めぞん一刻 ~ 五代春香の物語 ~   作:妄想中年

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この春に…北海道の実家で両親と同居する一の瀬花枝の妹が会社員である夫の東京への転勤に伴い、夫と共に一刻館へと引っ越ししてきた…。夫婦には春香と同い年の娘がおり…名前も晴夏(はるか)と、奇しくも同じ読みの名前でなのであった。
 同じ年齢の同じ名前の春香と晴夏はハルチン…ハルタン…と互いに愛称で呼びあい、まるで双子姉妹のようにとても仲良しなお友達であった。


其の三 春香(ハルチン)と晴夏(ハルタン)

序 春香と惣一郎

 

 1991年(平成3年) 2月

 

 ヒューー…ッと肌を突き刺す寒風の木枯らしが吹いて、どんよりと鼠(ねずみ)色をした雲が覆った上空からは今にも雪が舞い降りそうな空模様であった。

 そんな寒々とした真冬日であったが、一刻館の管理人室は石油ファンヒーターから吹き出す温風に春の陽気のような暖かさに包まれていた。石油ファンヒーターの上に置かれた加湿器からは白煙のような蒸気が絶えず噴き出しており、適度の温度と湿度に保(たも)たれた室内は快適そのものであった。

 「えへへっ♪ あかちゃん、かわいー♪」

 今日も蒲団(ふとん)に寝そべる弟の惣一郎の傍(かたわ)らに寄り添う春香が、楽しげに観察していた。

 弟の惣一郎が誕生して…そして一刻館に来てから、はや半年の月日が経っていた。

 弟が産まれて初めて姉となった喜びと嬉しさもあるが…間近に見て触れて接する赤ん坊に、春香の興味と好奇心が尽きる事がなかった。

 生後6ヶ月となり…物を見る力がついてきた惣一郎は、姉の春香が側に来るだけで笑顔で歓喜の声をだして小さな両手をブンブン動かして歓びを表すのであった。

 最近はお姉ちゃんらしさを見せ始めてきた春香に、裕作も響子も歓びを感じるのであった。

 

 春香が弟の惣一郎にべったりしている頃…、響子は一刻館内の拭き掃除に勤(いそ)しんでいた。

 春香の時は…事あるごとに響子は、管理人業務や家事を中断しては春香の世話をしていたものである。もちろん時々ではあるが…一の瀬や実家の父母が管理人室を訪ねては忙しい響子に代わり春香の面倒をみてくれる事もあったが、一の瀬にも実家の父母にも予定や都合があるので毎日という訳にもいかずに響子はもどかしい思いもしたものである。

 だが今は春香が自分から進んで惣一郎の子守りをしてくれており、何かあれば…すぐに春香は飛んで報(しら)せてくれるので、響子は安心して仕事や家事に専念する事ができるようになったのである。

 「ふーっ、窓拭き終了っと。次は、おトイレの掃除でもしようかしら…」

 響子が雑巾を引っ掛けたバケツを持って廊下の一番奥の共同トイレに向かおうとした時、管理人室のドアが開いて春香が慌てた様子で響子の許(もと)へと駆け寄ってきた。

 「ママー、ママー、あかちゃん、そーいちろー、ないてるよー」

 「まあっ?! それは大変…」

 響子は廊下の端(はし)にバケツを置くと、流し台で手を洗いエプロンで手を拭きながらパタパタとスリッパを鳴らして急ぎ管理人室へと戻った。

 「ほぎゃあっ! ほぎゃあっ!」

 管理人室に響子が戻ると、顔を真っ赤にして惣一郎が大きな泣き声をあげていた。

 「よちよち惣くん、どうちたんでちゅか~?」

 赤ちゃん言葉で響子は、泣き声をあげる赤ん坊の傍らに寄る。

 響子は息子の惣一郎を『惣くん』と呼んでいた。同じ字で同じ読みの死別した前の夫と同じ名前である息子をそのまま呼び捨てで呼ぶのは、とても憚(はばか)られるような気がして響子は息子をそう呼んでいたのである。

 因(ちな)みに…響子が息子を“惣一郎”と呼び捨てで呼ぶようになるのは、惣一郎が1歳の誕生日を迎えてからであった…。

 「う~ん…オシッコでもしたのかしら?」

 ベビー服の股間部のボタンを外して響子は手を宛(あ)ててオシメが濡れていないのを確認すると、念のためオシメを外すと目視でも確認する。

 「オシッコもウンチもしていないわね…もしかして、またお腹が空いちゃったのかしら…??」

 再びオシメをし直してベビー服を元に戻すと、響子は着用している『PIYO PIYO』のロゴと可愛らしいヒヨコのイラストの入った愛用のエプロンを外した。

 「はいはい、ちょっと待っててね」

 泣き止まない息子を宥(なだ)めると響子は、着ているセーターを肌着ごと大きく捲(まく)り上げて惣一郎を抱き上げた。

 「は~い、惣くん。オッパイでちゅよ~♪」

 惣一郎を抱き抱えた響子は、器用にブラの片側を上にずらして乳房を露出させると、その乳首を赤ん坊の口元へと寄せる。

 乳首の先端から漂う母乳の甘ったるい匂いを嗅ぎつけると惣一郎はピタリと泣き止み、小さな口で乳首に吸いついて母乳を飲み始めるのであった。

 「あらあら夢中になって飲むなんて、よっぽどお腹が空いていたのね」

 母乳を美味しそうに飲む息子を、母性愛の溢れる表情で響子は温かく微笑む。

 生まれながれにして体の大きい惣一郎は、よく母乳を飲むのであった。

 一生懸命に母親のオッパイに吸いついて母乳を飲む赤ん坊に、興味津々にといった様子で春香はジーッと見つめていた。

 春香も赤ん坊の頃は…歯が生え揃って離乳食を食べるまでは、響子の母乳を飲ん育ったものである。

 母乳を飲んでいた頃の記憶がなく…母乳の味を覚えていない春香の視線は、美味しそうに母乳を飲んでいる赤ん坊の口元に自然と釘付けとなっていた。

 「なぁに春香? もしかして、あなたもママのオッパイが飲みたいの?」

 春香の視線に気付いて、響子はイタズラっぽく微笑(わら)う。

 可笑しそうに微笑する母親に、小馬鹿にされたようで少し拗(す)ねる様子の春香であったが、幼い子供特有の知的好奇心の誘惑には勝てない春香は小さく頷くのであった。

 「もお…お姉ちゃんになったのにママのオッパイが恋しいだなんて、春香はしようのない子ね…」

 少し呆れながらも響子は母乳を飲む赤ん坊を片腕で抱き支えながら、もう片方の手で反対側の乳房を覆うブラのカップをずり上げて、もう片方の乳房を露出させた。

 授乳期により活性化した女性ホルモンの影響によって、以前より響子の乳房は大きく膨らんでいた。乳輪と乳首は赤黒く黒ずんでいて、肥大化した乳首からは乳白色の母乳が滲み出ていた。自ら乳房を掴むと響子は、絶え間なく母乳の滴る乳首を春香の目の前に向けるのであった。

 「はいっ、どおぞ…♪」

 目の前に向けらた乳首に春香は恐る恐ると顔を近付けると、その乳首をそっと口に含んだ。

 「うふふ♪ 歯は、たてちゃダメよ?!」

 大きく勃起する赤黒い乳首を咥わえる春香は、ストローを吸うように頬をへこませて口に含む乳首をチューチューッと吸うのであった。

 吸引に刺激されて乳首からはピュッピュッ…と母乳が迸(ほとばし)り、人肌に温かい(ほの)かな甘さの風味の母乳が口の中いっぱいに広がると春香はコクコクッと小さく喉を鳴らして飲む。

 「どう? 久しぶりのママのオッパイの味は…美味しい?」

 乳首に吸いついて母乳を飲む乳飲み子の弟の隣でもう片方の乳首に吸いつく春香の姿に、響子はどこか愉(たの)しげであった。二口三口と母乳を飲んで春香は、口から乳首を離すとなんともいえない微妙な表情を浮かべる。

 「まっじゅーいっ!!」

 生温(ぬる)くて仄(ほの)かな甘味しかしない母乳に、顔をしかめた春香が正直な感想を口にした。

 牛乳やジュースに慣れ親しんでいる春香にとって、どうやら母乳の味はお気に召さなかったようであった。

 「うふふっ…それはそうよ。だってオッパイは、まだ歯の生えてない赤ちゃんの為のご飯ですもの…」

 実に小さな子供らしい率直で正直な感想に、響子は朗らかに微笑(わら)うのであった。

 「でもね春香? あなたにとって母乳(オッパイ)は美味しくなくてもね…赤ちゃんにとっては、大事な栄養がいっぱいつまった大切な御飯なのよ?」

 「はるか、じゅーすがいい、ママ、じゅーす♪ はるか、じゅーす、のみたーいっ!」

 確かな甘味があるジュースがいいと、春香は母親にジュースをねだるのであった。

 「はいはい、ちょっと待ってね…今は惣くんがオッパイを飲んでいるから、その後でね…?」

 

 日も暮れて外が真っ暗な闇に包まれる頃…仕事を終えた裕作の帰宅は、今日も遅かった。

 「パパー、おかえりー♪」

 いつもように笑顔で父親の帰りを出迎えると、すぐに春香は裕作の許(もと)へと駆け寄る。

 「春香、今日もちゃんと善い子にしてたかい?」

 「あいっ♪」

 「はははっ、そうかそうか」

 にこやかな表情で勇作は春香の頭を撫でると、すぐに息子・惣一郎の許へと向かうのであった。

 「ただいま~惣一郎。パパだよ~♪」

 木製の柵が張り巡らせた小さなベッドの上でお座りした愛息を満面の笑みで抱き上げると、裕作は息子の惣一郎にたかいたかいをしてあやした。

 「だぁだぁ♪ だぁっ♪」

 父親のたかいたかいを受ける惣一郎は、満面の笑顔でキャッキャッと嬉しそうな歓喜の声をあげた。

 その様子を見て…それまで笑顔であった春香の表情が一転して、途端にご機嫌ナナメの不機嫌顔となる。

 「パパっ、パパー、はるかも…! はるかもだっこ、だっこしてー!」

 どうやら弟の惣一郎が父親に抱っこされて嬉しそうに喜ぶ姿を見て、父親っ子である春香は羨(うらや)ましさのあまり妬(や)いたようである。

 「分かった分かったから…だから、ズボンをそんなに強く引っ張らないで!?」

 惣一郎をベッドに戻した裕作は、やれやれといった様子で春香を抱き上げるとたかいたかいするのであった。

 「パパ、だぁいすきー♪」

 父親に抱っこされて、すぐに機嫌を直した春香はギュウッと裕作に抱き着いて甘えるのであった。

 そんなげんきんな愛娘の春香に、思わず裕作が苦笑いした。

 「どうしたんですの、パパ?」

 裕作の脱いだコートを抱え持つ響子が、不思議そうに首を傾(かし)げた。

 「いや…春香は、だんだんキミに似てきたんだなぁって思ってさ…」

 父親の情愛を弟の惣一郎に独占されて嫉妬(しっと)して春香がヤキモチを妬いたのは、娘のヤキモチ持ちの性分は間違いなく妻の響子から譲り受けたと…裕作が苦笑いしたのである。

 裕作の言わんとする意味を理解すると、響子は拗(す)ねた幼子のように唇を尖らせた。

 「まあパパったら…!? あたしは、そんなヤキモチ妬きではありませんッ!」

 「あはは…ごめんごめんよ」

 機嫌を損(そこ)ねた響子の肩を優しく抱いて、裕作が宥(なだ)めた。

 「それよりも晩御飯にしますから、早く2階(うえ)に行って着替えて手を洗ってきて下さいな…」

 「へいへい」

 「あ~な~たぁ…?!」

 もっとも忌(い)み嫌う裕作の口癖に、響子が般若のような表情になる。それを見て裕作は、慌てて管理人室から退散するのであった……。

 

壱 雛(ひな)祭り In The Party

 

 「あかりを、つけましょー、ぼんぼんにー♪ おはなを、つけましょー、もものはなー♪」

 管理人室に、愉(たの)しげな春香の囃(はや)し歌が管理人室に響き渡る。

 3月1日の昼下がりの午後…明後日(あさって)の雛祭りを控えて管理人室の居間では、響子が六段飾りの雛人形の飾り付けを行っている最中であった。春香も囃し歌を歌いながら雛人形の飾付けをする母親を手伝って、箱から女雛(めびな)を取り出していた。

 「だあ、だあ、だあっ」

 姉の春香の愉しげな囃し歌に誘われて、奥の部屋でボールを転がして遊んでいた惣一郎がハイハイしながら居間にやって来た。

 出生時の体重が4200gと生まれながら体の大きかった惣一郎は普通の平均的な赤ん坊よりも1ヶ月も2ヶ月以上も発育が早くて、まもなく生後7ヶ月目を迎える惣一郎は、もうハイハイやお座りが出来るようになっていた。

 「だー、だぁ? わきゃあ♪」

 雛飾りの入っていた空き箱にまるで宝物でも見つけたかのようにキランッと目を輝かせて歓喜の声をあげた惣一郎は、その空き箱に向かって一直線にハイハイする。

 そして、その場にお座りした惣一郎は小さな手で空き箱を持ったり口にしたりして、空き箱と戯(たわむ)れ始めるのであった。

 「あーっ! そーいちろー、めー、めーらよ!」

 空き箱をオモチャにして戯れる惣一郎を見た春香が怒って弟に注意するが、惣一郎はお構いなしであった。

 「こぉらっ、惣くん! その箱はお大事ですから、イタズラしちゃいけませんっ!」

 慌てる様子の春香の声に雛飾りをしていた響子が気付いて、惣一郎のその小さい手から空き箱を取り上げる。そして惣一郎の体を抱き抱えると、奥の部屋の木製の柵に囲われたベッドにへと惣一郎を連れていく。

 「あ゛ー、あ゛ーっ、だあ、だぁーっ!」

 「はいはい…惣くんは、ここでおとなしく見てましょうね~?」

 空き箱を取り上げられた惣一郎は不満そうな声をあげて小さな両手をブンブンと振って母親に抗議の意思を表したが、そんな息子を軽くあしらうと響子は木製の柵に囲われた小さいベッドの上に惣一郎を降ろすのであった。

 このベッドは裕作と響子が義理の父親と慕う音無老人が春香の誕生祝いに贈ってくれたもので、現在は惣一郎が使用していた。

 有無を云わさずに木製の柵に囲われたベッドの上に座らさられた惣一郎は不服そうな様子であったが、先ほどまで惣一郎が畳の上で転がして遊んでいたボールを響子は取って惣一郎の目の前にそっとボールを置くと、すぐにボールに興味が移った惣一郎はケロッと機嫌を直してボールを転がしたり持ったりして再びボール遊びを始めるのであった。

 夢中でボール遊びに興じる惣一郎にホッとした響子は再び居間へと戻ると、雛人形の飾り付け作業を再開するのであった。

 「おっ、やってるやってるね~!」

 昼食の余り物をお裾分けとして持ってきた一の瀬が、管理人室に訪れてきた。

 「あら、一の瀬さん…」

 「こんにちは。今日のお昼はちょっと豪勢に“おでん”にしてみたんだけど、ちょいと作り過ぎちゃってね…。そういう訳で…はいっ管理人さん、お裾分け」

 自嘲気味に笑うと一の瀬は、両手に持つ大きめの鍋(なべ)を響子に差し出すのであった。

 「まあまあ、いつもいつもすみません…」

 「管理人さんには、いつも何かと世話になってるんだし…春香ちゃんは食べ盛りなんだし、それにあんたもいっぱい食べて沢山お乳を出さなきゃいけないんだからさ」

 一の瀬から鍋を受け取った響子は、感謝を込めて頭を下げる。

 「それにしても、ずいぶん立派な雛人形だねぇ…。去年…初めて見た時、驚いたけど何度見ても、やっぱり豪華なお雛様だわ」

 まだ飾り付けが半分くらいの六段の雛飾りに、一の瀬が繁々(しげしげ)と魅入っていた。

 「確か…この雛人形って、あんたとこの親父さんが春香ちゃんの為に買ってあげたもんなんだろ?」

 「はい。こんな立派なものでなくても良いと、父には言ったのですが…ちっとも聞いてくれなくって」

 「あはは…あんたの親父さんは、孫にはトコトン甘いからねぇ」

 愉快そうに笑う一の瀬に、呆れるように響子が溜め息を吐(つ)く。

 春香が初めて迎えた桃の節句では、裕作が手先の器用さを活かして紙粘土と布地を用いて手作りの雛人形を春香の為に作ったのである。男雛と女雛だけの質素な作りの小さくて可愛い二体の雛人形をテレビの上に慎ましく飾るのであった…。

 3月3日に管理人室で催(もよお)しされた初めて桃の節句を迎えた春香を祝うパーティーで、テレビの上に飾られた雛人形を見た響子の父親が『手作りの雛人形も味があって良いが…これからは毎年祝うのだし、やはり立派な雛人形のほうが見栄えがよくて華やかだろう…』と言って翌年の2月にこの豪華な六段飾りの雛人形を贈ったのである。

 「置く場所がないから小さいので良いって言ったのに…お父さんの頑固で意固地なところには、本当に困りましたわ……」

 はた迷惑そうに、響子が呟いた。

 「なるほど…管理人さんのそういった性格(ところ)は、間違いなく親父さん譲りだね」

 余計な一言を言って表情を険しくさせた響子に、慌てて一の瀬が口を塞(ふさ)ぐ。

 「まあ、それはともかく…今年からは惣一郎くんもいる事だし、それに今年の雛祭りはちょうど日曜日。しかも大安吉日なんだから、例年になく盛大に雛祭りを祝うんだろ?!」

 奥の部屋で木製の柵に囲われたベッドの上で、寝返りを繰返したり木製の柵に掴まって二足で立ち上がろうとして失敗して尻もちをついたりする元気に動きまわる惣一郎に、一の瀬は微笑ましく見ていた。

 「あのう…惣くんは、男の子なんですけど…?」

 「がはははっ、気にしない気にしない。男の子ってのは小っちゃいうちはオチンチンが付いてるだけで、女の子とあんま変わんないんだからさぁ…」

 豪快に笑い飛ばす一の瀬に、響子は乾いた愛想笑いを浮かべるのであった。

 

 3月3日の日曜日の今日…俗に言う桃の節句。女の子にとっては、楽しい雛祭りの日である。

 午後1時30分すぎ…時計坂駅前の商店街に在る洋菓子店に、独(ひと)り訪れる裕作の姿があった。

 「ありがとうございましたー♪」

 数分後に洋菓子店を出た裕作の手には、ホールケーキの入った大きなビニール袋の取っ手部分が握りしめられていた。今日の雛祭りで春香をお祝いするのに、予約注文したケーキを受け取りに来ていたのである。

 「あれぇ…兄貴ぃ? もしかして、裕作の兄貴かい!?」

 用件を済ませて長居は無用と洋菓子店から出た裕作が一刻館へと帰路に向かう途中…その背後から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。足を止めた裕作が後ろを振り返ると、そこに大きな紙袋を二つ手にぶら下げた一の瀬賢太郎の姿があった。

