なのはは光の中にいるのを感じた。すると靄がかったまどろむ意識は急速に鮮明になった。ゆっくり目を開くと目の前の煤けた軒裏があった。その横に目を向け、空模様からだいたいの時間を予想しつつ時計に手を伸ばす。ほぼ予想通りの時間であることに満足すると、寝そべったままぐっと体いっぱいに力を入れ伸びをした。そしてぐるんとひっくり返り腕を突っ張って身を起こすと、座り込んだまま澄んだ空気を胸一杯に吸い込んだ。清らかな幸福の気が全身を駆け巡ったように感じた。
”おはようございます”
「おはよう、レイジングハート。良い朝だね」
”そうですね、とても良い朝です。ですが、こんなに早く起きて眠くありませんか?”
「大丈夫、体も軽いし頭もすっきりだよ。こんなに気持ち良い朝は本当に久しぶり」
日が昇ってそれほど経っていない、まだ早朝といえる時間だった。
ユーノを見ると、寝息に合わせてゆっくり体を上下させている。
今日一日の流れを簡単に思い浮かべながら立ち上がると水を飲んだ。冷たくなかったが、体の中をすっと流れていく感覚が気持ちいい。境内をぶらぶら歩き回った。いつもより木々の緑は鮮やかに、鳥の囀りは楽しげに、空は青いガラスのように透き通って見えた。身体の奥底から活力が溢れ出し、何もかもが全て上手くいくような気分だった。
「よし、レイジングハート、魔法の練習しよう!」
言うやいなや2つの魔法弾を作りながら、早足で数歩進み地面を蹴った。
「なんだか魔法を使いたくてしょうがない気分なんだ!」
一瞬、人に見られるかもという考えが浮かんだが、まぁその時はその時と、自分の気持ちに従うことにした。
現実で飛ぶのもレイジングハートのシミュレーションで飛ぶのも感覚は全然変わらないのだが、現実で実際に飛んでいるという事実を意識するだけでなんとなく楽しかった。いつかジュエルシードの封印のためではなく、大空を思うがままに飛ぶために魔法を使い、鳥たちと並び、そして追い抜き、最大速度で地平線の向こう側を目指したい。そんなことを漠然と思いながら、ひとまず基本の魔力制御の練習を始めた。しかしそのうち自分で動かしている桜色の光球を掴もうと、狭い空間をぐるぐる飛び回る遊びに変わっていた。
なのはに午後のジュエルシード封印に対する不安は全く無かった。今日の暴走体は成長が早い高層ビルよりも大きなただの木。動き回らないし攻撃もしてこない。ジュエルシードが宿る本体をあらかじめ準備しておいた全力の一発で撃ち抜けばそれで終わりだ。なんて簡単なのだろうか。何も出来なかった最初の頃ならいざ知らず、今はやられるなんて有り得ない。問題があるとすれば攻撃が通るかどうかくらいのもので、それすらもレイジングハートがいればなんとかなるだろう。
鳥居の向こうから微かな足音が聞こえた。
なのははぴたと動きを止め、音を立てず小鳥のように宙を滑って社殿の裏に逃げた。そしてじっと耳を澄ませて表の様子を窺った。しばらくすると木の乾いた音と小銭が転がる音、鈴の音と柏手の音が聞こえた。どうやら参拝に来たようだ。
「お参りだっけ」
いつの間にそこにいたのか、すぐ横にフェレットがいた。
「うん、体の具合大丈夫?」
「大丈夫だよ、ちょっとふらふらするけど」
「それって大丈夫なの?」
内緒話でもするようにいくつかやり取りし、参拝者が行くのを待った。
言葉のない静けさの中、ぐぎゅうとなのはの胃袋が声をあげた。決して大きな音ではなかったが、空気に染み渡るようにはっきり聞こえた。なのはは下唇を噛んで俯くと、ユーノに見えないよう顔を背け、参拝客が早く行ってくれることを祈りながら、沈黙に耐えた。
足音が遠ざかるとこっそり表を確認し、なのはは自分の胃の要求を言葉にした。
「お腹空いたね」
「あはは、そうだね。何も食べてないし仕方ないよ。ところで……今日はどうするんだい?」
ユーノはそこで言葉を切った。もちろん家に帰るんだよね、と続くのだろう。
「どうしよっか。とりあえず今日はまだやることがあるから、それから考えよ」
なのはは形だけの考える素振りをして言った。そして自分で言った言葉の意味に気付き、アホらしいと苦笑した。
