レイシフトの私的な使用は法律で禁止されています 作:ペニーボイス
目覚ましの音で目を覚ますと、うざったいその音を消すために目覚まし時計を手探りで探してスイッチを押す。
次いでベッドの上で長くあくびをしてからしばらく目を瞑り、やがては諦めて寝床から這い出ていく。
まずは上半身を起き上がらせ、少し休憩してからベッドの淵に腰掛けて、それから立ち上がる。
その後は枕元に置いたペットボトルのミネラルウォーターを一口飲んで、洗面台の前に立った。
ドイツ製の電動シェーバーで髭を剃り上げ、顔を洗顔フォームで洗い、清々しいミントの香味を歯磨き粉と電動歯ブラシで味わってから、コップの水で口を濯いで捨てる。
洗面が終わると次は着替えだ。
カッターシャツを着て、ネクタイを締め、帝政ロシア軍式の作業服に袖を通し、ズボンを履き、そしてブーツに足を収める。
最後に官帽型の作業帽を被って鏡の前でもう一度身なりを確かめた。
実は今日は大事な用事があるのだが、そのせいで少しばかり気が重い。
部屋を出る直前に忘れ物に思い当たり、俺は一冊のファイルを手に取って部屋を出た。
その後は食堂に行き、ベーグルとコーヒーの軽い朝食を摂ってから、ある部屋へと向かう。
その部屋の前には先着の客がいて、俺は彼女に挨拶をした。
「おはようございます、邪ン姉さん。」
「ん、おはよう。」
「………こういっては何ですが…やはり俺じゃなきゃダメですか?…こういうのはマスターの方が適任かと。」
邪ン姉さんはわざとらしく肩をすくませてため息を吐く。
「アンタ、それ本気で言ってるなら本当に軽蔑するわよ?」
「あの、いや、その…嫌だってわけでは」
「皇女サマはあの一件があってから塞ぎ込んでるわ。マスターちゃんにも本心を話したがらない。私が話してもいいけれど、私には家族を失うなんていう体験はないし。」
「それを言ったら俺にだって」
「そうかもしれないけど、アンタには知識がある。この前のレイシフトまでドイツとソ連が戦争してたことも知らなかったマスターちゃんとは違って。…あの娘が困ってて、アンタはそれを救えるかもしれない。それでもやりたくないならご自由に。ただし、もう二度と私の視界に入らないで頂戴。」
「…分かりました、やりますよ。でも、その」
「ああ!もう!鈍いわねぇ!…私がここにいて、付き添いもしないとでも思ってるの!?」
「それならよかった…ふぅ。」
俺は一息ついてから、目の前のドアをノックする。
そして可能な限り調子を整えてから、ドア越しに呼びかけを行った。
「殿下!シマズが参りました。お部屋に入室させていただいてもよろしいでしょうか?」
「……シマズさん?え、ええ、はい。どうぞ入ってください。」
皇女殿下の許可をいただいて、俺は殿下のお部屋に失礼フレグランス!
お部屋の入り口からもうすでにフレグランス!
何なの、このフレグランス。
皇女殿下にしても王妃様にしてもさ、なんでここまでフレグランスなの?
