先の夫で亡き惣一郎の墓参りの帰り際に…響子は、身体の異変に見舞われたのである。
それは音無家に着いてからも続き…翌朝、響子は突然の陣痛に襲われた。
予定日よりも早くに出産を迎えて動揺の隠せない裕作と響子…。
2年前の春に長女・春香を産んだ時計坂総合病院にて…第二子となる男児を無事に出産したのである。
待望の男児の誕生に大いに喜ぶと、以前より心に決めていた名前を産まれたばかりの児に名付けるのであった。
序 墓参り
1990年(平成2年)8月
8月の最初の土曜日。一刻館の五代家では、朝から音無家の墓参りと邸宅の訪問の準備をしていた。
五代家の衣装部屋兼物置部屋となっている五号室では、準喪服の黒いワンピース姿の響子が出産を間近に控え大きく膨れたお腹に煩(わずら)いながらも、春香の着替えをしている最中であった。
「さぁ、新品のパンツに穿(は)き替えましょうね~」
この日の為に用意した新品のイチゴ柄のパンツを春香に穿かせて、藍色を基調とした他所(よそ)行きの服を春香に着せる。
「とっても可愛いわよ春香♪」
着替え終わった春香を姿見鏡の前に立たせて、鏡に映る愛娘の姿に響子は満足そうであった。
「はるか、カワイイ?」
「えぇ、とっても可愛いわよ♪」
「えへへ♪」
嬉しそうな春香は姿見鏡の前でモデルのようなポーズをしたり、クルリと回ってはスカートを靡(なび)かせた。
「パパが待ってるから、階下(した)に行きましょうね」
姿見鏡の前でモデルさんごっこする春香の手を牽(ひ)いて、響子は春香と一緒に廊下に出る。五号室に施錠(せじょう)した響子は、お腹を気遣いながら春香を抱き抱えて階段を降りる。
玄関内では黒いスーツに黒ネクタイの喪服姿の裕作が、下駄箱付近で佇(たたず)んでいた。
春香を抱いた響子を見ると、裕作は微笑んだ。
「お待たせしましたわ。思ったよりも、春香の支度に手間取ってしまって…」
「気にしないで。むしろ身重のキミに春香の支度をさせて、申し訳ないくらいだから…」
臨月の響子を裕作が気遣う。
「それじゃあ、行こうか」
玄関扉を開けて一刻館の外へ出ると、近所の喫茶店で涼みながらコーヒーを飲んできた一の瀬と四谷の二人に敷地内でバッタリと鉢合わせる。
「あんたら…そんな格好して、これからどっかの葬式にでも行くのかい?」
喪服姿の裕作と響子に驚いて、一の瀬が訊(き)く。
「はい。これから、惣一郎さんの墓参りと音無の家にご挨拶(あいさつ)に行くところです」
それを聞いて一の瀬が、怪訝(けげん)そうにする。
「墓参り…? でもお盆の時期はとっくに過ぎてるし…旧盆にしたって、まだ10日も先だよ」
全国的にお盆は8月中旬だが…東京や一部地域では7月初旬がお盆の時期であり、7月のお盆を新盆と呼んで8月のお盆を旧盆と呼ぶのである。
「お盆は色々と忙しくて…それに旧盆はちょうど響子の出産予定日に重なるので、今日に行くことにしたんです。音無の家にも今日お伺(うかが)いすると、前もって連絡してあります」
「ありゃま…それはタイミングが悪かったねぇ。でもさ管理人さん、もうすぐ出産予定日なんだろ? それなのに…無理して今、墓参りに行くこともないだろうに…」
「でも、それが惣一郎さんに対する僕と響子のケジメですから」
「ふぅん、ケジメ…ねぇ」
半(なか)ば呆れるような感心する一の瀬は、喫茶店の帰りの途中にでも立ち寄ったのかコンビニのレジ袋から紙パック式の酒を取り出してストローを刺すと、チューチューと吸って呑む。
「ほうほう、音無さん宅にも訪問されるのですか? だから、春香ちゃんは可愛い服を着ているのですな」
裕作に抱っこされる春香の他所行きの服装に、四谷が目を細める。
「カワイイ? はるか、カワイイの? よちゅあさん?」
「えぇ、それはもう。ですが…春香ちゃん? 何度も言いますが、私の名前は『よちゅあ』ではなく…『よつや』ですよ? よ、つ、や。ハイッ、言ってみてくださいっ」
「よちゅあさんっ!」
まだ舌ったらずで『よつや』と発音するのが苦手な春香は、どうしても四谷を“よちゅあ”と呼んでしまうのであった。
「まぁ…いいでしょう。ところで五代く~ん?!」
ニヤリと笑う四谷が、気色の悪い猫なで声をあげる。
「音無さんの所におじゃまするんですから…お帰りの際には、“お土産”のほうもお忘れなく…」
「はぁ…!? なに言ってるんですか! 遊びに行くんじゃないんですよ。そんなモノ、ある訳ないでしょうがっ!!」
得技の“たかり”をする四谷に、裕作が噛みつく。
「まあまあ…どうせ音無家(むこう)に行ったら、挨拶だけでなく1日ぐらい泊まっていくんだろ!? だったら一刻館(ここ)の留守は、あたしらに任せておきなって」
