世界でたった一人だけ、彼を必要とする少女がいた。
世界でたった一人だけ、彼女を必要とする青年がいた。
「私疲れちゃった!ねえジン、ここで休憩しましょ?」
青空の下、荒野を征く。右目を眼帯で覆った少女は大仰に溜息を吐いてみせ、隣を歩く青年に休憩を所望した。
右腕と右足が機械に覆われた青年──ジンは、そんな少女の仕草を見て同じように溜息を吐き、そして小さく微笑んだ。
「しょうがない、じゃああそこの日陰がある岩場まで歩こう。そこまで歩いたら、休憩だ」
「やったぁ!あと何歩で辿りつけるかしら?急に歩くのが楽しくなってきたわ!」
ジンが鋼鉄の指でさしたのは、少し先に見える岩場だ。ちょうど大きな岩が日陰になっており、休憩をするには最適と言えるだろう。少女は先程までの溜息や疲れているような表情も何処かへ仕舞い込み、意気揚々と彼の隣を歩き始めた。
少女の歩幅は青年よりも短く、ジンが一歩進む道を彼女は一歩半で補う。ジンが二歩進めば、彼女は三歩。それを知っているから、ジンは歩く速度を落としていた。彼女と旅を始めてから、この機械の手足を手に入れてから、ずっと。
「……ついたー!ねえジン、とても涼しいわ!」
「そうだな」
岩場に到着するなり、少女は岩陰に潜り込み、そして岩を背もたれにぺたりと座り込んだ。ジンも適当な岩を椅子代わりに座り、右の手首をぐるぐると回す。
「今日はとても空が綺麗!ねえ、知ってる?世界が終わる日の空はとっても綺麗なんだって!私、お話を知ってるの!世界が終わる日、とっても綺麗な空にお願いをしたら、もう最後だからってその願いを叶えてくれるんだって!」
星に願いを、ではなく空に願いを。彼女の左の瞳は雲一つない純粋な青空を映していた。
ジンもそのおとぎ話は知っていた。世界が終わる日、夜空に願いを込めた海月は、その夜空が砕け散ったその瞬間、その刹那のような一瞬の間だけ、人間になることができた。美しくも残酷で、そして恐ろしいおとぎ話である。
「……ミサキは、この青空に何をお願いしたい?」
ふと、ジンは少女に──ミサキにそう問い掛けた。もし、この青空が世界の終わりの日に見せる、最後の輝きだったとしたら。最後に我儘が赦されるなら、彼女は何を願うのだろうか?
「私?私は……そう、こんなに綺麗な空なんだもの。両方の目で、この空を見たい。そうお願いするわ」
眼帯の奥にあるものは、彼女が罪を犯した証。闇に呑まれ、光を差し出した代償。右目があるはずの場所には、何も無いのだ。
右の手首は滞ることなく滑らかに動く。然れど、神経の通った鋼鉄が軋むように、右の身体に針を刺されるような痛みを感じた。
肉体の代わりにある機械の身体は、彼が彼女の罪を赦した証。闇を受け入れ、光に背を向けた対価。五体不満足であり、唯の人間よりも幾分か便利な身体である。
魔力を宿した機械が、人の身体の代わりとなる。そんな時代が来るなんて、一つ前の時代に生きた人々は想像出来ただろうか?
