鬼、というモノがある。
妖怪――――ひいては『魔』の中でもかなりの上位種族に分類されると言われる幻想種の一種だ。
総じて勝負事が好きで、嘘嫌いで、酒飲みで、豪快な性格をしている彼らは正に、妖怪一の暴君一族と言っても、過言ではない。
反面、情に厚く、仲間を裏切る事が決してないという人間らしく義理堅い所もあるが、その根は妖怪らしく気性は荒くて、獰猛であった。
もう一度言うが、彼らは勝負事が大好きである。
妖怪であった彼らが勝負事の相手とみなしていたのは、無論言うまでもなく妖怪の餌にして妖怪の天敵でもある人間たちであった。
当時、百戦錬磨の陰陽師や鬼専門の退魔師、加えて古流剣術使いの侍たちがたくさんいた時代……日本は正に鬼達にとって勝負事に退屈しない最高の修羅場がそこらに転がっていたのである。
しかし、いくら鬼と渡り合える力をもった人間がいたとしても、それでも元来のスペック差が響いているのか人間が勝利する場合は少ない。
いくら並の妖怪と正面から圧倒する技術を持った者たちでも、その最高峰であった鬼たちに敵うことは簡単な事ではないのだ。
百戦錬磨の陰陽師であろうと生半可な術式は通用しないし、隙を見出して大技を叩き込むしか選択肢はない。
鬼専門の退魔師であろうと、その術式が通る前に殺されてしまえばそれでオジャンだ。
そして、古流剣術使い――――当時では侍と言われていた彼らは戦闘狂という鬼に近い資質を持った者もいたので、実質、鬼達にとってのライバルは彼らであっただろうが、彼らにとってはそうでもない。宿敵は鬼よりも、同じ剣術使いが主であっただろう。同じ剣術使い同士ですら真剣でやり合う時もあるのだから、自ずとその数を減らしてゆく。
――――彼らですら鬼と渡り合うのが手一杯だというのに、そんな力すら持たない人間はどうなる?
結果は透明ガラスを覗くように分かりきった事だった。
ただひたすらに蹂躙され、どれだけ有象無象が群がろうとも勝てる道理などありはせず、ただ像が蟻を踏み潰すかのような結果という名の理不尽が重なるばかりである。
そして人間に勝負を無理やり売って、当然のようにそれを勝ち取った彼らはそのまま人間達を攫う。
自分たちより弱い人間を負かしては攫い、負かしては攫う。
上記で述べた三者はともかく、何の力もない人間、もしくは並の退魔師、陰陽師では鬼になす術もなく、次々と任されて攫われるの繰り返し。
そんな暴挙を続ける鬼達に、さしもの人間達も黙っている訳にはいかないだろう。
だからと言ってまともにやり合えばそれこそ、像が蟻を踏み潰すが如く返り討ちにされるだけだ。
だから――――人間達は一つの結論にたどり着いた。
――――奇襲、罠、追い打ちである。
最初に述べたように、鬼は嘘を嫌う。
その信念は自分たちにも課す程で、自分は相手に決して嘘をつかないし、奇襲も欺きもしない。
正々堂々と真っ直ぐぶつかり合うのを是とする鬼達は――――そこを人間達に付け込まれたのだ。
人間は次々と鬼を罠に誘い出してから、罠にかかった鬼を大勢で滅多打ちにした。そこに無論、その人間達に雇われた――――鬼と正面から渡り合える筈の人種――――百戦錬磨の陰陽師や、鬼専門の退魔師も含まれていた。
卑怯を嫌い、真剣勝負を好むという鬼に近い性質を持っていた古流剣術使いはさすがに居なかったが、それでも人間のその醜い手段に失望する鬼は少なくない。
――――そんな鬼達に構わず、人間達はどんどんと鬼を一人ずつ罠に嵌めては、大勢で滅多撃ちにして弱らせて、破滅させる。
――――それでも、鬼は人間達を信じ続けた。
妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を退治するのと同じように。
鬼が喧嘩を売り、人間がその喧嘩を買うという“絆”がいつか戻ってくると信じて、鬼は人間に勝負を挑み続けた。
――――それでも、人間達の愚行は増すばかりであった。
鬼が人間に喧嘩を売ろうとしたら、その人間は実は囮で、その直後に罠にハメ滅多撃ちにする。
いつしか、鬼と人間との歪んだ絆の人は本当の意味で歪んでしまった。時代の流れの変化といえば、それまでであるのだが、それでも鬼達は人間達に深く失望する。
――――そして、鬼達はついに人間を見限った。
……奴らはもう駄目だ。……完全に腐りきってしまった。……我らを本当の意味で裏切った。……我らを侮辱した。……もう我らの相手に足る存在ではなくなってしまった。……興は完全に失せた。……もう腐りきった奴らにもう用はない。……ここにはもう我らの修羅場(いばしょ)など存在しない。
鬼達は、次々と人間を見限ってはその姿を歴史から消してゆく。……まるで、最初からいなかったかのように、彼らは異世界へと消えていった。
どことも知らぬ彼らの新たな修羅場に潜り込んでいった。
――――それでも、人間達を信じ続けた鬼達は僅かながらにいた。
……まだいるはずだ。……我らの相手足りうる人間が。……まだ残っているはずだ。まだ腐りきってなどいない筈だ。……奴らは簡単に廃ってしまうような者たちではない。……きっとどこかに残っている筈だ。
ただ、そう想い続けて、彼は人間達に勝負事を売り込み続けた。
――――しかし、その鬼達が望むような人間は誰ひとりとしていなかった。
そして、残った鬼達は捕らえられた。
罠に嵌められ、畳み掛けられ、滅多打ちにされ、滅多切りにされ、いくら頑丈な皮膚を持つ鬼であろうと延々と続く暴行を加え続けられば、その身体も弱る。
……それだけで死んでいゆくのなら、失望した鬼達にとってはまだ不幸中の幸いだった。
――――しかし、人間達は更にその上をゆく屈辱をその鬼達に植え付けた。
……その鬼を捉えた人間達は、その鬼の力に魅せられた部類の人種だった。
彼らは魅せられた。……鬼の圧倒的なる力、圧倒的なる能力、圧倒的なる豪腕、圧倒的なる異常性。
その鬼の力に、魅せられた一部の人間達がいたのだ。
人間達は男性体の鬼をそのまま殺し、弱った女性体の鬼をあえて弱らせたまま残した。
そして、人間達はその女性体の鬼に自らの種を注ぎ込んだ。
……ソレも一度ではない。
弱っていようとも強靭な生命力を持っている鬼達に、何度も異種交配を繰り返した。鬼達の命尽きるその時まで、人間達は弱った鬼達と無理やり異種交配をし続けたのだ。
……そして、ついに禁断の子が生まれた。
――――これが、『混血』の始まりである。
やがてその混血達は姿を消した鬼達に変わって、猛威を振るう事になる。
人の血が混ざっているせいで、元来、鬼や妖怪に有効だった退魔術や陰陽術が通じなくなり、更には鬼としての異能を行使する。
そして純血の鬼に見られた卑怯を嫌う側面が薄れ、人間らしい卑怯で非道なやり方を平然と行う様を見ると、それはある意味純血の鬼よりも質の悪いモノであった。
中には妖怪に対抗する力を欲する為に鬼と交わった者もいたが、そういった者たちも人間としての側面が鬼の血に負けてしまい、結果的に心が完全な『魔』なってしまう者もいた。……これは、俗に『先祖還り』、もしくは『紅赤朱』と呼ばれるモノである。
多くの人間はソレを迫害し、それに対抗する手段を見出そうとするが、人の身でそれができるはずもない。