「そうですよ五代くん。何も、私は強請(ゆすり)やたかりでお土産を要求するのではなく、これは、あくまでも留守番に対する対価交換なのですぞ? いわゆる“ギブアンドテイク”ってヤツです。その辺は、誤解しないでほしいものですな」
屁理屈をこねて土産物をねだる四谷に、裕作は唖然(あぜん)とした。
滑稽(こっけい)な掛け合いに、響子が可笑しそうに微笑(わら)う。
「確かにお留守番をお願いするのですから、お土産のひとつくらい…よろしいではありませんか?」
「さっすがは管理人さん…話が早い。“ドケチ”などっかの誰かさんとは、大違いですなぁ?」
わざとらしい視線を裕作に向けて、四谷が嫌味を言う。
「だっ、誰がドケチですか!? 誰がっ!! あぁ…もう、分かりましたよ! お土産を買ってくればいいんでしょっ!!」
すっかりと不貞腐(ふてくさ)れる裕作を響子が宥(なだ)める。
「裕作さん、そろそろ、参りませんと…」
「それでは行ってきますんで、くれぐれもお留守番をお願いしますね?」
「あぁ、任しときなって。向こうに着いたら、一の瀬がヨロシク言っていたと音無のじいさんに伝えといておくれ…」
「はい、お気をつけて。お土産…今から、楽しみにお待ちしておりますよ」
一の瀬と四谷に見送られながら、一刻館を出発する裕作たちであった。
裕作たちは小高い丘をゆっくりと歩いていた。
午前中とはいえ…真夏の太陽が強く照りつけて、気温は既に30℃を超えていた。
臨月の大きなお腹を抱えて足腰に負荷が重くのしかかる響子は、息を切らせながら額に汗を滲ませる。
「ママ、少し休もうか?」
並んで歩く裕作が心配そうに、響子の様子を窺(うかが)った。
「パパ、あたしなら大丈夫です…」
辛そうな表情を見せまいと気丈にも微笑む響子に、裕作が首を横に振る。
「無理はいけないよ…キミの身体は、キミだけの身体じゃないのだから…」
トートバッグからレジャーシートを取り出して地面に敷くと、そこに裕作たちは腰を降ろし水筒の麦茶で渇いた喉を潤して休息をとる。
何度か休息をとりながら丘を歩く裕作たちは、やがて目的地である霊園に到着した。
独特な厳(おごそ)かな雰囲気の漂う霊園の中を、手桶を手に持つ裕作と花束を手にした響子が神妙な面持ちで歩く。普段は快活な春香も、珍しく静かにして両親の前を歩いていた。
霊園の中を静かに歩く裕作たちは、ある墓石の前でその歩みを止めた。
『音無家累代之墓』
その墓石には、そう刻まれていた。
響子の先の夫で、病により突然の死を迎えた音無惣一郎の墓所である。
「惣一郎さん、お盆にお参りに来れなかった事を御許し下さい…」
墓石の前で裕作が頭を下げて、惣一郎の御霊(みたま)に詫(わ)びた。
墓前に花束と線香を手向(たむ)けて供え物を置くと、裕作は膝を折って静かに合掌する。
「惣一郎さん…こうして、あなたが見守って下さるお蔭で僕たちは今は幸せに暮らしています。響子も幸せにして、もうすぐ二人目の子供を産んでくれます…。娘の春香も元気に健やかに成長しています。ですから安心していて下さい……」
裕作は目を瞑(つむ)り数珠を持つ手を静かに合わせて、惣一郎の冥福を祈る。すると春香も、裕作の隣にしゃがむと、小さな両手を合わせていた。
「まあ?! 春香…」
墓前に自分から手を合わせる春香に、驚きと共に嬉しく思う響子は自然と微笑みが溢れる。
「さぁ、響子も……」
暫(しばら)く春香と手を合わせた裕作が、響子に促(うなが)した。
裕作が地面に敷いた小さな蓙(ゴザ)の上に正座した響子は、目を閉じ墓前に合掌する。
手を合わせる響子は無言であったが、先の亡き夫に心の中で語りかけているのだろう。真夏とは思えない爽やかなそよ風が時おり吹いては、響子の持つ数珠を小刻みに揺らす。
それまで大人しかった春香が、裕作の裾をくいくいと引っ張る。
「ねーパパ、これ、だれのおはか?」
お墓が死んだ人が入る場所であるのは、なんとなく理解している春香であったが、誰のお墓までは知らなかった。
「このお墓はね、惣一郎さんって、人のお墓だよ」
「そーいちろーさん??」
春香が、きょとんとする。
「…?? わんわん、そーいちろーさん、いきてるよ?」
どうやら“犬の惣一郎さん”だと思っているようで…、春香は不思議そうな表情を浮かべていた。
「違う違うよ…犬の惣一郎さんじゃなくて、惣一郎さんはね…パパの前にママの大切だった人でね……」
『音無惣一郎』の事を説明しようとする裕作だったが、まだ幼い2歳の春香にどう云えば良いのかと…言葉が見つからず困って頭を掻いた。
「今は、まだよろしいのではありませんか」
黙祷を済ませた響子が、穏やかに言う。