それからもなにも選択肢など無いのだ。暴走体を封印し、家に帰り、心配かけたことを謝り、叱られ、日常に戻る。アリサとすずかとも話さなければならない。するべきことは既に決まっている。
気分が一気に沈んでいくのを感じた。さっきまでのウキウキ感が無くなっていく。そのことにハッとしたなのはは、反射的にレイジングハートを握り締め、数歩足を進めながら言った。
「そんなことより空を飛ぶ練習しよう! まだまだ思うように飛べないんだ。もっといっぱい練習しなきゃ」
表情は楽しげな笑みに変わっていた。
「あはは……まだ飛び始めて間もないのにそれだけ飛べたら大したものだと思うんだけどなあ。僕も何か手伝うよ」
言葉通りなのはの上達に対してか、思考を放棄して大好きな飛行に逃げたことに対してか、ユーノの声音は困った調子だった。しかし確かに見守るような優しさがあった。
「ダメだよユーノくんは休んでなきゃ。良くならないよ?」
「え? ……あぁそうだった! すっかり忘れてたよ!」
ユーノはハハハと笑って誤魔化そうとした。
「自分の身体のことだよ? やっぱりすごく疲れてるみたいだね。ゆっくり休んで」
”病人はおとなしく休んでいてください”
「……うん、そうする」
ユーノは誤魔化すことが出来なかった上になのはに本気で心配され、何も言えず、どこかしょんぼりしたように軒下に向かった。そして6個の小さな魔法弾を作ったかと思うと、数秒だけ複雑な軌跡を描かせて消した。
「大丈夫だと思うんだけどなぁ」
ユーノの独り言は誰にも届くことなく消えるのだった。
なのはは昼前に練習を切りあげ街に向かった。ジュエルシード発動の正確な時間を覚えていないため、早めに出て封印し易い場所を探すことにしたのだ。
《実はねユーノくん、これからジュエルシードが現れるんだ》
ユーノはなのはから一定の距離を保ちながら隣を歩いていた。肩に乗ってと言ったのだがユーノが遠慮したからだ。首輪もリードも無いフェレットが少女と並んで歩くというのは、すれ違う通行人の目を釘付けにするのだが、なのはにとってそれはもう慣れてしまったこと。そもそも見られるのはユーノだ。
そんなユーノは前を向いたまま、何でもないことのように返事した。
《うん、そうだと思ったよ》
《え、何で!? 今日のこと知ってるなんて言ってないのに……あ、その……嘘ついてごめんね。今日ジュエルシードが現れること知ってたんだ》
《そうだと思ったのは冗談だけど、なのはが突飛な行動をするのにはすっかり慣れちゃってね。あ、今回もなんかあるなって》
ユーノはちらとなのはを見て目を細めた。
思い当たることばかりのなのはは、恥ずかしげに沈黙した。
《なのはが僕を騙そうと嘘をついただなんて思っていないよ。 なのはと出会ってまだ数日しか経ってないけれど、なのはの人柄を見て、感じて、そう思うんだ。それに夜ジュエルシードが現れた時、びっくりしてたでしょ》
「はぁ……やっぱりユーノくんって同じ子供じゃないみたい」
なのはは顔を手のひらでぱたぱた扇いだ。
《なのはも他人のこと言えないと思うけどね》
それからしばらくすると、なのはは立ち止まって上を見た。
「多分この辺が中心に近いと思うんだけど」
そこはいつだったか、地面から現れた樹に乗って天を目指し、天に届かず地に落ちた無念の地。攻略本を落としてしまったことは忘れていない。しかしなぜあれほどまでに悲嘆したのか、今ではさっぱり思い出せなかった。
「あそこが高くて一番見渡せるかも」
ビルがいくつか建っているがどれも似たような高さだった。その中でも一番高いビルになのはは視線を向けていた。
《屋上まで登るの?》
《うん、そこで封印の準備しながら待ってようと思うの。でも……結界はどうしよう》
《あまり広くない範囲ならなんとか張れるよ……多分。どんなやつなんだい?》
《今から登るビルよりも大きな樹》
ユーノは想像しているのか、見上げたまま少し無言になった。
《けっこうでかいね》
《うん、おっきいよ。何本も生えてくる》
《結界は……無理かも》
《そっか、仕方ないね》
もし結界を張るとすれば街全体を覆うほどになってしまう。あまりにも広すぎる。
《それにしてもどうやって上るんだい?》
《今考えてるところなんだ。どうやって上ろう》
