No Answer 作:報酬全額前払い
それは、ほんの少しだけ幸運で、同時にちょっぴり不幸だった男の話。
誰もが生きるために戦っているのです。たとえ犯罪に手を染めようとも、生き延びるために。
彼が所属している民間軍事会社グリフィンは、基本的には政府の代行として各地を統治するのが役目である。
鉄血の掃討ばかりが広く取り沙汰されるために勘違いされがちだが、鉄血を退治するという業務はメインではない。
行政府のように街を統治し、警察のように市民の安全を守り、道路整備などの土方仕事さえこなす。
昔、まだ余裕があった頃の政府が一手に担っていた公共事業が現在の民間軍事会社のメイン業務なのだ。
それ故に地区を取り仕切る指揮官の元に上がってくる書類は多岐に渡り、またその量も膨大なものになる。
「戻って早々に仕事かあ……」
「文句言わないの。はい次の書類」
命からがら逃げ果せ、報酬の交渉などを終えてS03地区に戻ってきた時には、既に多くの人間が寝静まるような深夜であった。
指揮官不在の間、一人で頑張って書類を片付けてくれていたM1895に礼を言って下がらせたのが、つい10分ほど前のこと。
そこからずっと疲れた身体に鞭打って、人形ではどうにも判断がつかず対処できなかった書類に印鑑を押して、押して、押す。
少し長めに机を空けていたからか、生還を記念して祝杯をあげる暇もなく、こうして仕事に勤しまなければならないくらい書類が溜まってしまっていたのだった。
しかしM1895が頑張ってくれていたから、まだマシといえる程度で収まっている。もしM1895が居なければ、書類は更に増えていたであろう。
今度あいつに何か奢ってやるか、と考えながら呟いた。
「今夜は寝られないな、これは」
机の上では、書類が山脈を形成している。これら全てを片付けなければならないと考えると気が遠くなりそうだった。
「寝られないでしょうね。頑張って、私も起きててあげるから」
「ありがと。……でもお前って、別に寝なくてもパフォーマンスに支障ないよな?」
「支障はないけど、今は気分的に寝たいの」
人間社会に溶け込むためなのか、戦術人形には情報整理も兼ねた睡眠機能が搭載されている。
もちろん、本質が機械である以上寝なくてもパフォーマンスに問題が出ないようになっているのだが、なんとなく寝ないと気分が悪くなる程度には、人形はそれを必要としていた。
「じゃあ早く終わらせて少しでも寝るためにも、印鑑押すの手伝ってくれ。そこに予備の入ってるから」
「はいはい。でも待って、コーヒー淹れてくるから」
ネゲヴが電気ポットの前に立ってインスタントコーヒーを淹れる僅かな間、指揮官は窓から真っ暗な外を見た。
降りしきる雨の音。無音で点灯し続けている赤色灯。レインコートを目深く被った巡回中の人形たち。
帰ってきたんだなぁ。と、机の上に置かれたコーヒーをぐい飲みしながら指揮官は思った。
さて、そんな訳で完徹で翌朝を迎えた指揮官の目の下には軽くクマが出来ていた。
周囲に伝染してしまいそうな大あくびを何回も繰り返し、眠い目を擦りながらインスタントコーヒーを啜る姿には、威厳なんてものは一欠片も存在しない。
「……くそねみぃ」
声にも覇気が無い。普段も有るとは言えないが、この時は特にそれが感じられなかった。
「寝られなかったな…………」
「でも何とか終わったわね。二徹は避けられたんだから良いじゃない」
椅子に座って背伸びをしながらネゲヴは今にも寝てしまいそうな指揮官に言う。
彼女も少し頭が重い気がするが、仕事に支障をきたしはしないだろう。
「今夜が待ち遠しいな……ふあぁ」
そのままチマチマとコーヒーを流し込んでいた指揮官だが、それが半分ほど消えた辺りで彼の胃が元気に空腹を主張し始めた。
腹から聞こえた音に彼自身も軽く驚きながら時計を見れば、そろそろ朝食を取ってもいい時間である。