もう存在からしてフレグランスじゃん。
フレグランスが具現化したらあの方々になりそうな勢いでフレグランスだよコレ。
皇女殿下のお部屋のフレグランス加減を嗅覚で味わいながらも、俺は殿下の下まで進み出る。
殿下は既に普段の衣装に着替え終わっていて、自らのベッドの端に腰掛けている状態だった。
「来てくださったのですね、ありがとう。遠慮なさらずに、私の隣に来てください。」
殿下のお言葉に甘えて、殿下の隣に腰掛ける。
ベッドがミシッという音を立てて一瞬躊躇ったが、しかしどうにかベッドが持ち堪えてくれそうなのでそのまま腰掛けた。
カルデア色々と予算ケチり過ぎだろ、大丈夫かよ。
邪ン姉さんはベッドに腰掛けずに、腕組みをして壁に寄りかかる。
俺が中々切り出せずにいると、彼女は咳払いをしてウインクをした。
"とっとと始めなさいよ"
意図は十分に伝わるので、俺も咳払いをしてから殿下に話しかける。
「……殿下、あれから御気分はいかがですか?…あんな体験をして……正直、心配でした。アレでは寝込んでしまってもおかしくはありませんから。」
「ご心配なく、シマズさん。…でも、正直に言うとあまり優れた気分ではありません。心に何か…雲のような物がかかってしまったような感じなんです。セドネフは私達を守ってくれた…けれどそのせいで……もう、二度と身近な人間を失うことはないと思っていたのに…」
イパチェフ館で殿下と共に生活した者達の内、赤軍の他に生き延びたのはセドネフただ1人だった。
その1人の死を目撃してしまったとすれば、殿下が塞ぎ込んでしまうのも無理はなかろう。
俺は持参したファイルを開いて、中身を殿下に見せる。
「これは、レオニード・セドネフについての資料です。彼はやはり、1942年にブリャンスク方面で亡くなっています。」
「…………」
「しかし、戦死ではありません。」
殿下が目線を、資料から俺のほうに向け変えた。
「…どういうことですか?」
「彼の死亡報告書には、"処刑された"とあります。」
「でも…あの赤軍兵達が反乱のことを揉み消そうとして事実を隠蔽しただけでは…」
俺はファイルのページを一枚めくる。
そこには別の記録があり、殿下は再びファイルに目を向けた。
「"1941年、モスクワ前面で戦死"、"1929年、反革命の罪で処刑"、"1918年、皇帝一家の処刑に続いて処刑"…レオニード・セドネフの死については多くの説があります。…殿下、失礼を承知でお伺いしますが、彼は
「…そんなっ…見間違えるわけありません!だって、セドネフは私たちのお皿洗いで…あの家までずっと一緒に…」
「では、殿下以外の誰かが、彼のことを"レオニード"と呼ぶのを耳にしましたか?」
「…いいえ。でもっ」
「はい。確かにこれだけではただの想像に過ぎません。…では、殿下がドイツ軍の陣地で彼を見つけた時、彼がどんな反応をしたか覚えていらっしゃいますか?」
「ええ…"私は死んだはず"と。」
「…殿下、赤軍は皇帝一家を処刑した後も、殿下の生存説を流布していました…皇帝に親近感を持つ民衆の反乱を避けるために。」
「………」
「にも関わらず、彼は殿下を見て動揺し、そしてハッキリと"死んだはずだ"と断言しています。
「
殿下の声色が、若干だが冷たさを帯びている。
雰囲気はガラリと変わり、ロシア全土を永久凍土に封じ込めそうなソレに変わっていた。
ぶっちゃけるとこうなるのは目に見えていたが、だからこそ俺は話を続ける。
「殿下、そうとも限りません。彼はあの銃殺隊にいたのかもしれませんし、或いはイパチェフ館に出入りしただけかもしれない。今となっては断言はできません。」
「どちらにせよ…なんて事。私…どうしてそんな人間をセドネフと間違えたのかしら…」
「人間は衝撃的な事件にでくわすと、記憶を自身の都合の良いようにねじ曲げようとします。精神的な防衛機能の一部ですよ。ですから、殿下は何らかの記憶障害によって誤認してしまったのかもしれません。」
殿下の腕が小刻みに震え、ヴィイを抱える力が強まっているのも側から見て分かる。
