レイシフトの私的な使用は法律で禁止されています 作:ペニーボイス
アンドレイ・ウラソフは皇女殿下が寝付いた事を確認すると、ある幕舎へと足を向ける。
そこは彼の"パートナー"であるラインハルト・ゲーレンの幕舎だ。
ウラソフはまだ彼と出会ってかなりの日月が経ったわけではないが、しかし、この新しい友人の生活リズムについて知っているほどには親しい間柄だった。
この時間帯ならまだゲーレンは起きていて、ワーグナーを聴きながらワインを一杯やっている事だろう。
事実、ウラソフがゲーレンの幕舎に到着すると、まさしくその通りであった。
「やあ。夜分遅くに済まないね。皇女殿下の事で話がある。」
「いいんだ、私もその事について君と話しておかなければならないと思っていたところさ。」
ゲーレンはグラスをもう一つ取り出そうとするが、ウラソフが右手を挙げてそれを制止する。
いつもなら喜んで同伴するウラソフが酒を断った事に、ゲーレンは驚きつつも彼がそれほどまでに…つまり、酒を断ってでも素面で話したいほど真剣なのだと言う事に気がついた。
ゲーレンはグラスをしまう代わりに、ウラソフを対面の席へ促す。
ウラソフが恭しく席に座ると、ゲーレンは口を開いた。
「……君の案を熟考したんだ、ウラソフ。」
「ほほう。それはありがたい。…して、結果は?」
「
「あの皇女殿下は本物さ。帝政ロシアという時代を生き抜いた人間なら分かる。彼女は
「なら、尚更生かしておくべきだろう。」
「いいや、殺す。生かしてはおけない。」
「……いったい何故そんなに拘るんだ、ウラソフ。知性的な反共主義者の君なら、殿下の存在こそ大きな力になると分かるはずだろう。」
ウラソフは黒縁のメガネをとって目頭を抑える。
目の疲れを感じたというよりは、遠い昔の記憶を呼び覚まさんとする動作に見えた。
「君はドイツ人だからな。…分からないのも無理はないが…帝政ロシアの格差社会を身を持って体験すれば、君も考えが変わる事だろう。長い間、我々ロシアの民には
「…………」
「それに…君が熟考したと言うのなら、実に知性的な理由から彼女を抹殺しなければならない理由については目を通しただろう?」
「………ああ。」
「ロマノフ家最後の生き残りは、"
「だが…本当に上手くいくと思うのか?」
「ああ!上手くいくさ!皇女殿下には連日前線で宣伝活動をしていただく。ボリシェビキに嫌気が差している将兵は…最初こそ疑うかもしれないが…やがて殿下に感化されてこちらへとやってくるだろう。」
「………」
「だがそこで…バン!皇女殿下は卑劣な"
「………"良い機会"か。どうだかな、ともかく、今はまだ結論を急ぐ必要もないだろう。…ベルリンの指示も仰がなければ。」
「当てようか?総統閣下は良い返事をしない、そうだろう?」
「まぁな。総統は我々を煙たがっている。だが、今回の件はあの男も興味を示す事だろう…最も、君のアイデアを打ち明ける気はないがね。」
「皇女殿下の件は内密にやれば良いさ。奴に丸々話す必要はない。」
「分からないか?…殿下の存在を総統に知らせた時点で、彼女の身に何かあれば私が責任を問われる。……知ってて言ってるんだろうが…はぁ…とにかく、抹殺案は留保させてくれ。今は殿下に宣伝活動に協力していただく。後のことは…まだ決める時間に余裕はあるさ。」
…………………………………
喫煙者は朝早く起きた時や、食事を摂った後、更には仕事がひと段落して落ち着いた時、どうしようもなくタバコを吸いたくなる。
朝タバコが吸えないと1日が始まった気がしないし、食事の後のタバコは格別だし、疲れた時には、タバコは自分のための良い時間を与えてくれる。
だけれど、タバコを吸おうと言う時に箱の中身が空だったりすると、どうしようもない徒労感に見舞われる。
"畜生!何だって吸った後に補充しなかったんだ!せっかく人気のないところに来たのに!新しい箱はどこだったか…置いてきたリュックの中だ、くそったれ!"