中央都市は、魔力を宿した巨大な鋼鉄の箱が造られ、その箱に乗って地下都市「落世」まで安全に降りることが出来るようになったらしい。新たな時代を迎える頃には、魔力を宿した機械という名のモノが、世界を根本から変えているのかもしれない。
快晴の空の下、歩いてきた道をふと振り返る。辿ってきた足跡を遡れば、地平線の彼方へ飛んでいってしまう。
──随分、歩いてきたんだな。そろそろ右足は調整が必要になるかもしれない。
「……あっ、ジン!見て、飛行船よ!」
ミサキが興味に満ちた表情で空を指さす。その先には悠々と空を漂う巨大な船があった。巨大な風船とも見えるそのガス袋には、この船が誰の所有物であるかを示す貴族の紋が刻まれていた。
「ブランシャール家の家紋……行方知らずの次女、ルプトナ・ブランシャールを探しているんだろうな」
この国を治める六つの貴族が一つ、ブランシャール家の次女ルプトナが行方不明になっていることは国中の噂話だ。彼女は高い魔力を持ち、天性の魔術師の才能があったが、それ以外の能力が欠如していた為、彼女の父である主君が追放したと囁かれている。
「ルプトナ達、今は何処にいるのかしら」
「俺達と同じさ。きっと今も旅を続けている」
ルプトナ・ブランシャールは追放されたのではない。逃げ出したのだ。
ブランシャール家の長女であり次期ブランシャール家の主君、ライラ・ブランシャールは、ルプトナの魔力の全てを奪い、我が物にしようと企んでいた。魔力を全て失った人間に待っているのは、永遠の眠り──即ち死だ。ライラの企みにいち早く気付いたルプトナの執事は、彼女を連れてブランシャール家から逃げ出した。
それ以来、ライラはルプトナを探す為、国中に兵や飛行船を放っているのだ。
「私、家族が離れ離れになるのはとっても辛いことだと思うの。……でも、ルプトナはお姉ちゃんから逃げなきゃいけない」
「……そうだな」
「あの飛行船、ルプトナを見つけちゃうかしら」
「大丈夫さ。ルプトナにはタイガさんがついてる」
いつかの旅路で出会った、お転婆な少女と付き人の剣士。快活に走り回り、見えるもの全てに興味を示していたあの少女は、見えない心の中に膨大な魔力と他人の欲望を抱えていた。そして彼女は、その欲望に気付いてすらいない。
──知らなくていいんです。お嬢様は、何も知らずに唯「世界中を旅している」だけでいいんです。
お嬢様に黒を浴びせようとするなら、かつての雇い主であっても、お嬢様の姉であっても。俺は斬ります──
思い出すのは、付き人の剣士──タイガの言葉だ。覚悟を決めた武人の瞳。かつてのミサキやジンも、或いは同じ瞳をしていたのかもしれない。
飛行船は、静かに青空を揺蕩い、そして悠々と進み続ける。行き先は解らないが、二人が歩んできた道、通り過ぎた道を辿るように。二人とは真逆の方向へ向かっていった。恐らく、もう当分あの飛行船を観ることは無いだろう。
二人に出来ることは、ただ祈るだけである。願わくば、あの飛行船が、哀れな二人組を見つけ出さないことを。遥かなる旅路で出会った僅かな友人達が、不運に見舞われないことを。
「他人の欲望の為、使われるなんてな」
気が付けば、ジンはそう口にしていた。
「あら?私達だって同じじゃない。「世界の為」に使われたジンと、「施設の為」に使われた私。同じでしょう?」
ミサキの表情は底抜けに明るかった。二人が罪を背負うきっかけとも言えるその事実を、まるで他人事のように淡々と話している。
「そして、「私の為」に使われるジンと、「ジンの為」に使われる私。ほら、何も変わらないわ」
そう言い切った、ミサキの瞳には光が灯っていなかった。左には眼球が存在しているはずなのに、その瞳はジンを映していないのだ。映しているのは、その機械の手足になる以前の、「本当の手足」。彼が、彼女を必要とする理由であり、彼女が彼を求める原点だ。
その瞳は、見た者を虚無に陥れ、震え上がることすら赦さない程の冷たい強さに満ちている。満ちているというのに、ジンはその瞳を正面から受け止め、彼もまた彼女の右目の「中にあるもの」を覗いていた。それは、肉眼で捉えられるものでは無い。彼の身体が機械であり、その機械が魔力を通した「モノ」であるが故に赦された、禁忌を覗く力である。
「……行きましょ、ジン!私もうすっかり元気になっちゃった!」
「……ああ、そうだな。このまま東へ進めば人形の街。俺の手足の手掛かりがあるかもしれない。西へ進めば魔法図書館。ミサキの目の手掛かりがあるかもしれない。……どっちへ進む?」
二人のうち、片方が片方を必要としなくなった時。彼等はどのように生きていくのだろうか。
「決まっているわ!前に進みましょ!」
一人きりでも、彼等は前に進まなければならないのだ。
進むことを諦めてしまえば、道は途絶えるのだから。二つあったはずの道も、瞬く間に消えてしまうのだから。
「だから、風に委ねましょう?」
ミサキが取り出したのは、空気の抜けた小さな風船。彼女はそれをジンに渡し、にこりと微笑んだ。
「……この風船が、飛んだ方に進むの!」
「わかった、そうしよう」
風船の穴に右手の平をあてがい、小さな魔法を起動させる。見る見るうちに風船は膨らみ、先の飛行船の小さな模型のように空気を取り込んだ。
風船を飛ばす時、共に己の夢を乗せて飛ばせば、より遠くまで飛んでくれるらしい。
彼が飛ばした風船は、ジンとミサキ、二人分の夢を乗せて飛んでいった。
──二人分の夢は、重かったかな。あの様子じゃ、あまり遠くまで飛びそうにない。
「風船が飛んだのはあっちね!行きましょ、ジン!」
「そうだな」
斯くして、二人の旅路は続く。