「飯食うか……いつもの奴、用意してくれ」
「あれ、カフェには行かないんだ?てっきり生還記念に豪勢に食べると思ったんだけど」
「行く気力もないんだよ」
足を運ぶのも億劫になっているであろう指揮官にネゲヴは「分かった」と言い、少しすると棒状の栄養食と味気ないレーションのセットを持ってきた。
それらを片手で消費しながら、もう片手で書類を閲覧する。夜から何十杯とコーヒーを消費しているからか、味気ない食事にすらコーヒーの味を感じてしまう有様である。
「最近、また犯罪率が下がってきてるらしい。先月比で2%くらいダウンしてる」
「良くない傾向ね。なんとか食い止めたいけど」
見ていた書類に記されていたのは、S03地区全体の犯罪発生率のデータであった。
「特に顕著に減ってるのは、第二都市だ」
「またあそこ?」
このS03という地区は、指揮官達が基地を置いている第一都市と呼ばれる場所から始まり、およそ6の都市が存在する。
といっても、全部が全部この第一都市のように大きくはない。S03地区はこの基地がある第一都市だけが比較的大きく、他は昔でいうところの市とか区程度の大きさしかない街が点在する地区なのだ。
小さい街の集合体がS03という大きな地区を形作っている、と言えるだろう。
「これで何度目よ」
「もう覚えてないけど、両手の指じゃ足りないくらいなのは確かだな」
そして、S03地区の外れも外れ。他のPMCが統治する地域に隣接するような場所に、件の第二都市は存在する。
ここは過去に幾度となく、そのPMCと所有権を巡って争いがあった経緯の有る場所だった。
今はグリフィンが管轄しているが、向こうはまだ諦めていないのだろう。頻繁に向こうの工作員が出入りしている事を掴んでいる。
始末しても始末しても、どこから湧いてくるのか問いたくなるほどに流入してきていた。
「グリフィンに対する市民の悪感情を煽って、向こう側に引き込もうとしてるみたいだ」
「あー。あそこグリフィンに否定的な奴ら多いもんね。この前もデモ行進やってたし」
人民から搾取を続ける民間軍事会社グリフィンは、その利益を我々に還元すべきだ。
それが彼らの主張である。具体的には、もう少しマトモな食事が出来るように配給を強化して欲しいらしい。
「近いうちにまたやるらしい。かなりの数が集まるようだけど、暇人ばっかなのかな」
「職を追われたから暇になったんでしょ。……そういうのは、あなたの方が分かってるんじゃない?昔あっち側だったんでしょ」
民間軍事会社という組織は、勢力の大小こそあれど基本的に特権階級であり、搾取する側である。
であるから搾取される側の民衆は普通、それらに所属する連中を好まない。
要は、仕事を寄越せ。もっと良い暮らしをさせろ。そんなことを要求しているのだ。
「だったら、向こうが望むやり方っていうのも分かってるんじゃない?」
「まあ、そうだな……こういう奴を黙らせるには、仕事をくれてやればいい。テロと治安維持、斡旋してやれ」
「マッチポンプって奴ね、了解」
第二都市で失業者を使って意図的にテロを起こし、それを名目に治安維持の仕事をくれてやる。
結局のところ、彼らの不満は"金が無い"という一点に集約される。
であるなら、それを稼げる仕事を斡旋してやればいい。
一気に大量の労働者を仕事に就かせて市民の悪感情と不満を削ぐ。
更にテロを競合他社の仕業にして非難を集中させる事すらできるだけでなく、人海戦術で工作員を第二都市から叩き出す事すら可能だ。
労働者と支配者、どちらにとっても損のない行為だと言えた。
「しっかし毎度のことだけど、よくもまあ、こんな怪しい仕事を受ける人間が居なくならないものね」
「極限状態に陥れば、人間なんでもやるもんだ」
「ああ、同性に春を売ったりとか?」
「なんでそれを例えに出した」
何でもする一例を出された指揮官は、嫌そうな顔をして露骨に身震いをした。
