なのはは目を開けて天井を見つめると、どんよりと重苦しい雰囲気を纏いながら大きくため息をつく。
耐え難い挫折感と暗い谷底に落ちるような憂鬱で死にそうな気分だった。
「……またミスちゃった。あんなの無理無理」
この「無理」は本心から言っているわけではなく、沈んだ気分によるものである。
物憂げな瞳は前回と変わらずだが、その気怠げでどこか投げやりな物言いからは「今回こそ」と空を見上げていた勇ましい姿は全く想像できない。
顔面直撃で痛みを感じる間もないのが唯一の救いではあるが、あまり成果が出ないまま同じことを繰り返すのは心底うんざりするのだ。それに何度も死んでいるとはいえ、なのはにとって相変わらず死ぬのは怖いし大きなストレスだった。
焦げ茶の獣の顔面に魔法弾を当てまくるのは、ただ単に弱点だからというわけではなく顔面直撃で死にまくっていることに対する仕返しでもあるのかもしれない。
なのはは今、焦げ茶の獣が使ってくる魔法の攻略を目標に死力を尽くしているが、たとえあの魔法を攻略できたとしても、その後は火力不足と体力不足によりやられてしまうことは火を見るより明らかだった。実はあの魔法は焦げ茶の獣の最後の力であり、魔法が終わると力尽きたり弱体化したりする、となれば話は別であるがその可能性はこれっぽっちも無いだろう。
なのはは最初、焦げ茶の獣の魔法を攻略するまでに自分の魔法弾の威力が上がり、きっと倒せるようになるだろうと考えていた。しかし、攻略は進めど魔法弾の方はちっとも成果が上がらない。
途中で、このままじゃ魔法攻略できても倒せないのではないかと薄々感じ始めていたが「いや、まだ……まだわからない」と自分に言い聞かせて問題を先送りにしてきた。だが、それもそろそろ終わりのようだった。あの魔法の攻略まで、まだ少し時間がかかることは確かだが、お先真っ暗というわけではない。もう終着点が見え始めている。つまり、焦げ茶の獣を倒すための別の方法を本格的に考えなければならないのだ。今まで目を背け続けてきた現実と向き合わなければならないのだ。
なのはは目を瞑り「しんどい」と一言呟くと、布団を頭まで被って膝を抱えた。この閉鎖された自分だけの空間がとても居心地よかった。
しばらくすると外で目覚ましが鳴りだしたが知ったことではない。なのははそのまま意識という代金を支払い、夢の世界への門を潜ろうとした。
しかし、それは叶わなかった。
「おはよう。……ちょっといつまで寝てるの? もう朝だよ。早く起きないと学校遅刻しちゃう」
「……学校行かない。休む」
「はぁ……? 何言ってるのよ? ほらほら起きた起きた」
いつの間にか部屋に入っていた美由希によって強固な布団外殻はいともたやすく引き剥がされ、ダンゴムシになっているなのはの姿が外の世界へとさらされてしまった。
美由希がカーテンを開けたことによって窓から朝の白く透明な光線が差し込む。なのはは、その眩いばかりの聖なる光から咄嗟に目を腕で守った。
「うぅ……溶けちゃう。…………お姉ちゃん、私頭痛いしお腹痛いし熱っぽいみたいなんだ。……あと吐き気も」
「そっかそっか。一度学校行ってどうしても我慢できないみたいなら早退しよ? ……口を尖らせて膨れてもダメなんだから。さ、はやく着替えなさい」
起き上がりベットに座ったなのはは、制服を持ってくる美由希にジトッとした目を向け抗議した。しかしそれは、全く相手にされず着替えを促されるだけに終わった。
「……着替えれない。着替えさせて」
「そのくらい自分でしなよ。なのははもう3年生でしょう? まったく……今回だけだよ? ほら腕上げて」
「うん、今回だけ」
普段あまり甘えてこない妹がどういうわけか甘えてくる。そんな妹が内心可愛いくて仕方がない美由希は、口先だけの注意をすると嬉しそうに笑みを浮かべながらなのはを着替えさせていく。そして、髪を梳かし結ってあげた。
「よし、完成っと。早くご飯食べないと遅れちゃう」
「歩けない。おんぶ」