いつしかいなくなった鬼達に変わって、畏怖の対象となってゆく混血たち。彼らという化物は好き勝手に振る舞い、その権力を手にしていった。
もはや対抗する術を持たぬ人々はその恐ろしさに身を縮め、怯え生きるしかなかった。
両儀、浅神、巫淨、七夜といった一族の先祖たちが現れたのはこのような時代だっただろう。
弱き人の身でも、その一芸に特化させる事によって魔に対抗する手段を持つ。それぞれ一芸に特化した存在が現れたのだ。
接吻や吸血、性交などによる儀式や祈祷などで他者へ何らかのフィードバックを可能にした〈巫淨〉。
何十年間に一度生まれる超常的な超能力者が生まれ、その稀代の能力を行使する〈浅神〉。
『 』に繋げる事により完璧な人間を作り出そうとし、更には過去に存在した古流剣術をアレンジして現代までその技を伝えてきた〈両儀〉。
そして、親近相姦を繰り返す事によって一代限りで終わってしまう超能力を血で伝える事に成功し、人間の身体能力を限界まで高める事によって生身で化物を闇の中での暗殺を可能にした〈七夜〉。
どれも、それぞれの方法で人を超える人を作ることによって魔に対抗しようとした一族である。
無論、人の執念というモノは恐ろしいモノで、その努力はどれも功を成していた。
その中でも、奇怪で華麗な体術を持って魔を直接暗殺する七夜、アレンジされた古流剣術を持って魔を正面から斬殺する両儀は特に異端とされた。
どちらも手段は違えど、生身で魔を打倒しうる事ができたのだから。
……とりわけ七夜一族が使っていた人外的な体術は正に魔を殺すためだけに生まれたモノだった。
人々は先を競って、彼らに化物退治を請う。
苦しい思いと屈辱を味あわされた意趣返しとして、彼らに仇を取ってくれと懇願する。
日々の生活を約束し、賃金を支払う。祖先は、それを迷うことなく引き受けた。
空間を立体的に扱う巣を張った蜘蛛の如く三次元的な動きを展開し、獣と同等の速さを持って敵に気づかれる事なく、死角から一気に得物で瞬殺する。
……誰しもが出来る事のなかった化物殺しを、ソレは何の恐れも抱かず、清々しい程あっけなくソレを遂行してみせた。
そう、人の身で、化物を狩ってみせたのだ。
――――その化け物を殺した先に、何があったか?
化け物を殺す『化け物』。
人の身で化け物を殺すことにより、その化け物から畏怖され、そして同族からも畏怖される『化け物』として扱われる事となる。
人の身でありながら、人を超える能力を持った彼らを待ち構えていたのは、『必要とされなくなる恐怖』である。
彼ら退魔四家は、その自分達の能力の有用性を示す事で、人々から畏怖されつつも、賞賛を讃えられていた。
……彼らは、全うな道を歩む事はできなくなってしまう。
退魔をやめた超能力者など、傍から見ればもうただの『化け物』に過ぎないのだ。
そう、彼らはその退魔という茨の道を歩み続けるしかなかった。
――――そして、『混血』という魔が皮肉にも必要悪とされる時代が来た時、彼らは絶滅の一途を辿る。
もはや需要のなくなった退魔四家は、人間達にとってはただの化け物でしかなかった。
とりわけ超能力者は迫害され、周囲から化け物として畏怖され、終いには無惨に命を奪われてしまう者までいた。
それでも彼らは、それぞれ別々の形で、自分達の『遺産』を残そうとした。その遺産は今でも“血”という形でこの世に残っている。
とりわけ両儀はその中でも特殊だった――――否、賢かった。
超常的な超能力ではいずれ、文明社会から抹殺される事を予め予期していた彼らは、表向きでは普通の人間として生活できるチャンネルを加える事で、今でもまともに表社会に立派な家名として君臨していた。
――――では、七夜は?