ネゲヴがニヤニヤ笑っている辺り、完全に確信犯だった。
「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい。気を付けてね、あなた」
「ああ、今日は稼いでくるから待ってろよ」
朝、玄関で産まれたばかりの子供を抱えた愛する妻とそんなやり取りをして、その頬に軽くキスをしてから、彼は曇り空の外に出た。
彼はS03地区の第二都市に暮らすフリッツという男だ。歳は今年で35になる。
「……寒いな」
彼はかつて、この第二都市に存在する工場で単純労働を行い生計を立てていた。
日給は悪い方であったが、学の無い彼にとって働ける場所は貴重だった。どんな仕打ちにも耐え、黙々と働いていた。
しかしある時、一方的に解雇を通告される。人間を大量に雇うより遥かにローコストな自律人形を、工場が採用したからだった。
あらゆる地区に押し寄せている自律人形の台頭によって彼は職を失い、それ以降はグリフィンから齎される配給と不安定な日雇いの仕事でギリギリ家族を養っていた。
「今日はあるかな……」
寒空の下、白い息を吐きながら、人の流れに乗るようにして目的地へと向かう。
大通りから少し外れたこの道は、朝と夕方になると仕事を求める大勢の人間で溢れかえるのだ。この都市で職を追われた者達が、一点に集うのである。
彼が僅かに目線を上げれば、薄暗い雲に覆われた空に向かって吐き出すように、工場の黒煙が見える。
ここから500メートルも向こうに行けば、そこは工場地帯だ。かつて彼が働いていた工場も、あそこにある。
相も変わらず、素知らぬ顔をして動いてやがる。憎たらしい。
そんな事を考えながら、彼は進んでいった。
「……おうフリッツ。調子はどうだ?」
日雇いの仕事を斡旋する場所には、既に満員電車もかくやと言うほどの混雑具合であった。
そんな中でも、長身であるフリッツは目立つ。であるから、フリッツを見つけようと思えばすぐにでも見つけられた。
「悪いよ、超最悪だ。そっちは?」
「俺もだよ。ここんとこ当たらなくてねぇ……」
人混みをかき分けるように接近してきた同じ工場で仕事をしていた仲間と、そんな他愛もない話をする。
「なんか良い仕事ないかね」
「あったらこんな辛気臭いとこ来ねぇよ。今じゃ何処も彼処も人形人形……どんどん人間サマの肩身が狭くなっていきやがる」
ここぞとばかりに不満を漏らす仲間の言葉は、恐らくこの場に居る全員が思っている事であるのかもしれない。
しばらくぶつぶつと不満を漏らしていた彼だが、ふとフリッツに話を振った。
「そういやよ、お前んトコって子供居たよな?産まれたばっかの。大丈夫なのかよ?」
「大丈夫な訳ないだろ。でも、こればっかしは運だからな」
その言葉には、何処か諦めに似た色が混じっていた。定められてしまった現状から脱却できない事への絶望も見え隠れしている。
「運、運ねぇ……でもさ、確実に仕事を得る方法も無くはないだろ」
「血に汚れた手で息子を抱けるか」
若干言いづらそうに言われた言葉に、フリッツはそう反論した。
……実のところ、ここでわざわざ待たなくとも仕事を得る方法は幾つかあるのだ。
ただ、彼はその方法を取るつもりは無かった。
そんな気が、していたのだ。
「でもよ、そう言ってられなくなる時が来るぜ。家賃、まだ滞納してるんだろ?」
「…………」
フリッツは無言で前を向いた。痛いところを突かれたと表情に出ていた。
この斡旋所は抽選で仕事を割り当てる形式を取っており、男達の手に握られている番号札と同じ番号が出た仕事に向かう事が出来るようになっている。
母数が多すぎるので当たる方が少なく、当たらなかった場合は夕方に期待するしかない。
ここで斡旋されている仕事は、どれもこれも低賃金かつ過酷な物ばかりだ。しかし、そんなものでも求める者達がどれほど多いのかは、ここに集まった大量の人々を見れば分かるだろう。
