おぞましい魔物が溢れる城内を強行突破した先に、一同はオルレアンに足を踏み入れてから初めて、二人分のまともな人の姿を見た。
片方は、既に覚えのある竜の魔女。
虚勢の全てが剥がれ落ちて、震えながら怯える様はどうしてもただの少女にしか見えなくて。
今までの彼女の所業を、人々が味わわされた苦しみを忘れた訳では断じてないのに、それでも哀れに思えてしまう程だった。
もう片方は、先程まで派手に蹴散らしてきた海魔を連想させる奇抜なローブに身を包み、遠くから一見しただけで怖気が走るような謎の本を手にした大男。
先程自らが口にした『大元』について察したリンクは、石板から迸る光ではなくその背に負う聖剣の柄へと手を伸ばしながら歩み出し、その挙動に背筋を竦ませた黒いジャンヌが衝動のままに叫んだ。
「来なさいサーヴァント、そいつらを殺せ!!」
膨大な魔力反応と共に、いくつもの形と質量を持った影が実体化した。
想定していなかった新たな敵戦力、それもこちらを囲むほどの数がいきなり現れたことに、それがとある記憶の中にあるものと酷似していたことに、驚いたマシュが声を上げる。
「これは、冬木の街にいたものと同じ……それもこんなに!?」
「『
召喚の手順を簡略化して、サーヴァントの力の一端だけを影法師として呼んだのか」
「こちらには聖杯があるのよ、この程度ならばいくらでも量産できるわ!!」
『サーヴァント』とは言うものの確かな意思や人格の存在は感じられず、かと言って、肌に感じる威圧感はたかが影と楽観視できるものではなく。
損傷を気にせず、ただひたすらに投入すればいいだけの単純な『戦力』と考えるならば、この上ない程に適していた。
追い詰められた状況で、質が保てないのならばせめて量を揃えようと懸命に行動した結果、図らずも辿り着いた正解だったが。
残念ながら、相手が悪すぎた。
青く輝く刀身が唸りを上げながら大きく鋭い弧を描いた、ただそれだけで影の殆どが掻き消された現実に、ただでさえ引きつっていた黒いジャンヌの喉が笛のような甲高い音を立てる。
「いくらでも、ねえ。
面白い、聖杯の限界とやらを一度確かめておこうか」
「こ、んの……化け物!!」
「否定はしないよ」
「待って、リンクさん。
お願いです、彼女と一度話させてください」
背後から声をかけられて立ち止まり、頷いてから横へと逸れたリンク。
その向こう側から現れたジャンヌに、まるで彼女が怯えていた自分に助け舟を出したかのような状況に込み上げる屈辱と、真の思惑がどうであろうとも実際に安堵してしまったことへの情けなさに、ギリッと歯を噛み締めた黒いジャンヌの目尻に薄っすらと涙が滲む。
その姿を前にしたジャンヌが感じたのは、ただひたすらに純粋な哀れみだった。
「……何なのよ、その顔は。
流石ねえ、聖女様……国を蹂躙して滅ぼそうとした魔女でさえ、追い詰められていれば慈愛の対象になると言うの?」
「……あなたの所業は確かに罪深い、それは事実です。
しかし、私があなたに対して哀れみを感じているのは、その報いを受けたことではなく、あなたという存在そのものに対して。
ひとつだけ聞かせて下さい、黒い私……あなたは、家族のことを覚えていますか?」
「…………えっ?」
本当に、思いもよらない問いかけだったのだろう。
竜の魔女としての虚勢も、怯えも一時忘れてしまった様子で声を零した彼女の表情は、今までで一番ジャンヌに似ていたそれは、幼い子供のようにも見えた。
「私は覚えています……戦場の記憶がどれほど強烈であろうとも、ただの田舎娘として家族と共に過ごした日々の方が、私の中にはずっと鮮やかに残っている。
むしろその思い出こそが、私が私でいる為の、最も大切な宝物。
大切な人達に、戦争の無い平和な日々を過ごして欲しい……それこそが、私が旗を掲げた本当の理由であり、支えてくれた柱だったのですから。
あなたが私の闇の側面だとしたら、尚更のこと、幼い日々の記憶は輝かしいものの筈。
未練があったからこそ嘆き、愛されることを知っていたからこそ裏切りを許せず、故郷に帰るという幸福を奪われたことに憤怒したのでしょう?」
「……………………」
「やはり、記憶は無いのですね」
予想は当たっていたというのに、それを投げ掛けた当人であるジャンヌの表情は暗い。
初めて対峙した頃の、もしくはもう少しだけ意地を張れるだけの心の支えが黒いジャンヌに残っていれば、自身を哀れんでいることが一目でわかるジャンヌの様子に怒りを募らせ、対抗もしていたのだろうけれど。
完膚なきまでに心を折られていたところに、自分自身の存在意義までもが揺らがされてしまった彼女には、もはやそんな余裕は欠片すら無くなっていた。
追い詰められた精神状態で、だからこそ研ぎ澄まされたのかもしれない思考力の中で、黒いジャンヌは気づいてしまった。
自分を『ジャンヌ・ダルク』と定義していた記憶の数々が、旗を掲げながら兵士を鼓舞する、穏やかな微笑みを浮かべながら火中に消えていく聖処女の有り様が。
その視点が『自分自身のもの』ではなく、『彼女を見る他者のもの』であったことに。
「違う、これは私じゃない……あそこで戦っていたのは、あの時焼かれたのは私じゃない。
ジル、これは一体どういうこと!?