これがデパートなら普通に入っても問題ないのだが、出入りしているのはスーツを着た人ばかり。どうにも子供が気軽に入ってよさそうなビルではない。
なのはは建物の周囲を歩き回って下から上までじっくり観察した。飛べばあっという間だが人目がある。そんなの関係ないと飛んで行けたら楽なのだがそうもいくまい。
《この建物を覆う程度の結界なら簡単に張れるよ》
《でもユーノくんまだ体調よくないでしょう。無理しちゃ駄目だよ》
《大丈夫このくらいなら何でもないよ。使う魔力は最小に抑えるし》
ユーノはそう言いながら結界を張った。
《さ、行こうなのは》
なのはは困ったような笑みを浮かべるとユーノを優しく抱え地面を蹴った。
想像とは違い、屋上に来たからといって完全に見渡せるわけではなかった。ここが駄目なら見える場所まで飛び移ればいい。地上とは違い人目につく可能性は低い。暴走体が出たら尚更そうだろう。
なのはは屋上をぐるりと囲っている段差から真下を覗き込んだ。人と車が行き交っていた。この程度の高さではゴミのようには見えなかった。
「あ、だめ。やっぱり怖い」
なのはは頭を引っ込め遠くを見た。
「え、高い所が好きなんじゃないのかい? 空を飛ぶのに比べたら高くないと思うけど」
ユーノは意外そうにしながら、段差に跳び乗り見下ろした。
「うーん、足が着いてると何かの拍子にずるっと落ちちゃいそうで……。それで落ちる時のこと想像しちゃうんだ」
なのはは樹から落ちた時のことを思い出しながら眉をひそめた。
「それに高いところが好きというより、空を飛ぶことが好きなんだよ」
そう言って、後ろにふわりと飛びながら半転し着地した。そしてレイジングハートを起動させバリアジャケットに着替えると屋上を見渡した。
「さてどうしよう。たぶん封印の準備するには少し早いかも」
「じゃあそれまで休んで心の準備でもしてよう」
なのはは頷くとその場に座り込んだ。バリアジャケットなら汚れることも破れることも心配しなくていい。自分で脱着する必要もなければ洗濯の必要も無いし、体型に合った自分専用の服のため着心地も悪く無い。むしろとても良い。もうずっとバリアジャケットでいたいくらいだ。最近、普段着として着れる意匠に変更するべきか頭の片隅で悩んでいたりする。
屋上は静かだった。街中の喧騒は小さく、遠くに聞こえた。
普通に過ごしていたなら一生来ることがないこの屋上で、何をするでもなくただ座っている。状況だけ見ればちょっと不思議な非日常。本来のなのはなら、わくわくしたり楽しくなったりしそうなものだが、まるでそれが普段の日常とばかりに、とくに何の感慨もなかった。
なのははかんかん照りの太陽が眩しくて、フードを目深に被った。
今日この日に3人で逃げた時のことは今でも鮮明に思い出せる。しかしそれは昨日のことのようにも、何年も前のことにも感じた。あと何分もしないうちにあの時辿り着けなかった向こう側へ行ける。そう考えてみるものの全く実感が持てなかった。
なのはは目を瞑り頬に右手を押し当てながら、これからの封印の流れをイメージした。すると今更になってドキドキと心臓が高鳴ってきた。何度も深呼吸し、この程度どうってことないと言い聞かせた。絶対に封印できる自信はある。不安なんて無い。それなのに一向に静まる気配は無い。
”何か作戦はあるのでしょうか”
「あ、ごめん忘れてた。えっとね、生えてきた樹に向かって封印できる威力の攻撃を当てようと思ってるよ」
「随分簡単だね。大丈夫かな?」
”任せて下さい得意分野です”
「レイジングハート、頼むからこの前みたいに必要以上の爆発はさせないでよ……」
”得意分野です”
なのはは口を挟むこと無く微笑みながら、ユーノの言葉を気にした様子もなく点滅するレイジングハートを撫でた。
それからしばらく待っていると、ついにジュエルシードの反応があった。なのはの心臓はさっき以上に早く脈打ち始めた。
「きた!」
すぐさま立ち上がってジュエルシードの反応があった方向を見た。この方向は高い建物が無く見通しが良かった。
暴走体はまだ見えないが小さな揺れを感じる。なのはは揺れに備え、宙に足場を作ると跳び乗った。
「いくよレイジングハート」
