あぎりは一人、夕焼けに染まりつつある帰り道を上機嫌そうな顔で歩いていた。いつもと少し違う、あえて選んだ回り道。なぜそうしたかはわからないが、たまにはのんびり変えるのもいいだろうと思った結果である。道草しながら帰ったって別に罰は当たらない。ニコニコとした、女の子とも女性とも受け取れるその顔立ち、いやどちらかといえば女性の魅力を持った笑みを浮かべながら、家路に向かっていた。
ただ、それが本当に上機嫌な顔なのか、誰も知る由もない。常にこんな表情だから、怒っているのかも泣いているのかも分からない、不思議な人物だった。本人にそのことを聞いたらきっとこう答えるだろう。「忍者ですから~」と。
表面上上機嫌に歩くあぎりは、ふと足を止める。何かの気配を察知して、近くにあった空き地に目を向ければ、そこには一つの段ボールが置かれていた。いや、それだけではない。生き物の気配を感じる。そっと近づいて中を覗き込んでみれば、白い小さな猫が一匹、丸くなっていた。
「あらあら~?」
おそらく生まれてまだ間もない猫だろう。その猫は少し触れるだけで壊れてしまいそうなほど弱々しく、もろい印象だった。捨て猫だろうか。あぎりは猫の前にしゃがみ込んで少し見つめた後、こちらを見上げた子猫に向かってそっと語りかけた。
「一人っきりなのですか~?」
子猫はしばらくあぎりを見つめた後、小さく「にゃー」と返事をした。自分の言葉を理解したかどうかなんてわからない。ただ、あぎりは少なくともそれが肯定の返事に聞こえたから、少しだけ相手をしてみることにした。
「そうですかぁ。それは寂しいですね~。んーと、それでは~……えいっ」
あぎりは右手を持ち上げ、少しぐぐぐと力を入れて、次の瞬間にぱっ、とマタタビを取り出して、子猫の前でふりふりと見せつけた。
「忍法、何もないところから何かが出てくる術~」
ほらほら、と子猫にマタタビを振り、興味を引こうとする。子猫はあぎりの振るうマタタビをしばし見つめた後、ぷいと再び丸くなってしまった。あぎりは少し予想外で、「あれぇ~?」と声を出してしまう。
「ご満足いただけない?」
「にゃー」
「うーん、子供にはまだ早すぎましたかね~?」
それじゃあ、とあぎりはまた拳に力を入れて、今度は猫じゃらしを取り出す。ほらほら、これならどうだと子猫の目の前で闘争本能くすぐる絶妙な動きを見せる。これには子猫も興味をそそられ、ぺちぺちと猫じゃらしにつられる。流石は野生の本能くすぐる必殺兵器である。にゃ、にゃ、と子猫は手を伸ばして食らいつく。
だが、少ししたら子猫は付かれたのか、動かなくなって丸くなってしまう。軽く前足に猫じゃらしを乗せるが、少し目を開けるだけで動かなかった。
「お疲れの様ですね~?」
よいしょ、とあぎりは立ちあがり、ぱんぱんとスカートをはたくと、猫を見降ろす。猫は相変わらず丸くなっていた。あぎりはもうこちらには興味が無くなったのだろうと、帰る事にした。
「じゃあね」
と、あぎりは子猫に小さく語りかけて、歩き出そうとする。と、
「にゃぁ」
子猫が体を起こして、あぎりを見つめる。その姿を見て思わず足を止めてしまい、猫と目を合わせる。愛くるしいその姿に、思わず口元がほころんでしまう。あぎりは猫を見つめ、「またね」と声を掛けた。気まぐれだが、また来ようと思った。なに、時間つぶしにはちょうどいい。癒しと言う物は必要だ。
じっと見つめる子猫をもう一度ちらりと見て、あぎりは小さく手を振って空き地から立ち去る。それ見つめる猫は、もう一度小さく鳴き声を上げるが、今度は振り向かずに空き地から立ち去さるあぎりを見て、ダンボール箱に戻った。
*
また帰り道。学校の校舎から出てみれば、台風の雨と風が叩きつけられて、帰るには少々厳しい状況だった。早く帰ろうか。あぎりは傘をさして歩き出す。雨風は朝に比べてすこしましになったが、それにしても家路を急いだ方がいい天候には間違いない。あぎりは家路を急ごうと歩みを進める。が、ふと以前の猫の事を思い出して、ほんの少し歩みが止まる。
