何かに特化する、ということは、それ以外のすべてを捨てる、ということだ。実際、織斑千冬の『暮桜』は、強力なワン・オフ・アビリティーと引き換えに、射撃兵装の搭載が出来ない機体になってしまった、と聞く。……私たちのラファールは、そんなことはしない」
何も、手放さない。四肢の膂力、防御、運動性能、機動力、後付兵装の搭載量と多種多様さ、可用性に信頼性……どれ一つとして、放棄しない。最強の汎用機。あらゆる場面で活躍できる、柔軟な強かさを持つIS。それこそが、自分たちの『ラファール・リヴァイブ』だ。
「スアード機は、ラファールの強みを伸ばす方向性でカスタムを改造した。カマルは、間違った方向性のカスタムをした」
爆発の炎の中から、カマル機が飛び出して姿を現した。
ひどい有様であった。全身の装甲が焼け焦げ、一部の箇所は破損し、機能を喪失している。連鎖爆発した地雷のエネルギーが、シールド・バリアーを貫通して機体そのものにもダメージを与えたのだ。操縦者保護の『絶対防御』も発動したか、シールド・エネルギーの残量は、二割を切っている。
「形勢逆転だ。大会第三位は、彼女のものだ」
アルベールが呟いた、そのときであった。VIPルームのインターフォンが来客を知らせる音を鳴らした。
良いところで、と内心舌打ちをしながら、二人は背後に控えていた秘書に応対するよう指示をした。秘書の男は頷くと、ドアのすぐそばにある操作パネルに手をのばし、インターフォンの通話機能をオンにした。
『陸軍特殊作戦旅団のソール・ニコラス大尉です』
スピーカーから聞こえてきたのは、ドイツ語でも、英語でもなかった。フランス語だ。特殊作戦旅団はフランス陸軍の組織。今大会の観戦に、軍から派遣された一人だ。
『そのままでいいのでお聞きください。ベルリン市内が、妙にさわがしい。何か事件が起きている可能性があります。身の安全のため、決してその部屋を出ないようにお願いします』
社長と副社長は顔を見合わせた。
二人は自然と、およそ五十年前にこの街で起こった、あの悲劇的結末を迎えたテロ事件のことを思い浮かべた。
◇
同時刻。
ベルリン市中心街、高級ホテル、バイエリッシャー・ホーフのロビー。
ハンス・ブルックハルトとスーツの男が、互いに相手を狙って拳銃の引き金に指をかけたのは、まったく同時のことだった。しかし、お互いに放った銃弾は、彼らにまったく異なる結果をもたらした。ハンスのグロック拳銃から発射された九ミリ弾は相手の右肘を正確に撃ち砕き、衝撃で男の手から拳銃をはたき落とした。対するスーツ男の銃弾はハンスの右肩の真上十センチのところを通過し、彼の背後で、悲鳴を生んだ。若いホテルマンの声。
この瞬間、ハンスの状況判断は分裂した。このまま前を向いているべきか。それとも、拳銃で武装している犯罪者たちに背中を向け、後ろの民間人を気遣うべきか。
「振り向くな!」
背後から、サクラザカのドイツ語。
「後ろのことは気にするなッ。ロベルト巡査は、奴らを!」
奴ら。三人の男の動作は機敏であった。清掃業者の作業着を着た一人が大きなポリバケツが載った台車のハンドルを握って猛然とダッシュ! もう一人の作業着男は先導役として前を走りながら、ピストルを天井めがけて発砲。ホールに残っている数少ない宿泊客たちが妙な気を起こさないよう、銃声で周囲を威嚇する。
スーツの男は、無事な方の左手で拳銃を拾い上げると、こちらに向けてまた発射してきた。でたらめ撃ちだが、牽制にはなる。二発撃つと踵を返し、仲間たちを追いかけた。
誰一人として、行動に迷いがなく、無駄がない。彼らからしてみれば、あのタイミングで警官と鉢合わせるなんて、アクシデントのはずなのに。動揺はしていても、動きを止めることはしない。各々が自分のなすべきことを、しかと心得ている。
厄介な連中だ。相手の手際の良さは、ハンスの神経を逆撫でた。明らかに、事前に計画し、周到に準備をし、この日のために、十分な訓練を積んできた者たちの動きだ。
こんな奴らと戦うには、こちらも、目の前の敵だけに集中したい。後ろは気にするな、というサクラザカの言葉はありがたく、ハンスの四肢を勇気づけた。
ハンスは腰を落とし、低い姿勢で敵を追った。追いかけながら、グロックを撃った。今度は、いちばん後ろを走るスーツ男の左肩を貫通。衝撃と痛みでバランスを崩し、つんのめるが、なんとか踏みとどまって、走るのを続けた。
一団はやがて、広いホールを抜け、正面玄関のドアを抜けて外に出た。フォルクスワーゲンを正面玄関に駐車したのは、やはり逃走のためだったか。作業着の二人が急いでバンの荷室扉を開き、台車からポリバケツを放り入れる。両腕を破壊されたスーツの男は、射撃の度に肘と肩を打つ反動の痛みで絶叫しながら、追ってくる警察官に向けて銃を乱射した。観光都市ミュンヘンの中心街での凶行に、其処彼処からの悲鳴、悲鳴、悲鳴!