見た目は可愛らしい戦術人形達が無表情のまま業務を行っている様を、フリッツは冷めた目で眺めていた。
ここにも人形の魔の手が迫っている。あれだって、昔は人間がやっていた仕事だ。
どんどん街中から働く人間の姿は消えていく。最後はきっと、此処にすら人形がやってくる様になるのだろう。
もしそうなった時、彼らは何処に向かえばいいのだろうか。
「来たぞ」
「よっし。今日は当たってくれよ……!」
やがて仕事に向かう事の出来る番号が、遠くの男達にも見えるようにデカデカと表示された。
隣の仲間は身長が低いので、番号を確かめるためにぴょんぴょんと飛び跳ねている。しかし、前の男が彼より大きいために見ることが出来ないようだった。
「おいフリッツ!何番だ!?」
「540」
「クソッ、掠りもしねぇ!お前はどうだ?」
「ハズレ」
所々で歓声と、嘆く声が聞こえる。当たった者は意気揚々と前に出て、当たらなかった多くの男達の嫉妬の目線に晒された。
ちなみに仕事先で確認されるのは、此処で番号札と引換に渡されるパスのみ。本人確認などは一切されないので、どうしても仕事が欲しいなら他人の仕事を殺してでも奪う事が可能だ。
だが、この場でそれを強奪しようとする者は誰もいない。
かつて一度だけイザコザがあったものの、業務を行っている戦術人形が無表情のまま纏めて射殺してから、そんな事を考える輩は誰も居なくなったからである。
なお、ここから離れた場合は一切感知も関与もされない。
それから次々と発表されていくが、フリッツの番号は出てこない。軽い焦燥感と、やっぱりかという諦観の念が、今日も同時に訪れていた。
「289」
「よっしゃ来たぁ!」
一際大きく、仲間が喜びの声をあげた。
しかし直後、フリッツを見て申し訳なさそうな顔をする。その様子にフリッツは苦笑いを浮かべて、その背中を押した。
「俺のことはいい。気にしないで行ってこいよ」
「…………悪い。良い仕事見つけたら、絶対に紹介してやるからな!」
そう言って人混みの中に消えていった仲間の後ろ姿を、フリッツはそこに立ち尽くしながら眺めていた。
それから無機質な数字がどんどんと流れていって、やがて終わる。
今日もまた、彼は選ばれなかった。
「はぁ……」
妻には何と言えばいいのか。申し訳なさと情けなさで、目の端に滲むものがある。
肩を落としてトボトボと帰宅する最中、フリッツに近寄ってくる者がいた。
「あの、ちょっとお時間良いですか?」
「……俺ですか?」
声のした方を向けば、さっき見た者が立っていた。そう、人形である。
「先程は残念でしたね」
「……まあ、それならそれでやりようはあります。蓄えだって無くはないですし──」
「あなた、効率よくお金を稼ぎたいと思いませんか?」
声を遮り、人形はそう言った。先ほどまで見ていたような無機質な表情ではなく、良くできた営業スマイルで語りかけた。
「は?」
「ですから、お金を稼ぎませんか?」
そんな事を宣う人形に、フリッツの目線が自然と厳しくなる。
「……いいや」
「本当に?」
心の内を見透かすような目をしていた。それを見ていると、何か怪しい術にでも嵌められてしまいそうだった。
フリッツは目を逸らし、人形を無視して歩きだした。
こんな怪しい話に誰が乗るかと、心の内で吐き捨てながら。
「ああ、もし詐欺か何かを心配しているのでしたら、そこは大丈夫ですよ。グリフィンからの正式なお仕事ですから」
フリッツの真横に着きながら、人形はそう囁く。
「安全性は保証しかねますが、金額は保証します」
「出来るかよ。そんな訳わかんない仕ごt」
「成功報酬で50万」
「!?」
提示された金額に、フリッツは思わず足を止めた。
50万という単位は、フリッツのような最下層が人生を二回繰り返したとしても稼げない大金である。
そんな大金を、たった一回で?
