東方二次創作 普通の魔法使い   作:向風歩夢

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守矢の風祝

――少し昔の外の世界、諏訪湖の近くのどこか――

 

 まだ、東風谷早苗は幼かった。

 しかし、自分が他の子どもたちと違うことは早苗自身なんとなく気付いていた。

 産まれたときから早苗は崇め奉られていた。この諏訪湖周辺に建つ歴史ある巨大神社……。由緒正しい守矢神社の後継者として早苗は生を受けたのである。

 ご神託を受ける巫女のことをこの神社では風祝と呼んだ。風祝の後継者誕生に神社の従者たちはもちろん、氏子たちも大層喜んだそうだ。

 早苗は幼くしてその才能を開花させる。人間に神の姿が見えなくなってから長い年月がすぎた現在。由緒正しき守矢神社の風祝である早苗の母でさえも見ることのできない神の姿。それを幼い早苗は見ることができたのだ。まだ、文字を読むこともできないくらい幼い早苗が守矢神社に伝わる神の特徴を言い当てたことが証拠となり、早苗はさらに神格性を増していった。

 真の力を持つ風祝。その久しぶりの誕生に従者も氏子たちも守矢神社の一層の繁栄を確信していた。

 早苗の隣にはいつも諏訪子と神奈子がいた。二柱にとっても、自分たちの姿をその眼に写すことができる早苗の誕生は嬉しいものであった。両親、氏子、そして二柱の愛情をたっぷりと受け、早苗はすくすくと育っていった。そこに何の不穏もない。平和そのものだった。このまま、早苗が立派な風祝として育ち、守矢神社とその氏子たちをさらなる幸福に導くものだろうと誰もが信じて疑わなかった。しかし、ある時を境に雲行きが怪しくなっていく。

 早苗が地元の小学校に入学して夏休みも終わり、二学期が始まったときのことだった。

 休み時間にやんちゃな男の子が早苗と仲良くしていた女子の鉛筆を取り上げたのだ。子供同士によくあるトラブルの域にも達しない小競り合いだった。先生が騒ぎを聞いて駆けつけ、やんちゃな男子を叱りつけてそれで終わり、……となるのが普通だったに違いない。

 早苗は鉛筆を取り上げられた友達を守るため、やんちゃな男の子に立ち向かった。なんてことはない。鉛筆を返してあげてよ、くらいのことを言っただけだ。だが、カッとなった男の子が早苗に向かって手を上げようとした。

 

「うるさいな。邪魔するなよ!」

 

 男の子が早苗の頭を叩こうとしたときだ。男の子の腕が鈍い音ともにあらぬ方向へと折れ曲がったのである。男の子は激痛に顔を歪めながら悲鳴を上げ、床を転げまわる。

 

「どうしたの!?」

 

 男の子の泣き声を聞きつけた担任が教室に飛び込んでくる。一部始終を見ていた他の生徒が担任に伝達する。

 

「〇〇君が早苗ちゃんを叩こうとしたら、腕が折れ曲がったんです」

「どういうこと……? 東風谷さん、あなた何かしたの?」

 

 男の子の腕が骨折していることを担任は確認しながら、一応早苗に問いかける。小さな早苗が男の子を骨折させることができるとは担任にはとても思えなかった。

 

「わ、わたしなにもやってない!」

 

 早苗は涙目で担任にそう答えた。もちろん担任も早苗の言葉を信じ、その場にいた同級生たちも目の前で起こった不可思議なできごとが早苗の仕業だとは思わなかった。腕の折れた男の子は担任に抱えられて教室を出ていった。皆、何かの偶然が重なって男の子の腕が折れてしまったのだろうと強引に納得することにした。

しかし、これは始まりに過ぎなかった。

 早苗が小学校高学年になったころだ。同級生も教師も骨折事件を忘れかけていたころ、体育の時間にそれは起こった。男女混合で行われるドッジボールで早苗は逃げ回っていた。しかし、いつまで経ってもボールが当たることはなかった。あまりに長時間ボールに当たらないことを不審に思った同級生の少年が声を上げる。

 

「お、おい。東風谷、お前に当てようとしたボールが変な方向に曲がるぞ……」

「……え?」

 

 早苗は同級生の少年が冗談を言っているのだろうと思っていたが、少年の顔が真剣そのものであることを見ると、ボールを避けずにわざと当たるようにしたのである。……結果は少年の言ったとおりだった。まっすぐに向かっていたはずのボールが早苗に当たる直前で不自然に曲がったのである。それも一回ではなかった。何度投げても早苗を避けるようにボールが曲がっていくのである。