「春香が成長して大きくなって…その時期(とき)が来れば、きちんと惣一郎さんの事をお話しますわ。もちろん、お腹のこの子にも…」
響子は、臨月の大きなお腹を愛しげに擦(さす)る。
「うん、そうだね…」
響子の言葉に同意して、頷く裕作であった。
「それじゃあ、そろそろ行くとするか…」
墓前に供えた御菓子や果物を裕作がビニール袋に入れて、再びトートバッグの中にへと仕舞う。
「なにしてるの、パパ?」
墓前の供え物を仕舞い込む父親に、春香は不思議そうにその様子を見ていた。
「こうしてお参りした後にお供え物の食べ物を持って帰らないとね…カラスや野良猫があとから悪さをして、お墓を管理する人が困るから持って帰るんだよ」
先程もそうであったが…他人や周囲に心配りや気遣いの出来る裕作の優しい人柄に、この男性(ひと)と出会い…結ばれて本当に善かったと響子は改めて強く想うのであった。
「それでは、惣一郎さん…また来ます」
裕作と響子が墓前の惣一郎に別れを告げて一礼すると、踵(きびす)をかえした。
…その時である。突然に響子の下腹に、鋭い痛みが走った。
「つぅ…?!」
あまりの痛みに、苦悶の表情で響子は片手でお腹を抑える。
「響子っ!? どうした…大丈夫かっ!?」
「ママぁ、ぽんぽん、いたいの…?」
心配そうに裕作と春香が、響子に寄り添う。
「えぇ…大丈夫です。ただ、この子がお腹を思いっきり、蹴ったものだから、つい…」
心配かけまいと、思わず響子は嘯(うそぶ)いた。
出産が間近になり…お腹の胎児はよく動いては、その胎動を響子に伝えていた。今の激痛は、これまでの胎動とは明らかに違っていた。
(そんな…予定日までまだ1週間以上もあるのに、どうして……)
陣痛に似た痛みに響子は動揺したが、その痛みは一時的で今は嘘のように収ままり…ホッとした響子は夫と娘に笑顔を振りまいた。
「…そうかい? ママがそう言うのなら、それで良いんだけど……」
裕作は首を傾(かし)げたが、それ以上は言わなかった。
霊園をあとにして暫(しばら)くたってから、響子は母性愛に満ちた表情をしてお腹を撫でた。
「あっ、また動いたわ…。この子も惣一郎さんのお参りをして喜んでいるのですわ、きっと…」
。先程のような痛みではなく、間もなく生まれようとする生命の鼓動を母親に伝える心地好い胎動であった。
「そうだね…今度ここに来る時は、“家族四人”でだね」
穏やかに微笑む響子の肩を裕作が笑顔で抱き寄せると、そのまま唇を重ねてキスをする。
「ママ、ずる~い。はるかも、パパと、キスした~い♪」
その様子を見た春香が、おませなにも裕作にキスをねだってきた。
「あはは、春香とのキスは、おウチに帰ってからね…」
朗らかな雰囲気に包まれて親子三人は、丘を下(くだ)るのであった……。
壱 音無家訪問
途中でファミレスに立ち寄り…そこで昼食を済ませた裕作たちが、音無家に到着したのは午後2時になる少し前であった。
音無家は土地や建物といった不動産をいくつも持つ資産家であり、地元の有力者であった。音無家の保有する資産には一刻館も含まれており、当主の音無老人は一刻館の大家でもある。
『音無』の表札の掲げられた立派な門構えに立った裕作はインターホンを押して家人と手短に応答すると、響子と春香と一緒に門をくぐって中に入った。
門構えと同じく立派な庭造りの先にある玄関口で、音無家の人達が笑顔で快く裕作たちを出迎えた。
「やぁ、よく来たね。いらっしゃい、待っとったよ」
「あら~、いらっしゃい」
「いらっしゃいませ♪ 裕作おじさま、響子おばさま。春香ちゃんも、いらっしゃい♪」
「お久し振りです…お義父(とう)さま、お義姉(ねえ)さま。郁子も、元気そうでなによりだわ」
「お義父さん、お義姉さん…どうも、ご無沙汰にしておりました」
温かく出迎える音無家の人々に、裕作と響子が畏(かしこ)まって挨拶する。
「ほら春香も、ご挨拶なさい」
響子が促すと、春香は元気いっぱいに挨拶する。
「こんにちは、おとなちのおじーちゃん、やちよおばさん、いくこおねーちゃんっ♪」
「ほっほっほっ…まだ小さいのにきちんとご挨拶できるなんて、春香ちゃんはお利口さんじゃのう。さすがは、裕作くんと響子さんの娘じゃのう…」
「そんな…お義父さま、そんな事ありませんわ」
朗らかに笑う音無老人に、響子が謙遜(けんそん)する。
「つまらない物で、恐縮ですが…」
裕作は手にした御菓子の詰め箱の入った紙袋を恐縮気味に、音無老人に差し出した。
「すまんの裕作くん。かえって、気を遣ってもらって…」
裕作の差し出す紙袋を音無老人は喜んで受け取る。
「…ところでお義父さん、英(すぐる)義兄(にい)さんの姿がみえませんけど…もしかして、ご出張中ですか?」