「…………気まぐれも悪くないですね」
正門を出て、その歩みは自宅の直行ルートではなく、以前のちょっと遠回りの帰り道を選択する。少しだけ、猫の事が気になった。あぎりは少し足早に歩いて、時折り雨と風にあおられながらも、忍法雨風でも濡れないの術で回避する。
そしてしばらくして、この前と同じ空き地にたどり着いた。そして、同じ場所にダンボール。あぎりは近付いて中を覗きこむ。雨風に打たれてしまった段ボールはよれよれになってしまい、今にも崩れてしまいそうだった。そしてその中に、どうにかして小さな箱の中の隅に身を隠していた。
「あらあら、大丈夫ですか?」
あぎりはよいしょと子猫を抱え上げると、左手からタオルを召喚して子猫の体を拭く。ぐっしょりと濡れた子猫の体は冷え切っていて、少しばかり心もとない体温だった。
体を拭き終わって、箱に戻そうかと一瞬思ったが、このままでは同じ事を繰り返すだけだったので、はてどうしようかと考える。空き地を見回せば、資材置き場であったであろう場所に、簡単な屋根が付いていた。あぎりはそこへ移動し、少しだけ雨宿りをする事にする。
猫はあまり動かず、じっとあぎりの手の中でうずくまっていた。少し、寒くなりすぎたかもしれない。あぎりはどうしようかと考えて、おもむろに制服のネクタイを緩め、ボタンを数個開けると自分の胸元の中に子猫を入れて、挟み込む形で座りこんだ。
「はい、これで温かいですよ」
ついでにタオルで体をくるんで、万全の状態であぎりは猫を温める。猫は少しばかり調子が良くなったのか、時々もぞもぞと動きだす。あぎりはそれを見て少しだけ安心する。
「本当はお家に連れて帰ってあげたいのですが、なにぶんお世話が出来ない物ですからー」
仕事柄城、家を開ける事なんてざらにあるのだから、こんな目の話せないような子猫を家に置いておくなんて事は出来ない。それに、適当に動きまわられて、からくりの一つや二つを発動されても困る。誰かが拾うのを待つしかない。自分はそこまで甘い人間ではない。殺し屋なのだから。
「まぁ、殺し屋がこんなことしてる時点で、おかしいとは思いますけどね~」
「にゃあ」
「ふふふ、気まぐれですよ」
やがて雨風が弱くなり、幾分状態が良くなる。あぎりは立ちあがり、猫をダンボールに戻して、段ボールごと屋根の下に置いてやる。
「私は行きますけど、寂しくないですか?」
体をかがめてそう聞くと、猫はまた「にゃー」と返事をした。あぎりは「そうですか」とにっこり笑みを浮かべて、はい、と持っていた赤い雨傘を差し出した。
「プレゼントです。どうぞ使ってください。また会いましょうね」
とは言うが、猫はぷいとそっぽを向く。それなら連れて帰れ、と言っているようにあぎりは見えて、なかなかいい性格をした猫だなと笑みを浮かべて、歩き出す。
「じゃあね」
と歩き出す。だが、子猫はやはり立ち去ろうとするあぎりに向かって、「にゃー」と鳴く。あぎりは少しだけ振り返って、小さく手を振り、その場を後にした。
*
「ぱろっぱろっぱたっと、ふぅふぅ♪」
あぎりはご機嫌に歌を歌いながら、猫じゃらしと猫用ミルクのセットが入った袋を片手に空き地に向けて歩く。今日も居るのだろうか。あぎりは少しばかり足を速める。なんとなく楽しみにしている自分に気がつくが、まぁ動物好きですからー、と適当な理由をつけて空き地にたどり着く。
以前と同じ所にダンボール。そして中を覗きこめば、やはり昨日の子猫が丸くなっていた。心なしか、少しばかり小さくなった気がする。そう言えばご飯なんて食べていないだろう。こんな事もあろうかと、お湯を保温ポッドの中に入れて来たのだからぬかりは無い。これでミルクを作って飲ませれば元気になるだろう。間違っても、人間の飲む牛乳を与えてはならない。