美由希は、気怠げに俯きながら両手を差し出すなのはに「はいはい」と背を向けしゃがんだ。
美由希の背に乗った時、なのははまだ憂鬱に沈んでいたが、降りる頃にはもう焦げ茶の獣の攻略について思考を巡らせているのだった。
しかし、結局それから何も思い浮かばないまま数回目を迎えることになったなのはは、再び空を見上げ魔法攻略に挑戦していた。
降りかかる数多の流星をひらひらと避けつつ、魔法陣の外を目指す。直線距離にして残り10歩程はあろうか。
なのはは額に汗を浮かべながら、ただただ無心に弾を見つめる。積み重ねてきた経験が無意識に安全なルートを選択していく。
もう何分も経過しただろうか。それとも何時間か。いや、まだ数秒なのかもしれない。そんな時間が伸び縮みしているような世界の中、突然変化が起こった。
浮かび上がった魔法陣の色が徐々に薄くなり消滅していく。魔法弾が地に降るたびに空を埋め尽くしていた光点が減っていく。
つまり、残りの魔法弾を避けきれば攻略完了ということだ。
それを理解した瞬間、もともと速かった鼓動がより一層速く、そして力強いものに変わった。しかし、頭は極めて冷静であった。
ここまで来て失敗する、などという愚かな真似などなのははしない。勝利が目前に迫った時こそやっと半分だと思え。それがなのはの攻略の流儀である。
そしてついに最後の魔法弾を回避する。そこで初めて顔をほころばせ、小さく喜びの声を上げた。
「やったクリア! …………あれ……戻ってる」
さっき自分は確実に最後の魔法弾を回避した。それからすぐに焦げ茶の獣を確認しようと振り返ったはずだ。それなのに何故、今自分はベットに横たわり、天井なんて見上げているのだろうか。
答えは簡単。繰り返したのだ。
おそらく、魔法陣が消えた時点で焦げ茶の獣の硬直は解けたのだ。そして自分が最後の魔法弾を避けてる間に接近され、振り返る途中で頭に尻尾か爪でも食らったのだろう、となのはは予想した。
焦げ茶の獣は上げて落とすという高度な精神攻撃まで使ってくるのだ。
なのはは小さくため息をつく。あまりのがっかり感と憂鬱で今は何も考えたくなかった。
「……寝よっと」
目覚ましが鳴らないように解除し、布団を口元まで引き寄せて蹲ると固く目を瞑った。
当然、すぐに美由希によって現実へと引き戻されることになった。なのはには一時の逃避行動すら許されないのである。
なのはは黒い化け物と対峙しながらどうすれば焦げ茶の獣を倒せるのかについて考えていた。
体表から攻撃が効かないとなると、やはり内部に流しこむしか無い。内部に流しこむには体表を貫かなければならない。体表を貫くには貫くだけの力が必要だ。もし力がないのならば最も強度のない、最も柔らかい場所を狙う必要がある。ならば焦げ茶の獣の柔らかい場所はどこか。それはこの黒い化け物と同じ場所。
「だけど、届かないんだよね……」
なのはは魔力が込められていないハンマーを振り下ろして黒い化け物の目に突き刺した。すぐにハンマーを引き抜きくと、襲い掛かってくる触手を一寸の見切りで躱しきり、再び目に突き刺す。魔法使いであるにもかかわらず、その動きはまるで剣士のようであった。
それで何故そんな無意味なことをしているのかというと、別に理由など無かった。本当にただの気まぐれであり、偶々である。決して憂さ晴らしなどではない。普段は一撃で倒しているのだ。
焦げ茶の獣の唯一の弱点であろう目は、なのはの身長ではとどかない。
どうにかして攻撃が届く位置にまで行けないものだろうか。腕をよじ登り、角に掴まりながら刺す。いや、よじ登るのは無理だ。ならば、ジュエルシードの真上に座って待ち構えるというのはどうだろうか。そうすれば焦げ茶の獣が現れると同時に頭上を確保できるだろう。しかし、そんなことをしたら背中の装飾の円錐や頭の角が刺さってしまうかもしれない。どこにとは言わないが。
なのははあれこれ考えてみるが良い案は浮かばなかった。すぐに浮かぶのならとっくの昔に焦げ茶の獣を倒しているだろう。