 超常現象を目の当たりにした同級生たちは皆、お化けでも見るかのような視線を早苗に向けた。

 それからというもの、早苗の身の回りでは不可解なことが頻繁に起こるようになってしまった。早苗が持ち前の正義感から級友たちのトラブルの間に入ろうとすると、早苗に敵意を向けたものは何かしらの不幸に見舞われることになったのである。かつての男の子のように早苗に手を上げようとして、不可思議な力による返り討ちに遭うこともあれば、早苗に敵意を向けたものが早苗のいないところで事故に遭うなど、科学的に証明することのできない呪いともいうべき現象が相次いだのだ。

同級生の子供たちも早苗が守矢神社の跡取りで、神の姿を視認できるのだという噂はなんとなく聞いていた。それを目の前の異常現象が証明する。同級生たちは早苗に近づかないようになり、距離を取るようになっていった。子供は……いや、子供だけではない。人間は異質なものを排斥したくなる性質を持っているのだから、無理もないことだった。

 早苗自身も自分の呪いのような力が級友たちに及ばないよう次第に距離を取るようになっていった。

早苗は学校で独りぼっちになった。

 それでも早苗は母親や神社の従者たちには何も言わず、心配をかけまいと神社に帰れば明るく振舞った。母親も神社の従者もそして、諏訪子と神奈子も早苗を暖かく育くむ。早苗はそんな彼女たちを心配させまいといつも強がっていた。

 ある日、心の折れかけた早苗は神奈子と諏訪子に問いかける。

 

「諏訪子様、神奈子様。なぜ、私にはこんな力が宿ってしまったのでしょうか……」

 

 落ち込む早苗に諏訪子はこう答えた。

 

「……東風谷家は神の血を引く一族だからね。たまたま早苗には大きな力が宿ったってだけだよ。気にすることはない。過去にも早苗くらいの力を持った風祝はいたからね」

 

 嘘だった。過去に早苗ほどの不可思議な力を持った風祝など存在しない。しかし、諏訪子はあえて真実を告げなかった。「決して早苗は特別なんかじゃない。普通の子だよ」と伝えて慰めてあげることが優しさだと信じていたからである。事実、早苗も諏訪子の話を聞き、少しは前向きになれた。独りぼっちの早苗が中学校に進学した後も通い続けられたのは諏訪子と神奈子の存在が大きかったのは間違いないだろう。

 ……中学一年の冬のときのことだった。一人の女が夕暮れ時にヒステリック気味な声を上げて守矢神社に乗り込んできた。

 

「ちょっと、東風谷さん!? 私の息子があなたの娘さんに怪我させられたんですけど!? どうしてくれるんですか!?」

 

 女は早苗の母親を怒鳴りつける。女は早苗とは違う学校に通う中学生の母親であった。早苗はその日の放課後、あるトラブルに巻き込まれていたのである。

同級生と距離を取っている早苗だったが、帰宅途中で女生徒が軟派な他校の生徒に声をかけられ、嫌がっていたのを見て咄嗟に仲裁に入ってしまったのだ。

 これが同じ学校の生徒ならば、早苗から離れて終わりになったのだろうが、早苗の能力を知らない他校の男子学生は早苗に手を上げようとしてしまったのである。男子学生はかつての小学校時代の男の子と同じようにその腕に骨折を負うことになった。早苗はまた意図せずに人を傷つけたことに恐怖し、救護することもなく、その場を走って立ち去ってしまっていた。それも女の怒りに油を注いでいた。

 

「も、申し訳ないんですが、一体何があったというんですか……?」

 

 状況を飲み込めない早苗の母親は女に問いかけた。女は息子の骨を早苗が折ったのだと説明する。

 

「早苗がそんなことをするなんて……」

「しらじらしい。私、お伺いしましたよ? なんでもお宅のお子さん、よく人を怪我させているそうじゃありませんか。とんだ不良娘を育ててらっしゃるものですね。巫女さんのお子さんとはとても思えませんこと!」

「ど、どういうこと……?」

 

 早苗の母親は知らなかったのである。早苗に特殊な力が宿っていることを。

 

「とにかく。息子の治療費をしっかり出していただきますからね! 何もしていないうちの子を傷つけたんですから!」

 

