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右後方に腕を振りかぶる。
拳を固める。
直突に突き出すその風は爆圧の如く。
ピクルの右鎖骨から鳩尾へと流れる連撃、天渓から腹哀、冲門、そして姿勢が下がったところへ水突――喉元への一撃。
急所を意識したわけではない、全力で打つその一打一打が、本能のように人体の急所へ吸い込まれていく。
「――ルッッtttオアアァァrrrrhhraaaa!!!!」
声を超えた叫び、眼と口から体液を飛ばして悶絶する。
しかし、ピクルがさらに踏み込む。
擬ッ
歯を食いしばる音がする。ピクルのおそろしく長い腕がノーモーションで最大加速に達し勇次郎の影を貫く。
勇次郎の右肩へ一撃。その部分の肉がはじけ飛ぶような衝撃。
びりびりと肩に振動が走って感覚が喪失する。
続いて左腕、ピクルが振りかぶる、その先端が地に届いている。大きく円を描いて背後から頭上へ、そして鉤爪型になった指が直上へ、空気を引き裂きながら振り下ろされる。
人間を超えた柔軟性によって加速した爪が勇次郎の胸に食い込み、
体表をやすやすと切り裂き、風を曳いて振り下ろされる刹那。
寸毫だけ身を引いた勇次郎が半身となって踏み込み、大上段に拳を固める。
それは山ひとつ分の重量を圧縮したような、超重量の拳。
醐ッッッ
鋼鉄のハンマーで一撃されるほどの音。ピクルの頭部が地に叩きつけられ――
廻る。
その体が地に倒れ伏す直前。
ピクルの体が急激に折りたたまれるかに見え、体が高速で前転し、
脚が。
前転の勢いのままに放たれる前回り回転蹴り、岩のような角質に覆われた踵を放つ。
それはまさに投石機で打ち出される鋼鉄球。
勇次郎の鼻と唇の間隙、人中にめり込みエネルギーを開放する。
勇次郎の大上段からの一撃、それを直前に感知して体を前転させて勢いを殺し、
それを前回り回転蹴りに繋げる身体能力、センス、どちらも人類を超越している。
勇次郎もさすがに二歩、三歩後退する。
「……ヘッ…」
勇次郎が流血している。
黒い血を鼻から流しながら、不敵に笑う。
勇次郎が脚を滑らせる。後方に腕を振りかぶる構えから、開手を体の正面に出す構えへと推移する。大石を抱えるかのような姿である。
勇次郎は特定の流派やスタイルに固執しない、だからその構えの推移も無意識でのことである。
より効率的に、最適に――。
「――ググゥ」
ピクルは、その一撃一撃の突き刺さるような痛みに驚愕しながらも、
その天性のタフネスによって早くも回復しつつあった。
その筋肉が躍動している。
その姿勢も推移している。
より前傾に、より低く。まるで蜥蜴のように地にへばりつく構え。
それは構えというよりは、明らかなる突進の予備動作である。
ピクルの最大の強み、体格や質量ではるかに勝る恐竜たちに全勝してきた理由。
その最大のものは身軽さにある。
跳躍、疾走、俊敏、反転、躍動。
筋力すべてを動員したその縦横無尽の動きが、さしも原始の超獣たちをも倒してきた――。
そして、翔ぶ。
一瞬で視界から消え、葉擦れの音がわずかに流れ。
勇次郎の手が動く。
開手が羽のように舞い、空気に溶ける。
虫をはたき落とすように瞬発的な動き、それが影に触れる。
班ッッ
破裂音が響く。
それは手掌が打ち付けられる際、数マイクロ秒だけ極限に圧縮された空気が弾ける音。
どうっっ、とピクルが木に衝突する。
それは乗用車の正面衝突に匹敵するほどの威力。
立ち木がめきりと動いて根の一部が持ち上がる。
速く、鋭角的に、エネルギーを絞った平手打ち。
ピクルの皮膚に瞬間的な圧を加える。
ピクルの突進力に比べれば微々たる力であるが、そのわずかなベクトルが、ピクルの筋肉を狂わせ、軌道を曲げる。
ピクルはあらぬ方へ動き、
無惨にも立ち木に衝突、自らの跳躍力をそのまま身に浴びることとなる。
だが
「――ヲオォォオッッ!!!!」
がぎいっ、と足先が地に食い込む。
ピクルの体が反転する。
フェンスに衝突したF1カーが、すぐさま反転して駆け出すような驚愕の眺め。
背後を向いた勇次郎へと駆け、その後背部に一撃を――
影が沈む。
握っ
勇次郎の手がピクルの手首を掴んでいる。
瞬間、ピクルの疾走が、打撃が、前方へ向かう意思が、
全て一方向に収束されるような感覚。
勇次郎の全身の力が、ピクルの体を。
廻すッッ!!
