霧雨が漁師をやめるという噂を聞いた一人の男が霧雨の元に駆けつける。
「霧雨、お前本当に漁師やめちまうのか!?」
男は霧雨と同じ年で同じように16歳の頃から漁師をする仲間だ。霧雨にとっても、心を許して喋ることのできる数少ない漁師仲間の一人だった。
「わりいな。お先に隠居させてもらうからよ」
「冗談いってんじゃねぇよ! ……お前が若手守って船無くしたのは皆わかってんだ。新しい船買う金くらいみんなにカンパしてもらえばよう……」
「てめえこそ冗談言ってんじゃねえよ。船がどんだけ高いかなんて言うまでもなく知ってることだろ。どいつもこいつも最近の不漁のせいで家計が火の車なんだ。俺に出す金なんざねえだろうよ」
「だったら俺の船で働け。お前ほどの漁師がいなくなるのはうちの漁村の痛手だ」
「……ありがてえ話だが、やっぱやめとくわ」
「なんでだ……!?」
「……今んとこ、例の不法侵入の件でお上からの捜査やら調査やらはないみたいだが……もし、不法侵入になりかねない漁を組合単位でしていたとばれりゃ、この漁村の組合員全員に被害が出ちまうだろ。……何かあったら全部オレのせいにしろ。そのために俺は村を出るんだよ。ブタ箱に大人しく入るほど、オレは真面目じゃねえんでな」
「俺たちが犯した罪を全部被るってのか!? 馬鹿言え! お前に罪なすりつけてお天道様の下で生きてくなんて、そんな人でなしなことできるかよ!」
「……その人でなしをやってくれ。頼む。……オレの提案が失敗したせいで他の奴らの人生を変えちまうなんて耐えられねえ。特に、若い連中のこれからを奪っちまうなんてことになったら尚更だ。もし警察やら海上保安庁やらが来たら言っといてくれ。『隣国まで行って漁をしてたのは霧雨っていう輩だ。みんなで行かないよう散々警告していたのに隣国で漁してやがったんだ。今は廃業してどっかに行っちまったよ』ってな」
「バカか!? そんなんで誤魔化し切れるかよ……!」
「……押し切って誤魔化せや。……じゃあな」
霧雨は漁村を去った。
漁師以外したことのない霧雨にできる仕事など力仕事くらいしかなかった。霧雨は仕事を求めて流浪の生活を送ることになる。日雇い労働者でその日暮らし。それが霧雨の日常となっていった。
――漁師をやめて一年。流れ流れて霧雨が辿り着いたのは日本で2番目に発展した都市。その都市のダウンタウンは訳ありの日雇い労働者に仕事を斡旋するろくでもない奴らがたむろする。だが、おかげで仕事に困らない場所だった。飯と寝床も格安で手に入る。ちょいと汚いのと治安が悪いのはご愛嬌。そもそもそんな贅沢を言える身分でないことは霧雨も十分に理解していた。
そんなダウンタウンで霧雨はある少年と一緒の現場で働くことが多かった。
「なんだ、坊主。お前もこの現場か?」
「……あ、霧雨さん……。おはようございます……」
「相変わらず目にクマ作ってやがんな。ちゃんと寝てんのか?」
「ええ、まぁ……」
あまりに生気のないおとなしい少年だった。だが、このダウンタウンに集まる人間は似たような人間が多い。何かしらの訳あり人間が集まる地なのだ。とは言っても少年ほど年端の行かない男がここで働いているのは珍しい。霧雨にはその少年と村にいた若手漁師が重なって見え、少々気にかけていた。
少年は見るからに体が細く貧弱だった。そんな少年が力仕事を満足にできるわけもなく、ただでさえ低い日給をさらに減らされるという具合である。霧雨は『少ない日給じゃあ腹いっぱいに飯を食えねえだろう』と思い、時々その少年を食事に誘っていた。もちろん霧雨のおごりで。
「坊主、てめえ。なんでその歳で働いてんだ? 親がいねえのか?」
「…………」
食事の場で霧雨は少年に問いかけるが、帰ってくるのは無言だけ。
「話したくないならいいがよう、もし家出してるだけってんなら帰った方がいいぞ。育ち盛りに腹いっぱい飯食わなかったらデカくなれねえからな! 男にとっちゃ体はシホンなんだ。デカくなりゃなきゃまともに仕事できねえぞ」
言いながら、霧雨は自分の皿に乗っていた唐揚げを少年の皿に移してやる。相変わらず無言の少年だったが、少しだけ表情が和らいだように見えた。
――数日後、霧雨は街中で偶然に少年を見かけた。少年は黒いスーツを着た複数人の男と並んで歩いていた。スーツの男たちは金髪やら茶髪やらでピアスをつけている。スーツの着こなし方もサラリーマンのようなそれでなく、反社会的な人間であることが窺われる。年齢は20代半ばと言ったところだろうか。大人しそうな少年とつるむにしては似つかわしくない風貌である。彼らは路地裏へと入っていった。
「なんだ? カツアゲか?」
霧雨は自分の推測を口にする。どうにも不穏な空気が流れているように見えた。霧雨は少年と男たちの後を追い、自身も路地裏に侵入する。
「は、早く……! 早くアレをください……!」
「まぁ、そう急かすなよガキ。先に金だ」
少年は財布から万札2枚を出すと、反社会的と思われる金髪男に手渡した。
「たしかに。そんじゃくれてやるよ」