フリッツの心が微かに動いた。
「……そんな美味い話が転がってるわけないだろ」
「もちろん、報酬相応に危険ではあります。ですが話だけでも、聞いていきませんか?」
路地裏を親指で指しながら、人形は笑った。フリッツは躊躇いながらも、「話を聞くだけなら」と頷き、着いて行った。
「さて、何から話したものですかね」
路地裏の適当な所に寄りかかった彼女は、タバコの箱から二本取り出すと、そのうちの一本をフリッツに向けて差し出してきた。
「そもそも、お前は一体なんなんだ」
フリッツはそれを片手で拒みながらそう聞いた。久しく吸えていないタバコは魅力的だったが、受け取ると何を要求されるか分からない。
「ああ、そういえば自己紹介がまだでしたね。
私、S03地区第二都市の人形部隊隊長をやらせてもらっていますM14といいます」
この時のフリッツは知る由もないが、彼女はこの第二都市を事実上取り仕切っているボスのような存在である。
本来ならこんな場所を彷徨くような者ではなかった。
「……で、そのなんたら隊長さんとやらは、俺に何をやらせたいんだ?」
「簡単ですよ。物を運んで、指定された場所に置いて、スイッチを押す。それだけです」
タバコの紫煙をくゆらせながら、M14は言った。
「スイッチ?」
フリッツは眉を顰める。物を運んで指定された場所に置くというところまでなら、何か危ない薬の運び屋のような仕事だが、スイッチがある。
「ええ。最近、やけにグリフィンの周りを煩く飛び回るハエがいましてね。それを消し飛ばすために、殺虫剤を撒きたいんですよ」
「それだけか?」
「それだけです」
にこやかにM14は笑う。だが、言葉通りの意味な筈がない。フリッツは突っ込んだ。
「なんでお前達でやらないんだ」
「人形では警戒されちゃうんですよ。ですが、人間なら懐に忍び込んで殺虫剤を撒けると判断したんです」
「もっと分かりやすく言え」
「ありゃ、ちょっと難しかったですかね?
じゃあ直球で言いますと、明後日おじゃま虫を纏めて殺します。そのために、あなたの力が必要なんです」
まだ分からん。と言おうとしたフリッツだが、明後日というワードに引っ掛かりを覚えた。
そして思い出す。明後日といえば、グリフィンに対する抗議集会が行われる日ではないか。
フリッツは参加しないが、それでも多くの労働者が集まるらしい事は小耳に挟んでいた。
「それってテロじゃないか!?」
「テロとは失礼な、これは鎮圧ですよ。ちょっと手荒だとは思いますけど」
「やってる事は同じだろ!冗談じゃない!」
一時の金のために、見知った街の人間を殺害する。そんな事が許されるものかと、彼は憤慨した。
「お金が欲しくないんですか?」
「そんな薄汚れた金、だれが!」
「滞納した家賃、全額支払えますよ?」
「っ!?」
「あんな不安定かつ低賃金な仕事をしなくても良くなります。お嫁さんにも、息子さんにも楽をさせてあげられますよ」
その言葉に、フリッツは思わず息を詰まらせた。なぜ、家族構成や家計事情まで把握されている?
疑問の目に晒されながらM14は口を開いた。
「フリッツ・ランドさん、35歳。家族は妻と産まれたばかりの息子の三人家族。現在は失業して無職。そして、家賃を二ヶ月分滞納中。間違いありませんね?」
「あ、ああ……」
ぺらぺらと喋られる個人情報に圧倒され、フリッツの声は勢いを無くす。
なんなんだコイツは。そんな感情のこもった目でM14を見ていた。
「競合他社の戯れ言で勘違いされているかもしれませんが、グリフィンは基本的に皆さんの生活を第一に考えています。
まあ、少し支援が足りないのは否定できませんが。しかし、競合他社はその足りない支援すらありません」
それが嘘か真かを判断する術をフリッツは持たない。もしかすると良いように言っているだけという可能性も否定できなかった。
「我々としては、皆さんをこれ以上苦しめたくない。ですが競合他社の手に堕ちてしまえば、今より更に貧しい生活を送る事になってしまうのです。
それを良しとしないのであれば、この仕事を受けてはみませんか?最初はちょっと抵抗があるかもしれませんが、躊躇う必要はありませんよ。あなたは正しいのですから」
そう締めくくり、M14はフリッツの返事を待った。
フリッツの返事が返ってきたのは、タバコを二本消費したくらいだった。
「……悪いけど、他を当たってくれ。俺はやらない」