子猫はあぎりに気が付いて、顔を持ち上げると小さく「にゃあ」と鳴いた。お腹が空いただろうと、あぎりは早速子猫用のミルクを作り、紙皿の中に注いで差し出す。子猫はそれを見て少しばかり匂いを嗅いで警戒するが、すぐに安全だと判断して顔を近づけて飲み始めた。
「うふふ、いい子ですね~」
よしよし、とあぎりは子猫の頭を指で撫でてやる。子猫はそんなあぎりを見上げて、また小さく「にゃあ」と鳴いた。
「お礼なんて要りませんよ~?」
と言うと、猫はまたぷいとミルクを飲むのを再開する。別に礼など言っていない、と言いたげな反応だった。素直じゃないなー。あぎりはそう思った。
「あ、見知らぬ子猫にむやみにえさを与えてはいけませんよ~?」
と言うあぎりに対し、猫は「誰に言っているんだ?」と言いたそうな顔で見つめる。それを見たあぎりは人差し指を口の前に立てて、こう言った。
「ひみつ」
その後、一通りミルクを飲み終わった子猫と少しだけじゃれついた。また猫じゃらしを振り回し、こんどは ミミズ型猫じゃらしを使ってみたりと、猫の闘争本能をくすぐっていた。
やがて、子猫はまた遊び疲れて反応が悪くなり、あぎりは頃合いだなと保温性抜群のタオルを置いて、子猫に乗るように促し、軽く乗せてやると「じゃあね」とその場から立ち去る。子猫は、そのまま眠っていた。
このまま、誰かに拾ってもらうのが一番だろう。自分が拾ってやりたいのだが、いかんせんそれはあぎり自身が許さなかった。そうしたら、甘さが生まれるかもしれない。いや、既に十分甘い。だが、甘さを持ちつつ、残虐さも持つ事も、殺し屋の一つの手法である。要は、上げて落とす。そう言うことだ。
空き地をあとにし、あぎりは自宅に向けて歩き出す。ふと、自分の携帯電話の着信が鳴り、それに応答する。組織の上層部からだった。
内容は、次のターゲットが現れたという任務の知らせだった。早急な用事らしい。決行は今晩。ソーニャと二人でターゲットを仕留めろとのことだった。
ほんとは休みなのですが。あぎりはそう言いたかったが、任務なら仕方が無いなと了解の返事をして電話を切る。さぁ、さっさと帰ろう。そして準備をして早く任務を終えよう。あぎりは、足早に自宅へと向かった。
*
「もう逃がしませんよ?」
あぎりはターゲットを路地に追い込んで、袖の中からクナイを抜いて逆手に握る。ターゲットは既に深手を負っていて、こちら側が圧倒的に有利だった。あとは、止めの一撃を加えれば終わりだ。
「悪く思わないでくださいね。これも仕事ですから」
くるりと、クナイを回して握り直す。これで今日も終わりだ。あぎりはクナイを振りおろそうとして、次の瞬間にその目の前を野良猫が飛び降り、二つの瞳があぎりを見つめた。
ほんの一瞬だった。だが、その一瞬はあぎりに戸惑いを生ませるには十分だった。あの子猫が、頭の中をよぎった。
「っ!」
攻撃する手が一瞬止まる。敵は、その隙を見逃さずに隠し持っていた小型の拳銃を取り出して、あぎりに向けた。この距離では間に合わない。あぎりは嫌な汗が出るのを我慢できなかった。
だが、敵は銃のトリガーを引く事が出来ずに、ゴッという音がしてターゲットは殴られたかのように頭を横に揺らして、そのまま倒れ込んだ。あぎりは思わずため息を吐いた。
あぎりは、遠く先に見えるひときわ高いビルの屋上に視線を向ける。その先には、スナイパーライフルを構えたソーニャが、スコープ越しにあぎりを見ていた。
「……ソーニャ、助かりました~」
『らしくないぞ。お前なら躊躇なく止めを刺しただろ』
「うふふ。ちょっとした考え事です。気にしないでください」
『考え事? お前が?』
ソーニャがそんなまさかと言った声色で答える。「私だって考え事ぐらいしますよ」とあぎりは答えて、ターゲットの懐にしまわれていた機密データの入ったUSBデータを抜き取り、組織から渡されて端末に差し込んで、中身を確認する。間違いなく本物だ。そのままデータを懐にしまい込み、あぎりは撤収を開始する。