想像するに容易かったであろう。
たとえ混血が必要悪な時代でも、反転してしまえば放っておく訳にもゆかない。とりわけ陰陽の理が通じない混血に対しての切り札は『七夜』を除いてはもういなかったのだ。
元より、魔を殺すことだけを念頭に技を極めてきた彼らは、こうする事でしか家を存続する方法はない。
――――そして、現代においても暗殺業を営んでいた彼ら、その暗殺技を退化させるどころか、時代の流れに沿ってむしろ“進化”していった。
それは彼らにとって喜ばしかったのかはともかく、その日に日に技を昇華させてゆく彼らに対して、混血も、そして彼らを保護していた退魔組織も、これまで以上に畏怖していた。
そして、ある混血がその七夜の最高傑作の殺人技巧を直接目の当たりにしてしまった時、ついに、滅びの歯車が七夜へと向いてしまった。
その混血は七夜を恐れた。
……自分と同じ混血であった者をいともあっけなく解体し、瞬く間に惨殺死体に仕立て上げてしまったその技巧を目の当りにし、正気でいられる筈がなかった。
そして、気が狂ったその混血にも、その七夜の刃が向いてしまったのだ。
その恐怖を脳の底まで刻み込まれた彼はついに、七夜一族を根絶やしにする事に決めた。
――――“最高の切り札”を持って、七夜一族を一人除いて根絶やしにした。
……七夜の最高傑作であった最後の当主も、その切り札の魔手によって一生を終えたのだ。
かくして、七夜の歴史はここで幕を下ろす事となった。
――――その最高傑作すらも超える、『最後の生き残り』をこの世に残して。
◇
一週間前の雨が嘘のように病んでいた。
気持ちいいそよ風邪が障子の隙間を通して伝わって来るのがよく分かる。こういう安らぎの場所も止まり木としては悪くはないだろう。
……少なくとも、常人からしてみれば紅まみれでノイローゼになってしまいそうな紅魔館とは大違いだ。
生まれた家柄もあったのであろうか、体は紅魔館よりもこの永遠亭の方が遥かに馴染んだ。
まあ、どうでもいい事ではあるが――――。
「……体も、問題ないか」
レミリアとの挨拶から数日が立った。
レミリアと美鈴は既に屋敷に帰り、実質、この永遠亭に居候している者は七夜と咲夜と霊夢の三人だけだった。
……七夜はまだ完全に完治した訳ではなかったので、ここで安静している訳だが、今では問題なく動いていた。
咲夜は七夜の治療をしてくれた永遠亭へのお礼と七夜の看病、および監視と付き添いの役目を経て、永遠亭に滞在していた。
霊夢は、未だに部屋から出ることはなく、ただ引き篭っていた。それでもその貧乏性だけは相変わらずのようで、口は聞かずとも、持ってこられた食事だけは食べているそうな……。
霊夢が元気を取り戻すまでは、守矢神社の巫女である東風谷早苗が不在の霊夢に変わって留守番をしていた。
あれだけの惨事の後に、ほとんどの者が心底パニックになっていたのにも関わらず、今回、一番の加害者にして、一番の被害者である当の七夜が一番、平然としていた人物である事は言うまでもない。
……何せ、彼は稀代の殺人鬼にして、稀代の『厄介事』好きでもあるのだから。
「――――」
縁側でしばらく黄昏ていた七夜は、そろそろ約束の時間か、と思い立ち上がった。
――――体調に問題ないと感じたら、また私の部屋に来なさい。
ここ、永遠亭の医師からそう告げられていた七夜は、その部屋へと向かった。
何でも、彼の脳は一度、ほとんど脳死状態になったのだから、あの後に脳にまだ異常がないかを確かめる為らしい。
――――まさか、人でなしがこんな施しを受けるとはね。
浮世というモノは本当にままならないもんだ、と心の中で皮肉りながら、七夜は医師――――八意永琳の部屋のドアの前と付いた。
コンコン、とドアを叩き、奥にいる医師の返答を待つ。
どうぞ、という聞こえたので、彼はドアの取手を引いてそのまま部屋へと入った。
「……調子はどうかしら?」
ドアの奥にいた、いかにもアダルティな雰囲気を纏った銀髪の女性が椅子を七夜に向けて問いかけた。
「お陰様でな、特に問題はない」
素っ気なく返したその返答は、それでいて正直な返答だった。
そう、と永琳は目を一度目を瞑り、一つ息を吐く。
「脳がとてつもない損傷を負っていたから、私の医療をもってしても人間の生命力で持ちこたえられるか心配だったけど、その様子だと大丈夫そうね。まあ、紫にとっては喜ばしい結果ではないでしょうけれど……」
「……」
「それでも、貴方を心配してくれる者もいた事は忘れない事ね。それを無化にしてしまえば、私は医師として貴方を治療した意味がなくなってしまう」
「さて、どうだか……」
若干、釘を刺すような永琳の言葉に、七夜は適当にはぐらかした。