ハンスは正面玄関を支える柱の陰へと跳びこんだ。敵の銃撃が石柱を叩き砕き、石の礫を飛散させる。反撃の射撃を叩き込もうと右半身だけ柱の陰から姿を現し、すぐに引っ込んだ。相手の攻撃を恐れたからではない。相手の背後にある、フォルクスワーゲンが問題だ。
――サクラザカの言によれば、あのポリバケツの中には奴らが誘拐した、誰かがいるはずだ。
意図せぬ一発や、不意の跳弾がガソリンタンクにでも命中すれば、件の人物をいっそう危険な状況に追いやってしまう危険がある。上手くタイヤだけを撃ち抜ければ、相手の逃走能力を奪えるチャンスでもあるが。この猛攻撃の中で、精確に照準が出来るだろうか……。
彼が逡巡したのは、一瞬のことであった。しかし、その一瞬のうちに、後部ドアが閉まり、作業着の二人はそれぞれ運転席と、後部座席へと乗り込んだ。スーツの男は、最後にピストルの箱型弾倉に残る銃弾をすべて吐き出させると、仲間の助けを借りながら後部座席に飛び乗った。
バンが、ものすごい勢いで走り出した。ハンスは柱の陰から飛び出し、その後ろ姿に向けてグロックを構えた。駄目だ。走行中のバンを撃てば、タイヤだけに当たったとしても制御不能状態に陥り、街のどこかに突っ込んで、さらなる被害を生む可能性がある。ホテルの外に脱出を許してしまった時点で、こちらに許される行動オプションは大幅な制限を受けてしまった。
くそ。小さく舌打ちし、ハンスはトリガーに引っ掛けた人差し指から力を抜いた。拳銃を下ろした直後、そのかたわらに、猛然と、BMWのSUVがやって来て停車した。
「ハンス!」
助手席から顔をのぞかせたのは、同じGSG-9のライナーだった。車内には他にも、彼がこの日のために選抜した精鋭たちの姿がある。
ハンスは歓呼の声を上げた。さすが相棒、良いタイミングだ。彼はすぐにSUVに乗り込むと素早く状況説明をした。爆走するフォルクスワーゲンを追いかけるよう、運転席の部下を促す。
熾烈なカーチェイスが始まった。信号や交通の流れ、歩行者の存在を無視して、猛スピードで爆走するフォルクスワーゲン。それを追うBMW。どういうわけか、街中に配置されているはずの警察官は、誰一人としてこの暴走行為を止めようと動かない。いや、動けないのか。
「お前がホテルに入った後も、街のいたるところで事件が起きていた。その度に、みんなの配置が変わって……、いや、変えられてしまったんだ」
無線を握りしめながら叫んだライナーの言葉に、ハンスは歯噛みした。IS世界大会のために特設された警察本部に直接応援を要請するも、反応はかんばしくない。
後部座席のハンスはバンの後ろ姿と、ナビゲーションシステムのディスプレイに表示された地図を交互に見つめ、不意に、あることに気がついた。相手の逃走経路。南へ向かっているようだが、このまま進むと――、
「しめた。市外に出るつもりだ」
ライナーもそのことに気づき、にやりと笑った。
ミュンヘンはアルプス山脈北縁から五十キロメートル離れたオーバーバイエルンの高い平野部に築かれた都市だ。南側の地域は山脈の北端に近く、モレーン(氷河の堆積物)による丘陵地帯が広がっている。ここは森林が多く、自然保護区や湖が点在している。
丘陵地である南側エリアは、自然の方が多く、人家は少ない。銃を撃っても、跳弾で誰かを巻き込んだり、暴走したバンが予期せぬ場所に突っ込んだりする危険性も低い。
「街の外で仕留めるぞ」
ハンスの言葉に、車内の全員が頷いた。隣に座る部下が、ラゲッジルームからサブ・マシンガンを引っ張り出して彼に手渡す。消音器を取り付けたMP5。ハンスは、サブ・マシンガンの名手でもあった。
ほんの少しカーブした形の弾倉に九ミリ弾がぎっちり詰まっているのを確認する。機関部に挿し入れ、コッキングレバーを引っ張って最初の一発を装填した。
ハンスがいなくなった後のバイエリッシャー・ホーフでは、若いホテルマンが悲鳴をあげていた。
「お、お客様!」