 「あっ、やっぱり裕作の兄貴だ!」

 「おっ賢太郎かっ!」

 人懐(なつ)っこい笑みを浮かべた賢太郎が急ぎ足で、裕作のところへと駆け寄る。裕作と賢太郎は、互いに空いてるほうの手を上げて軽く挨拶(あいさつ)する。

 一刻館の一号室の住人である一の瀬夫妻の一人息子である賢太郎は現在は大学生となって、今では一刻館に住む親元を離れて時計坂駅から徒歩数分の距離に在るアパートで賢太郎は一人暮らしをしていた。

 「珍しいな、こんな場所(ところ)で会うなんて…。日曜なのに、独り淋(さみ)しく買い物か!?」

 「それは、こっちのセリフだってぇの! そう言う兄貴こそ、独りで駅前に買い物なんて珍しいじゃんか」

 「いや…俺は今日の雛祭りを祝うケーキを取りに来ただけだから、今から一刻館(ウチ)に帰るところだよ」

 「ふ~ん? じゃあオレと一緒だ。オレも用事は済んで、ちょうどこれから一刻館に行くとこだからさ…」

 そう言いながら、賢太郎が手に持つ紙袋を掲げた。

 「…なら、一緒に行くか?!」

 賢太郎が頷くと、裕作は賢太郎と共に一刻館へと向かうのであった。

 「なぁ兄貴…今日の雛祭りパーティーに、今年も郁子ちゃん来るんだろ? 何時頃に来るんだ…!?」

 帰り道の途中…川沿いの道を裕作と賢太郎が並んで歩いていると、ウキウキとした様子で賢太郎が尋ねてきた。

 「う~ん…5時くらいかな。昼前に八千代義姉(ねえ)さんから電話があって、その時間に郁子ちゃんと一緒に来るって言ってたから…」

 「…そうか。サンキュー、兄貴っ」

 どことなく嬉しそうにして、賢太郎が表情をほころばせた。

 一の瀬賢太郎と音無郁子は…現在、恋仲の関係であった。昔馴染みである二人は三つ年齢(とし)の離れた姉と弟のような関係であったが、やがて互(たが)いに恋心に惹(ひ)かれてゆき…いつの間にやら恋人同士となっていたのである。

 郁子の両親も大喜びで二人の恋仲を公認しており、娘の恋愛を積極的に応援していたのであった。

 「ところで…お前の持ってるその紙袋って、もしかして郁子ちゃんへのプレゼントか?」

 有名デパートのロゴが入った大きな二つの紙袋を大事そうに持つ賢太郎に裕作が訊くと、無言の賢太郎がで頬を赤らめた。どうやら図星らしい…。

 「それで…もう一つの紙袋は、一の瀬(おふくろ)さんへのプレゼントかい?」

 それとなく訊いた裕作に、賢太郎が鼻で笑った。

 「ハッ…まさかっ!? 誕生日でも母の日でもないのに、オレが母ちゃんにプレゼントなんかする訳ないだろっ?」

 「お前なぁ、おふくろさんと会うのも久しぶりなんだろっ?! 母親にも、なんかプレゼントの一つでも贈ってやれよな…」

 半(なか)ば呆れて裕作が嗜(たしな)めると、『余計なお世話だっつーの!』と、笑う賢太郎であった。

 「もう一つは、春ちゃんへのプレゼントだよ…」

 「…そうか悪いな。毎年毎年…誕生日だけでなく、雛祭りの日にも春香にプレゼント贈ってくれて有難うな…」

 「良いって良いって、今日のパーティーの主役は春ちゃんだし…それにオレにとって、春ちゃんは可愛い小っちゃい妹みたいなもんだからさ…」

 大学進学を機に両親と同居していた一刻館を離れて…今は別のアパートで一人暮らしをする賢太郎であるが、たまに一刻館に帰ってきては妹のように可愛がる春香の遊び相手をしてくれていたのであった。そんな賢太郎の気遣いに、裕作は感謝する。

 

 午後2時40分頃に、賢太郎を連れて裕作は一刻館へと帰って来た。玄関扉を開けて屋内(なか)に入ると、玄関内には見慣れない男物と女物の靴が並べて置かれていた。

 「うん…? 誰かお客さんかな?」

 つがいのように揃えられている二足の靴に、裕作が呟いた。

 裕作と賢太郎が廊下を歩いていると、管理人室から漏れる朗らかな笑い声が交じった賑やかな声が廊下を歩く裕作と賢太郎の耳に届いていた。

 「よぉ、裕作くん! お帰り…お邪魔しとるよ。んんっ? おっ、賢太郎くんも一緒だったのか…」

 「あら、お帰りなさい裕作さん。まあっ!? 賢太郎くんも…こんにちは」

 ドアを開けて管理室に入ると、響子の両親で裕作の義理の両親でもある千草夫妻の姿があったのである。炬燵(こたつ)に入りながら春香を膝を乗せる響子の父親と惣一郎を抱っこする響子の母親である律子がにこやかに裕作と賢太郎を迎えるのであった。

 響子の父親からは朝方に電話があり…今日の雛祭りパーティーには、夕方の5時頃にそちらに向かうと連絡があったのだが、予定よりもだいぶ早く一刻館に訪問したようである。

 「わははっ、予定通り夕方に来るつもりでいたんだが、やはり可愛い孫たちに一分でも一秒でも早く会いたくなってな…いてもたってもおれずにタクシーで飛んで来たんだよ」

 悪びれずに笑う夫に、隣で惣一郎を抱っこしている律子が呆れて溜め息を吐くと裕作に謝るのであった。

 「ごめんなさいね裕作さん。ホントにこの主人(ひと)ったら…孫の事となると、周りが見えなくなるものだから…」

 「何を言っとる律子? お前こそ、だらしない顔でニコニコと惣一郎を抱っこしとるクセに…」

 「いえいえ全然、気にしておりませんので…お気になさらず」

 孫の事には盲目になる響子の父親に、裕作も慣れているようで…気にした素振りは見せなかった。

 それより…雛祭りパーティーが始まるのは夕方の5時30分からにも関(かか)わらず、既に管理人室に上がり込んでいる一の瀬と四谷の姿に裕作は気になっていた。

 「お帰り五代くん…おやっ? 賢太郎…あんたも一緒だったのかい?!」

 「これはこれは…また世にも奇妙な…もとい、実に珍しいツーショットでありますなぁ…」

 ちゃぶ台の前に陣取って座る一の瀬と四谷は夕刻からの雛祭りパーティーを待ちきれずに、もう酒をチビリチビリと呑み始めていた。

 「呑むのは構いませんが、ほどほどにして下さいね?」

 台所から出てきた響子にケーキの箱を渡しながら、裕作は苦笑する。

 「分かってるって…。おや賢太郎…あんたの持ってるソレって、いったい何だい?!」

 一の瀬は息子の持つ二つの大きな紙袋に、興味を示してマジマジと見つめる。

 「ん? ああ…これは春ちゃんに渡すプレゼントで、こっちは郁子ちゃんへのプレゼントだよ」

 「あらあら悪いわね賢太郎くん、気を遣ってもらって」

 「いえ響子姐(ねえ)さん…今日の主役は、春ちゃんはですから…」

 賢太郎は手に持っていた紙袋の一つを響子に手渡した。紙袋の中身は、ピンクのリボンでラッピングされたビニール袋に入ったドラえもんのヌイグルミであった。

 「わぁーい♪ どらえもんっ♪ ありがとー、けんたろーおにいちゃん!」

 ドラえもんは春香の大好きなアニメキャラであった。響子が丁寧にビニール袋から出したヌイグルミに、大喜びの春香が愛しそうにドラえもんのヌイグルミを抱きしめた。

 「良かったな、春香♪」

 「うんっ♪♪」

 満足そうな春香の表情に、春香を膝に乗せる響子の父親も嬉しそうであった。

 そんな微笑ましい光景に、どこか面白くなさそうに見ていた一の瀬が手にしたコップの酒をグビッと煽(あお)って呑む。

 「なんだいなんだいっ?! 春香ちゃんや郁子ちゃんにはプレゼントは有っても…久しぶりに会った母親(あたし)には手土産は無しってぇのかいっ!? 我が子ながら、とんだ薄情息子だねぇ…」

 わざとらしく肩を落として大袈裟(げさ)に落胆した素振りを見せる母親に、賢太郎はやれやれといった様子でズボンのポケットから包装紙に包まれた小箱を取り出すと…それをぶっきらぼうに母親に手渡した。

 「なんだい、こりゃ?!」

 「いいから…開けてみなって!」

 息子の賢太郎からの贈り物に柄になく丁寧な手つきで一の瀬は包装紙を剥(は)がすと、いつになく少し緊張した面持ちで小箱の蓋(フタ)を取った。

 小箱の中身は、銀色に輝いたブローチであった…。そのブローチはとても小さな品物(モノ)であったが、非常に丁寧で凝(こ)った細工が施(ほどこ)されており…それなりの高価な代物である事を窺(うかが)わせていた。

 「あんた、これ……」

 ハッとして顔を上げる一の瀬が、マジマジと息子(賢太郎)の顔を見つめる。

 「か、勘違いすんなよ! ついでに買ったもんだからな?! あくまでも…“ついで”なんだからなっ、誤解すんなよっ…!!」

 わざと悪態をついて、賢太郎は頬を赤く染めながら吐き捨てるとプイッとソッポを向く。

 「ホントにまったく、あんたって子は…。あたしに似て、素直じゃないんだから…」

 照れ隠しを誤魔化す息子に、喜びに表情を緩ませて一の瀬は満面の笑みを浮かべた。

 「ほらっ、着けてやるよ」

 照れ笑いしながら賢太郎は、母親の着ている丸首セーターの左胸の辺りにブローチを着ける。

 「まあっ、一の瀬さん。とってもよくお似合いですわ♪」

 響子の言葉に、満更でもない笑顔を見せる一の瀬であった。

 「ほら…あんたもこっちに座りな」

 賢太郎が隣に座ると、上機嫌な一の瀬がコップに酒を注ぐと息子に酒を勧(すす)めた。

 「ほれっ、賢太郎も呑みなって…」

 一の瀬が酒を注(つ)いだコップを息子に渡すのを見て、慌てて裕作が一の瀬を咎(とが)める。

 「ちょっ、ちょっと一の瀬さんっ? なにやってるんですかっ! だーっ、賢太郎もなに呑んでるんだ!? お前…まだ、未成年だろーがッッ!!」

 「五代くん…賢太郎は、もうすぐ誕生日が来て二十歳(はたち)になるんだよ? そんな些細(ささい)な事ぐらい大目に見てくれても良いじゃないのかい…?!」

 「なに言ってるんですか、賢太郎はまだ未成年ですよ!? 未成年がお酒を呑んで良い訳ないでしょーがっ!!」

 あっけらかんと言う一の瀬に、息巻いた裕作が噛みつく。

 そんな裕作に、四谷が軽蔑(けいべつ)の眼差しを向けていた。

 「な、なんです四谷さん? なんで、そんな蔑(さげす)んだ目で僕を見るんですか!?」

 「いえ別に…。ただ、五代くんも浪人時代には未成年にも関わらず、お酒を呑んでいたのを思い出しまして…。よくもまあ自分の事を棚に上げて、そんな偉そうにほざけるものだと…感心しているんですよ?」

 「あははっ、そうそう…あの頃の五代くんは酒はもちろん、現在(いま)は吸っちゃいないけど…当時はタバコも嗜(たしな)んでパコスコ吸っていてさ、本当に荒(すさ)んでたからねぇ。そんな五代くんが今や、賢太郎に説教たれるなんて…滑稽(こっけい)な茶番もいいところだよ」

 「う゛っ…!?」

 義理の両親の前で過去の黒歴史を暴露されて、ぐうの音(ね)も出なくなる裕作であった。

 「平気だって、兄貴…俺も大学で所属してるサークルの先輩や友達(ダチ)としょっちゅう居酒屋で飲み会やってて酒は呑み慣れてるからさ…」

 「がはははっ! それでこそ、あたしの息子だよっ!!」

 「……大丈夫か? お前の通ってる大学(がっこう)は…??」

 一刻館で親元と一緒に暮らしていた頃はわりと真面目で常識的であった賢太郎が一人暮らしを始めた途端に周囲の環境に毒されて変わっていったのを見て、裕作は思わず賢太郎の先行きを心配せずにはいられなかった…。

 

 夕刻の5時30分…管理人室では、春香が主役の雛祭りパーティーが始まった。

 春香が誕生してから3月3日では毎年、春香の桃の節句を祝うささやかなパーティーが管理人室で催しされるようになり今や一刻館の年中行事となっていたのである。

 

 「ケーキ、おいしー♪」

 祖母である律子の膝の上に座って、春香は美味しそうに雛祭りケーキを食べていた。

 「ややっ? このケーキ、たいへん美味ですなぁ」

 「ホントホント。さすがは有名店のケーキだねぇ…コンビニのや、そんじょそこらの二流店のモノとは一味も二味も違うねぇ」

 「あー、あー、あ゛ーっ」

 春香やみんなが美味しそうにケーキを食べている様子に、惣一郎もケーキを食べたそうにして口を動かしていた。

 「あらっ惣くんも、ケーキを食べたいの? ごめんね…惣くんはまだ歯が生えていないから、ケーキは食べられないのよ…」

 「響子。ケーキは食えんでも、クリームならいけるだろ?」

 食べたそうにする惣一郎をが宥(なだ)める響子に、惣一郎を膝の上に座らせていた響子の父親は自分のケーキのクリームをスプーンで掬(すく)うと惣一郎の口元に持っていく。

 「ほぉれ惣一郎や、クリームだぞ!? あ~んっ…」

 惣一郎は口元のスプーンにむしゃぶりつくと、小さな舌を動かしてはスプーンについた生クリームを舐める。

 「あ゛ー!? だぁっ♪ きゃあっきゃあっ♪」

 初めて味わう甘味に歓喜した惣一郎は、興奮して小さな両手をブンブンと振って喜びを表現するのであった。

 「どうだ美味いか? ほ~れ、もう一口…」

 「もう、お父さんっ! クセになっちゃうから、やめて下さいっ!!」

 もう一度クリームを掬っては再びスプーンを惣一郎の口元へと持っていこうとする父親に、怒った響子が強い口調で咎(とが)めた。

 「やれやれ…子供に関して、すっかり口喧(やかま)しくなったの響子は…」

 と、肩をすくめる響子の父親であった…。

 パーティーが始まって30分が経過して飲めや食えやで盛り上がっている頃…、賢太郎は妙にソワソワしついて落ち着きのない様子であった。

 「どうしたのさ賢太郎…? ほれ、もっと呑みなって」

 息子の賢太郎から贈られたブローチを服に着けて終始ご機嫌な一の瀬が、空のコップにビールを注いで息子に勧める。

 「そうだぞ賢太郎! ほらっ…この唐揚げも食ってみなって。管理人さんの手作りだから、メッチャ美味いよ~♪ せっかくのパーティーなんだし、メッチャ呑んでメッチャ食わないと損だよ…損っ!」

 賢太郎の隣に座る朱美が、小皿に唐揚げをよそうと賢太郎に小皿を突き出しては強引に勧めていた。

 そんな朱美を裕作は、いかがわしそうに見ていた。

 「あの…朱美さん……」

 「ん~? なに五代くん…」

 面倒臭そうに朱美が、裕作のほうを振り向く。

 「何故…朱美さんが管理人室(ここ)に居るのでしょうか?」

 「なによ…あたしが、ココに居ちゃイケナイってゆーワケぇ!? そりゃあ一刻館(ココ)には、もう住んでないけどさあ…“元”住人を邪険にするなんて、あんまりにもヒドイんじゃない?」

 あからさまに不快感を顕(あらわ)にして、朱美は不機嫌そうに言う。

 「いえ、決してそんなつもりでは…」

 「んじゃ、どーゆーつもりなのさっ!」

 「朱美さん、今日はお仕事お休みではないのですよね…。茶々丸(お店)のほうは、どうされたんですか…?」

 裕作の言わんとする事を理解すると、パアァッと表情を明るくさせて朱美はニッコリと笑う。

 「あー、それなら大丈夫っ♪ 今日は休むって、マスター(旦那)には言ってあるし…それに休みだった子に、あたしの代わりに穴埋めで休日出勤してもらったから♪」

 「うわぁ…」

 「まあ最初、ブーブー文句たれてたけど…言うこと聞かないとアンタの今月の給与を旦那に言ってマイナス査定にしてもらうって言ったら、その子ったら『喜んで出勤しますっ!』って嬉し泣きしたから、全然モンダイないよ? だから五代くんは何も心配しなくても大丈夫っ♪」

 「それって、脅(きょう)は…いえ職権乱用なのでは?!」

 「いーのいーの♪ なんてったって、あたしはスナック茶々丸のママみたいなもんだからさ、いち従業員の子がママの言うことに従うのは当たり前じゃんっ」

 さも至極当然のように、笑いながら朱美が言った。

 (私生活においてもマスター、朱美さんの尻に敷かれてるんだろうな…きっと)

 前の奥さんとは長年の別居生活の末に正式に離婚したスナック茶々丸のマスターは、朱美にプロポーズすると正式に朱美と所帯をもったのである。長年と住んでいた一刻館を離れた朱美は、現在は茶々丸の2Fでマスターと同居しているのであった。妻となった朱美に仕事でも家庭でもいいように顎(あご)でコキ使われてる光景を容易に想像して、マスターに同情する裕作であった。

 ソワソワとした様子で壁時計にチラチラと何度も視線を向ける賢太郎に、口元を歪(ゆが)める四谷がニタリと厭(いや)らしい含み笑いする。

 「なるほど…どうやら賢太郎くんは、愛しの彼女さんが来るのを今か今かと待ち焦がれているご様子のようですな…」

 「な゛っ…ッ!!」

 ハッとして、賢太郎が四谷の顔を見る。

 「おやおや~、どうやら図星のようですねぇ? いやぁ…賢太郎くんも、なかなかスミにおけませんなぁ」

 「なんだいなんだい…賢太郎は、“コレ”が来るのを待ちきれないのでいるのかい?」

 下品な笑みを浮かべた一の瀬が、ピッと小指を突き立てる。

 「ちっ…違(ち)げーよッ! 母ちゃん…ッッ!!」

 「もぉ~賢太郎ってば、照れちゃってカワイイんだから…♪ アンタが郁子ちゃんと恋人同士だってのはみんなにはバレバレなんだから、必死こいて誤魔化さなくてもいいじゃんっ♪」 