 どうやら、他校の男子は真実を母親である女に告げず、一方的に早苗が悪かったことにしているらしい。

 

「失礼ですが、早苗が理由もなくそんなことをするとは思えません。それに早苗は女の子なんです。男の子を怪我させることができるとはとても……」

「そんなの、バットでもなんでも道具を使えばどうとでもなるでしょう!?」

 

 興奮している女に早苗の母の意見が届くことはない。騒ぎを聞いていた早苗は我慢ならず、つい反論してしまった。

 

「あなたの息子が、先に私の同級生が嫌がることをしてきたんじゃないですか……!! それにお母さんは悪くありません……!!」

 

 早苗はまだ大人になり切れていなかった。一方的に母親が罵倒されることが許せなかったのである。

 

「早苗、下がっていなさい」

 

 早苗の母親が諭すが、早苗は聞く耳を持たず、女に詰め寄る。

 

「逆恨みするだなんて、本当によく教育が行き渡っていること」と女は嫌味を口にする。そんな女の態度が早苗の怒りをさらに増幅させる。

 

「なんなのその顔は。どうやら欠片も反省してないようね。良いわ。東風谷さんが教育できないというなら、私が代わりに躾けてあげます……!」

 

 女は早苗の頬をビンタしようと手を上げる。だがその瞬間、女の身体に激痛が走った。

 

「え、何……!? あ、ああああああ!? い、痛い!? 痛いぃいいいいいいい!!!?」

 

 女はその場で倒れ込む。女の四肢は既にあり得ぬ方向に折れ曲がっていた。

 

「な、なにが……? 早苗、あなた……?」

「ち、ちがう……。私じゃ……、私じゃない!」

 

 そう言って、早苗は社務所の中へと走り去っていった。

 

「……救急車を、救急車を呼んでちょうだい……!」

 

 早苗の母は従者たちに伝える。ほどなくして聞こえてきたサイレン、従者たちのやり取りの声が響くあわただしい境内。様々な音が鳴りやむまでに小一時間が必要だった。その間、早苗は自室に引きこもっていた。

 何時間経っただろうか。早苗の部屋の襖が開かれ、母親が入ってくる。母親は入ってくると、うずくまっていた早苗を背中から抱きしめた。

 

「お母さん……?」と早苗。

「……もう、大丈夫よ。ちゃんと話はつけてきたわ。あなたが同級生を守ろうとしたことも、何もしていないことも聞いてきたし、説明してきた。でも、怪我させたのは本当だから……」

 

 早苗の母は、事の真相を知るべく走り回り、真実を知った上で怪我は早苗側の責任とし、治療費を払うことにしたことを早苗に告げる。相手の親子も自分たちに非があったことを認め、それ以上咎めることはなかったことも併せて知らせた。

 

「……ごめんね、早苗。お母さん今まで気付いて上げられなくて」

「お母さん……。わたし、わたし……」

 

 早苗は母親の胸に顔を埋め、泣きじゃくった。

 ……この事件自体はこれで片が付いた。しかし、この一件をきっかけに早苗はよりいっそう孤立を深めていった。早苗だけではない。少しずつだが、守矢神社にも世間からの冷ややかな視線が集められていった。これまで単なる事故として扱われていた事案が、本当は早苗の能力によるものではないか、という推測が広まっていったのである。

 ……そして、早苗と守矢神社にとって決定的なことが起こってしまう。……早苗が中学2年生になった秋のことだった。

 

「本当に大丈夫?」と早苗の母が案ずる。

「大丈夫だよ」と短く早苗は答えた。

 

 この日から3日間、早苗は修学旅行に行くことになっていた。すでに早苗が学校で孤立していることは早苗の母も承知していた。友達のいない修学旅行ほど辛いものもないだろうことは母も容易に想像できる。それ故、早苗に修学旅行に行かずに家に残っても良いと母は前々から早苗に提案していた。しかし、早苗はその提案を受け入れることはしなかった。修学旅行参加は早苗の意地のようなものだったからである。

 早苗たちは出発した。バスに揺られて空港に辿り着いた早苗たちは飛行機に乗り込む。

 

「……アイツ来ちゃったよ。悪いことだけは起こさないで欲しいよな……」

 

 心無い同級生の陰口が早苗の耳まで届く。ひそひそ声のつもりなのか、わざと聞こえるようにしているのかはわからないが、早苗は聞こえないふりをしてシートに座ると離陸を待った。