「そうですか」
予想はしていた。というかM14としては断られるのを前提に動いていたので、ここで頷かれた方が逆に困惑しただろう。
「でも、これだけは受け取って頂けますか?」
であるから、次の手は用意してある。M14はフリッツの手に紙を握らせた。
「これは……?」
手を開くと、ぐしゃぐしゃになった番号が書かれている小さなメモ帳の紙がある。どうやら携帯番号のようだ。
「気が変わった時に、こちらに連絡をください。明日の夜まででしたら、いつでもお待ちしていますね」
そう言ってM14は路地裏から去っていった。
フリッツは何か狐につままれたような気持ちで、少しの間呆然としながら紙を見つめていた。
「ただいま……」
「おかえりなさい。……ダメだった?」
「ああ、ごめん……」
「ううん、気にしないで」
妻の優しさが余計にフリッツの心に刺さる。いっそ責めたててくれたなら、どれほど楽になれたことか。
フリッツは妻と向き合うようにして椅子に座った。テーブルの上に手を置き、目線を宙にさまよわせる。
そうしていると、妻が当然爆弾を投げてきた。
「私……売春しようと思うの」
「なんっ……!?」
咄嗟に叫ばなかったのは、近くで寝ている息子が居たからだった。辛うじて声を抑えたフリッツは椅子に座り直して、妻を見る。
妻は覚悟したような目をしていた。どうやら冗談ではなく、本気でする気のようだ。
「考え直してくれ。そんな事をしなくたって」
「でもこのままだと、私達はこの家を追い出されるわ。
……さっき、大家さんに言われたの。今月分を払えないなら、出ていってもらうって」
「そんな……」
フリッツは絶句した。今月分の家賃の支払いは五日後に迫っていた。
「私、いつまでもあなたにばかり負担は掛けたくないの。この子の為にも……私だって、まだ商品になれるはずよ」
「…………くっ!」
フリッツは反対したかった。君がそんな事をする必要は無いと言いたかった。
だけど、今の彼は失業者。明日だって仕事があるかも分からないし、あったとしても賃金は僅かなものだ。家賃なんてとても支払えない。
そして、もしこの家を追い出されてしまうと、寒空の下でホームレスになってしまう。そうなると、産まれたばかりの息子が今年を生き延びられるかどうか……。
そこまで考えが及んだフリッツは、残酷な未来に恐怖を抱いた。だが彼に出来ることなど、もうありはしない──
(…………頼るしか、ないのか?)
──いや、まだあるだろう。
ポケットに入れた一枚の紙の存在。
成功報酬50万。
M14が提示した金額が脳裏を支配する。もしそれだけあれば、家賃を全額支払うことも出来るし、今より大幅に生活の質を上げることができる。
「……あなた?」
「ごめん、ちょっと待っててくれ。すぐ戻る」
フリッツは立ち上がり、近くの公衆電話を目指して走った。
「はあっ……!はあぁっ……!」
息を切らしながら公衆電話にたどり着いたフリッツは、震える手でコインを入れて番号を入力した。
自分でも何をやっているのかと思う。だけど、もうこれしか方法がない。
《やっぱり必要じゃないですか、お金が♪》
「……っ!」
一コールすら終わらないうちに繋がり、同時に喜色の混じった声がした。それを聞いたフリッツに緊張から身震いが走る。
《どれほど過程が汚れていようと、いなかろうと、所詮はお金です。違いますか?》
「…………」
乱れた息を整えながら、フリッツは思わず口を噤んでしまっていた。
やはり、断った方が良いのではないか。そんな気がしてくる。
《それにしても、随分と大変な事になりましたね。奥さんの売春宣言に、家の追い出しまで告げられるなんて》
「……なんで知ってやがる」
《仕事の話を他に漏らされると面倒なことになるので、最悪消そうと思ってましたから。失礼ながら見張らせて貰っていたんです。
今は貴方から見て、正面のビルの屋上に》
その声に、フリッツは思わず見上げた。確かに彼女が、そこに立っていた。
片手の無骨なライフル銃が、その存在感を違和感として主張している。
「勝手に声かけといてそれかよ。クソが」
《すいません。規則なもので》
くすくすと笑いながら、まったく悪びれていないようにM14は言った。
それに気を悪くしながらフリッツはM14に言った。
「……ちゃんと、払ってくれるんだろうな」
《不安になるのは分かります。私が今まで声をかけた皆さんも、最初はそう言いました》