レイジングハートに魔力を流し魔法弾を作った。ふと、サーチャーを飛ばせばよかったと思いつくがもう遅い。周りの建物が大きく揺れ、急速に成長していく樹が見えた。すると魔法弾の前方に並んだ3つの環状魔法陣が、それぞれカメラの絞りのように動きやがて止まった。レイジングハートが暴走体との距離を見て調整したのだろう。
いよいよ暴走体は今いるビルと同じ程の高さになった。
”あそこにジュエルシードがあるようです”
なのはは目を凝らして見たがさっぱり分からない。暴走体との距離はそれほど離れているわけではないが、数百メートル先の小さな宝石なんて普通の視力では見えやしない。やはりサーチャーを飛ばすべきだった。
「全然見えない……」
「僕も分からないな」
”大丈夫です。もう撃てます。必中です”
「うん、撃って」
言葉を言い終わった直後、瞬きする間に樹の幹に弾着し、とくに爆発するでもなく暴走体は消えた。
なのははしばらく暴走体が消えた後の空間を見ていたが何も起こらない。
「え、もう封印できたの?」
あまりにも呆気無く感じて、なのはは逆に不安になった。しかし既に暴走体の姿は無く揺れも収まっている。封印したということなのだろう。
”ええ、完璧です。さすがご主人様です”
「私、特になにも……」
「なのは、ジュエルシードの回収に行こう」
「……うん、そうだね」
なのはは困惑した表情を引っ込め、レイジングハートを待機状態に戻すとユーノを抱えた。そして作った足場から屋上に降りようと膝を曲げた時、なのはは一瞬動きを止めてから姿勢を戻した。それから考えごとをするように立ち尽くす。ユーノが声を掛けたが反応はなかった。一つ深呼吸したかと思うと、暴走体に挑む時のように真剣な顔でユーノを抱き直した。
「よし、行こう」
「うん……へ? あああちょっとなのは! なのはってば!」
ユーノはなのはにがっちりしがみついた。
なのはは魔法陣の床を駆け、そのままビルの真下を目指して飛び降りた。飛行魔法は使っておらず、重力加速度にしたがって落下していく。
「うぉおおお!」
ユーノが雄叫びをあげた。
なのははぐっと歯を噛み締め、目を見開き、飛行魔法を使う準備をした。そして地面が近づくと飛行魔法で急減速、ゆっくり着地するとほっと息を吐いた。時間にして3秒程だろうか。
ただの地震だと思っていたのか避難せずその場にいた人達が、降ってきたなのはを呆然と見つめていた。なのはは周りの視線に全く気付く様子もなく、思わず笑みを浮かべながらジュエルシードを回収するため魔法を使って走りだした。
「きっともう高いところも平気だね」
「きっとなのはは僕を殺すつもりなんだ……」
2つの小さな呟きはどちらにも届かなかった。
暴走体がいた場所には大穴が空いていた。その周囲には瓦礫や木材が積もり、一つの車椅子が転がっているのが見えた。流石に暴走体を見た人達は避難したのか誰も見当たらない。
なのはは切れた息を整えながら、悔しそうに辺りを見渡した。脳裏に3人で逃げた時に見た必死で逃げる人たちの顔が浮かんだ。
「もっと早く封印する方法、あったんじゃないかな……」
前の時に比べたらこの程度の被害は無いに等しいが、もっとよく考えていたら全く被害を出なくて済む方法が思い浮かんだかもしれない。
「なのは、僕が言うのもあれだけど、悔やんでも仕方がないよ」
「ふふ、ありがとうユーノくん。前を向いたほうがかっこいいね」
全く後悔のない選択など完璧に未来を見通す能力でもない限り不可能だ。結果を知った今だからこそ、その時最善だと思っていたこと以外の方法にあれこれ考えを巡らすことができるのだ。
なのはは気持ちを切り替え穴の中心まで降りた。そしてぽつんと一つだけ転がっている青い宝石を回収した。
「これでやっと終わり」
なのははふっと一息ついた。すると突然、なのはの目からすっと涙が零れ落ちた。別に悲しいわけではなかった。むしろ心は夕凪のように平静であり、顔には何の情動も描かれていない。それでも涙は次から次へと溢れていた。
ユーノはそんななのはに気付き驚くが、そのことには触れず、ただ一言「戻ろうか」とだけ言った。
なのはは頷くと踵を返し、目元を手で拭いながら穴から出た。
”ご主人様、先程から微かな魔力反応があります”