 飛行機が離陸を終え、安定飛行に入った時だった。ガタガタと異様な機械音が機内に響き渡るとともに、飛行機が不安定に動き出す。

 

「な、なんだ? 何が起こっているんだ!?」

 

 乗客の困惑した叫びが機内を埋め尽くす。初めて飛行機に乗る早苗や大多数の同級生にはこれが異常なのかどうかすら解らなかった。パイロットの非常放送でようやくこれが異常事態なのだということに気付く。

 

『当機のエンジンにトラブルが発生したため、緊急着陸を実施します。エンジントラブルが発生したため、緊急着陸を実施します。乗客の皆さまは姿勢を低くし、衝撃に備え……、ああ、ダメだ……! うわぁあああああ!?』

 

 パイロットの断末魔とともに飛行機に巨大な衝撃が加わる。乗客は皆、悲鳴を上げる。早苗の意識はそこで途絶えるのだった。……次に早苗が意識を取り戻したのは、どことも解らぬ山の上だった。

 焦げ臭い匂いとオイルの匂い、そして焼肉のような強い匂いが早苗の鼻を覆いこむ。

 

「うっ……。一体何が起こったの……? このにおいは……?」

 

 早苗は周囲を窺う。そこにあったのは墜落してバラバラになった飛行機の残骸、そして火炎に焼かれた無数の人間の死体だった。焼肉のようなにおいは燃え尽きた人体から発せられるものだったのである。あまりにグロテスクな光景に早苗は思わずえづく。……嘔吐を終えた早苗は冷静さを取り戻し、生存者を探すことにした。もしかしたらまだ生き残っている人がいるかもしれない、飛行機の瓦礫に埋もれた人が助けを求めているかもしれない、そう思って声を上げる。

 

「だれか、だれか生きている人はいませんか!?」

 

 だが、早苗の呼びかけに答える者はだれもいなかった。早苗は直感で悟る。生き残ったのは自分しかいないのだ、と。ふと、早苗は自分の身体を見回した。早苗の身体はまったく傷ついていなかった。かすり傷ひとつ負っていなかったのである。だれも生き残れなかったこの惨状で一人、早苗は火傷ひとつ負わず生き残っていたのだ。

 

「なんなのよ、なんで私だけ……?」

 

 早苗は自身のきれいなままの両掌に視線を向け、わなわなと震えた。同級生たちを失った悲しさや、事故に遭った怒りよりも、何故か生き残ってしまった自分に覚える恐怖の感情が勝った。

 恐怖に震える早苗の上空に自衛隊のヘリが到着する。

 

『墜落旅客機を確認。機体は大破。生存者はなし……いや、あれは少女か……!?』

 

 自衛隊の隊員は驚愕した表情で本部に生存者の少女がいることを無線通信するのだった。

 

 ……早苗は生き残った。たった一人、凄惨な飛行機墜落事故から。早苗は新聞・テレビあらゆるマスコミに奇跡の少女だと報じられた。飛行機事故から生還したのだからマスコミが食いつくのも無理はなかった。早苗にとって幸いだったのは昨今のプライバシー保護意識の向上から住所、氏名等は公表されなかったことだろう。

 しかし、全国に知らしめられることはなくとも、早苗だけが生き残ったことは地元の人間には当然伝わっていく。

 早苗は地元民から奇跡の少女などと呼ばれることはなかった。これまでに意図的でないとはいえ、大なり小なりのトラブルを起こしていた早苗の生還を心から喜ぶものは少なくなっていた。むしろ、早苗のせいで飛行機事故が起こったと信じ、子供を失った親族の中には早苗を恨む者さえ現れる。だが、それを諫めることがだれにできようか。

 早苗への憎しみの感情が守矢神社にも及び始める。

 東風谷家と守矢神社が恨まれ始めたことは参拝客の数が証明していた。悲劇の修学旅行が終わった最初の1月、初詣の参拝客が激減したのである。

 それは地元民が守矢神社の氏子をやめたことの証であった。この頃には既に、『あの神社には疫病神がいる』という噂が諏訪子周辺地域に広まってしまっていた。

 神社にとって初詣の奉納金が激減することは、言うまでもなく運営を困難にさせる。かねてより宗教法人の本来の在り方を守ってきた守矢神社は参拝客の奉納金をため込むことなどしておらず、毎年、余剰金を全て福祉施設等に寄付していた。そのため、金銭的体力はなく、奉納金の減少が守矢神社の財政に直撃する。

