※
その乱打を何と呼ぶべきか。
豪拳は重く、
打拳は速く、
打点は鋭く。
ピクルの体が打拳で埋め尽くされる。
そのすべては急所を貫く鋼の槍。
突き立つ威力は爆圧のごとく。
肉に、臓器に、背後にすら突き抜けるような打撃。
無数の打音が折り重なって聞こえる。
痛み、衝撃、肉体の一部が消し飛ばされそうな一撃。
ピクルは原始的な思考で、短く思考する。
――痛い。
――硬い。
――強い。
――だが。
――軽い。
凡百の武道家なら十分に致命的な一撃。
しかし、やはり勇次郎のその拳は、完全性を欠いている。
足元に血溜まりができているのは勇次郎の方だ。
汗と体液と、そしてどす黒い血がとめどなく流れている。
鼻から、目から、そして粘膜から、皮膚から、筋肉の継ぎ目から、
汗をかくように、あるいは雨に打たれるように血を流している。
おそらく内臓――腹腔内にも、そして脳内にも。
毛細管がついに細菌の軍勢に敗れつつあるのか。
その体が赤く染まっている。
あるいは骨も割れ始めている。
筋肉は内出血を起こしてパンパンに膨れ上がっている。
「――――オオオォォオオオオ!!!!」
だがそれでも止まらない!!
その眼球を朱色に染めて、皮膚が腐り落ちるように爛れてなお――。
乱打、乱打、乱打――
ピクルは踏みとどまっている。
その指先がカギ型に曲がり、地面を掴んでいる。
ピクルは思考する。
――この強い「こいつ」に
――報いたい
それはピクルの持つ、強い者たちへの畏敬の念。
古代の暴君たちのように、大きな体を持たず、
しなやかな尾を持たず、
鋭い爪を持たぬ「こいつ」らが、全力で向かってくる。
そのことに、報いたい。
全力には全力を。
最大には最大で。
――そう
――「アレ」を
それは、かつて自分を追い詰めた二人の戦士から学んだこと。
ピクルは名前を覚えない、そもそも名前という概念があるのかどうか。
だが、その姿形、戦闘の経緯はよく覚えている。
その名前を詳らかにするなら、
一人は愚地克己
一人は範馬刃牙
ただの腕が、長大な尾のごとき威力を生んだ「あいつ」
小さな体が、様々な恐竜のごとくに見えた「あいつ」
その全てを。
ピクルは学習していた。
武術の極み、技術の頂点。
それを完全に再現するには至らぬが、
肉体の力を、さらに増幅できる手段であることを「学んだ」
脚。
乱打の嵐の中で、血を吐きながら、
ピクルは己の脚をイメージする。
長く、直線的、鋼のごとき己の脚を。
しなやかに、
柔軟に、
関節が複数あるかのように、
関節が無数にあるかのように。
そして思い浮かべる。
遠い過去に対峙した巨竜を。
あの身のこなしを、尾を打ち振るための体のひねりを。
その巨躯の重量を、全て尾の先端に乗せるあの一撃を。
尾の付け根の躍動を大腿部に、
尾のしなる姿を膝に、
尾の先端の鋭さを爪先に再現する。
流星雨の如き乱打は続いている。
光と音が乱れ弾ける。
滝の勢いが真横から押し寄せるような乱打。
それに耐え、
そして
旋!!
乱打の雨を強引に押し切るように、ピクルの体が回る。
思い切り後方に振りかぶった右足が、
驚異的な柔軟性を見せてしなる右足が、
肥大する。
それは範馬勇次郎の見た幻か。
ピクルの描くイメージか。
幻影の中でその脚が巨大な鞭となる。
空を裂く音が森のすべての木を揺らす――
足先が光と化して、範馬勇次郎の顔面に届く。
轟!!!
全ての乱打を、勇次郎の躯を圧倒するほどの、
滝の流れを跳ね飛ばすほどの一撃。
超絶なる後ろ回し蹴り。いや、巨竜の一撃が勇次郎を討つ。
その顔が音速の衝撃に弾かれ、
上体が跳ね飛ばされ、顔面が弾かれ、
上半身が大きくねじれて後方に振りかぶるような姿勢となり、
一瞬、ついに勇次郎の眼から光が消える。
瞳孔が開く。
――瞬間。
「――――待ってたぜ」
勇次郎の拳が、握られる。
足で地面をつかむように踏みとどまる。
腹筋を総動員して上体を戻す。
病に侵され、全身の感覚を失いかけていた。
五感はほぼ失われ、
全身がバラバラに分割されて空間にばら撒かれる感覚。
意識などほぼ零だった。
だが、その中で脳裏に閃く紫電。
脳細胞に電流のように流れるいくつかの言葉。
絶技
快打
激痛
そして――敗北。
その二文字、その二文字だけを。
全身の細胞が拒絶する。
狙っていたわけではない。
意識したわけでもない。
だが、無意識の奥の奥で、
「待って」はいた。
自分にカツを入れる、最高の一撃を。
己を本気にさせる、最大の危機を。
死にかけていた細胞が励起する。
心臓が限界を超えて拍動する。
体に火がついたかのように体温が上昇する。
そして皮膚は溶け崩れていく。
内臓のダメージも一気に加速する。
流れ落ちる血は常人なら致死量に達している。
そして、バラバラになっていた全身が、
ほんの寸毫の時間。かちりと噛みあうような感覚。
それは時間にすれば0,2秒ほどの覚醒。
極彩色の時間。
灼熱の感覚。
渾身の蹴りを振りきり、さすがに構えを乱すピクルの
顔面に。
渾身の右ストレートが。
光の河となり、奔る!