だから、そんな時に横からスッと一本差し出されると、とても救われた気持ちになるのだ。
少なくとも差し出した相手に敵意を持つことは極々稀な事だし、大抵の場合はお礼を言う。
そして、タバコを恵んでくれた素晴らしきお方との会話の糸口が開かれ、新たな友好関係が築かれる事も決して稀ではない。
山岳帽を被った下士官がタバコの箱を開けて「チッ」という舌打ちをした場面に、幸運にも俺は出くわした。
例の如く横からタバコを差し出すと、彼は「Dank」とだけ言ってそれを受け取って火をつける。
煙を吸い込んで一息吐くと、こちらに手を差し出してきた。
「助かった。俺はホフマン、軍曹だ。…オタクらはロシア人?」
「いや……うん、ああ、はい、そうです。皇女殿下の従者で、"イヴァン"という者です。我々の警護のために…こんな遅くまでありがとうございます。」
「別に。俺は命令に従っているだけだ。殿下やオタクらを守れって言ったのはゲーレン大佐だ。…彼に感謝した方がいい。特別行動部隊がここに来ないのは、オタクらと接触しない様に大佐が気を回してんだ。」
「特別行動部隊?…親衛隊の?」
「他に誰がいる?SSの気違い共からすりゃあ、殿下は野蛮なスラブ人、アンタはアジア顔の劣等人種だ。特に、
「わ、分かりました……それにしても…大佐は我々をどうする気なんですかね。」
「俺に聞かれてもなぁ…大佐も大佐で考えてるさ。ウラソフとかいうロシア人はボリシェビキの将軍にしちゃあ頭のキレる男らしい。2人が会ってから、こっち側に寝返るロシア人は日に日に多くなってる。」
アンドレイ・ウラソフがドイツの捕虜になってからまずやった事といえば、ソ連軍将兵に向けての宣伝ビラを作成する事だった。
このビラは大きな反響を呼び、元々ボリシェビキ体制に疑問を持っていた決して少なくないソ連兵がドイツ側に寝返る事になったのだ。
最終的には、それらの兵士は『ロシア解放軍』と呼ばれる反共組織に纏まるが、それは1944年の話。
ヒトラーはこの転向したロシア人達を信用せず、ウラソフのことも反共ロシア人の象徴としてしか扱わなかった。
反共ロシア人達はボリシェビキを敵としたはずなのに、44年までは各方面の後方地域で対レジスタンス掃討作戦に従事している。
"人種優生学"はせっかくの機会を無下にして、彼らの投入をいたずらに遅延させただけだったのだ。
だが、それは今から2年後の話。
現時点ではウラソフもゲーレンもとりあえず反共ロシア人の同志集めに精を出しているはずである。
ここで皇女殿下が登場した事で、彼らのスケジュールは大幅に狂った事だろう。
問題は彼らがスケジュールをどう変更するかというところで、場合によっては殿下が裏切られる。
少なくとも…俺はその公算が高いと思っていた。
あの2人の考えについて手がかりも欲しかったし、その他の現状についても情報が欲しかった。
だからこの警護担当の下士官とタバコを吸う機会に恵まれたのは、本当に僥倖だった。
「大佐は総統から煙たがられている。…彼の仕事は軍のお偉方にさえよく理解されていないんだ、残念な事にな。」
「諫言されても無視されるレベルで、ですか?」
「あぁ…大佐は彼方此方に走り回って情報網を形成しようとしているが。せっかく情報を集めても、上層部が使い方を理解していなければ無意味さ。」
1943年の夏、ドイツは一大反抗作戦『ツィタデレ作戦』を実行する。
だが、ソ連側の諜報活動により、作戦は敵に筒抜けだった。
ラインハルト・ゲーレンの諜報組織は情報漏洩を察知、軍上層部を通して総統に諫言するが気にも止められなかった。
結果としてドイツ軍は周到な防御陣地で待ち受けるソ連軍の猛反撃を受ける事になり、その間に米英軍がイタリア方面での攻勢を開始した事もあって作戦は完全に頓挫してしまったのだ。
「………ま、大佐に感謝と言えば俺も、か。大佐が声をかけてくれなかったら、今頃はスターリングラードにいる。」
「えっ?第6軍に?」
「ああ。あそこじゃ地獄の市街戦が始まってるらしい。…本当はウクライナに行きたかったんだがな。なんでも、ウクライナ女は美人で明るい…」
ポンッ!
ヒュゥゥゥウウウ…
「迫撃砲!!!」
ホフマン軍曹がいきなり大声で叫んだので、俺はかなり驚いたが、それ以上に驚いたのは迫撃砲弾がこちらから見える位置で炸裂したのが見えた事だった。
破片が飛んできたが、幸いにも被っていたシュタールヘルムに当たって弾かれる。
だが衝撃は素直に伝わって、俺は頭を後ろへと持っていかれて、仰向けに無様に転倒した。
「何してる、イヴァン!起きろ!ついて来い!」
軍曹の助けを借りて起き上がる。
彼は俺の腕を引っ張って無理やり走らせながらもある方向へと向かっていた。
皇女殿下の幕舎がある方向である。
「畜生!