 次の年も参拝客が戻ってくることはなかった。早苗の母親は従者たちへのお給金を捻出するために守矢神社の土地を売らざるを得なくなる。先祖代々から伝わる守矢の土地を手放すことに申し訳なさがなかったわけではない。だが、神社を継続させるにはやるしかなかった。断腸の思いで守矢の土地を売る早苗の母だったが、それも限界を迎える。売り払う土地もなくなり、最後に残った従者も神社を去った。守矢神社に残ったのは本殿と住居を兼ねた小さな社務所だけになってしまったのである。

 

「ごめんなさい……。お母さん……。私が『現人神』だったせいで……」

 

 早苗は母親に謝罪する。自分の特殊な能力が守矢神社を追い詰めてしまっていることに。早苗は自分のことを『現人神』と言った。早苗は地元の氏子にそう呼ばれるようになっていたのだ。それは良い神様と言う意味ではなく、『祟り神』という意味の皮肉であった。かつての日本ならば、祟り神も信仰の対象になり得たであろうが、今の早苗と守矢神社が信仰の対象になることは元氏子たちの心情を考えれば不可能であった。

 

「大丈夫よ。早苗は『現人神』でも『祟り神』でもないわ」

 

 早苗の母は心配させまいと笑顔を作る。しかし、やつれた顔で造った笑顔は早苗の心を痛ませる。

 

「お母さん、わたしやっぱり高校行くのやめる。私働く。守矢神社を存続させるために……」

「ダメよ。あなたは心配することないの。神社のことはお母さんが解決するから……!」

 

 早苗の母親は早苗が働こうとすることを止めた。……もう守矢神社が持たないであろうことを悟っていたのかもしれない。守矢神社が潰れたときのことを考えれば、なおのこと早苗に学歴が必要なことは明らかだった。

 ……時が過ぎ、早苗は高校一年生になっていた。つい二年前までにぎわっていた守矢神社の姿はなく、境内は閑散としている。早苗がいつものように帰宅した。晴れた良い天気の秋の頃だった。社務所に入った早苗を待ち受けていたのは絶望だった。

 

「早苗……」

 

 諏訪子が青ざめた様子で早苗に声をかけた。

 

「どうしたんですか、諏訪子様……?」

「……あの子が、あの子が……!」

 

 諏訪子があの子と呼ぶのは早苗の母親のことだ。早苗は嫌な胸騒ぎが治まらない。社務所の中にある住居スペースへと足を踏み入れる早苗。

 そこで……早苗の母親は首を吊っていた。

 

「……お母さん? ……ウソでしょ? お母さん!」

 

 早苗はその場にポトリと学生カバンを落とした後、急いで母親の首に巻かれたロープを切り母親を床に寝かせる。救急隊を呼んだが、早苗の母親は既にこと切れていた。

近くのテーブルに遺書が残されているのを見つけた早苗はすぐに開いた。そこには、歴史ある守矢神社を自分の代で終わらせてしまったことを悔いるとともにご先祖様に申し訳ないという気持ちがしたためられていた。そして最後に早苗への言葉が……。

 

『早苗、先に逝くお母さんを許してちょうだい。愛してます。これからの人生、どうか強く生きて』

 

「あ、うぁああああああああああああああああ!!」

 

 母親の遺書を読み終わった早苗は泣き崩れる。早苗はこの世界で本当にひとりぼっちになってしまったのだ。

 その後、早苗は母親の葬儀を一人で行った。それが早苗にとって守矢神社の風祝としての最初の仕事だった。

 葬儀を終え、早苗が母親の私物を整理していたときのことだ。早苗は母親の日記を見つける。早苗は息を飲んだ。そこには母親の本音が書かれているに違いなかった。早苗は日付の遠いところから読み進めることにした。内容は業務連絡のようなもので、日記とも言えないようなその日起こったことが羅列されているだけだった。しかし、ある日を境に一転し、日記の内容が感情的になる。それは早苗がその能力で怒鳴り込んできた女を痛めつけた日からだった。

 

〇月×日

『知らなかった。早苗にあんな力があるなんて。なぜ氏子のだれも教えてくれなかったのだろう』

 

〇月×日

『従者は氏子たちが守矢神社の風祝である私に遠慮して早苗のことを喋ることができなかったのだと言っていた。なぜ遠慮する必要が……?』

 