永琳は、心底で七夜の在り方を感じ取っているのか、その温厚で優しい目のそこに感じられる鋭さが七夜に突き刺さるが、七夜はそれを平然と受け流すような態度だった。
そんな七夜の様子に永琳の目は更に鋭くなるが、これ以上は無駄と判断したのか、ハァ、とため息を付き、眼前に用意しておいた席に座るように七夜に促した。
その厚意に甘えて七夜は座る。
「見た所、貴方に異常は無さそうだけど、万が一の事も兼ねてもう一度脳を検査するわ。何分、脳をあれほど中心的にダメージを受けていた患者は貴方が初めてだから、出来れば医師として今後の為にも再検査はしておきたい」
「……そうかい。まあ、女性との情事にしちゃあ、少し過激すぎたのは否めないね。――――まあ、それは置いておくとして、俺は結局何をすればいいんだ?」
「簡単よ、貴方がそこのベッドに横になってしばらく眠ってくれるだけでいい。起きたままだと、脳波が変化しがちだから、標準状態では測れないのよ。
一応、麻酔をかけてはおくけれど、検査自体は早く終わるし、麻酔の効果もそんなに長くはないから目覚めるのも早い筈よ」
「……了解した」
そう言って、七夜は永琳が用意した、ベッドへと横たわる。
妙に寝心地が良いベッドは、彼の体を不思議と睡魔に誘い込むが、それ以上に永琳に注入された麻酔薬が止めとなって、七夜は意識を手放した。
「貴方を心配する人物がいる以上、医師として貴方を死なせる訳にはいかないわ」
言って、永琳は、白衣に着替えた後、脳波計測機をから伸びるチューブを取り出す。
一度、七夜の頭部に刺さっていたソレは、今度は前回と違い、簡単に入れられそうだった。
「貴方が死にたがりだって事はなんとなく見て分かる。それでも助けられる命は助けたい。誰が貴方を死者呼ばわりしようと、私や姫様、妹紅と違って――――」
――――貴方には、ちゃんと『終わり』があるのだから……。
◇
あの時の雨が嘘のように、今日の天候は清々しかった。
……曇天から感じた重苦しい雰囲気も消え去り、空は開放感溢れる天使のような白い雲が漂い、まるで堕天使に堕ちた天使が戻ったかのようにも思えた。
長年、吸血鬼の主人と接してきたせいか、その感性が映ってしまったのかは定かではないが、咲夜も日光というのはあまり好きではない。
……しかし、この間の鬱陶しいザァーザァー振りに比べれば幾分かマシなものでもあった。
それでもあまり好きではない日光に当たって、慣れない庭のゴミ履きをするのはあまりいい気持ちではないが、七夜を治療してもらった事への恩返しもあって、七夜がここに滞在する期間はここで働くと咲夜は決めていた。
主からもそのように言われていたので、咲夜も謹んでそれを受けた。
ゴミ履きは慣れてないとは言うものの、ソレは彼女の瀟洒ぶりと比較すればとの話で、実際に咲夜の屋敷ゴミ履きは人並み以上ではある。
それでもやはり彼女にとっては慣れない事だ。
屋敷のゴミ履きは大抵は、門番である美鈴の仕事だからだ。
屋敷の花畑を世話しているのだから、その周りの環境も綺麗にしようと努力するのは必然といえば必然だ。
つまり、咲夜の出る幕はない訳である。
……だが、それでも他者から見れば例え慣れない仕事であったとしても、咲夜の瀟洒ぶりには簡単の一言を漏らすだろう。
「……すごい、ゴミがあっという間にないや……」
咲夜と一緒に掃除をしていた鈴仙もこれには驚愕した。
時を止めて自分が知らぬ間にやってしまったのではないかと疑ったが、咲夜は仕事と弾幕ごっこや戦闘以外で時を操る能力を行使する事は滅多にない。
とりわけ仕事に関しては、本人が無意識に紅魔館の住民たちと少しでも長く居たいという思いがあるせいか、空間を操る事はあれ、時を止める事は滅多にはしない。
多少時間はかかるが、レミリアも咲夜のそういう思いは感じ取っているようで、特に何も言及してはこなかった。
「これでも時間はかかった方よ。紅魔館は広いから、これくらいの作業は大体二分くらいで終わらせなければいけないのよ……」
それでも今の紅魔館が保たれているのは、何より咲夜の能力よりも咲夜自身の手際の良さと瀟洒ぶりもあるのだろう、今の彼女をなくして紅魔館は成り立たない。
そして、咲夜は人間だ。
いかに神すら驚愕する異能を持とうとも、その血はまごうとなき人間のモノだ。
蓬莱人のように死なないわけなどがないし、妖怪のように強い生命力を持っていたりもしない。
彼女がいなくなった後、紅魔館がどうなるかは住民達は分かっている“筈”ではあるのだが……。
(パチュリー様は未だに魔道書以外にも本を集め続け本棚は増える一方。その度に私が空間を作らなければいけない。妹様のあの小さい部屋も私が広くして快適にしたもの。お嬢様の大食いも私がお嬢様の胃の中の空間を操って広げたもの……)
――――大丈夫かしら?