 顔を真っ赤にして全力で否定する賢太郎に、朱美がからかう。

 賢太郎が昔馴染みの音無郁子と恋愛関係にあるのは、裕作のみならず…この場に居る誰しもが知る周知の事実であった。

 「ばう♪ ばうばうーぅ♪」

 そんな時…外から、犬の惣一郎さんの嬉しそうな鳴き声が聞こえてきた。惣一郎さんがこのような吠えかたをするのは、顔見知りの人間が来た場合である。

 「ウワサをすれば、なんとやらだねぇ…。どうやら来たんじゃないのかい?」

 意味深な微笑みを浮かべて、一の瀬は息子の賢太郎に視線を向けた。

 落ち着けていた腰を上げると、裕作は立ち上がる。

 「おんや五代くん、トイレですか?」

 「お出迎えに行くんですよ。客人を出迎えるのは、家長としての務めですから…」

 「あっ、兄貴。オレも一緒に行くよ!」

 裕作が立ち上がるのに続いて、賢太郎も立ち上がった。

 「賢太郎…彼氏らしく、ちゃんと彼女をエスコートしてあげるんだよ」

 裕作と一緒に管理人室から出て行く息子の背中に一の瀬が声をかけるが、母の言葉に一瞥(いちべつ)する事もなく…裕作と共に玄関先に賢太郎であった。

 裕作と賢太郎が玄関に行くと、音無八千代と娘の郁子がちょうど玄関内に入ってきたところである。

 「八千代義姉(ねえ)さん、郁子ちゃん、いらっしゃいませ」

 にこやかな笑顔で裕作は、二人を出迎えた。

 「裕作さん遅くなって、ごめんなさい…あらっ? まあっ、賢太郎くんっ♪」

 「裕作おじさま…それから賢太郎くんも、こんばんはっ♪」

 「こんばんは。おばさん、郁子ちゃん」

 玄関内で裕作たちは顔を見合せると、互いに会釈した。

 「いえいえ、まだ始まったところですので大丈夫ですよ」

 「まあ、汚いとこだけど…八千代おばさんも郁子も、早く上がってよ!」

 下駄箱に収納されている来客用のスリッパを二人分下ろすと、ウキウキとした表情で賢太郎は言う。

 「おいっ賢太郎…“汚いとこ”は余計だろっ?!」

 苦笑する裕作が肘(ひじ)で、賢太郎の脇腹を軽く小突いた。

 「痛(い)ってぇな兄貴…ま、とにかく早く上がってよ。もう…みんな盛り上がっているからさ♪」

 「ちょっと待ってて…じきに、“お父さん”も来るから…」

 「「え゛っ…!?」」

 郁子の言葉に驚いて、裕作と賢太郎が同時に玄関扉のほうを見る。まるでそれを見計らったように玄関扉が開くと、大柄でがっしりとした体格の銀縁眼鏡を掛けた男性が玄関内に入ってきた。

 「やあ裕作くん…おおっ賢太郎くんも…二人とも、こんばんは」

 爽(さわ)やかな笑顔で男性は、裕作と賢太郎に会釈する。

 郁子の父親である音無英(すぐる)であった。

 「英義兄(にい)さん…英義兄さんも来てくれたんですか…!?」

 驚いた様子の裕作に、英は人懐っこい笑みを見せる。

 「今日は、春香ちゃんをお祝いする日だからね。それに惣一郎くんにも会いたいし、そして裕作くん…キミと美味しい酒を呑めるのを何よりもボクは楽しみにしていたからね」

 そう言って、英は手にしていた複数のビニール袋を持ち上げる。ビニール袋には、缶ビールやおつまみの揚げ物や惣菜やらが袋いっぱいに入っていた。

 「有難うございます…でも、なんか悪いですね。せっかくのたまのお休みなのに、英義兄さんまで来てもらって…」

 「気遣ってくれて、有難う裕作くん。でもボクは…家でのんびりしているよりも、こうして外へ出るのが性(しょう)に合ってるからね」

 子供のような無邪気な笑顔の英が、屈託(くったく)なく言う。

 身長192cm,体重103Kgの立派な体格の音無(旧姓六十里(ついひじ))英はいわゆる体育会系で、高校・大学時代にはラグビーで肩をならしていた。大学在学中にはラグビー日本代表の候補者選考会にも名前が挙がるほどに活躍した選手であり…大学生活が最期(さいご)となる4年生の頃には、いくつもの有名な強豪ラグビーの実業団から好条件での勧誘の誘いがあったほどである。だが…この時、英は同じ大学に通う同い年であった音無八千代と20歳の時に婿養子という形式(かたち)で既に学生結婚をしていたのであった。

 生来より心優しい英にとってラグビーとは、あくまで皆(みな)と楽しむ趣味の範疇(はんちゅう)のスポーツであり…他人を蹴落とし自分がのしあがる激しく厳しい勝負の世界の実業団スポーツに身を投じていく事には馴染めず…また結婚している八千代に過度の負担や心配事をかけない為にも、それら勧誘をすべて丁重に断ると英は実業団スポーツとは無縁の都内の音無家の親族が部長を務める大手証券会社に就職するのであった。

 酒の席で英からそのような昔話を聞かされて…せっかくの才能や素質が有るのに実に勿体(もったい)と思った裕作だったが、同時に八千代義姉さんを想い気苦労をかけない為に選択した道だと…いかにも英義兄さんらしい決断だと裕作は感心するのであった…。

 

 裕作たちと共に英が管理人室に入ると、どよめきに似た歓声が沸き起こった。

 「ややっ…?! これはこれは、八千代さんや郁子ちゃんだけではなく音無のマッチョマンのご登場…これは失礼、英さんもいらして下さったのですか」

 英の姿を見て、驚いたように四谷が言った。

 『音無のマッチョマン』と渾(あだ)名で四谷に呼ばれて、思わず英は苦笑した。身の丈(たけ)が大きくムキムキな筋肉質の日本人離れしたプロレスラーみたいな体躯(たいく)の英を揶揄(やゆ)して四谷は、いつもそう呼んでいたのである。

 おりしも90年代の初頭は…巷(ちまた)ではペイントレスラー『グレート・ムタ』の登場により、にわかなプロレスブームが起きていたのである。

 メディアの脚光を浴びてプロレスラーが雑誌の広告やテレビCMのイメージキャラクターとして起用されたり、レンタルビデオ店ではプロレスビデオのコーナーが大幅に拡充されるほどであった。裕作が行きつける時計坂駅前のレンタルビデオ店も人気とブームにあやかって特設コーナーを設けると、プロレス関連のビデオを大量に導入して裕作もプロレスのビデオをよく借りて視(み)るのであった。

 182Cmと日本人としては背の高い四谷ではあるが、英はそれよりもさらに10Cmも長身でがっしりした体格であった。丸太のように太い腕は、並みの大人の太ももをも軽く凌(しの)ぎ…英はまさにプロレスラーのような外見をしていた。

 そんな英に好奇な眼差しを向けて揶揄する四谷にも、嫌な顔ひとつ見せず…それどころか嬉しそうに微笑む英に『どんだけ、おおらかな心の広い人なんだろう…この人は』と、裕作は感心する。妻の響子の曰(いわ)く…先の夫の故・音無惣一郎を“春のような穏やかな男性(ひと)”と評しているが、惣一郎の義理の兄・音無英は“穏やかな大海のような心の広くて深い寛容な男性(ひと)”と評していた。プロレスラーみたいな見た目に反して虫も殺せないような優しい顔立ちをして誰に対しても物腰が低い英に会うたびに…まさしくその通りの人だと、常々(つねづね)と思う裕作であった。

 都内の大手証券会社に課長として平日は日夜忙しく勤務する音無英だが、休日には駅前のスポーツジムに通い2~3時間と汗を流し…またアマチュアラグビー同好会にも所属していて心から草ラグビーの試合を楽しむ根っからのスポーツマンであった。

 鋼のように鍛練(たんれん)された英の肉体に…アメリカ・プロレスWWFのビデオをよく視聴する裕作は、WWFマットで活躍するプロレスラーの『アルティメット・ウォーリアー』に因んで“和製ウォーリアー”』と裕作は密(ひそ)かに英の事を陰(かげ)でそう呼んでいた。

 「おおっ…英くん、キミも来たのか!?」

 英の姿に響子の父親は、実に嬉しそうな顔をする。

 娘の響子が惣一郎と結婚した頃より…響子の父親は、英とは顔見知りである。

 一方的な恋心に惹(ひ)かれた娘が駆け落ち同然で結婚した惣一郎に響子の父親は、惣一郎を快く思っていなかった。盲目的な恋に陥(おちい)った娘の響子を奪っていったという逆恨みの部分もあるが…タバコも吸わない酒も呑まない“大人の嗜み”を一切しない生真面目な性格の惣一郎には、響子の父親は“非常に堅物で面白味のないつまらない男”だと辟易(へきえき)していたのである。惣一郎の義理の兄である朗らかな性格の音無英とは相性(うま)が合うのか…明るく楽しい酒を嗜む“呑み仲間”として、機会さえあればスナックやバーで響子の父親は英と一緒に酒を愉(たの)しむ呑み仲間であった。

 「英くん…ほら、座って座って」

 ご機嫌な様子で響子の父親は、英を隣に座るように勧めた。

 英が腰を落ち着けて座ると同時に、ビールを注いだコップを英にすっと差し出した。響子の父親からコップを受け取った英は、コップに入ったビールを一気にと呑み干した。

 「相変わらず男らしくて善い呑みっぷりだのう、英くん。ささっもう一杯…」

 「有難うございます。頂きます」

 一杯目と同じ勢いで英がビールを呑み干すと、それを四谷は惚れ惚れとした様子で見入るのであった。

 「いやぁ、実に見ていて、気持ちのいい呑みっぷりですなぁ…思わず見とれてしましたよ。さすがは“体育会系”ですな?!」

 「いやぁ~お恥ずかしい…“元”体育会系ですよ? 四谷さん」

 後頭部に手を宛てると、にわかに頬を赤く染めて英は照れながら言う。

 「では今度は、私(わたくし)めから…」

 「有難うございます、四谷さん」

 ビール瓶を持つ四谷が空となったコップにビールをとくとくと注いで、英にお酌(しゃく)した。

 響子の父親と四谷のお酌(しゃく)を受ける英の向かい側では、女の子座りで座る郁子が隣に胡座(あぐら)をかいて座る一の瀬からお酌を受けていた。

 「おやまあ…郁子ちゃんも、けっこう善い呑みっぷりじゃないか。そういう所は…やっぱりお父さん譲りなのかぇ?!」

 「う~ん、そうなのかなぁ…? お父さんもだけど…お母さんも、お父さんに負けず劣らずのお酒好きだから…」

 奥の台所で響子を手伝う八千代(母親)に視線を送りながら、郁子は言う。

 「あはははっ! 郁子ちゃんが呑兵衛(のんべえ)体質なのは、そりゃあ間違いなく両親からの授(さず)かり物だよ。さすがは賢太郎のお嫁さんだよっ♪」

 「もう、花枝おばさまったら…まだ私は、賢太郎くんとは結婚してませんよ?! 結納もまだなのに、私の事を“お嫁さん”と呼ぶのは少し気が早いですよ…」

 「でもいずれは、ウチの賢太郎と結婚するんだろ? だったら“お嫁さん”呼ばわりされるのにも、早いうちに慣れておいても損はないと思うよ。それに“おばさま”でなくって、“お義母(かあ)さま”って郁子ちゃんに早いとこそう呼んでもらいたいと、あたしは思ってるぐらいなんだからさぁ」

 朗らかな微笑みを浮かべて一の瀬は、おどけて言うのであった。

 「母ちゃん…! 郁子ちゃんをあんまりからかうなってっ! ほらっ、困ってるじゃないかっ!!」

 明らかに困惑気味な様子の郁子に、賢太郎が助け船を出した。

 「賢太郎…あんたも、早いとこ郁子ちゃんにプロポーズしなよ? あたしは白髪頭の本当のお婆ちゃんになる前にさ、孫を抱きたいんだからね…。ねぇ八千代さん? あんたもさ、早いとこ孫の顔を見たいんだろ?!」

 「そうですねぇ…私も、主人とは学生結婚でしたから…。40代でお祖母ちゃんになるのも、とっても素敵な事ですよね…花枝さん?」

 一の瀬の言葉に、同意して八千代は穏やかに微笑んだ。

 「もぉっ、お母さんまで…いきなり何言いだすのよ!?」

 顔を真っ赤にしどろもどろになる賢太郎と郁子の若い二人の恋人に、面白可笑しそうに笑う一の瀬花枝と音無八千代であった。

 「ささ英さん…ここは一つ余興として、英さんのご自慢のその肉体(からだ)で素晴らしい芸をご披露(ひろう)していただけませんかな…?」

 ほろ酔い状態の四谷が馴れ馴れしく英の肩に手を載(の)せると、間近に顔を寄せて英の耳元で囁(ささや)く。

 恐れを知らぬ四谷のムチャぶりにも…子供のように無邪気に微笑んで英は立ち上がると、着ていた衣服を脱いで上半身裸となった。

 見事に腹筋が六つに割れた鍛(きた)えこまれた英の強靭(きょうじん)な肉体が晒(さら)されると、その場がうっとりとした感嘆な溜め息に包まれる。

 「ブラボーッ! 素晴らしい…実に素晴らしいですぞっ! とても40代とは思えない若々しい肉体美ですぞ、英さんっ!!」

 そう賛辞して誉め言葉を贈る四谷は、拍手喝采して英を讃(たた)えていた。

 すっかり気をよくした英は、上半身裸の格好でボディービルのように種々(いろいろ)とポージングを決めるのであった。

 「キャハハッ…! しゅごーい♪ すぐるおじさん、しゅごい、しゅごーいっ♪♪」

 ポーズを決めながら英が大胸筋を交互にピクピクと動かすと、祖母・律子の膝の上に座っている春香はパチパチと手を叩いて大喜びしていた。

 (この人って…15歳も俺よりも歳上なのが信じられないくらいに、本当に見た目が若々しいんだよなぁ…)

 チビリチビリと酒を呑みながら裕作は、ノリノリで余興の肉体芸を披露する英を眺めていた。

 妻・響子の先の夫で亡き惣一郎の義理の兄である英は惣一郎よりも四つ歳上で今年45歳になるのだが…とても40代半ばには見えず、今年で30歳を迎える裕作と並んでいても違和感なく同世代に見られるほど英は若々しかった。

 「五代くぅん…? な~にチミは英さんの余興を肴(さかな)にして、のほほんと酒を呑んでいるのです?! 腐ってもキミだって“元”ラガーマンなんでしょう? ならキミも英さんと一緒に肉体芸をして、義理のお義父(とう)さんと娘の春香ちゃんを歓(よろこ)ばせてあげるという気概(きがい)はないのですか!?」

 酒臭い息を撒(ま)き散らして四谷が、ずいっと裕作に顔を寄せてきた。

 「ハァッ?! な、何を言ってるんですか四谷さん? する訳ないでしょう! そりゃあ僕は確かに高校の時はラグビー部でしたけど…ラグビー日本代表の選考会に名前が挙がるほどに大学ラグビーで活躍した英義兄さんと違って、僕はレギュラーどころか補欠にもなれず試合にも出れなかったヒラ部員でしたよ?! それに英義兄さんは現在(いま)でも立派な肉体(からだ)を保っていますけど…僕は、とても他人(ひと)様に見せられるような身体をしていませんからっ…!」

 「ふ~ん…どれどれ」

 席を移動した朱美は…おもむろに裕作の隣に座ると、ムギュウと裕作のお腹を摘まむのであった。

 「わひゃあっ!? あ、朱美さんっ、いきなり何するんすか!?」

 無言の朱美に服越しに腹の肉を摘ままれて、思わず裕作が素っ頓狂(とんきょう)な声をあげた。

 「アハッ、ホントぉだあ♪ こんなにも摘まめるなんて五代くん…アンタ最近、運動不足なんじゃあないの?」

 「…そりゃあ管理人さんの美味しい手料理を毎日と食ってりゃあ肥(こ)えないほうがおかしいし、太らなきゃ逆に管理人さんに対して失礼に当たるってモンだよ?! あははっ、言(ゆ)うなれば幸せ太(ぶと)りってヤツだねっ」

 裕作をからかう朱美と一の瀬が、意地悪そうに微笑(わら)う。

 「アンタもさぁ…ちょっとは英さんを見習って、少しは筋トレでもしたらぁ? このままだとアンタ将来、絶対デブでハゲなおっさんになるよ…?!」

 「大きなお世話ですっ!! てかデブはともかく…ハゲは関係ないでしょうが、ハゲはッッ…!!」

 朱美の余計な一言に、むくれる裕作は憮然(ぶぜん)とした表情で自棄(やけ)気味に酒を煽(あお)り呑む。

 「裕作くん…男の価値ってのは、何も英くんのように筋肉だけで決まるモンじゃないんだよ? わしのように小太りにポコンと腹が出ているのも貫禄があるもの男の魅力のひとつだよ。それにウチの響子は例えキミがハゲやデブになっても…それで愛情が薄れて愛想を尽かすような薄情な娘じゃないから、そこはキミも安心して良いんだよ!?」

 「うぅ…お義父さん、有難うございます」

 裕作の肩に手をのせて慰めの言葉をかけながら、響子の父親は裕作の持つ空のコップにビールを注いでお酌する。

 「アハハ~しまりのない平凡な顔の五代くんは筋肉モリモリなマッチョな身体してるよりも、ポッチャリとお腹が出ていたほうがお似合いだよね~♪」

 「ガハハッ、確かに五代くんはそっちのほうが相応しいねぇ♪」

 「大きなお世話ですっ…!!」

 朱美と一の瀬が裕作をオモチャにしてからかうと、ムスッとむくれる裕作であった…。

 

 夕方より始まった雛祭りという名の酒宴は…夜遅くになっても、終わりを見せずに未(いま)だ続いていた…。

 夜の8時に…明日から企業戦士として仕事に励(はげ)む音無英は名残惜しそうにしながらも、妻・八千代と娘・郁子と共に自宅へと帰宅した。郁子の恋人である賢太郎も恋人の郁子とその両親であり未来の義理の両親(おや)となる英と八千代を見送りする為に、英たち音無家の人々と一緒に一刻館を後(あと)にするのであった。

 さらに9時になり…お寝むの時間となった春香と惣一郎を寝かす為に響子は母親の律子と共に、奥の部屋へと下がったのである…。

 「わはは…っ」

 「あっ、ソレッ♪ ちゃかぽこ…ちゃかぽこっ♪」

 …夜10時をまわっていても、管理人の居間は異様な盛り上がりに包まれていた。

 「いやぁ立派な雛人形を眺めながら…それを肴に呑む酒っていうのも、結構オツなものでありますなぁ…」

 「まったくさ。こんなに豪華なお雛様を前に酒を呑むなんて、贅沢の極みってもんだよ♪」

 「ワハハハッ! そうであろう、そうであろう…。いや奮発した甲斐が、あったというもんだ」

 豪華な六段飾りの雛人形を前にして、得意満面な響子の父親はニコニコとご満悦であった。

 「ときにお義父さま? ここは一つご提案があるのですが…次の5月5日の“端午の節句”には、是非とも惣一郎くんをお祝いして差し上げようではありませんか?!」

 「アハッ♪ 賛成~大賛成ぃ~~♪」

 「いいねぇ♪ 惣一郎くんにとっては初節句なんだし、盛大にパーと派手に祝ってやんないと…惣一郎くんが可哀想だね」

 「おぉっ! だったら…この雛人形に負けんぐらいな立派な五月人形や、鯉のぼりを惣一郎に買(こ)うてやらんとな。わはははっ…」

 四谷たちに唆(そそのか)されて、すっかりその気となった響子の父親はご機嫌な様子で笑い飛ばすのであった。

 春香が誕生してからは毎年3月3日に春香の桃の節句を祝うパーティーを催(もよお)ししているのだが、今年からは5月5日の端午の節句にも惣一郎を祝うパーティーを催しするのが義父の“鶴(ツル)の一声”によって決定事項(じこう)となったようである。

 (それにしても…なんちゅー状況なんだ、コレは!?)