「うむ…昨日から、熱海へ出張に行っとってな。明日の夜頃には、帰ってくるよ…」
英とは、八千代の夫で郁子の父親でもある婿養子の音無英の事であった。都内の大手証券会社で営業課長として勤務する英の週末は忙しく、地方の支店への出張で家を留守にするのが多かった。最近…裕作が英と会ったのは、正月に謹賀新年の挨拶に音無家へ訪問した時であった。
「主人ったら…今日、裕作さん達に会えないのをとても残念がっていたわ。特に裕作さんと、一緒にお酒を呑むのを楽しみにしてたから…」
「えっ、そうなんですか?」
「そうよ。でも急に出張に行くのが決まって…『出来ることなら、今回の出張は延期したい』って、愚痴(ぐち)をこぼしたほどだったから…」
微笑みながら、八千代は言う。
「なんだか、英義兄さんに悪いですね」
気まずそうに、裕作が頭を掻く。
「いやいや裕作くん、確かに英くんは忙しい身じゃが…忙しいのはキミも同じなのじゃから、気にせんでもええよ」
「ですが、英義兄さんは大手証券会社の課長さんで…僕はしがない保父です。仕事の内容も忙しさも、英義兄さんとは全然違うとは思いますが…」
「あらっ、そんな事ないわよ…。確かに仕事は全然違うけど、裕作さんも家族の為に平日は遅くまでお仕事を頑張っているのでしょ? 電話で響子さんから、いつもそう聞いているわよ」
「うむ…幼子を教育する保父も、立派な仕事じゃよ。同じ教育者としてワシが見ても、キミは保父として職責を立派に全(まっと)うしとると思うし…そこはキミも誇っていいんじゃよ」
音無老人と八千代に誉められて、裕作は照れ臭そうに頬を赤くする。
「暑い中、お墓参りしてきて疲れたでしょ? 立ち話もなんだし…早く上がって楽にしなさいな」
「そうじゃな、特に響子さんは身重の身なんじゃし…余計に疲れておるじゃろ。ここを自分たちの家だと思って、気楽に寛(くつろ)いでいきなさい」
「有難うございます…お義父さん、お義姉さん。それでは、お邪魔します」
裕作が靴を脱いで上がり框(かまち)にあがると、続いて響子と春香も靴を脱いで家に上がり込んだ。
響子と結婚してからは裕作も音無老人を義父(ちち)と呼んで…亡き惣一郎の姉の八千代を義姉(あね)と呼び、八千代の夫・英を義兄(あに)と呼ぶようになっていた。音無の家から籍を抜いて裕作と再婚した響子が、今でも音無老人を“お義父さま”と亡き夫の姉夫婦を“お義姉さま”“お義兄さま”と慕って呼んでいるのに倣(なら)っての事である。
最初は…“義父”“義兄”“義姉”と裕作に呼ばれるのを困惑を隠せない様子の音無家の人達であったが、裕作の誠実さと心意気に感銘を受けた音無老人はこれまでの“五代くん”から“裕作くん”とより親近感を深めて下の名前で裕作を呼ぶようになり、娘の郁子が家庭教師でお世話になった頃より裕作とは旧知の知り合いであった英と八千代の夫妻は…まるで義理の弟ができたと喜ぶのであった。
音無家の人達は、真摯(しんし)的で優しい人柄の裕作を亡き惣一郎の在り日の姿と重ね合わせていたのかも知れない…。今では音無家と裕作の関係は、養子縁組でもしたかのような親密で密接な関係となっていたのである。
まずは客間に通された裕作たちは、そこに荷物を置いてから音無家の人達と共に居間へと入る。立派な高級座卓の前に座って裕作たちは漸(ようや)く腰を落ち着かせた。
「おとなちのおじーちゃんっ♪」
座卓の前で胡座(あぐら)をかいた音無老人の許(もと)に、愛らしい笑顔を振りまいて春香がトコトコと歩み寄る。
「おーおーっ…おいで春香ちゃん」
朗らかに微笑んで音無老人は、春香を膝の上に座らせた。
春香にとって音無老人は新潟の父方の祖父と東京の母方の祖父と同じ存在であり、また音無老人にとっても、実の孫娘である郁子と同じように春香をとても可愛がっていたのである。
音無老人が座卓に置かれた陶磁器の灰皿の隣にある箱からタバコを一本取り出して一服しようとしたが、膝に乗せる春香と身重の響子の姿に思いとどまる。
苦笑いして音無老人は、灰皿とタバコの箱を郁子に片付けさせた。
「お茶を淹(い)れましたから、飲みなさいな。はいっ、春香ちゃんにはジュースね」
飲み物とお菓子を載せたお盆を持ってきた八千代が、裕作たちに勧(すす)める。
お茶を啜(すす)って一息いれた裕作は、音無老人に申し訳なさそうにする。
「お盆に惣一郎さんのお墓参りに行けなくて、申し訳ありませんでした」
「いやいや裕作くんも忙しいし、響子さんもそんな身体じゃから仕方なかろう。それに惣一郎とてキミたちが墓参りに来てくれて、きっと草花(くさば)の陰(かげ)で充分に喜んでおるよ…」
