幽々子は一人白玉楼に佇む。冥界に残った唯一の生命である西行妖の大樹に咲く桜を背景にして……。
そんな幽々子の視界に奇妙な形状の瓶が入り込む。地面に多数転がったそれはプロメテウスの持ち物であったフラスコだ。ほとんどは空であったが、いくつかのフラスコには内部にエネルギーが感じられる。幽々子はふと興味を持ち、フラスコに手をかけようとしゃがみこんだ。
「なりませぬ」
短い言葉が幽々子の耳に届けられる。幽々子の聞きなれた声であった。渋く低いその男声には、深く長い人生経験があることを想起させられる。
「妖忌……殿、ですか……」
幽々子は声のする方向へ視線を向け、声の持主に喋りかける。そこには白髪と白髭で装飾された老剣士が立っていた。老剣士の名は『魂魄妖忌』、妖夢の祖父である。服装は東洋の侍を思わせるもので、緑を基調とする羽織と袴をなびかせていた。傍らには霊魂が浮遊している。妖夢と同じく半人半霊の存在だ。眼光は鋭く、老人特有の弱々しさは感じられない。堀の深い顔貌も相まって、凄腕の達人であろうことは雰囲気だけで伝わってくる。
「その瓶を開ければ、幽々子様が後悔することになりますぞ?」
「……そう、この瓶の中に私の魂が……」
妖忌の短い説明で全てを理解した幽々子は瓶を取ろうとしていた手を引き立ち上がると、妖忌の方へと体を向ける。
「……妖忌殿、いままでどこに? 貴方ともあろう方が白玉楼の危機に姿を現すのが遅れるなんて……」
「……かたじけない。封印から覚醒するのに手間取りましてな」
「封印……?」
「……10年ほど前になりますかな。西行妖の封印が解けかけた故、より強固な封印を試みるため、自ら西行妖に身を封じ、内部から幽々子様を抑えていた次第にございます」
「成程。其の甲斐虚しく、外界の術師に封印を解かれてしまったというわけね。でも……、私にとっては好都合だったわ」
幽々子はふっと微笑み、妖忌に問いかける。
「今度こそは私を殺してもらいますよ、妖忌殿……」
幽々子は妖忌に自分を殺せと命ずる。妖忌は既に寄っている眉間の皺をさらに寄せて答える。
「できませぬ」
妖忌は短く答える。幽々子もまた、妖忌がそう答えるであろうことは予想の範疇であった。
「……そう。今回も私の願いを聞いてはくれないのですね。富士見の娘である私を斬れるのは貴方ぐらいだというのに……。いつになれば私を生という牢獄から解放してくれるのですか……?」
「……約束を交わしましたからな。御父上である歌聖殿と……。其方を幸せにする、と……」
「……ならば、尚のこと。私を死なせてくださればいいのに……。妖忌殿ならば……私を葬ることなど容易いでしょう?」
「……この妖忌、千年以上の時を剣に生きてきました。……雨を斬るのに三十年、空を斬るのに五十年、時を斬るのに二百年かかり申した。有りとあらゆるものを斬れるようになり申したが……未だ、人を斬るのは極められぬ。人を斬るのは難しい。ましてや情の深い者が相手であれば尚更に……」
妖忌はそう言いながら、地に転がったフラスコの一つを開ける。出てきたのは気絶した妖夢であった。妖忌は妖夢を仰向けに寝かせると、妖夢とともに出てきた白楼剣を手に取る。
「……それは魂魄家の家宝である白楼剣? ……なぜ、そんなものを幼い娘が……?」
「……某が西行妖に身を投じた際に託したのでございます」
幽々子の問いに妖忌が口を開く。幽々子は妖夢の顔を覗き込む。
「……この子……、半人半霊? ……そういうこと、ね……」
「……あれから色々ありましてな……。これは某の孫娘にございます」
「そう……。この子が貴方の……。ふふ。貴方に似ず、可愛らしい娘ね。それにしても驚いたわ。まさか、貴方のような堅物がこのような幼い娘に魂魄家の家宝を託すなんて……」
「……魂魄の血を引くものがその子しかおらぬということもありまするが、某はこの子に懸けることにしたのでございます」
「懸ける?」
「ええ。幽々子様を救うことをこの孫に懸けることにしたのです。私も息子も幽々子様を救う術を見つけ出すことはできなかった。それは、我らが男であったためかもしれぬ、と某は思ったのです。剛では其方は救えぬ。しかし、この妖夢であれば……女子であるこの娘ならば、しなやかな強さで其方を救う手段に辿り着いてくれる、と某は信じているのです」
「この子が私を救う、ね」
幽々子は嬉しそうな、だがどこか悲し気な表情で気を失っている妖夢の頬をさする。
「……幽々子様。斬らせてもらいますぞ。其方と其方の魂が共鳴し始めております故」
「……わかったわ」
妖忌は白楼剣で空を斬る。目に見えぬ魂と肉体の繋がりを断ったのだ。繋がりを斬られた幽々子の肉体は気を失う。後ろ向きに倒れそうになった幽々子の体を妖忌は支え抱きかかえると白楼剣を地に突き刺し、西行妖の方に向かって歩みだす。
「……ともに眠ろう。心配することはござらぬ。今度の眠りは浅いはず」
妖忌は幽々子に囁き終わると、妖夢に顔を向ける。
「期待しておるぞ、我が孫よ。だが、まだまだ修練が足りぬようじゃな。幽々子を危険に晒しておるようではいかん。……西行妖の陰でお前の成長を見守っておるぞ。さらばじゃ……」
妖忌たちが西行妖に近づくと再び西行妖が光り出す。妖忌と幽々子は光に飲み込まれ、西行妖の中へと消えていった。再び封印の大樹となった西行妖は役割を把握しているかのように余剰のエネルギーを花びらとともに大気中へと放散し始めた。エネルギーは冥界の枯れた草木、虫や小動物の死骸へと注がれていく。蘇った草木と小動物たち、そして対照的に再び枝だけの殺風景な姿に戻ってしまった西行妖。
……冥界は蘇った命により、静かな活気を取り戻すのだった。