ヴィイは真っ黒な顔をこちらに向けて、こんな事を言ってる気がした。
"後で覚えとけよ、オメエ"
俺はヴィイからは目を逸らし、殿下に向き直る。
「……分からない、分からないわ、シマズさん!ならなぜ、あの人は私達を守るためにあんな事をッ…」
殿下の問いは至極真っ当だ。
あのセドネフが殿下の皿洗いではなく、1917年以来の赤軍兵士だったのなら、何故命懸けで殿下を守ろうとしたのか。
この時点ですら俺の話は憶測でしかないし、実際の真実は分からない。
でも、もしこの憶測が事実に近いのであれば。
その前提で、俺は自論を殿下に話す。
「…スターリンとソヴィエト政府の支配は熾烈を極めました。多くの人間が無実の罪でシベリアに送られたし、多くの人間が飢え、多くの人間が死んだ。だからこそ、帝政時代への懐古がなされたのでしょう。」
「………」
「そしてその象徴が…殿下、あなたです。先にも述べました通り、ソヴィエトはあなたの生存説を流布した。だから、国民の中には、いつかあなたが王政復古を成し遂げて、古き良き時代が舞い戻る事を期待した人間もいるはずです。」
「そんな…あり得ないわ。パーヴェル帝以降、ロマノフ家では女性皇帝の即位はできないのに」
「根本的には、彼らの羨望は時代そのものへ向けられていました。ロマノフ家の末裔が生きている、それだけで彼らにとっては希望となり得たんです。」
「…………」
ファイルに染みが広がっていき、なにかを啜るような音が混ざる。
何事かと思えば、殿下が涙を流していらっしゃった。
殿下は全てを理解なさったようだ。
つまりは、あの赤軍兵士達が何故命懸けで殿下を守ろうとしたのかを。
殿下はソヴィエト治世下の…とりわけスターリン時代のロシアに於いて、まさしく希望の象徴だったのである。
「…本当に身勝手な人達っ…自分達の都合で私達を殺しておいて…それなのに希望だなんて…」
「大衆は常に愚かなものです、殿下。」
「ええ、愚か!とても、信じられないくらいに愚か者!…でも……私は…」
邪ン姉さんがハンカチを殿下に手渡し、殿下はそれで涙を拭う。
「………取り乱してごめんなさい…彼女の…マリーの言った事も、今は少し分かる気がするの。彼女は国民を心から愛していた。お父様やお母様もそれは同じだったと思うわ。革命という時代のうねりがやってくるまで、私達はきっと国民からも愛されていた。」
殿下は落ち着きを取り戻し、ファイルから顔を上げてそう言った。
もう殿下は塞ぎ込んだりしそうにはない。
「少しだけ、スッキリしました。あの、粗野で、野蛮で、横暴で、我儘で、そして狡猾な兵士達を許すつもりはさらさらありません。でも…ほんの少しだけ、気持ちは分かったような気はします。お父様が大切にしていたものや、皇帝家が守ろうとしていたものも。」
まあ、ネタばらしをすると、あの空間は史実より少しだけ"逸れた"世界線だったとダヴィンチちゃんから聞いている。
ひょっとすると、アレは何かしらの啓示だったのかもしれない。
そんなコトを考えていると、殿下に手を握られていることに気がついた。
殿下は俺をジッと見て、微笑んでいる。
「臣下として申し分のない働きです、シマズさん。あなたを雇って正解でした。」
「こ、これは有難き幸せにございます」
「…………では、シマズさん」
殿下が少し、ほんの少しだけ顔を曇らせた。
「臣下として命じます。…掴んだ手を離さないで。私の目の届くところにいて。私の声を聞いたら、いつでも返事をして。………私はもう………失いたくないの。」
……………アレ?
ひょっとして俺、絆Lv.5?
ふぃ〜…とりあえずレイシフト編はコレで終わりにしたいと思います。
考証の甘さが目立った上、戦闘描写も上手くいかず、最後無理くりねじ込んだようなラストになってしまったのは反省点ですね…全部じゃね?
お楽しみいただけたら幸いでしたが、消化不良になってしまった方は本当に申し訳ありません。
念のために書きますが、レイシフト編での出来事はフィクションです。
次話からはまたオムニバス(?)形式に戻りますので、お楽しみいただければ幸いです。
よろしくお願いします。