そんな時、黒い化け物が高く飛び上がりなのは目掛けて落下してきた。それを見たなのはは脳裏に閃光が走り抜けたような気がした。
「そうか……。簡単なことだった」
なのはは、もうお前の相手をしている暇など無い。私は忙しいのだ、とでも言うようにあっという間に黒い化け物を倒し、ジュエルシードを封印する。
「高く跳べばいい!」
突然の意味不明な言葉に、ユーノが足元で驚いているがそんなことは知らない。
跳んで攻撃することはすでに試している。だがそれは失敗だった。そのせいで跳ぶことが選択肢から除外されていたのだ。ただ跳ぶのではない。高く跳ぶのだ。魔法を使って。
興奮で胸が高鳴り、体温が上昇する。考えついた自分を褒め称え、小躍りしたい気分だった。こんなに喜びで気持ちが高ぶったのはハンマーを考えついた時以来だろう。
早速なのはは目を閉じ集中すると、自分が高く跳んでいる場面とそのための魔法を強くイメージした。すると、踝のあたりに桜色の小さな羽が広がった。
膝を曲げ、ぐっと力強く踏み込む。なのはは2階建て住宅程の高さまで一気に急上昇した。驚くほど体が軽く感じられた。まるで体重が無くなってしまったかのようだった。そして勢いが無くなると空中で静止。後は地面に落ちるだけである。
まずい。
実際に跳んでみると想像していた以上に高く感じられた。そのうえ着地のことなんて全く考えていなかったことに気づいたなのはは、内心であわてふためいた。
まさか、こんなことで繰り返すことになるのだろうか。なんてマヌケな話なんだ。
なのはは自分のバカさ加減を呪いながら、来るであろう衝撃に備える。しかし、想像していたそれはこなかった。あるのかどうか分からないバリアジャケットの防御力のおかげか、魔法の効果なのかは分からないが、トンという驚くほど軽やかな音がしただけで足が痺れることすら無かったのだ。
「なんてこった……」
なのはは呆然としながら呟いた。
これじゃあまるでアクションゲームではないか。
自分で思いついたことなのだから高く跳ぶことは分かっていた。しかし、分かっていることと実際に体験してみることは大きく違う。それに跳ぶ直前までは本当にできるのかどうか半信半疑だった。なのはにとってそれはあまりに非現実的だったからだ。
ゲームのように自由自在に動き回れたらどんなに楽しいだろうか。そんなことを考えていたら、そんな自分を想像ていたらいつの間にか1時間が過ぎていた、なんてことは一度や二度ではない。運動が苦手なだけに尚更憧れるのである。しかしそれは実現不可能なただ妄想にすぎなかった。それが今突然、実現可能な現実になったのだ。
なのはの口角が無意識に吊り上がった。魔法の存在を知り、その資質があると言われた時のような気分の高揚を感じていた。
これで勝てる。
そうなのはは確信するのだった。
階段から姿を現したなのはは嬉々とした表情を浮かべていた。その瞳に憂いは無い。
いつもは境内に辿り着く時にはもう既に死にそうになっていた。しかし今はほとんど息が切れておらず、けろりとしている。
なのはは階段前に立った時ふと思ったのだ。最大で何段飛ばしできるかな、と。
少し怖くはあったがバリアジャケットを着ていれば転んでも痛くはない。なのはは思い切って跳んでみた。それは優に10段を軽く超えていた。普段は1段飛ばしで駆け上っているため、少なくとも5分の1の労力で上れるということになる。
なのはにとって今繰り返す上で最も苦痛に感じていたのがこの階段であったのだから、顔に笑みを浮かべて喜ぶのも当然だろう。魔法さまさまである。
なのはは緩んだ表情を引き締める。そして「今回で倒す」と小さく呟き境内へと歩き出した。
ハンマーの先端に封印魔法を纏わせる。その力強い桜色の光はこれから起こることを待ちわびているかのように見える。
初めて使った頃に比べ、遥かに精練されているこれを流し込めばいくら焦げ茶の獣といえども耐え切れないだろう、となのはは考える。