今、思えば先行きがものすごく不安だである。
思えば、あの時自分の主が蓬莱人になることを勧めてきたのも分かる気がしたのだが、自分が丁重に断った時のレミリアの顔がどこか安堵しているようであったのが咲夜の頭から離れなかった。
――――“命令だ、十六夜 咲夜。ヒトとして生まれたのならば、最後までヒトであることの誇りを忘れるな。その誇りを、命を、オマエ自身が誰よりも大切にしなければいけない”
そして、あの時のレミリアの言葉を思い出し、咲夜はそっと笑った。
それは、なるほど、という納得の笑いだった。
今思えばあの永夜異変の時、レミリアは咲夜を試したのだ。
あの時から咲夜の考えはどうかわっただのだろうかと、態と蓬莱人になってみないかと聞いた。
咲夜は断った。
――――“私は一生死ぬ人間ですよ”
そう、その回答は見事にレミリアを満足させた。
その日の夜、レミリアは咲夜に特に何も言及はしなかった。紅魔館のテラスで、満足そうに私の淹れた紅茶を飲んで、お月見をするレミリアの姿があったのだ。
あの時は、自分の主がなぜあんな満足そうな顔をするのかは分からなかったが、そういう事だったのかと咲夜は納得した。
「これでも時間はかかった方よ。それで、まだ何かやる事はあるかしら?」
箒を片手に、咲夜は鈴仙に向かって聞いた。
「えっとそれじゃあ、夕飯の手伝いをしていただけたいのですけれど、それまで時間があるのでしばらく休んでいて結構ですよ。……まあ、貴女に疲れた様子は特になさそうですけれど」
「ふふふ、どうかしらね?」
確かに、体力はまだ疲れていない。
しかし、精神的にはそうでもなかったりするのだ。
……正直な所、七夜の事で少し頭を痛めている所である。
七夜はレミリア好みの人間かそうでないかといえば、答えは無論前者となろう。自分も個人的な理由があるとはいえ、七夜が紅魔館の執事になるかを拒む事はなかった。
問題は、七夜が自分の頭痛の種となるか、それとも役に立つ頭痛薬になってくれるかだ。
前者であれば、そこらの妖精メイド(一部を除いてだが)と同様に頭痛の種を増やしてくれる。
逆に後者であれば、咲夜の仕事もある程度は減り、少しは安らぎの時間も得られるだろう。
七夜の場合は、その両方の属性を持っていそうで困る。
「――――夕飯、ね……」
「……? どうかしましたか?」
咲夜の呟きに、気になった鈴仙が聞いた。
「ねえ、鈴仙。居候の分際で悪いけど、貴女の師匠に、少しお願いしたい事があのだけれど、いいかしら?」
◇
腕を切り落とされてから一週間以上が立った。
霊夢は相変わらず永遠亭の寝室に篭っていながらも、精神面は完全とまでは行かないものの、一週間前よりはかなり安定していた。
……河童と永遠亭の医師が共同で作ってくれた義手のおかげで、なくなった左腕に関しても不自由はしていないのだが、それでも霊夢にはここの所違和感があった。
本来、何にも干渉されない筈の彼女の能力が破られた事によって、彼女の体、もしくは心に歪みが生じているのではないかというのが、永琳の憶測であったが実際の所はわからない。
だが、霊夢は確かに自分自身に違和感を感じていた。
……その違和感――――感情が何であるかを知るのは、また別の物語でという事になるだろう。
「――――?」
その時、突如別の違和感を感じた霊夢は周囲を見渡す。
辺りには何もないし、何も見えない。
おかしな事なんて一つもない。
……僅かに見える霧を除けば、だ。
「萃、香――――?」
霊夢はその名を呼んだ。
その霧を発生させている者――――否、その霧自身になっている人物の名をゆっくりと呼んだ。
「……」
霧は何も話さない。
だが、気配だけはそこにあった。
「何か用?」