穏やかな表情の音無老人が、優しい笑みを漏らす。
先程…裕作と響子は隣の仏間に足を運ぶと、墓前とは違う別の供え物を仏壇に供えて手を合わせた。
仏間に飾られた音無家代々の遺影の一番左端には、惣一郎の遺影が飾られていた。背広服姿でネクタイをした惣一郎の遺影は穏やかな笑みを湛(たた)えていて、その微笑みは今でも忘れずに自分を大切に想う裕作と響子に感謝をしているようであった。
夜も更(ふ)ける午後10時すぎ…そのまま音無家に泊まる事となった裕作と響子は、客間に並べて敷かれた蒲団(ふとん)の中で久し振りに夫婦二人だけの時間を過ごしていた。
春香はお風呂から上がると郁子に部屋へ招待されて、郁子と一緒にアニメビデオを鑑賞たりして楽しい時間を過ごし…今は郁子と同じベッドで眠っている頃である。
蒲団に入る響子は仰向けで天井をぼんやりと暫く眺めていたが、隣の裕作に顔を向ける。
「パパ、今日は無理を言ってごめんなさい…」
「うん? どうしたんだいママ、急に謝ったりして…」
蒲団の中で寝そべる裕作は、枕元に置いた電気スタンドの灯りで文庫本を読んでいた。響子の突然の謝罪に、文庫本を閉じると裕作は響子の方に顔を向けた。
「だって…今日は無理を言って、あたしも一緒に来たから。でも、惣一郎さんのお墓参りとお義父さま達のお元気そうな顔が見れて…一緒に来て本当に良かったわ…」
響子は、謝罪と感謝の言葉を口にする。
実は今日の墓参りと音無家訪問は、裕作が一人で行く予定であった。臨月の響子は春香と一緒に一刻館で留守番をするはずであったが、どうしてもと…ワガママを承知で響子が裕作に強く願いでたのである。妻の性格をよく知っている裕作は、響子の願いを聞き入れて家族揃って行く事にしたのである。
「気にしないで…それよりも、お腹のほうは大丈夫なのかい?」
「心配かけてごめんなさい…でも、もう大丈夫です」
微笑みながら響子は言う。
墓参りの帰り際に起きたお腹の痛みは…音無家に着いてからも時々、響子を襲っていた。重い生理痛のような痛みが一時間に数回の間隔で下腹に響いて、そのつど響子は辛そうにしていた。
「男の子だからなのかしら…胎内(なか)でよく動いて強くお腹を蹴って、まるで早く産まれたがっているみたい…あっ、また動いたわ…」
心地好い胎動に、母性愛に満ちた表情で響子が微笑む。
「どれ、触らせて…」
響子の蒲団に裕作が潜(もぐ)り混むと、薄いネグリジェ越しに大きなお腹を愛しく撫でた。
「あっ…本当だね。すごく元気に動いてる」
「あんっ♪ もう裕作さんったら…触りかたがエッチですわよ?」
響子はくすぐったそうにするが、構わず裕作はそのお腹を撫で続けた。
翌朝…音無家の人達と一緒に裕作たちは朝食を食べていたが、響子は少し気分が優れない様子であった。
気になっている裕作は箸(はし)を動かしながら、心配そうに何度も響子の様子を窺っていた。
「響子さん、あまり箸が進んでおらぬようじゃが…どこか具合でも悪いのかね? その様子じゃと昨夜(ゆうべ)は、よく寝むれておらぬようじゃの…?」
中々と聞きだせない裕作に代わって、音無老人が尋ねる。
「いえ…大丈夫ですわ。ただ枕が変わって、寝つけなかっただけですの」
作り笑顔をして響子は、慌ててご飯を食べる。
「…?? 響子おばさまって、枕の高さが変わってもわりと平気だったんじゃ…」
「これっ、郁子…」
郁子の何気ない一言に、音無老人が嗜(たしな)めた。
「この暑い中、その身重の身体で遠い所から墓参りをしてきたんじゃ。少々、無理がたたったのやもしれぬのう…」
臨月で大きなお腹を抱える響子に、音無老人が気遣う。
音無老人の優しい気遣いに、響子は罪悪感に心を痛めた。
腹部の鈍い痛みは深夜になっても慢性的に続いていた。等間隔で繰り返す下腹の鈍痛に…中々、響子は眠りに就く事が出来なかったのである。
心配かけまいと…またもや嘯いた響子の心に、グサリと罪悪感が突き刺さる。
「とにかく…すぐにタクシーを手配しておくから、今日のところは早く一刻館に帰ったほうがいい」
「そんな…お義父さま、そこまでご迷惑をかけれませんわ…」
「響子さん…今のあんたに大切なのは、充分にその身体を休めて丈夫で元気な児(こ)を産むのに専念する事じゃよ。もし、それが恩に感じるのならば…元気な赤ん坊の顔をワシらに見せるのが恩返しになると知りなさい」
音無老人が、優しく諭(さと)した。
「有難うございます…お義父さま……」
義父と慕う音無老人の温かい言葉に、感謝の念が絶えない響子であった。
急いで裕作たちが帰り支度を済ませ、そろそろタクシーがやって来る頃であった…。
これまでで一番強い痛みが、響子を襲った。
「痛ぅぅ…っ!」
