※
――どこから、話したものだろうか。
そう、あれは確か1960年、アメリカのMIT、マサチューセッツ工科大学でのことだよ。
私はまだ学生で、進路を決めかねていた。様々なものに興味を持ち、読書と研究が止められぬ時期だった。
だが私のことなど、この話においてはどうでもいい。
その頃、学生の間には妙な噂が流れていた。
教員棟のはずれ、老朽化した第四書庫に、宇宙人が出るという噂だ。
私は別に、信じてなどいなかったが……、
ある日、夜中遅くまで数学の問題に取り組んでいて、気がつけば既に零時を回っていた。
そして、その第四書庫の蔵書を参照したくなったのだよ。
夜中の学舎は暗く、窓からは街の灯も見えなかった。
科学万能の思想に染まり、幽霊や宇宙人など恐れない私でも、さすがに気味が悪かったものだよ。
なにしろ、MITは当時ですら100年に迫る歴史を持っていたからね……。
その時間に学生が残っていると、教員がうるさいものでね、私は暗がりの中で、カンテラ一つを頼りに書庫に踏み込んだ。
そこで、あの男に出会ったのだ。
その男は、不気味だった。
大男、では無かったな。
むしろ痩せ衰えていた。眼は深く落ち窪み、顔には影が濃く、頭髪はおろか顔面すべての体毛が抜け落ちていた。
明らかに、何か重病を患っていた。
その男は暗がりの中、私と同じくカンテラ一つで読書にふけっていた。
私が挨拶をすると――。
※
その男はのっそりと視線を上げ、アルバートを見遣る。
「……何かの研究かね?」
若かりしアルバート・ペインはその体毛のない顔に多少驚いたものの、驚くことが失礼に当たらないかと思い直し、そっけなく答える。
「チョット……解けない問題があるんです。あなたは教員ですか?」
「いや」
何でもないことのように、そう答える。
――無断侵入?
――こんな時間に?
――泥棒?
――誰か人を
「心配しなくてもいい……。学長の許可は取っている」
――なんだ
――しかし、ならば何故ここに
「ふむ、解けない問題が、あると言ったね」
「はあ……」
「どんな問題かね?」
その質問に、アルバートは少し戸惑う。
何しろすでに天才と評されているアルバートである。その時に取り組んでいたものも数学上の重要な問題であり、きわめて難しく抽象的な問題である。説明するだけでも生半可な事ではないし、ようやく解法の取っ掛かりが掴めるまで二ヶ月もかかったのだ。
「ええと……連続体仮説に関する問題で……」
アルバートは、この妙な男になぜこんな問題を話しているのだろう、という漠然とした疑問を抱きながら、
しかし、なぜか話をやめることができず、そのまましばらく説明を続けた。
だが全て話し終わる前に、その男は手を上げ、話を止めた。
「つまり……君の言いたいことは、……だね?」
「……っ、そ、そうです。その証明に関する諸問題の一つを検討中で…」
「ならば……といった手法で……から導き出してみたまえ。……という結論が得られるだろう」
「……!」
※
その時の私の驚きを、想像できるだろうか?
私の至ったであろう結論よりも、もっとずっと高度で深遠な結論を、その男は示してみせたのだ。
それは一種の計算的手法。
その分野における数多くの局面で応用が可能であり、
まるで荒れ野に高速道路が引かれるように、
数多くの問題を一気に解決する可能性を秘めていた。
その証明法こそは、強制法(Forcing)。
その二年後。1962年にポール・コーエンという数学者によって開発され、その功績によって65年にフィールズ賞を受賞した手法と、ほぼ同じものだったのだよ。
なに、なぜ私がそれを発表しなかったか、だって?