 周囲を無類の呑兵衛たちに囲まれながら、チビチビと酒を呑む裕作が心で思わず呟(つぶや)く。

 …今この場に居るのは、裕作を除(のぞ)くと義父である響子の父親と一の瀬と四谷と朱美である。皆(みな)…負けず劣らずの酒豪であり、揃(そろ)いも揃っての酒癖が悪い呑兵衛たちなのである。

 炬燵に入り尚且(なおか)つ石油ファンヒーターが焚(た)かれる管理人室(しつない)は、快適空間そのもののはずなのに…なぜか裕作は背筋に冷たい汗が流れて悪寒を感じていた。

 「なにを女々子(めめこ)のように、上品に呑んでるのかね裕作くん?! 男なら、浴びるように豪快に酒を呑まんといかんぞっ! ほらっもっと呑んで!!」

 すっかり酔いどれ状態となっている響子の父親が裕作に絡(から)むと、強引に酒を勧める。

 普段は気難しい表情をして眼鏡の奥の眼光を鋭く光らせる生真面目で頑固な印象の響子の父親であるが、ひとたび酒が入り酔えば感情の起伏が激しくなる性分であった。悲哀の状態(とき)に酔えば泣き上戸(じょうご)となり…上機嫌な状態(とき)に酔えば非常に朗らかな笑い上戸となる義理の父親の現在(いま)の状態は、後者のほうなのである。

 「は、はいっ、いただきます」

 上機嫌な義理の父親の機嫌を損(そこ)なわせないように、強張った笑顔で義父からのお酌を受けると裕作はコップに注がれた酒を豪快に飲み干すのであった。

 「五代くん…今がチャンスですよ、チャンス!」

 「チャンスって…なにがチャンスなんですっ!?」

 四谷に突然と声をかけられ、思わず裕作はオウムのように聞き返す。

 「察しの悪い男ですな…キミは。お義父さまを歓ばせて株を上げる為にも、今こそキミは弛(たる)んだその醜悪(しゅうあく)な醜(みにく)い身体を張ってハダカ踊りをご披露する絶好の機会ですぞ?」

 「いいね~♪ 英さんの逞しい肉体美を堪能しながら呑むのも良かったけど…五代くんのブヨブヨ肉のハダカ踊りを見るのも、下手な漫才よりも面白そうだしいい酒の肴になりそーだね♪」

 四谷の言葉に、朱美が囃し立ててきた。

 「しゅ…醜悪ってなんですか!? それにそんなこと、しませんってばっ!!」

 ムキとなって裕作が噛みつくと、あからさまに肩を竦(すく)めた四谷は露骨に大げさな溜め息を吐(つ)くのであった。

 「少しは場を盛り上げて義理のお義父さまを愉しませてあげようという…そうゆう男気は無いんですか、キミは?! やれやれ仕方がありませんなぁ…ではヘタレな五代くんになり代わって、ここは私(わたくし)めが僭越(せんえつ)ながら余興でお義父さまをひとつ歓ばせて差し上げましょう…」

 タオルで頬かむりをすると四谷は、おもむろに着ていた着流しの帯から上をはだけると上半身裸となった。そして両手でお盆を持つと、滑稽(こっけい)な動きでドジョウすくいを踊り始めるのであった。

 「あっソレッ♪ ソレソレソレッ…♪」

 「よっ、いいぞぉ! 日本一ぃ…!」

 ドジョウすくいを滑稽に踊る四谷に、既に顔を真っ赤にさせている酔いどれ顔の響子の父親が愉快そうな表情で手拍子を送っていた。

 「あはは…やるねぇ四谷さん? よ~し…それじゃ、あたしも負けちゃおれないよ♪」

 四谷のドジョウすくいに触発された一の瀬も、いつの間にやら日の丸扇子(せんす)を両手に持つと陽気に踊り始めたのである。

 

 …日付が変わろうとする深夜となっても、賑やかな宴(うたげ)は宴(えん)もたけなわ処(どころ)か…より一層の熱気を帯びて盛り上がりを見せていた。例によって…有給休暇を使って翌日の会社を休む響子の父親は今夜は管理人室(ここ)に泊まるつもりでいており、一の瀬,四谷,朱美の三人は元より此処(ここ)で酔い潰れるまで呑む気でいたのである。

 「お義父さん、僕は明日(あす)は仕事ですので…大変申し訳ありませんが先にオヤスミをさせて頂きます…」

 「んぅ?! そうか…もう少しキミとも愉しく酒を呑んで語らいたかったのだが、仕事に差し障(さわ)るのなら致(いた)し方あるまいな。それじゃあ裕作くん、おやすみ…わしはもう少し皆(みな)と呑むとするよ」

 「済(す)みませんお義父さん…それでは、オヤスミなさい」

 明日(あした)の仕事に差し支える為…先に就寝しようとして裕作は失礼のないように義理の父親に非礼を詫(わ)びると、その場から立ち上がろうとした。だが…その時、四谷は裕作の肩をムンズと掴んでそれを阻止(そし)する。

 「お義父さまを差し置いて…なに先に寝ようとしてるんです!? 義理のお義父さまに対して、無礼ではありませんか…?」

 「ちょっと四谷さん…明日、僕は明日は仕事なんですよ?!」

 「なに情けない事を言ってるんです。キミは充分にまだまだ若いんですから…今夜くらいは、徹夜して呑み明かすのは…どぉてっ事ないでしょ?」

 「そーだよ五代くん。第一、五代くんのクセしてアタシらを差し置いて先に寝ようだなんて、10年は早いってぇのっ!」

 「な~に、心配しなくったって朝になったら、愛しの管理人さんがお目覚めのキスで五代くんを優しく起こしてくれるんだろ? 未(いま)だに新婚気分の抜けてないあんたらの事だ、おはようのキスは勿論(もちろん)…いってらっしゃいのキスをしてから、あんたは毎朝お勤めに行ってるんだろ?!」

 「ぶほっ! な、何を言ってるんですか…一の瀬さん。近頃は春香の視線を気にしてますから、最近はしてませんてっば…」

 「とにかくアンタは、このままアタシらが酔い潰れるまで付き合ってもらうよ!」

 「そーそーそうですよ。どうせ逃げられないのですから…ここは、素直に我々の言うことを大人しく従っていたほうが身のためですよ?」

 逃がすまいと裕作の背後から腰を強く抱きしめる四谷が、威圧感な笑みを裕作に見せる。四谷によって身動きのとれない裕作の口元に、酒がなみなみと注(つ)がれたコップを持った朱美がコップを無理矢理に押しつける。

 優柔不断で押しにめっぽう弱い裕作は四谷たちの強引な押しに断りきれずに、結局…明け方近くまで付き合わせられるのであった…。

 「裕作さん、顔色が少し悪いようですけど本当に大丈夫なのですか…?」

 玄関の外で響子が裕作の顔色を窺(うかが)いながら、保父の教材や筆記用具そして弁当箱などが入ったボストンバッグを裕作に手渡しながら心配そうに言った。

 「ああ…うん、大丈夫だよ。それじゃ行ってきます…」

 響子からボストンバッグを受け取った裕作は、少し青ざめた表情をしながらも努めて笑顔を作る。

 「アハハ…いってらっしゃーい♪」

 「五代くん…二日酔いだからって、仕事中に居眠りなんかしてちゃあダメだよ?」

 (……。二日酔いになったのは、あんたらのせいだろうが…ッ)

 これから仕事へと向かう裕作(おっと)を心配な顔をして見送る響子の両隣には、朝から陽気な顔の一の瀬と朱美が響子に付き添って裕作の見送りに出ていた。

 自分よりも浴びるほどに呑んでいるのに…一の瀬と朱美は、ケロッとしていて二日酔いしている様子など微塵(みじん)も見せていなかった。この人達にとって、酒は水みたいなものだろうと…思いつつ裕作は勤務先である“しいの実保育園”へと向かう為、一刻館に背を向けるとおぼつかない足取りで歩を進めるのであった。

 「パパー、いってらっはーい♪」

 響子の父親に抱っこされた春香が手を振って、笑顔で父親の裕作を見送った。春香の見送りの声に、多少は二日酔いが和(やわ)らぐと元気が沸(わ)いてくる裕作なのであった。

 「あはは春香、9時になったら…またお祖父(じい)ちゃんと一緒に銭湯に行こうな? 朝の一番風呂はとっても気持ちイイぞぉ♪」

 「うんっ♪ クマのおじーちゃんと、いっしょに、おふろに、はいるー♪♪」

 「おっ、いいですなぁ…。まだガラガラの時間帯で、貸切状態で銭湯の湯をのびのびと満喫してちょっとした優越感に浸(ひた)るというのも中々オツな趣(おもむき)でありますな。不肖(ふしょう)ながら私(わたくし)もお供させて頂きますよ」

 「わーい♪ よちゅあさんも、おふろ、いっしょー♪」

 「ですから春香ちゃん? 私(わたくし)の名前は…よ、つ、や。『よつや』なのですってば…。まっ、いいでしょう…。ではでは春香ちゅわ~ん、銭湯に行ったら一緒に体を洗いっこしましょうねぇ~♪」

 「うんっ、するー♪ よちゅあさんと、あらいっこ、するー♪」

 「ぶふぅ!? ちょっと四谷さんッ! アンタ…なにサラッと、とんでもない事を口走ってんだっ!」

 不穏な四谷の言葉を背中越しに耳にした裕作は足を止めると、踵(きびす)をかえして血相を変えて慌てて四谷に詰め寄った。

 「…? 何を勘違いしてるんですキミは…?! 私(わたくし)は疚(やま)しい気持ちではなく、普通に春香ちゃんと銭湯で裸のお付き合いするだけですよ。キミだって春香ちゃんと銭湯に行ったら…一緒に男湯に入っては、キミは鼻唄まじりの嬉しそうな顔で春香ちゃんの体を洗っているではありませんか…。それと同(おんな)じですよ?」

 「な、なんで…知ってるんです?!」

 「いや私(わたくし)も仕事帰りには、よく銭湯に寄りましてな…その時にキミと春香ちゃんの姿をしょっちゅう見かけては、観察してるんですよ。それにしても春香ちゃんと一緒に湯船に入っている時のキミの顔ときたら…、非常にニヤけた間抜けヅラをしてるんですね? 正直あの顔は今、話題のロリコンみたいなアブナイ顔ですよ?!」

 「んなっ!? ロッ、ロリコンって…なんですかッ! 別に父娘(おやこ)なんですから、銭湯で自分の娘と一緒に湯船に入っていてもオカシクないでしょうが!」

 四谷にくってかかる裕作に、一の瀬が横槍を入れる。

 「あのさ、五代くん…」

 「なんです一の瀬さんっ!?」

 「お茶を濁(にご)すようで悪いんだけど、四谷さんと漫才なんかしてる場合かい? ほら急いで駅に行かないと、電車に乗り遅れて遅刻しちまうんじゃないのかい…」

 「アッ、ヤバ…ッ!! そ、それじゃ行ってきます!!」

 一の瀬の指摘に…左手首に嵌(は)めていた腕時計で時間を確認すると裕作は、駅に向かって大慌てで駆け出した。

 「ほら~もっと気合い入れて走んないと、ホントに遅刻しちゃうぞっ♪」

 実に愉快そうな表情(かお)でハッパをかける朱美の声を背に、大急ぎで時計坂駅へと向かう裕作なのであった……。

 

弐 北海道からの入居者

 

 3月下旬から4月上旬の年度末から新年度に移り変わるこの時期…卒業式や入学式に入社式と新たな人生の門出となる行事がめじろ押しとなり、何かと忙(せわ)しく慌ただしい時期である。それに伴(ともな)い新生活に向けての引っ越しが盛んとなるシーズンでもあった。

 3月も残りわずかとなった…ある穏やかに晴れた日の午後、管理人室の居間に設置された電話が先ほどよりひっきりなしに鳴っていた。

 その時…響子は裏庭で洗濯物を干していたのだが管理人室と裏庭を隔(へだ)てる窓は締め切られており、電話が鳴っているのに気付かずに響子は洗濯物を干す作業を続けていた。

 この時間…奥の部屋に置かれた木製の枠に囲われたベビーベッドではなく、居間の畳の上に敷かれた小さな幼児用の蒲団(ふとん)の温もりにくるまれて惣一郎は眠っていた。

 20分ほど前に母乳をたらふく飲んで満腹となった惣一郎は、よほど熟睡しているのか…それとも神経が図太いのか…すぐ頭の近くで電話がけたましく鳴り続けているのにも関わらず、目を覚ます様子も無く気持ちよさそうに寝入っていた。

 ジリリーン、ジリリーン、ジリリーン……

 一向に鳴りやまない電話機にその様子を暫(しばら)くじっと見ていた春香であったが、小さな手を伸ばすと春香は電話機の受話器を取るのであった。

 《…あっ良かった、やっと繋(つな)がったよ。もしもし五代さんですか? 私、時計坂不動産の東雲(しののめ)ですが……》

 「もしもし、ごだいれすっ♪」

 《……》

 春香の声に…電話を掛けた相手は呆気(あっけ)にとられて無言となるが、やがて朗らかに笑うのであった。

 《アハハハ…ずいぶん可愛らしい声とだ思ったら、春香ちゃんかい? こんにちは、不動産屋さんのオジサンだよ。春香ちゃんは元気なのかな~?》

 「あいっ♪ はるかも、パパも、ママも、おとーと、そーいちろーも、わんわん、そーいちろーさんも、みんな、おげんきれすよ♪」

 《そうかいそうかい…春香ちゃんはエライねぇ~。ちゃんとお電話に出れるなんて、とってもお利口さんだねぇ♪ そっか…もうすぐ3歳の“お姉ちゃん”になるんだよねぇ、いやぁ感心感心…》

 「えへへー♪」

 電話口の相手に褒(ほ)められて春香は、とても嬉しそうであった。

 《ところで春香ちゃん、ママは居るのかな~? もし居たら…不動産屋のオジサンからお電話ですよって、ママとお電話を代わって欲しいんだけど…いいかなぁ?》

 「あいあいっ、ちょっち、まってくらはいっ♪」

 受話器を畳の上に置くと、春香はトコトコと歩いて母親を呼びに行く。畳に置かれた受話器からは、やれやれといった感じで不動産屋の苦笑いが漏れるのであった。

 「ママー、ママー、おでんわっ、ふどーあさんから、おでんわれすよっ」

 そう言いながら春香は締め切られた窓ガラスをタンタンと叩いて、庭先で物干し台に洗濯物を干している母親に報せる。

 「あら春香…ありがとう」

 洗濯物を干すのを中断した響子は急いで室内(なか)へと戻ると、畳に放置された受話器を取った。

 「もしもし? 大変、お待たせして申し訳ありませんでした。お電話、代わりました五代です」

 《あっ五代さんですか?! どうもお世話様です。時計坂不動産の東雲です》

 「まぁ東雲さん。こちらこそ、いつもいつもお世話になっておりますわ…」

 受話器を耳にあてたままの響子が、お辞儀(おじぎ)する。

 「あのぅ…先ほどはウチの娘が電話に出ましたけど、なにかヘンな事とか失礼な事をおっしゃらなかったのでしょうか…?」

 《いえいえ…とんでもない、むしろ感心してたんですよ。まだ小さいのに、きちんと電話の応対が出来ていて褒めていたんですよ。五代さんも、跡(あと)取りが出来て安心しているんじゃありません? あと20年もすれば、安心して春香ちゃんに管理人を任せられますよ?!》

 「さぁどうでしょう…? 母親(おや)としては娘に私の跡を継いで欲しいという気持ちはありますけど…でも娘には春香には、将来の仕事は自分自身に決めさせてあげたいものですわ」

 穏やかな口調で響子は言う。

 「それで今日は、どういったご用件なのでしょうか?」

 《ハッ…そうだった! 世間話をしている場合じゃなかった。五代さん、朗報なんですよ…朗報っ!!》

 興奮したように東雲が早口でまくし立てると、その迫力に思わず響子は圧倒される。

 「あの…なにが朗報なのですか?」

 《いえ実は…一刻館(そちら)に入居したいって人から午前中に電話がありまして、その後に電話をかけた人の保証人を名乗る方がウチに見えたのですよ…》

 「まぁ!? それは本当ですか」

 響子の表情が、明るい笑顔となった。一刻館に新規入居者が出たのは、実に久しぶりであったからなのである。

 戦前に建てられた一刻館は東京都練馬区にあって格安物件であった。練馬区内でも屈指の格安な家賃を誇る一刻館だが…最近では中々と、新しい入居者が居ない状況であった。いくら家賃が安くとも…今時、風呂なしトイレ・流し台が共用の上、一の瀬や四谷といった強烈な個性の住人の居る一刻館は敬遠されていたのである。響子が裕作と再婚した年より家賃安さに多くの入居者が居たのだが…風呂無しトイレ・流し台共用は我慢できても、強烈な個性のアクが強すぎる一の瀬や四谷との関係が馴染めずに長くても3ヶ月くらいで多くの新規入居者が引っ越して一刻館を去っていったのである。ここ…一年くらいは、新規入居希望者が途絶えている状態なのであった。

 『神経が図太くなきゃあ一刻館(ココ)で生活なんてできっこないから…いっそのこと、入居希望の要項に“神経が図太い奇人変人の入居希望者の方、大募集”って書いて新聞に折り込みチラシでも出したほうがいいんじゃないのかい?』と…冗談めかす一の瀬の提案に、勿論(もちろん)その提案を響子は笑顔で却下するのであった…。

 久しぶりとなる新規入居希望者に、実に嬉しそうな響子であった。

 《ただ、その方は現在は北海道に在住の人でして…勤めている会社の都合により短期転勤ですか? この春に半年ほど東京(こちら)のほうの会社へ行く事になったみたいらしく、それで半年間ほど一刻館(そちら)に入居したいとの事になりますが…それでもよろしいですか?》

 「まぁ、北海道の方なんですか? はい。ウチとしましても、その間の家賃収益が上がりますから助かります。ですけど珍しいですわね…いくら短期間の転勤とはいえ、わざわざ一刻館(ウチ)を選ぶだなんて…。手頃な物件なら、他にも色々とあるでしょうに…」

 《えぇ、そうなんですよ。何でもウチに来た保証人だという…その北海道の方の知人の人が、その一刻館を強く奨(すす)めたそうですよ?》

 都内には一刻館以外にも家賃の安くて手頃な物件なら探せば幾(いく)らでも在(あ)りそうなものなのに、わざわざ一刻館を奨めるだなんて…その保証人だという人は、いったいどんな人なんだろうと…ふと響子は思った。

 《それにしても、その北海道の方はどういった風に保証人だという知人の方に紹介されたんですかねぇ…。何しろ一刻館(おたく)は天然記念物級のオンボロアパートなんですから、実際に物件を見て幻滅されなければいいのですが……》

 「はいっ?」

 《おっと、これは失敬…失敬。大変、失礼な失言でした。どうか気を悪くされないで下さいね》

 「おほほっ…戦前に建てられた建物なのですから、オンボロなのは充分に承知しておりますわ。それをふまえましてウチは家賃の安さをウリにしておりますから…」

 《ははは…あっ! それでですね、つかぬことをお伺いしますけど…一刻館の二号室は確か空き部屋でしたよね?》

 「はい。確かに二号室は現在(いま)は空き部屋となっておりますが、それがなにか…?」

 一刻館の二号室は…かつて手違いで一刻館に入居した“二階堂望(のぞみ)”が住んでいた部屋であった。地元の会社に就職するのに併(あわ)せて、三年前の桜が咲き始める春香が誕生する直前に二階堂は茨城の実家へと帰って行ったのである。

 その後…空き室となった二号室には幾人かの入居者が居たのだが、一号室(となり)の住人である一の瀬花枝とは相性が合わないのか…2~3ヶ月の頻度(ひんど)で住人がコロコロと代わっていき、半年ほど前に1ヶ月間だけ住んでいた若い女性を最後に、それ以来…二号室は空き部屋となっていた。

 《実は…その北海道から来る人を住まわすのは絶対に二号室にするように…と、保証人の方が強く指定されてきたんですよ》

 「えっ…!?」

 思わず響子は声を上擦らせる。住む部屋を指定されるとは、思いも寄らなかったからである。

 (わざわざ部屋を指定するだなんて…その保証人って、いったいどんな人なのかしら? 北海道から転勤する方の知人って言っていたけど…その代理人っていうのは、まさか一の瀬さん…?!)

