――数年後――
霧雨とリサは人里で道具屋を営んでいた。抗争の後遺症で肺の一部を失った霧雨は満足に力仕事ができなくなってしまっていたため、商売をする他なかったのである。
経営自体はぼちぼち上手くいっていた。曲がりなりにも現代で暮らしていた霧雨は、元々幻想郷にあった商品や部品を組み合わせて、現代に在った便利アイテムを真似て作り出したものを売ることにしたのである。これがそこそこに当たり、食うには困らない程度の稼ぎを得ることができていた。
『霧雨道具店』というシンプルな店名で構えたその店で、霧雨は店の主人として、リサは看板娘として人里に馴染むようになっていた。
今日もいつものように開店準備をする。
「おい、クソガキ。表開けるぞ。準備しろ」
「ほいほいっとー」
リサが店の入り口の雨戸板を取り外すと、霧雨が陳列台を店前の通りに並べていく。最初に訪れたのは常連の老年女性だ。
「あらあら、まぁまぁ。今日も美人さんねぇ、リサちゃん」
「褒めたって、何も出ないぜ。おばあちゃん!」
「それは残念ねぇ。いつもの貰えるかしら?」
「はいはいっと。おっさん、石鹸出してあげてー!」
霧雨は無言で石鹸をリサに渡す。リサは受け取った石鹸を紙袋に包むと、金と引き換えに老年女性に手渡した。
「へへっ。まいどありー」
リサは満面の笑みで、老年女性を見送った。リサの看板娘としての評判は上々。老若男女問わず、明るく接するリサは人里で人気があった。リサ目当てで店を訪れる者たちも少なくない。霧雨道具店の売り上げは霧雨の職人気質とリサの人気が支えていた。
そんな風に道具店を営むことが完全に日常となったある日のことだった。リサがいつものように仕事着である簡易な和装を身にまとい、髪を頭の後ろで結い終わると作業頭巾を被る。その仕草を見ていた霧雨は思う。このクソガキも年頃の女になったな、と。いつまでも他人である年老いた自分と暮らさせるわけにもいかない、と霧雨は考え始めていた。
そう言えば、店の常連客に良い歳ごろの青年がいた。容姿も悪くはない。あれはたしか、貸本屋の跡継ぎだと聞いた。幻想郷において、本は数少ない娯楽である。それをほぼ独占して営業しているらしい。しかも、あそこは人里の中でも名家と言われる稗田家に贔屓されていると聞く。クソガキを嫁にもらってくれるなら、これほど安心できる相手はいないだろう。もっとも、向こうさんがクソガキを気に入っているかはわからんが、聞いてみる価値はあるだろうと霧雨は踏んだ。
……次の日、霧雨はリサに聞いてみることにした。話を持っていくにしても、リサが納得しなければ意味はない。霧雨は開店準備中のリサに声をかける。
「おい、クソガキ。お前、貸本屋の跡継ぎ知ってるか?」
「ああ。あの男前の……。もちろん知ってるぜ? ウチのお得意さんじゃねえか」
「もし、お前さえよければ、だ。あの坊ちゃんとこに見合いの話でも、持っていってやろうと思ってな」
霧雨の言葉を聞いたリサが動きを止める。
「お前ももう良い歳になったからな。俺みたいな中年男といつまでも一緒にいたら、悪い噂立てられるぞ。姉さんやお母様とかいうババアの話も解決はしてねえが、少しは自分の幸せを考えてもバチは当たらねえだろ……うっ!?」
霧雨は思わず声を上げた。リサが商品の湯飲みを投げつけてきたからである。
「て、てめ。何しやがる!? 商品を投げるなんてどういうつもりだ!?」
霧雨はリサの顔を見る。……リサは眼を真っ赤にして涙を流していた。下唇を噛むようにして、眉を吊り上げている。今までに霧雨が見たことのない激しい感情の昂ぶりだった。
「くっそ。何が悪い噂だよ! そんなの勝手に流させとけよ! 私は気にしないんだ! ……おっさんがいつまでもクソガキっていうから、大人になるまで待ってたのに……! 大人になった途端に出ていけってどういうことだよ! おっさんと暮らすのが嫌なら、こんなに何年も一緒にいないっての。とっくの昔に出ていってんだ。私がどんな思いで『霧雨』を名乗ってたのか……、まだわかんないのかよ! ……もういい!」