「いや……それはちょっと…」
「冗談だ!アンタは殿下の従者だったよな?銃は持ってるか!?」
「ある」と言いかけた寸前、俺は腰のホルスターが無いことを思い出す。
カルデア職員正式護身用拳銃・G30は、自分の私室に置いてきてしまった。
レイシフトの時は大抵走り回るから、規則違反とは知っていても出来る限り身軽な装備でいたかったのだ。
「ありません!」
「分かった!…ちょっと寄り道するぞ!」
皇女殿下の幕舎が見えた頃、軍曹は突如右に曲がって別の幕舎へと俺を引き摺り込んだ。
そこは倉庫代わりに使われているらしく、軍曹はカビ臭い木箱がひしめく中、手早く何かを取り出して俺に渡す。
デッカいサブマシンガンとピストル、それに弾倉を収めるポーチだ。
「員数外の鹵獲装備だから問題にならない!こいつを持って大人しくしてろ!」
「俺はどこに行けば!?」
「皇女殿下を連れて、彼女の幕舎の後方にあるバンカーに退避するんだ!迫撃砲の砲弾くらいなら防げるハズ!…俺は分隊を指揮してバンカーの周囲を固めるから、アンタは殿下の直衛に当たってくれ!迫撃砲が止んだら次は歩兵の突撃だ、寝るんじゃないぞ、LOS!LOS!LOS!」
追い立てられるように幕舎を出て、皇女殿下のそれへと向かう。
与えられたサブマシンガンはやけに重く、よく見てみればトミーガンである事が分かった。
きっとレンドリース品を鹵獲したのだろう。
「いや使い方知らねえし」とは思ったものの、以前遊んでいたスマホのアプリのおかげで、この銃の操作方法はなんとなく分かる…少なくとも、安全装置は。
ともかく、重いサブマシンガンを背負って、ピストルをホルスターごと腰に差しながら走ったせいで思ったよりも時間がかかったが、どうにか殿下の幕舎には辿り着けた。
「殿下!殿下!ご無事ですか!?」
「シ、シマズさん!?何が起きているのですか!?」
「
「ごめんなさい、分からないわ」
「シマズ!アンタ達まだそんなとこにいるの!?さっさと退避するわよ!」
邪ン姉さんが続いて幕舎に入ってきて、俺と殿下を急かした。
3人で殿下の幕舎を出て、軍曹に言われた通りバンカーに向かう。
その途中に迫撃砲の砲撃は止んで、次いでソ連兵の『ypaaa』という叫び声が耳をつんざいてきた。
連中の突撃が始まったのだ。
「はぁ、はぁ、とりあえず、バンカーについたわね。私は入り口を見張ってるから、シマズと皇女サマは奥へ…シマズ、もしも私で対処しきれなかったら、そのマシンガンをぶっ放すのよ?」
「う、うん、はい!」
俺は皇女殿下と共にバンカーの奥へ行き、殿下を座らせて、自分はその傍に座り、サブマシンガンのコッキングレバーを引いて弾丸を装填する。
相変わらず重い銃だが、デカさがデカさだけにむしろ安心感さえ持てた。
後はソ連兵がこのバンカーにまで辿りつかないことを祈るのみ。
「……………」
「ふぅ。…ご安心ください、殿下。周りは精強なドイツ軍部隊によって守られています。もし万が一奴らが来ても、必ず撃退いたします。」
「………」
皇女殿下は押し黙っている。
どうしたものかと見てみれば、彼女は座り込み、両手で耳を閉じて震えていた。
なんてこった。
バンカーの外は、今では銃声や兵士の怒号で満ち溢れている。
この状況はまずい。
殿下にとって、兵士の怒号と銃声はトラウマ物に違いないのだから。
「で、殿下。ご安心ください。シマズは必ず殿下の側におりまふゲェッ!?」
何か、カッコいいことをしたかった。
震える少女の手を取って、「ご安心ください、姫」みたいな事を言ってみたい願望に駆られていた。
駆られていたのに、皇女殿下に無下にされる。
彼女は俺に手を取らせるどころかハグをなさった。
位置が悪すぎる…なんたって、殿下のハグにより、俺の頭は"ウラル山脈"によって挟まれたのだから。
「………お願い…離れないで。私は、もう…」
彼女の声色が、その突然の暴挙の理由を伝えている。
俺にできることと言えば、彼女の言う通り…1ミリ足りとも離れずに(どうにか理性を保ちながら)攻撃が終わるのを待つことぐらいだろう。