「ジュエルシードかな?」
”違うようです”
レイジングハートが示す場所は車椅子がある辺だった。
近づくと積み重なる木材と瓦礫の隙間に人の足が見えた。なのははその瞬間、はっと息を飲み、心臓が止まったかと思うほど驚いた。もしかしたら死体なのではないか? 思い浮かんだ可能性に堪らなく恐ろしくなった。
急いで駆け寄ると、今にも泣きそうな表情で覆い被さっている木の板や棒などを除けてゆく。幸いにもどれも軽かった。
「ああ……どうしよう……どうしようっ!」
湿った声で何度も呟いた。ユーノも駆け寄ると人姿に戻り、なのはを手伝った。
全てを除けると、なのはの身長と同じくらいの少女がうつ伏せに倒れていた。ユーノは少女の口元に顔を近づけた。
「大丈夫、ちゃんと息してる。乱れもないよ」
その言葉を聞いて、なのはは腰が抜けたようにその場に座り込んだ。
ユーノが少女の肩を軽く叩き声を掛けた。すると少女はパッと目を開き顔を上げ、ユーノとなのは、周りの状況にぐるぐる視線を向けた。肩ほどまでの茶髪は乱れていた。
「え、あ、何が起こったん……」
「大きな樹が生えてきてそれに巻き込まれたんだ。痛むところは無い? 立てそう?」
「あー、そやった、おっきな樹が生えてきたんやったな。えらいびっくりしてもうたわ。あ、私足が動かんないんよ。だから立つことはできへんけど……痛むところは肘と指の擦り傷くらいやろか」
少女は身を起こすと、体を動かしたり袖を捲ったりして体の具合を確認した。
「あ、膝も擦りむいとるみたいや。鈍いから分かりづらいんよね」
スラックスの膝部分が破け少し血が滲んでいた。これだけの怪我で済んだのは本当に運がいい。押し潰されていたわけではなく、丁度良く出来た空間の隙間に上手く収まっていたようだ。
「ところであのでっかい樹はどこいったんやろ。この有様やと夢ってわけでもあらへんやろしな」
「あの子がやっつけたんだよ」
ユーノは視線でなのはを示しながら言った。少女はきょとんとしてなのはを見つめた。
「ほんにあなたがやっつけてもうたんか? かわいい白猫さんやんなぁ。どうして今にも泣いてまいそうな顔しとるん、どこか痛うしたん?」
少女はなのはの方へ身を乗り出すと、宥めるように優しい笑みを浮かべ首を傾げた。なのはは一瞬誰のことか分からなかったがすぐに自分のことだと気付いた。そして泣き顔が恥ずかしくて俯いた。
「もしかしたら、あなたが死んでるんじゃないかと思って……」
まだ乾いていない涙で潤んだ目を少女に向けたが、すぐに逸らした。少女はなのはの言葉を理解すると嬉しそうに笑った。
「私のこと心配してくれたんか。ありがとうな」
そうじゃない。なのはは内心で否定したが言葉に出せなかった。自分が被害を抑えられなかったせいで人が死んだと思うと堪えきれなくなっただけなのだ。少女のことを心配したわけではない。なんて身勝手なのだろうか。そう自己嫌悪した。
「私は……そんなんじゃないよ」
なのはは消えてしまいそうな声で呟いた。沈んだ気分のまま立ち上がると、転がっている車椅子の元に向かった。
「そろそろ行こう。人が来ちゃう」
様子を見に来た人がちらほら見え始めていた。なのは達に視線を向けながら近づいている人もいた。何かしら声を掛けられるかもしれない。
「人が来るとまずいん?」
「ここに居たら危ないって怒られちゃうかも。それに怪我はないとか、何があったのとか、大丈夫だったとか、色々聞かれるかも。この車椅子はあなたのでいいんだよね?」
「ん、そやで……あああ無理して持たんでええよ!」
「大丈夫任せて……重いっ」
なのはは気合を入れて車椅子を持ち上げると、ふらふらしながら平らな地面まで運んだ。そして動くことを確認してから、座部の埃を払った。
ユーノは少女を背負うと車椅子に座らせた。
「ここまでしてもろうて、ほんまありがとうな。なんや申し訳ないわ」
「いいよ気にしなくて。なのはどうする?」
なのはは家まで送ろうかと少女に聞いた。少女は申し訳無さと嬉しさを混ぜたように笑いながら頷いた。
「ほんならお言葉に甘えてお願いするわ」
途中、予想通り心配そうに声を掛けられた3人は、笑顔を貼り付けながら立ち話をし、それが終わるとそそくさと立ち去るのだった。