〇月×日

『……少しずつ話が見えてきた。従者たちは早苗の能力を把握していながら、黙っていたのだ。守矢神社の悪い噂が流れ、奉納金に影響を与えることを恐れたのだという。だから、氏子に被害が出たときは金でもみ消していたという。なぜ私に相談もなくやったのかと問い質せば、守矢の風祝は無垢でなければならないからだ、と言われた』

 

〇月×日

『……たしかに私は生まれてこのかた、風祝なのにもかかわらず、守矢の財政について絡んだことはなかった。奉納金の余りは全て福祉施設などに寄付していると思っていた……が、そんなことはなかった。一部の従者が奉納金を懐に納めていたことを知った。なるほど。たしかに私は無垢でなければならなかったのだ。でなければ、従者が金を自由に使えないのだから。小さい頃から信じていた従者にも金を横領している者がいた。ひどい裏切りだ。早苗の能力のことを隠す意味もようやく分かった。早苗の件を機に私が金の流れを確認することを恐れたのだ。不正をしていた従者は全て今日をもって追い出した』

 

〇月×日

『……早苗の修学旅行で飛行機が落ち、多くの人が亡くなった。他の子たちが亡くなった中、こんなことを言うのは間違っているかもしれない。でも、早苗が生きて帰ってくれてよかった』

 

〇月×日

『早苗が生きて帰ったことを恨む人たちばかりだ。なぜよ! 早苗は悪くないのに! なぜ飛行機が落ちたのが早苗のせいにされないといけないの……!?』

 

〇月×日

『……奉納金が目に見えて減っている。このままでは神社が成り立たない。従者のお給金も払えない。神社の所有する土地を切り売りするほかもう手段はない』

 

〇月×日

『事故から1年経った。奉納金の額が戻る気配はない。守矢神社に金銭的な体力がないとわかると、従者たちが次々と去っていった。どうして。あなたたちは神に仕えていたのではなかったのですか?』

 

〇月×日

『ついに最後の一人の従者も守矢から去った。どうすればよかったというのか。横領していたかつての従者のように、早苗の被害に遭った者たちに金を渡していれば守矢の神格は失われなかったとでもいうのだろうか? ……わからない。神に祈りを捧げることしか知らない私にはわからない。たしかなことは先祖代々続いていた守矢神社が風前の灯だということだけ』

 

〇月×日

『疲れた。もう神社とは名ばかりだ。誰もこの建物に参りなどこない。守矢神社は死んだのだ。そして同時に私も』

 

〇月×日

『これが最後の日記になる。守矢神社を殺し、神を殺した私だ。死をもって償わなければならないだろう。……早苗に能力がなければうまく回っていたのだろうか? 早苗がいなければ、私が従者たちの不正に気付くこともなく、守矢神社は繁栄したままだったのだろうか? わからない。あの子は私が死んだあと、生きていけるのだろうか? 無理かもしれない。あの子は恨まれているから。間違っているかもしれない。でもそう願う方がよいのかもしれない。お願い早苗…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………死んでちょうだい』

 

 母親の日記は早苗の死を望んで終わっていた。きっとそれは本心ではなかったに違いない。母親の疲労した心がこんな言葉を書き遺してしまったのだろう。だが、早苗の心を折るのに『死んでちょうだい』という言葉は残酷すぎるほどに十分であった。

 

「あは、あはははは……」

 

 眼からハイライトが消え、日記を手にしたまま泣きながら笑う早苗。

 日記を放り出すと、早苗は台所へと駆け込んだ。包丁を手にした早苗は何度も何度も自分の手首目がけて包丁を振り下ろす。

 

「あはは、あはははは! 死ね、死ねよ! 東風谷早苗!」

 

 頬を伝う涙を飛ばしつつ、笑いながら包丁で自分の身体を傷つけようとする早苗。しかし、早苗の手首に傷が付くことはなかった。何かに守られた早苗の身体は傷つくことなく、逆に包丁を刃こぼれさせていく。

 

「早苗……? なにしてるの!?」

 

 自殺を試みる早苗を見つけた諏訪子が悲鳴を上げる。

 

「諏訪子様……。お母さんが日記に書いてたんです。『早苗、死んでちょうだい』って。なぜ、なぜ私は死ねないのですか……?」

 

 ずたずたに刃こぼれしてしまった包丁を片手に早苗は諏訪子に問う。諏訪子は何も言えず、ただ立ち尽くすしかなかった。


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