スーツの男が放った銃弾を、自分をかばって前に出て、胸板で受け止めたサクラザカに、泣きながらすり寄る。日本からやって来たという旅行者の男は、トレンチコートの下に着ている黒いセーターの一箇所だけをいっそう黒々と滲ませながら、直立の姿勢を保っていた。
「お客様、大丈夫ですか! 痛みは……、出血は……!?」
「……しまったなあ」
厳めしい造作の面魂が、苦々しく歪んだ。呟かれた言葉の意味を、若いホテルマンは理解できなかった。自然と口をついて出たのが、日本語であったためだ。
「銃の前に身をさらすなんて、久しぶりすぎて忘れていた。そうだった、そうだった。人間の皮膚と筋組織の強度では、この威力の飛翔体が命中すれば、貫かれてしまうんだった」
桜坂は嘆息すると、かたわらの二人を交互に見た。若いホテルマン……動揺著しい。年配のホテルマン……さすがは超一流ホテルのベテランだ。突然の非常時にも、落ち着いている。
桜坂は年配のホテルマンを見て、ドイツ語で言った。
「すぐにホテル内に残っているスタッフを集めてください。手分けして宿泊客への説明と、怪我の確認を。聞いた話じゃ、あいつら、ちょっとの間ホテル内をうろうろしていたらしいじゃないですか。ホールにいる人たちだけでなく、いま館内にいる全従業員、全宿泊客の安否確認が必要でしょう。
それから、警察にも連絡してください。清掃業者を装った何者かがホテルに侵入し、誰か――たぶん、宿泊客――を連れ去っていった。たまたまその場にいたロベルト巡査と、銃撃戦になった、と。端的に、説明を」
「……かしこまりました」
年配のホテルマンは血で滲んだセーターを見つめながら頷いた。
「救急車の手配も、すぐに」
「いや、それは結構です」
桜坂はかぶりを振った。「しかし……」と、語気を強める彼に、仁王の顔の超人は、莞爾と微笑んでみせた。
「本当に平気なんですよ。言ったでしょう? 俺の体は、ちょいと、特別製なんだって。……ちょっとだけ、失礼します」
そう言うと、桜坂は二人の前で左手を胸の前に出した。人差し指で鉤を作ると、セーターの穴に突っ込む。若いホテルマンがまた悲鳴をあげ、さしもの年配ホテルマンも顔面蒼白で絶句した。
桜坂は気にせずに指先で中をほじった。ぐじゅぐじゅになった肉組織を掻き分けて、目的の物を探す。やおら、指先が硬い物に触れた。体内でマッシュルームのようにひしゃげた銃弾を、砂の中に埋もれているアサリを獲るように掻き出す。
ぽと、と掌に朱に塗れた銃弾が落ちた。
桜坂は右手をトレンチコートの内ポケットに差し入れると、水色のハンカチを引っ張り出した。左手の銃弾をくるむと、年配のホテルマンに差し出した。
「後で警察が来たら、これを渡してください。ライフルマークが検出できるかもしれません」
年配のホテルマンが、おそるおそるの手つきでハンカチぐるみを受け取った。桜坂の大きな手が血管の浮き出した手をそっと包み込み、握らせる。
「それじゃあ、後はよろしく頼みますよ」
「……は?」
「ロベルト巡査が心配なので。追いかけてきます」
茫然と聞き返した二人ににっこり笑うと、桜坂は正面玄関に向けて駆け出した。
銃撃を受け、出血をしているはずなのに。そうとは思えぬ軽やかな足取りで、フロントを移動し、ホールを移動し、正面玄関から外へと出る。
二人のホテルマンはその背中を唖然として見送り、姿が見えなくなったところで、はっ、とした。若いホテルマンが弾かれたように駆け出し、彼に倣って外に出て、思わず、破願した。笑うほか、なかった。
「……神様」
地面を軽く蹴ったかと思うと、男の背中が、ふわり、と宙に浮かび、そのまま急速に高度を増していき、やがて、見えなくなった。
(飛行機の移動速度が)ハイスピード。
ちなみに高品の、柔道六段、空手五段 という設定は、SPになるための資格条件の一つに、『柔道又は剣道、合気道3段以上』とあるのを知って、「じゃあ、一文字隼人と同じスペックにしてやれば高品もなれるな」と、この数字にしました。