ですので、とM14は笑い、宣った。公衆電話の下に置いてあるトランクを開けろと。
フリッツは言われるがまま開け、驚愕に目を見開いた。
「これは……!?こんな大金、なんで!」
《我々が今回の件にどれほど本気なのか、理解して頂くのが一番かと思いまして。
その10万は手付金だと思ってください。命の対価としては微妙なラインかもしれませんが、上手くいけばもっと稼げますよ》
普通に働くより、遥かにね。
その言葉は、今のフリッツにとって一番効果的な言葉だった。
《それにお金さえあれば、あなたのお嫁さんが、わざわざ身体を売らなくても済むようになるんです。
お金があれば、今よりもっと良い暮らしが出来るんです》
それは、悪魔の囁きだった。
「…………」
《逆に聞きますが、他にお仕事の宛はあるんですか?これだけの大金、今のままでは一生を掛けたとしても稼げはしないでしょう。
私も斡旋所で仕事をしているから分かります。あそこに並んでいるのは、どれも低賃金で過酷で……でもあるだけマシだと、皆さんが求めてやってくる》
「…………」
《あの地獄から抜け出せるのは、これで最後かもしれない。あなたは選ばれたんです、その幸運を無駄にしてもいいんですか?》
言葉の一つ一つがフリッツの耳から脳へと染み込んでいく。
やがてフリッツは観念したように頷いた。
「…………分かった。その仕事、受けよう」
家族を生かすため、愛しい者に楽をさせるために、彼はその手を汚す事を決めたのだった。
──さて。言うまでもない事だが、犯罪……この場合はテロであるが、それはビジネスである。
何をするにも金がかかる現代。当然テロという行為にも金が入り用になり、そこで動く金額は凄まじい額になる事が多い。
俗に犯罪ビジネスと呼ばれるそれを起こすための資金流動の恩恵は、末端の人間にすら少なくないリスクと恩恵を齎すのだ。
儲かる事が分かれば、そこに人と金が集まり、市場として成立する。
その市場は段々と膨張していき、市場の上に立つものは常に笑いっぱなしだった。
何故、過激な思想と行為を行なう人権団体が居なくならないのか。
何故、PMC各社はそれらを根絶しようとしないのか。
その答えは単純だ。そうした方が金になるからである。
人権団体側からすれば、それは飯の種だ。殺される可能性が高いと分かっていても、それを条件に金を貰っているので止める訳にはいかない。
止めてしまえばスポンサーが消えてしまい、結果として皆が飢え死ぬだろう。彼らには進むしか道は無いのだ。
そしてPMC側からすれば、それらを潰すメリットが無い。彼らを根絶するということは、すなわち巨大な利益を生む市場を殺す事と同義だからだ。
殺さなければ一定の利益が約束されているのに、何の役にも立たない人命なんぞのために市場を殺すなど冗談ではない。
一体誰が、安定して金の卵を産む鶏を絞め殺そうとする?
なので一部の地区を除き、首謀者は大体一度は捕まるものの、何事も無く釈放され、名前を変えて生きている事の方が多い。
それらが再び組織を結成し、人々を募って活動して、また捕まって釈放される。それの繰り返しなのだ。
テロという行為は世間一般には許されない行為であると言われている。
しかし、仕事すら失った者達の最後のセーフティーネットとして、これほど扱い易い物もまた、存在しない。
一説によれば、失業者のおよそ三割が、一度は日銭稼ぎのためにテロに加担した事があるとされている。
詳細なデータなど取りようがないために真相は闇の中だが、一つだけ確かに言える事。それは、フリッツのような男は、まったく珍しくないということだった。
こうしてテロリストは生まれ、我々の元に届けられる……のかもしれません。
グリフィン・パーソナルファイル03:M14(S03)
S03地区の第二都市を事実上取り仕切っている人形。普段は人間達への日雇い仕事を斡旋する場所で一般職員に紛れて仕事をしている。
なぜそんな事をしているのかというと、彼女の趣味である。
彼女は人間に希望を与えた後にそれを奪ったりして絶望する様を見るのが大好きで、それを見たいがために、別に少しくらい居なくても困らない日雇い労働者から獲物を探す目的でそこに居るのだとか。
彼女に目を付けられた人間は遅かれ早かれ破滅すると言われているが、それが本当なのかどうかは彼女にしか分からない。