リサは真っ赤になった眼のまま、店の前に立つ。いつものように仕事を始めたのだ。常連の老年女性が訪れる。老年女性は泣いた跡のあるリサの顔を見て驚き、尋ねた。
「どうしたの、リサちゃん。何かあったの?」
「……なんでもない。おっさんが私のこと、ただの居候だっていうから、ムカついただけ……」
リサは溢れそうになる涙を袖で拭きながら老年女性に答える。
「あらあら、まぁまぁ……」
「んなこと言ってねえだろ」と霧雨は言おうとしたが、喉から声が出なかった。
さすがの霧雨もあそこまでリサに怒りの感情をぶつけられれば、リサの気持ちに気付く。だが、どうすればいいか分からなかった。歳食った大の大人なのに情けないと霧雨は感じるが、何が正解か答えを出せない。
まさか、二回り近く歳の離れた娘から好意を寄せられるとは思っていなかった霧雨は、大いに悩む。リサの気持ちを受け止めるべきなのか。だが、それが本当にリサにとって幸せなのか。
答えの出せないまま、一週間が過ぎようとしていた。霧雨とリサは会話を交わさずに店を営んでいた。
霧雨は考え続けていた。霧雨自身はリサのことをどう思っているのか、と。一緒に住んでるだけのクソガキ。泣いて怒られるまでそう思っていた。女っぽく見えたのだって、ここ最近のこと。自分が十代だったころのような純粋な気持ちでリサと向き合えるかと言われれば、それは無理な話だった。
そんなことを考えながら店をしていると、リサが無言で手を出してきた。いくら機嫌を損ねたからって声くらい出せよと思いつつ、ああ、ハサミが欲しいのかと察してリサに手渡す。
……その時、霧雨は思った。リサは頑固な霧雨に文句を垂れつつも、この数年間一緒に生活してくれている。霧雨は漁師時代に何度か嫁をもらったことがあったが、どの嫁も霧雨の性格についていけずに家を出て行った。だが、リサはどうだ? 追い出そうとしても霧雨の元に居てくれる。頑固者の自分にここまで付き合ってくれる人間が他にいるだろうか、と霧雨は思う。そう思った途端、急に霧雨は怖くなった。リサを追い出そうと思えば、無理に追い出すこともできるだろう。だが、この店に一人だけで働く自分のことを妄想すると無性に寂しくなった。そう、霧雨にとってもリサはいなくてはならない大切な存在になっていたのである。そのことに気付いた霧雨は決心した。
……リサが泣いて怒ったあの日からちょうど十日目の朝、いつもどおり、店の準備を始める二人。今日も無言のまま準備し始めるリサに霧雨は声をかけた。
「……おい、『リサ』。表開けるぞ。準備しろ」
リサは霧雨が自分のことを『クソガキ』ではなく、『リサ』と呼んだことにピクっと反応し、振り返る。
「……おい、おっさん。今、私のこと『リサ』って呼んだか?」
「…………」
霧雨は無言で頬を人差し指でかく。リサの視線から眼を逸らしながら……。
「おっさん! 『リサ』って呼んでくれたってことはさ。そういうことでいいんだよな!?」
「……そういうことだ」
「あっはは!」
リサは嬉しそうに雨戸板を取り外す。霧雨もいつものように陳列台を店前の通りに出した。店を開けるや否や常連の客が来た。あの老年女性である。老女はリサの顔がここ最近で一番明るいことに気が付いた。
「どうしたんだい、リサちゃん。今日はやけに機嫌が良さそうじゃないかい」
「へっへへ。なんでもないんだぜ!」
老婆は察した。昨日までの不機嫌さがここまで変わるのは相当なことに違いない。老婆は霧雨にも問いかけた。
「……リサちゃんと仲直りできたみたいだねぇ、ご主人。……リサちゃんはただの居候じゃないってことだ」
「……そうだな。リサは居候じゃねえよ、婆さん。……俺の『嫁』だ」
「あらあら、まぁまぁ」
リサは霧雨の言葉を受け、満面の笑みをさらに輝かせるのであった。