それに構わず、霊夢はその霧に話しかけるが――――
「……」
――――霧は、すぅー、と晴れていった。
……同時に、感じていた気配も消えた。
――――一体、何だったのだろうか。
一度疑問に思った後、霊夢はまあいいか、と思い布団から状態を起こした後、何もない天井をゆっくりと見上げた。
◇
……眼が覚めたのは、日が落ちる前――――丁度夕方だった。
麻酔の効果は短いとは言われたが、思いの他長引いたのか、夕方まで寝てしまったようだ。
まあ、すぐに目覚める麻酔に意味があるのかと問われれば、それはまったくない。
故に、他の麻酔薬と比べれば格段に早いものだ。
そう結論づけた七夜は、状態を起こした後、体を横に向けて自分が寝ていたベッドに座った。
……体に不調は見られない。
すぐ傍にでも得物があれば、すぐにでも殺し会える程に好調だ。
自分の体調の確認をした七夜は、そのまま着物の裾と袖を整えた後、ベッドの横にあった鏡に自分の体を映した。
着物の帯を締め直し、ナイフのホルスターを二本、腰に差した。
得物はやはり常に持っていないと落ち着かない。
それは殺人鬼としてか、暗殺者としての性であるのかはよく分からなかったが、やはり彼ほどナイフに合う男もいないモノである。
紅の和服――――に模した聖骸布――――の帯を締め終わった彼は、傍にあった置き手紙に気づく。
大方、あの医師からだろうと予測し、その手紙を開けた。
『ごめんなさい、本当は一時間程度で目覚める麻酔なのだけれど、思いの他効いているせいかかなり長い時間眠っている事でしょうね。
まず、体調についてだけれど、問題ないわ。脳波もすっかり正常、体の構造組織やくっつけた腕にも問題はなし。
貴方の大きな古い胸傷について少し気になっていたのだけれど、そういえば貴方記憶喪失だったわね。
この手紙を読んでいるという事は、かなり長い時間眠っていたでしょうけれど、起きたら夕飯まで自由にしてていいわ。
明日からは紅魔館で執事の仕事で大変でしょうから、せめて今日までは体を休めておきなさい。
永遠亭の医師:八意 永琳 より』
「ハ――――」
何を思ったのか、七夜は鼻で笑いながら言った。
「やれやれ、有り難すぎて涙が出るね、こりゃ――――」
言って、七夜は手紙を折りたたんだ後、元の場所に置いておいた。
――――やれやれ、咲夜といいご主人様といい、あの八意という医者といい、お人好しもいい所だ。
……悪い気はしないが、人でなしのこの身にはどうにも慣れないのが、厄介物である。
七夜はそう自嘲し、再びベッドの上に座った。
――――さて、夕飯までお暇と言っても、暴れられないのは性に合わない。
仮にも恩人の家の中で、血沙汰を起こす程、彼も人間が出来ていないという訳ではない。
ひとまず、メイド長の所にでも行こうかと思った、その時――――
――――ドクン、と胸がなった。
「……ッッ!!?」
突如、七夜は体の体温が上がっていくのを感じた。
――――時刻は既に逢魔が刻。
――――魔が現れるには丁度いい時間帯。
――――だから、ソレは七夜の血が最も騒ぐ刻。
……いる。……何処かにいる。……確かにいる。……この建物の近くの何処かにいる。……距離こそ離れているが、その威圧は確かに自分に向けられている。
「……」
……得物はもう腰にある。魔眼にも死ははっきりと映っている。……ならば、やる事は、一つ――――。
「ククク……」
咄嗟に笑いが出てしまう。
七夜は、医務室から出るためのドアを開く。
医務室から出た七夜はそのまま、衝動の赴くままに、永遠亭の裏口を見つけ、そこから竹林へと出た。
無論、七夜の暗殺術を使い、誰にもバレないようにしながら、だ。
「……」