金髪男は白い粉の入った四角い小さなビニール片を鳩に餌をやるかのように少年の足元に放り投げる。少年は興奮した様子で、白い粉を守るようにうずくまる。
「ひゃははは! そんなことしなくても取ったりしねえっての!」
茶髪の男が少年をバカにするように笑う。
一部始終を建物の影に隠れて見ていた霧雨は何が起こっているのかを確信する。
「バカ野郎が……!」
つぶやいた霧雨は少年と反社的な男たちの前に姿を見せた。
「つまらねぇもんに頼ってんじゃねえよ、くそ坊主!」
「き、霧雨さん……?」
少年は突然現れた霧雨の姿を見て動揺を隠せない。霧雨は動揺する少年の胸倉を掴んで持ち上げる。
「……てめぇの眼の下のクマは寝不足なんかじゃなかったわけか。……クスリになんざ手ぇ出しやがって。どんなストレス抱えてたか知らねえが、クスリになんざ頼ってんじゃねえよ。その性根叩きなおしてやるからな!」
霧雨は白い粉の入ったビニール片を少年から奪い取ると、金髪の男に向けて投げ返す。
「そいつは返す。だから金も返せ」
「あーん? おっさん、いきなり出てきて何様のつもりだ。これはそこのガキと俺たちの問題だ。部外者は引っ込んでな」
「……ガキをクスリ漬けにして金を毟り取ろうなんざぁ男の風上にも置けねえ奴だ。そんなヤツの理屈に付き合うつもりは無ぇ」
「おいおい、一方的に悪者扱いかぁ? 俺たちはそのガキを助けてやったんだぜ?」
「なんだと?」
「そのガキ、元々は偉いお医者さんの息子だったらしい。だが、中学受験に失敗してよう。勘当扱いを受けちまったんだとよ。ひどい話だぜ。長男だったこのガキを親戚に養子で出したんだと。出来の悪いガキは自分のガキじゃねえってことさ。そんなガキを助けてやったのが俺たちってわけだ」
「……どういうことだ?」
「なーに。こいつが鬱っぽかったからよう。スカッとできるようにクスリをただでやったわけだ。こいつも礼を言ってたぜ。『ありがとうございます。おかげさまで辛いこと全部忘れて楽になれました』ってな。これが人助けじゃなくてなんだってんだ? もちろん中毒にさせてからは金をもらっちゃいたが。そりゃ『合意の上』ってやつだぜ?」
「……クズが……!」
霧雨はスーツ男たちと話していても仕方がないと判断し、少年を無理やり引っ張ってその場を去ろうとした。
「おい、待てよおっさん」
茶髪の男が霧雨を呼び止める。
「あァ? なんだ?」と売り言葉に買い言葉で反応する霧雨。
「そのガキは俺たちの金づるなんだよ。連れていかれるわけには行かねえな。置いていけ。ついでにてめえの有り金も全部置いてな」
「オレに喧嘩売ってるってわけか、ガキ? オレのガタイ見て臆さないのは褒めてやるが……やめとけ。てめえごときで俺には勝てねえよ」
「ああ!? んだとおっさん!!」
茶髪は霧雨の腹目掛けて拳を繰り出す。茶髪は喧嘩慣れしていた。茶髪にとっていつもならすぐに決着が付くほどに力を入れて放った一撃。普通の男相手なら勝負ありだったに違いない。……だが、霧雨は普通の男ではなかった。
「なんかやったか、クソガキぃ?」
霧雨は全く堪えた様子もなく、茶髪の方に視線を向ける。
「な、なんだこいつ!? 俺の殴りが全然効いてねぇ……!? ……ぐふぇ!?」
間抜けな声を出して茶髪は路地裏の壁に叩きつけられる。霧雨が頬を殴りつけたのだ。仲間をやられたスーツ男たちは怒気を示す。
「おっさん、てめえ。よくもやりやがったなァ!?」
スーツたちは数人がかりで霧雨に殴りかかる。霧雨に向かって飛び交う拳や足。だが、その全てを受けてなお、霧雨は痛がる素振り一つ見せなかった。
「これだから都会育ちの軟弱な野郎どもはいけねえ。オレの村にいた若いやつらの方がよっぽど力も喧嘩もつえぇぞ?」
霧雨はスーツたちに一発ずつ拳をぶつける。スーツたちは例外なく全員たった一発の拳で気絶に追い込まれていた。
「ふざけやがってぇ!」
一人だけ喧嘩に加わっていなかった金髪は転がっていた鉄パイプを手に取ると、霧雨の背後から後頭部目掛けて振り下ろす。思わぬ衝撃に霧雨は前のめりに倒れ込んだ。霧雨の頭から血が流れ出る。
「へっ……。へへ……。て、てめえが悪いんだぞ。俺たちに逆らうからだ。馬鹿が。逆らわなかったら死ななかっただろうによ……!」
金髪は声を震わせながら霧雨の身体に向かって叫ぶ。
「……クソが……。道具なんざ使いやがって……」
「あ、あぁ? て、てめえ生きてやがんのか……?」
「ああ? この程度で死ぬわきゃねえだろ、バカか?」
霧雨は流血でしたたる顔を金髪に見せつけながら立ち上がる。
「う、うわぁあああああ!?」
怖気づいた金髪はさらにもう一発、霧雨の頭部目掛けて鉄パイプを振り下ろした。しかし、霧雨はなんなくこれを腕で受け止める。
「そ、そんなバカな……?」
「漁師を……海の男をなめんじゃねぇぞ、クソガキが!」
霧雨は金髪の顔面を思い切り殴り飛ばした。
「……す、すごい……」
熊のような怪力を見せる霧雨の暴れぶりを見た少年は素直な感想を口からこぼすのだった。