魔法殺しの物語、その断片   作:いくらう

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紫煙、苦し

「グリンザール、グリンザール、グリンザールよ」ガズ=カーは、ふと思い出したが如く、呪わしき隻腕剣士の名を口にした。彼は平時、両目蓋とその口を斑糸で封ぜられ、その生首をグリンザールの失われし左腕に縫い付けられた自由なき存在である。たとい口を開くことが叶っても、それは彼の呪詛の力無くしては陥りし窮地を脱することが能わぬ、とグリンザールが判断した場合のみであり、その窮地を脱した後も、この老呪詛使いがこの様に朗々と自らの口を開く猶予を与えられる事は、極めて稀な事であった。

 

 おおよそ普段のグリンザールであれば、事が済めば早急に赤黒の斑糸を用いて再びガズ=カーを封じてしまう。しかれども此度のガズ=カーはその必要が無くなった後、既に半刻が過ぎた今でも、未だに封じられることなく皮肉なる自由を享受している。それは彼を封じるべきグリンザールが、それすら叶わぬ程の状態に追い込まれたことを意味していた。

 

 グリンザールは古ぼけた石の床にその四体を大きく放り出し、満身創痍のまま天上の星を見つめていた。先程までは息も荒く、傍から見れば死に行かんとする剣士そのものであったが、今はある程度調子を取り戻したようで、緩やかに胸を上下させている。

 

 油断ならぬ、余りにも強大なる相手であった。此度相対した<ゾズマの黒獅子>は、今までに屠ったどの<魔法>よりも強大で底知れぬ、文字通りのありうべからざる怪物であった。その姿を認めたガズ=カーがグリンザールのあまりの無謀さに考え付く限りの呪わしい罵倒の言葉を放ち、すぐさま全霊を以ってその体と魂を奪わんと画策したほどに。

 

 道すがらに出会った陽気な行商、彼女から手に入れたアスガルズルの死印。そして契約履行の長虫どもによる乱入がなければ、グリンザールは疾く獅子の腹に収まるか、千々細々とした肉塊となって、この古神殿に無数ある滲みの一つと成り果てていただろう。

 

「グリンザールよ、流石のお主でも、此度は随分と堪えたであろう」ガズ=カーはグリンザールの左腕で嘲るように云った。「あの黒獅子は嘗てヴォローニッカが自ら焼いたものの灰芥から手ずから生みだしたとされた獣。本来であれば、人の身で比することなど敵わぬ存在だ」「だが殺した」グリンザールは苦々しく、吐き捨てるように云った。

 

「少なくともお主だけでは到底不可能であった事よな」ガズ=カーはグリンザールを嘲るその態度を隠すこともない。事実、ガズ=カーの老獪なる知識と昏き呪詛の数々が無ければ、獅子を殺める所か、あの忌まわしき長虫どもを切り抜ける事すら危うかったやも知れぬ。

 

 それを思うと、グリンザールは無性に腹の底から苛立ちが沸き出すのを感じた。今の己では、得意気に言を並べ立てるこの生首を黙らせる事さえ出来ない。その事が、勝利したにも拘らず未だに立ち上がることすら満足に行かぬ自身に対して、やり場のない怒りを抱かせるのだ。

 

「さて、グリンザールよ。ひいては相談があるのだが」無意識に顔を歪ませていたグリンザールに、ガズ=カーはいつになく穏やかな声で呼びかけた。「確か、貴様があの行商から手に入れたものの中には、ジェレミアの黄露草が二株あったな?」

 

「それがどうした」ようやく上体を起こしたグリンザールは、苛立ちを隠さぬ表情で答えた。「いや、いや。お主と儂は運命共同体ではあるが、嗜好まで同じと云う訳では無い。久方ぶりに、黄露草の煙草が恋しくなっての。あれだけの働きをしたのだ、お主も少しは儂に報いるのが礼儀というものでは無いかね?」云い切ると、ガズ=カーは早くしろと言わんばかりに顎で放り出された雑嚢の一つを指し示す。その姿に、グリンザールは今すぐこの生首の額にラーグニタッド刀を突き立てたい衝動に襲われた。

 

 

 

 

 

 

「…………これでいいか?」グリンザールは今にも暴れ出さんかと思えんばかりの形相で、巻かれた紙筒をガズ=カーに指し示した。「ほほう、こいつは重畳! お主にその様な細細とした作業が熟せるかと戦々恐々としておったが、僅かばかり侮りすぎておったようだ」云うが早いかグリンザールはガズ=カーに手製の巻き煙草を咥えさせた。すると魔法めいてその先端に独りでに緑色の火が点り、紫煙を燻らせる。

 