激しい痛みに我慢できずに、響子がその場にうずくまる。
「響子? 響子…っ!?」
「ママ、ママぁ…!」
「いけない、これはきっと陣痛だわ…」
「な、なんじゃとっ!?」
自身も娘の郁子を出産した経験から、その様子から響子が産気づいたのを八千代が気付く。
「裕作くんっ! 響子さんが掛かり付けておったのは、確か…時計坂総合病院じゃったな!?」
「は、はいっ。春香も、そこで取り上げてもらいましたので…」
「八千代っ、すぐ病院に電話するんじゃっ!!」
「分かったわ、お父さん」
すぐさま八千代が、時計坂総合病院に電話する。
その数分後にタクシーが到着すると、裕作と八千代が両脇で響子を支えながらタクシーに乗り込んだ。
「すまんが春香ちゃん、郁子と一緒に家でお留守番しておいておくれ」
タクシーの助手席側に座わる音無老人は、春香に優しく言った。
「ねえ、ママ、しんじゃうの?」
今にも春香は、泣き出しそうであった。
「…大丈夫よっ。裕作おじさまがついているし、おじいちゃんやお母さんも一緒だから…響子おばさまは元気になって戻ってくるわ。だから春香ちゃんも、お姉ちゃんと一緒にお留守番しようね…ねっ?」
春香を安心させようと…しゃがんで目線の高さを合わせる郁子は、にっこり微笑んで泣き顔の春香の頭を優しく撫でて宥める。
郁子の言葉に、安心したのか…涙を拭うと小さく頷く春香であった……。
弐 受け継がれる名前
裕作たちを乗せたタクシーが、時計坂総合病院に到着する。受付で事前に連絡を受けた顔馴染みの職員が、裕作に状況を尋ねる。
「お待ちしてました。それでご主人、奥様の具合はどうですか?」
「どうも10分おきぐらいに、陣痛が来ているようで…」
「分かりました。では、急いでこちらへ…」
二人の看護婦に支えられて響子は、そのまま陣痛室に案内された。
手術着に着替えた響子に、看護婦の一人が股間を隠すだけの紐パンツのような丁字帯を手渡した。
「下着を脱いで、これに穿き替えて下さい」
ショーツを脱いで手渡された丁字帯に穿き替えると、響子はベッドに横になる。
看護婦は、検尿や血圧測定などの内診を始めた。
「確か五代さんは、二度目のお産でしたよね? 御気分はいかがですか?」
「はい、陣痛の痛みがひどくて…」
「心配しなくて、大丈夫ですよ。暫(しばら)く、ご辛抱して下さいね」
ベッドの上に横になる響子の背中をマッサージしながら、看護婦が優しく声をかける。
「ギャアー! 痛い、痛いっ! 助けてぇー克彦さーん!!」
「もおっ、お母さんになるんでしょっ!? 頑張りなさいっ!!」
隣の分娩室から、先の患者の悲痛な叫び声と看護婦の檄(げき)が聞こえる。
先の患者は、どうやら初産のようだ。
響子は初産の時の事を思い出した。
2年前の春に初産を迎えた響子も…ここ、時計坂総合病院で春香を出産した。
あの時も…先の患者のように看護婦の檄を受けながら、初めて経験する産みの痛みと苦しみに耐えて響子は春香を産んだのである。
(次は、あたしか…)
10分から5分…そして3分と次第に間隔が短くなり痛みの度合いが増してゆく陣痛に耐えながら、静かに順番を待つ響子であった…。
その頃…待合ロビーのソファーに腰をかける音無老人と八千代のところに、妻の実家に電話をかけた裕作が戻ってきた。
「おお、裕作くん。千草さんのところには、連絡はついたのかね?」
「いえ…不在のようでしたので、とりあえず留守番電話にメッセージを入れておきました」
「そうか…まぁ、伝言さえ残しておけば、ひとまずは安心といったところかの。ともかく…キミも座りなさい」
音無老人の隣に、裕作は腰を降ろした。
「はい裕作さん、どうぞ」
自販機で購入した缶コーヒーを八千代が、裕作に差し出す。
「いただきます…お義姉さん」
八千代から缶コーヒーを受け取る裕作だが、飲もうとせずに両手で支え持つ缶コーヒーをただ見つめていた。
春香の時は、ほぼ予定日通りの出産であった。だが今回は…予定日よりも10日も早い出産なのであった。予定日よりも大幅に早い出産に、裕作は動揺していた。
「裕作くん…何も心配せんでええ……」
裕作の心情を察して音無老人が、優しく裕作に言葉をかける。
「この暑い盛りに身重の響子さんのワガママを聞いて墓参りに一緒に連れてきたのが早産の原因だとキミは責任を強く感じているようじゃが…キミはもちろん、響子さんも悪くないよ」
裕作の心を見透かしたように、音無老人は穏やかに諭す。
「あくまで予定日は目安にすぎぬから…ワシらに出来るのは、響子さんがが無事に元気な児を産むのを祈ってあげる事じゃよ」
「お義父さん……」
ハッとして顔を上げる裕作に、音無老人は裕作の肩に手を置いて穏やかに微笑むのであった。