 腑(ふ)に落ちない響子は、頭の中で憶測を駆け巡らせていた。一の瀬花枝は北海道出身である。もしもその転勤で東京(こちら)に転勤でやって来る北海道からの入居希望者が一の瀬の知人だとしたら…その知人に一の瀬が一刻館(ここ)を奨めたとしても、なんら不思議はない。そして空き部屋である二号室に住まわせるという事は一号室に住んでいる一の瀬とはすぐ隣同士という事となり、一の瀬にとってはなにかと都合が良いのかも知れないと響子はそう憶測する…。

 《もしもし…あの、もしもし? 五代さん、如何(いかが)なされましたか!?》

 頭の中で憶測を張り巡(めぐ)らせて暫し無言となる響子に、電話口の東雲が怪訝(けげん)そうにした。

 「いえっ、ごめんなさい…。今、少し考え事をしていたものですから……」

《あぁ…そうですか。では後ほど事務員(ウチ)の者に書類を持って行かせますんで、入居審査のほうを宜しくお願い致します》

 「はい、分かりました。それでは宜しくお願い致します…有難うございました」

 頭の中がモヤモヤとしながらも響子は、東雲に感謝の言葉を伝えると丁寧に電話を切った。

 (…北海道から来る転勤の方とその方に一刻館(ウチ)を紹介したという保証人だという人、なんか気になるわね。その保証人ってのは…やっぱり一の瀬さんで、東京(こちら)に転勤で来られる方って…一の瀬さんのお知り合いの方なのかしら…?)

 …詮索(せんさく)する響子は思いきって一の瀬に一度訊いてみようかと考えるが、寸前で押し留(とど)まった。一の瀬さん(あの人)の事である…吃驚(ビックリ)して驚く姿を見たいが為に、仮に訊(たず)ねたとしても話をはぐらかし惚(とぼ)けたフリをするに違いない…と。一の瀬の性格をよく知る響子は深い溜め息を吐くと、中断していた洗濯物を干す為に再び庭先へと出るのであった…。

 それから…およそ40分してから、賃貸契約書等の書類を携(たず)さえて時計坂不動産の女性事務員が一刻館を訪れた。

 まだ社会人として初々しさの残る20代前半の若い女性事務員を愛想の善い笑顔で出迎えると響子は、女性事務員を快く管理人室に招き入れる。お茶と茶菓子を勧(すす)め…他愛のない世間話をしながら、響子は女性事務員から新しい入居者についての簡単な説明を受けるのであった。

 およそ10数分間…滞在した後に書類の入った大きな茶封筒を響子に手渡すと、『それでは、宜しくお願い致します』と丁寧に頭を下げると女性事務員は一刻館を後にするのであった。

 女性事務員が帰った後…ちゃぶ台の前に座った響子は受け取った茶封筒の中から書類を取り出すと、改めて書類にじっくりと目を通した。

 「まぁ、やっぱり一の瀬さんが保証人だったのね。そして契約者は…あらまぁ♪ 一の瀬さんとこの妹さんご夫婦だわ♪」

 保証人欄(らん)に記入されていた“一の瀬花枝”の署名と捺(なつ)印に、響子は目を丸くさせる。そして契約者の欄に記入されていたよく知った名前に思わず笑みを漏らすのであった。

 

 3月31日…この日、響子は午前中から二号室の掃除をしていた。昨日に時計坂不動産から電話があって、明日の4月1日にも契約者が一刻館に引っ越してくるとの連絡が入ったからである。

 窓を開けて室内の空気を入れ換えて響子は、掃除機をかけて畳を雑巾掛けをする。

 「ねー、ママー、なにしてるの?」

 管理人室から出て来た春香が、二号室の掃除をする母親の様子を見に来た。

 「もうすぐここに新しい人が引っ越ししてくるから、お掃除してるのよ」

 「ふ~ん」

 「それより春香、どうしたの? 惣くん泣いてるの?」

 「ううん…そーいちろー、ちゃんと、ねんね、してるよー」

 「そう…良かった。ママは今お掃除中だから、ママの邪魔しちゃダメよ?」

 「あいっ♪」

 元気よく返事する春香に微笑むと、響子は再び手を動かして部屋の掃除を続けた。すると、そこに一の瀬が顔を覗かせにやって来た。

 「おんや管理人さん、どうしちゃったのさ? 急に二号室(ここ)の掃除なんかしちゃってさ。誰か、この部屋に引っ越しでもしてくるのかい…!?」

 部屋の掃除に勤しむ響子に、なに食わぬ顔で一の瀬が訊く。素知らぬ素振りを見せる一の瀬だが、その表情(かお)は悪質な悪戯(イタズラ)でも思いついた子供のようにニタニタとしていた。

 知って知らぬ素振りを見せる一の瀬に、なにを白々しい…と心に思いつつも顔や口に出さずに響子は平静を装(よそお)って畳の雑巾掛けを続けた。

 「えぇ。先日に不動産屋から連絡がありまして…転勤でこちらに来られる方が、明日にでも引っ越しさられるみたいですので…」

 「ふ~ん…そうなのかい?」

 「はい…でも正直、驚きましたわ。こちらに引っ越しされる方というのが…北海道から来られる方で、それも一の瀬さんの妹さん御夫婦でしたから…」

 このまま一の瀬に踊らされるのは癪(しゃく)なのか…気が強く負けん気も強い響子は、一の瀬にズバリと核心を突いた。

 「…っ!? ないだい、知ってたのかい。せっかく管理人さんの驚く顔が拝めると思ったのしさ…」

 よほど意表を突かれたのか…それまで飄々(ひょうひょう)としていた一の瀬の表情が途端に変わると、あからさまにがっかりして大きな溜め息を吐くのであった。

 「もう、私の驚く顔が見たいだなんて…相変わらずお人が悪いですよ」

 「あはは、そう怒んなさんって。それにしても、いったいどうゆう了見のつもりなんだろうねぇ…時計坂不動産(あそこ)は。管理人さんには内緒にするようにと…クチすっぱくして言ったのに、すぐ口外(バラ)すなんてさ。あそこの連中は、“守秘義務”ってゆう言葉を知らないのかねぇ…?」

 苦虫を潰した顔で愚痴(ぐち)をこぼす一の瀬に、響子は悪戯っぽく微笑(わら)う。

 「守秘義務もなにも…不動産屋から頂いた書類には、御夫婦のお名前と一の瀬さんのお名前が署名捺印されていましたので…」

 一瞬、しまった! と気まずい顔をして、一の瀬が笑いながら頭を掻いて誤魔化すのであった。

 「あはは、いやぁ…すっかり失念してたよ。そりゃあ書類に名前が書いてりゃ、すぐに判っちまうわな」

 「もぉ一の瀬さんったら…」

悪びれずに笑う一の瀬に、呆れた様子で響子が苦笑いする。

 「でもさ…その“夫婦(ふたり)”が、もし…この場に居たとしたら、さすがにあんたは驚くんじゃないのかい?!」

 ニヤリと一の瀬が、口の端(はし)を吊り上げて意味深な笑みを浮かべる。

 「ちょうど春香ちゃんもいる事だし…ほらあんた達、こっちに来て挨拶(あいさつ)しなっ」

 えっ…と響子が声をあげる。響子からは見えない死角となる廊下側から、一の瀬に促(うなが)されて一組の男女が響子の前に姿を現すのであった。

 響子と同世代の三十代前半の夫婦は揃(そろ)って、響子に頭を下げてお辞儀をした。

 「どうも五十嵐(いがらし)です、お久しぶりです。今日より、お世話になります奥さん…いえ“管理人さん”とお呼びしたほうがよろしいですよね?」

 「まあっ、昭和(あきかず)さんに咲子(さきこ)さん。ようこそいらっしゃって下さいましたわ。前もって連絡して頂ければ、昨日のうちにお掃除しましたのに…ごめんなさい。ご覧の通りまだお掃除の途中ですから、大変お目を汚して申し訳ありまんわ」

 朗らかな表情を浮かべて響子も、五十嵐夫婦にお辞儀を返した。

 「いえいえ、こちらこそ…急に押しかけたみたいで済みません。東京(こちら)に着いた時点でご連絡するつもりでいたのですが…その花枝義姉(ねえ)さんに、『管理人さんにサプライズして、ビックリさせるんだよっ!』と…きつく口止めをされまして、管理人さんに連絡させてもらえなかったのですよ」

 「ごめんなさい響子さん。姉さんってば…いい年齢(トシ)して、他人(ひと)を困らせては喜ぶ本当に子供っぽいヒトだから…」

 「コラッ! あんたらっ、余計なコトを言うんじゃないよッ!」

 呆(あき)れて苦笑する五十嵐夫妻に、一の瀬が強い口調で嗜(たしな)める。

 この二人は…、一の瀬花枝の義理の弟である五十嵐昭和とその妻で一の瀬花枝の実妹である咲子であった。

 四年前の裕作と響子の結婚式の時に、一の瀬花枝の親族として北海道より馳(は)せ参じて結婚式に参列した五十嵐夫妻を裕作と響子は一の瀬から紹介されたのである。

 結婚式の時に顔を合わせてから裕作と響子は五十嵐夫婦と知り合いとなり、お盆休みや年末年始のおりには…五十嵐夫妻は北海道より上京して一刻館に訪れるようになったのである。

 「本当に驚きましたわ…。でも昭和さんは東京(こちら)の会社に半年ほどのご転勤とお伺いしておりましたけど…単身赴任(ふにん)ではなく、ご家族揃ってでのお引っ越しなされたのですね?」

 北海道から東京へと半年ほどの転勤ならば、単身赴任という選択肢も有るのでは…と響子は率直に疑問に思っていた。

 その理由(わけ)を保証人である一の瀬が五十嵐夫妻になり代わって、響子に説明するのであった。

 「まっ単身赴任でも良いんだけど…ほら、子供がまだ小(ち)っちゃいからね。半年とはいえ、まだ幼い子供を父親と離(はな)れ離(ばな)れにさせるのも、なんか不憫(ふびん)で可哀想でね…。いっそのこと家族で引っ越しするようにと、先月に昭和くんから電話があった時にあたしが提案したのさ」

 「まぁ…そうでしたの」

 「まあ引っ越しとかの費用は全部、会社が負担してくれるって話だから…だったら一家揃って引っ越したほうが家族みずいらずに暮らせて、そのほうが良いだろ?」

 「でも確か…北海道(むこう)では、御両親の実家でご一緒に同居なされていたんですよね。ご実家のお父様とお母様は寂しがりません?」

 「あはは。ナイナイ、それはナイよ…」

 響子の言葉に、一の瀬が手を振りながら笑い飛ばす。

 「あたしの親父とお袋は、そんなヤワなタマじゃあないよ。むしろ久しぶりに夫婦二人っきりの時間を過ごせて、大喜びしてるくらいさ」

 「あらまぁ…」

 「でも姪(めい)っ子は、そういう訳にもいかないからねぇ…」

 照れて気恥ずかしいのか…妹の咲子の後ろに隠れている小さな女の子に、一の瀬が視線を送っていた。母親の後ろに隠れて照れた様子の顔だけを覗かせるその女の子に響子は気付いて、目線の高さに合わせて腰を屈(かが)めて目線の高さを合わせると響子は優しく女の子に微笑む。

 「こんにちは『晴夏(はるか)』ちゃん♪ お久しぶりね、お元気にしていた? お正月に会った時よりも、また大きくなったわね…♪」

 「ほらっ晴夏。今日から一刻館(ここ)に住んで、響子オバサンにお世話になりますから、ちゃんとご挨拶をしなさい」

 「こ、こんちは…きょうこオバサン…」

 「はい。こんにちは♪」

 母親の咲子に促されて小さな女の子は響子の前に出ると、緊張しているのか…ぎこちなく響子に挨拶する。

 …この女の子は、五十嵐夫妻の娘の五十嵐晴夏である。

 裕作と響子の娘の春香とは同い年の2歳であり…名前も『はるか』と、奇(く)しくも同じ名前なのである。

 四月に産まれ…春に香(かお)るの春香に対して、八月に産まれた晴夏は…夏のよく晴れた日に誕生したというのが名前の由来であった。

 咲子の娘に『晴夏』と名前を付けたのは、咲子の実姉の一の瀬花枝である。自分の“姪”にあたる子に漢字こそ違うものの裕作と響子の娘と同じ『はるか』と名付けるあたり、一の瀬らしいイタズラ心というか遊び心の溢れた命名であった。

 『春香』と『晴夏』…同じ読み名の『はるか』に“ややこやしいのでは…”と、身内の五十嵐夫婦は姉にあたる一の瀬に苦言を呈(てい)したものの…『な~に“春”のハルちゃん、“晴れ”のハルちゃんとでも呼んで区別すりゃいいさ』と当の本人は涼しい顔をして言ってのけるのであった。

 「ハルタンっ♪」

 響子に寄り添っていた春香が呼びかけると、晴夏は満面の笑顔を浮かべた。

「ハルチンっ♪」

 お互いに姿を確認して春香と晴夏は、お互いに歩み寄って抱きあった。

 春香と晴夏はとても仲の善いお友達である。東京と北海道…普段はお互いに遠く離れた場所に住んでいても、春香は晴夏を『ハルタン』と晴夏は春香を『ハルチン』と…二人は愛称で呼びあうほどの大の仲良しなのである。

 尤(もっと)も春香と晴夏にそう呼びあうように仕向けたのは、他(ほか)でもない一の瀬なのではあるが…。

 「ハルタン、いっしょに、あかちゃん、みよっ♪」

 「うんっ、ハルチン♪」

 春香は晴夏と仲良く手を繋ぐと、一緒に管理人室へと向かった。

 「二人の“はるか”ちゃんは、ホントに仲良しこよしだねぇ…。まるで本当の双子姉妹みたいだよ」

 肩を寄せあって管理人室に向かって廊下を歩く二人の小さな女の子の後ろ姿に、一の瀬は目を細めて見送っていた。

 「ばうっ! ばうばうーぅ」

 他に誰か来たらしく、外から犬の惣一郎さんが頻(しき)りに吠え声をあげていた。

 「どうやら、引っ越し屋さんが来たみたいだね」

 一の瀬がそう呟いたのと同時に観音開き型の玄関が大きく開け放たれて、数人の制服姿の引っ越し業者が玄関内に入ってきた。

 「ちわ~っす、コウノトリ引っ越し社です! 五十嵐様の引っ越し荷物をお持ちにあがりましたぁ! 二号室はどちらですか!?」

 「あぁ…ご苦労様。二号室はココだよ。それじゃあ宜しく頼んだよ」

 「はいっ、宜しくお願いしますっ。お~い、二号室はコッチだってよ!」

 一の瀬と言葉を交わして爽やかな笑顔のリーダー格の作業員が、他の作業員にテキパキと指示を出して引っ越し荷物の搬入作業を開始する。

 玄関内や廊下や壁に防護のブルーシートが張られて養生されると、玄関の上がり框(かまち)に防護マットが敷かれる。準備が整(ととの)うと、タンス等の家具類や梱包(こんぽう)されたダンボール類が二号室に次々と運び込まれていく。

 「それは…コッチだよ。そうそう…その食器棚は、ソコに置いといておくれ」

 「了解しましたぁ」

 普段は見せない真剣な表情の一の瀬が作業員に指示を出して、作業をしきっていた。一の瀬の指示に従い一切の無駄のない流麗な動きで淀(よど)みなく搬入作業を進める業者に、思わず呆気(あっけ)となった響子はその様子を見守っていた。

 「すぐに住むんだから、今日中に荷物を運び入れるように引っ越し業者に頼んでおいといたのさ。ほら昔から言うだろ? 『善は急げ』とか『思いたったら吉日』…ってね」

 呆気(あっけ)にとられた様子の響子に、一の瀬がニンマリとほくそ笑む。

 「管理人さん、今まで掃除してくれて有難うさん。引っ越し作業でまた汚れるから、作業が終わったら後は業者さんがキレイに掃除してくれるよ。それで悪いんだけど…、それまで晴夏ちゃんを管理人室で預かってくれないかいかな? 見てのとおり暫くゴチャゴチャとするからさ…終わったら、晴夏ちゃんを迎えに行くよ」

 「はい、判りましたわ。それでは、後は宜しくお願いしますね」

 両手に掃除道具を抱えると、響子は一の瀬に頭を下げる。管理人室に戻ろうとする響子の後ろから、一の瀬が声をかけて呼び止めた。

 「あっ、そうそう…妹たちの引っ越し祝いと歓迎会を兼(か)ねて、夕方から二号室(ここ)で宴会をするからさ。五代くんが帰ってきたら、ちゃんとそう伝えるんだよ!? 今は春休み中で園児は居ないから、定時で帰ってこれるんだろ? それじゃ、待ってるからね」

 「はい…では、そのように裕作さんに伝えますわ」

 振り返って一の瀬に頭を下げると、管理人室へと戻る響であった…。

 

 その日の夕方…園児たちが春休みの為…定時に仕事を終えて帰宅した裕作は響子の用意した部屋着に着替えると、ちゃぶ台の前で胡座(あぐら)をかいて座り寛(くつろ)いでいた。

 「えっ?! 五十嵐夫婦は、今日に引っ越したのか? 確か引っ越ししてくるのは…明日か、明後日(あさって)なんじゃあ…」

 右手に愛息を左手に愛娘を抱き抱えて…両手に花状態で二人の愛しい我が子を抱っこして腰を落ち着けていた裕作が、思わず驚きの声を上げていた。

 一の瀬の妹夫婦が北海道から引っ越してくるのを前もって響子から聞いていて知っていた裕作であったが、今日に引っ越してきたと響子から聞いていささか吃驚(ビックリ)した様子であった。

 「えぇ…二号室(へや)の掃除をしている最中に一の瀬さんがサプライズとか言って昭和さんと咲子さんと一緒にお見えになって、その直後に引っ越し屋さんも見えて、あれよあれよと言うまに一の瀬さんが主導して事を進めましたから」