七夜は眼前に広がった竹林の壮大な光景を眼に焼き付けるやいなや、竹の枝の上にひとっ飛びした後、周囲を見渡した。
……魔の気配がする。……気配がするだけじゃない。……自分を呼んでいる。……それが余計に、この退魔衝動を刺激する。
――――ハァ、ハァ……。
七夜は興奮している鼻息を押さえ、その方向へ見やった。
「あそこか……」
呟いて、七夜は竹林の枝の上を飛び跳ねながら、その方向へと向かった。
気配が、だんだんと近くなった。
七夜は竹林から、物音を立てずに降り立ち、竹林の中を進んだ。
……延々と続く竹々のヴェールを眺めながら、七夜はその気配がする方向へひたすら歩んだ。
……やがて、何もないところにふと立ち止まった。
「あんたかい? 俺を呼んでいたのは……」
七夜は虚空に向かって、話しかける。
……そこには何もない、何の個体も存在しない。
それでも、七夜はその存在を感じ取っていた。
……肉眼で微妙に見える霧――――淨眼を通して見ればソレは紅色の霧にも見えた。
そして、紅は魔という属性を表す。
つまりは――――
――――この霧こそが、七夜を呼んでいた張本人。
「呼んではいたけど、まさか気付くとは思わなかったよ……。人間にしてはやるようじゃないか……」
不意に、声が七夜の耳に響く。
突如、淨眼を通して見えていた紅い霧が収束してゆく
……まるで、その密が濃くなってゆくかのように、ソレは形を成す。
――――現れたのは、頭に二本の角を生やした少女だった。
薄い茶色のロングヘアー、レミリアとはまた違った真紅の瞳、白のノースリーブに紫のスカートを身にまとった一人の少女。
……レミリアは程ではないものの、その見た目は幼い――――が、その威圧はまさしく太古に存在したと言われる鬼そのもの。
「……あんたかい、霊夢の腕を取ったって奴は?」
「ああ、俺だな。――――で、要件はそれだけかい、紅赤朱?」
「“クレナイセキシュ”? 何だいソレは?」
目の前の鬼は、首を傾げながら、七夜に問うた。
……その彼女の反応に、七夜は笑みを深くした。
――――混血が反転した時に使われる呼び名だが、知らないということは、目の前にいる彼女という鬼は、まさしく純血のソレだ。
「ああいや、こっちの話だ。気にしなくていい」
「……そうかい」
鬼の少女はそんなに興味もなかったようで、威圧を込めた眼で七夜を見続ける。常人ならばそれだけで言葉が聞けなくなるにも関わらず、七夜は平然と彼女を見ていた。
「我ら鬼は相手に喧嘩を売る時は、余計な言葉を交わさない。この意味が、あんたには分かるかい」
「……ああ。言葉なんて交わさなくても、そんな熱い視線を向けられちゃあ、あんたがやりたい事なんて手に取るように分かっちまう」
言って、七夜は腰に差していたホルスターからナイフを取り出した。
思えば、呼び出したのが逢魔が刻というのも中々に洒落ている。殺し合いの舞台としては上等の部類だろう。
「……なら簡単だ。霊夢を傷物にした仇――――討たせてもらうよ」
……今までにない威圧が、七夜に圧し掛かる。
肌に冷や汗が流れ、それとは裏腹に体温はどんどんと熱くなる。
――――ああ、殺したい。
相手が相手なだけあってソレは困難を極めるだろうが、その分殺し甲斐があるというモノ。
「ククク、命をいくつ手折ればやってくるかと思っていたが、そっちから出向いてくれるなんてこれ以上にない大吉だよ!」
言って、七夜は眼を蒼くする。
……映し出されるのは、鬼の少女の体に走る『死の線』。
「私の名は伊吹 萃香。密と疎を操る鬼さ。――――来なよ、殺人鬼。我が密の恐れにひれ伏すがいい」
「くく、ハハ、ああ、そうだ。脳髄が溶けちまう程、殺し合おうぜ!!」
――――退魔と鬼が今、その牙を交える。