できるわけがないだろう。
私にだって、プライドがあるのだ……。
私が数ヶ月かかって取り組んでいた問題。
その遥か遠くにある解決法。
それを、あの男は。
書庫から私を追い払うためだけに、示してみせたのだよ。
その時、私はようやく気づいたのだ。
宇宙人が出る、というあの荒唐無稽な噂の真実と、この男の正体を。
かつて、天才の中の天才、と評された男がいた。
かの忌まわしきマンハッタン計画。その中心であったプリンストン高等研究所。そこに招聘されたメンバーの一人。
同僚であったアインシュタインやヘルマン・ワイルらが、彼こそ本当の天才だと評していた人物だよ。
そのあまりに異常を極める天才ぶりから、「悪魔の頭脳」とか、「宇宙人」などと呼ばれた人物……。
ドルルマン・フォグ?
それは偽名だろう。
そう、本当の名は、
――フォン・ドルマン。
※
やや日が高くなり、森に差し込む光を量を増している。
風はやや涼しく、土は湿り気を帯びていた。
手首をさすりながら、ジャック・ハンマーが呟く。
「フウ……ひどい目にあったゼ」
あの後、
しきりにジャックを薦めてくるピクルに、勇次郎がこんな薬臭い肉が食えるかと撥ねつけると、一気に意気消沈してしまい、鎖も解いてしまった。
どうやら、ピクルもこの獲物を持て余していたようだ。
「……」
ジャックは、ふと傍らを見る。
少し離れた場所で自然石に腰掛け、範馬勇次郎が空を見上げている。
その風貌。
体つき、皮膚や眼球。
その姿は、さながら森林の奥に座す遺跡のようであった。
かつて栄華を誇った勇壮なる宮殿が、数え切れぬ歳月の果てに風化し、わずかに栄華の名残を留めるのみ。
石を積んだ城壁は半壊し、居並ぶ彫像は朽ち果て、その中に分け入れば、無数に穿たれた穴から陽光が差し込む、
銀は錆び、金は盗まれ、あとはただ獣の巣となるのみ。
そのようなイメージが連想される。
それは滅び。
永遠に続く王国のようであった勇次郎の肉体が、その永劫を失おうとしている。
「オ……オーガ」
ジャックは、彼の父親であり、ある時は憎むべき宿敵、ある時は尊敬すら抱いたこの地上最強の男の、そのような変わりぶりが信じられなかった。
「ハッ……なんて顔してやがる」
勇次郎はわずかに皮肉げな笑いを浮かべ、退屈そうに言う。
「……ぐ、具合が悪いのか?」
「大したことはねェよ」
ジャックの目から見ても、それが相当な業病であることは見て取れた。
確かに、今は症状がゆるやかになっている。
それは闘争によるものか、ある程度は抗体ができたのか。
あるいは何かしら免疫力を高める要因があったのか。
しかし、その肉体が闘病により激しく損耗しているのも事実――。
機銃掃射で穴だらけにされた車や、
海水を浴びせられたロボットを見るような感覚。
すなわち、生きて動いている事自体が奇跡的な――。
「クッ……」
ジャックは目をつむり、何かを噛み潰すような顔で腿を握りしめる。
そして不意に目を見開き、泡を飛ばしながら叫ぶ。
「オーガッッ! 俺、いい薬を持って――!」「いやそれはいい」
ぴしゃりと跳ねのけ、勇次郎がゆっくりと立ち上がる。
「それより、お前らどうしてフランスなんかにいやがる?」
声帯が焼けているかのように声が枯れている。肺から空気がもれるかのように、低い風鳴りの音が混ざっている。
「あ、アア……ピクルが貨物船に紛れてフランスに渡ったという情報が入って……。俺はその消息を追ってきたんだ。探すのが大変だったが、俺はまず港で――」
「つまり、最後は返り討ちにされたわけだ」
「ウ……そ、そうだ」
ピクルはというと、石のくぼみにたまった赤い液体を指ですくい、赤ん坊のようにぴちゃぴちゃと舐めている。
「どうやらワインに興味をもったようだ……ああやって、どこからかブドウを盗んできては、酒を作っている」