 「サプライズ…か。らしいと言えばらしいけど…“あの人”には、毎度のように振り回されているよな俺たちって…」

 まんまと一の瀬に踊らせられた裕作と響子は、顔を見合せると互いに苦笑するのであった。

 「あたしは正直、驚きましたけど…春香は大喜びしていましたわ。ねー春香?」

 「あいっ♪ そーいちろーと、いっしょに、ハルタンと、いっぱい、あそんだのー♪」

 裕作の左手で抱き支えられて左膝にちょこんとお尻を乗せる春香が、満面の笑顔で父親に答える。

 「そうかそうか晴ちゃんと、いっぱい遊んだのかい…よかったね春香。惣一郎も、晴ちゃんと遊んで楽しかったかい?」

 右手に抱き抱える惣一郎に裕作がにこやかに訊くと、嬉しそうに惣一郎は『だぁっ♪』と返事をするのであった。

 「…それでか。だから今日の晩御飯は、シンプルにオニギリと味噌汁だけなのか…」

 ちゃぶ台の上に置かれるサランラップの被(かぶ)せられた揚げ物などの盛られた幾(いく)つかの皿に、フゥ…と溜め息を吐いて裕作は眺める。

 ちゃぶ台には幾つかの小皿に盛られた鶏の唐揚げやエビフライ等の揚げ物やボイルしたソーセージが置かれていたのだが…それらの皿にはサランラップが被せられていて、本日の夕食は小さめのオニギリが二つに沢庵(タクアン)と蜆(しじみ)の味噌汁の食事というよりは小腹を満たす軽食の内容であった。

 「一の瀬さんから、夕方から昭和さんと咲子さんの歓迎会をするからと言われたんですよ…。一の瀬さん達から、たくさんお酒をたくさん呑まされるでしょ? 空腹で呑むお酒は体には、ものすごく悪いから少しは胃に食べ物を詰めないと…」

 「うん、有難う…俺の体を気遣ってくれて」

 妻・響子の優しい気遣いに、裕作は感謝の言葉を口にした。

 その時…外側からドアがドンドンドンと乱暴にノックされて勢いよくドアが開かれると、一の瀬が管理人室にヅカヅカと上がり込むのであった。

 「ちょいとお邪魔するよ、管理人さん…おや?! 五代くん、帰ってきているね」

 「な…な…な……っ」

 あまりの突然な事に、裕作は目を白黒とさせて口をパクパクさせる。

 「なんだい…人をまるで幽霊でも、見てるような目で見てさ…そんなに驚くこともないだろ!?」

 「い…いきなり来られたら、誰だって驚きますよっ! なんですか、いきなりやって来て…『親しき仲にも礼儀あり』って言葉を知らないんですか!? あんたは…」

 「知らないね…そんな野暮ったい言葉は」

 なにくわぬ顔をして、一の瀬は平然として言う。

 「そんな事よりも今日…妹たちが引っ越してきたのは、管理人さんから聞いてもう知ってんだろ? もう宴会おっぱじめてるから、迎えに来たんだよ。ほらほら…あんたには管理人さんの旦那として挨拶してもらわなきゃいけないから、早く二号室(へや)に来なよ」

 “宴会”という聞き慣れない言葉に、春香が目をパチパチさせる。

「えんかい…? えんかいって、なーに?」

 「ほら…この前、春香ちゃんの雛祭りの時に、みんなで食べたり飲んだりしてワイワイ楽しく騒いでいたアレだよ。それを今度は二号室でやるんだよ」

 「わーい♪ えんかい、えんかいー♪」

 一の瀬の説明に…楽しい事の大好きな春香は宴会の意味を知ると、はしゃいで大喜びする。

 「ねーねーパパ、はやくいこっ♪ はるか、えんかい、したーい♪」

「分かった、分かったよ…」

 早く宴会を楽しみたい春香が早く早くと、裕作にせがむ。娘にせがまれた裕作はヤレヤレといった様子で立ち上がった。

 「それじゃあ…響子、行ってくるよ」

 「はい。それではあたしも、後から行きますわ」

 「管理人さん、なるべく早く来なよ…。酒ばっかりだと、みんな物足らないんだからさ」

 ちゃぶ台に置かれるサランラップを被さられた小料理の皿の山を見て、一の瀬が響子に催促するのであった。

 「はいはい…なるべく早く参りますわ」

 惣一郎を抱き抱える裕作は、一の瀬と春香にせがまれながら二号室に向かうのであった…。

 

 惣一郎を抱っこする裕作と春香が一の瀬と共に二号室を訪れると、二号室の新しい住人となる五十嵐一家の他に先客として訪れていた四谷と朱美の姿があった。部屋の中央に在(あ)る座卓の上には酒類の瓶に鯣(スルメ)に酢ダコといった肴(サカナ)が盛られた幾つかの皿が乱雑に置かれていて、既に盛り上がっている様相を呈(てい)していた。

 二号室(へや)に入るまでは…強引な一の瀬の来訪で仏頂面としていた裕作だったが…一刻館の新規住人となった五十嵐夫妻の前では、普段の優しい表情で和やかに挨拶した。

 「お久しぶりです。昭和さん、咲子さん」

 「裕作さん、春ちゃん、惣一郎くん、いらっしゃい。こちらこそ、お久しぶりです。半年ほどですが…今日より妻と娘と共々、こちらでお世話になります」

 年上である昭和の畏(かしこ)まった挨拶に、裕作は気恥ずかしくなった。

 「そんな昭和さん…年下の僕に“さん”付けで呼ばれて丁寧語で話されると、なんか恐縮してしまいますよ」

 「ははっ…ボクはこういう性分なので、気になさらないで下さいね」

 そう言って昭和が微少(わら)うと、つられて裕作も微笑う。

 「裕作さん…せっかく家族団欒(だんらん)で寛いでいたところ、急いで来てもらってごめんなさい。どうせ姉さんのことだから、押しかけて無理矢理に急かしたんだと思うけど…ごめんなさいね。姉さんってば、本当に他人の迷惑を省(かえり)みない人なんだから…」

 「いえいえ…いつも事ですので、もう慣れっこですよ」

 姉妹だけあって顔立ちや背格好は姉の花枝とよく似た咲子ではあるが、年齢(とし)が遠く離れているせいか…性格は真逆で淑(しと)やかで物事の分別のついた良識人であった。

 破天荒な姉に困ったように苦笑いする咲子に、同じ血を分ける姉妹でもこうも違うのかと…内心失礼な事を思いつつも裕作は咲子に愛想笑いを返すのであった。

 「まだ引っ越しの荷物でごちゃごちゃしていますけど…、どうぞお上がり下さいな」

 「はい。それでは、遠慮なくお邪魔します」

 咲子に勧(すす)められた裕作は、春香と一緒に部屋へと入った。部屋の隅(すみ)に手付かずのダンボール箱がいくつか置かれていたが家具やテレビ等はきちんと設置されており…つい昨日までガランとした殺風景な何もない空間であった二号室は、既に生活感の溢れる空間となっていた。

 「ヤッホー五代くんっ♪ 思ったよりも来るのが早かったじゃん♪」

 座卓の前で胡座をかき咲子の娘の晴夏を膝に乗せている朱美は、片手に持った500miビール缶を掲げてご機嫌な表情で裕作を見上げた。

 「今は春休み期間中で園児たちは居ませんからね…ですので、定時で帰れたんですよ」

 「へえ~…園児が春休みでも、アンタはちゃんと保育園に行って真面目に仕事してんだ?」

 意外そうな顔をする朱美に、思わず裕作は苦笑いした。

 「園児は春休みでも…仕事はありますからね。むしろ園児が居て出来なかった仕事が山積みなのですから…」

 「アハハ…それはご苦労さん。ところで、春香ちゃんと惣一郎くんと一緒に来たけどさ…管理人さんはどったのぉ? 一緒に来なかったの?」

 「心配しなくても後から料理を持って来ますよ。そのお蔭で今日の夕食は、オニギリでしたけどね…」

 「あははっ、そいつは悪かったねぇ…よしっ五代くん! それじゃあ、そのぶん呑もう! トコトン呑もうじゃないかっ!!」

 ガハハと笑って一の瀬は、裕作の背中をバンバンと叩く。

 「ささっ五代くん、早く座って座って」

 「ほらほら…いつまでも突っ立ってないで、五代くんもさっさと座んなよ。ほらっ、一の瀬さんも春香ちゃんも早く座って」

 先客として座卓の前に座って酒を煽り呑む四谷と朱美が、裕作と春香と一の瀬に座るように促(うなが)した。

 裕作が来る前からもうだいぶ呑んでいたのだろう…四谷も朱美も既に出来上がっていて顔をだいぶ赤くさせていたのである。

 四谷はまあ分かるのだが…この場に居る朱美の姿に、裕作はぶしつけな眼差しを朱美に向けるのであった。

 「ん~? あによ…その目は!? 言いたい事があんなら、ハッキリ言いなよ」

 「べっ別に……」

 真っ赤に顔を紅潮させた朱美が据(す)わった目で裕作を睨(にら)み付けると、その凄(すご)んだ視線に気圧(けお)されて裕作は朱美から顔を背(そむ)けた。

 「まっ、なにを言いたいのかはだいたい想像つくけどさ…だけど、おあいにくさま。今日アタシは、元々仕事休みだから」

 憮然(ぶぜん)と朱美が言い捨てると、なるほどと裕作は納得する。

 予定よりも早く五十嵐一家が急に一刻館に引っ越ししたのは、朱美の仕事が休みの日に合わせて引っ越し祝いという名の宴会をする為に一の瀬が仕組んだという事を…。

 段取りというか…根回しが良い一の瀬の手際の良さに、妙に感心する裕作であった…。

 

 裕作に遅れること数分後…色とりどりの料理を載せた大きなお盆を持った響子が遅れて二号室を訪れると、本格的に五十嵐家引っ越し祝いという名の宴会が始まったのである。

 「おぉ…昭和さん! なかなか好(よ)い呑みっぷりではありまんか!?」

 「あはは…花枝義姉さんに、しこたま鍛えられましたので…」

 豪快にコップの酒を飲み干す昭和に、感嘆とする四谷が昭和の手にする空のコップにすぐに酒を注ぐ。

 「何しろ昭和くんは、咲子と結婚するまでは一滴も酒を呑めない全(まった)くの下戸(げこ)だったからねぇ…。酒も満足に呑めないような男が大事な妹と結婚するのも、あたしの義弟(おとうと)となるのも…断固として認めるわけにいかないからね。言うなれば…あたしが手塩を掛けて、昭和くんを呑兵衛に育て上げたようなもんさ♪」

 ほろ酔い状態で上機嫌な一の瀬が、誇らしげに胸を張った。その左胸には先の雛祭りパーティーの時…息子の賢太郎から贈られた純銀のブローチが、綺羅(きら)びやな光を放って輝いていた。息子からのプレゼントであるこのブローチを一の瀬は宝物のように大切にしていて、こうした祝いの場の席では必ずこのブローチを服の左胸に着けるのであった。

 「もぉ~五代くん。いくら晩御飯がオニギリだからって…食べてばっかじゃなくて、もっと呑みなよ。ほら管理人さんもさ、もっと呑んで呑んで♪」

 飲酒もそこそこに食べるほうに集中する裕作に、一升瓶を片手にした朱美が執拗(しつよう)に絡んでくる。

 「はい…。頂いておりますわ」

 そう言って響子は、咲子の出してくれた烏龍茶をコクコクと飲むのであった。

 「んもぅ~アタシが言ってんのは…そんなウーロン茶じゃなくって、酒も呑みなって言ってんのっ!」

 「ハァッ!? なにバカな事を言ってるんですか、朱美さん? 響子は今、授乳期なんですよ! 母乳を通して赤ん坊に悪影響が出るから、お酒なんか呑める訳ないでしょがッ!!」

 「えぇ~!? 少しくらい呑んでも良いじゃん? ちょびっとくらいなら…別に問題ないって。影響でるってんのなら…逆に赤ちゃんのうちから酒に慣(な)らしておいたほうが、惣一郎くんが大人になった時にすぐにお酒に馴染んで、かえって好都合じゃん?」

 あっけらかんと悪びれない朱美に、まさに開いた口の塞(ふさ)がらない状態で裕作は呆れ返っていた。

 「朱美さんッ! いくら酔っているとはいえ…悪い冗談にもほどがありますよっ!!」

 「まあまあ五代くん、そう興奮しなさんなって…。ほらっ、少しは呑んで落ち着きなって」

 「そうですぞ五代くん。せっかくの五十嵐家のお引っ越しを祝う場なのですから、ここはひとつ穏便に和やかにして…この場を愉しもうではありませんか?」

 興奮していきり立つ裕作を、一の瀬と四谷が穏やかに宥(なだ)める。『まあまあ…』と宥めながら四谷が裕作の持った空のコップに酒を注(そそ)ぐと、“ソレ”を裕作は仏頂面で一気に呑み干すのであった…。

 「やんや、やんや♪」

 「ちゃかぽこ、ちゃかぽこ…♪」

 すっかりと酔いどれる四谷は咥わえた割り箸(ばし)の先に銚子を乗せてのタコ踊りをすると、負けじと一の瀬も広げた日の丸扇子(せんす)を両手に持っての陽気な舞いを披露(ひろう)して場を盛り上げていた。

 「おいしー♪」

 「ねっ♪ ママの、りょーり、おいしーでしょ?」

 それまで朱美の膝に座っていた晴夏は、朱美から離れて春香と並んでちゃぶ台の前に座っていた。とても仲の善い姉妹のように隣同士に座って、春香と晴夏はオレンジジュースを飲みながらエビフライや卵焼きを美味しそうに食べていた。

 「滅多に会ってないのに…ウチの晴夏と響子さんのところの春ちゃんはホントに仲良しで、まるで本当の姉妹のようですわね。ねぇ響子さん…?」

 「えぇ咲子さん…春香と晴ちゃんは、本当に本当の姉妹のようですわ…」

 響子と咲子の二人は、本当の姉妹のように仲の善い二人の女の子を微笑ましく見守っていた。

 …そして先ほどまで響子が腕の中で抱いていた息子の惣一郎は今は朱美が抱っこしていて、とびっきりの笑顔で朱美は惣一郎をあやしていた。

 「きゃっ、きゃっ、だぁだぁ♪」

 「あ~ん惣一郎くん、カワイ~♪」

 勤め先のスナック茶々丸のマスターとは内縁の妻の関係である朱美であるが…夫であるマスターとの間(あいだ)には、まだ子は成(な)していなかった。

 周囲には…だらしのない印象を与える朱美ではあるが、ちゃらんぽらんとした見た目とは裏腹に意外にも朱美は他人への面倒見が良いのであった。

 茶々丸(みせ)の客の子供や従業員の子供の面倒をよくみている朱美は、特に小さな子供の世話をするのが大好きな子煩悩(ぼんのう)な一面を持っていたのである。

 いささか普段の…特に酔った時の言動には問題児な朱美だが、幼い春香と赤ん坊の惣一郎の面倒をよく見て遊び相手をしてくれるので、春香も惣一郎も朱美にはよく懐いていたのである。

 満悦な表情で朱美が赤ん坊をあやし…朱美に抱っこされて嬉しそうな声を上げる愛息・惣一郎の微笑ましい光景を眺めながら、裕作がコップに口をつけて酒を咽喉(のど)に流し込んだた…その時であった。

 「ぶふぉッ!?」

 次の瞬間…裕作は口腔(くち)に含んだ酒を盛大に噴き出すと、ゲホッゲホッ…っとむせ込んだ。

 「キャッ!? ゆ、裕作さんっ…、大丈夫ですか!?」

 気管支に酒が侵入(はい)って激しくむせ込んだ裕作に、慌てた様子で響子が裕作の背中を擦(さす)って優しく介抱する。

 酔った勢いでなのか、それともノリでなのか…服を豪快に捲(まく)り上げた朱美が露出させた乳房に惣一郎の顔を寄せると、惣一郎のその小さな口に乳首を含ませ吸わせていたのである。

 「やあぁ~ん、惣一郎くぅんったらぁ…♪ アタシお乳まだ出ないのに、そんなに夢中に吸っちゃってぇん…カワイィ~~ん♪ そんなにアタシの乳首って、美味ちぃの?」

 母乳の出ない乳首を懸命にチューチューと吸う健気な惣一郎に、ご満悦な表情の朱美が黄色い声を上げていた。

 「んも~ぉ♪ 惣一郎くんってば、ホントに甘えん坊さんだね~。ママ以外のオッパイにも夢中でむしゃぶりつくなんてカワイ~♪ 図体は大っきいのに大きなお人形さんみたいで…やぁん、カワイ~♪ ホント可愛(かあ)い過ぎるぅ~♪♪」

 夢中となって乳首を吸う無邪気な惣一郎に、満面の笑みを浮かべて朱美は愛しそうに見つめる。

 「ちょっ、朱美さんっ! アンタ…ウチの息子にナニさせとんじゃぁああ!!」

 惣一郎に乳首を吸わせている朱美の姿に、驚いた裕作が血相を変えて慌てて詰め寄った。

 「ナニ…って、見りゃ判かんでしょ? スキンシップよ、スキンシップ♪ やっぱり赤ちゃんとのスキンシップは、コレが一番よねぇ~♪」

 平然とする朱美が、あっけらかんと言う。

 「なっ、なにがスキンシップですか!? とにかくウチの惣一郎にヘンなことをしないで下さいっ!!」

 物凄い剣幕をした裕作が朱美の腕から惣一郎を取り上げると、惣一郎を響子に抱かせるのであった。

 「あ゛ーっ?! だぁーっ、だーっ!」

 よっぽど朱美の乳房が気にいっていたのか…一番安心する母親の響子の腕に抱かれているにも関わらず、惣一郎は不満そうな声を出しながら、朱美に向ける小さな両手をバタバタとさせていた。

 「ヘンとは失礼ねー。そりゃあ管理人さんのと比べたら…見劣りするのかもしんないけどさー、こう見えてもアタシも胸にはちょっとは自信あんだよ? ほらぁどぉ? アタシのオッパイ、けっこー大きいでしょ? それにまだ旦那の子供を産んでないから…乳首だって、キレイなピンク色しているっしょ♪」

 フフンと鼻を鳴らして…得意気な表情を浮かべる朱美は左右から両手で乳房を圧(お)して強調させると、これ見よがしにと裕作に見せつけた。

 「酔ってるとはいえ…悪ふざけが過ぎますよ、朱美さんっ! いいかげん、さっさと服を直して胸を仕舞って下さいッ!!」

 顔を真っ赤にして視線を背ける裕作に、ムスッと朱美が唇を尖らせる。

 「なにさ、管理人さんと結婚する前までは散々アタシのオッパイ見てたクセに…今じゃあ見る価値も無いってぇの!?」

 「あれは、アンタが勝手に見せつけていただけだろ…! こっちは目のやり場に困って、迷惑していたんです! それよりもいいかげん、早く胸を仕舞って下さい」

 「ふ~ん、迷惑してたんだ? でもさぁ…惣一郎くんは、アタシのオッパイをけっこう気にいってるみたいだけど?」

 母親・響子の両腕に愛しく包まれて抱かれている惣一郎は、いまだ露出したままの朱美の両乳房に物欲しそうな眼差しでジーと凝視していた。

 「もお…惣くんったら、そんなにオッパイが欲しいの? だったら、ママのオッパイをあげますからねぇ~♪」

 朱美の胸を物欲しそうに眺める息子にクスりと微笑(わら)うと響子は、惣一郎の体を片腕で支えながらもう片方の手で服を捲り上げて乳房を露出させる。すると惣一郎が待ってましたと言わんばかりの勢いで、乳首に吸いついて美味しそうに母乳を飲み始めるのであった。