その一撃は古代人の頬に突き刺さり、
驚愕に歪むピクルの顔面を吹き飛ばし、
その意識すらも吹き飛ばし――。
どしゃあっ!
ピクルが崩れる。
膝を付き、顔面からその場に沈む。
勇次郎が腰を落とし、その場に座り込んだのは、
ピクルが倒れてから、ごくわずかの後だった。
※
男は、様々な相手と戦った。
恐るべき強さで向かってくるもの。
死を恐れず立ち向かうもの。
死んでなお、油断ならぬもの。
死んでいるのに向かってきた者もいた、あれは恐ろしかった。
だが、
ピクルは理解できなかった。
あの、強い「あいつ」は
明らかに、『死にながら』攻撃してきた。
死ぬほどの打撃を与えたのに。
それの直後に、最も痛い攻撃が来た。
では、あいつは
「殺せない」のではないか。
「倒せない」のではないか。
「負けない」のでは――。
ピクルはそんなことを、ぼんやりと考えながら。
血だまりの中で座り込む、範馬勇次郎を見下ろしていた。
流血こそ止まったものの、その座り込む場所には大きな血だまり、文字通りの地の水たまりができている。
しかもドス黒く、腐臭のする血液だ。
勇次郎の顔面は蒼白になっている。
唇がカラカラに乾いている。
しかし息は荒く、
すさまじい速さの拍動が、ピクルの耳にまで届いている。
その目は薄く開かれてはいるが、何かを見ているのかどうか。
そもそも意識があるのか。
何を思ってそこに座っているのか。
それすらも分からない。
だが、極限の状態であることは分かる。
――
ピクルはふと体を翻し、
ヤブの中へと分け入っていく。
残された勇次郎は、出血こそ止まったものの、
その場を全く動こうとしない。
というより、身動き一つ取っていない。
ピクルをダウンさせ、その場に座り込んだ瞬間から、
眉一つ動かさず沈黙している。
定義によっては、その時、範馬勇次郎は死の線をわずかに踏み越えたのやも知れぬ。
そして、藪がガサガサと鳴る。
ピクルである。
その右手には体毛がむしられたウサギを持っている。
そして左手もかるく拳を作り、中に何かを握っているようだ。
ピクルは、彼にしては複雑な思考で、このようなことを思っていた。
――「こいつ」でも、死ぬのか。
――いくら強く殴ろうとも。
――どれほど体が傷つこうとも。
――絶対に死なないと思った、「こいつ」でも。
――それは、
――それはとても「不自然」だ
――だから
ピクルはウサギを差し出す。
右手に寝そべるように置かれたウサギ。
そして、左手に何かを握ったまま、うさぎの上でぎゅっと手を握る。
ぎゅううう、と、筋肉が密度を増し、太い指がさらに密度を高め、圧縮され、中にあったものが超高圧に晒される。
そして。
ぽつ、ぽつと、赤黒い液体が滴り落ちる。
それが毛皮をむしられたウサギに降り注ぎ。
紫色の蝶に変じて、ひらひらと舞い上がる。
そんな香気が立ち昇る。
「――ほう……」
勇次郎が、ほとんど聞き取れない程度に呟く。
それは、紛れもないワインの香り。
ワイン造りにおいて最高級の品種とされるブドウ。ピノ・ノワール。
力強く濃厚で、どこか野性味あふれる土の匂い、そんなブドウの香りが、蒼白になった勇次郎の意識をわずかに揺らす。
それはおそらく、最も原始的な酒造りの一つとされるもの、
猿酒。
石のくぼみに猿が集めた果実が、自然発酵して酒に変わるという猿酒の原理を、この原始のファイターは果たして知っていたのか、それとも何らかの偶然なのか。
火も通しておらず、生そのもののウサギ。
それに原始的なワインをかけただけのもの。
しかしそれは、確かに料理と言えるものであった。
「……ゴチソウしてくれるのかい」
ピクルは、ただ目を大きく見開き、勇次郎にそっとウサギを差し出し続けるのみ。
「……ふ」
勇次郎は、ゆっくりと、おそろしく緩慢な動きでそのウサギを受け取り、
大きく口を開ける。
口腔に一滴の唾液も出ていない。
その歯肉には乾いた血の跡が残り、舌は――形容しがたい色に変じている。
はぐ。
そんな音を立て、勇次郎がウサギに食いつく。
ぶちりとその一部を噛みちぎり、目を閉じ、もにゅもにゅと咀嚼する。
そして、やや大きく喉を鳴らし、ごぐり、と無理矢理ぎみに飲み込む。
「…………っっ」
喉も、胃も、爛れきっている。
その激痛たるや、硫酸を流し込まれたかのよう――。
だが、勇次郎は二口目を食らいついた。