あなたが私をジャンヌだと、本物だと言ったから、私はそれを疑わなかったのに!!」
正真正銘、間違いなく彼女自身のものと言える、最も信頼していた者に裏切られたことによる怒りと嘆き。
それによって、すぐそこにいる怖ろしい敵から目を離してしまうことへの恐れと不安を一瞬吹っ飛ばし、衝動のままに振り返った黒いジャンヌは、そのままぶつけようとした怒号を呼吸そのものと共に飲み込む羽目になった。
「…………ジル?」
「お労しやジャンヌ・ダルク、あのような戯れ言に耳を傾けてしまわれるだなどと。
お疲れになられているのですね、無理もない。
案ずることはありません、あとはこのジル・ド・レェが万事滞りなく済ませましょう」
一般的な感覚から見て、彼の様相が、ねっとりとしたような笑みが恐ろしく思われることはわかっていた。
それでも、彼女にとってそれは信じられる、安心できるものの筈だった。
しかし今はその笑顔が、一見優しく気遣ってくれるその言葉に含まれているものが、自身へと向けて伸ばされるその手が、恐ろしくて堪らない。
凍り付いてしまった思考が回らず、体も動かず、そのまま彼の思惑を受け入れてしまいそうだった黒いジャンヌの体が、何者かの力強い手によって突如掴まえられ、たった一度の跳躍でその場から一気に飛びのいた。
数秒呆けた先で、突き抜けて逆に冷静になってしまった意識の中で、彼女は気がついた。
最も困難な敵であった筈の勇者によって、最も信頼していた筈のジル・ド・レェの手から助け出されてしまったことに。
力なくへたり込んだまま言葉が出ない黒いジャンヌの前で、魚のような目を剥きながら激昂するジル・ド・レェと、どこまでも冷静なリンクが対峙していた。
「汚い手をジャンヌから離せ、この匹夫めがぁ!!」
「……予想外だな。
目的を果たすための駒とか、自己満足のための人形とかじゃなく、ちゃんと大切に思っていたのか」
「何を戯けたことを、私がジャンヌの為を思わなかったことなど一時としてありはしないというのに!!」
「だとしたら、今やろうとしたことはどういうつもりだったんだ」
「盗人猛々しいとは正にこのこと、ジャンヌを追い詰めたのはあなた達でしょう!!
私はただ、彼女を一時休ませて差し上げようとしただけのこと!!
あなた達を排した後に改めてお呼びし、思うがままにフランスを滅ぼしていただくのです!!
忌々しい勇者のことも、恐れを抱き心を折ってしまわれたことも全て忘れて、今度こそ、完全無欠の竜の魔女として!!」
「ジル、やはり……この特異点の真の黒幕は、『あり得ない筈の私』を作り出したのは、あなただったのですね」
理不尽な裁判により魔女とされた聖女と、大量殺人鬼へと堕ちたかつての元帥。
同胞として共に戦い、時期こそ違ったものの、共に火中へと消える最期を迎えた二人が、それぞれの譲れないもののために相対する。
その光景を黒いジャンヌは、勇者によって捕らわれながら、決して苦痛を感じさせない力加減に、まるで守られているかのようなふざけた錯覚を感じながら、ただ見ていることしか出来なかった。
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