 「あはは…どうやら惣一郎くんは朱美さんのオッパイよりも、ちゃんと母乳の出る母親(管理人さん)のオッパイのほうがお好きみたいだね…」

 「なんかちょっと悔しい気もするけど…まっ、仕方ないか。赤ん坊にとって、母親のオッパイがなにより一番かもね」

 「母乳を飲む赤ん坊を愛しげに抱く母親の姿…なんとも、神々しい光景でありますなぁ」

 我が子に授乳する響子の姿に、一の瀬たちは目を細めて微笑ましく穏やかに見見守っていた。

 「だぁぁあああーーーっ響子っ! なに堂々と、人前で惣一郎にお乳をあげているんだよ!?」

 一の瀬たちだけではなく、四谷や昭和の前でも憚らずに乳房を露出させて惣一郎に授乳する響子に、焦(あせ)った裕作が慌てふためく。

 「あらヤダ、あたしったら…大変お見苦しいモノをお見せして、失礼致しましたわ。おほほほ…」

 いそいそと惣一郎に授乳させたまま響子は部屋の片隅に移動すると、背中を向けて座り惣一郎に母乳を与える。

 「なに言ってんのさ…あんたのオッパイは、とても二人も子供を産んだとは思えない綺麗なオッパイだよ」

 「やっぱ美人でスタイル良いと特だよね~♪ ちょっと黒ずんでキショい乳首だけど、型崩れしてない良い形のオッパイだよね~♪」

 「そうそう、お見苦しいだなんて…とんでもない。豊満な膨らみに艶(あで)やかに色づいたアズキ色の乳首…まさに管理人さんのオッパイは、妖艶な熟女の魅力の詰まった素晴らしい美乳でありますぞ!」

 口々に一の瀬たちが、響子の胸を褒(ほ)め称(たた)える。

 「あ、あんたらっ! なに子供たちの前で、オッパイだとか乳首だとかと口走っているんですか! 破廉恥(ハレンチ)過ぎますっ!!」

 春香や晴夏の前で下品な言葉を連呼する一の瀬たちに、裕作がコメカミに青筋をたてて強い口調で嗜める。

 「な~に熱くなってんのよ~? 今時そんな言葉くらい真っ昼間のテレビでも、平気で言ってるってぇの…」

 涼しい顔して朱美は、平然と言う。

 「あんたは~~っ」

 プルプルと震わせる裕作のその肩に、四谷がそっと手を乗せた。

 「…五代くん。正直、キミが羨(うらや)ましいですぞ……」

 「はいぃ? なんですか、やぶからぼうに…」

 「いえなに…日中は惣一郎くんの為だけにある管理人さんのそのたわわに実った素晴らしい乳房は夜ともなれば、今度はキミが惣一郎くんになりかわって好き放題に愛でているのですから、世の男性たちからすれば羨ましさを通り越して妬(ねた)ましい限りなのですよ?」

 「………」

 厭(いや)らしい表情で四谷が思いっきり下卑た笑みを浮かべると、無言の裕作が鋭い視線で四谷を睨(にら)みつける。

 「……四谷さん、あんたを思いっきりブン殴っても良いですか…!?」

 「おぉっと、恐(こわ)い恐い…冗談ですよ、冗談。愉しい酒の席での他愛ない戯(ざ)れ言(ごと)に、なに真(ま)に受けて本気にで怒ってるんです?」

 グッと力を込めて握り拳(こぶし)を誇示させる裕作に、四谷は両方の掌(てのひら)を裕作に向けて身を怯(ひる)ませた。

 「五代くん、五代くん。今日の宴会は妹夫婦を歓迎する無礼講なんだからさ…そんな戯言(たわごと)に、いちいち真に受けなくて今日くらい大目に聞き流してやんなよ…」

 「そーそー。無礼講だよ、ぶ・れ・い・こ・う…。んにしても…管理人さんと結婚してからの五代くんってさ、なんかクソ真面目ってゆーか…ジョークも理解しない本当にツマンナイ男に成り果てたよねぇー」

 四谷を擁護(ようご)する一の瀬と朱美が、すかさず裕作を口撃した。

 「…昔っから、僕は真面目ですってば!」

 裕作は目と歯をむいて反論する。

 「はいはい、分かった分かった。アンタが優柔不断のエセ真面目だってぇのは、昔っから知ってっから…。どーでもいいから、ほら呑んで呑んで♪」

 「少しは…僕の話を……むぐぅっ!?」

 まだ文句を言い足りない裕作の口に、朱美がなみなみと酒の入ったコップを押しつけると強引に酒を呑ませた。

 …そんな裕作たちの掛け合いに、五十嵐夫妻は困惑気味であったが…どこか愉しげな様子で見守り、春香と晴夏の二人の『はるか』は楽しくお喋りをしながら卵焼きや焼いたソーセージを仲良く食べていた。そして部屋の片隅で皆に背を向けて座る響子は、惣一郎の授乳を続けるのであった。

 

 五十嵐夫妻の引っ越し祝いの宴会は…結局、夜遅くまで続いた。大いに食べて呑んで、大いに騒いで盛り上がる…一刻館では、当たり前の日常茶飯事の光景なのである。

 結局…意志が弱く優柔不断な裕作は、一の瀬たちが酔い潰れて眠りこけるまで付き合わされたのである。これもまた…、一刻館のごくありふれた日常であった。

 いつものように宴会翌日の朝を二日酔い状態で迎えた裕作は頭痛で重たい頭を自ら叩くと気合いを入れ直して、しいの実保育園へと出勤したのである……。

 

参 春香(ハルチン)と晴夏(ハルタン)

 

 ミーン、ミーン…と蝉(セミ)の大合唱があちらこちらでこだまして、燦々(さんさん)と輝く太陽がジリジリと地面を熱く照りつける。

 8月に入ってからは連日のように、茹(う)だるような日が続いていた。時おり熱気を含んだ風が吹いては、軒下に吊るした風鈴を揺らしチリーン…チリリーン…と、気休め程度の涼しげな音を鳴らす。

 「ふぅ…今日も、暑くなりそうね…。お洗濯がすぐに乾くから良いんだけど、毎日こうも暑い日ばっかり続くと気が滅入(めい)っちゃうわね…」

 洗濯物を干し終えて額に汗の玉を浮かべる響子が右手を腰に添(そ)えて上体を反(そ)らし左手の甲(こう)を額に当てると、雲ひとつ浮かんでいない清みきった青空を見上げた。

 「そうだわ…! 水を撒(ま)いておけば、少しは涼しく感じるのかも…」

 庭の片隅の水栓柱にホースを繋いで水を撒こうと水栓を捻(ひね)った時、ふと響子がある事を思い出す。

 「いけない、いけない…その前に、惣一郎さんにお水をあげなくっちゃ」

 手にしたホースを地面に置くと、響子は玄関口に廻(まわ)って犬小屋へと向かうのであった。

 犬小屋の惣一郎さんの様子を響子が見に窺(うかが)うと、犬小屋から頭だけを出した惣一郎さんがぐったりとした様子で顎を地面に着けていた。

 響子の気配と足音に気付くと惣一郎さんが一瞬…頭を持ち上げて響子の方向に顔を向けたが、すぐに正面に向き直すと再び顎を地面にベタンと着けるのであった。

 「惣一郎さんっ♪」

 響子の声に惣一郎さんは耳をピクンと動かすが、連日の猛暑に暑気(しょき)あたりを起こして夏バテをしているのであろう…響子の呼びかけにも、惣一郎さんは鳴き声をあげずに力無く開いた口から舌をだらんと垂らして、ハッハッハッ…と辛そうに息を切らすのであった。

 「惣一郎さん…少し待ってて下さいね、今お水を持ってきますから」

 夏バテ状態の惣一郎さんにそう言い聞かせると響子は、犬小屋の側の地面で裏返しとなっている底の深い水専用の容器を拾い上げる。容器を持って裏庭の水栓柱の所へと戻ると響子は、水道の蛇口を捻って水を出し、容器いっぱいに水で満たすと響子は再び惣一郎さんの所に戻り、水で満たされた容器を惣一郎さんの目の前に置いた。

 「はい…お水ですよ、どうぞ惣一郎さん」

 

 水に餓(う)えていた惣一郎さんは飛びつくような勢いで容器に口を突っ込むと、一心不乱に水を飲む。容器いっぱいに満たされた水は瞬(またた)く間(ま)に水嵩(みずかさ)が減ってゆくと…あっという間に、惣一郎さんは容器の中の水を全て飲み尽くしていった。

 「ばうっ♪ ばう、ばうーっ♪」

 水分補給して火照った体が幾分クールダウンされたのか…少し元気を取り戻した惣一郎さんが甘えた吠え声を出して、響子に水のお代わりをねだる。

 「はいはい、すぐに持って来ますね…」

 空の容器を持って水道から水を補充した響子は、惣一郎の前に水の入った容器を置いた。先ほどと同じ勢いで貪(むさぼ)るように水を飲む惣一郎さんに、可笑しそうに響子が微笑う。

 「もぉ~惣一郎さん…そんなにいっぺんに、勢いよくお水を飲んだら、お腹を壊しますよ?」

 まるで幼子を諭(さと)すように優しい口調で響子が言うと、言葉を理解したのか…惣一郎さんは勢いよく飲むのを止(や)めて、仔犬がミルクを飲むようにペロペロと舌で掬(すく)って水を飲むのであった。

 惣一郎さんに水を与えて飲ました響子は裏庭へと戻り、水栓を開きホースの先端を持っての撒水(さんすい)を始めた。ホースの先端部を指で圧してひしゃげさせながら撒水の範囲と水の勢いをつけさせて、響子はホースの先端部を右に左に振っては、裏庭にまんべんなく水を撒いていく。

 鼻歌混じりに響子が撒水をしていると、裏庭と管理人室を隔(へだ)てている網戸が開いて、春香がサンダルを履(は)いて外に出てきた。

 「ママー、はるかも、おてつだい、するー♪」

 肩紐の桃色の薄いキャミソールに若草色のミニスカートといった夏らしい涼しげな服装の春香が、縁側に置かれていた小さめのプラスチック製の如雨露(じょうろ)を手に持つ。

 「春香、お帽子は? お外は暑いから、お帽子を被(かぶ)りなさい」

 「おぼーし、なくても、へーきだもんっ♪」

 どうやら帽子を被るのが煩(わずら)わしく…帽子は要らないと、春香はイヤイヤと首を横に振った。

 「ダメですっ! 日射病になるから、ちゃんとお帽子を被りなさい。もし日射病になったら…病院に行って、お医者さんにお注射を射(う)たれちゃうわよ?」

 「…!! いやーっ、おちゅーしゃ、やーーッ!!」

 母親の口から出た“注射”という言葉に、注射が苦手な春香が慌てて帽子を取りに管理人室(へや)に戻るのであった。

 「春香、惣一郎は…? おとなしくしているの?」

 麦わら帽子を被って戻ってきた春香に、響子は惣一郎の様子を訊いてみる。

 「うんっ♪ おとなしくしてるよー♪」

 そう言いながら春香は、網戸の向こう側の惣一郎に指を指した。

 裏庭と網戸を挟んだ管理人室(へや)側では、畳の上に足を開いてお尻と両手を着けた惣一郎が扇風機の前に陣取ってお座りしていた。

 一定間隔で左右に首を振りながら風を送る扇風機に、好奇心の旺盛(おうせい)な目でその動きを追う惣一郎は右から左に…そしてまた右にと、扇風機の動きに合わせて同じように惣一郎は首を振って動かしていた。

 「あら珍しい…」

 扇風機の前でおとなしく座る息子の物静かな様子に、響子が目を丸くさせた。

 先日…初めての誕生日を迎えて満一歳となった惣一郎は、姉の春香に負けず劣らずの活発で元気な子になっていた。管理人室(へや)中を縦横無尽にハイハイで駆け回り、ハイハイだけではなく…近頃は畳に両手を着けて立ち上がると、短い距離ながらも惣一郎はヨチヨチと歩くようにもなっていたのである。一歳となって…より活発で行動的になった息子の惣一郎に、ますます響子は目が離せなくなっていた。そんな息子の意外にもおとなしい様子に、響子はいささか驚いていた。

 「あんなに夢中で扇風機を眺めるなんて…よっぽど、扇風機が気に入ったのかしら?」

 扇風機の前で鎮座(ちんざ)して左右に首を振る扇風機の動きに真似をして左右に首を振る無邪気な息子に、優しい微笑みを漏らす響子は、温かい眼差しで愛息・惣一郎の姿を見守った。

 扇風機の前面ガードの隙間からイタズラして指を挿(い)れた春香や惣一郎がケガをしないように、扇風機の頭は網目の細かい安全ネットで覆(おお)っていて安全対策は万全である。それに加えて管理人室と裏庭を隔てているのは網戸であり、何かあって惣一郎が泣き出しても、惣一郎の許へとすぐに響子は駆けつけれるのであった。

 そんな安心感に包まれて響子は心おきなく、裏庭に撒水をするのであった。

 「おはなさん、おはなさん、おみず、いっぱいのんでねっ♪」

 植木鉢(ばち)のアサガオや向日葵(ヒマワリ)だけではなく…裏庭に自生しているシロツメクサ等の多年草にも、如雨露を手にする春香は満面の笑顔で水をあげていた。

 「こんにちは。管理人さん、春香ちゃん」

 …と、そこに一の瀬と一の瀬の妹で夫の転勤により北海道から東京へと家族共々に引っ越しして…現在は一刻館の二号室の住人となっている五十嵐咲子と咲子の娘の晴夏と共に顔を覗かせに裏庭へとやって来た。

 「あらっ…一の瀬さん、咲子さん、こんにちは。晴ちゃんも、こんにちは」

 ホースを手にしたまま、響子は会釈する。

 「いや~全く毎日毎日、嫌になっちまうぐらい暑いねぇ…。こうも毎日暑いと干からびちまうよ」

 両手に大きなダンボール箱を抱き抱えた一の瀬が苦笑いした。

 「一の瀬さん、その箱は…?」

 一の瀬の抱えるダンボール箱に気付いて、響子の視線が自然と向く。

 「あぁ、これかい? 実は昨日さ…北海道(じっか)の両親から宅配便で送られてきたモノなんだけどね、管理人さんにもお裾分けだと思ってさ…」

 そう言って、一の瀬は両手に抱えるダンボール箱をズイッと響子に差し出した。大きなダンボール箱の中身は、トマトや茄子(ナス)…ニンジンに大根といった野菜がいっぱいに詰め込まれていた。

 「まあまあ、こんないっぱい頂いても…よろしいのですか?」

 その量の多さに、響子は驚いて目を丸くさせる。

 「いいって、いいって。何しろ実家は北海道でもド田舎の所(ほう)でね、土地だけはムダに広いのさ。ウチの親父はとっくの昔に定年退職してんだけどさぁ…毎日ヒマしてるからって、道楽まがいに家庭菜園やって農家の真似事してんだよ。んで今年は、なんか例年になく大豊作だったみたいでさ…あたしと咲子の所にたくさん送ってきたってわけなのさ…」

 一の瀬は笑いながら、話を続ける。

 「いくら大豊作だからって、ウチは父ちゃんと今は二人っきりだけだし…咲子んトコも昭和さんと小っちゃい晴ちゃんの三人だけだしさ、食いきれないほど送ってくれたから、処理に困るのさ。まぁ、四谷さんや朱美さんにもお裾分けして、後で賢太郎のヤツにも連絡して取りに来させるけど…それでも余らかすから、それで管理人さんの所にもってことで…」

 大量の野菜の山を送ってきた北海道の両親に、はた迷惑そうな表情の一の瀬が苦笑する。

 「有難うございます。…近頃はお野菜もすっかり高くなってきて、ウチは大助かりしますわ。それでは…有り難く頂きますわ♪」

 笑顔で響子は、一の瀬から沢山の野菜で詰まったダンボール箱を受け取った。

 「外は暑いですし…立ち話もなんですから、管理人室(なか)に入って冷たい麦茶でも飲んでって下さいませ」

 「おっ、良いねぇ~♪ ほんじゃぁ…お言葉に甘えさせてもらうとするかね、ねぇ咲子?」

 「えぇ姉さん。それでは響子さん、お言葉に甘えさせて頂きますわ…」

 管理人へ上がるようにと促す響子の勧(すす)めに従い、一の瀬花枝と五十嵐咲子の姉妹は満面の笑みで縁側から管理人室に上がり込む。

 「ハルタン、いっしょにいこっ♪」

 「うんっ、ハルチン♪」

 縁側に如雨露を置くと春香は晴夏と仲良く手を繋ぐと、一緒に縁側から管理人室(しつない)に入るのであった…。

 

 管理人室で冷たい麦茶とよく冷えたスイカを馳走(ちそう)になって、一の瀬と咲子は響子と愉しい談笑に花を咲かし、春香と晴夏…二人の“はるか”は裏庭で犬の惣一郎さんとじゃれ合っていた。

 「ワンワン、かわいー♪」

 「きゃはっ♪ そーいちろーさん、くすぐったーい♪」

 春香と晴夏の二人は、惣一郎さんの白い体毛の大きな体を撫でまわしていた。

 「ばうっ♪ ばうっ♪ ばうゥ~んっ♪」

 幼い女の子二人に体中を撫でまわされて、甘えた鳴き声をあげる惣一郎さんは嬉しそうに大きな体を二人に擦(す)り寄せては…リンゴのようにふっくらした愛らしい頬(ほ)っぺたをペロペロと舐めたりした。

 もっともっと遊んでと惣一郎さんが仰向けになって寝っ転がると、お腹を晒した無防備な体勢になる。惣一郎さんが無防備に晒けだしたお腹を、春香と晴夏は遠慮無しに撫でまわしていた。お腹を触られて喜ぶ惣一郎さんは、大きな体を捩(よじ)らせて実に嬉しそうであった。

 カンカン照りの太陽が容赦なく地面を照りつける中…二人の“はるか”は元気溌剌(はつらつ)としていた。肌から滲(にじ)み出た汗を飛び散らせては…裏庭の中を惣一郎さんと追いかけっこしたり、テニスボールを投げては取りに行かせる遊びをして楽しんでいた。

 「こんなにも暑いのに…子供たちは、元気いっぱいですよね、響子さん」

 「えぇ本当に、羨ましいくらいですわね…」

 ちゃぶ台に肘(ひじ)を載(の)せて正座で腰を落ち着ける響子と咲子は、活発に元気に外で遊ぶ娘たちを温かい眼差しで見守るのであった。

「だぁっ♪ だぁだぁ、だぁーっ♪」

 裏庭では春香と晴夏の快活なはしゃぎ声が木霊(こだま)するなか、管理人室でも惣一郎の無邪気な笑い声が部屋中に響き渡っていた。

 裏庭で元気に遊ぶ我が娘たちを響子と咲子が温かく見守るその傍(かたわ)らで…畳にお尻を着けてお座りする惣一郎に、対面で向かい合わせに胡座をかいて座る一の瀬が惣一郎の相手をしていた