それは腕取り背負い投げ、
しかし、もはや人間同士の闘争ではありえないほどの速度。
体が舞い、空気が鳴り、
そして地にぶち当たる。
音
その音は雷鳴のごとく。
木の葉を揺らし、鳥獣のすべてを恐怖させ、
山を突き抜けて地の奥底まで響くほどの音。
ぱらぱらと、勇次郎の体に砂粒が落ちる。
ざざざ、と小雨のような音がする。
はるか上空にまで巻き上げられた小石が、十数秒遅れて落ちている音だ。
ピクルの周囲にイナヅマのように広がる地裂は数十本、
その地割れは長いもので15メートル以上に達している。
世界そのものが割れたかのような眺め、
筋肉が痙攣し、瞳孔が震えている。
脳も揺れずにはおれまい。
――だが
抜ッ!
跳ねる
ピクルが跳ね起き、
そして牙を向く。
体の芯まで響くような痛みを与えているはずだが、その闘争心を挫くには至っていない。
鋼鉄製の金庫すらも砕いたであろう、あの背負投げを受けて、なお立つ。
打撃も投げも、どれ一つとっても必殺の威力を備えているが、
この二人の超雄たちは、それすらもなお物足りぬとでも言いたげだった。
「へっ……「浅い」か……」
「慣れねえこと、するもんじゃねェな」
確かに、背負投げなどは勇次郎の常なる流儀ではない。
病が、さしもこの怪物の戦い方にさえも、影響を与えずにはおかない。
だがおよそ現代において、あれほどの速度、重さ、切れ味ともに完全な背負投げは存在しないと思われるが。
それでも、なお浅い。
それもそのはず。
突進をずらす打撃も、
今の背負い投げも。
所詮は、ピクル自身の力を利用したに過ぎぬ。
戦艦――をご想像いただきたい。
かつて世界の海で戦いを繰り広げた――戦闘艦。
戦艦を戦艦たらしめるものは大砲、つまりは艦砲を備えていること。
その最終形は、かの戦艦「大和」
それに搭載されていた46センチ砲、が最も強力なものとして知られている。
そして、戦艦にはひとつの理念があった。
46センチ砲を持つ船は、
46センチ砲に耐えられねばならない。という理念。
砲弾を防ぐ装甲板。
沈みにくさを追求したバランスコントロール。
防御と攻撃、無敵の矛と最強の盾を同時に備えるべし。
それはすなわち、ピクルにも当てはまる。
防御力と攻撃力が、等しくあるべき。
自らの力に耐えられるほどの耐久力(タフネス)を持つべし。
それは、この世のほとんどの武術家が達していない境地。
ある者は攻撃力だけを研ぎ続け、
ある者は防御力だけを鍛え抜く。
それは、ルールがあるから。
立ち技系、寝技系、ポイント制――
そのようなルールが、理想の肉体と対立する。
ピクルは、確かに究極であった。
強く、鋭く、そして強靭であった。
ピクル自身の力では、ピクルを破壊できない――。
「――力みが」
勇次郎は、獰猛に笑う。
「――足りねェか」
拳を握る。
何かを握りつぶすかのように、渾身の力を込めて握る。
どくっ
そんな音がする。
鼓動の音が、どこか濁りを帯びている。
両拳を肩の高さに、下腕から上腕へと血液を流入させ、筋肉を硬く引き絞る。
息は荒い。
激流の河を数時間も泳ぎ続けられる勇次郎ではあるが、その息は明らかに上がっている。
そして喘鳴音――気道の狭まる音もかすかに響く。
ここへ来て、ついに病魔という名の軍勢が、勇次郎を制圧しつつあった。
いくら範馬勇次郎でも、地上最強の生物でも。
この世に不死身などありえない。
腕が、足が、そして内臓が、重い。
溶けた鉛に下半身が埋まるような重さ。
世界から色が消えている。
あるいは視野のほとんどは暗い。
体内のあちこちで出血している。
内臓はすでに機能の大部分を止めている。
心臓は、まるで火で炙られるかのように熱く、
脳は、思考がほとんど成立しないほどにノイズが酷く、
己が何をしているのか、
己は何者なのか、
あるいはそれすらも、既に意識の上に無い――。
だがそれでも、範馬勇次郎は構えている。
何かを打ち据えようとしている。
ピクルもまた拳を握る。
その眼からは先程の背負い投げの影響か、血の混ざった涙が流れていたものの、
顎の筋肉が樹皮のように硬く噛み締められ、全身のポテンシャルが高まっていることが伺える。
互いに、間合いに入っている。
周囲の空気が熱を帯びる。
風景が歪む。
戦闘の気配が微粒子となって飛び交う。
勇次郎とピクル、それぞれの時代で最強を冠されし二人が
無数の砲塔を備えたハリネズミの如き戦艦が――
先に動いたのは、
――範馬勇次郎。
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