「ソーニャ、状況終了です。ターゲットの始末、対象の機密データの回収完了です」
『ああ、了解だ。撤収ポイントで合流する』
「はい、また後で~」
更新を終えて、あぎりは一つため息を吐いて、合流ポイントに向けて歩き出す。まったく、たかが猫一匹のせいでこんな微妙な感情の妨げが現れるなんて。少し、情がわきすぎた。決着をつけなければならないだろう。あぎりはそう思った。
*
帰り道。また猫の居る空地へと、あぎりは足を向けていた。今度は遊ぶのではない。別れを言いに行くのだ。それをしたら、もう関わらないようにしよう。そう決めていた。
だが、空き地の目の前で、あぎりの足は止まった。その視線の先には一台のトラック。荷台の部分には、市内の保健所の明記がされていた。
回り込んで空き地を見てみれば、職員がちょうどダンボールを抱えているところだった。ちょうどいいだろう。これでここに来る事も無い。
「……まぁ、これも厳しい世の中ですから~」
ダンボールから子猫が抱え上げられて、檻の中に入れられる。子猫は一体何が起きているのか分からないと言った表情で、時折り鳴き声を上げている。そして、あぎりと目が合う。少しだけ、どきりとした。
だが、猫は何も言わずに、じっとあぎりを見つめているだけだった。別に悲痛な鳴き声で引き付ける事も無く、檻にすがりついてあぎりに助けを求める事も無く、じっと見つめていた。
この子猫は、自分がこの先どうなるのかを全く理解していないのだ。恐らく、あと数カ月も無いうちにこの子はこの世からいなくなるだろう。だが、たかが猫一匹、どこにでもいるのだ。自分が関わったのは引き取り手が見つかるまでの気紛れなのだ。だから、もう関係ない。
あぎりはくるりと背を向けて歩き出す。もう帰ろう。長居は無用だ。そうして数歩ほど歩みを進め、完全に空き地から立ち去ろうとした時。
「にゃー」
と、子猫が小さな声で鳴いた。そのとても小さく、ほとんど聞こえないようなその声。だが、それは確かにあぎりの耳に届いた。
*
「よいしょっと」
自宅に帰りついて、あぎりは買い物袋を床に置いて一息吐いた。途中で雨に降られてしまい、制服は少しばかり濡れていた。だがまだましな方だろう。でも早く洗濯しないと。そう思って、シャツのボタンをはずし、その中、あぎりの胸の中がもぞもぞと動き出す。「はいはい、未だして上げますよ」と言い、服の中に手を入れてひょっこりと、子猫が顔を出す。何だここは。一体どこだ? あぎりに下された子猫は、不思議そうに部屋の中を見回した。
「はい、今日からあなたは私の忠実な部下になります。よってここがあなたの住処になります。いいですか?」
「にゃあ」
あぎりの声に返事をしたのかどうか分からないが、猫はとことこと歩いて、畳の感触を味わう。勘のいい事に、落とし穴のあるたたみ部分を避けていた。ふむ、忍者猫にするにはいいかもしれないとあぎりは考える。袋から猫用のトイレや餌、爪とぎのカリカリを取り出して、猫は不思議そうにそれらを見つめる。
あぎりはしゃがんで、おいでと言う。猫はその通りにあぎりの膝の上に乗り、そのまま持ち上げられる。小さな二つの瞳が、じっと彼女を見つめた。
「そうですね……じゃあまずはあなたのお名前を決めましょうか」
はて何にしようか。少し考えてみるが、どこからともなくあぎりの九官鳥が飛んできて、「ワタシデス、アギリデス」と言いふらしながら飛びまわる。子猫はそれに少しだけ体をはね上げるも、大丈夫と頭を撫でられて落ち着きを取り戻した。
「んっと~……はい、決めました。それでは今日から私の優秀な忍者猫になる為に、最初の任務としてあなたに名前を授けます。いいですね?」
「にゃー」
「はい、いい返事です。それでは発表します。あなたのお名前は――――」
そっと名前をプレゼント
ふんとこっちを見ないふり
いいですね? と聞いたら
にゃーと私に感謝する。
空き地と野良猫 終わり