※
何度かの咀嚼の後。
少しだけ肉を残して骨だけになったウサギが、足元に転がる。
「……ウマかったぜ」
ピクルはじっとその様子を見ていたが、
何かを思い立ったかのように、ぱんと手を打つ。
「……あん?」
勇次郎が呆けたような反応を見せたのは、ピクルが突然快活な笑顔になったからだ。
立ち上がり、振り向き、藪に下半身だけ分け入ってから、こちらを向いて手招きをする。
「……何だってんだ」
極めて面倒くさそうにしながらも、勇次郎は立ち上がり、
そういえば焚き火はどうなっていたかと、背後を振り向く。
すでに火は消え、山積みになった炭の山だけが残されていた。
そうか。火は消えていたか、と勇次郎は、何か感慨深げな顔で思う。
体の奥がわずかに熱いのは、では焚き火とは関係なかったわけか――と短く思考する。
※
ピクルが先に立ち、勇次郎が続く。
勇次郎は平然と歩いているように見えるが、もし、武の達人がその様子を見ていたなら、わずかに重心が乱れているのを見て取ったことだろう。
ヤブをかき分け、低い枝をくぐり、登り、降り、しばらく進む。
やがて、やや開けた場所に出た。
若い葉が敷き詰められた一画がある、あれはおそらく簡易的なベッドだろう。
中央部が凹んだ石があり、そこには黒に近い赤色のブドウが幾つか載せられている。
かすかに香る発酵臭。あれがピクル手製の猿酒というわけか。
ではここはピクルの寝床だろうか。
ベッドと猿酒の他に文明を示すものは何一つないが、確かにここには固有の獣臭がある。
五感を失いかけている勇次郎ではあるが、それだけは嗅ぎ分けられた。
「……何があるって言うんだ」
と、勇次郎がつぶやくと、ピクルは振り向き、にまっと笑う。
顔面を思い切り緩ませた、だらしなさすら感じる笑い。
それはまるで「いいからいいから」と言っているような。
何かとっておきのものを、早く見せたくてウズウズしてるような顔である。
ピクルは猿酒に近づき、そこからブドウを一房、手に握る。
そして振り返り、また手招きをして、来た時とは違う方向のヤブに分け入る。
どうやらそれは酒というよりは、調味料に近いものかも知れなかった。
半発酵したブドウを溜めておき、獲物にふりかけて食するわけだ。
かつてピクルは、自分に襲いかかってくるもの、相応な強さを持った相手しか食べない、というルールを強いていた筈。
ずいぶんと文化的になったものだ、と、勇次郎も半ばあきれながら、しかしやはりピクルの真意は分からず、後に続く。
ピクルは、この時にかなり上機嫌だった。
それは、人に食物を振る舞うという喜び。
すばらしい食事を、分かち合うという喜びである。
病にある「こいつ」の、助けになるかもしれないという期待もあった。
何より、早く「アレ」を自慢したかった。
やがて再びヤブが開け、それが現れる。
その獲物は、頭に大きなコブを作り、
一体どこから見つけてきたのか、一つ一つが人間の頭ほどもある巨大な鎖で捕えられている。
鎖の先は家ほどもある大岩に結ばれていた。
そして獲物はピクルを認め、大声を上げんとする。
鎖が極端に短いのでろくに動きまわることも出来ず、地面をのたうつような格好になる。
「――コノ原始人、イイ加減ニ鎖ヲ、アッ!?」
そしてピクルの背後にいた勇次郎に気づく。
その獲物は。
剃り込んだ頭にうっすらと頭髪が生えている。
全身が硬質な筋肉の塊。
その中で美しくすら見える見事な歯並び。
ジャック・ハンマーが地面をのたうちながら、
必死に叫び声を上げる。
「ウワアァァアアッ!! 見ルナッッ! 見ルナアアアッッ!!!」
全身を真っ赤にしながら、顔を隠して転げまわるジャック。
ピクルはその頭の上に拳を差し出し、ぎゅっと握る。
ワインの香りがする雫がぽたぽたと垂れる。
「………………」
勇次郎は、満面の笑みでこちらを振り向くピクルを見て、
ジャックを見て、
もう一度ピクルを見て。
「………………
………………
………………ふ」
笑った。
「…………ふ、ふあっははは、あーーーっはははは! ぶははははは!!!
な、何やってんだオマエ!! ぶはははははは! はっ、腹いたい! あはははははははっ!! はーっはははははっ!」
「ウオオォオ!! 見ルナアアッ!! 見ナイデエエェェッッ!!」
その笑いは、たっぷりと5分は続いたのだった。