よく見れば、同じように上部が凹んだ石が数個放置されている。
どこから調達してくるのか、いろいろな品種のブドウが置かれ、動物から隠そうとするかのように手折った枝葉がかぶせられ、そのままひたすら放っておく。
おそろしく原始的で非効率だが、ピクルは割と楽しげに作業してるのだそうだ。
ワインと言ってもそれは分類上、そのカテゴリに入るというだけのこと。
原始的な製法には原始的な味。かなり酸味が強く、アルコールも弱い粗末な酒である。
しかし指を舐めるピクルの顔は真っ赤に染まり、ひどく上機嫌に見えた。
「……あいつ、酒は弱ェのか?」
「イヤ……おそらく古代人だからだろう。アルコールを分解する酵素を持ってないんだ。だから少量でも酔っ払う」
「なるほどね……
さて、それじゃ俺も、森を出るか」
「エ……?」
その唐突な発言に、ジャックもしばし困惑する。
「オ、オーガ、どこへ……?」
「酒でも飲みに行くか、と思ってよ」
首をコキリと鳴らし、勇次郎は乾いた声で答える。
やや焦った様子で、ジャックがそれに異を唱える。
「びょ、病気なんだろう……? 安静にした方がイイ。酒なら俺が取ってきて……」
「ハッ、そりゃ違うな」
違う、という言葉でジャックの動作が一瞬、止まる。
「俺は、病気なんかじゃねえ」
「……!?」
それはいかなる意味で言っているのか、
判断しかねて、二の句が継げない。
「もちろん、さまざまな病原菌に侵され、内臓は爛れ、筋肉は腐り、血液までもが膿んでいる。
俺の体も、かなりの部分が破壊された」
「…………」
「しかし、それを言うなら人間の体など、常に猛烈な早さで細胞が破壊されている。肉も骨も、体液もだ」
「代謝……?」
わずかに首肯する勇次郎。
「詰まるところ、生きることとは破壊と創造」
「破壊に偏ることもある、創造に重きをおく時期もある」
「だがそれは自然の摂理での上! 破壊に見合う創造があれば帳尻は合う」
「不自然なる物質を摂取し、いたずらに破壊を止めようとすること」
「苦痛に怯え、自然な回復力を信じぬこと」
「病というなら、それこそが病というものだッッ!」
――
その言葉を聞いたジャック・ハンマーは。
何か大きなものを見上げるかのように、近寄りがたき聖域から押しのけられるように、
数歩下がって瞠目する。
(――な、なんて)
(なんて大きいんだッ……)
(とてつもない劇症だったはずだッ)
(生死の境を彷徨ったかも知れぬのに)
(それでもまだ、自然なこと、と受け止めるのか――!)
勇次郎はジャックを振り返ることもせず、森の中を歩み去っていく。
ジャックはしばし迷った後、かなり遅れて後に続いた――。
※
……なに、
酒を買いに来たわけじゃねえのかい?
あん?
……その時の話を聞きてえだって?
はっ、言ってもどうせ信じやしねえ。
だが、まあいい。
いくらでも語ってやるさ。
そう、話は1864年まで遡る。
わしの爺さんの爺さんの……もう何代前かも分からねえご先祖様の代さ、その年はワインの当たり年だった。
その年に、どっかの貴族が金を出してな、
道楽で拵えたもんがある。
高さ3メートル。直径5メートルのワイン樽……。
アラブから運んだオークの巨木。その胴部をまるごとくり抜いて作ったもんだ。
当時は中身より、樽のほうがはるかに高価だったよ。
なに?
そんなでけえ樽に、ワインを詰める意味があんのか?
あるわきゃねえ、ただの道楽さ。
当時は4樽あったらしいが、売りさばいたり、戦争で燃えちまったりで、わしの爺さんの代には、一つだけになってたな。
その頃には、もう売り物だなんて感じじゃねえさ。
守り神だ。
地下のカーヴ(貯蔵庫)の奥で、ただじっと眠ってたんだよ。
ごくごく稀に、売ってくれと言ってくるやつもいたがね。
すべて断ってたよ。冗談じゃねえってな。
だが、なぜだろうな。
あの日本人には――。
※