いよいよ響子の番となって、分娩室の扉が開くとストレッチャーが搬入された。
「五代さん、これに乗せますよ?」
看護婦たちは数人がかりで響子を持ち上げてストレッチャーに乗せると、隣の分娩室へと響子を移動させた。
分娩室では、担当の男性医師と数人の看護婦の他には研修医たちが控えていた。
分娩台に乗せられた響子は、M字型に広げられた両足を器具で固定される。
分娩台が上昇して担当医の目線の高さに、局部が晒された。
局部を冷静に観察をしながら担当医は、薄いゴム手袋をはめた手を響子の膣口に突っ込む。
既に10cm以上も大きく開いた膣口は、担当医の手を柔軟に呑み込んでいく。
子宮口から赤ん坊の頭が出てないかを触診で確認す担当医に、その様子を研修医や見習いの看護婦が熱心に見守る。
次々とうち波のように押し寄せてくる激痛に、響子は必死の形相になって耐えていた。
「では、始めて下さい」
「いいですね五代さん? 最初は痛くても、力まないで下さいね。それから、呼吸法は分かりますね? “ヒッ、ヒッ、フーッ!”ですよっ」
「は、はいっ…!」
「ヒッ、ヒッ、フーッ…はいっ!」
「ヒッ、ヒッ、フー…」
「もっと! もっと力んでっ!」
「ヒッ、ヒッ、フーーッ!!」
胎内から外に向けて抉(えぐ)られるような激しい痛みが、容赦なく響子を襲う。
「ぎゃーっ! 痛いっ…! 痛い、痛い痛いっ!! 裕作さん…助けてっ!!」
想像を絶する激痛に、悶絶する響子が上半身を暴れさせる。
「もう、しっかりなさいっ! お母さんなんでしょ…!!」
激痛に堪えかねて暴れる響子の身体を抑えつける看護婦が厳しく檄を飛ばす。
破水が始まると大きく開いた膣口から、乳白色をした羊水がドポドポと溢れ出す。大量に溢れる羊水と共に、膣口から頭が出始める。
「会陰部切開…」
「はいっ」
担当医が指示を出すと、看護婦が担当医にメスを手渡す。
担当医はメスを局部に宛がうと、会陰部から肛門にかけてスッと切れ込みを入れる。
「ギャーーッ!!」
麻酔をかけずに会陰部が切り裂かれた響子の絶叫が、分娩室にこだまする。
いったい…いつになれば、この苦痛から解放されるのか…? なぜ自分がこんなに思いまでして児を産まなければならないのか…?
気が狂わんばかりの響子が意識を失いかけた、その時であった…。
「ほぎゃー、ほぎゃー」
分娩室に元気な産声が響きわたると、それと同時にどよめきに似た歓声が沸き起こる。
(う、産まれた…? やっと終わったのね……)
放心状態の響子は、焦点の定まらない目で茫然(ぼうぜん)と天井を見つめていた。
実に…2時間以上も末の難産であった。
看護婦が手際よく臍帯結紮(さいたいけっさつ)をして切断すると、すぐに児を産湯で洗う。
「よく頑張りましたね」
「おめでとうございます」
担当医や看護婦たちが、響子に労(ねぎら)いの言葉を贈った。
児を洗い終わると、看護婦が響子の傍(かたわ)らに児を持って来た。
「ほら、とても大きくて元気な男の児ですよ。長年この仕事をやってますけど、こんな立派な“巨大児”は滅多にはいませんよ…」
児を取り上げた看護婦は、かなり興奮した様子であった。
「ほぎゃー、ほぎゃー」
「この児が、あたしの赤ちゃん…」
自分と同じ青みのかかった黒い頭髪の赤ん坊に、響子が目を丸くした。
その児は、産まれたばかりの赤ん坊とは思えないほど…とても大きな児であった。
春香を産んでおよそ2年半…二人目の児は待望の男児に、響子の表情は歓びに満ち溢れていた。
すぐさま児の足裏にマジックペンで番号が書かれると、同じ番号が書かれたタグが響子の手首につけられた。
すぐに児は保育室に運ばれて、響子は産後処理が施(ほどこ)される。
後産により体外に排出された胎盤は、無造作にポリバケツに放り込まれると看護婦によって運び出された。
今まで、胎内で赤ん坊を育んでくれた大切な臓器である。役目を終えたとはいえ…生ゴミのように棄てられる胎盤に、もう少し丁寧に扱ってくれてもいいのに…と、思う響子であった。
看護婦の手を借りて、響子は分娩台から降りた。疲労困憊(こんぱい)であったが、あれほど大きかったお腹も元通りとなり身体は驚くほど軽い。まるで全身が、一枚の羽毛になった気分であった。
再びストレッチャーに乗せられた響子は、そのまま病室に運ばれる。
報せを受けて裕作が病室に飛び込むと、慌てベッドの響子に詰め寄った。
「響子、大丈夫か!?」
「はい…」
優しい笑顔で覗き込む裕作は、労(いたわ)るように響子の額を撫でる。
「よく頑張ったな響子…えらいぞ」
満面の笑みを湛えた裕作の顔に、響子の瞳から嬉し涙がこぼれる。
「よう頑張った、よう頑張ったのう…」