 否、それは正しく魔法であり、この首だけの老いさらばえた呪詛使いが、世界の昏き側に在る尋常ならざるものである事の証明でもあった。しかしグリンザールは今更その様な事は意に介さぬ。余った黄露草を用いてもう一巻き、煙草を作り出して行く。「ほう、グリンザールよ。もう一本儂に献じようとは、今日は厭に殊勝ではないか。呵々、此度の戦での儂の助力の大きさは筆舌に尽くせぬものだった故、其れも当然か。どれ、あり難く頂戴してやらん事もない」「これは俺の煙草だ」

 

「何?」グリンザールの物言いに、眼を細めて紫煙を愉しんでいたガズ=カーは訝しむ。「これは俺のだと云ったんだ。何度も言わせるなよ、ガズ=カー」グリンザールは巻き終えた煙草の先端をガズ=カーのそれに押しつけて火を継がせると、ぎこちなく煙草を咥え、月明かりに薄く紫煙を燻らせる。

 

「何だ、お主が煙草を嗜むとは。儂をこうしてから一度も口にしておらんかったろうに」「しようと思わなかっただけだ」そう云って煙を吸い込んだグリンザールは、すぐさま眉を顰め、むせるように煙を吐き出した。

 

「呵々! 慣れん事はするものでは無いの。それはお主でも変わらんか」それを見て、ガズ=カーは嘲るように歯を剥きだした。一方グリンザールはガズ=カーの嘲笑もどこ吹く風と云った様子で、瞼を閉じて、懐かしむように紫煙の香りを味わう。事実、彼は嘗ての思い出を懐かしんでいた。こうして、煙草を口にするのは何時以来だったか……。

 

 

 

 

 

 

「グリンジぃ、こんなとこで何やってんだ?」手持ち無沙汰に馬車屋前の花壇に座したグリンザールを、戸から顔を覗かせたゼウドが見咎めた。「ったく、こんな糞寒い夜中に外で暇つぶしとは、お前が何考えてるかってのはやっぱ良く分からねえな」云いながらそのまま歩み出てきたゼウドは、グリンザールの左に腰を下ろして、懐から何かを取り出した。

 

「何だ?」「煙草だよ。吸ってみるかね、竜の仔。ほれ」ゼウドは艶やかな箱から煙草を一本グリンザールに差し出した。しかしグリンザールはそれを怪しむように眉を顰める。「唐辛子でも仕込んでおるまいな」「しねえよ」笑ってゼウドはグリンザールに無理やりに煙草を咥えさせると、マッチを花壇の石に擦り付けて火を付けた。

 

「ハロウ、フォーロウ。照覧あれ」ゼウドはマッチの火で素早く自身の煙草に火を灯すと、その先をグリンザールの咥える煙草に押しつけて火を移す。そうしてグリンザールの煙草にも着火させた後、自身の煙草を咥えて、ほぅと紫煙を吐き出した。

 

 グリンザールもその様を見て、渋々と云った様子で煙草の煙を吸い込んだ。しかしどうにも口に合わなかったらしく、吹き出すようにその煙を吐き出すと、眉を顰めて途方に暮れたように、右手に持った煙草を見つめている。ゼウドは煙草を楽しみながら夜空の星々を数えていたが、グリンザールの顔にふと目をやり、面白いものを見たように白い歯を見せた。

 

「ひでぇ顔だな、そんなに不味いかよ?」「ああ」「マズイなら捨てちまったっていいぜ? 無理して吸う必要ねえし」「いや、いい」そう云ってグリンザールは、煙草を咥えて一拍おいた後再び紫煙を吸い込んで、今度は少し噎せ返した。その様を見たゼウドはこの上なく愉快そうに笑って、自らもまた紫煙の香りを楽しんでいた。

 

 

 

 

 

 

 瞼を開くと、いつの間にか、グリンザールは自身の体の調子が僅かではあるが回復に向かっているように感じられた。夜明けまでは身動き取れぬと考えていたが、この分ならば、もう半刻もすればここを発って、街へと降りて行く事も叶うだろう。「ガズ=カー。貴様、黄露草の効能を知って居たか?」

 

「うむ、あれには鎮痛作用がある」ガズ=カーは神妙な顔をして、残念そうに云った。「お主は苦しんでいてもよかったのだが、儂まで其れに巻き込まれては敵わんからな」「何れもう一度その首を落とす時が待ち遠しいぜ」グリンザールは眉を顰めて云い捨てた。

 

 

 暫くそうして紫煙を燻らせて居たか。二つの煙草を吸い終えた隻腕剣士は月明かりの元で呪詛使いに封を施すと、自らの煙草の火を踏み消した後荷を纏めて立ち上がり、星を頼りに再び街路へと戻って行く。静寂を取り戻した古神殿に残されたのは僅かな紫煙の香りと、踏み消された煙草の残骸だけだった。

 

 


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