 姉の春香のお下がりのピンク色のTシャツを着て…これまた姉のお下がりである黄色いオムツカバーを着用する惣一郎の小さな両手を手に取る一の瀬が、手に取った小さな両手を上に下にへと動かしては惣一郎をあやす。

 「おや…? まだ一歳になったばかりなのに、惣一郎くん…だいぶ歯が生え揃(そろ)ってきたねぇ」

 屈託(くったく)なく惣一郎が無邪気に笑うと、開いた口腔(くち)からキラリと輝かせた白い乳歯を覗かせる。小さな口腔(くち)の中を覗きこんだ一の瀬が朗らかに表情を緩ませていた。

 「えぇ、生後4ヶ月くらいで下の歯が生えてきたと思ったら…あれよあれよと言う間(ま)に次々と歯が生えてきたのですよ、一の瀬さん」

 すくすくと日々成長してゆく息子に、響子はとても嬉しそうであった。

 「現在(いま)はまだ少しずつではありますけど、離乳食のほうも与えて食べさせていますわ…」

 「へぇ~…そうかいそうかい。それじゃあ…もうじき惣一郎くんも、はれて母乳(オッパイ)を卒業するようになるんだねぇ…やっぱり、生まれながらにして体の大(お)っきな児(こ)は、発育も良くて成長が早いのかねぇ?」

 「そうですね…。歯が生えるのもそうですけど、寝返りをうってハイハイするのも、独りで立って歩き始めたのも…惣一郎は春香よりも2ヶ月も早かったんですから…」

 響子の言葉に、一の瀬が意外そうな表情をした。

 「…うん? ついこの間(あいだ)まで惣一郎くんを『惣くん』って…呼んでたのに、どうゆう心境の変化なのさ…!?」

 詮索(せんさく)好きな一の瀬が興味深々といった様子で目を爛々(らんらん)に輝かせると、気恥ずかしそうに響子は微笑(わら)う。

 「別にたいした事ではありませんわ。ただ近頃は夫に…裕作さんに、惣一郎の顔がだんだんと裕作さんと似てきまして…ああ惣一郎(この子)は、あたしの最初に愛した亡き惣一郎さんとはやはり違う…この子は今、愛する裕作さんとの間に授(さず)かった“息子の惣一郎”なのだと改めて強く認識したのですよ」

 ……昨年の8月初旬、音無惣一郎が死去してから10年という節目に、五代惣一郎は誕生した。臨月の身重の身体をおして響子は夫の裕作・娘の春香と共に亡き先の夫・音無惣一郎の墓参りに訪れたのだが…、その翌日の朝方に容体が急変して急な陣痛に見舞われた響子は、一夜を明かした宿泊先の音無家から時計坂総合病院に急行したのである。難産であったものの響子は、無事に元気な男の子を出産したのであった。

 裕作はそれほど宗教には熱心という訳ではないが…妻・響子が先の亡夫の墓参りの直後に男児を出産したのは偶然(ぐうぜん)とは思えず、産まれし男児はきっと音無惣一郎さんが輪廻(りんね)転生して生まれ変わったのだと…運命的とさえ感じて、妻の前の亡き夫から名前をとって裕作は誕生した男児に『惣一郎』と名前を付けたのである。

 夫の裕作が男児に惣一郎と名付けてくれた事を…とても喜び、自分の密(ひそ)かな願望を叶えてくれた裕作に響子は深く感謝を表した。

 誕生した息子を亡き惣一郎が輪廻転生した生まれ変わりなのだと思い…記憶の片隅に残る在り日の惣一郎の姿と息子の惣一郎を重ね合わせて息子を“惣一郎”と呼び捨てるのに躊躇(ためら)っていた響子は、“惣くん”と息子をそう呼ぶのであった。…日々、スクスクと健やかに成長して、愛する夫・裕作の面影が次第に濃くなってゆき…裕作に似てくる惣一郎の顔立ちに、気持ちの整理に区切りがついたのか…惣一郎が初めての誕生日を迎えて満一歳になったのを機に、響子は息子を“惣一郎”と忌憚(きたん)する事なく呼び捨てで呼ぶようになったのである。

 「なるほどねぇ…。あんたが惣一郎さんと一緒に写ってる写真を色々と何枚か見してもらったけど、確かにこの“惣一郎くん”は、写真の中の“音無惣一郎さん”とはまるで違う…惣一郎くんは五代くんの顔とあんたの顔を足して2で割ったような顔立ちしてるからねぇ。髪の毛とか鼻筋とかはあんたに似て、目元とか顔の輪郭(りんかく)は五代くんに似てるからね。特に笑ってる表情なんかは、雰囲気とか五代くんに本当にそっくりだと思うよ?」

 純真無垢な笑みを振りまく惣一郎の顔を、感慨(かんがい)深そうに一の瀬は繁々(しげしげ)と見つめるのであった。

 

 「あっ…そうそう! 管理人さん、あんたにグッドニュースがあったんだ」

 「グッドニュースですか…??」

 惣一郎の遊び相手をしていた一の瀬が、唐突(とうとつ)に言う。

 「そう! グッドニュース! 正確に言うと、あんただけでなく…春香ちゃんにとっても善い報せだよ?!」

 「どんな報せなのですか?」

 嬉しそうにニコニコする一の瀬に、興味に引かれる響子が両肘をちゃぶ台に着けて身を乗り出す。

 「そう慌てなさんなって…ほれ咲子、代わりにあんたが説明してやりな」

 一の瀬が一緒となって惣一郎の相手をしていた咲子を促すと、咲子は響子に説明を始める。

 「夕方に仕事から帰った主人から聞いたのですけど、昨日に会社から辞令を頂いて10月末までの転勤期間が延長となりまして…年末いっぱいまで東京(こちら)の会社に籍を置く事が決まったそうです」

 「まあっ!? そうなんですか!」

 響子が嬉しそうに満面の笑顔を浮かべる。

 夫の転勤により、3月末に北海道から東京へと夫と幼い娘の家族三人で引っ越ししてきた五十嵐咲子は、半年間の夫の転勤期間を終えると…10月末には家族と共に引っ越して、再び北海道へと戻る予定であった。それが12月末の2ヶ月の延長となると、その分の家賃収益が上がり…響子にとっても実に喜ばしい朗報であった。

 「あんたにとっても、年末まで家賃収入が増えるし…春香ちゃんにとっても、それまでは姪っ子(晴ちゃん)と一緒に毎日遊べるんだから、まさしく両手(もろて)を挙げて万々歳じゃあないのかい?」

 嬉々とした表情の響子に、からかうように一の瀬がほくそ笑んだ。

 「もお、一の瀬さんったら…」

 意地悪そうにからかう一の瀬に、困り弱った響子が愛想笑いする。

 とにかく今年いっぱいまで五十嵐家は一刻館の住人となる事となり、一の瀬の指摘する通り…響子にとっても、春香にとっても、喜ばしいグッドニュースであるのは確かなのであった…。

 

 春香と晴夏は、とても仲良しであった。朝食を食べ終えればすぐに一緒に遊びだし…昼食を挟(はさ)むとまた遊んで、それこそ陽が沈(しず)み空が茜色に一色に染まるまで…春香と晴夏は一緒に遊んで一日を過ごしていた。

 …この日も朝の9時から管理人室で、二人の“はるか”は仲良く一緒に遊んでいた。

 「ハルタン、いっしょに、おえかきしよっ♪」

 「うんっ♪ ハルチン♪」

 お絵描(か)きがしたいと春香がねだり…響子は畳の上に古新聞を敷き詰めると、その敷いた古新聞に数枚の画用紙と24色入りのクレヨンセットを置いてあげた。

 「畳は汚さないように、ちゃんと新聞紙の上でお絵描きをしなさいね?」

 「「はーいっ♪」」

 響子の言葉に、二人の“はるか”が元気に返事をしてお絵描きを始める。

 響子の持ってきたよく冷えたオレンジジュースを飲んでクッキーを食べながら、春香と晴夏は好きな動物やアニメキャラなどを描いては、想い想いにお絵描きを楽しんでいた。

 「ねぇ、ハルチン。こんどは、おそとであそぼ♪」

 「うん、ハルタン♪」

 小一時間ほどして、お絵描きに飽きたのか…新聞紙の上に画用紙やクレヨンを散らかしたまま、二人は縁側から外に出ると、今度は裏庭で遊び始める。

 ホッピングやフラフープで遊んだり、放し飼いになっている犬の惣一郎さんを誘ってボール遊びをしたりして屋外の遊びを楽しむのであった。

 空になった二つのマグカップと菓子クズまみれの皿を台所のシンクへと運んで散らかしぱなっしとなったクレヨン等を片付けながら、姉妹のように仲良く遊ぶ二人の幼い女の子の姿を朗らかに微笑みながら響子はその様子を温かく見守っていた。

 「ママー、きょう、ハルタンのおウチにおとまりして、ハルタンといっしょに、ばんごはんたべて、いっしょにねるのー♪」

 後片付けを進める響子に、裏庭(そと)から笑顔の春香が嬉しそうに声をかけてきた。

 「あらそう? 良かったわねー♪」

 どうやら今日はお泊まりすると、春香と晴夏が約束したようである。春香が独りで他所(よそ)の家に泊まるなど初めてである。いくら同じ一刻館内の知った住人の部屋とはいえ…春香が独りで他所にお邪魔する事に多少の不安や心配をしながらも、これも経験のうちと初めて独りでお泊まりする娘の成長ぶりに素直に響子は歓(よろこ)ぶのであった…。

 

 お泊まりの準備を終えると、午後6時少し前に響子は春香と手を繋いで二号室に訪れる。

 「あらあら、まあまあ…響子さんに春ちゃん、いらっしゃい♪」

 「どうも響子さん、こんばんは。春ちゃんもこんばんは」

 二号室のドアを響子が控えめにノックすると、住人である五十嵐昭和・咲子の夫妻(ふさい)が歓迎して温かく出迎えた。夫の昭和は仕事から帰ってきた直後らしく…背広は脱いでいるものの、ネクタイに白のワイシャツ姿であった。

 「ハルチン、いっしょにあそぼー♪」

 「うんっ♪」

 春香が到着すると、その到着を待ちわびていた晴夏が両親の後ろからヒョイと姿を現して春香の手を牽(ひ)くと、室内の奥へと招き入れるのあった。

 「もう春香っ! ちゃんとご挨拶してから上がりなさい! あぁ…もおっ、あの子ったら…。ごめんなさいね、昭和さん、咲子さん」

 「春ちゃんを叱(しか)らないでやって下さい…。晴夏(ウチの娘)は春ちゃんがお泊まりに来るのを今か今かと待ちきれずに、ずっとそわそわしていたのですよ。ですから響子さん…今日のところは、大目にみてやって下さい」

 和やかな表情をして昭和は、やんわりと響子を優しく宥める。

 「ハルチン、あとでいっしょにゴハンたべよーね♪ きょうのゴハンは、ママ、とくせーのオムライスなのー♪」

 「うんっ、ハルタンっ♪ はるかもオムライス、だいすきー♪」

 愉しげに会話をしながら人形遊びをする二人の幼い女の子に、響子と五十嵐夫妻は優しい眼差しを向けて穏やかに微笑むのであった。

 「まだ春香(むすめ)は独りでおトイレに行くことが出来なくて、なにかとご迷惑をお掛けしますが…宜しくお願い致します。あの…あと、これには着替えとか歯磨きセットとかが入っていますわ」

 深々と丁寧に頭を下げると響子は、手にしていたトートバッグを五十嵐夫婦に差し出した。

 『PIYO PIYO』のロゴと可愛らしいヒヨコのイラスト入りのピンクのトートバッグには、春香の持ち物が入っていた。ピンクのパジャマとお気に入りの下着類に…それから歯磨きセット等の所謂(いわゆる)お泊まりセット一式が入っていた。

 「ははは、大丈夫ですよ。まだ3歳の小さい子供ですし…それにウチの晴夏も一緒で独りではトイレには行けませんから、まったく問題ありませんよ」

 穏やかに微笑んで昭和は、響子の差し出すトートバッグを受け取る。

 「いい、春香…!? 昭和おじさんと咲子おばさんの言う事をちゃんと聞いて、ご迷惑かけちゃダメよ? 分かったわねっ?」

 「はーい、ママ!」

 廊下側に立っていた響子が五十嵐夫婦の肩越しから室内で晴夏と遊んでいる娘の姿を覗きこんで声を掛けると、元気に春香が母親に返事を返した。娘・春香からの返事を聞いて、響子は五十嵐夫婦に向き直ると改めて昭和・咲子の五十嵐夫婦に深々と頭を下げる。

 「重ね重ねですけど…娘の事を宜しくお願い致しますわ」

 「はい、こちらこそ宜しくお願いします。それでは、責任を持って春ちゃんをお預かりさせて頂きます」

 五十嵐夫婦も揃って、響子に深々と下げるのであった…。

 

 午後7時過ぎ…勤務先のしいの実保育園の園長先生に誘われて駅前の居酒屋で園長先生との呑みに軽く付き合ってきた裕作が少し遅めの時間に帰宅すると、いつもと違う様子に裕作が“ある”違和感を感じていた。

 いつもならどんなに遅い帰宅でも、裕作がドアを開けて管理人室(我が家)へと入れば…満面の笑顔で春香が出迎えて甘えて抱きついてくるはずなのに、それが今日は無くて裕作は戸惑いを感じていた。

 「あれっ…? 春香の姿が見当たらないんだけど…いったい、どうしたんだ?」

 肩に掛けていたボストンバッグを渡しながら、裕作は不思議そうに響子に尋ねてみた。

 「春香でしたら…今日は、夕方から二号室へお泊まりに行っていますわよ」

 「二号室…? 五十嵐さんの部屋(ところ)にか!?」

 少し驚いたようにする裕作に、ええ…と響子が頷いた。

 春香の姿が見えずに…事件や事故にでも巻き込まれたのではないかと裕作は脳裏に一瞬不吉な事を過(よぎ)らせるが、妻の響子より不在の理由を聞いて、ひとまず安堵(あんど)した吐息を吐く裕作であった。

 「う~ん…それにしても大丈夫なのかなぁ。昭和さんや咲子さんに、ご迷惑かけてなきゃいいんだけど…」

 着替えを済ませて着流し姿となった裕作は、ちゃぶ台の前に胡座をかいて膝に愛息の惣一郎を乗せると、響子の出したお茶を啜(すす)りながら首を傾(かし)げた。

 「そんなに心配しなくても、大丈夫ですよ。確かに春香(あの子)はおてんばさんで少し落ち着きのないところはありますけど…あの子なりにちゃんと分別はついていますし、それに晴ちゃんと一緒ですから何も心配ありませんよ。今頃は…きっと、仲良く晴ちゃんと愉しく遊んでいると思いますよ…」

 同じ一刻館内でも、一号室の一の瀬や四号室の四谷とは違い…二号室の住人である五十嵐夫婦はわりと良識的で、春香と同じ年齢(とし)の幼い娘が居るのである。そんな夫婦の部屋(いえ)に春香をひとり預けてお泊まりさせても、響子は絶対の安心感を持っていたのである。

 「まあ確かに…一の瀬さんとか四谷さんとかの部屋に泊まらせるよりかは、ぜんぜん安心だよなぁ…」

 ちゃぶ台を挟んで対面に座る響子の自信に満ち溢れた表情に、妙な説得力に満ちて納得した裕作が安心すると、手にする湯飲みを口元へ運ぶと再びお茶を啜り飲むのであった。

 

 その夜…就寝時間となって、奥の部屋に川の字で蒲団が敷かれた。両端(りょうはし)の大きな蒲団には裕作と響子が入り、そのあいだを挟むように敷かれた小さな蒲団には…息子の惣一郎が入っていた。

 いつもなら真ん中に敷かれた小さな蒲団には春香が眠っていて…惣一郎は木の柵で囲われたベビーベッドに眠るのだが、今日は二号室の五十嵐家にお泊まりしている春香は…仲良しの晴夏と同じ蒲団に一緒に入っては手を繋いで愉しい夢を見ながら…今頃はぐっすりと仲良く一緒に眠りに就いている頃であろう…。

 「そういや…惣一郎を挟んで寝るなんて、初めてなんだよなぁ…」

 いつもは春香が眠る蒲団に入っている惣一郎の姿を眺めながら、蒲団の上で横向きで寝そべった裕作が染々(しみじみ)と呟く。

 「…そうですね。春香が居なくて少し寂(さび)しい気はしますけど、いつもはこの蒲団に入って眠る春香の代わりに、今晩はその蒲団に惣一郎が眠るのですから、なんかとても新鮮な気がしますわ」

 いつもなら姉の春香が使用している小さな子供蒲団に…今宵(こよい)は弟の惣一郎が使用しているのを目新しそうに眺めている響子も、新鮮な気持ちで胸がいっぱいになるのであった。小さな蒲団に水色のパジャマ姿で入っている息子の姿に、穏やか表情で見守る響子は惣一郎に温かく微笑みを送ったのである。

 「なぁ響子……」

 甘く囁(ささや)きながら裕作は、響子の蒲団に潜り込んだ。そして響子の身体(からだ)を愛しく優しく抱きしめて裕作は、戯(たわむ)れる小鳥同士が啄(ついば)むような唇と唇が優しく触れ合うだけの軽いキスを響子にする。

 「あぁん…♪ んもぅ、裕作さん…ダ、ダメよ、いけませんわ…まだ惣一郎が起きていますわ。ほら…こっちを見ているわよ!?」

 蒲団の中で身体を密着させて何度も唇を軽く重ねてくる裕作に、慌てた様子で響子が隣の小さな蒲団に居る惣一郎の方向に顔を向ける。

 響子につられて裕作も惣一郎の方向に顔を向けると、ぽかんとした表情で惣一郎がジー…ッと両親の様子を不思議そうにして窺い見ていた。

 「大丈夫だよ…。俺たちがなにをしているかなんて…惣一郎には、まだ判らないよ」

 クスッと悪戯っぽく笑うと裕作は、響子の頬を愛しげに撫でながら…今度は自分の唇を響子の唇に隙間なく密着させた熱いキスをする。

 「もぅ…バカ……♪」

 少し怒ったような…はたまた呆れ返った素振りを見せながらも…これから迎えようとする夫婦の睦事に、期待を寄せる響子は熱く瞳を潤ませると艶っぽい表情を浮かべた。裕作の背中に廻したその両手に力を強く込めると響子は密着させるように裕作の身体を抱き寄せる。

 より強く、より深く身体を密着させると…響子は自ら唇を押し付けて、裕作の唇に重ね合わせると熱くて深い裕作とのキスを自分から交わすのであった。

 その夜(よ)…管理人室では、眠りに就く深夜遅くまで裕作と響子の夫婦(ふたり)は、愛と絆を確かめあい深めあいながら…濃厚で濃密な夫婦の愛を育(はぐく)むのであった……。

 

 

 其の三 終

 


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