「おめでとう、響子さん…」
裕作の後ろで音無老人と八千代が、無事に出産を果たした響子を祝福した。温かく微笑む二人の目には、うっすらと光るものがあった。
『 平成2年8月5日 13:47生 4200g 五代響子 男 』
産まれた児の頭の上には、このような札が掲げられていた。
響子はすぐに我が子を見つけた。
「なぁ…どの児だ?」
児の“特徴”を知らない裕作が透明ガラス越しに、キョロキョロと保育室に居るであろう我が子を探していた。
「ほらっ、あの児。後ろから3列目の右から5番目の一番大きなあの児ですわ」
「おっ、あの児か?! いやあ…ほんとに大っきな児だなぁ」
裕作が驚嘆とした声をあげる。
“その児”は他のどの児たちよりも、一回り以上も大きく遠目からでも目立っていた。
「ほほう…生まれながらにして、ずいぶんと立派な児じゃのう…」
「あら本当、昔話に出てくる金太郎みたいな…赤ちゃんねぇ」
音無老人も八千代も驚嘆として、ガラス越しに児を眺めていた。
保育室では眠ったり泣いたりする新生児が大勢いるなかでも、その児は実に堂々としていて特別な存在感を示していた。
「ねぇ…裕作さん。あの児の名前を裕作さんに付けて欲しいの…」
「えっ…良いのかい?」
「うむ、男子(おのこ)じゃし…父親である裕作くんが名付けたほうが善かろう」
「実は…、前々から決めていた名前があるのですが」
「ほう…どんな名前なのかね!?」
音無老人、八千代、そして響子と順番に見渡すと…裕作は以前より心に決めていた児の名前を口にする。
“その名前”を耳にした三人は、非常に驚いたが…同時に嬉しそうに喜んだのであった…。
…それから10日ほどして、響子は退院の日を迎えた。
裕作から連絡を受けた一の瀬たちは一刻館の玄関先でたむろして、裕作たちが到着するのを今や遅しかと待ちわびていた。
「まったく暑いねぇ…こうも暑いと、茹でダコになっちまうよ…」
猛烈に暑い日差しから避けるように軒下の日陰で腰を降ろす一の瀬が、団扇(うちわ)をあおぎながらボヤいていた。
「ねー、管理人さん達、まだ帰って来ないのぉ?」
一の瀬の隣に腰を降ろす朱美が両手で頬杖をつきながら、じれったそうに呟く。
「う~ん、そろそろ帰って来る頃合いなんだけどねぇ…」
「おや…帰ってきたみたいですよ?」
四谷の言葉に、一の瀬と朱美が外に視線を向ける。
一刻館の前にタクシーが停車すると、赤ん坊を抱いた響子と眠っている春香を抱っこする裕作がタクシーから降りる。
すぐに一の瀬たちが駆け寄って、裕作たちを温かく出迎えた。
「お帰り…それにしても、墓参りに行って産気づいちゃうなんて大変だったねぇ」
「はい…でも、こうして響子も無事に出産を迎える事ができました」
「ねぇねぇ、赤ちゃん見せて見せて」
朱美が楽しそうに言う。
児の首がずれないように響子が身体を動かして、児を披露した。
「うわっ?! なに、この子…ホントに赤ちゃん??」
「あれまっ、男の子にしても…ずいぶんとジャンボな赤ん坊だねぇ」
響子の抱いた児を見て、朱美と一の瀬が非常にビックリした反応をみせた。
「ええ、産まれた時には4200gありました」
「そんなにかい!? 早産は未熟児が多いって聞くけど…この子の場合は管理人さんのお腹が破裂しちゃうから、早く産まれたって感じだねぇ…」
一の瀬が冗談混じりに言うと、周囲が笑い声に包まれる。
「それで、もう名前は決まったのかい?」
「はい。『そういちろう』…惣一郎です。この子の名前は、五代惣一郎です」
「なんだい、やっぱりその名前にしたのかい?」
一の瀬がニヤリと笑い、『あっ、やっぱり?』…と、朱美と四谷がウンウンと頷く。
冷静に受け止める一の瀬たちに、てっきり驚くとばかりに思っていた裕作が意外そうな顔をした。
「え~と…みなさん、驚かないんですね?」
「まぁ、五代くんの事だから…きっとその名前を付けるだろうと思ってたし、別に驚きやしないさ」
「そうそう。でも、規格外に大っきい赤ちゃんには…さすがにびっくらこいたけどね」
「『惣一郎』くん。良い名前じゃありませんか…」
口々にして一の瀬たちは、響子が抱いた赤ん坊を微笑ましく見つめる。
「それでは…みなさん? よろしいですか?!」
四谷が音頭をとると、一の瀬たちは隠し持っていたパーティークラッカーを取り出す。
「「「御誕生おめでとう、惣一郎くんっ! ようこそ一刻館へっ!!」」」
青空に向けて一斉に紐を引くと、パンッ、パンパン…ッと派手な破裂音が青空にこだました。
その大きな音に目を覚ました春香が眠たそうに寝ぼけ眼(まなこ)を擦ったが、赤ん坊は泣くどころか…キャッキャッと嬉しそうに笑うのであった……。
其の二 終