両手でハンマーを軽く握り横に構えると腰を落とした。そして、そっと目を閉じる。
時間が近づくにつれ激しく脈打っていく心臓。小刻みに震えている全身。今はそれが非常に心地よい。まるで、必ず勝てと自分を激励してくれているかのようだ。
ジュエルシードが現れたのを感じ取ると大きく深呼吸して目を開いた。
ジュエルシードが強く光を放つ。いよいよ開戦である。
なのはは焦げ茶の獣を認めると同時に跳びかかり、ハンマーを頭上高くまで持ち上げた。獲物を貫くために掲げられた反り返ったピックが、まるで命を刈り取る死神の鎌のようである。そしてそれが振り下ろされる先は焦げ茶の獣の青い瞳。重力と遠心力により一気に加速されたそれは寸分違わず目標を目指す。
なのはの黒い瞳と焦げ茶の獣の青い瞳がお互いを捉えた。なのはの小さな唇がにやりと弧を描く。
直後、なのはは叩き落とされた。宛ら、纏わりつく蠅を手で振り払うかのように。
結果、即死である。
なのはは思った。やっぱり現実は厳しいと。
そこで今度は焦げ茶の獣が硬直する魔法発動前、光っている時を狙うことにした。
なのはは焦げ茶の獣の猛攻を掻い潜りながら只管その時を待つ。階段で体力を消費していないせいか、随分と動きにキレがあった。
そしてついに待ちに待った瞬間が訪れる。焦げ茶の獣が後ろに跳び下がったのを確認すると、急いでハンマーに封印魔法を纏わせて後を追った。魔法発動までの時間は短い。もう既に魔法陣は完成されていた。なのはは焦げ茶の獣に跳びかかる。勢いよく振り下ろされたハンマーが右の青い眼球を深々と貫いた。
その手応えを感じ取ると内心でガッツポーズを決め、最後の仕上げをしようと声を上げる。
「ジュエルシー……痛っ」
しかしそれは叶わなかった。
ハンマーは突き刺さったが、足場が無いためなのはは重力に従い落下する。ハンマーを握っていた手は柄を滑走し、そのまま空気を掴んだ。そして尻餅をついたのである。
急いで空を見上げると、もう魔法弾が降り始めていた。なのはは大慌てで焦げ茶色の防空壕に四つん這いで逃げこんだ。直後、さっきいた地面を魔法弾が抉る。あと少し遅ければ死んでいたとなのははほっと胸を撫で下ろした。
「まさかここが安全地帯だとは考えもつかなかったな。……灯台下暗し? ……それにしてもよくあんなの避けられるね私」
しばらくぼーっと緋色の雨を眺めていたが、はっとあることに気がついた。
確かに魔法弾が当たらないということに関して言えばここは安全である。しかしその後はどうであろうか。焦げ茶の獣が動き出すのは魔法弾が途切れるよりも前。だからといって焦げ茶の獣が動き出す前に外に出ても魔法弾の雨を避けなければならない。避けたきったとしても、今度は避けることが困難な一撃必殺が待っている。
「もしかして……詰んでる? ……もしかしなくても詰んでるよね?」
魔法弾に当たるか、殴られるか、尻尾で吹っ飛ばされるか、踏み潰されるか。
なのはは今、運命に選択を強いられているのだ。普段お前は自分の死に方を選ぶ間もなくやられている。そんなお前が不憫でならない。だから優しい私がお前に選択する機会を与えてやろう。どうか私をがっかりさせないでくれたまえよ、とでも言うように。
こんなことなのはにとって初めての経験だった。例えるなら、普段はいつ突き出されるか分からない、けれど軌道が分かれば避けることも可能なナイフだ。しかし今はそのナイフが既に自分の喉元に突き付けられており、突き刺さる速度を自分で決めろというのだ。
助かる道はこれっぽっちもなく、どう足掻いたとしても死しか待っていないと考えると堪らない程恐ろしかった。だが、なのはの表情は毅然としている。既に答えは出ているのだ。魔法を手にして戦うと決めた日から。
今この選択で重要な事は、死ぬ方法なんかじゃない。どんな死に方をするのかだ。もう無理だと諦めて惨めに死ぬのか、心を強く持ち最後のその瞬間まで立ち向かうのか。
「無駄に死んでなんかやらない」
なのはは立ち上がるとフードをのけ、魔法弾の雨へと歩き出した。